ボウリング・フォー・コロンバイン ④
2004年 11月 14日
いや、もしかしたら、そちらの方が多いかもしれない。
マイケル・ムーアの売名行為に、なぜ高潔な映画が利用されねばならないのか、あんなことはテレビで十分だろうみたいな「良識」ある映画人の怒りの声です。
例えば、老残のチャールトン・ヘストンをあそこまでズケズケ・ねちねちと問い詰め散々にこき下ろす場面を見ていると、たとえ見るからに悪っぽい全米ライフル協会会長とはいえ、これまで数々のヘストンの映画に親しんできた映画ファンにとっては,ちょっと辛いものがありますし、「銃」問題にしても、むかしから西部劇が大好きだった者にとっては、なんだか唐突な感じがして何をいまさらという感じは拭えません。
なんといっても大昔からアメリカといえば、イコール「銃」のイメージだったのですから。
僕とても、なんの疑問も抱かず、子供の頃はおもちゃのガンベルトを腰にまいて早撃ちの練習に打ち込んだ者のひとりです。
ヘストンがどうあれ、ムーアのあの取材態度には,いやな感じを抱いた人も結構いたのではないかと思います。
生粋の映画人なら、TVマン・マイケル・ムーアの味方にはちょっとなりにくい心情的な違和感がきっとあると思います。
そして、その辺から、あの言葉、「なぜ、あんなものが『映画』でなければならないのか」という非難がでてきたのでしょう。
ムーアが、映画をただの売名行為の道具としか考えていない権力亡者としか見えない人には、許しがたい行為という憤りを抱いたかもしれません。
そこには高潔な映画の世界に土足で踏み込んできたようなテレビ業界人ムーアへの嫌悪と怒りが感じられます。
しかし、一方で、例えば、銃の乱射事件があるたびに、痛ましい犠牲者がでたその地にわざわざ赴き、「圧力に屈することなく、決して銃を手放さないぞ」と被害者の神経を逆撫でするようなスピーチを絶叫する全米ライフル協会のチャールトン・ヘストンの異常さを見せ付けられると、そのギャップを自分自身どう納得すればいいのか、ただただ戸惑うばかりです。
僕たちの固定観念や常識を突き崩していくマイケル・ムーアのアプローチの方法が極めて素直で正攻法だと分かる格好の場面だと思いました。
僕たちが「ボウリング・フォー・コロンバイン」から受ける感動が、その素直さによるものであることは言うまでもありません。
しかし、映画はそれほど高潔か、映画人は高潔なのか、と問うムーアは、さりげなく社会福祉事業を食い物にし貧乏人の上前をはねるダーティなDJディック・クラークにあえてアポなし取材を敢行し、取材拒否の醜態をキャメラに収めるべく見え見えの挑発もしていました。