人気ブログランキング |

世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

2009年 06月 06日 ( 1 )

小原庄助さん

五所平之助監督の「面影」を見たとき、この作品が、東宝争議の影響下の昭和23年度に撮られた(わずか!)4本の東宝作品のうちの1本であることを始めて知りました(他の3本というのは、関川秀雄監督の「第二の人生」、黒澤明監督の「酔いどれ天使」、豊田四郎監督の「わが愛は山の彼方に」です)。

「面影」は、人妻と夫と、その弟子との、いわば三角関係に懊悩する「よろめきドラマ」みたいなものなのですが、そこに映し出される映像の重々しさは、十分な迫力があって当時のリアルな切迫感や焦燥感を感じることができました。

しかし、このとき同時に疑問に思ったことがあります、製作を再開した東宝が、長い期間の争議による荒廃した撮影所のダメージを引き摺っていたとしても、あの東宝ともあろう会社が、たった4本の作品しか生み出すことができなかったのかという思いと、そうした状況下にあってどうやって全国に提携していた各映画館への配給を凌いだのかという素朴な疑問です。

そんなふうな疑問に捉われていたとき、東宝が自社作品の不足をどう補ったかという記述を、たまたま田中純一郎著「日本映画発達史・Ⅲ」の中に見つけることができました。

そこには、こんなふうに書かれていました。

「東宝の配給部は、自社作品の不足を『戦国群盗伝』等の再版ものや、新東宝映画や、東宝と吉本の提携作品『タヌキ紳士登場』、日映作品『幸運の椅子』、または日活の旧作品『瞼の母』その他、外国映画『外人部隊』などでまかない、別に新演伎座作品『小判鮫 前編』、吉本・大泉提携作品『肉体の門』、蜂の巣映画の『蜂の巣の子供たち』、えくらん社の『明日は日本晴れ』、マキノ映画の『暗黒街の天使』、シネ・アート・サークルの『幽霊暁に死す』、フランス映画『美女と野獣』『カルメン』『悪魔が夜来る』『六人の最後の者』『狙われた男』を配給し、かろうじて系統館の保持につとめた。」

なるほど、これでやっと事情が飲み込めました。

他社から映画を買い付けたり、あるいは輸入映画を映画館に掛けることで、どうにか急場を凌いだというわけなのです。

それから、東宝が自社で映画製作ができなくなった穴を埋めるために作られた会社というのが、新東宝という会社だったのです。

そしてこの時期、つまり昭和23年度と24年度には、その新東宝において、それぞれ20本と34本の作品を製作したと記録には書かれています。

その間の事情についても「日本映画発達史・Ⅲ」は触れており、こんなふうに記述されていました。

「(新東宝をてこ入れするために)新社長に就任した佐生正三郎は、製作の経験は浅いものの、数理の神経は敏感だったので、新東宝の映画制作に独特の計数割り出しを実行した。
それは、製作の一切をプロデューサー制にして、その利益配分をつぎの方式によることにした。
すなわち、プロデューサーは、あらかじめ会社と契約した見積り額で映画を製作し、会社はこれを東宝の配給網にのせ、全国配給収入から、宣伝費、プリント費(約550万円)を差し引いた残りを、東宝25、新東宝75の割合で分配し、新東宝は75の取得分から、先の製作費を差し引き、残った利益金のうち、10%を会社側の利益とし、残りの90%を、プロデューサー30%、従業員組合40%、会社経費30%の割合で配分するものである。
だから、プロデューサーや従業員が、製作費の冗費を防いで、合理的に製作すれば、その利益は自分たちにも按分されるという仕組みである。・・・昭和23年度の20本、24年度の34本の新東宝作品を通じて、その多くは興行価値に重点をおき、いわゆるベストテンに入るような優秀作は、わずかに『生きている画像』(千葉泰樹監督)、『忘れられた子ら』(稲垣浩監督)、『野良犬』(黒澤明監督)、『小原庄助さん』(清水宏監督)の4本にすぎなかったのは、佐生プランの特長でもあり、また欠点でもあった。」

こういう興行価値に重点を置いたシビアな製作環境のなかで撮られた新東宝の4本の作品が、上記の東宝の4作品と、不思議な対をなしていることがとても面白いと思いました。

こうした対照がなにものかを暗示しているなどと無理矢理に理屈をこじつけることに意味があるとは思えませんが、やはり、こじつけたくなる誘惑は感じます。

ただ「感じ」はするものの、この作品群のなかの清水宏監督の「小原庄助さん」だけは、あまりにも特異な印象なので、たぶん、、この「小原庄助さん」がある限り、4作品を無理やり結びつけたり、共通するなにものかを見つけようとする試みは、多分失敗するだろうなという変な確信があります。

というのは、「小原庄助さん」という作品だけは、あきらかに他の3作品とは、まったく別の方向を向いている陰影のある作品だからかもしれません。

あえていえば、それは「時代」から背を向けている背日性の映画だからでしょうか。

以前ある本でこんな記述を読んだ記憶があります。

「岸松雄の脚本は、清水宏の長所を十分に生かしており、左平太(小原庄助さん)の設定は、監督清水宏その人が濃密に投影されていて、その役を剣戟スター大河内伝次郎が卓越した演技によって演じていた。」

