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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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2019年 08月 14日 ( 1 )

8月10日の夕刊の一面に、「水の都へ、清きお濠に」という見出しで、皇居の外堀と内堀の汚染が著しいので、玉川上水に接続して抜本的に浄化しようという案が報じられていました。

記事によると現在のお濠は下水道とかにもつながっていて、夏場はとくに汚染が激しく藻や悪臭が発生するそうなので、玉川上水とつないで循環させ、浄化してお濠をきれいにしようという案だそうです。

この唐突な見出しを見た当初は、何十年もほったらかしにしておいて、「なにをいまさら」という気持ちしかありませんでしたが、よく読むと、それもこれも2020年・東京オリンピックをめどにして、それ以後に具体化するということです、そうと分かると「はは~ん、なるほどね」とようやく納得することができました。

まあ、こういうことも婉曲的にはですが、「オリンピック効果」のひとつといえるわけで、当然「是とすべきもの」と思いますが、かつて猥雑な東京を国家的な突貫工事によってまたたくまに高速道路網を完成させ、東海道新幹線も走らせ、驚異的な速さでカラーテレビを普及させた(これについては退位したさきの天皇のご成婚時が契機だったという説もあります)あの1964年のオリンピックのときと比べると、もはや施設やインフラ、そしてソフトの面でも完成されてしまっている観のあるいまの東京では、最早することなどごく限られてしまい、為すべきものも尽きていて、仮にもしあるとしてもせいぜい「補修」とか「修繕」くらいしか考えられないので、この「玉川上水連結」など、施策担当者が「仕事はないか」と必死に探したあげくに、やっとひねり出した「妙案」だったのかも、などと感心しながら、その一方で、それにしてもずいぶんと突飛なアイデアだなと思わずクスッと笑ってしまったほどでした。

だって、お堀の水など汚れている方がむしろ重厚なくらいで風格もあっていいじゃないかと思うのですが、しかし、考えてみればあの満開の桜の散る季節、花びらが滂沱と滝のように降り注ぐ千鳥が淵の荘厳な光景を思い起こし、毎年のおびただしい落花が何年にもわたって堆積し、そのままに放置されているわけで、積り積もった堀の底は手の施しようもないくらいのヘドロの層になっていることも想像され、やはりここは玉川上水を回流させるという大鉈を振るう施策というも必要なことなのかもしれないと思えてきました。などと記事を読みながら、一人このような妄想にふけりながら、また別の思いにも捉われていました。

「玉川上水」といえば、すぐに連想するのは、そこで情死をとげた太宰治のことです。

つい最近の映画でも、たしか「人間失格」とか「ヴィヨンの妻」が映画化されて、太宰治の根強い人気を再認識させられた印象が鮮明に残っています、

しかし、自分としては、どうしてもイマイチ好きになれない作家のひとりです。

自らの「不具」(社会的不適応もそのひとつですが)をことさらに誇張し、見せびらかし、売り物にして「オレはこんなにダメな人間なのだ」と同情を誘いながら、「でも、こんなオレのことがアンタは好きなんだろう? な?」みたいな、他人に媚びへつらうような取り入り方にどうしても嫌悪が先立ち、その開き直った傲慢な卑屈さには、どうにも耐えがたいものがありました。

たとえば、小説「晩年」のなか、最初の「葉」の冒頭部分などは、本気なんだか、それとも傷心をよそおって読者の感心を煽るもの惜しげなテクニックだかなんだか知りませんが、どちらにしても、とても嫌なものを感じてしまいます。

こんな感じです。

《死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が折り込められていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。》(「晩年」の「葉」冒頭部分)

こんな感じのものなら、まだまだあります。

小説「姥捨」の冒頭、小説の書き出しとしては、読者の意表をつく「そのとき、」という前後になにひとつ脈絡もなく突飛な言葉で不意に始められる(奇を衒うという意味で)とても有名な冒頭部分です。

《そのとき、(原文では、この言葉を際立たせるために、すぐに改行されています)
「いいの。あたしは、きちんと始末いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう。」
変わった声で呟いたので、
「それはいけない。お前の覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでいくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにはゆかない。」などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。
「死のうか。一緒に死のう。神様だって許してくれる。」
ふたり、厳粛に身支度をはじめた。》(「姥捨」の冒頭部分)

