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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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暁の脱走

その作品があまりにも有名すぎて、タイトルはもちろん、見る前から、だいたいの内容まで知悉してしまっている映画を見るのは、その先入観が、かえって障碍になる場合もあると、この谷口千吉監督作品「暁の脱走」を見て思いました。

その先入観というのは、例えば「信じていた軍隊から裏切られ、その欺瞞性にとことん絶望して、ついには軍隊を見捨てた純情な兵士の物語」とか、あるいは「愚劣な軍隊に留まるよりも愛のための脱走を選択し、やがて日本の軍隊から銃殺された恋人たち」という、既にいろいろなメディアから自分の中に刷り込まれているそれらの固定観念を抱えながらこの作品を見始めた結果、どこまでが借り物で、どこまでが純正な自分の印象なのか、考えながらの鑑賞というのは、やはり煩わしく、僅かながら苦痛でした。

そんななかで抱いたシンプルな疑問が、ふたつ残りました。

①三上上等兵は、晴美を心の底から愛していただろうか、

②三上上等兵は、日本の軍隊に絶望したから脱走したのか、です。

そして、この①と②の関係は、もちろんそれぞれが重要な影響を及ぼし合っています。

しかも、僕のこの疑問の立て方自体が、三上の側からしかこの作品にアプローチできないと最初から考えてしまったあたりに、僕の中では既にある程度の考えが固まっていることを示唆しているのかもしれません。

最初、慰問団の歌手・晴美は、三上上等兵にひと目惚れして、一方的にアタックします。

ただ「三上が好きだ」という自分の気持ちだけをぶつける晴美の行為には、軍隊という閉ざされた社会の制約に縛られている「三上の都合」など考慮するわけもありません。

その典型的な場面は、副官に随行して酒房にやって来た三上を晴美が誘惑し、初めて性交したあとの夜の場面にうかがわれます。

初めての情交に昂揚した晴美は、三上との別れを惜しんで、未練がましく共に戸外に出ようとしたところを巡回の兵に誰何され拘束されてしまいます。

このようなことをすれば相手がとても困ることになる、深刻な窮地に追い込まれるかもしれないなどとは少しも考えず、ただひたすら自分の感情だけを押し通す晴美は、身勝手な自分の行為がどんどん事態を悪化させ深刻にしていくことなど当然のことながら配慮などしていません。

この晴美の「愛がすべて」という思想が、三上をひたすら破滅にまで導いていきます。

この映画は、「真空地帯」や「モロッコ」のように見えて、しかし、実は「嘆きの天使」なのだと思い当たりました。

あのままなら、実直な三上上等兵は、それまで忠誠を尽くしてきた軍隊に、その後も同じようにして疑問など持つこともなく忠誠を尽くして過ごせたはずです。

軍隊への失望とはいっても、それはきわめて個人的な(成田中尉に対する)恨みから発せられたものにすぎず、「真空地帯」のような軍隊の組織そのもの・それに繋がる日本そのものに対する絶望が描かれているわけではなく、したたかな女の誘惑に惑わされ、引き摺られ、仕方なく中国の大地に逃げ場を求めたがために銃撃されたにすぎないように思えてなりません。

捕虜となった兵は、再び帰ってきた場合は銃殺も有り得るというのは、レッキとした「軍規」ですから、副官に保身のための邪心があったからといって、「自分をかばってくれない」ことを恨むのは、なんだか筋違いのような気がします。

本編を忠実に辿ったうえでのこのラストシーンから、僕は、それほどの感動を受けることはできませんでした。

素朴な三上上等兵が、日本の軍隊に対して極めて実直に尽くしたように、身勝手な誘惑女に対しても実直に尽くしたにすぎず、どちらの側にも散々に振り回された挙句に、銃殺されてしまった哀れな青年(奇麗事を疑いもせずに頭から信じ込んでいた本人にも相当な責任があるように思えます)にしか見えませんでした。

それはちょうど、傷の手当てをしてくれた中国兵の将校に「欧米では捕虜は、捕虜になるまで闘ったということで尊敬されている。捕虜になっただけで自決を迫られる日本の軍隊と比べてどちらが人道的か」と語らしめ、暗に中国の度量の広さを無条件に信じ込んだこのシナリオが抱え込んでいるコンプレックスに通じていて、それは明らかにシナリオの弱さだというしかありません。

そして、それは同時に、時に似つかわしくない奇妙な「ヒューマニズム」を描き込み、作品を方向違いの弱々しさに導いた巨匠・黒澤明の弱点だったかもしれません。

黒澤明の資質とは明らかに異なるこの軟弱さは、「黒澤教」信者でない一般市民からは、あからさまに「裸の王様」と忌避された理由だったのかもしれません。

(1950新東宝=東宝)製作・田中友幸、監督脚本・谷口千吉、脚本・黒澤明、原作・田村泰次郎、撮影・三村明、音楽・早坂文雄、美術・松山崇、録音・神谷正和、照明・大沼正喜
出演・池部良、山口淑子、小沢栄、伊豆肇、田中春男、若山セツコ、利根はるゑ
1950.01.08 10巻 3,180m 116分 白黒
by sentence2307 | 2008-08-03 21:11 | 谷口千吉 | Comments(0)