あの頃ペニー・レインと
2004年 11月 07日
スキャンダルっぽいミュージック雑誌を読みふけりながら、ジョーンズを疎外したうえでストーンズの主導権を握ったミック・ジャガーとキース・リチャーズが何だか悪者に思えたことを思い出します。
ブランアン・ジョーンズの死因は、ヤク中が原因の心臓発作だったと記憶していますが、作曲に息詰まり追い詰められた焦燥感とグループ内の孤立とを、ドラッグとアルコールで紛らわせた結果によるものだと読んだことがありました。
その後、立て続けに象徴的なロック・アーティストが亡くなっていきました。
ジミ・ヘンとジャニス・ジョプリンでした。
ともに重度のヘロイン中毒と聞いています。
天才的なテクニックを持ちながら、単なる技術だけでは厳しい芸能界では売れないと判断したマネージャーが、見世物的なワイルドなバフォーマンス(歯でギターを鳴らしたり、背中で弾いたり、演奏の最後には装置の悉くを破壊したり)を求めたといいます。
しかし、皮肉にもそのバフォーマンスに隠された真のテクを認めたのは欧州でのツアーでした。
結局アメリカでは、彼の死後やっとその驚異的なテクと音楽的な真の価値が徐々に認められ始め、それは現在でも進行形です。
また、ジャニスの死はもっと悲惨でした。
見た目の彼女の醜さと鈍重さからいじめ抜かれ、故郷を棄てた彼女がサンフランシスコで成功したあと、何故か再び故郷テキサスのポートアーサーの高校の同窓会に出席します。
いくらサンフランシスコでは天才的なアーティストとして認められていても、依然として保守的なテキサスでは、やはり彼女は風変わりな落ちこぼれとして物珍しそうに眺められるだけで誰一人打ち解けてくれる人はいませんでした、両親でさえも。
その辺は記録映画「ジャニス」に生々しく描かれています。
確かそれは死の数ヶ月前だったと思います。
誰にも受け入れてもらえない彼女の孤独があまりに痛々しく、息詰まるようなたまらない気持ちの中で僕たちは、「あの頃」ロックが鈍感な世間という冷たい眼差しの中で孤立したまま、いままさに死に始めていることを実感したものでした。
15歳の若さで少年がローリング・ストーン誌のリポーターになろうが、一人の追っかけの少女がどうでもいいようなギタリストに失恋しようが、たかがそんなことを「あの頃」などと言って欲しくないように思いました。