母を恋はずや
2007年 05月 31日
もとより、どの作品も希望に満ちた晴れ晴れしい未来を暗示したような終わり方をしているものなどあるはずはないとは思っていますが。
現実に対する失意を味わいながら、明日もまた同じように希望のない日々が繰り返されるにすぎず、それをただじっと耐えて生きていくしかない日常生活者の遣り切れなさのピークにおいて、物語がふいに途切れて終わる感じのものが多いだろうなという気がします。
そして、もし僕のこの先入観がさほど誤っていなければ、この作品「母を恋はずや」は、現代に生きる僕たちにとって、きっと象徴的な作品になるのだろうなと思っています。
この作品は、出だしの1巻目と最終の9巻目とが失われている作品です。
多分、映画に限ったことではないかもしれませんが、作る側が最も工夫し苦労するところは、ファースト・シーンと、ラスト・シーンだとよく言われるのは、つまり、ファースト・シーンにおいては、おおまかな状況説明と、複雑な人間関係を要領よく簡潔に描くという役割を担わされており、また、ラスト・シーンでは、混迷した物語を整然と収束させ、混乱をきたしている観客に明快な答えを授けて、一挙にカタルシスを与えるという重要な役割が与えられているからだろうと思います。
しかし、この小津作品「母を恋はずや」は、前述のとおり全9巻のうち、最初と最後の1巻ずつに欠落を来たしているという、いわば「物語」の在り方としては致命的な欠陥のある作品です。
作品の命といわれる最初(導入部)と最後(収束部)の重要な部分が、こんなふうに欠落している不完全な状況にあって、それでも作品をどうのこうのと論じることに、なにほどの意味があるのか、いや、そもそもこの映画を論じること自体許されるのかという思いが、長い間僕にはありました。
例えば、僕たちは、この映画を、小学校の教室で授業を受けている子供たちに教師が父親の異変を知らせる場面から見始めるわけですが、しかし、見ることの出来ないその直前の第1巻には、シナリオによれば、父親が子供たちに次の休日に家族で七里ガ浜に遊びにいこうと約束している幸福な場面が描かれています。
2巻目以降で執拗に描かれるこの家族の過酷な家庭崩壊が、もし、「父親との幸福な記憶」なしに描かれたとしたら、家族の求心力が失われたもっと悲惨な惨憺たる物語になっていただろうと思います。
息子を傷つけまいとして出生の秘密を頑なに隠し通していた母親や、母が実の母親ではなかったことを知り、心を閉ざし絶望の泥沼でのた打ち回る兄、そして、母と兄の確執の本当の理由を知らされないまま目の前で兄がオカシクなっていく不可解な家族の崩壊に苛立つ弟のその誰もが、崩壊のもう片方で、この崩れかけた「家庭」をどうにか修復させたいと切望する強い思いが(暗示的にではあっても)描き得ることができたのは、その「父親との幸福な記憶」が観客の脳裏にあったからに違いありません。
しかし、残念ながら、現在僕たちが見ることのできる小津安二郎作品「母を恋はずや」は、あるべき「父親との幸福な記憶」という前提を欠いたうえで、さらに、家族がひとつ屋根の下で平穏な暮らしを取り戻すという結末さえも欠いた「母を恋はずや」です。
僕たちが見ることができる「母を恋はずや」は、父親との幸福な記憶もないまま、突然父の死を告げられ、母との和解もできずに家へも帰れず、絶望をいつまでもひきずりながら、怪しげな酒場で飲んだくれ打ちひしがれている失意の息子の物語でしかなく、小津が描いたあの幸福な家族の物語などでは決してないのです。
これは、きっと何かの象徴なのだと思いました。
僕たちが現在見ることのできるこの作品の最後のシーンは、実に救いようのない場面で途切れています。
掃除婦の老婆との会話(木の股から生まれてきたんじゃあるまいし、親は泣かせるもんじゃありませんよ)があり、老婆と入れ違いに曖昧宿の女・光子が口をもぐもぐさせながらサンドウィッチを皿にのせて入ってきます。
ゴロリと横になって思いに沈んでいる貞夫は、身じろぎもしません。
「どうしたのさ」という感じで光子は貞夫を見、ふっと「オヤ」という顔をします。
場面はここで、ふいに途切れます。
僕たちにとって貞夫は、光子の顔のアップの「オヤ」という表情に暗示的に封印された「ゴロリと横を向いていつまでも思いに沈んでいる貞夫」でしかないのです。
僕たちの見ることのできる「貞夫」は、残念ながら(失われたフィルムが発見されない限り永遠に)、幸福な記憶を取り戻すことも、母親のもとへ帰ることもできない息子です。
いわば、この世界のあらゆる和解から見捨てられた息子なのかもしれません。
幸せな記憶も失い、家族の修復を果たすこともできないこの幸福な結末を失った「母を恋はずや」しか持つことのできない現代の僕たちこそ、「いわば、小津に見捨てられた息子たち」なのかもしれませんね。
この撮影台本の表紙には、「東京暮色Ⅰ」というサブタイトルがつけられているそうです。
比較して考えてみたい誘惑を感じてしまいます。
(34松竹蒲田)(監督)小津安二郎(原作)小宮周太郎(脚色)池田忠雄(撮影)青木勇(構成)野田高梧(脚色補助)荒田正雄
(出演)岩田祐吉、吉川満子、大日方傳、三井秀男、奈良眞養、青木しのぶ、光川京子、笠智衆、逢初夢子、松井潤子、飯田蝶子、加藤清一、野村秋生
1934.05.11 帝国館 9巻 2,559m 白黒 無声 72分・35mm・不完全
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