カルラの歌
2004年 11月 14日
無賃乗車を見逃したという職務的な怠慢が直接のきっかけとなって、彼の勤務状態を常に監視している会社側との対立が一挙に表面化し、彼は職を失うこととなりました。
それは、自分の首を賭けてまでも彼女カルラのことをかばったことから、結果的に、ジョージがカルラと結ばれ、やがて、彼女とともに、ニカラグアへの危険な旅に出発することになりますが、僕には、この物語の進め方のなにもかもが、不自然に思えて仕方ありませんでした。
ケン・ローチ監督の描く男と女の関係のとらえ方に、拭いがたい違和感をどうしても感じてしまうのです。
この作品のファースト・シーンからのことごとくが、ケン・ローチという監督の資質、つまり、弱者の窮状を見過ごしに出来ない正義感とか、同じテンションで高揚する強権への怒り、などを根底にした映画作りの姿勢というものがよく理解できる分だけ、疑問を感じてしまいました。
そうした図式的な感情のあり方が、どう恋愛に関係するのか、さっぱり理解できないのです。
ジョージは、愛するカルラの「すべて」のことを知りたいという気持ちから、彼女の恋人の安否を確かめるために、命の危険を冒してまで政情不安なニカラグアへ、カルラとともに旅立ちました。
ジョージは、最初「どことなく暗く沈んだ淋しげなカルラ」のことが気になり、強い関心を抱きます。
彼女の「暗く淋しげでいることの理由」を知りたい、そして、なんとかしてあげたいと切望するジョージの感情は、正義感や誠実さに基づくものなのでしょうが、そうした感情が、恋愛に必須な感情といえるかといえば、それは、ほとんど疑問です。
現実では、往々にして正義に反し、誠実さに欠ける恋愛など掃いて捨てる程ありますし、「知る」ことと恋愛感情とは、最初からなんの関係もありません。
ジョージは、このニカラグアが自分のいる場所でないことを知り、カルラのすべてを理解できないことを知り、「なにも分からなかった」とジョージは、ひとりイギリスに帰りますが、しかし、「分かろうとする」次元には、恋愛など成り立つわけがないことの理解が、この映画には決定的に欠けているように思えました。
ケン・ローチに関してよく言われる「感傷的でなく、また安易なハッピーエンドの気休めと救済を拒絶する」姿勢と、人を愛するということの表現の突き詰めていく姿勢とは、本質的にまったく異なるものであると言わざるを得ません。