世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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こういう話をすると、あえて自分の迂闊な性向をみずから暴露してしまうみたいで、たいへん気恥ずかしいのですが、よくこんなことを経験します。

以前、朝出がけに妻がなにやら盛んに大杉漣の出演した映画やドラマ(TV出演していた妻の愛視聴番組「ゴチ」も、そうでした)の話をするのです、朝のこの慌ただしい時に「なんだってまた、よりにもよって大杉漣なんだよ」と、内心では、その話題を振る妻の「そもそも」の意図が分からず、少なからず苛立って聞き流していました。

きっと、自分の表情にはあからさまな嫌悪が険しさとなって表れていたと思います。

まあ、そのときの見当のつく事柄といえば、たぶん大杉漣が出演した映画「兄貴の嫁さん」の話をしたことがあって、その映画「兄貴の嫁さん」が日活ロマンポルノ系の作品であることを知った妻が即座にドン引きし、その話はそのまま気まずく中断されたなんてことがあり、なにやら後味の悪い思いをしたことがありました、思い当たることと言えば、気まずく中断させてしまったことのフォローの積もりかなという感じでした。

そのときはちょっとイラッときたものの、これもいつもの唐突な「妻のしょうもない芸能人の噂話のひとつか」と無視する感じで家をあとにしました(そういう会話をしたことなんか、当然すぐに忘れています)、会社についてからしばらく同僚と世間話をしているうちに、「きのう、大杉漣が亡くなったぞ」と聞かされ、あっと思いました、今朝、妻が盛んに話しかけてきたのは、「これか」とはじめて気が付いた次第です。

星野仙一死去や西城秀樹死去の報ばかりでなく、そのほかの「タイムリーな話題」であることなど知らずに、唐突に話題を振られ、「?」を抱えながら、必死になって話を合わせる(その裏であれこれ模索をめぐらして焦りまくる)なんてことが、よくあります。

星由里子と朝丘雪路のときも、ちょっとそんな感じはありました。ある人のブログを読んでいたら、盛んに朝丘雪路の思い出話を書いてあるので、「なんでだ」と訝しく思った直後に彼女の訃報を知りました、彼女もう82歳になっていたんですね。藤本義一や大橋巨泉死去のときもそうでしたが、かつて11PMを愛好していた自分などには、「あっという間の人生」という思いをそのつど強くしています。

しかし、よくよく考えてみれば、これらの話の根本にあるのは、自分の「迂闊さ」なんかではなくて(最初に「死去」の事実をはっきり教えてくれていれば、どれもあり得ない話です)、しかし・ともかく、自分が「分からないこと」に直面したとき、たぶん、いちいち応対する煩わしさとかもあったりして、ついつい根本のところを理解しようとしないまま「他人と適当に話を合わせる」という、不誠実で場当たり的なとてもイケナイ面倒くさがりやの自分の性向がありありとうかがえて、ときどき妻がキレて不機嫌になるのは、自分のこうした性格の部分に「冷たい拒絶」みたいなものを感じ取るためかもしれない、などと最近では自己分析をしています。

なんやかやの話の流れから、ついつい自分ばかりが悪い自己懺悔録みたいになってしまいましたが、しかし、その逆の場合だって大いにあるわけで、その辺のところもちゃんと記しておかないとバランス的につり合いが取れず、不完全燃焼をおこしそうなので、ちょっと書いてみますね。

皆さんの周りではどうなっているのか分かりませんが、自分的にはまだまだ「平昌オリンピックのカーリング・フィーバー」というのは継続していて、例の吉田知那美風な「ナイッスー」というフレーズがすっかり身についてしまって、何かの折につい出てしまい(日常的に使う局面というのが、これがまた実に多いのです)、最近では「ナイッスー」とやらかすたびにドン引きされるという「空気」を(空気じゃないか)会社でも家庭でもモロに感じはじめていたところ、ここにきてまた「ミックスダブルス世界選手権」と「パシフィックアジア選手権・日本代表決定戦」などというビッグイベントがあったりして、またまた「カーリング熱の盛り返し感」が顕著になってきて、なんだか少しホッとしているところです。

しかし、そんなふうに安心しているのはアンタくらいなものかもよという冷ややかな指摘(いまでも平昌オリンピックのカーリング・フィーバーをぐずぐず引きずっているのは、あんたくらいなものだという妻の冷ややかな示唆です)もないわけではなく、キープ・スマイルで「ナイッスー」と言いたい局面でも、つい気後れして口ごもってしまう今日この頃ということは、まあ、あるにはあります。

そうそう、「気後れして口ごもる」といえば、昨日の「パシフィックアジア選手権日本代表決定戦」(LS北見が富士急に3連勝して日本代表の座を得ました)をyou tubeで見ていて感じたことがひとつありました。

どの試合でも、吉田知那美選手はじめどの選手も、マスコミやミーハーの俄浮かれファンの期待に大いに反して、平昌オリンピックの試合では盛んに発していた「ナイッスー」や「そだねー」(現在のところ今年度の流行語大賞最有力候補といわれています)をあえて意識的に封じているような印象を受けました。しかしまた、それを「あえて」と感じてしまうあたりなんかも、この自分もまた「ミーハー」のうちのひとりなんだろうなと気づかされてしまう部分はあります、もっとも「もぐもぐタイム」の方はしっかりありましたけれどもね。

オリンピック開催中のあのとき、日本での盛り上がりを知らずに平昌で快進撃を繰り広げていた彼女たちが自然に発していた「ナイッスー」や「そだねー」は、単に試合を戦ううえで必要としたひとつのコミュニケーション・ツールにすぎず、相互間の親和が保てさえすれば、それはなにも「ナイッスー」や「そだねー」じゃなくってもよく、たとえ「パシフィックアジア選手権日本代表決定戦」において「ナイッスー」と「そだねー」を発しなかったとしても、彼女たちはそれに代わるべきものとしての「なにか」を発し・交わし合って戦ったに違いありません、ぼくらの知らない「別の言葉」や「別な仕草」でね。

そして、それが虚像を作りたくって仕方のないマスコミによって、ひとつのキャッチフレーズとして「烙印」的に固定化され決めつけられることとは無関係な部分で、彼女たちはまたそれとは異なる「現実的な言葉」を発し・使い始めるに違いないのだと思います。

問題なのは、そんなもの(レッテル)なんかではないこと、戦いの場においてなにが大切(実)で、なにが愚劣(虚)なことか、吉田知那美という選手は、最早「ここ」には既にいないことで、アスリートとしての進化を(それに反してマスコミの後進性も)示し、そして気づかせてくれた実にクレバーなアスリートなのだなと感心しました。

試合のあとに、you tubeでたまたま、藤澤五月と吉田知那美が交互にインタビューに答えている7分ほどの動画がアップされていたので、ついつい見入ってしまいました。

そこでは、かつてふたりがそれぞれに厳しい経緯を経てロコ・ソラーレ北見に加入するまでと、そのときの気持ちの動揺について思い出しながら語っています。

吉田知那美は、かつて、カーリングに対する「強くなりたい」という自分の気持ちがあまりにも過剰すぎて空回りした過去(旧所属チームでの人間関係の困難と軋轢を経てスポイルされました)を振り返り、「カーリングについて、こんなふうにストイックに考えてしまう自分が、どこかおかしいのか」と思い悩んでいたとき、藤澤五月がロコ・ソラーレ北見に加入してきて、「あっ、もっとおかしな人がいた」と笑いながら、藤澤への敬意をこめて語っていました。

殺伐としたこの都会において、生き場を見失ってしまった自分たちには、なにごとにつけてもストイックに取り組む人々を、まずは冷笑で揶揄してしまうという、いつの間にか歪んでしまった感性をもってしまっているので、僕たちが「もっと変な人」を見つけ出そうとすることは、実は到底不可能なことであって、吉田知那美だからこそ藤澤五月のストイックな「もっと変」に気づくことができたのだと思います。

そうそう、以前you tubeで、まさにそのストイックな藤澤五月を揶揄(だから、当然敬遠)するようなタイトルの象徴的な動画を見たことがあります。

そのことに触れるまえに、いまでもその動画が見ることができるかどうか、試しに「藤澤五月」と打ち込んでyou tube検索をかけてみたら、まず最初のページにその動画は現れました。

4分41秒のその動画、メインのタイトルは「私も正直、藤澤さんは無理でしたね」、そしてサブ・タイトルは、「藤澤五月が学生時代に友だちがいなかった理由が悲惨すぎる。」「姉が語るカーリング女子スキップの本性」というものでした。(本性? いい言葉じゃありません、「お里が知れる」というやつですね)

この動画が、このタイトルからすれば、当然、藤澤五月のストイックさを揶揄し、敬遠しようとしている内容と予測してしまいますが、実際のところは全然別内容の「客寄せのための虚妄タイトル」でしかありませんでした。

「姉・汐里」という人の家族的な回想が随所に引用されているところを見ると、雑誌か何かに発表された記事の丸写しを能のない接続詞でつないでいるだけの無能で幼稚な構成です、刺激的なタイトルをつけるくらいが精々のところで、内容の改ざんなどという芸当までは思いも及ばなかったか、それとも元々能力的に無理だったのか、その内容はむしろ素直なものでした。

その内容をざっと要約すると、こんな感じです。

父親の影響でカーリングを始めた姉(汐里)に対して、負けず嫌いだった妹(五月)は、姉に負けたくない一心でカーリングにのめり込んでいった。

高1のときに世界選手権に出場、卒業後、中部電力に入社。

2014年、ソチ五輪代表決定戦に敗退して、挫折を味わった。

「妹(五月)は、内気な性格で、友達とうまくやっていくことも苦手でした。だから、環境の違う人と一緒にやるっていうのは、本人も厳しかったんだと思います。」

転機は、2015年5月に帰郷して、LS北見に加入したことだった。

「いまは、周りの方々にうまく支えられている感じです。特に、一歩引いて支えてくれている本橋麻里さんには感謝です。」

「もともと団体競技には向かない性格かもしれません。中学校まで部屋は同じでしたが、私の物は私の物、お姉ちゃんの物も私の物という意識でしたから、私が妹のカバンを黙って借りたときには、一生口を利かないって泣きじゃくっていたのに、私の物は平気で勝手に使っていましたから(笑)。

妹はひとりで突っ走るタイプだったので、いまのチームに入って一人だけじゃ勝てないってことに気づいたんだと思います。」

意外にもジャイアン気質だった藤澤。でも、最高の仲間がいれば大丈夫だよね。(おわり)


現在、アスリートとして活躍している誇らしい妹を、姉はあえて幼く無邪気だったころの妹を回想して幾つかの微笑ましいエピソード(身勝手だったり自己中だったり)を紹介しています。

肉親に対する親愛の前提部分をあえて除外して、「身勝手だったり」「自己中だったり」の部分だけを切り取って、そこだけ孤立させて紹介すれば、きっと「私も正直、藤澤さんは無理でしたね」とか「藤澤五月が学生時代に友だちがいなかった理由が悲惨すぎ」という内容に捻じ曲げることができるのかもしれませんよね。どこをどう押せば、そんなことになるのか、ネットで流されるガセには、ほんと気を付けなければいけません。

こんなとき、菅原文太が生きていたら、こんなふうに言ったかもしれませんよね。

「おい、若杉の兄貴の隠れ家、地図に書き込んで、サツにチンコロしたんは、おどれらか!」なんてね。



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# by sentence2307 | 2018-05-20 17:46 | 映画 | Comments(0)
忠実な読者というわけではありませんが、気が向いたときに新聞や雑誌に掲載される書評に目を通しています。

時には「集中的」に読んだり、あるいは、すっかり興味をなくして読まなくなったりということを繰り返しているのは、モチロン自分のむらっけのあるダレた性格に起因するところ大なのですが、あえて言えば、読む書評への失望(その尾を引くほどのダメージ)というのも、大きな要因のひとつかもしれません。

つまり、「すっかり興味を失って読まなくなる時期」というのは、書評というものに対する失望のダメージから回復するのに必要な時間という、そんな感じです。

自分が遭遇したひどい書評に、本の「まえがき」と「あとがき」を安直に要約しておいて、あとは「目次」をつまみ食い的に丸写ししただけなんていう凄まじいのがありました。

そんな書評に出会ったりすると心底がっかりさせられてしまいます、えらそうに大学教授なんて名乗っているテアイにかぎってそんなのが実に多いのです。特にwebなんかではね。

そんな書評に出会うたびに、故丸谷才一はやはり偉大だったんだなと痛感します。品位ある署名入りの書評を書くということは、それほどの覚悟と誠実さが求められるものなのだなと。

興味も知識もないなら、最初からそんな仕事は引き受けないというのが知識人(おっと、「知識人」とは、これまた古い)としての見識だし誠実さというものではないかと思います。

では、散々そんなに腹立たしい思いをして一度は見放したはずの書評なのに、なぜまた性懲りもなく読み始めるのかといわれれば、自分としてはあの時あんなふうに考えたものの、だんだん時間が経つにつれて、冷静に考えてみれば、たかが情報収集のために参考にするだけの「書評」にすぎません、なにもそんなに目くじらを立てて深刻な重責を負わせなくたっていいんじゃね、むしろこちらの方が見当違いをしていたくらいだと思い直すからだと思います。まあ、こんなことをグダグタ繰り返しながら現在に至っているというわけです。

しかしアレですよね、そんなふうな堂々巡りを繰り返しているうちに、だんだん書評氏ばかりを責められない部分もあるのかなという思いも湧いてきました。

まあ、この世に存在する本のすべて(高潔なものからイカガワシイものまで)が、すべて書評に値するような完璧で素晴らしい本なのかというと、そうでもなくて、こういう現実に照らせば、それに呼応する書評だって、高潔なものからイカガワシイものまで多々あるのは当然といえば当然なわけで、それはそれで仕方のないことなのかもしれないなと。

そうそう、最近は「参考文献」が掲げられていない学術書なんていうのもあるくらいです、自分がどのような本を読んで知識の基盤を培ってきたのかという証しとして「参考文献」を提示するのであって、研究を生業とする学者の著書に「参考文献」の提示を欠くというのは致命的なことであって、それだけで信用を半減させると非難されても仕方のないことかもしれません。

最近、自分が手にした映画関係の本でいえば、佐藤忠男が書いた「喜劇映画論 チャップリンから北野武まで」(中日映画社、2015.4.10)という本には、索引(作品、人名、事項)というものがまったく付されてないので、本当にがっかりさせられました、これではこの本の本来の価値も半減です。