こんなふうに書いていたら、むかし、ある酒の席で、話の勢いの成り行きから、その「太宰嫌い」を披露しなければならない局面に立たされたことを思い出しました。

そのとき、たまたま隣に座っていたごく若い神経質そうな文学少女に猛烈に反発され、執拗に食って掛かられたことがありました。《あなたがいまウダウダ非難した「それ」こそが、太宰治の人間的な魅力なのだと》

しかし、どのようになじられても、自分としては太宰の人格的な歪みについてはどうしても受け入れられず、とうてい理解できるものではないことを繰り返すしかありませんでしたが。

まあ、そういうことがあったあとでも懲りずに太宰作品は、折りに触れて少しずつ努めて読むようにしていますが、やはり、どうしても、そして、いつまでたっても自分には太宰治(人間と作品)に馴染めないということが、ますますはっきりしただけでした、それくらいが努力した読書の成果というか、収穫といえば収穫ということになります、いわば「不毛な収穫」だったわけですが、いざこうして「不毛な収穫」などと文字にしてみると「収穫」と「不毛」とは、いかにも矛盾し相反する言葉の組み合わせであることが、いまさらながら奇妙な感じです。しかし、これが自分の実感でした。

自分の「嫌悪」は、太宰の世の中に対する甘ったれた姿勢もそうですが(こうストレートにいってしまうと、またまた、揚げ足をとられて非難されそうですが)、むしろ、文体とか語り口のスタイルの方にこそあったのではないかと。そもそも太宰治に馴染めないのは、どうもあの独特の「おんな言葉」で語られる軟弱な独白口調(女性独白体小説)にあるのだと、あるとき、天啓のように気がついたのです、この「気がついた」というのは、ごくごく最近のことで(自分は硬質な文体を好むので、とくにそう感じたのかもしれません)ちょっとそのあたりのイキサツを書いてみようと思います。

自分のいつもの散歩コースの重要な一部に駅前の書店をのぞくというのがあります。

住んでいるところは、なにせものすごい田舎です、そこにある唯一の書店なので(一度つぶれて、いまの店は代替わりした二代目ということになります)、毎日のぞいてみるといっても昨日と今日の品揃えに特別の変化があるかもしれないという懸念などいささかも必要ありませんが、自分の日常的な散歩の定例コースにあたるので、どうしても立ち寄ってしまうという事情があるくらいです。

そして、のぞく売り場というのも、おもに「小説」と「映画」のところと限られているので手間もかかりません。「映画関係」のコーナーは、スペースからいえば普通です、新宿・紀伊国屋書店の売り場(別館の方)と比べても、三分の二くらいは確保されているのではないかという、それなりの扱いになっていますが、しかし、「品揃えのセンス」からいえば比べものにならないくらいの格差を感じます。そりゃあ、あなた、それは単に購買客の資質を反映しているにすぎないよと言われてしまえば、返す言葉もありません。

新宿・紀伊国屋書店の「映画本」売り場で斬新な選択の魅力的な書籍に囲まれながら、それを片っ端から読みとばし世界映画史を跳梁しつくすという快楽の時間は1~2時間くらいではとうてい満足できるものではありません、3~4時間は優に必要で、実際もそうさせてもらっていて、それこそザラにあることです(立ち読みの分際でこんなことを言うのも気が引けますが、それでも時間は足りません)、それに比べてわが町の書店の「映画本」売り場などというものは、ものの3分もあれば十分通過することが可能な腐界にすぎません。なんでこんなにも韓国人俳優やタレントの愚劣な本を律儀に揃えなきゃいけないのだ、いったいこんな愚劣なものを誰が読むんだと一瞬辺りを見回して些か憤り、この見事に低劣な品揃えに心底うんざりして店をあとにしながらも、しかし、「明日」もまたここに立ち寄ることになるわが囚われの哀れな習慣が、なんだかとても可哀想になってきました。ほんとにもう、という感じです。

そんな感じで、この週末、いつもの散歩の定例コースをたどって書店に入りました。

そして、いつものように「小説」の売り場をゆっくり眺めながら歩いていたとき、一冊のオレンジ色の装丁の本が目に止まりました。最近ではついぞ見かけなかった本なので、思わず手に取りました。

背表紙には、大きな活字で「だれも知らぬ」と書かれています。そして、さらにその上に小さな活字で、「太宰治・女性小説セレクション」とあります。いったいこりゃあなんなんだと、ペラペラと頁をめくると、目次には、見知った太宰治の小説のタイトルが羅列されています。さらに本文をパラパラ走り読みすると、どうも収録されている作品の多くは、いままで自分が敬遠してきたあの「おんな言葉」で書かれた女々しい小説が、かなりの割合で収録されている印象です。なるほど、だから「太宰治・女性小説セレクション」なんだなと。

