戦国無頼
2008年 07月 13日
もし、この作品を、脚本の共同執筆者・黒澤明が監督していたら、後世に残る傑作になったのではないか、というのです。
結構僕自身も、その手の妄想をあれこれ楽しむ方なので、この着眼は、物凄く面白いと思いました。
しかし、問題は、そうした妄想を抱くに至らせた動機の方にあるかもしれません。
この作品が、見る者の期待を十分に満たしていれば、その堂々とした存在感が、観客にそのような妄想を抱かせることなど、きっと許さなかったに違いない。
この作品を見て、「これを黒澤明が監督していたら・・・」という逸脱した感想を生じさせた背景には、本来この作品が持たねばならなかった風格を遂に持ち得なかったからだったと思います。
では、その「観客が期待した風格」とは、どういうものだったのかといえば、稲垣浩の繊細なリリシズムと、黒澤明的な豪快なダイナミズムであり、しかし、実際のところは両者の特質を共に生かし切れず、却って殺し合ってしまったという惨憺たる結果に終わったからではないでしょうか。
この印象は、黒澤明が脚本を提供して、他の監督が演出するというケースに共通して言えるように思います。
そして、その印象は、この映画が封切られた当時においても一般的な評価だったらしく、田中純一郎著「日本映画発達史Ⅳ」の「第65節 東宝の黒澤、巨弾連発」には、「戦国無頼」の評価の箇所に
「戦国時代の三人三様の武士を中心とする大作だが、山口のミスキャストが目立つ。興行はヒット。」
と記されていて、この物語において「三人三様の武士」を横糸で結び合わせる役柄を担った重要なキー・ウーマン・おりょう(山口淑子が演じています)の解釈と扱いに関する両巨匠の認識の差が、そのまま作品の出来に反映してしまったのではないかという趣旨に読み取れます。
スクリーンに映し出される山口淑子の美しさに魅了されながらも、彼女の奇妙なイントネーションが気になりました、黒澤明なら、そんな余計なことでストーリーを辿っている観客の印象の流れを途切らせるような、そうした「支障」は絶対に許さなかっただろうなと感じました。
しかし、逆に言えば、その奇妙なイントネーションとぎこちない所作は、三船敏郎演じる疾風之介を一途に慕う「おりょう=山口淑子」の娘心を、かえって観客に強烈に印象づけたともいえます。
人を慕い、恋焦がれ、一緒になりたいと願う娘の切実な気持が、その男の前で、イントネーションを無様に乱し、恥じらいから所作を一層ぎこちなくさせることの方が、むしろ納得しやすい。
恋する男の前で揺れ惑う繊細な娘心の活写に演出の思いを致すのか、それとも戦乱の世の中に翻弄され斃れていった男たちの生と死の虚しさを豪快に描くべきだったのか、稲垣浩と黒澤明という大いに異なるふたりの映像作家の特質が、まさにぶつかり合った部分が、あの奇妙なラストシーンに象徴されたのかもしれません。
おりょうが、疾風之介の加乃への思いを知り、ふたりのために崖から身を投げ、自ら死をもって身を引くという悲惨な結末に、ある唐突さをどうしても感じてしまうのは、疾風之介がただボケーと突っ立っているだけで、加乃とおりょうの間で戸惑う葛藤が描かれていないからかもしれません。
おりょうの気持ちをどうしても受け止めることができない疾風之介の加乃への思いが十分に描き切れていなければ、おりょうの自殺は、単なる失恋したヒステリー女のあて付け自殺みたいでしかなく、しかも、この惨憺たる不徹底さは、あえて言うまでもなく、この両巨匠の特質とは遥かに隔たったものでしかないことを思うと残念でなりません。
(1952東宝)監督脚本・稲垣浩、製作・田中友幸、原作・井上靖、脚本・黒澤明、撮影・飯村正、音楽・団伊玖磨、美術・北猛夫、録音・亀山正二、照明・西川鶴三、編集・宮本信太郎
出演:三船敏郎、市川段四郎、三國連太郎、山口淑子、浅茅しのぶ、香川良介、東野英治郎、志村喬、小杉義男、青山杉作、三好栄子、香川良介、高堂国典、上田吉二郎、田武謙三、谷晃、小宮一晃、杉寛、堀内永三郎、長浜藤夫、広瀬嘉子、北川好子
1952.05.22 14巻 3,692m 135分 白黒