自分などは、まず一度通読したあとで、「索引」を眺めてその本の余韻に浸るのというのを何よりもの楽しみにしているくらいなので、これではまるで作りっぱなしの「読み捨て」を推奨しているようなものという悪印象を免れません。

索引作りは編集者の責務だと思い、こちらから著者に提案するくらいでないといけないなー(著者が固辞するっていうのなら、話は別ですが)。だいたい、索引(作品、人名、事項)というものがまったく付いてない本なんて、著者に対しても失礼だと思うくらいでないといけないぞ(なんて、むかしはよく上司からお小言を頂戴したものです)。

さて、その気が向いたときに読むという書評の話に戻りますね、自分が読んでいる定番の書評のひとつに「月報 司法書士」に掲載されている連載コラム「新聞が深くわかる読書案内」という記事があります、筆者は、元日本経済新聞論説委員だった安岡崇志という人。

このコラムの楽しいところは、同時に数冊の本を紹介するという書評の形式をとりながら、それぞれ単発の感想を書くのではなくて、そこに共通しているテーマを関連づけながら新聞の論説風に仕上げているところに独自な異色性にあります(あっ、そうか、この人、元日経の論説委員というだけあって、その辺の纏めのテクは自家薬籠中のものというわけだったんですね)。

似て非なるそれぞれのテーマをこねくり回して、ときには、「それはないだろう」というアクロバット的な離れ業を見せてくれたりするなど知的サービス満点の工夫があって、単発の書評にはないアメージングさも出色のものがあります。

ただ、ときにはその「粘着」が強引すぎて首を傾げたくなるものもないではありません。

まあ、下世話に言えば、落語の三題噺の逸脱の醍醐味を味わえるという感じでしょうか。

今回、「月報 司法書士」2018.4月号のこの欄で取り上げられた本は、以下の4冊。

①園田英弘編著「逆欠如の日本生活文化」(思文閣出版)
②中牧弘允「会社のカミ・ホトケ」(講談社選書メチエ)
③寺岡寛「社歌の研究」(同文館出版)
④ルイス・フロイス「ヨーロッパ文化と日本文化」(岩波文庫)

そして、コラムの趣旨は、日本の「4月入学」という学校制度をまず取り上げ、かつて世界のグローバルスタンダードを根拠にした東大からの「正論・9月入学」の提案でさえも撥ねつけたくらい「4月入学」という学校制度がいかに日本に根付いた独自の生活文化であるかと説いたうえで、

「西洋化は日本化を伴うという逆説的な現象の見極めにある」

「会社は神をまつり、物故社員を慰霊する法要を営んでいる。会社ビルの屋上には小祠があり、聖地の高野山や比叡山には会社墓が並んでいる。創業者や社長が亡くなれば社葬をもって告別する、と日本にしか見られない会社の宗教的な行いを書き示す」

「会社の社訓・社是を織り込んだ社歌を作り社員に歌わせて、社員の一体感や会社への帰属意識を高めようとするのは、外国企業にはない経営手法とし、海外の現地子会社の従業員に社歌を浸透させるのに苦労する日本企業の事例も紹介している」

「欧米で生まれ発展した社会組織である会社とその経営・運営方法を、日本人が、日本の社会に移植し根付かせるうちに出来上がった、外国にはない会社の在り方と経営手法は、いくらでも見いだせる」としたうえで「つまり両書は日本文化を伴った西洋化について論じた日本文化論としても読めるわけである」なのだそうです。

そして、ここから4冊目のルイス・フロイス「ヨーロッパ文化と日本文化」へと論を進めていくのですが、その部分をまるごと筆写してみますね。

「西洋化に日本化が伴う現象は、西洋と日本の固有の文化や社会現象に相違がなければ起きない。その違いの甚だしさは、日本が地球の裏側にある知られざる異邦だった時代に、我が国に来た西洋の人々をひどく驚かせた。

1563年から1597年に亡くなるまで日本で布教をしたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが書いた「ヨーロッパ文化と日本文化」は、西洋人の「驚きの記録」の最も古いものだ。序文には「彼らの習慣は、我々の習慣と極めてかけ離れ、異様で、縁遠いもので、このような文化の開けた、創造力の旺盛な、天賦の知性を備える人々の間に、こんな極端な対照があるとは信じられないくらいである。」とある。

容貌、服装、暮らしの習慣、食事や酒の飲み方から死生観に至るまで609項目も挙げた「極端な対照」を読むと、日本人が西洋の文化をそのまま受容するわけはない、「西洋化は日本化を伴う」のは、必然だと納得するに違いない。」と。

これが、この書評のすべてです、学校制度としての「4月入学」が日本の独自文化だと語りだし、この独自文化として「物故社員の法要」「会社ビルの屋上の小祠」「高野山や比叡山の会社墓」「社葬」「社訓・社是・社歌」「会社経営・運営方法」などにも「西洋化は日本化を伴う」証左だとしたうえで、そして、ルイス・フロイスが初めて見てびっくりしたという奇妙な「日本の風習」の数々が紹介されているのですが、でも、フロイスが見て驚いたという風習は、会社経営に役立つ「先祖敬い」とか「結束をはかる仲間意識」とかの教訓めいたものからは相当に距離のある生活習慣の紹介にすぎず、明らかに本論から外れた「逸脱」と、拡大解釈の「無茶振り」です。

それを、こんな奇妙な風習を持っていた日本人だもの、アイツら西洋化をそのまんまあっさり受け入れるわけないよね、とかなんとか繋げようとするのには、無理やりのこじつけにすぎず、とても違和感を覚えました、というか、たまらない腹立たしさを感じました。

岩波文庫のルイス・フロイス「ヨーロッパ文化と日本文化」は、20年以上前に読みました。

その序文には「彼らの習慣は、我々の習慣と極めてかけ離れ、異様で、縁遠いもので、このような文化の開けた、創造力の旺盛な、天賦の知性を備える人々の間に、こんな極端な対照があるとは信じられないくらいである」と、文脈に若干のリスペクト感が窺われなくもありませんが、本文中で箇条書きに記された数々の日本人の奇妙な風習の侮蔑と嘲りのこもった紹介を読めば、それはまるで「東洋原人」という名札の付いた人間動物園の檻の中に閉じ込められた奇妙な風習に固執する日本人という小動物を観察するという見下す視点は明らかで、日本人をもともと同等の人間とは見ておらず、知的な猿とでもいう視点を持てば、そこに「リスペクト感」くらいは発芽しようというものだと理解できました。

その辺の「見下し感」を感じたナーバスな秀吉が、自分の権力の座を脅かしかねない異教を邪教として排斥したのも無理からぬことと感じました。

その内容の多くは、ごくたわいないものばかりなのですが、ときには文化論の根幹にかかわる重要なものもあります。

第2章「女性とその風貌、風習について」の最初の項には、こうあります。

「ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは、貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉を失わなければ、結婚もできる。」

この一文を読みながら、思えば、この西洋の脆弱な思想の普及によって、失われた原日本人の逞しさを教えてくれたのは、今は亡き今村昌平だったのだな、という思いがふっと過りました。



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# by sentence2307 | 2018-05-03 11:35 | 映画 | Comments(0)
ネットで拾いました、原題は、「絶対観るべき映画史に残る不朽の名作30選」なのですが、カシラに「GW」を載せるだけで、はやGW仕様になりました。

【戦艦ポチョムキン】(1925)
映像文法の基礎である「モンタージュ論」を確立させ、映像表現を飛躍的に向上させたと言われる、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督による映画史に残るサイレント映画の傑作。1905年、劣悪な扱いに怒った黒海沖の巡洋艦、戦艦ポチョムキン号の水兵たちは反乱を起こし、その怒りの輪は民衆にも広がっていく。

【西部戦線異状なし】(1930)
ドイツのエーリヒ・マリア・レマルクの長編小説をルイス・マイルストン監督が映画化した戦争映画の名作。第1次世界大戦下のドイツを舞台に、愛国心から出征を志願した主人公ポールが戦線で経験する、想像を絶する過酷な実態を描く。アカデミー賞作品・監督賞受賞。

【我輩はカモである】(1933)
4人組のコメディアン、マルクス兄弟が贈る抱腹絶倒の痛快コメディ。架空の国を舞台として、国の財政難をきっかけに宰相となった男が引き起こす破滅劇を皮肉たっぷりなギャグを交えながら描く。レオ・マッケリー監督作品。

【モダン・タイムス】(1936)
喜劇王チャーリー・チャップリンが監督・製作・脚本・作曲を担当した代表作のひとつ。大工場で部品のネジをしめ続ける毎日を送る男を主人公に据え、お金と機械にがんじがらめの現代機械文明を風刺したブラックコメディ。

【オズの魔法使い】(1939年)
ライマン・フランク・ボームの児童文学を映画化。魔法使いの国に迷い込んで取り残されてしまった主人公の少女ドロシーは、愛犬のトトとともに家に帰るため、オズの魔法使いを探して冒険を開始する。ヒロインのドロシーはジュディ·ガーランドが演じた。

【風と共に去りぬ】(1939)
マーガレット・ミッチェルの原作を映画化、ビビアン・リー、クラーク・ゲーブル主演で贈る映画史上に残る永遠の傑作。南北戦争が勃発した激動のアメリカを舞台に富豪令嬢で絶世の美女、スカーレット・オハラが強く激しく生きていく半生をドラマチックに描く。作品賞、監督賞をはじめ10部門のアカデミー賞を独占。

【レベッカ】(1940)
アルフレッド・ヒッチコック監督によるゴシックスリラー。ジョーン・フォンティーン演じる美しきヒロインは旅行中に英国紳士マキシム(ローレンス・オリビエ)と出会い結婚するが、嫁いだ彼の屋敷では死んだ前妻のレベッカの見えない影がすべてを支配していた。英国で活躍していたヒッチコックの渡米第1作となった。

【市民ケーン】(1941)
名優オーソン・ウェルズが監督・脚本・主演を務め、映画史上最高傑作の呼び声も高い作品。「バラのつぼみ」という謎の言葉を残して死んだ新聞王ケーンの人生に迫る斬新な物語。主人公のモデルは20世紀前半にアメリカのメディアを支配し、新聞王と呼ばれたウィリアム・ランドルフ・ハースト氏。

【マルタの鷹】(1941)
ダシール・ハメットの同名探偵小説をハードボイルドタッチで映画化。私立探偵サム・スペードは、中世のマルタ島騎士団が製作したといわれる「マルタの鷹」にまつわる殺人事件に巻き込まれていく。巨匠ジョン・ヒューストンの監督デビュー作であり、主演のハンフリー・ボガートを一躍スターダムに押し上げた1作。

【カサブランカ】(1942年)
戦火近づく1940年代の仏領モロッコ、カサブランカを舞台に描いた、言わずと知れた恋愛映画の古典的作品。アカデミー賞の作品・監督・脚色賞を受賞。ダンディな主人公リックを演じたのはハンフリー・ボガート、かつてパリでリックと恋に落ちた美しい人妻・イルザ役をイングリッド・バーグマンが演じた。「君の瞳に乾杯」などの名セリフシーンで知られる。

【汚名】(1946)
アルフレッド・ヒッチコックが監督を務め、第2次世界大戦下でのアメリカ南部を舞台に、FBIとナチスとのスパイ合戦や恋愛模様などが描かれる。ナチの動向を探るスパイ役を銀幕の大スター、ケーリー・グラントが演じ、相手役として名女優イングリッド・バーグマンが共演。

【素晴らしき哉、人生】(1946)
名匠フランク・キャプラ監督がクリスマスを題材に人間賛歌を歌い上げる心温まる感動作。自殺しようと12月の冷たい川にやってきた人生に挫折した主人公は「天使見習い」と名乗る男に出会い、自分の人生を見つめなおすファンタジーの旅に出る。

【第三の男】(1949)
キャロル・リード監督がメガホンを取った第2次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワール(サスペンススリラー)。 親友の死に際に3人の男が立ち会ったことを知った作家のマーチン(オーソン・ウェルズ)はその「第三の男」の正体を探って独自調査を開始する。

【サンセット大通り】(1950)
巨匠ビリー・ワイルダーが監督を務め、かつて一世を風靡した往年の大女優の悲哀と悲劇を描いたフィルム・ノワール。ロサンゼルス郊外の豪邸を舞台に、ハリウッドの光と影が巧みに描写される。出演はウィリアム・ホールデン、グロリアス・スワンソン、エリッヒ・フォン・シュトロハイムほか。

【羅生門】(1950)
芥川龍之介の小説「藪の中」を今は亡き黒澤明監督がモノクロの斬新な映像美で描写した時代劇で、海外で高い評価を受け「世界のクロサワ」の名を不動のものに。ある侍の死に立ち会った、男女4人のそれぞれの視点から見た事件の内幕を生々しく再現。三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬ら俳優たちの鬼気迫る熱演が見事。1951年のヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞。

【欲望という名の電車】(1951)
ピューリッツァー賞に輝いたテネシー・ウィリアムズによる最高傑作の呼び声高い同名戯曲を名匠エリア・カザン監督が映画化。映画史上に残る2大スター(マーロン・ブランド、ビビアン・リー)の名演が光り、鬼気迫る名演を見せたヴィヴィアン・リーは、この映画で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞。南部の没落した名門の娘、ブランチを通して女性の奔放な性や心の葛藤をあますところなく描きだす。

【雨に唄えば】(1952)
ジーン・ケリーが傘を持って雨の中で唄い踊るシーンが有名な傑作ミュージカル。サイレント映画からトーキーへと転換期を迎えたハリウッドを舞台に、楽屋裏を面白おかしく見せながら人気スターたちの恋を天真爛漫にコメディタッチで描く。

【真昼の決闘】 (1952)
名匠フレッド・ジンネマン監督による西部劇映画。ありきたりな勧善懲悪でなく、リアルな心理描写を取り入れた画期的な作品に仕上がった。ならず者の殺し屋たちにたった1人で立ち向かい、決闘を決意する保安官役をゲイリー・クーパーが熱演し、アカデミー主演男優賞を獲得。

【波止場】(1954)
名優マーロン・ブランドが迫真の演技を見せ、彼の代表作となった作品。ニューヨークの港を舞台に、マフィアのボスに立ち向かう港湾労働者の姿を骨太な演出で描く。アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞、助演女優賞など8部門を受賞。

【泥棒成金】(1955)
巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督がケーリー・グラント主演で贈るラブ・サスペンス。風光明媚な南仏リビエラを舞台に、かつて有名な宝石泥棒で今は引退した男が、自分の名を語ったニセ者の正体を暴くために奮闘する姿を描く。

