世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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2009年 03月 21日 ( 1 )

面影

東宝争議の記録を読んでいると、必ず出てくる記事があります。

それは、この昭和23年という年に東宝が封切りした映画が、争議の影響のために、結局たった4本しか封切ることができなかったという記事です。

その映画というのは、関川秀雄監督の「第二の人生」(2月3日封切)、五所平之助監督の「面影」(4月43日封切)、黒澤明監督の「酔いどれ天使」(4月26日封切)、豊田四郎監督の「わが愛は山の彼方に」(5月8日封切)ですが、黒澤明監督の「酔いどれ天使」は、見る機会が多く、テレビで放映されるたびに見ているので、きっと年に1回くらいは必ず見ているという感じです。

豊田四郎監督の「わが愛は山の彼方に」は、フィルムセンターの豊田四郎監督の特集上映のときと、日本映画専門チャンネルの特集放映の際に見ていますから、少なくとも二度は見ている勘定になります。

確か池部良が医師の役を演じていて、無医村に赴任して村の人間関係に巻き込まれるという話だったと思います。

この作品で、特に印象に残っているのは、看護婦を演じた中北千枝子が、いままで見たこともないような、愛欲に苦しむ女性を抑えた演技でくるおしく演じていたことでした。

それまでの僕の中北千枝子の印象は、世間話を愚痴る近所のおばさん役(成瀬作品の影響大です)程度の印象だったので、「女」を演じたその生々しい演技には目の覚めるような思いを抱いたと同時に、豊田監督の力量のほどを見せ付けられたような気がしたものでした。

「素晴らしき日曜日」で見せた善良さとはまた違う中北千枝子という女優の一面を鮮烈に感じた作品でした。

この争議の年、昭和23年に東宝が4本しか作らなかったとしても、例えば別の年に200本作った場合の作品自体の出来具合の違いがどこかにあるのか、と問われれば、その答えに窮することは理解しているのですが(あえて言えば「粗製濫造」という理由はあるかもしれません)、しかし、東宝争議の記事を読み、「この年は、4本しか作られなかった」というクダリに出会うたびに、まだ見る機会のない関川秀雄監督の「第二の人生」と、五所平之助監督の「面影」という2本の作品をますます意識しないわけにはいきません。

意識するたびに、仕方なく手近の資料を引っくり返してこの2作品についてチョコチョコ調べることで気を紛らわしてきました。

ある解説書には、これらの作品について、要領よくこんなふうに紹介されています。

関川秀雄監督の「第二の人生」については、「敗戦直後の社会問題のひとつとして当時クロース・アップされた戦災孤児の問題に関川秀雄監督が本格的に取り組んだ作品」とし、さらに、「作者の深い現実描写とヒューマンな視点を通して日本への批判を行っている点が注目される」と締めくくられていました。

高揚した文章の調子からすると、これだけでも随分な意欲作ということが察しられますし、映画評論家・佐藤忠男の解説には、ニコライ・エックの「人生案内」を引き合いに出していました。

これってほとんど絶賛じゃないですか。

その同じ文章のなかで、さらに佐藤忠男は「面影」については、「完全にブルジョア的な恋愛心理劇」と書いています。

これは決して「左翼的でないから駄目な作品だ」と貶しているわけではありません。

むしろ、この一文によって、大争議という混乱した時期に、こうした鷹揚な「ブルジョア的な恋愛心理劇」を撮った五所監督の、時代に右往左往しない人間性を述べたかったのだと思います。

この相反するふたつの解説を前にして、僕の気持としては、五所平之助監督の「面影」に方に気持が動いてしまうのは、時代に囚われない自由さを持った五所監督の生き方への共感からすれば、必然の成り行きだったかも知れません。

そして、最近やっと、積年の夢だったその「面影」を見ることが出来ました。

まずは、その迫力ある映像に魅了されました。

それはきっと映画にカツエタ人々の切迫した気持が撮らせたに違いない切実な映像の力だと思いました。

過酷な人間関係の苦悩に歪む浜田百合子や龍崎一郎や菅井一郎の表情を、なんの躊躇も、なんの衒いもなく、真正面から描写するその率直さには驚かされます。

僕が知り得たこの映画の紹介文は、実に簡潔でした。

「恩師の妻を愛してしまった男の物語」とか、もっと大雑把なのは「三角関係の行く末を描いたラブロマンス」なんていうのもありました。

しかし、この映画が描いているものが、単なる「三角関係」の物語なのでしょうか。

男(龍崎一郎が演じています)は、初対面の恩師の妻(浜田百合子)に亡き妻の面影を見て動揺します。

それは、彼が、失った妻を深く愛していたこと、そして、いまでも忘れられないでいる苦悩を示していて、もし恩師の妻が、亡き妻に生き写しでなければ、男が心を動かされることもなかったはずです。

そして男は、恩師の妻に、いまの生活に後悔はないかと訊きます。

この場面を見た当初、幸福に暮らしている彼女に対して、そんな質問は、随分と余計なことだろうと思いました。

しかし、男のその「質問」は、最愛の妻を失い、妻との愛の記憶と、その喪失に苦しむ彼にとって、妻の「面影」に対して訊くには、当然すぎる問いだと確信するようになりました。

老教授との形ばかりの生活の中に、どのような愛の真実があるのだと、まるで詰問するように問い掛けます。

それは、自分と妻とが共に過ごした愛の記憶の言わせている自分自身に向けられた問いにすぎないものだったかもしれません。

しかし、恩師の妻にとってその問いは切実で、改めて現在の、若さと引き換えにしたような安定した生活に迷いを起こさせます。

「本当にこれでよかったのだろうか」と、老教授との生活を彼女は、取替えしのつかない過ちのように苦しみ悶えます。

老教授も、肉体的に彼女を満足させてあげられないことに自責の念を抱いていることが明かされます。

「三角関係」という言葉からニュアンスされるものが、自らの欲望に忠実に、相手を我がものにしようと意図する過激でアクティブな摩擦と葛藤なら、この「面影」に描かれている愛憎の様相は、むしろ対極に位置する人間模様に思えました。

男は亡き妻の面影に動揺し、そして傷つき、恩師の妻も、男が傷ついた分だけの苦しみを受け、そして彼女が受けた痛みが、すべて老教授に起因しているかのような相克の地獄絵のなかにこの三人はのた打ち回っています。

そして、この三人は、もし相手を許せば、同じだけ傷つけることになることも十分に察しています。

これ以上、平穏な家庭に波風を起こさないように静かに立ち去る男と、かすかな気まずさを抱えた夫婦を暗示的に描いているこのラストは、しかし修復不能な事態の悪化は、実はもっともっと以前から二人の間にあったのではないかと、ふと思わせるものがありました。

(1948東宝)製作・井手俊郎、監督・五所平之助、脚本・館岡謙之助、原案・五所平之助、撮影・木塚誠一、音楽・高木東六、美術・河東安英、録音・空閑昌敏、照明・岸田九一郎、
出演・出演龍崎一郎、菅井一郎、浜田百合子、若山セツコ、笠智衆、赤木蘭子、大久保進、出雲八重子、望月伸光
1948.04.04 10巻 2,630m 96分 白黒
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by sentence2307 | 2009-03-21 16:41 | 五所平之助 | Comments(35)