★井原あや編・太宰治女性小説セレクション「だれも知らぬ」(春陽堂書店)2019.7.10.1刷、317頁、2700円

生誕110年とあるこの本は、どうも太宰治の旧作を集めたアンソロジーのようですね。まあ、太宰治亡き今となっては、どの作品も旧作には違いありません。

出版社が、出版物のアイデアに枯渇すると、苦肉の策として名前の通った作家の旧作を集めてアンソロジーを出すということは、よくあることだと耳にします。それなりの売上げがあり、安定的に投入した資金の回収がみこめるからだと思いますが、それにしても、なんでいまさら太宰治なんだと訝しく思いながら、巻末の編者(井原あや)の「解説」を読んだとき、自分の抱いていた積年の疑問が一気に氷解したのでした。

この本に収録されている小説と、掲載された雑誌名・掲載年月号、そして太宰独特の意表をつき、既知の場所から突然動いているストーリーを始めるように読者の関心をダイレクトに掴み取る見事な書き出しを添えて以下に書いてみますね。


☆雌に就いて「若草」1936年5月号《これは後述します》
☆喝采「若草」1936年10月号《書きたくないことだけを、しのんで書き、困難と思はれたる形式だけを、選んで創り、・・・》
☆あさましきもの「若草」1937年3月号《こんな話を聞いた。たばこ屋の娘で、小さく、愛くるしいのがゐた。》
☆燈籠「若草」1937年10月号《言へば言ふほど、人は私を信じて呉れません。逢ふひと、逢ふひと、みんな私を警戒いたします。ただ、なつかしく、顔を見たくて訪ねていつても、なにしに来たといふやうな目つきでもつて迎へて呉れます。たまらない思ひでございます。》
☆I can speak「若草」1939年2月号《くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪へか。わかさ、かくて、日に虫食はれゆき、仕合せも、陋巷の内に、見つけし、となむ。》
☆葉桜と魔笛「若草」1939年6月号《桜が散って、このやうに葉桜のころになれば、私は、きつと、思ひ出します。と、その老夫人は物語る。いまから三十五年まへ・・・》
☆ア、秋「若草」1939年10月号《本職の詩人ともなれば、いつどんな注文があるか、わからないから、常に詩材の準備をして置くのである。》
☆おしゃれ童子「婦人画報」1939年11月号《子供のころから、お洒落のやうでありました。》
☆美しい兄たち「婦人画報」1940年1月号《父がなくなったときは、長兄は大学を出たばかりの二十五歳、次兄は二十三歳、三男は二十歳、私が十四歳でありました。》
老ハイデルベルヒ「婦人画報」1940年3月号《八年前のことでありました。当時、私は極めて懶惰な帝国大学生でありました。一夏を、東海道三島の宿で過ごしたことがあります。》
☆誰も知らぬ「若草」1940年4月号《誰も知ってはいないのですが、と四十一歳の安井夫人は少し笑って物語る、可笑しなことがございました。私が二十三歳のハルのことでありますから、もう、かれこれ二十年も昔の話でございます。》
☆乞食学生「若草」1940年7月号~12月号《一つの作品を、ひどく恥かしく思ひながらも、この世の中に生きていく義務として、雑誌社に送つてしまつた後の、作家の苦悶に就いては、聡明な諸君にも、あまり、おわかりになつてゐない筈である。》
☆ろまん燈籠「婦人画報」1940年12月号~1941年6月号《八年まへに亡くなった、あの有名な洋画の大家、入江新之助氏の遺家族は皆すこし変つてゐるやうである。》
☆令嬢アユ「新女苑」1941年6月号《佐野君は、私の友人である。私のはうが佐野君より十一も年上なのであるが、それでも友人である。》
☆恥「婦人画報」1942年1月号《菊子さん、恥をかいちやつたわよ。ひどい恥をかきました。顔から火が出る、などの形容はなまぬるい。草原をころげ廻つて、わあつと叫びたい、と言つても未だ足りない。》
☆十二月八日「婦人公論」1942年2月号《けふの日記は特別に、ていねいに書いて置きませう。昭和十六年の十二月八日には日本のまづしい家庭の主婦は、どんな一日を送つたか、ちよつと書いて置きませう。もう百年ほど経つて日本が紀元二千七百年の美しいお祝ひをしてゐる頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしてゐたといふことがわかつたら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。》
☆律子と貞子「若草」1942年2月号《大学生、三浦憲治君は、今年の十二月に大学を卒業し、卒業と同時に故郷へ帰り、徴兵検査を受けた。極度の近視眼のため、丙種でした、恥ずかしい気がします、と私の家に遊びに来て報告した。》
☆雪の夜の話「少女の友」1944年5月号《あの日、朝から、雪が降つてゐたわね。もうせんから、とりかかつてゐたおツルちゃん(姪)のモンペが出来上がつたので、あの日、学校の帰り、それをとどけに中野の叔母さんのうちに寄つたの。》
☆貨幣「婦人朝日」1946年2月号《私は、七七八五一号の百円紙幣です。あなたの財布の中の百円紙幣をちよつと調べてみて下さいまし。或るいは私はその中にはひつてゐるのかも知れません。もう私は、くたくたに疲れて、自分がいま誰の懐の中にゐるのやら、或るいは屑籠の中にでもはふり込まれてゐるのやら、さつぱり見当も附かなくなりました。》