【禁断の惑星】(1956年)
今より60年も前に制作された宇宙開拓をテーマにした作品で、SF映画の金字塔とも呼ばれる。孤島に追放された老いた王の孤独とその復讐をテーマにした、ウィリアム・シェイクスピア晩年の作品『テンペスト』をモチーフにしたといわれる。

【捜索者】(1956)
巨匠ジョン・フォード監督が名コンビのジョン・ウェイン主演で描く名作西部劇。南北戦争終結後、主人公イーサンは兄一家をネイティブアメリカンに惨殺され、幼い姪も連れ去られてしまう。復讐と奪還を胸に誓った主人公は、仲間とともに荒野に捜索の旅に出る。出演は他にジェフリー・ハンター 、ナタリー・ウッドら。

【黒い罠】(1958)
異才オーソン・ウェルズが手掛けた傑作サスペンス。アメリカとメキシコ国境地帯を舞台に、不可解な爆殺事件に遭遇したメキシコの調査官ヴァルガスは、アメリカの刑事と共同捜査に乗り出すが、やがて国境の町に拡がるどす黒い陰謀が露わになる。出演はオーソン・ウェルズ、チャールトン・ヘストン、ジャネット・リーら。

【ベン・ハー】(1959)
巨匠ウィリアム・ワイラー監督が莫大な制作費と長い歳月をかけて完成させたスペクタクル史劇超大作。アカデミー賞作品賞など、11部門受賞の快挙を達成。紀元1世紀のローマ帝国を舞台に、エルサレムの豪族の息子、ベン・ハーがたどる数奇な運命を壮大なスケールで描く。

【北北西に進路を取れ】(1959年)
アルフレッド・ヒッチコックが監督した巻き込まれ型サスペンスの傑作。広告会社役員のロジャー(ケーリー・グラント)はひょんなことから別の男と勘違いされ、謎の組織から狙われるようになり逃走劇を展開する。

【アパートの鍵貸します】(1960)
アカデミー賞主要5部門受賞したビリー・ワイルダー監督の傑作コメディ。名優ジャック・レモン扮する悲哀あふれるサラリーマンとキュートな魅力あふれるシャーリー・マクレーンが織りなすコメディ。

【スパルタカス】(1960)
ハワード・ファストの原作小説を、スタンリー・キューブリックが映画化した歴史スペクタクル。 ローマ帝政時代、勇敢にも反乱軍を組織し立ち上がった1人の奴隷、スパルタカスの生涯を描く。主役のスパルタカスは名優カーク・ダグラスが演じた。

【アラビアのロレンス】(1962)
第1次世界大戦の時代、アラブの救世主と称えられ砂漠をこよなく愛したT.E.ロレンスの波乱に満ちた生涯を描いた壮大なドラマ。デヴィッド・リーン監督に見いだされ、主役のロレンス役を演じた俳優ピーター・オトゥールはアカデミー賞にノミネート。

【暴力脱獄】(1967)
フロリダの刑務所を舞台にした、社会のシステムに組み込まれることを拒否する囚人ルーク・ジャクソンの物語。不屈の反骨精神で脱獄を試みる囚人をポール・ニューマンが熱演したドラマ。スチュアート・ローゼンバーグ監督作品。

【2001年宇宙の旅】(1968)
SF映画史上に燦然と輝く名作として映画史にその名を残す、あまりにも有名なスタンリー・キューブリック監督の代表作。神秘的で難解なストーリー、当時の技術の粋を集めた特撮、圧倒的なビジュアル・イメージ、クラシック音楽の効果的な使用などが詰めこまれた、壮大な映像叙事詩に仕上がっている。アカデミー賞特殊効果賞受賞。



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# by sentence2307 | 2018-05-03 11:32 | 映画 | Comments(0)
若い頃、通勤にはずっと私鉄を使っていたので、結婚して郊外に引っ越してJRを使うようになり、はじめて知って意外に思ったことに「整列乗車」というのがありました。

文字通り駅で電車を待つ乗客が整然と3列に並ぶというアレです、それまでこのJR「整列乗車」という慣行をまったく知らなかった自分(私鉄族)には、実に奇妙で堅苦しい(というか、押し付けがましい)決め事に思えました。

そのへんのところは、まったく自由だった「私鉄族」には、この慣行は「強制」以外の何物でもない息苦しさしか感じられませんでした。

私鉄では、あんな習慣はもちろんありませんでした(今でもそうか、現状がどうなっているのかは知りません)、駅で電車を待つ乗客は、三々五々その辺に立っていて、電車が到着すれば、「おっ、来た・来た」なんて感じで、次第に速度を緩める電車の、乗り込もうとアタリをつけたドアに目星をつけて、なんとなく蝟集し、まだ動いているドアと並歩し(「並走」という言葉があるくらいなのですから「並歩」もアリかなと)、徐々に速度を落としていくのと微妙にタイミングを合わせて移動しながら、止まってドアが開けばさっさと乗り込むという感じでした。

その「なんとなく」感が、まさに私鉄の「自由気ままさ」を象徴していた気楽さということだったんだなと、いまにして思います。

でも最近は、少しずつ考え方がJR的に変化しているのもまた、事実です。

私鉄では今でもやはり、朝の通勤ラッシュの混雑時には、我先になんとなく雑然と、つまり先を争って無秩序な乗り込み方をしているのだろうか、もし、そうなら当然乗客同士のトラブルは必至で、小突き合い・蹴り合いくらいは避けられないだろうなと。

それに比べたらJRの規制の効いた乗り方は、だから実に穏やかで、いまではすっかり「JR」の慣行に馴染んでしまっている自分です。

「整列乗車」の長所が、この乗客同士のトラブル回避というところにあるのと、もうひとつは、列の位置取りさえ間違わなければ、必ず座れるというところでしょうか。現状「座れる率」は、ほとんど99%です。

実は、自分が乗り込むターミナル駅では、15分ごとに電車の最後尾に新たに5輌増結される電車があります(合計15両編成の通勤快速電車というのは、日本で最長の通勤快速電車だと聞いています)、まさにそれが優に小一時間はかかろうかという通勤時間のあいだ、座ってのんびり居眠りをしていられる理由です、ずっと立ち続けてモミクチャにされることを考えれば(つい数年前までは、そうでした)、まさに雲泥の差です。

それに、何年か前に「上野・東京ライン」というのが開始されて、以前は上野駅か日暮里駅で乗り換えねばならず、通勤客でごったがえす超混雑の階段をひしめき合って上り下りしなければならなかったものが、いまではストレートに東京駅まで乗り入れるという、自分の通勤環境は、これによって激変しました、「通勤時間短縮と、座われて居眠り」と、それに、隣にウラ若い女性が座るなどという幸運なオマケ付きなんてことも時にはありますし。

まさにこの「通勤時間短縮」が、時間の余剰をうみ、たとえ座れなくとも、さらに15分待てば、次の電車でも座れるというシナジー効果・好循環を生み出したというわけです。

しかし、この「通勤時間短縮」と「座れる」というところまでは、同時に自分の願望でもあったのですが、「居眠り」の方は、単に「座れる」という状況に伴うだけのことで、あえていえば自分の「希望外」のことにすぎません、子供のころから自分は電車に揺すられていると、そのうち猛烈な眠気が差してきて目を開けていられなくなってしまいます、もしかすると、なにかのビョーキかもしれませんが。

しかし、たとえわずかの間でも、通勤時間を読書に当てて有意義に使いたいと思っている自分なので、当然そこには知的な葛藤が生まれというわけです。

すぐに眠気が差してきてうたた寝をしてしまうにしても、せめて僅かな間だけでも何かを読もうと「足掻き」ます。考えてみれば諦めのわるい実にみみっちい話です。

なんか、この状態をむかしの映画のイメージに当てはめるとすると、ブリジット・バルドー初期の作品「わたしは夜を憎む」1956みたいな感じかなと。記憶が定かではありませんが、アレって夫婦間の夜のsexが怖い若い女性の作品だったのだとしたら、眠気で読書ができないこととは、相当な違いがあるのかもしれません。

ちょっと話が飛びますが、淫乱な痴女ものより、病的な潔癖さでsexを嫌悪し拒否する処女ものの方が、よほどエロティックですよね、例えばポランスキーの「反撥」とかあるじゃないですか。(なんの話してるんだよ、飛びすぎだろ)

で、通勤時間には必ず文庫本(でなくともいいのですが、これが一番軽いので)を携帯していきます。行き返りの通勤時間でしか読まないので読むペースは遅々としか進まないのですが、それでも持っていれば安心するお守りみたいになっていて、活字中毒の自分です、たとえそれでもいいじゃないかという気持ちでいます。

ここのところ読んでいる文庫本は、帚木蓬生の「三たびの海峡」という小説です。

予備知識なくたまたま手に取った本でしたが、読んでみてびっくりしました、なんと戦前の朝鮮人強制連行を描いた実に深刻で重苦しい小説です。なにしろこちらは通勤時間に軽く読めるものを念頭においてチョイスしたつもりだったのですが、この拭いがたい民族的憎悪と怨念に満ちた壮絶な小説には、わが「眠気病」も吹っ飛んでしまいました。どうみても、朝の通勤時間の暇つぶしのために読み飛ばせるような軽快な小説ではありません。

それでも毎日少しずつ辛抱強く読み進めていくうちに次第に作者の語り口にも慣れてきて読む調子みたいなものも掴めてきたある朝のことでした、案の定座席にも座れて、おもむろに文庫本を開きました。右隣には妙齢の美しい女性、「今日もラッキー」という気分で朝の読書にかかりました。

この小説「三たびの海峡」は、全編を通して壮絶な民族差別への怒りの告発と、だから一層切ない望郷の念に貫かれながらも、愛する者を失うという(あえていえば、このふたつのうち、どちらかを失わなければ、もう片方は得られないという哀切なジレンマのもとで生きいかなければならなかった過酷な運命に引き裂かれた男の物語です)そういう小説なのですが、朝鮮半島から強制連行されて炭鉱で働かされ、虐待に耐えかねて監禁場所から脱走する際に見張りの労務担当を絞め殺してしまい、それでも逃げ切り、朝鮮同胞からの助けを受けて終戦を迎えて、やがて朝鮮に帰還できたものの、その際に日本で親密になった日本人女性を伴ったことによって逆に祖国でもまた民族的憎悪にさらされて、意に反して日本人女性との引き裂かれる別離を強いられる(そこには言い出せない過去の殺人の事実に立ちふさがれ、もう一歩女性を追えなかったことが、なおさら女性の側に不可解な思いを残すという)終始重厚な物語なのですが、ただの1箇所、実に色っぽい描写の部分があります、朝鮮人男性と日本人女性がお互いに好意を持って惹かれ合い、密会して熱く性交する場面です、繰り返して言いますが、この小説でそういう描写があるのは、ただのその1か所で、たまたまその朝にそのクダリを読む感じになりました。

ちょっとそのクダリを書き写してみますね。


《陽焼けした肌とキラキラ光る目が近づき、柔らかい唇が私の口をおおった。私は彼女を抱きしめ、目を閉じる。彼女のよく動く舌が私の舌をとらえる。私は歓びが全身に広がるのを感じた。
唇を離すと、彼女は私の作業着の胸ボタンをはずした。裸の胸元に頬をくっつけ「あなたを好きだったの」と呟いた。
私は彼女の上着の紐をまさぐった。上体を起こして胸をはだけたのは彼女の方だった。白い豊かな乳房を私はしっかりと視野に入れ、口に乳首を含んだ。大きく柔らかな乳首を口の中でころがす。千鶴が細い声をあげるのを聞き、片方の乳首からもう一方の乳首に唇を移した。工事現場で彼女を見かける時、いつも視線が吸い寄せられた胸だった。その中味を味わっているという歓喜が、身体の内部にひろがっていく。
「下の方も脱いで」
千鶴は冷静に言い、私から上体を離した。私がズボンの紐をはずすのを待って、彼女は私のものに手を添える。顔に時折霧のような雨がかかり、彼女の背後に灰色の空が見えた。
「ちょっと待って」
という彼女の声を、海の音と一緒に聴いた。
「河時根」
彼女はもう一度私の名を呼んだ。大きく目を見開いた彼女の顔がすぐ近くにあり、下半身に彼女の肌を感じた。やがて彼女の右手が私のものを誘導し、身体がその一点で重なった。
「千鶴」
「河時根、好きよ」
熱い吐息がかかり、私は再び目を閉じるしかなかった。彼女の髪が私の顔を覆う。私は両手で彼女の動く尻と背中をしっかりと支えた。
生まれて初めて味わう感触だった。これ以上甘美なものは世の中に存在しないのではないか。
「いい」
彼女が私の首にすがりついて言うのに、私は何度も同意する。波の音が遠ざかり、彼女のあえぎと身体の動きが激しくなり、私は自分が昇りつめていくのを知った。喜びが私の身体を揺らし続け、それから波がひくように、動きをおさめた。
「このまま動かないで」
千鶴は私の胸に顔を押しあてて呟いた。再び海の音が届きはじめる。風の揺らぎとともに霧雨が顔に降りかかった。
「寒くない?」
私は訊く。
「大丈夫。お願いだから、まだこのままにしていて」
千鶴は私の目をみつめて微笑する。私は彼女のむき出しになった下半身を撫でる。私のものに触れている部分の温かみとは裏腹に、背中の窪みから尻の膨らみにかけての皮膚は冷たかった。
頭を起こして彼女の唇を求めた。二人の身体が再び上と下で固く結びつき始めるのを感じた。今度は私が腰を動かす番だった。
千鶴は驚き、私にしがみつく。私は彼女の体を抱きかかえたまま砂の上をころがった。
「待って」
彼女は手を伸ばし、脱ぎ捨てていたモンペを身体の下に押し込む。上体を立てた私から離れまいとして、彼女もまた首を起こして私の胸にしがみついた。くの字に重ね合わせた身体を私は無我夢中で動かし続けた。喉を鳴らして荒い息を吐き、最初に昇りつめたのは千鶴のほうだった。何秒かして私にもその歓びがきた。
私は動きを失った身体をそのまま千鶴の上に落とし、息を継いだ。
「千鶴、好きだ」
私の声に、彼女は目を閉じたままで頷く。》


一気にこの緊張した艶めかしい濡れ場のクダリを読み終わり、張り詰めた気持から解き放たれて、ふぅーっと自分の中で溜め息をついたとき、右からの視線をふいに感じたので、ひそかに目だけを動かして隣をそっとうかがいました。

