ボウリング・フォー・コロンバイン ①
2004年 11月 14日
体形ではなく、性格が、です。
ずけずけものを言う。
誰かとうまくやろうなんて最初から考えてもいないような無遠慮な質問も、あえて辞さない。
相手が傷つくことなんて端から気にしてないし、そのために自分も傷ついて窮地に立とうが一向に構わない。
「紳士協定」って言葉があるの知らねえのかコノヤロー、そういうヤツとは付き合いたくないと思い、こちらが避けても、そんなことにはお構いなしに、相手はどんどん攻めて来る。
僕としては、散々嫌な思いをしているので、もっともっと書けるのですが、とにかくスゴイんです。
しかし、この「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見て、なんだかそいつのこと、許せる気持ちになりました。
このムーアに比べたら、まだまだ可愛い、こんな感じです。
普通の神経の持ち主では、ここまで突っ込んでアメリカの銃社会の根底にあるものを描き出せなかったのではないか、と実感しました。
狂信家チャールトン・ヘストンに対するには、やはり、狂信家マイケル・ムーアでなければ、ここまで核心に迫れなかっただろうと思います。
またまた、友人の話で恐縮なのですが(前のとは別人です)、繋がりのないいろんなことを、ただやたらめったらべらべらと取り留めなくしゃべり続けるヤツがいて、いまだかつて最後まで聞いてやったことがなかったのですが、この映画を見て反省しています。
ヤツの言うことをすべてを聞いたとしたら、もしかしたらトータルとして、ものすごいメッセージがあったのかもしれないな、と思えてきたのです。
ちょうど、この冗漫でいて、そしてシャープな「ボウリング・フォー・コロンバイン」のようにね。
この「ボウリング・フォー・コロンバイン」をめぐる(日本での)感想に接していると、二つの大きな特徴があると思いませんか。
ひとつは、銃偏重のアメリカ社会に対する「おお、怖い」的な反応(日本にあっては、これは「踏絵」でしかありません)、そして、もうひとつは、マイケル・ムーアという「スタンド・プレイ」男に対する嫌悪感です。
わざと顰蹙をかうような攻撃的なポーズを作っておいて、しかし、そのうらには、物欲しげな売名行為みたいな、つまり体制内的「求愛行為」なのではないかという非難です。
論理的には、前者の「踏絵」論はクリアできますが、自分が属する体制から、名を明かして当の体制自体を批判をすることの辛さ・難しさは、そんなにかっこいいものじゃないことくらい、ぬるま湯的体制にどっぷりと浸かっている僕たちにも理解できます。
でも、僕がこれから書こうとしていることは、「おお、怖い」と言って理解不能を装う日本人の無神経さと、孤立無援で闘うジャーナリスト・マイケル・ムーアに対する弁護です。
「ボウリング・フォー・コロンバイン」の印象を「冗漫でシャープな作品」といったり、マイケル・ムーアについて、繋がりのない支離滅裂なことをただべらべらと取り留めなく話し続ける友人に例えたりしたのは、あとで持ち上げるための揶揄みたいなつもりで書いたのですが、見当外れもいいところなのに気がつきました。
「ボウリング・フォー・コロンバイン」は、決していい加減な作品ではありません。
よく考え抜かれた緻密な構成で、チャールトン・ヘストンが象徴するターゲットを挑発し、苛立たせ、激怒させ、その動揺の間隙を突いて一気に追い詰めていくという手腕は、真摯な怒りによって貫かれていると思います。
ムーアのすっとぼけたナリが、この作品の息苦しいほどの緊張感から僕たちの眼を逸らさせ、「冗漫でシャープな作品」などという見当はずれの印象を抱かせたとしても、しかし、気がついてみれば、僕たちはいつの間にかアメリカの銃社会の深刻な重いテーマの核心のすぐそばまでマイケル・ムーアに引っ張り出されたことに気付かされるのです。
しかし、この傑出したドキュメンタリーの計算しつくされた緻密さは、コロンバイン高校乱射事件の本筋へと至るまでの数十分のプロローグの部分を見ただけでもよく分ります。
最初の場面は銀行、そこで預金の口座を新しく開くと銃がプレゼントされるという「なんだそりゃ」的なエピソードに「銀行で銃なんか渡してヤバクない?」というムーアのくすぐりが入り、クスッと笑わせた後で、すぐにムーア自身がミシガンで育った少年期に銃に夢中だったことが語られ、そして、全米ライフル協会のチャールトン・ヘストンが同郷であることともに、武装したミシガンの市民がつくっている薄気味悪い私設軍隊が紹介されます。
銃を携えた武装した薄気味悪い民間人が軍事訓練の合間のインタビューに答えて確信もって言い切ります。
ここでは銃というものが、幼い頃から常に身近にあって、「侵入者から自を守ること」と「自分を守るために侵入者を射殺すること」がなんの不思議もなく銃に結び付いており、「自分の命は自分で守る。自分らは人種差別主義者でも極右でもテロリストでも過激派でもない市民だ。アメリカ国民としての自覚を持ち、この責任を全うするために武装する。」
その主張が、やがて全米ライフル協会のチャールトン・ヘストンの演説へとオーバーラップしていきます。