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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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ゆれる

「弟の呼び掛けに、あのお兄さんは、結局、家に帰ってくるのかしら」

この映画について、女ともだちがぽつりと話したひとことで、僕は完全に混乱してしまいました。

最後のシーン、通過するバスの車体で一瞬兄の姿が見えなくなる直前、あそこには確かに弟に向けられた兄の笑顔がありました。

あの笑顔こそは、兄弟の間に起こった気まずい行き違いのすべてを許して、弟の謝罪を受け入れようという兄の親愛と寛容とが現れた笑顔だったんじゃなかったのか、という彼女への抗弁を思いとどまり、結局それらの言葉を飲み込まなければならないほど、彼女の
「弟の呼び掛けに、あのお兄さんは、結局、家に帰ってくるのかしら」
という言葉は、僕に深刻な衝撃を与えたのだと思います。

それまで、僕が持っていたこの兄弟の和解へ向かうであろう楽観的な手放しの確信が、そのひとことによって完全に揺らぎ潰え、兄弟の和解がなんの根拠もないただの「思い込み」にすぎなかったことを、そのひとことで思い知らされました。

そういえば、そもそもあのシーンの弟が、刑務所から出所してきた兄の姿を歩道の向こうに見止め、弟が自分の存在に気づかせようとして呼び掛けながら走り始めたとき、彼が本当に心から兄に「謝罪」しようとしていたのかどうかさえ疑わしくなりました。

この弟が、実家の商売と親のために寂れた故郷に踏み止まって働いている兄に対し、少しでも「済まない」という気持ちがあったかといえば、多分それはなかっただろうし、しかもそのうえで故郷で燻っている兄の鬱屈した思いには悪意も含めて気づいていたとさえ考えられます。

兄の鬱屈を十分に気づいていないとすれば、あえてあのとき弟が敵意を秘めた刺々しい気持ちで、かつての恋人、現在は兄の仕事を手伝い、兄との結婚話も出掛かっていた彼女にSEXを仕掛けるはずがないという気がします。

あのまま成り行きに任せれば、静かな故郷で兄と結ばれたであろう平凡な二人の関係を、ただ壊すためだけに彼女を誘ったと思う方が、その後でとった弟の彼女に対する冷ややかな態度や、法廷の場での兄に対する憎悪を込めた裏切りを理解するうえで、弟の荒んだ気持ちの在り様を示しているのは明らかだと思います。

しかし、理解しがたい弟の激しい憎悪と敵意が、いったい何に基づいているのか、誰に向けられたものだったのかという疑問が、そこには残るかもしれません。

おそらくその激しい苛立ちと憎悪とは、故郷に生きるすべての人々に向けられたものだったに違いないという気がします。

きっと人々は、多くのものを失いながら、そして少しずつ傷つきながら、その人生をどうにか遣り過ごしていくのだと思います。

故郷を捨てた人間、あるいは故郷から追い立てられた人間には、その土地に根を張って生きている人間よりも、自分が失ってしまったものを、よりリアルな実感をもって認識することができたでしょう。

しかし、その土地に根を張って生きている人間もまた、同じものを同じように失っていることに、あの弟は果たして思いを及ぼすことができただろうかという疑問が残りました。

生きた分だけ傷つき、愛した分だけ憎悪を抱え込みながら、とっくのむかしに失ってしまったものを、あたかもまだそこに存在しているかのように振舞う故郷の人々に対して弟は、過酷な現実に正面から向き合おうとしない彼らの誤魔かしとその鈍感さの部分だけを叩き壊したいと切望しただけで、兄の内向した苛立ちと怒りに気づくことに対しての怯えと恐れとがあったのかもしれません。

故郷から追い立てられた追放者にとって、その「鈍感さ」は(たとえ世間体を取り繕うための処世にすぎなかったとしても)、絶対に許しがたいものと思ったに違いない。

なにごともなかったように人々が取り澄まして日常をやり過ごしている生き方に対して、心の拠り所を失った追放者=弟はひたすら苛立ち、真っ黒な憎悪と怒りとを直接ぶつけるように、その「喪失」や「隠蔽の欺瞞」の有り様を思い知らせようとしたのだと思います。

それが、故郷に生きるすべての人間の生活を破壊するために弟が取った行為・かつての恋人に仕掛けた「悪意に満ちたSEX」という象徴的な行為だったのだと思います。

法廷で明かされる「真実」に畳み掛けるような弟の裏切りの証言があって、やがて刑を全うして兄が釈放される日が迫ったとき、弟は幼い自分たち兄弟を写した8ミリフィルムに出遭います。

そこには両親の愛情に包まれた何のわだかまりもない兄弟の姿が映されていて、弟は失ったものの重さに撃たれながら、とめどなく流れる涙でその場面を見つめます。

そして、この映画の核心に投げ掛けられた女ともだちの言葉
「弟の呼び掛けに、あのお兄さんは、結局、家に帰ってくるのかしら」
のあの問いに集約されていくラストシーンがあったのだと思います。

寂れた故郷で息の詰まるような諦観に絡め取られ、眼を伏せるようにして生きるしかなかった兄の怒りを無視して、煌びやかな都会で軽やかに生きる振りを続ける故郷を失った底深い苛立ちを抱えたこの弟との間に、どういう接点が有り得たでしょうか。

たぶん、弟は謝罪するために兄に呼び掛けたのではないと思います。

かつて母親の深い愛情に守られた弟が、幼い兄とその背後に広がる遠い幸せの記憶・失われた「時」に虚しく呼び掛けたのだと思う。

すべてが満たされ、許されていたその幸福な時間のなかでは、助けを求めて無邪気に差し出した弟の手は、兄の思いやりに満ちた幼いチカラでしっかりと受け止め保護してくれていました、あの時確かに結ばれていたその瞬間の一点に向かって、弟は無残な「現実」から必死になって幼い兄に呼び掛けたのだと思います。

しかし、それらの時間は、もはやすでに失われた時間にすぎません、兄弟の絆を大きく包みながらつなぎとめていた母親はすでにこの世になく、ともに故郷から追われた兄弟は、あのラストで、ふたりの間を疾走する路線バスによって、ついに「接点」をも断たれたのだと思いました。

この映画を見ながら、なんとなく「エデンの東」と比較して見ている自分に気がつきました。

あのエリア・カザン作品のテーマは、きっと弟の仕打ちによって「壊れていく兄」の姿を描いた作品だったと僕なりに理解しています。

父親の手厚い庇護の中で大切に育てられてきた兄の「理想」を、父親の愛を得られない弟は、傷つけられた怒りと僻みから、兄に醜い現実を直視させることで、彼の「理想」をずたずたに引き裂いて絶望の淵に叩き落すという過酷な物語でした。

この「ゆれる」には、「エデンの東」と通い合う部分がたくさんあります、しかし、ただひとつだけこの物語を覆う母親の存在が大きく異なっていることに、もう少しこの作品に拘っていたいような未練がましい困惑を感じました。
by sentence2307 | 2008-02-23 07:25 | 西川美和 | Comments(0)