そのかすかに横に動かした自分の不意の視線に反応し、あわてて逸らしかけた隣の女性の視線とが、虚空でかすかに交錯する瞬間がありました、その驚きと戸惑いの表情から、いまのいままで彼女が自分の開いている頁を黙読していたことは明白です。

自分は一度視線を戻し、改めてチラ見したその彼女の横顔には、明らかに自分に対する「いやらしい」という嫌悪の色がありました。

いままで傍らから自分の本をじっとのぞき見して、黙読していたのは明らかです。

これは、実にショックでした。これじゃあ自分がまるでエロ本を愛読している(いやらしい本を読んでいるところを若い女性にわざと見せつけて、嫌がるのを楽しむ露出狂の)変態みたいじゃないですか。

繰り返しになりますが、この小説はとても重厚な作品で、炭鉱で働かせるために強制連行してきた朝鮮人の苦難が全編に描かれている小説で、とくに前半の差別と虐待の描かれている部分は壮絶で、後半はその深い傷を負った主人公がそれまで目をそらしてきた憎しみの記憶に立ち向かっていくという回顧から構成されているのですが、上記の「濡れ場」はこの部分だけ、460頁ある中のほんの2頁にすぎないのです。

毎朝、自覚的・習慣的にエロ本を常に読んでいて、そのことを軽蔑されるならともかく、朝鮮人強制連行と虐待を告発したゴクまじめな硬派な小説に人知れず真摯に取り組んできた458頁分の苦労をですよ、たったの、それもたまたま遭遇した艶めかしい2頁のために軽蔑されるなんて実に堪え難いものがあります。

その女性にこの文庫本の全頁をペラペラと開き示して、この小説がいかに全編を通して真摯なものであるのかを弁解したいくらいでした。

しかし、あの部分

《「ちょっと待って」
という彼女の声を、海の音と一緒に聴いた。
「河時根」
彼女はもう一度私の名を呼んだ。大きく目を見開いた彼女の顔がすぐ近くにあり、下半身に彼女の肌を感じた。やがて彼女の右手が私のものを誘導し、身体がその一点で重なった。
「千鶴」
「河時根、好きよ」
熱い吐息がかかり、私は再び目を閉じるしかなかった。彼女の髪が私の顔を覆う。私は両手で彼女の動く尻と背中をしっかりと支えた。
生まれて初めて味わう感触だった。これ以上甘美なものは世の中に存在しないのではないか。
「いい」》

う~ん、まあ、本当に感じなかったのかといえば、やはり嘘になりますか。


それからの小一時間は、いままで経験したことのない気まずく苦痛に満ちた時間でした。



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# by sentence2307 | 2018-04-19 10:00 | Comments(0)
つい先日、平昌オリンピックで銅メダルを獲得したカーリング女子の吉田知那美選手が、インスタグラムに、5人の選手たちがリラックスしている写真をアップしたことがさっそくmsnのニュースで取り上げられていたので、ついつい見入ってしまいました(https://www.instagram.com/chinami1991/)。

そして、その記事には、日本中から寄せられた多くの反響も掲載されていて、まだまだ、彼女たちの人気が熱く続いているのがこのことからでもよく分かります。

最近では自分なども、パソコンのスイッチを入れて最初にすることといえば「ロコ・ソラーレ」検索なのですが、期待に反してなかなか更新されない情報を繰り返して見たりして、優に小一時間は費やしてしまいます。

とにかく、このフィーバーのなかでも、彼女たちが「大都会・東京・銀座」などに色目を使うことなく、また、パレードで使うクルマも市のトラックを強引に改造したものだし(それでも清掃車なんかじゃなくてホント良かったと思うくらいの勢いです)、パレードのコースも北見市のメイン通りなんかではなくて、たぶん普段は人通りの途絶えた狭い道の商店街(ニュースでは、その「普段」のシャッター通りの寂れ具合も紹介していました)と、手を振る先には知り合いが何人もいるらしい顔見知りの北見市民という、その和やかな徹底した「地元感覚」にはとても好感が持てましたし、また、アスリートとしての潔さにも痛快なものを感じました。

you tubeでアップされていた当地のテレビ番組もローカル色満載で、よくぞ地元の活性化のために尽くしてくれたという手作り感満載のアットホームな感じと、故郷の地にしっかりと足を付けて活動する選手たちへのリスペクト感が顕著で(選手たちを前にして感無量になった市長の号泣もですが)見ていて大変気持ちよく、トレンディな話題を片っ端から使い捨てていく中央メディアの冷ややかな客観視とか歪んだ揶揄とか、意地の悪い批評家の愚にもつかない皮肉にすっかり慣れてしまっている「中央・東京」なんかに関わり合っていたら、なかなかこうはいかなかっただろうなといった思いを強くしました。

自分も前回、このブログで、まだまだ続く最近の熱狂ぶりを追いかけるかたちで、ネットやyou tubeで見聞きした「ロコ・ソラーレ」知識を自分なりにまとめてみたのですが、なにしろ5人の選手(本橋麻里・吉田知那美・藤澤五月・吉田夕梨花・鈴木夕湖)のそれぞれ違う人生が交錯しながら、「平昌オリンピックで銅メダルを獲得」という感動の一点に集約されていくことを整理するための苦肉の策として、5人それぞれの出来事を年度でまとめた「5人同時年譜」というのを作って、当初は、コラム「夢は常呂で結実した ロコ・ソラーレ(どれくらいだい)物語」を書くための単なる手控えだったのですが、我ながらあまりの出来栄えのよさに感心し、恐る恐るアップした次第です。

そして、結局、読み返すことが多いのは、この「5人同時年譜」の方で、そんなふうにこの年譜を何回か読み返していると、あることにふと気が付きました。

2010年に本橋麻里が、チーム青森を脱退して常呂町に戻り、「ロコ・ソラーレ」を立ち上げようとしたときの記者会見の様子(8月16日)をいまでもyou tubeで見ることができます。

そこで彼女は、こう言っています。

「私、本橋麻里は、約15年間活動させていただいたチーム青森を離れる決意をいたしました。同じ故郷の仲間と一緒にチームを組みます。」

カーリングの聖地と言われる常呂町で、なぜ選手が残れないのか、という彼女の素朴な疑問と望郷の思いが、こうして本橋麻里を故郷に帰らせたのですが、そのことに関して別の場所ではこうも言っています。

「いざ北見という大きな町から見ると、常呂町はそんなに賑わっていなかった。(選手を地元にとどまらせるだけの支援してくれるスポンサーがなかった)」と。

そして、チーム名・ロコ・ソラーレが、「常呂の子+solare」という言葉の組み合わせから命名されたということを聞くにおよび、当初、ロコ・ソラーレを立ち上げようとした本橋麻里の念頭に「常呂町」という意識はあっても、はたして「北見市」というところまであったのかどうかという疑問をもちました。

つまり、「LS北見」という呼称(または通称)は、常呂でのスポンサー探しに苦慮し、徐々に「北見市」まで交渉の幅を広げていかなければならなかった必要的・現実的な問題として「LS北見」という呼称が便宜的に生み出されたのではないか、と考えました。

自分が思うに、本橋麻里が常呂町に戻ってチームを作りたいと考えたとき、当初、彼女の念頭にあったものは、かつて、自分も所属していたオリンピック日本代表の「チーム青森」を倒した地元の(当時)中学生チーム『常呂中学校ROBINS』(小野寺佳歩、鈴木夕湖、吉田知那美、中川ともな、小笠原茉由、そして吉田夕梨花が所属していました)で、「常呂町にこだわったチーム」づくりを地元で結成すると表明したときの具体的なイメージとしてROBINSがあったのではないか、だから、その固有のチーム名としては「ロコ・ソラーレ」でなければならなかったというわけで、少なくとも、そのとき・そこにはまだまだ「北見」は想定されてなかったのではないかと思われて仕方ありません(つまり、「藤澤五月」の存在です)。

やがて、常呂町では有力なスポンサーが思うように見つからず、交渉先を北見市内まで広げていく苦心の過程で「LS」に「北見」を付け足さざるを得なかったという、いわば苦し紛れの「公武合体論」みたいなものだったのではないかと。

いまから見ると、「ECOE」の馬渕恵と江田茜はともかく、当時まだ学生だった小柄な吉田夕梨花と鈴木夕湖はいかにもひ弱な印象をあたえ、それにまだまだ動きもぎこちなく(いかにもマッチョないまから見ると実に隔世の感があります)、当時連覇を続けていた無敵のパワーチーム「中部電力」や「北海道銀行」には明らかに劣る、いかにも頼りないという印象を受けてしまいますが、本橋麻里の構想としてあった『常呂中学校ROBINS』再結成のコダワリを考えれば、とにかく彼女たちの将来性に賭けてみようとした本橋のその我慢の起用には納得できます。しかし、結局、彼女が「未熟さに賭けた」その分だけ、ソチ五輪世界最終予選日本代表戦には間に合わなかったということになるでしょうか。

そして、ソチ五輪を迎えようとしたとき、彼女たちがそれぞれに経験した挫折によって、事態は大きく動き出します。

2013年9月、本橋麻里のLS北見は、どうぎんカーリングスタジアムで行われたソチ五輪世界最終予選日本代表決定戦の予選リーグで3勝3敗としてタイブレークとなった中部電力(スキップ藤澤五月)との試合で2-10と敗れて、4チーム中3位で、3大会連続のオリンピック出場を逃します。

この場面はyou tubeで見ることができて、氷上で顔を背け合って幾度かすれ違う二人(敗れて憮然とした本橋と勝利の笑みを噛み殺すような藤澤のツーショットがとても印象的です)の固い表情が忘れられません。

しかしそのソチ五輪出場の大本命といわれた中部電力の藤澤五月も、世界最終予選日本代表決定戦で「追われる立場、負けられないプレッシャー」に圧し潰され、小笠原歩率いる北海道銀行フォルティウスに惨敗し出場を逃します、藤澤自身「どうしたらいいかわからなくなった」というほどの大きな動揺と挫折を味わいます。

2014年2月、北海道銀行フォルティウスの補欠だった吉田知那美は、ソチ五輪において急病の小野寺に代わってセカンドをつとめ、予選リーグで9試合中8試合(リード2試合、セカンド6試合)に出場し5位入賞と大きく貢献したものの、その直後の選手村のその場所で北海道銀行フォルティウスから戦力外通告を受け、「思い出すと涙が出る」ほどの悔しさを味わいます。

そして3月、北海道銀行を退職した吉田知那美は、「何もない状態で」郷里の常呂町へ戻り、カーリングからの引退も考えていたときに、本橋麻里から「一緒に日本代表を目指してもう一回やろう」と誘いを受け、熟慮の末の6月、ロコ・ソラーレに加入します。

たとえ偶然が重なったとはいえ、吉田知那美の加入は、本橋麻里の「常呂中学校ROBINS再結成」構想に沿ったもので、吉田知那美の躊躇の数か月があったとしても、それを待つくらいはなんでもないほどに本橋の吉田知那美加入を求める強い思いは厳然としてあったと予想できます。たぶん、この関係をひとことで言えば「相思相愛の絆」で結ばれたものとでもいうことができると思います。

しかし、藤澤五月がロコ・ソラーレに加入する経緯を同じように考えると、なにかとても違和感があって、どこかに大変な無理があるような気がして仕方ありません。

ましてや、「相思相愛」などというイメージには程遠い、どこを探しても懐柔などあり得ない修復不能な関係のように思えて仕方ありませんでした(もちろん私見です)。

たぶん自分の頭の中には、あの残像(敗れて憮然とした本橋と、勝利の笑みを押し隠すように俯く藤澤の不自然な表情のふたりが顔を背け合って氷上ですれ違う姿)がいつまでも強く残っているからだと思います。

ロコ・ソラーレを結成した2010年以降、チームが低迷を続けてきたのは、大切な局面で常に藤澤五月のいた強力な中部電力が立ちはだかり、苦汁を飲まされ続けてきたからだといっても決して過言ではないくらい藤澤五月の存在は大きく、大切な場面で何度も彼女に負け続けてきたといってもいいくらいのロコ・ソラーレでした。

自分たち社会の一般常識からすると、そうした過去の経緯や悪関係を考えれば、本橋麻里が抱く藤澤五月に対する感情は、そう簡単には払拭できるような代物では決してなく、価値観が180度ひっくり返るような何か重大な転機とかが起こらなければ二人の間にできた積年の溝は、そう簡単には埋められないように感じていました。

ましてや、本橋麻里が元ROBINSの吉田知那美の加入を強く望んだようにして、はたして藤澤五月の加入を自分から強く望むだろうか、とても疑問です。それに藤澤五月の加入を求めるということは、自分のスキップとしての場所を譲り渡すことも同時に意味していたわけだし、それでも平昌五輪出場とメダル獲得という大義のために本橋麻里は大人の判断を下したのだろうか、という疑問に捉われていたときに、偶然ある記事に出会いました。

藤澤五月をスキップとしてロコ・ソラーレに迎えたいと望んだのは、コーチの小野寺亮二だったという記事です。
そのへんのイキサツをWikiはこう書いています。


2015年3月末、藤澤五月は中部電力を退社した。「地元の北海道北見市での活動を検討している」と報道された。失意を抱きながら故郷の北見に帰った藤澤は、本橋麻里(ロコ・ソラーレの創設者)と会食の機会を持った。その席で、「さっちゃんも入らない? 私たちは、もう次に進んでいるよ」という本橋の言葉に心を動かされて、ロコ・ソラーレへの移籍(入団)を決心した。北見市にある保険代理店株式会社コンサルトジャパンに所属し、事務として勤務しながらトレーニングを行うようになる。
しかし、移籍後しばらくは練習に思うようについていけず、試合に勝てない日々が続いた。そんなあるとき、「さっちゃんの、やりたいようにやればいいんだよ」という本橋の言葉がきっかけで、前向きな気持ちを持てるようになっていった。そして、ロコ・ソラーレのチームメイトと共に練習や試合を積む過程で、自分が先頭に立ってチームを引っ張らなくてもいい、弱みを見せてもいい、頼れる仲間に出会えているから「ひとりじゃないんだ」と考えることができるようになり、自信を取り戻せたという。


