太陽がいっぱい
2004年 11月 12日
この作品の全編にみなぎる卑しさと哀しみの影が、アラン・ドロンの美貌にいっそうの陰影をあたえ、観客はトム・リプレイが犯す犯罪の良き理解者としての視点から、この作品を深い共感をもって見ることができたのだと思いました。
ただの美貌を売りにするだけの映画なら、観客になんのインパクトも、そして感動も与えることが出来ないことは、皮肉にも、その後のアラン・ドロンの多くの出演作が示していると思います。
裕福な上流家庭の育ちのフィリップとマージュの前で、貧しい生まれのリプレイが彼らに合わせて上品に振舞おうとすればする程、ボロが出て、彼らのからかいの餌食となってしまう卑しさを、更に増してしまうような結果となります。
そして、その無様な振る舞いを、傲慢で冷酷なフィリップから嘲笑され、馬鹿にされればされる程、リプリーは、「反射的に」なんの抵抗もないかのように、卑屈さをあらわにして媚びへつらいます。
この場面は、富める者の前で、反射的に媚びへつらいの「しな」を作ってしまう自分の、貧しい生まれによって培われてしまった卑屈な習性への嫌悪が鋭く描かれていると思いました。
多くの解説書では、リプリーの殺意が、マージュへの思慕を絡めたうえでの、フィリップに馬鹿にされ嘲笑されたことへの恨みと復讐心からの殺人が動機づけられたとしているものが多く見受けられましたが、ルネ・クレマンの描くあの場面からは、それほどのストレートな個人に対する憎悪や憤りは感じにくく、むしろ、富める者一般に対して、反射的に追従してしまう自分という卑しい者に対する嫌悪感=自己否定(放棄)としての「殺人」をどうしても強く感じてしまいます。
フィリップになり切り、彼の振りをする場面は、まるで、ヒッチコックの「サイコ」のように思えてなりません。
奇しくも同じ1960年製作、ヌーヴェル・ヴァーグの絶頂期に撮られた作品です。
原作は、ヌーヴェル・ヴァーグの世代から崇拝を受けていたヒッチコックの「見知らぬ乗客」1951の原作者でもあるパトリシア・ハイスミスの小説。
キャメラマンのアンリ・ドカエも脚本家のポール・ジュゴフもともにヌーヴェル・ヴァーグの作品で既に多くの実績を残している人たちでもありました。