老親
2008年 03月 16日
「『老親』は、四十代の主婦の成子が、明るく前向きに生きていく姿を、さわやかに描き出している。」
実際にこの作品を見ていると、老いた親を持つ男にとって、並の神経ではとても耐えられないような部分もあり、それはきっと自分もまた、この作品が真っ向から攻撃している「老親の介護をすべて女性に押し付けて、男は仕事にカマけて、ただ逃げているにすぎない卑怯者」の内のひとりに違いないからだと思うのですが、しかしそれにしても、そういうことが、どう「さわやか」なのかが、どうしても理解できませんでした。
親が次第に老いていき、自分の身の回りのことができなくなれば、「誰か」の手助けが必要になってきます。
その「誰か」が、なんで専業主婦なのだ、なんで自分だけが犠牲にならなければならないのだ、とこの作品は強く訴えています。
こう書いてしまうと、この作品に登場してくる親戚たち=抵抗勢力の「あんたが長男の嫁だからよ、あんた、自分の親の世話をしない積もりなの」という非難の根拠に繋がってしまいそうですが、ラストの方で、行政の老人介護の立ち遅れの不整備をあげ、この国の行政の責任を非難している部分もしっかりとあって、視野を大きく拡げながら「老人介護」についての問題提起はなされていて、この映画が家庭内紛争の顛末だけに終わっていないことは、確かに「そう」だと思います。
しかし、全編を通じて非難の矛先が向けられているのは、「逃げる無責任な男たち」に対してです。
これは、なまじっかな抗弁をゆるさないくらいの本当に痛切にして完全無欠な問い掛けです。
「なまじっかな抗弁をゆるさない」
というのは、究極的に
「おまえは、自分の親を見殺しにする気か。この外道!!」
という糾弾に、いかなる弁解の正当性も有り得るわけがない、という意味においてです。
その糾弾は、言い返すだけの言葉がこの世に存在しないくらい正しい、とは思います。
しかし、重要なのは、その押し付けがましい正しさが、そしてこの作品が、観客に対して、いささかの感動も与えることができない、この作品が人間の心を動かすだけのチカラを備えていないということにあるのだと思います。
人は、「理屈」や「正しさ」で説き伏せ、言い負かして無理やり理解させることはできても、感動させることなど到底できるわけがない。
そして、こんなことをわざわざ映画で描くこと自体が理解できないのです。
この程度のことを言いたいのなら、なにも映画である必要などどこにもないと思いました。
それこそ、どこかの公民館で講演したり、客員教授かなんかになって、「修身」とか「道徳」とか「公民」ふうの授業で、生あくびを噛み殺している生徒たちに向かって、ひとり誇らしげに語り掛け、心行くまで道化を演じるがいい、その方がよっぽど相応しいと思いました。
つまり、「映画」をこんな愚劣な宣伝に使うな、といいたいのです。
この作品には、なにひとつ「人間の真実」が語られていません。
あらゆる人間が将棋の駒のように配置されて動かされているだけです。
親の面倒をみたくとも、なんらかの事情でそうはできないでいる人なら、きっと幾らでもいるに違いない。
経済的に余裕がなく見捨てざるを得ない人から、記憶の傷を抱え込みながら憎しみを精算できないままでいる人まで、人々が持つそれぞれの疚しさを深めることなく、この作品はただただ、「老親の介護」という錦の御旗を掲げて、誰も反論できないような不毛なタテマエ論で、観念としての「男」を非難しただけの、実につまらない映画でした。
しかし、自分が、この作品「老親」をなぜそのように感じてしまったかという切っ掛けみたいな話が、最近あったのです。
去年の6月末に経理課長で定年退職した石井さんと久しぶりにお逢いする機会がありました。
以前、同じ職場で、なぜだか最初から気心がしれて、お互いのミスをカバーし合えるくらい信頼を深めることができた人でした。
社交辞令とか義理なんかを考えずに交際できた、社内では数少ない同志です。
そんなわけで久しぶりにご一緒できるお酒を楽しみにしていたのでしたが、以前みたいになかなか話がはずみません。
そのわけが少しずつ分かりました。
石井さんは、退職した翌月すぐに、町内会から「老人会」へお誘いを受けたのだそうです。
つい先月まで会社でバリバリ仕事をこなしていた現役だった人が、月が明ければ老人会からお呼びが掛かるというのですから、それはもう石井さんにはショックだったに違いありません。
日頃の町内会のつきあいもあって無下に断るわけにもいかず、まずはとりあえず様子を見に行くことにしたのだそうです。
一度でも顔を出しておけば、義理も果たせるという気分もあったのでしょう。
そして公民館に行ってみて、大変びっくりしたそうです。
そこで行われているのは、民謡体操とか盆栽とか絵手紙とか詩吟とか謡曲とか、どれをとっても(当たり前ですが)いかにも老人らしいものばかりだというのです。
ビートルズやローリングストーンズを聴きながら青春時代を送ってきた石井さんには、どう努力しても馴染めそうもないものばかり、それでも町内会の付き合いのために、それなりに老人の振りをしなければならないのかと、その晩の石井さんは、自分が「老人」として一括りされてしまうことの遣り切れない思いに囚われて、傍目にも沈痛な感じを受けました。
誰もが最初から一律に、絵に書いたような「老人」であるわけがない、僕にとっての石井さんは、いつまでも「石井さん」であって、決して「老人」という概念に埋没するわけがないのです。
そんな僕にとって「老親」のラストシーン、舅の死を知った萬田久子が流す涙を見て、苦労して躾けたペットを不意に失ってしまった飼い主の、いかがわしい落胆の涙を見る思いがして、いたたまれない嫌悪感に捉われたのでした。
(2000)監督製作企画・槙坪夛鶴子、製作・光永憲之、原作・門野晴子、脚色・原田佳夏、撮影・藤沢順一、音楽・光永龍太郎、増永真樹、編集・普嶋信一、録音・木村瑛二、スクリプター・井上かずえ、美術・成田ヒロシ、スチール・宮田博、監督補・金佑宣、照明・小嶋眞二
出演・萬田久子、小林桂樹、榎木孝明、岡本綾、草笛光子、米倉斉加年、笠原紳司、金久美子、小笠原町子、前田未来、大竹博人、
2000年 112分/35mm スタンダード