なるほど、なるほど、誰が最初に声をかけたかとか、誰が折れて、誰が会食の席を設けたとか、アスリートには、そんなささいなこと、関係ないのかもしれませんね。

でも、これってなんだか坂本龍馬が仲立ちした薩長同盟結成の場みたいな感じもしますよね。


【年表・ロコ・ソラーレが藤澤五月に敗れ続けた日々】
2010年7月、元「チーム青森」で旧常呂町出身の本橋が関係者と共に新しい環境の元、同町の出身者5名(本橋・馬渕恵・江田茜・鈴木夕湖・吉田夕梨花)により結成。
2010年12月、オホーツクブロックカーリング選手権初優勝。
2011年1月、北海道カーリング選手権初優勝。第28回日本選手権への出場権を獲得。
2011年2月、第28回日本カーリング選手権に初出場。予選で全勝し1位でプレイオフに進出したが、プレイオフで敗れ、3位。
2012年2月、第29回日本カーリング選手権で初の決勝進出を果たす。決勝では藤澤五月率いる中部電力カーリング部に敗れ、準優勝。
2013年2月、第30回日本カーリング選手権で4位となり、ソチオリンピック世界最終予選日本代表決定戦への出場権を得る。
2013年9月、ソチオリンピック世界最終予選日本代表決定戦にて、決勝進出を賭けたタイブレークで藤澤率いる中部電力に敗れ、ソチ五輪出場権を得られなかった。
2013年10月、アドヴィックス常呂カーリングホールが落成。チームの活動拠点となる。
2014年6月、北海道銀行フォルティウスから、旧常呂町出身の吉田知那美が移籍加入。
2015年2月、第32回日本カーリング選手権で2度目となる決勝進出を果たしたが、決勝で北海道銀行フォルティウスに敗れ準優勝。
2015年4月、馬渕恵が選手活動を引退。
2015年5月、中部電力カーリング部から北見市出身の藤澤五月が移籍加入。
2015年11月、本橋の産休のため、第25回パシフィックアジアカーリング選手権(PACC)には帯広市出身の石崎琴美が参加。同大会で日本勢10年ぶりの優勝を達成。
2016年2月、第33回日本カーリング選手権大会にて、決勝でチーム富士急に勝利。3度目の決勝進出にして日本選手権初優勝を達成。世界選手権と翌シーズンのパシフィックアジアカーリング選手権の出場権を獲得。
2016年3月、世界選手権にて一次リーグを9勝2敗の2位で突破。決勝でスイスに敗れたが、日本勢初の準優勝。銀メダルを獲得。
2017年9月、平昌オリンピック日本代表決定戦(3勝先勝方式)で中部電力に3勝1敗で勝ち平昌五輪代表権を獲得。
2018年2月、平昌オリンピックに日本代表として出場。予選4位でカーリングの日本チームとして五輪初の準決勝に進出した。準決勝の韓国戦は延長戦の末7-8で敗れたが、3位決定戦でイギリスを5-3で破り銅メダルを獲得した。




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# by sentence2307 | 2018-04-07 17:28 | 映画 | Comments(0)
このところ「映画について書く」というモチベーションが著しく低下しているのが自分でもはっきりと分かります。

「このところ」というのを、期間で限定すれば、「韓国・平昌で開かれたオリンピックの一連の競技をテレビで観戦していた期間」ということになるでしょうか。

そして、その期間で見た映画というのを具体的にあげれば、例えば「猫なんか呼んでもこない」とか「ラ・ラ・ランド」、「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」「プリズン・エクスペリメント」(これなんか無理して見続けたことさえ後悔しています)、「コードネーム:ホレッツ」(前作で既にキレていたので、こちらは途中で見るのをやめました。なにも無理して見ることもありませんし)で、そうそう、見たということを記憶・記録として書き留めておくことさえ嫌悪を感じる「珍遊記」というのもありました。

まあ、「珍遊記」に関して言えば、その少し前に中国映画「人魚姫」という破天荒な作品を見てそのハチャメチャ振りに抱腹絶倒、あそこまで徹底していればもはや「芸術の域」に達したも同然と関心した余韻もあり、このジャンルの映画に対してとても無防備になり過度な期待をもってしまいました、これはそもそも柳の下に2匹目の泥鰌を期待した自分の方が悪いので、文句を言う筋合いではないのかもしれませんが、よりにもよってあんな愚劣な映画「珍遊記」など作らなくたっていいだろうという腹立たしさというか、いずれにしても結局は「嫌悪感」に行きついてしまうという惨憺たる映画でした。

でも、ここにあげた鑑賞リストのなかには、オスカー受賞作やメディアで大きく取り上げられた話題作「ラ・ラ・ランド」「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」(いつもの自分ならトレンディな「宮沢りえ」ネタでなにかちょっとしたものを書けたかもしれませんが、映画自体は、宮沢りえに肝っ玉かあさんは似合わないだろうという印象にとどまりました)もあるわけですから、すべての作品に対して「嫌悪感」とか「愚劣」とかがあてはまるわけではないのですが、いずれにしても、どの作品も自分のモチベーションをあげるのには正直もうひとつなにかが足りなかったという感じでした。

あっ、そうそう、1本だけリストに入れるのを忘れていた作品がありました、たまたまインターネットで佐藤祐市監督の「シムソンズ」2006を流していたので、加藤ローサが懐かしくて見てみました(しかし彼女、決して過去の人なんかじゃなくて、タントCMに出ていることをあとで知りました)、その見た理由というのは、「懐かしさ」というのもひとつありますが、むしろ平昌オリンピックで銅メダルを獲得したカーリング女子の吉田夕梨花選手がエキストラとして出演していると聞き、ぜひその場面を見てみたいというのが主たる動機です。

結果は、残念ながら彼女を発見することはできませんでしたが、しかし諦められず、ネットで「ヒント」となるものを探しまわったのですが、やはり的確な情報を見つけることはできませんでした、その代わりに2006年というと彼女が13歳くらいだと知り、いまの成人したイメージに捉われていたために見つけ出せなかったのかと遅ればせながら納得しました。

自分をその映画「シムソンズ」に引き寄せたものは、今回の平昌オリンピックのカーリング女子、日本対イギリスの3位決定戦でイギリスの最後の一投が微妙にズレ日本の石がナンバーワンになるというあの奇跡の絶叫「ナンバーワンは、日本だ!」から影響されたものなのですが、この銅メダルに至るまでの彼女たちの選手としての軌跡がすこぶる陰影に富んでいて、あまりにもドラマチックなのと(もちろんブームに乗った部分もありますが)、you tubeなどで彼女たちのことを部分的に知るにつれて、この期間に見た映画という映画(「ラ・ラ・ランド」「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」)がことごとく色あせて見えてしまったことと、あるいは関係があるかもしれません。

吉田知那美と吉田夕梨花が姉妹であることと、彼女たちの母親がカーリング選手だったので、この姉妹が小学生から自然にカーリングに親しんだことはTV中継のなかで幾度も紹介されていました。

そして、彼女たちが中学生のときに結成した「常呂中学校ROBINS」(吉田姉妹のほかに同級生の小野寺佳歩と鈴木夕湖)が、日本カーリング選手権に出場し、トリノオリンピック日本代表だった「チーム青森」に予選リーグで勝ち星を挙げて大々的に報じられ中学生旋風を起こしたことは薄っすら記憶しています。ちなみに、ロコ・ソラーレ現コーチの小野寺亮二は、小野寺佳歩の父親です。

敗れた「チーム青森」の小笠原歩選手も常呂町出身で、自分が育成した「常呂中学校ROBINS」の少女たちを「末恐ろしい中学生」とコメントしています。その「チーム青森」には本橋麻里も在籍していて、「常呂中学校ROBINS」に負けた瞬間の場面をいまでもyou tubeで見ることができますが、そこには勝利を喜ぶ吉田知那美や鈴木夕湖の背後で、呆然とたたずむ小笠原と本橋の姿が映し出されていました。

その本橋の呆然とした表情なら、もう一つ見た記憶があります、LS北見がオリンピック代表選考戦で中部電力に敗れた場面、敗れた本橋麻里が表情を硬くして、勝利し満面笑みをたたえた中部電力のスキップ・藤澤五月と顔を背け合って氷上ですれ違う場面です、勝負に生きる者なら当然のことですが、やはり、時を経てやがてオリンピックで共に銅メダルを獲得し、抱き合って喜びを分かち合っていた姿を知っている現在から見ると、いずれもとても違和感のある場面です。

しかし、その本橋の表情には、「負けたショック」とともに、「常呂町」出身者同士が郷土の誇りとは違う部分でぶつかり合わなければならない状況への割り切れない戸惑いが窺われるような気がします、そこには、やがて本橋麻里が常呂町に戻ってロコ・ソラーレを立ち上げる動機のようなものが潜んでいたのかもと見るのは、都合のいい思い込みかもしれませんが。

その「常呂中学校ROBINS」の生徒たち、吉田知那美・小野寺佳歩・鈴木夕湖らを担任していたのは、のちにチームメイトとなる藤澤五月の父親で、また、ROBINSの選手・鈴木夕湖と藤澤五月とは、父親が従兄弟同士のはとこにあたるなど、知れば知るほど奇縁で結ばれており、まるでご都合主義のフィクションのようで、you tube閲覧にもついつい熱が入り嵌まり込んでしまいました。
 
いえいえ、これだけなら傑作・秀作・名作の「ラ・ラ・ランド」「ムーンライト」「ヒッチコック 幻の映画」「プレシャス」「湯を沸かすほどの熱い愛」を差し置いて「ロコ調査」に熱中なんかしやしません。

「ロコ・ソラーレ」加入に至る選手たちの軌跡が、これまたさらにドラマチックなのです。

まず、いかにもアイドルみたいな容貌の創設者・本橋麻里、かつて、カーリングという競技に対してではない部分で「カーリング・ブーム」が巻き起こった際、メディアの関心のされ方に違和感と危惧と反発を漏らしていた彼女の印象が、もうひとつリアルさに欠けているという印象を持ったのは、彼女の「化粧好き」にあったのかもしれません。

「なんだか言っていることと、していることと矛盾してね」という感じです。

オリンピック期間中、藤澤五月のことを天才スキップと称されていたことが紹介されていましたが、それを言うなら中学生にしてオリンピック代表「チーム青森」を倒した吉田知那美だって十分に天才だと思いますが、しかし、ひとつの信念から無の状態のチームを立ち上げ、わずか10年たらずでオリンピックのメダル獲得にまで到達させた本橋麻里の手腕は、選手としても経営者としても管理者としても、まさに天才といってもいい業績だったと思います、少なくとも実業団チームでは為し得なかった快挙です。実業団チームが為し得たことは、実力ある選手を戦力外として見放し、使い捨てて、その管理者としての無能ぶりを後世に伝え世界の笑いものになることくらいがせいぜいだったわけですからね、北海道銀行さん。

そして、「ロコ・ソラーレ結成」から今回の「凱旋会見」まで、今回you tubeをいやというほど見て、はじめて気が付いたことがありました。

数々のタイトルをとり、華々しい戦歴を重ねて十代でオリンピック出場を果たして、その「オリンピック出場・メダル獲得」という視点は常にぶれることなく、もうひとつのコンセプト・郷土愛(「正解」のような気もしますが、スポーツの世界にあっては、ローカルにこだわることは資金面や人的資源からみて、とてもリスキーな賭けでもあります)を前面にだして「ロコ・ソラーレ」を結成して、マイナーな場所(常呂が「聖地」といわれながら、それを本気にしている人など誰一人いなかったのではないかと思います。)にこだわって出発した彼女にとって、「化粧」は、その「微笑」や「涙」と同じように、他人から不安や本心、素顔や内面を読まれないようにシャッタアウトするための仮面=武装なのだと。彼女にあって、たとえそれが「号泣」や「歓喜」や「驚愕」のように見えても、いや、故郷から遠く離れ、故郷を失ったうえで、他国で勝利の栄光をあびることの無意味と空虚と苛立ちを、彼女の「化粧」が、しっかりと覆い隠していて、本当の部分までは分からない、どこか冷めている印象を受けるのは、たぶんそのためだったと思いますし、メダル獲得後に「芸能プロダクションと契約してブームにのって荒稼ぎ」という噂を一蹴したのも、彼女のブレのなさと強い意志とを感じました。

吉田知那美がソチ・オリンピック終了直後、コーチからキミは来季の構想にないと戦力外を言い渡され、その直後の会見で、「私が能力以上の場所に身を置けたのは自分の貴重な財産ですし・・・」と話しながら、突然絶句し、言葉を発せられないくらいの嗚咽に身を震わせはじめる映像でもっとも印象的なのは、その明らかにブザマな嗚咽を取り繕うかのように瞬間にみせる彼女の不自然で痛ましい微笑です。そのとき、その無防備な嗚咽は、まるでいじめにあった弱々しい中学生という印象を受けました。実は、その通りだったのですが。

郷里の凱旋会見で「いまは、ここ(常呂)にいなければ、夢は叶わなかったと思います」というコメントは、故郷にいたのでは夢は叶わないと一度は故郷を捨て、しかし、都会で企業から使い捨てという過酷な仕打ちを受けてすべてを失い、追い立てられるように失意の中で帰省した彼女の、しかし、その逆境を跳ね返した以前とは打って変わった力強い本音だったからこそ、多くの人に感銘を与えたのだと思います。

笑顔こそが最強の武装・武器になると本橋麻里から学んだ吉田知那美の「悟り」だったのだと思いました。

中部電力のスキップ時代の藤澤五月の映像を見ていると、今回の平昌オリンピックの氷上でプレイしている見違えるくらい美しい藤澤五月が、同一人物とは到底思えないくらいの違和感を覚えます。

重圧のもとで投げられた最後の一投が軌道をはずれ、目指す石に掠ることもなく、むなしく流れる石の行方を呆然と見つめるあの素顔の悲痛な表情は、平昌オリンピックの氷上ではどの試合においても見つけ出すことはできませんでした。

自信にあふれ、追い詰められた局面でも微かに微笑み、氷の状態をもういちど仲間と確認し、とにかくゆっくり投げ出せば、リードとセカンドがスウィーピングでいい位置に運んでくれるという余裕さえうかがえます。

そこには、かつて中部電力時代に、責任をひとりで抱え込み、仲間の慰めを拒むような切迫した孤立感で氷上に呆然とたたずむ彼女の姿は、平昌オリンピックにおいては、もうありませんでした。

失敗を引きずらない強さと、チームワークと世界を振り向かせた美しさ(の武装)もまた、本橋麻里から学んだものに違いありません。

この小文は、北見市で行われた凱旋パレードをyou tubeで見ながら書きました。北見市でおこなわれた凱旋パレードのあと、市民会館の報告会で、吉田知那美は、パフォーマンスではなく、カーリング選手としての自分たちの姿を見て欲しいと涙ながらに訴えた姿が印象的でした。




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# by sentence2307 | 2018-03-21 17:22 | 映画 | Comments(0)

