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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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「東京物語」における小津演出

小津安二郎,溝口健二,成瀬巳喜男,黒澤明の4人の巨匠たちのうち、原節子を起用しなかったのが溝口健二だけなので、「なおさら」の印象が強いのかもしれませんが、もし溝口健二が原節子を演出していたら,どんな作品が出来上がっただろうかという妄想に、ときどき駆られます。

演技指導といえば、ひたすら厳しい溝口健二です、ただ美しいという容姿だけで演技の要求を手加減するような溝口健二ではありません、その執拗で理不尽なまでの異常さをぶつけてくる「責め」に、原節子がどこまで耐えられるか、などを含めて、あるいはその果実として、「晩春」や「麦秋」、「めし」や「山の音」、「わが青春に悔いなし」や「白痴」、そして「西鶴一代女」に匹敵するような作品が、あるいは生み出されたかもしれない可能性(見果てぬ夢というヤツでしょうか)をついつい妄想してしまうのです。

溝口健二の演出の厳しさは、「ある映画監督の記録・溝口健二の生涯」によってイヤというほど知らされています。

俳優が監督の要求どおりに演じられなければ、役者としての自尊心をズタズタにしてしまえるだけの回数を繰り返し演技し直させることを強いて、たとえそのことで俳優を再起不能にまで至らしめても一向に差し支えないというシビアさを生々しい実感として認識しているので、その「妄想」にも一層拍車が掛かってしまうのだと思います。

それに比べると、同じように厳しかったとはいえ、黒澤演出には、役者の扱いにも、もう少し血の通った人間味があったような気がします。

その点、成瀬演出はといえば、できるだけ役者に演技をさせないようにしたという意味において、小津演出と極めて近しいものを感じます。

その共通する理念として、俳優の演技などそもそも最初から期待していなかったという姿勢には共通するものがあったとしても、ただその「共通さ」が、果たして同じ方向を指し示していたのかといえば、それは、まったく別方向を指していたというのが本当のところだったと思います。

失意のなかで生きていくことの空しさ、絶望を抱えながらどうしようもない気だるさを自然に演じさせるためには、役者の過剰な演技など邪魔でしかなかった成瀬作品に比べると、小津安二郎にとっては、演技者の演技そのものを最初から必要としなかった、彼らはただ、そこに「存在」していさえすればよかったのだと思います。

おおきなシチュエーションの流れのなかで生きる人間が、そこでどのように足掻こうとも、もはや、その囚われの定めからは決して自由になることはできない、人間は運命の操り人形でしかないのだから、そのシチュエーションの大きな流れのなかで為し得る所作は、おのずから限定されてしまうのだといっているような気がします。

逆にいえば(極端にいえば、というべきかもしれません)、小津作品に登場する人物たちは、シチュエーションという大河に翻弄され、流されていくだけの溺死体のようなものであればいいのだと。

そういう意味でなら、小津演出の真髄は、俳優の演技をひたすら殺すことにあったのではないかと考えてしまいますよね。

そして、その厳格に抑制された演技によって、彼と彼が囚われている息苦しい情況をも一挙に分からせてしまうという素晴らしい場面に出会えたのだと思います。

しかし、なぜ僕がこんなことを考えたかというと、高橋治の著書「絢爛たる影絵・小津安二郎」の一節が切っ掛けでした。

パリのシネマテークで、久し振りに「東京物語」に出会い、そこで国境を越えて見る者を感動させずにはおかない「底力」をまざまざと見せ付けられた高橋治が、改めてこの作品のもつ魅力の核心を読み解こうとするクダリの部分、妻を亡くした笠智衆が、いよいよ東京へ帰るという原節子に「やっぱりこのままじゃいけんよ」と語り掛ける場面について、「動きを少し細かく追ってみよう」という書き出しで始められている一節です。

