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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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国民の創生 ②

1911年に製作された短編からは、職を失い、盗みを働いて捕らえられ、さらに妻を失う老人の救いの無い末路を描いた「老人たちをどうすべきか」(16分)のほかに、「女は嘲笑した」(17分)と薬物の脅威を訴える「息子のために」(16分)の3本が紹介されています。

この「老人たちをどうすべきか」のような悲劇的な結末を持つ作品は、この時期のバイオグラフにおいては一般的な傾向で、観客の強い支持があったのか、類似の作品が多く見られます。

また、「ドリーの冒険」や「国民の創生」にみられるような、いわゆるグリフィスのラスト・ミニッツ・レスキュー(最期の救出)の典型的なパターン(泥棒に襲われた一家を救いに駆けつける)の作品として挙げられるのが「女は嘲笑した」でしょうか。

悪役である泥棒を一途に愛する健気な娘を中心に据え、視点に工夫をこらして、ひとつのストーリーを多面的に描こうとする後年のグリフィスの兆しがうかがわれます。

ルネ・クレールは、「映画芸術は、グリフィス以後、何らかの本質的なものを何も付け加えていない」と言っています。

グリフィスがその手腕をいかんなく発揮した絶頂期「最初のゴールデン・イヤー」といわれる1912年に製作された8本、「女性」(16分)、「老男優」(17分)、「大虐殺」(35分)、「狭き道」(17分)、「厚化粧したレディ」(17分)、「ビッグ横丁のならず者」(17分)、「男性」(15分)、「電話交換嬢と御婦人」(17分)が紹介されています。

ここには、ルネ・クレールの言葉にあったように、クローズアップ、ロングショット、フェイド、アイリス、ソフトフォーカス、移動など、カメラによる自在な表現技法を堪能することができます。

まず、「女性」は、いがみ合いながら砂漠を彷徨う3人の女性を描いた作品ですが、同じ頃に撮られた作品が、1作品平均ショット数82に対して、この作品のショットは62と、緩慢なリズムを強調した編集処理によって砂漠の灼熱と渇きがリアルに表現され一層の効果をあげています。

また「老男優」は、栄光の座から滑り落ち、酒に溺れる俳優の悲哀を描いた作品ですが、後年フランス映画が好んで描いた落ちぶれた俳優たちの物語、例えば「旅路の果て」などを髣髴とさせる佳作です。

つづく「大虐殺」は、2巻ものの大作ですが、この作品が撮られた当時、まだ会社側の長尺ものへの警戒心が根強く、公開は、グリフィスがバイオグラフを去った後の1914年まで持ち越されています。

グリフィスの長尺ものを撮りたいという強い欲求の背景には、イタリア映画「クオ・ヴゥヂス」の空前の大ヒットを目の当たりにして刺激されたという説があります。

2時間という当時にあっては驚異的な長尺の史劇でした。

バイオグラフでは、2巻ものを撮ることさえままならない現実に失望したグリフィスは、「クオ・ウヴァヂス」や「カビリア」に劣らない堂々たるアメリカの史劇を撮ろうと、それに相応しい製作環境を求めたのだろうと考えられます。

また、更に、バイオグラフの役員たちが、同時に映画特許会社の役員を兼務しており、彼らは、ザ・トラストの慎重な製作方針をかたくなに固守して、2巻以上の長い作品を許さず、グリフィスと俳優たちの名前を画面に出すことや個人名を宣伝することも許さなかったという事情もあったようです。

技術を身につけ、自信も持ち始めたグリフィスにとって、これらの規制は窮屈そのものだったに違いありません。

会社との軋轢が少しずつ表面化してきた年でもあったわけです。

ほかには、100を超える短いショットを緻密に構成し、多彩なアクションを凝縮した「狭き道」と、地味な娘が男の裏切りと死を知って徐々に精神を病んでいく過程を繊細に描写した悲劇「厚化粧したレディ」、ニューヨークの街頭で撮影されたリリアン・ギッシュの単独主演作「ピッグ横丁のならず者」(この作品は、ギャング映画の起源のひとつとして知られています。リリアン・ギッシュは、同じ年の「見えざる敵An Unseen Enemy」からグリフィス作品に出演していました。) 、「男性」は、山に出かけた浮気男が田舎娘とカヌーで逃げ出し、娘の兄たちに追いつかれる大騒動のすえ、改心して妻の待つ家庭に戻るという活劇調の道徳譚。

アメリカではフィルムが失われたと考えられていた作品で、唯一の可燃性プリントが日本で発見されたといういわくつきの作品です。

1913年製作の作品として「たかが黄金」(17分)と、ラスト・ミニッツ・レスキューの優れた作品例として引き合いに出される「エルダーブッシュ峡谷の戦い」(29分)、そして、主人公の男女が現代と原始時代を自由に行き来するという卓抜なイメージで作られた「先史時代」(32分)と、これまで日本では、しばしば「ベッスリアの女王」として紹介されてきた史劇「アッシリアの遠征」(60分)が上映されます。