【1986年】本橋 麻里
北海道北見市(旧常呂郡常呂町)で生れる。


【1991年】藤澤 五月
5月、北海道北見市美山町で生れる。
【1991年】吉田知那美
7月、北海道常呂郡常呂町(現:北見市)で生れる。
【1991年】鈴木 夕湖
北海道常呂郡常呂町(現・北見市)で生まれる。チームメイトの藤澤五月とは父親が従兄弟同士のはとこ。
「夕湖」という名前は母が妊娠中によく見に行っていたサロマ湖の夕陽に由来し、夕陽のようにきれいに育って欲しいという想いから名付けられた。身長145㎝と非常に小柄であり、「カーリングちび部部長」を自ら名乗っている。


【1993年】吉田 夕梨花
7月、北海道常呂郡常呂町(現在の北見市常呂町)で生まれる。
母と姉の影響で、5歳でカーリングを始める。


【1996年】藤澤 五月
藤澤五月がカーリングを始めたのは5歳のとき。北見市立常呂中学校の教員で、元カーリング選手にして長野オリンピックの最終候補選手に選ばれていた父にカーリングリンクに連れていってもらったのがきっかけだった(3人きょうだいの末っ子で、兄姉も父の影響でカーリングを始めていた)。同年代の子どもと比べ体が大きく、重さ約20kgの大人用ストーンを操れる天性の技術を既に持っていた。姉曰く、子ども時代から既に「負けん気がすごかった」という。姉と同じ、地元・北見のチーム「ステイゴールドII」でプレーするようになる。
中学1年生のとき、父は「感覚よりも理論を重視する」藤沢の素質を見出し、姉と交代する形でチームの作戦を立てるスキップを任せるようになった。後にチームメイトになる吉田知那美は、練習試合で藤澤のチームと対戦したときに「同い年と聞いたけど、私たちとは比べものにならないくらいうまかった」と思ったという。


【1998年】本橋 麻里
12歳の時に、常呂カーリング協会初代会長・小栗祐治に誘われてカーリングを始める。
【1998年】吉田知那美
常呂町が日本カーリングの本場でもある環境もあり、小学校2年からカーリングを始め、4年次から大会に出るようになる。
【1999年】鈴木 夕湖
小学校2年生からカーリングを始め、このころから同級生の吉田知那美と、その2歳年下の妹である夕梨花姉妹とは一緒にプレーしていた。


【2000年】本橋 麻里
3月、第13回常呂町ジュニアカーリング選手権大会優勝。

【2001年】本橋 麻里
第9回北海道ジュニアカーリング選手権:3位(マリリンズ)

【2002年】本橋 麻里
1月、第10回日本ジュニアカーリング選手権大会優勝。(「マリリンズ」所属・スキップ)。
第19回日本カーリング選手権:2位
3月、第15回世界ジュニアカーリング選手権に出場(スキップ)。最終順位は10位(最下位)。しかし本橋個人はリンク上、またリンクを離れた場所におけるスポーツマンシップの奨励を目的とした「スポーツマンシップアワード」を受賞(出場選手から構成される委員会における投票により、男女各1名が選出される)。

【2003年】本橋 麻里
「河西建設女子」にリザーブとして加入。
第11回日本ジュニアカーリング選手権:2位(マリリンズ)
第22回北海道カーリング選手権大会:優勝(河西建設女子)
11月、第13回パシフィックカーリング選手権大会:優勝。
【2003】吉田知那美
北見市立常呂中学校入学後、2歳年下の実妹である吉田夕梨花、同級生の小野寺佳歩・鈴木夕湖らと共に『常呂中学校ROBINS』を結成しスキップを務める。
常呂中学での担任は、のちにチームメイトとなる藤澤五月の父で、藤澤五月は同じチームの鈴木夕湖とは父親が従兄弟同士ではとこにあたる。

【2004年】本橋 麻里
2月、第21回日本カーリング選手権(女子の部):3位(河西建設女子)
4月、第26回世界カーリング女子選手権大会:最終順位7位。
第14回パシフィックカーリング選手権:優勝

【2005年】本橋 麻里
2月、「青森県協会(「チーム青森」)」から負傷によりチームを一時離脱した目黒萌絵に代わり、第22回日本カーリング選手権(女子の部):2位(青森県協会)
3月、引き続きチーム青森に帯同して第27回世界女子カーリング選手権出場。最終順位は9位。この結果、2006年トリノ五輪カーリング競技における日本女子チームの出場権(同選手権における過去3年間の国別ポイントの累積によって決定される。この場合は03~05年の累積。)を獲得。
4月、青森明の星短期大学に入学。それに伴い「チーム青森」に正式加入。
社団法人日本カーリング協会(JCA)の強化指定選手に選出される。
11月23日、オリンピック冬季競技大会日本代表(女子)選考会に出場。第1戦目で「チーム長野」に勝利し、同五輪カーリング競技日本代表権を獲得。

【2006年】本橋 麻里
2月、トリノ冬季オリンピックカーリング競技女子の部に出場(セカンド)7位入賞。
3月、第23回日本カーリング選手権・優勝。同選手権終了後、「チーム青森」から小野寺歩(スキップ)、林弓枝(サード)の両名が離脱(公式声明発表、同年5月17日)。
5月19日、主力メンバー(小野寺、林)の離脱に伴う「チーム青森」の戦力低下を考慮した日本カーリング協会が、協議により「チーム青森」、「チーム長野」の両者による2007年世界女子カーリング選手権大会日本代表チーム選考会の開催を決定。
5月31日、「GALLOP」(長野県カーリング協会)の山浦麻葉が「チーム青森」に加入。ポジション編成の刷新が行われた同チームにおいてサードに就任。
11月、第16回パシフィックカーリング選手権出場・最終順位3位。
12月17日、2007年世界女子カーリング選手権大会日本代表チーム選考会出場。「全5戦中3勝したチームが代表権を得る」という条件の下、3勝2敗で代表権を獲得。
【2006年】吉田知那美
3月、日本カーリング選手権に常呂中学校ROBINSとして出場し、トリノオリンピック日本代表だった『チーム青森』に予選リーグで勝ち星を挙げ中学生旋風を起こした。
中学卒業後は北海道網走南ヶ丘高等学校へ進学。常呂中学校時代の仲間と共に『常呂中学校ROBINS』からチーム名を『常呂JJ』に改め、引き続き同じチームでプレー。しかしメンバーの進学先が異なっていたこともあり、チーム練習の時間が思うように取れず、中学校時代のような成績を挙げることは出来なかった。
【2006年】吉田 夕梨花
北見市立常呂中学校入学、2歳上の姉(吉田知那美)、姉の同級生だった小野寺佳歩・鈴木夕湖らと共に『常呂中学校ROBINS』を結成。
カーリング映画『シムソンズ』に選手としてエキストラ出演する。
【2006年】鈴木 夕湖
北見市立常呂中学校で吉田姉妹、小野寺佳歩らと共に常呂中学校ROBINSを結成する。中学時代の2006年(第23回大会)と2007年(第24回大会)には北海道代表として日本カーリング選手権大会に出場し2年連続で3位入賞を果たした。カーリングのほか、中学の部活動ではバスケットボール部に所属していた。


【2007年】本橋 麻里
1月、2007年冬季ユニバーシアードトリノ大会カーリング競技出場・最終順位3位。
1~2月、軽井沢国際カーリング選手権大会2007出場。最終順位3位。
2月、第24回日本カーリング選手権優勝(女子の部):優勝(チーム青森)
3月、青森明の星短期大学卒業。
3月、第29回世界女子カーリング選手権大会・最終順位8位(タイ)。
4月、八甲田ホテル(青森市)入社
6月、同社を退社。
7月、NTTラーニングシステムズ株式会社と所属契約を締結(2010年6月までの3年契約)。
「チーム青森」リーダーに就任。但し、第29回世界女子カーリング選手権終了までは寺田桜子が主将、目黒萌絵がスキップをそれぞれ務めている。また、チームにおけるリーダーの定義・役割は明らかにされていない。
11月、第17回パシフィックカーリング選手権出場・最終順位2位。 なお予選リーグ終了時の成績が中国チームと同一であったため、両チーム各4人がストーンを投げ、ハウスの中心までの距離を合計した結果を競う「チームドロー」が行われた。その結果、予選リーグ2位となった日本チーム(「チーム青森」)は、大会ルールにより同3位の韓国チームと世界選手権出場チーム決定戦を行い、これに勝利し、日本女子チームの第30回世界女子カーリング選手権(2008年開催)への出場権を獲得した。
【2007年】藤澤 五月
北海道北見北斗高等学校に進学。スキップを務めて、高校1年生(2008年)、2年生(2009年)の2年連続で、(「チーム北見(ステイゴールドII)」)日本ジュニアカーリング選手権優勝、世界ジュニアカーリング選手権出場を果たす(また、パシフィックジュニアカーリング選手権でも日本ジュニア代表として2大会連続優勝を果たしている)。このときには既に、「天才」の称号を欲しいままにする存在になっていた。
【2007年】吉田 夕梨花
第24回日本カーリング選手権では常呂中学校旋風を起こして3位に入賞。吉田はこの時13歳で当時の日本選手権最年少出場者だった。


【2008年】本橋 麻里
2月、第25回日本カーリング選手権・優勝(チーム青森)。同年3月に開催される第30回世界女子カーリング選手権の日本代表権を獲得した。
2月、軽井沢国際カーリング選手権大会2008・準優勝。
3月、第30回世界女子カーリング選手権出場・最終順位4位。
4月、アドミッションズ・オフィス入試により日本体育大学体育学部に入学。
第18回パシフィックカーリング選手権: 3位
【2008年】藤澤 五月
パシフィックジュニアカーリング選手権・優勝
世界ジュニアカーリング選手権・7位


【2009年】本橋 麻里
軽井沢国際カーリング選手権大会2009: 3位
第26回日本カーリング選手権: 優勝 (チーム青森)
【2009年】藤澤 五月
パシフィックジュニアカーリング選手権・優勝
世界ジュニアカーリング選手権・10位
【2009年】吉田知那美
高等学校卒業後にバンクーバー(カナダ)へ留学。当初の留学目的は語学研修だったが、現地での下宿先が日系人カーリングコーチであるミキ・フジ・ロイ邸であったこともあり、改めてカーリングを学び直す。
【2009年】吉田 夕梨花
北海道常呂高等学校進学後、姉の知那美らと共にチーム常呂のメンバーとして第19回日本ジュニアカーリング選手権に出場して2位となる。
【2009年】鈴木 夕湖
化学エンジニアを目指し旭川工業高等専門学校物質化学工学科へ進学。旭川高専ではバレーボール部に所属し、週末は北見へ戻りカーリングを続けた。同校の富樫巌教授に指導を受け、卒業研究のテーマは「クロカビと黒色酵母に対するラベンダー精油の防カビ効果」。



【2010年】本橋 麻里
第27回日本カーリング選手権: 優勝 (チーム青森)
2月、バンクーバー冬季オリンピックカーリング競技女子の部に出場(セカンド)・8位入賞。
3月、第32回世界女子カーリング選手権出場。サードスキップを目黒、フォースを本橋が務めることもあった。最終順位11位。
5月1日、札幌市で行われたイベントで、2014年ソチ冬季オリンピックに向け現役継続を示唆した。
6月10日、自身の24歳の誕生日に所属のNTTラーニングシステムズと2年間の契約更新を発表し、2014年のソチオリンピックを目指す意思があることを明らかにした。
8月16日、記者会見にてチーム青森からの脱退を発表した。同時に新チーム『ロコ・ソラーレ(太陽の常呂っ子を意味する造語)』を結成すること明らかにした。チームは常呂町を拠点とし、メンバーにはいずれも常呂町のカーリングチームである「ECOE」の馬渕恵と江田茜、「ROBINS」の吉田夕梨花と鈴木夕湖の4人が参加する。
【2010年】藤澤 五月
高校卒業と同時に故郷を離れ、長野県を拠点とする中部電力に入社。職員として勤務しながら、同社に結成されたカーリング部の創設メンバーとなる。
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・3位
【2010年】吉田 夕梨花
高等学校2年次にはオリンピック選手の本橋麻里が北見で結成した『ロコ・ソラーレ(LS北見)』に参加した。
【2010年】鈴木 夕湖
7月、高専在学中、本橋麻里が地元・北見市を拠点に結成したロコ・ソラーレに創立メンバーとして参加。のちに「この時マリちゃん(本橋)に誘われてなければ、カーリングを辞めていた」と述懐している。結成初年度には道内の大会で優勝した。



【2011年】本橋 麻里
第28回日本カーリング選手権: 3位 (LS北見)
【2011年】藤澤 五月
入社直後からスキップを務めて、主将の市川美余らと共に、日本カーリング選手権大会を4連覇、また2011年のパシフィックカーリング選手権に日本代表として出場した。
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・優勝
パシフィックカーリング選手権・4位



【2012年】本橋 麻里
第29回日本カーリング選手権: 準優勝 (LS北見)
【2012】藤澤 五月
中部カーリング選手権・優勝)
日本カーリング選手権・優勝
【2012年】吉田知那美
日本へ帰国後、故郷の先輩であり、日本代表として二大会連続五輪出場の実績を持つ小笠原歩からの誘いを受け、北海道銀行フォルティウスに加入。北海道銀行嘱託行員として銀行業務の仕事もこなしながらのプレーであった。フォルティウスでは主にリード(先鋒)を務めていた。この間、中高生時代の仲間で愛知県の中京大学に進学していた小野寺もフォルティウスに加入、再びチームメイトとなる。
【2012年】吉田 夕梨花
東海大学国際文化学部国際コミュニケーション学科へ進学し、学業と競技を両立させながらの活動を続ける。
【2012年】鈴木 夕湖
第29回日本カーリング選手権では準優勝を果たしたが、結成から3年ほどは全国レベルの大会では好成績を残せなかった。
3月に旭川高専を卒業し、4月に北見工業大学工学部バイオ環境化学科へ3年次編入学。北見工大ではキノコの研究を行い、食品研究室に所属。佐藤利次博士に指導を受け、「組換えシイタケによるラッカーゼの発現とウルシ(Toxicodendron vernicifluum)からのラッカーゼ遺伝子の単離」を共同執筆している。



