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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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復讐するは我にあり

榎津厳は少年時代、目の前で軍人から暴力によって屈服させられる父親の姿を見て、この社会で生きていくことの偽善と屈辱の意味を知ります。

右の頬を打たれれば、さらに左の頬を差し出すという強権を前にしたその卑屈さの影で、従順を装う者たちの狡猾と卑劣を見抜いてしまう彼は、その負け犬の傲慢さに抑えがたい憤怒を煮えたぎらせて、やがて社会に対する憎悪と殺意を育て上げていくこととなりますが、その憎悪が、ただ父親ひとりに焦点が絞られていくラストで、この作品の最も重要なテーマが浮き彫りにされていきます。

日本国中を経巡り「善良な市民」を手当たり次第に殺しまくった榎津が、最初に殺さねばならなかった人物こそ、まさに父親だったのだと仄めかされる執拗さは、今村昌平がこれまで一貫して描き続けてきた、嫌悪をもって戦後日本を見据えたその否定的の視点と同じ種類のものであることに気付かされます。

この連続殺人鬼・榎津を語り尽くそうとする今村昌平の意図には、意外にも不思議な共感の語調があって驚かされるのです。

結果的に榎津は、ゆきずりの卑力な庶民を殺しまわることしかできませんでしたが、この映画を支配する全体的なトーンは、贖罪感よりもむしろ父親を殺し得なかったことに対する彼の無念さの方に重点が置かれていて、僕たちもまた榎津の殺人に共感し、加担させられてしまっているような違和感を感じ唖然としてしまうかもしれません。

榎津が向ける敵意と殺意が、「もっと向こう」を見据えながら、「今ここでしか」為し得ない閉塞状況にあることは、例えば、馴染んだ浜松の情婦が榎津の目の前で彼女の旦那に陵辱されても、彼はなんの手出しもできないまま傍観しているシーンとか、あるいは、最も憎悪のヤイバを向けるべき人間に対して、なんの為すすべもなく、むしろ身近の自分に好意的な隣人を殺して廻るという数々のシーンによっても明らかです。

どえらいエネルギーを抱えもち、日本中を騙し回り、荒らし回り、そして殺し回ったひとりの男を、今村昌平は、単にこの男の残忍さ、冷酷さ、狡猾さ、下劣さだけを感情移入を極力抑え卑劣な犯罪者の生き様を容赦なく描くことに徹します。

どす黒い感情の総てを抱え持ちながら、ただ「生きていく」方向にしか疾走するしかない人間のどうしようもない活力、悪とも正義とも区分けすることなどもとより不能な生命力というものの実体を暴こうとすることで彼の人間性に迫ろうとします。

思えば今村昌平ほど生命力を肯定的に描いた映像作家は日本映画史上稀有なのではないでしょうか。

日本の底辺社会にあって貧しさの中でその熱い欲望に焼かれながら、のたうち回り、そしてたとえ破滅の淵まで追い詰められようが、彼の映画には、あのお上品な自己嫌悪などという知識病に罹る人間などかつてひとりも登場したことがありませんでした。

どのような生き方をするにしろ、生きていくこと自体が善なのです。

どのような生い立ちの中で、どのように歪み捻じくれた生き方しかできなかったとしても、例えば榎津厳がそうであるように、その歪んで捻くれたまま、とにかくおのれを真っ直ぐに伸ばして生きていくことの人間の純粋さを、今村昌平は、そこに見据えていたのだと思います。

その絶対的に自分自身であろうとする生命力の炸裂が、あるいは、数々の犯罪や凶行に結び付いたとしても、それにしても人間とは、なんと執拗に自由であろうとする動物なのだろうか、という今村昌平の感慨をこの作品から聞かないわけにはいきません。

醜悪な父親への憎悪が、「人間」から榎津を遠く分け隔て、徹底的に孤立させ、しかし、そのたったひとりきりの異様な生存の「あかし」のような数々の凶行が、榎津を少しずつではあっても、人間らしくしたのかという悲しい皮肉を僕たちはこの作品のラストで見ることになるかもしれません。
by sentence2307 | 2004-11-14 15:00 | 今村昌平 | Comments(0)