なかでも「アッシリアの遠征」は、バイオグラフが撮ることを許さなかった4巻ものの長編映画の製作をグリフィスがあえて強行することで、この会社を去る直接の契機となった作品であり、「国民の創生」や「イントレランス」の栄光と、そして挫折につながっていく彼の映画人生にとって重要な意味を持つ作品です。

それだけの覚悟でグリフィスは、この作品に臨んだのだと思います。

1913年の冬、グリフィスは、ニューヨーク本社の経営陣には無断で、この聖書の物語を企画し、南カリフォルニア、サン・フェルナンド峡谷の岩だらけの大地に城壁都市の巨大で豪華なオープンセットを建てて撮影を始めました。

彼は、演劇には到底真似のできない独自の映像的スタイルの確立し、あらゆる映画技法を駆使した様々なショットを積み重ねることで、映像空間と映画的時間とを併置させ途切れない物語の連続的な表現を目指しました。

カメラは、あらゆる場所にめまぐるしく移動し、群衆から一人へ、近景から遠景へ、そして地上よりの仰視から一転して城壁よりの俯瞰へと動きます。

当時、この偉大な映像叙事詩「アッシリアの遠征」が世論に与えた衝撃は、いままでの散文的説明的な従来の映画の原理の応用をはるかに凌駕し、映画にのみ可能な表現の様式を確立したという賛辞のあとに、「グリフィスは、動く映像の最初の芸術家であり、かつて誰も見ることのなかったような完全な世界をスクリーンに再現した最初の人物である」という賛辞がつけ加えられました。

バイオグラフの経営陣は、規則をないがしろにしたグリフィスに腹を立て、「アッシリアの遠征」の公開を差し止める措置(1914年3月まで抑えられていたということです。)にでる一方で、皮肉にも遅ればせながら、会社側は、時流に押されて長編物の製作を決定します。

しかし、その人選のなかにグリフィスは含まれていませんでした。

1913年9月、グリフィスは、『ニューヨーク・ドラマティック・ミラー』にバイオグラフを辞職する旨の記事を掲載します。

「バイオグラフの大当たりした全作品の製作者にして、映画劇を改革し、この芸術の近代的技法の基礎を確立し、そして更に発展させ続けているD・W・グリフィスは」、つまり自由になった、という広告を出しました。

スコセッシやスピルバーグ、そしてデ・パルマをハリウッドの第9世代と呼んでいる雑誌の記事を読んだことがあります。

その世代のカウントは、当然D・W・グリフィスを第1世代として数え始められるわけですが、ただ、グリフィス自身、そう看做されることをすんなり受け入れるかどうか、ちょっと想像がつきにくいところがあります。

というのも「イントレランス」の実験的な技法を理解せず、大胆すぎる構成や興業的な失敗のみを冷笑してドン・キホーテ扱いしたうえ、この作品を「葬り去った」多くの批評家や映画産業、果ては一般市民に対してまで及ぶグリフィスの不信と剥き出しの敵意が彼自身の中で深刻なものとして存在していたのではないかとおもわれるからです。

ただ、この作品のあまりにも早すぎた実験的な映画技法への挑戦の真の評価が、オーソン・ウエルズなどによってなされるまで、実際にはかなりの時間を要したことを思い合わせるとき、当時の悪意も含んでいたかもしれない評価が、あるいは、致し方なかったのかなという気もします。

簡潔なカッティングや、手や物の極端なクローズ・アップ、そしてパノラミックな遠景、独特のマスキング画面、テンポの速いクロス・カッティングなど、フランスのフォトジェニー論やソビエトのモンタージュ理論に多大な影響を与えたとされる独自の映画言語確立のための意欲的な映画史的貢献は無視されたうえで、むしろスキャンダラスな副次的な側面が過大に取り上げられました。

ある映画批評家は、当時のこの作品に対する世論の一般的な反応をこう要約しています。

半裸の女が大胆にも脚を広げ、あるいは、別のショットでは、入浴中の女が胸部をあらわにした姿を堂々と撮るなど、グリフィスは、バビロンの官能的な場面を今までにない過激で挑発的な描写によって、良識あるアメリカ市民の道徳感覚に挑戦し、逆撫でし、目をそむけさせ、そして反感をかいました。

さらに、彼は監獄を『ときとして不寛容になる家』と呼び、無実の若者に死刑を宣告する法体系に異議を唱えて、合衆国の法律と規則に対する政府の公的な見解にさえ挑戦的な態度をエスカレートさせていきます。

そして映画は、戦場と監獄の光景から花盛りの牧草地の描写に移り、愛と平和の永遠なる理想郷をほのめかすエピローグで終わります。

あまりに抽象的でおしつけがましい説教口調と一人よがりの感傷に満ちたこの「幼稚な」メッセージは、第一次大戦を背景にしていた当時の世論の好戦的な気分からかなりズレており、観客は、この民衆の良識を大きくはずした超大作に失笑し、無視し、結果的には葬り去ることとなる理由だったと見られています。