【2013年】本橋 麻里
第30回日本カーリング選手権: 4位 (LS北見)
9月、どうぎんカーリングスタジアムで行われた全農カーリングソチ五輪世界最終予選日本代表決定戦の予選リーグで3勝3敗、タイブレークとなった中部電力との試合で2-10と敗れて、4チーム中3位となり、3大会連続のオリンピック出場を逃した。
【2013年】吉田知那美
12月のソチオリンピック世界最終予選に臨みオリンピック出場決定戦でノルウェーに逆転勝ちし、オリンピック出場を決めた。このときフィフス(リザーブ)であった吉田は、「(出番がくるのは日本のピンチなので)最後まで出番がなくてよかったです」と笑顔で話した。
【2013年】藤澤 五月
ソチオリンピック出場をかけた9月の世界最終予選日本代表決定戦で、「追われる立場。負けられないプレッシャー」に屈する形で、小笠原歩率いる北海道銀行フォルティウスに敗れて出場を逃した。藤澤にとって、「どうしたらいいかわからなくなった」と思うほどの大きな挫折だった。
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・優勝
世界女子カーリング選手権・7位


【2014年】本橋 麻里
第31回日本カーリング選手権: 3位 (LS北見)
【2014年】吉田知那美
2月のソチオリンピックでは競技開幕直前に小野寺がインフルエンザにかかったため、代わってセカンドを務めた。
憧れていたカーリング選手スイスのミリアム・オットに高校時代手紙を送り、返信を貰ったことがあり、ソチオリンピック出場時にはその手紙を持参し、オットのスイスと対戦して勝利した。
予選リーグでは9試合中8試合(リード2試合、セカンド6試合)に出場し5位入賞に貢献した。
ところが、ソチオリンピックの日程終了後、まだソチの選手村にいる段階で北海道銀行フォルティウスからの戦力外通告を受けた(最終戦終了後、五輪公園の会議室で通告されたという。)。通告を受けた時には「リンクに上がることさえ嫌(になる状態になった)」「思い出すと涙が出る悔しさ」と語り、ひとり金沢・富山・軽井沢・東京と一人旅を続ける中でさまざまな出会いを得て、「自分の人生はまだまだこれからだ」と自信を取り戻すことができたという。
3月、北海道銀行を退職。吉田自身が「何もない状態で帰って来ました」という失意のもと郷里の常呂へと戻った。無所属となり、大きなショックを受け一度カーリングから離れる決断もしていたが、地元の先輩である本橋麻里から「一緒に日本代表を目指してもう一回やろう」と誘いを受ける。
6月、当初は断ったが、熟慮の末に本橋が率いるチーム、ロコ・ソラーレに加入した。チーム参加を決断した際には「人生を賭けて、このチームで終わってもいいと思うくらいの覚悟でもう一度戦おうと思いました」という。勤務先はネッツトヨタ北見で、オフシーズンには系列の携帯電話販売店での接客業務などを担当する。
【2014】藤澤 五月
中部カーリング選手権・優勝
日本カーリング選手権・優勝
【2014年】鈴木 夕湖
3月、同大学を卒業。学位は学士(工学)。
大学卒業後は網走信用金庫へ就職したが、業務と競技の両立に悩み、入社から半年での退職を余儀なくされた。郷里の図書館でのアルバイトを経て、ロコ・ソラーレを支援していた北見市体育協会へ就職した。こうした競技続行への不安や失業を経ていることから、その3年後の2018平昌五輪にて銅メダル獲得直後のインタビューでは「(五輪でのメダル獲得を)当初は全く、全く想像してなかったですね こんなこともあるんですねえ、フフフ」と回答している。
同じこの年に、吉田知那美がロコ・ソラーレに加入した。



【2015年】本橋 麻里
第32回日本カーリング選手権: 準優勝 (LS北見)
【2015年】藤澤 五月
3月末、中部電力を退社した。「地元の北海道北見市での活動を検討している」と報道された。
失意を抱きながら故郷の北見に帰った藤澤は、本橋麻里(ロコ・ソラーレの創設者)と会食の機会を持った。その席で、「さっちゃんも入らない? 私たちは、もう次に進んでいるよ」という本橋の言葉に心を動かされて、ロコ・ソラーレへの移籍(入団)を決心した。北見市にある保険代理店株式会社コンサルトジャパンに所属し、事務として勤務しながらトレーニングを行うようになる。
しかし、移籍後しばらくは練習に思うようについていけず、試合に勝てない日々が続いた。そんなあるとき、「さっちゃんの、やりたいようにやればいいんだよ」という本橋の言葉がきっかけで、前向きな気持ちを持てるようになっていった。そして、ロコ・ソラーレのチームメイトと共に練習や試合を積む過程で、自分が先頭に立ってチームを引っ張らなくてもいい、弱みを見せてもいい、頼れる仲間に出会えているから「ひとりじゃないんだ」と考えることができるようになり、自信を取り戻せたという。
パシフィックアジアカーリング選手権・優勝
【2015年】吉田 夕梨花
LS北見のメンバーとして第25回パシフィックアジアカーリング選手権の日本代表決定戦で勝利し、カザフスタンのアルマトイで開催されたパシフィックアジアカーリング選手権本大会に日本代表として出場して中華人民共和国の10連覇を阻止して日本に2005年以来の優勝をもたらした。
【2015年】鈴木 夕湖
藤澤五月がチームに加入してからはセカンドのポジションで出場し、2015年パシフィックアジアカーリング選手権では、優勝をはたす。



【2016年】本橋 麻里
第33回日本カーリング選手権: 優勝 (LS北見)
2016年世界女子カーリング選手権大会: 準優勝 (日本代表)
【2016年】吉田知那美
ロコ・ソラーレでは主にサードを務め、世界女子カーリング選手権大会で準優勝。
【2016年】藤澤 五月
藤澤が自信を取り戻したことで、ロコ・ソラーレは快進撃の道を歩むようになっていく。日本カーリング選手権大会で優勝し、2016年世界女子カーリング選手権大会で準優勝(銀メダル)に輝いた。この世界選手権決勝のスイス戦では、第9エンド終了時点で6-7と相手に1点リードを許した日本代表(LS北見)が後攻で迎えた最終第10エンド、スキップの最終投擲がNo.1に入れば7-7の同点となりエキストラエンド(延長戦)突入という場面で、藤澤が投じたラストストーンがハウスを通過する痛恨のミスショットとなってスイスの前に敗戦を喫して優勝を攫われた。その試合後に藤澤は「最後のショットを決められなかったのは私の責任」と悔恨のコメントを残した。
日本カーリング選手権・優勝
パシフィックアジアカーリング選手権・3位
世界女子カーリング選手権・準優勝
【2016年】吉田 夕梨花
LS北見のメンバーとして2月の第33回日本カーリング選手権で優勝し、世界女子カーリング選手権の日本代表に自動的に選出されると、3月の2016年世界女子カーリング選手権大会では優勝決定戦まで勝ち上がり、スイスとの大会三度目の対決となった優勝決定戦では最終第10エンドまで死闘を演じながらわずかの差でスイスの前に敗れて準優勝となった。
【2016年】鈴木 夕湖
第33回日本カーリング選手権大会で優勝を果たす。2016年世界女子カーリング選手権大会(カナダ・スウィフトカレント)では決勝戦まで勝ち上がり、スイスとの決勝戦では最終第10エンドまで激しい攻防を繰り広げ惜しくも敗戦を喫したが準優勝に輝いた。



【2017年】本橋 麻里
第34回日本カーリング選手権: 準優勝 (LS北見)
9月、アドヴィックス常呂カーリングホールで行われた第23回オリンピック冬季競技大会(2018平昌)平昌オリンピック日本代表決定戦で中部電力を3勝1敗で降し、3度目のオリンピック代表権を獲得。
【2017年】藤澤 五月
2月の札幌冬季アジア大会カーリングでは銅メダルにとどまるが、2017年9月の平昌オリンピック代表決定戦では自身の古巣である中部電力に勝利して、自身初めてのオリンピック出場を叶えた。このとき藤澤は、「4年前に負けてカーリングをやってていいんだろうかと思いました。このメンバーで戦えて幸せ者だなと思います。私以上に周りの人が信頼してくれ、チームメートに支えられたし、五輪に出ていない悔しさがありました。ここからまた五輪まで成長できれば」と涙を流しながら述べた。また、「中部電力がいたからこそ、私たちの成長があった」と古巣に感謝の言葉を述べている。
【2017年】鈴木 夕湖
9月、平昌オリンピック日本代表を賭けた中部電力カーリング部との最終5番勝負の決戦を3勝1敗で制し、ロコ・ソラーレをオリンピック出場に導いた。



【2018年】本橋 麻里
2月、平昌オリンピックではチームキャプテン・リザーブとしてチームを支え、予選を4位で突破した。準決勝では大韓民国に敗れたが、イギリスとの3位決定戦を制し、オリンピックで日本のカーリング史上初、また冬季五輪史上初のママさんメダリストとなる銅メダルを獲得した。
【2018年】吉田知那美
2月の平昌オリンピックにサードで全試合出場し、日本勢で初めて予選を4位で突破した。準決勝では韓国に敗れたが、イギリスとの3位決定戦を制し、オリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得した。
【2018年】藤澤 五月
平昌オリンピックに臨むにあたり、「勝てなくても憧れられる、尊敬されるカーラー」を目指すと心に誓い、「折れない心」を身に付けるためのメンタルトレーニングに取り組み続けてきた。迎えた本番で、藤澤がスキップを務める日本は、開幕3連勝を飾ったが終盤2連戦で藤澤のミスが続き連敗を喫し自力突破が無くなった一方、4位争いをしていたアメリカが破れた為に、結果的にかろうじて予選を4位(5勝4敗)で突破、予選最終戦の対スイスでミスから大敗した為「正直、複雑」と答える。準決勝で韓国に敗れ3連敗となるも3位決定戦でイギリスに勝利し、オリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得。「考えるカーリング」が結実しての銅メダル獲得であることと共に、藤澤は自身が目指した、メダルの似合う「グッドカーラー」になることを叶えた。
平昌オリンピック・3位
【2018年】吉田 夕梨花
2月の平昌オリンピックに出場し、予選を4位で突破した。準決勝では開催国の韓国と対戦して敗れたがイギリスとの3位決定戦を制し、オリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得した。
平昌オリンピックでは試合中に明るく発する北海道方言の「そだねー」が大きな話題になり、「そだねージャパン」の愛称で呼ばれた。
2018年時点では北見市内の医療法人「美久会」に勤務している。同法人の理事長はLS北見のスポンサーのほか馬主としても著名な人物であり、平昌五輪後に自身の馬に「ソダネー」と命名した。
3月、日本ミックスダブルスカーリング選手権に協会推薦枠で男子五輪代表の両角友佑とペアを組んで出場。初戦で敗れるなど、苦戦の連続の中白星を重ねたが、最終戦で妹背牛協会に大逆転負けを喫し、予選リーグ敗退となった。
【2018年】鈴木 夕湖
2月の平昌オリンピックでは、予選リーグを4位で突破した。鈴木は当大会参加のカーリング選手の中で最も身長が低かったが、予選リーグ韓国戦の第8エンドで「4秒間に19往復」させたスイープ力は高い評価を得た。準決勝は韓国との再戦となり延長戦の末敗れたが、イギリスとの3位決定戦を制しオリンピックで日本のカーリング史上初のメダルとなる銅メダルを獲得した。なお、同大会中では試合中に戦術検討する際に発する「どれくらいだい?」や「そだねー」などの北海道方言での会話が話題となり、「そだねージャパン」の愛称で呼ばれた。特に「~だい?」や「~かい?」という言い回しは鈴木が多用する。




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# by sentence2307 | 2018-03-21 17:19 | 映画 | Comments(0)

ラジオ体操第一・花柳流

昨日が、ちょうど4月異動の1か月前ということで、多くの会社で「ひそかな内示」があったみたいですね。

自分の所でも、昼休みには、社員食堂やトイレの入り口などで悲喜こもごもの表情の社員たちが、怒気や渋面をあらわにして盛んに立ち話をしている姿(ひそひそ声です)をよく見かけました。

まあ、いつものことで、困難な営業の現場の状況を無視した一方的な人事部の幼稚で身勝手なタライ廻し異動をいくら毒づいてみても、結局は従うしかないのですが、長い時間をかけて汗水たらしてやっと築き上げてきた他社との人間関係やネットワークを一挙に失ってしまううえに、その異動によって生ずる厄介な家族や子供の学校の問題も控えているので、たとえ目先で「地位や給料」がアップしたとしても、そのすべてが暗雲に包まれたような憂鬱な気分になるのは、自分にも覚えがあります。

まるで、神の啓示みたいに下されるこの人事異動が、ただの机上で考えられただけの機械的な人間循環にすぎないという実態を知ったら、きっと誰もがびっくりしてヤル気を失うと思います。

それは、例えば、転勤先で待っている煮詰まった仕事の厄介な後始末とか、ますます深刻化している取引先とのトラブルの解決策のための捨て駒に使われる役を担わされるらしいとか、まるで罠のような人格無視のポストに身を置かなければなかない「憂鬱」だったり、その突然の転勤に伴う家族の難問題も控えた「憂鬱」(「幼児」や「老親」を抱えている人など大変です)でもあるので、そうした事情を知っている者にとっては、内示後、社内に一瞬動揺が走り、周囲には「渋面」ばかりが目につくばかりで、まるで「満面の笑み」などひとつとしてないというのも、そりゃあ、当然といえば当然の話だと納得できます。

以前、人事の人間と飲んだ時にその辺のところを聞いてみたのですが、彼が言うには、たとえ各社員の現場で長年培ってきたネットワークを犠牲にしても、そんなことは会社にとっては取るに足りない小さな損失で、むしろ、その期間に積み上げられた関係他社との負の滓(彼は、そのままの言葉でそう言ってました)、つまり個人的な利益と副作用としての業者との馴れ合い・癒着を断ち切り(これは目先では不利益と見えても、長い目で見れば、結局会社にとって大きな利益となって「健全なセキュリティ」が会社に返ってくるのだから)、その異動によって生じるであろう社員の不満や不利益・犠牲などは、会社のためなら無視すべき低次元のリスクにすぎない、それらすべてを織り込んだうえでの異動なのだといっていました。それが人事の仕事というものだと。

そりゃそうでしょう、彼ら人事部の人間から、有無も言わせぬ「生贄異動」や「見せしめ異動」や「人身御供異動」や「恫喝異動」の辞令を突き付けられたことのある者なら、そんなことは十分すぎるくらいに承知しています。

人事部が、幸運を届けてくれる愛のキューピッドとか幸福なプレゼンターなどと能天気に信じているわけではありませんが、まさかそこまで「えげつなかったのか」とあきれ返り、白け、それ以後の彼との会話の問い掛けに対する返すべき相槌も、なんだかぎこちないものになってしまいました。

