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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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2009年 04月 29日 ( 1 )

怒りの街

現代から見ると、成瀬巳喜男作品のタイトルのなかで、突出した違和感を覚える作品といえば、1950年製作の「怒りの街」ではないでしょうか。

こんなにストレートなタイトルは、後にも先にも成瀬巳喜男の作品群のなかでは極めて珍しいのではないかと思います。

この堂々たるタイトルの響きからすると、つい山本薩夫監督の作品や今井正監督の作品の戦闘的なイメージを抱いてしまうのも無理ないわけですから、なおさらその落差に違和感を覚えたのは仕方ありません。

実際僕もそうでした。

そこで、タイトルの頭に「怒り」などという言葉の付く映画がどれくらいあるのか、つい調べてみたくなりました、寄り道ですが。

手近にあった資料から拾い出してると、ざっとこんな感じでしょうか。

今井正監督「怒りの海」1944東宝砧、
久松静司監督「怒れ三平」1953大映、
小沢茂弘監督「怒れ!力道山」1956東映、
久松静司監督「怒りの孤島」1958松竹、
長谷和夫監督「怒りの男、続青雲やくざ」1965松竹、

これらの意気のいいアクティブな諸作品と、成瀬巳喜男監督の物静かな作風がマッチするわけがないという確信はあるのですが、しかし、そんなことを検証するために、映画を「観る」ということになれば、ちょっと躊躇せざるを得ません。

映画を見るという素朴な楽しみが歪められ、変な先入観でガンジガラメに縛り付けられて、義務のように強制的に見せられるみたいなのはゴメンです、決していい気持ちはしません。

しかも、実際に「怒りの街」を見るずっと以前に、多くの評者たちのあまり芳しくない文章を散々読まされてきているだけに、気持ち的に一層の重荷になっていました。

批評のほとんどが
「(成瀬巳喜男の)類型的でモタモタした人物描写が、時勢の急激な変化についていけず、結果的に戦後風俗のけばけばしさへの追随に終わっただけという印象で、結果、なおさら成瀬巳喜男の不振を増幅させて、ほとんど過去の人扱いされかけていた。」
といったものだったのですから。

こんなふうな先入観を持たされて映画を見るというのは、実にシンドイ作業なので、この作品を見るのを先送りにしてきたというのは、たぶん仕方のなかったことだったと思います。

そして、つい最近やっと、どうにかモチベーションを高めて、この映画を見ることができました。

どういうふうにモチベーションを高めたかというと、この映画に使われた丹羽文雄の小説が「光クラブ事件」に大きく影響を受けた小説だということを知ったからでした。

東大生が金融業で成功するが、やがて行き詰まって自殺するという戦争直後の目的意識を失った青年たちのアプレゲールという時代的風潮を象徴するような超有名な事件です。

むかし、三島由紀夫の「青の時代」を読んで感動したことを思い出しもしました(この事件をモデルにした小説は、ほかに高木彬光「白昼の死角」、北原武夫「悪の華」などがあります。)。

それまでは確固たるものだった価値観が、敗戦によって脆くも崩壊するのを目の当たりにした青年たちは、戦時下の「純粋な死」をはじめ、総てがただの嘘っぱちにすぎなかったことを知って深く傷つきます。

すべてを失ってしまった彼らは、逆に、この愚劣な社会を生きるためには、有能な者・強い者だけが成功を約束され、そのためのすべての行為が許される戦後を生き始めます。

この選民意識(エリートには、すべてのことが許される)の奥底には、きっと、時代に裏切られた若者たちの虚脱と悲しみの憤りが潜んでいます。

この映画のタイトル「怒りの街」には、そういう意味が込められているのかもしれないなと勝手に解釈しながら、果たしてこの成瀬作品に、その辺りの「時代の苛立ち」みたいなものが描き切れていただろうかをという思いで見てみました。

しかし、この映画に登場する誰もが、どんどんエスカレートしていく須藤の非行を理解不能という眼差しで見つめているだけです。

誘惑して騙して棄てた娘の父親の差し金で、ヤクザに顔を切られた須藤が、「今度は、この傷を売り物にしてやる。」と嘯くラストの場面にそれは端的に示されています。

この男の真意を測りかね、また、どういう理由でこのようなことを言うのか、どう演出したらいいのか、混乱の極にいる成瀬巳喜男の迷いをはっきりと感じることができます。

それは、確かに成瀬巳喜男の時代認識の限界だったかもしれない。

しかし、そのような時代に翻弄されたゲスな心情を理解できないことが、果たして映画監督の限界なのか、僕にはどうしても納得できませんでした。

「限界」を、あたかも衰弱や時代遅れの迷妄のようにとらえる意味での「限界」なら、それは違うと思いました。

小津安二郎の描いた閉ざされたササヤカな世界は、それこそ限界的な世界だったといえると思うし、ひたすら「人間」にこだわり、そして囚われた黒澤明にしたところで、その極端な映画の世界は、いわば限界そのものだったといえるかもしれないではないか、という気持ちです。

この「怒りの街」もまた、成瀬巳喜男のスランプ時代の一作として認識されているのだとしたら、この作品も時代に対して否定的に(理解不能という仕方で)反応した作品であることをしっかりと認識しなければいけないのではないかという気がしてきました。

それらのどれもがすべて「成瀬巳喜男の世界」を形作っている重要な要素としての作品なのだと思いはじめてきました。

(1950東宝・田中プロ)製作・田中友幸、監督脚色・成瀬巳喜男、原作・丹羽文雄、脚色・西亀元貞、撮影・玉井正夫、照明・島百味、録音・三上長七郎、美術・江坂実、音楽・飯田信夫、
出演・宇野重吉、原保美、東山千栄子、村瀬幸子、若山セツ子、浜田百合子、久我美子、木匠久美子、志村喬、岸輝子、柳谷寛、木村功、菅井一郎、立花満枝
1950.05.14 9巻 2,878m 白黒
by sentence2307 | 2009-04-29 15:52 | 成瀬巳喜男 | Comments(2360)