当然この『イントレランス』は、切符売り場で致命的な打撃をこうむることになりました。

第1次世界大戦さなか、グリフィスがイギリスに招かれて撮った「世界の心」1918や実写本位的な作品「偉大な愛」1918は、もはや往年の野心は失われた凡庸な戦争宣伝映画にすぎず、その押し付けがましい説教口調は、さんざんの酷評を受けることとなります。

グリフィスの時代錯誤をあからさまに非難し、大戦戦時下の時代風潮に適応しようとしない鼻持ちならない強烈な自我と頑迷さ、あるいは、あまりに素朴で抽象的な彼の幼い歴史観や思想が、過去の栄光にあぐらをかいただけの単なる時代遅れの妄想でしかないと非難するものでした。

そして、その見解の正当性をまるで裏付けるような幾つかのエピソードが同時に語られています。

どう考えても実現不可能な自作を専門に上映するための劇場チェーンの構想を唐突に発表したり、映画の字幕1枚ずつに自分の名前を入れたりするなど、ちょっと首を傾げたくなるようなハッタリとも何ともつかない行動をみせます。

この時期の彼を多くの解説書は、「名声は、とめどなく落下した」という表現を使っています。

何をやってもうまくいかない、ギクシャクする追い詰められた状況のなか、チャップリンやフェアバンクス、ピックフォードとともにユナイテッド・アーティスツを組織したグリフィスは、しかし、この時、まるで奇跡のように繊細な作品、あの名作の誉れ高い「散り行く花」1919を生み出しました。

可憐で儚げな白い花リリアン・ギッシュ、貧しくとも気高い理想に生きようとする中国人リチャード・バーセルメス、そして、欲望のままに生きる「けだもの」のようなドナルド・クリスプと、どの役者の演技もスコブル印象的です。

憂さ晴らしのために娘を殴り続け、死に至らしめる愚劣な父親の凶暴と残忍さ、虐待されるままに微かな希望さえ与えられることなく死んでゆく薄幸な少女の虫けらのような死の悲惨と感傷、そして理不尽な暴力に憤り、その愚劣な男を撃ち殺して自分も自殺を遂げる若き中国人の無念さ、この振幅の大きなドラマ展開のなかで、愛とさえ呼べないような微かな心の触れ合いが、繊細に描かれていきます。

結局は、すべての登場人物の無残な死によって、物語自体をことごとく破壊してしまうようなこの作品の根底にある虚しさは、グリフィスの当時の心情を反映していたのでしょうか。

貧しく絶望のどん底で、社会から完全に見捨てられた者同士が、限りなく傷つけあう救いの無い映画です。

「散り行く花」と同じ年1919年に撮られた「大疑問」は、グリフィスがしばしば描いてきた貧しい白人たちの生活を題材としたサスペンス・タッチの81分の中編作品です。

幼児に殺人事件を目撃した無垢な少女リリアン・ギッシュが、何も知らないままに、かつての殺人犯夫婦の家のメイドになるという設定から物語は始まります。

グリフィスの永遠のテーマである南部のpoor white たちの深刻な生活を、穏やかな田園風景のなかでとらえた不思議な雰囲気をもった知られざる傑作として紹介されています。

1924年製作のスペクタクル史劇「アメリカ」は、130分の大作です。

マサチューセッツの民兵ニール・ハミルトンと富豪の娘キャロル・デンプスターの恋物語に多くの登場人物の去就を絡ませた壮観な一大絵巻と紹介されている作品です。

アメリカ独立戦争に題材を求めたこの作品は、同じ南北戦争を扱った「国民の創生」1915と、第一次大戦を扱った「世界の心」1918とともに、グリフィスの戦争三部作と位置づけられている作品ですが、歴史学者ロバート・W・チェンバースの原作を、その細部に至るまで忠実に再現しようとした繊細な配慮がうかがえる戦争叙事詩の力作です。

1924年製作の「素晴らしい哉人生」は、第一次大戦後にポーランドからベルリンの郊外にやって来た教師一家の物語ですが、実際にドイツで撮影されたことでも知られている後期グリフィスの代表作です。

インフレ、失業、食糧難という苦境の中で懸命に生きようとする男女の生活の苦闘を描いた作品ですが、その中の1シーン、収穫した馬鈴薯を盗まれた失意の男ニール・ハミルトンを、女キャロル・デンプスターが力強く励ますラスト・シーンは、黒澤明の「素晴らしき日曜日」1947に多大な影響を与えたことは、広く知られています。

1925年製作の「曲馬団のサリー」は、ブロードウェイ・ミュージカル「ポピー」の映画化です。

サーカスの道に進んで厳格な父から勘当された娘は、やがてサリーという子を産んで息を引き取ります。

そして、成長したサリーは、サーカスの団長とともに母の故郷を訪れますが、孫と祖父母は、互いの身の上を知らない、というところから物語は始まりました。
Commented by elder scro at 2014-03-31 18:20 x
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by sentence2307 | 2007-04-28 22:40 | グリフィス | Comments(2)