リストの中でいちばん掲載の多い雑誌「若草」について、編者は「右に挙げた一覧のうち、「若草」という雑誌については、ここで少し触れておきたい」と、とくに解説を加えています。

《「若草」は、宝文館の「令女界」の姉妹雑誌として刊行された文芸雑誌である。その後、次第に男性読者・投書家も増えていくのだが、たとえば「雌に就いて」が掲載された前後の号には、「令女界でもよくみかけました」、「令女はサヨナラなさったの?」というように「令女界」や少女雑誌を経て「若草」にたどり着いたという読者の声もあり、創刊時の性格も踏まえて今回ここに収録した。》

そして、太宰治もこのリストの一番最初にあげられた小説「雌について」の冒頭で、「若草」という雑誌に小説を掲載するについて、言い訳がましくこんな書き出しで始めています。

《その若草という雑誌に、老い疲れたる小説を発表するのは、いたずらに、奇を求めての仕業でもなければ、読者へ無関心であるということへの証明でもない。このような小説もまた若い読者たちによろこばれるのだと思っているからである。私は、いまの世の中の若い読者たちが、案外に老人であることを知っている。こんな小説くらい、なんの苦もなく受け入れてくれるだろう。これは、希望を失った人たちの読む小説である。》

なるほど、なるほど。

この本に収録されている太宰治の「女性小説」といわれる作品が、そもそも女性読者を想定したこうした女性文芸雑誌に合うように努めて書かれたのだということがよく分かりました。そうですか、はじめて知りました、そういうことなら了解できますよね。

そして、思えばそれは商業誌としてならごく当然の話ですよね。注文のあった雑誌社の方針や当の雑誌の傾向に合わせて、それなりの作品を太宰は書こうとしたのだと思います。原稿料で食べていかなければならない以上、誰しもそれは「継続的にお仕事をもらうため」には、あるていど当然の判断だと思います。作家は、なにも書きたいものだけを書いていけるわけではなく、発注者の意向をできるだけ忖度して、自分の考え方と先様の要望との兼ね合いのなかで、作品を書くことがプロの作家というものなのだと。

むかし、酒の席で年端のいかない文学少女と太宰文学をめぐって大人気なく言い争うなど、最初から無益なことだったことが、やっとこれで分かりました。

太宰が女性向けに書いた小説を若き女性がまっすぐに受け取り理解したそのことに関して、場外にいるにすぎない大人の部外者がなにもとやかく言う必要も、そしてその資格もなかっただと。

「軟弱な文学」からも、「硬派な文学」からも究極的に受け取る本質というものはきっとただひとつか、あるいは大差なくて、ただそこにあるのは、語り口調やスタイルの違いがあるだけのはなしで、なにもむきになって目くじらを立てることもなかったのかもしれません。

なんかこう書いてみると、太宰治を最初から予断を持って貶してばかりいたみたいですか、決してそんなことはありません。

一時流行のように新潮社や講談社や中央公論、そして文芸春秋社や集英社が、競って出していた「日本文学全集」のたぐいの「太宰治集」からでは、とうてい読むことができなかった作品群(作品の格としてインパクト的に弱く優先順位が劣っていたということはあったかもしれませんが)がこうして読むことができたということは、やはり収穫だったと思います。

今回は、太宰治のストーリー・テラーとしての多才ぶり・巧みな構成力にとりわけ感銘を受けたという一席でした。

なんだよ、ほめてんじゃん。



by sentence2307 | 2019-08-14 11:48 | 徒然草 | Comments(0)