読み流してしまえば、なんでもないこの記述に、僕はちょっと引っかかるものがありました。

この「小原庄助さん」のイメージが、そのまま清水宏監督のイメージと重なるというのは、いったいどういう意味なのだろうかと。

ここに描かれている旧家の主人小原庄助さんが、人のいい善良な単なる好々爺でないことだけは、明らかです。

この作品では、現在の凋落を、若い頃からの庄助さんの放蕩が招いたのだと、老いた下女の言葉によって暗示されていますが、土地持ちの旧家が、旦那の「朝寝朝酒朝湯」程度の気ままな生活で傾くなどちょっと考えにくいのではないかと思います。

やはりここは、佐藤忠男が指摘しているように、農地解放により田地田畑を奪われたことによって現在の窮状がもたらされたと考えた方が自然なような気がします。

先祖から受け継いだ田地田畑を失った没落旧家の旦那・小原庄助さんは、そのような窮状にあっても、村人からの頼まれ事があれば、相当な散財を余儀なくしなければならないことを知りながら、嫌な顔ひとつ見せずに引き受けます。

まあその前に、と小原庄助さんが皆の衆に酒を勧めるのも、相談事を持ち込まれた際の一連の習慣みたいになっており、村人たちは、当然のような顔をしてご相伴にあずかっています。

村長選挙では、立候補した親友の対立候補であるにもかかわらず、そして、その御仁があまり良からぬ人物であることも知りながら、浮世の義理で応援演説をしなければならなくなり、結果的に親友の住職を落選させてしまいます。

ここで語られる一連のエピソードが示唆しているものは、旧家の旦那が相当な窮状の只中にありながら、その窮状を十分に認識している村人たちもまた、まるでそのような窮状など知らぬ振りで、あいかわらず旧家の旦那にタカリ、無心し、幾らかでもセシメようというサモシイ根性をまるだしにして寄りかかってくるのを、旦那・小原庄助さんもまた、彼らにいいように利用されていることを十分に認識したうえで、村人たちに尽くすことが、まるで勤めでもあるかのように、ひそかに家財を売り払ってまで彼らのために散財をします。

とはいえ、そうすることで小原庄助さんが、そのことの見返りを期待しているかというと、そうではありません。

旧家の財産(映画が語っている「現在」においては、既に財産は、ほとんどありません)を骨までしゃぶり尽くそうとする村人たちに、トコトン応えようとする歪んだ人間関係の泥沼に首まで漬かり込んだような没落旧家の旦那・小原庄助さんという人物のイメージのどこに、清水宏監督と重なるものがあるのだろうかというのが僕の疑問でした。

象徴的な場面は、村長選挙のシーンにあるかもしれません。

浮世の義理から対立候補の応援演説をしたために、親友の住職を落選させてしまったあと、ふたりの関係になんとなくシコリが残ります。

それは、相手方の選挙違反によって繰上げ当選を果たした後になっても、特に変化のないことを見ても、そのシコリが「落選」によってもたらされたものではなく、もっと根本的なこと、庄助さんの他人との距離の取り方の問題にかかわることのような気がします。

それをいえば、家計が逼迫し、徐々に疎遠になってしまう村人との関係についても、小原庄助さんが、亀裂の入ったそれら村人や親友との関係の修復のために、なんらかの働き掛けをしたらしい様子はひとつも描かれていません。

それは、小原庄助さんが村人たちに尽くすことになんの見返りも求めなかったことと、共通するものがあるような気がします。

彼の行為を突き動かす動機には、敵意もなければ善意もない、露骨に裏切られ、また結果的に自分から裏切ることになってしまったようなときにも、逆上したり激怒したり、弁解したり謝罪することもしません。

彼はただ目の前に提示された為さねばならないことを、ただ義務を果たすようにして対処したにすぎないのだと思います。

それがその土地で生きてきた彼の人間関係観だったのだと思います。

この土地で暮らす限り、旧家の重荷を背負った小原庄助さんは、村民たちの視線に晒されながら、旧家の旦那として「そうし続けなければならなかった」のでしょう。

そうだとすれば、あの「左平太(小原庄助さん)の設定には、監督清水宏その人が濃密に投影されている」という解説は、随分と挑発的な提言といわねばなりません。

磊落で鷹揚な旦那とみせながら、この世を生きた清水宏監督のその内面には、見通すことのできない心の闇を抱えていたのだと示唆するこの一文によって、少しは監督清水宏という人間像に近づくことができたといえるのかもしれません。

(1949新東宝=東宝)製作・岸松雄、製作主任・金巻博司、監督脚本・清水宏、脚本・岸松雄、撮影・鈴木博、音楽・古関裕而、編集・空閑昌敏、美術・下河原友雄、照明・石井長四郎、録音・中井喜八郎、助監督・内川清一郎、作詞・西條八十、作曲・古関裕而、唄・赤坂小梅、伊藤久男、額田六郎、久保幸江「懐かしの乙女」、唄・霧島昇、奈良光枝、現地協力・裾野中・湯山家
出演・大河内傳次郎、風見章子、田中春男、宮川玲子、清川虹子、飯田蝶子、清川荘司、杉寛、鳥羽陽之助、日守新一、鮎川浩、川部守一、石川冷、尾上桃華、坪井哲、高松政雄、倉橋享、今清水甚二、高村洋三、佐川混、加藤欣子、徳大寺君枝、赤坂小梅
1949.11.08 9巻 2,657m 97分 白黒
by sentence2307 | 2009-06-06 13:59 | 清水宏 | Comments(836)