《原の長科白は、全部ワンカットでとらえられている。座った二人の全体像で背を向けた笠が画面の右側にある。
――思い出さない日さえあるんです。
原の笠に注がれていた眼が流れ伏せられる。笠も思わず顔をそむける。
――このままこうして一人でいたら、一体どうなるんだろうなんて。
伏せがちにしていた視線が「一人」と「一体」に合わせて、はっきりと笠に向けられる。訴えかけは確かに笠に渡されている。
――心の隅で何かを待っているんです。・・・ずるいんです。
点線で示された間のうちに、原の視線は落ちる。「ずるいんです」に込められた自分への裁きと、裁くべきものを身内に抱えている女の心のありようが客に伝わってくる。
――いやア、ずるうはない。
笠の物言いはふんわりと原をくるむようでいて、ずるいとは毛頭考えないとの義父の断定が強くひびく。
――いいえ、ずるいんです。
原は、はっきりと顔を上げて続ける。
――そういうことをお母様には申し上げられなかったんです。

成熟した女が、いつ噴出するかもしれない欲情を押し殺し、表面では静謐を装いながらひとりで生きていくということの赤裸々さを暗示として後退させ、逆に「美しさ」として描き出そうとした小津演出について高橋治は、

「おそらく女の性がこれほど美しく映画で語られた例は稀だろう。類いない美しさの裏で、いつ奔馬のように走り出すかもしれない欲望の手綱を辛くも押さえている女を、原は小津の期待どおりに演じて見せた。」

と記しています。》

この部分だけなら、それは小津演出の精緻さを描写したものにすぎません。

しかし、このあと数頁にわたって女優・原節子と監督・小津安二郎との「関係についての噂話」が記されたあとに、こんな描写がでてきます。

《(クランクアップのとき)「お疲れ様」・・・小津が香川(京子)に近づきその手を両の手の平で包んだ。
「香川さん、ありがとう。また一緒に仕事しようね」
香川は感動に震えるように背を伸ばし、小津を仰ぎ見た。
良い演技者は自分の出番がなくてもセットに出るものだが、この日、原も自分の出番をすべて終えたのにセットの片隅にいた。
原は自分の前を通っていく小津に深々と頭を下げた。
「お疲れ様でした」
「や」
小津は軽い会釈を返しただけでセットを出て行った。茫然と立ち尽くす原を見るのはいかにも辛かった。》

ここでは、どういうことが描かれようとしているのか、僕などには想像もつかないのですが、赤裸々な「女の性」から眼をそむけ、あえてひたすら美しく描こうと固執した小津演出・小津安二郎の、生涯を通じて持った女性観の意味を考え合わせないわけにはいかないような気がします。

そこにあったであろう「暗示」、つまりそれら「醜悪なもの」に対する小津安二郎の放棄の姿勢では決してなかったことを思えば、やはり暗然たる思いに捉われないわけにはいきません。

(53松竹・大船撮影所)製作・山本武、監督・小津安二郎、監督助手・山本浩三、脚本・野田高梧 小津安二郎、撮影・厚田雄春、撮影助手・川又昂、音楽・斎藤高順、美術・浜田辰雄、装置・高村利男、装飾・守谷節太郎、録音・妹尾芳三郎、録音助手・堀義臣、録音技術・金子盈、照明・高下逸男、照明助手・八鍬武、編集・浜村義康、衣裳・斎藤耐二、現像・林龍次、進行・清水富二、
出演・笠智衆 、東山千栄子 、原節子 、杉村春子 、山村聡 、三宅邦子 、香川京子 、東野英治郎 、中村伸郎 、大坂志郎 、十朱久雄 、長岡輝子 、桜むつ子 、高橋豊子 、安部徹 、三谷幸子 、村瀬禅 、毛利充宏 、阿南純子 、水木涼子 、戸川美子 、糸川和広 、遠山文雄 、諸角啓二郎、新島勉 、鈴木彰三 、田代芳子、秩父晴子 、三木隆 、長尾敏之助、
1953.11.03 14巻 3,702m 136分 白黒
Commented by cheap oakleys at 2013-06-15 18:35 x
There are also so many video uploading websites, and these also give facility for sharing their video tutorials, but I think YouTube is the best. <a href="http://elektronikasales.com/Managenewsss.aspx" title="cheap oakleys">cheap oakleys</a>
by sentence2307 | 2008-03-30 11:02 | 小津安二郎 | Comments(1)