ことの終わり
2004年 11月 14日
「奇跡」と「誓い」という、神の存在を問う重いテーマのこの映画に、もうひとつ「のり切れ」なかったのは、なにも僕の生活が信仰からは、およそ縁のないところにあるということだけではないと信じたいです。
決して乱れた生活をしているわけでもありませんし。
しかし、ジュリアン・ムーアの魅力的な美しい裸身と、刺激的な愛欲シーンからは、およそほど遠い「奇跡」と「誓い」というテーマに最後までなじめないまま、むしろ、神だの奇跡だのを描くために、どうしてあんな形のミステリー仕立てにする必要があるのか、とちょっと考えさせられてしまいました。
満たされない結婚生活をおくるサラは、偶然知り合った作家ベンドリックスと深い仲になり、情事を重ねていきます。
しかし、その情事の最中に爆撃にあい、爆風に飛ばされて二階から転落したベンドリックスは即死(と思った)、サラは、彼の命を救ってくれるように神に必死に祈って助けを求めます。
そのかわり、もし奇跡をおこして命を助けてくれたら、自分はこの不倫の愛を諦める、信仰に生きると誓いました。
そして奇跡が起こり、サラはよそよそしくも彼から離れていきます。
それまで、あれほど積極的な行動をとってきた彼女だったわけですから、この不可解な行動は、そりゃあ誰だって他に男ができて、彼女が新たな情人に乗り換え、それまで付き合っていた男は捨てるというレベルの邪推を誘うのも、当事者のレイフ・ファインズ扮するベンドリックスならずとも至極当然な発想だと思います。
急に会うことを避けるようになった彼女の謎を追うという巧みな話法によって現れてくる三角関係に絡むもうひとりの男、それが「神」だったとは、なんとも驚かされてしまう展開で、意表を衝かれました。
それは、もちろん推理仕立てで見せるようなテーマじゃないだろうという思いとともに、愛欲から奇跡に至るその物語のギャップが僕の中でどうしても埋められないという違和感もありました。
神の啓示とか、それから最愛の人の復活への祈りと、死から生還する奇跡を描く場面に神秘的な雰囲気が工夫されていたら、この映画、もう少し違った印象を受けたかもしれません。
あるいは、暗示だけでも映像的に洗練されていたら、結末で盛り上がるべき「奇跡」に至るイメージが明確になって展開にもハズミがついたかもしれません、なんて言うと、欧米人からこう言われてしまうかもしれませんね。
「しかしね、君が言っているちゃんと説明しろっていう部分(神や信仰や奇跡など)は、信ずる信じないは別として欧米人はみんな当然に持っている素養だから、仏教徒である極東のアジア人が、必要な説明がない、理解できないと言って、とやかく言うのって、おかしいと思わないか? その国の文化によって培われた素養ではカバーできず、分らなくて当然と言う欧米作品だって、そりゃあ、たまにはあるんだよ。ヒューマニズムだけでは解読できない歴史や文化なんて、そんなに珍しいことじゃないからね。」なんてね。
しかし、「歴史や文化」はともかく、なによりも、彼女のこの「願い」の描き方が、すべての事態を混乱させ紛糾させた元凶であることは確かです。
男が息を吹き返さなければ、そのまま死別、よしまた生き返ったとしても、そこには生き別れという、さらに悲惨な状態が待ち受けているだけで、結局、「更に悲惨な状態」の方を選択していくサラにとって、もはやこの時点では、彼女自身の意思でこの愛を自ら捨て去ったとさえ見えるくらいです。
わざわざ整理する程のことでもないかもしれませんが、サラは、《愛している→失いたくない→誓い・生還の祈りが叶えば、二度と愛さない》という過程を経て、「愛しているからこそ愛さない」という肯定と否定が同居する論理のパラドックスに陥っていきます。
愛を貫こうとするストーリー展開の過程で、彼女にとっての神の存在の描き方が終始希薄なために、その信仰の切実さも描き切れなかったという大きな落とし穴に、この作品そのものがハマってしまったように見受けられました。
この場合、それは物語の致命的な欠陥とさえ言えます。
それとも、この「願い」、とっさのことで頭が混乱したための軽率な判断だったのでしょうか。
もし、軽率な誓いだとすると、かたくなにその誓いを守り通すその後の話の展開は、むしろ奇妙です。(しかも、その誓いを真っ正直に守り通す律儀さという部分は、奇妙を通り越して、さらに滑稽です。)
どちらにしても、皮肉なパラドックスに満ちたこの映画、鼻からソーセージを取り去るために大切な三つの願いを使いきってしまったというあの有名な寓話の愚かな揶揄をさえ抱かせかねません。
神の啓示なき奇跡だけが浮かび上がってしまった無残な姿と言うべきでしょうか。
しかし、このラストシーン、無神論者だったベンドリックスがサラの奇跡を知らされ、神は存在するかもしれない、と仄めかされるシーンに、これを短絡的に捉えて大方の評判はいまひとつだったようですが、僕は、無神論者ベンドリックスが、「認めざるを得ない」ともらして「神の存在」の方にかすかに揺れたシーンは、むしろ、地上から消え去ってしまった最愛の人サラの面影を、いつまでも抱いていたい、永遠に失ったとは信じたくない、という程度の彼の悲痛な気持ちの切実な反映程度に受け止めた場面でした。
それにしても、巧みに仕組まれた唐突にサラの命を奪うことになる「難病」は、論理の袋小路に迷い込んで紛糾しつくしたこの物語にとって、むしろ救いだったのかもしれないなあと思われてなりません。