内示の際に、「いやなら拒否していただいて一向に構いませんよ」という柔和な人事部長の甘言に乗せられてつい拒否した同僚が、しかし、4月以降、彼に用意されたポストというのが、西日がやたらに強烈にさす壁際の隙間風の通り道のような寒々しい席で、別にこれといった仕事も与えられるでもなく、かかればすぐにでも終わってしまうようなささやかな仕事を小出しに与えられ、それが途切れるたびに、かつての部下だった年下の若い女性社員に敬語を使って次の仕事の支持を受けなければならないような(その「仕事」だって、苦心惨憺ようやく考え付いたようなつまらない整理仕事ばかりです)、そういう異動拒否に対する「罰のようなミセシメの仕事」に懸命に取り組むにせよ、あるいは、「給料さえ貰えればなんだっていい」と割り切ってサボって適当に流すにせよ、時が経てばそんな席にしがみ付いている自分がだんだん情けなくなって、それに気が付いた時にはすっかり精神の荒廃が深刻に進んでしまっていて(ストレスから深酒にのめりこんだり、そのために家族や友人との関係がうまくいかなくなったりしてはじめて、そのことに気づかされ)、いったい、自分は何をしているんだ、こんな愚劣な仕事にしがみついている価値など果たしてあるのかと自分を責め、その挙句結局は、半年くらいで辞表を提出するというのが定式だと聞いたことがありました。

つまり、これを、計算され仕組まれた「定式」にすぎないというなら、パワハラの「無茶振り異動命令」は、その当人の諾否に関係なく(いずれにしろ会社の利益につながるようにはなってます)、そのまま公式的な経営理論・経営戦略のひとつ、あるいは、偉い経済学者がすっかり計算した巧妙な労務管理のひとつなのではないかと勘繰りたくなるような、経営を無条件に好転させる伝家の宝刀「人員削減」に直結しているものなのだなと、なんだかへんな納得をしてしまった次第です。


さて、サラリーマンにとって、この過酷な異動の季節を迎え、いまふっと、ある人のことを思い出したので、今回は、そのことについて書いてみますね。

もうあれからどのくらい経ったのか、すぐには思い出せません。

その人の名を仮に「菊池さん」(そのときすでに定年間近でした)としておきます、しかし、これは根拠のないまったくの仮名というわけではなくて、彼の名「菊次郎」という名前から連想しました。そう、タケシの親父さんと同じ名前です。はじめて紹介された時、その名前には本当に驚かされました。なにしろ「菊次郎」ですから。

フツーの親が、そんな歌舞伎役者みたいな名前をつけるのかという驚きがひとつと、驚いて思わずその菊池さんの顔を改めてしげしげと見直してしまったときに感じたその艶めく名前とは裏腹の、激ヤセした菊池さんの顔は異様に青ざめていて、まるで文字通り病的な「うらなり瓢箪」という印象の強烈な覇気のなさ感、というのがもうひとつありました。

自分の狭い経験からいうと、親からすごく突飛で奇妙な名前(妙齢の女性だったら思わず顔を赤らめてしまうような名前もありました)を付けられながらも、馬鹿にされまいと発奮して大成する人と、その名前のためにカラカワレ虐められつづけ、すっかり委縮して被害妄想の化け物みたいな大人になるという2種類のタイプの人がいるとすると、菊池さんは、明らかに後者に属する人でした。

そうそう、友人の知り合いに女性で検察官になった人がいるのですが、その人の名前は、まるで錦糸町か亀有にでもいそうなキャバクラ嬢そのものという、(親なのにどうしてそーゆう名前を付けるかなーという)いかにも下品な、なんだかヤタラ物欲しそうなシモネタ名前なのですが、彼女、そんなプレッシャーなどものともせず、圧し潰されるどころか、司法試験に一発でパスして、いまでは痴漢男や下着泥棒男(常習累犯)相手に厳しく求刑し変態野郎を片っ端から監獄に送り込んでいるというツワモノなのですから、根っから強い人は強いのだなあと感心してしまいます。まあ、長い間、突飛な名前をずっと揶揄われてきたことの報復で、いま検事さんになって、さかんに揶揄ってきた世界に対していまこそ復讐しているという見方もできなくはありませんけれどもね。

さて、その菊池さんと、半年のあいだコンビを組んで、ある商品を売り出すための宣伝プロジェクトの準備に取り組むという仕事に従事することになりました。

商品のデザインは有名なデザイナーに依頼するとして、スーパー向けのキャンペーン計画とそのポスターのデザインだけは自分たちで考えてみようということになりました。

そのとき自分には、まだ「本務」というのがあって、その勤務時間を終えたあとに菊池さんの席に伺って、昼間のあいだ菊池さんが関係業者に手配した詳細をうかがったり、ポスター・デザインのアイデアの進捗状況を聞くという毎日を送りました、これは自分たちが勝手に会社に居残っているという体裁なので、もちろん残業手当などはつきませんし(いまでは居残りなどしていたら、会社と組合から厳しい指弾の挟み撃ちにあってしまいます)、こう書くとなんだかまるで自分が菊池さんのことを管理していたかのような印象を与えてしまうかもしれませんが、決してそうではなくて、当時自分が関わった仕事で契約上のトラブルがいまだ尾を引いている状態だったので、それが単に長引いていて抜けられなかったというだけのことでした。菊池さんとは、あくまでもフィフティ・フィフティの関係でずっと仕事をしました。

そんな感じで、昼間、菊池さんがポスターのアイデアを10種類程度考えてくれたのを二人で話し合って更なるアイデアに発展させるという弁証法的毎日(そうこうするうちに、だんだんこの仕事が楽しみになってきました)を送りました。

菊池さんは毎日、自分の前に、きちっきちっと10種類のアイデアを提出して説明しましたし、自分はその提出されたアイデアを別段気にとめるでもなく聞き役に徹しました。

そんなふうに、惰性みたいに菊池さんの説明をぼんやり聞き流していたある日、「毎日10種類」のアイデアを出すということが、相当しんどいことのはずなのに、それをなんということもなく繰り返すことができている菊池さんの行為にだんだん疑問が湧いてきました。

考えてみれば、実際問題として様々なポスターのアイデアを毎日10種類も次々に考え出すというのは、口で言うほど簡単なことではありませんし、というか、きわめて不自然な話です。いかにプロだってそんな無謀なアイデアの粗製乱造はできるはずもないし、するとも思えません。

そこで菊池さんに率直に問いただしました「なんでそんなに豊富なアイデアがあるんですか」と。さすがに「不自然じゃないですか」とまでは言えませんでしたが。

「あっ!」と菊池さんは一瞬息をのみ、「分かりました?」という感じで、ボクの顔を見上げるようにのぞき見しながら、背広の胸の内ポケットから1冊のノートを取り出して自分の前に置きました。

そのノートを手に取り、開いてみて、今度は自分の方が「あっ!」と言う番でした。

そこには、ミニチュアにされた映画ポスターがびっしりと貼られていました。「こ、これが菊池さんのアイデアの元ネタだったんですか!」

「ね、いいでしょう、今日のアイデアはコレから借りました」とページを繰っていくと、見開きページいっぱいにタルコフスキー作品のポスターがびっしり貼り込まれています、壮観です。目がくらみ、衝撃でちょっとよろけたくらいです。

そして、「今日」の菊池さんのポスターのアイデアを比べてみて、思わず笑ってしまいました。

なるほど、なるほど、菊池さんのにも、この「ノスタルジア」があります、アハハ、よく見れば、国会議事堂の前でうらぶれた田中角栄が横座りしているところ(まさかね)なんか、「廃屋の前で男が横座りしているコレ(ノスタルジアです)とそっくりそのまんまじゃん、なんで分からなかったかな~」悔しそうに思わず大声を出してしまった自分ですが、もうすっかり菊次郎ワールドに乗せられ、それどころか、このシチュエーションをすっかり楽しんでしまっているのを菊池さんに気付かれてしまい、ポスターの図柄検討などそっちのけで、いままで菊池さんが提出したアイデアの元ネタ探しに夜が更けるまで興じてしまいました。久しぶりに愛するタルコフスキーに思わぬ形で邂逅したという懐かしさもありましたが。

「このときは、黒澤明特集だったんですね、全然分からなかった、そうか、なんか悔しいな」とか「ヒッチコックがゴマフアザラシに変わっていたとは、さすがに気が付かなかったなあ」とか。

それ以来、僕たちの夜のお仕事は、本務そっちのけで、菊池さんが奇妙にデフォルメしたアイデアを提出し、自分がその元ネタの映画ポスターを言い当てクックッなどとこみあげてくる笑いを苦しくこらえたりして「ふたりだけの密かな夜の遊び」にふけりました。

しかし、結論から言うと、この「ふたりだけの夜のお仕事」は、開発の途上で他社と商標権問題が持ち上がり、さんざんにこじれ、販売は中止、このポスターの菊池さんとの検討会も1か月とちょっとであえなく廃止・解散となりました。

それ以来、菊池さんとは会っていません、どこかの地方の営業所に異動されたことまでは聞いていたので、てっきりそこで無事定年を迎えられたものと思っていたのですが、最近信じられない情報を耳にしました。

異動のあとすぐに、役所関係の取引で贈賄だとか収賄だとかの事件に巻き込まれたという当時の新聞記事を見せてくれた人がいました、全然知りませんでしたが日付を見ると、あの「ふたりだけの夜のお仕事」から何か月も経っていないことも知りました。

結局起訴まではされませんでしたが、そのこともあって定年を迎えずに退社されたということです、あんなに定年を楽しみにしていたのに、ご本人もさぞ残念だったと思います。

当時、このことを知っていたら、なにか自分なりのお手伝いができたかもしれないのに、いまとなっては、どうすることもできません。

知人を通じて菊池さんの消息を尋ねてもらったのですが、なんの手掛かりもありませんでした。自分に届いた唯一の消息は、「なにせ高齢なので、施設に入られたのではないですか」というなんの根拠もないただの憶測だけでした。

当時の菊池さんの年齢に近づくにつれ、あのとき、ともに楽しいとき過ごした「ふたりだけの夜のお仕事」をときおり思いだしています。

長い会社員生活を通して、ただうんざりするだけの多くの無意味な仕事を次々にこなすことを強いられ、また耐えることができたのは、自分がなにものにも囚われずに動ずることなく、その局面その局面をクールに処理してきたからだと自負する部分もありますが、あの夜の菊池さんとの遭遇は、「そういうことで本当にいいのか」と問うものがありました。

タルコフスキーやアンゲロプロスを見ることで、会社人間をつづけるために、誰にも知られたくない、社会との折り合いをつけるための素の部分の領域に属するものだったそこに、突如「菊池さんのタルコフスキー」が立ち現れ、「ああ、こういう人もいるのか」と心動かされたのだと思います。きっと、うまく言い表すことができないと思いますが、「タイプは全然違うけれども、同じような場所で必死に格闘しているもうひとりの自分」みたいな。うまく言えませんが。

菊池さんのことを考えていたら、あることを鮮明に思い出しました。

あの菊池さんと過ごした日々のどこかの夜で、なにかの話のついでに、自分が早朝のテレビ体操を習慣にしていることを話したら、菊池さんが特別な「ラジオ体操」を自分で考案したと話してくれました。

「見ます?」「ぜひともお願いします」というわけで、菊池さんが実演して見せてくれたのがこの「ラジオ体操第一・花柳流」というもの、自分が知っている「ラジオ体操」といえば、腕や足をこん棒のように無様に振り回すだけの野暮の真骨頂のようなものですが、菊池さんの演じる体操は、まさに「舞う」という表現がぴったりの日舞風な芸術体操です。

無骨な無様な「体操」が、こんなふうな振りで様変わりできるのかという、いわば官能的な感銘を受けてしまいました。

指先がまるで風にあおられる蝶のように舞い狂い、両の腕は蛇のようにしなやかに体にまとわりつき、流し目であやしく迫ってきたり、誘うようなしなやかさで焦らすように逃げたりと。

しばし幻想に囚われながら、自分の指先があのときの菊池さんの指の所作を真似るように微かに動きはじめようとしているのを感じました。



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# by sentence2307 | 2018-03-03 22:46 | 映画 | Comments(0)

リリーのすべて

いままで、男優が女装する映画というのを何本か見ています。

タイトルの方が、すぐにはちょっと出てこないのですが、ジョン・ローンが女装した作品とか、そうそう、ウィリアム・ハートが演じた「蜘蛛女のキス」などという名作もありましたよね。

いずれの作品も、まさに「女装」というグロテスクさそのものを強調する作品だったのでしょうから、たとえそれが「いかにも男」というのがミエミエで薄気味悪さだけを感じさせたものだったとしても、そこがまた作品の狙いでもあったわけで、まあ、あれはあれで良かったのかなともいえますが、しかし、今回、トム・フーパー監督作品「リリーのすべて」を見ていて、その部分についてちょっとした違和感というか衝撃を受けたので、その辺のところを少し書いてみたいと思いました。

元ネタというのが「実話」ということらしいので、この違和感というのが、あるいはそのあたりにあるのかもしれないなと思いながら書き進めていこうと思います。

というのは、いままでの自分の狭い経験からして、計算し尽くされたストーリー展開を自由にいじくり回すことのできるフィクションに比べて、実話に基づく物語というのによくあるパターンの、結末の「肩透かし」感や脱力系の終わり方の「尻切れトンボ感」みたいな起伏に欠いたストーリーが、なんだかやたら多いように感じるのは、きっとそこには現実の人間の行動というものが、それほど素直で潔くもなく、また、ドラマチックでもなく、(観客の期待に反して)ウジウジと逡巡する「臆病さ」や「恐怖感」、「狡猾さ」や「躊躇」、そして「捨て鉢」などの負の感情によって期待するようなストーリー展開は歪められ、予測に反した低劣なものに流れていく(それこそが生の人間の「現実」というものでしょうから)という印象が自分にはあるので、この作品にもそういう違和を感じてしまった部分で、この作品についての感想を書いてみようと思い立った次第です。

画家アイナー(エディ・レッドメイン)が、妻ゲルダ(アリシア・ヴィキャンデル)からモデルの代役(女性です)を頼まれるところから、この映画は始まっています。

妻ゲルダも同じ画家ですが、この時点では夫の名声に比べれば、まだまだという感じで、むしろ、「画家志望」の段階といった方が相応しいのかもしれません。

女性モデルの代役とはいえ妻ゲルダにとっては「足の部分」のデッサンだけなので、彼女は「女性らしさ」を演出するために、夫にドレスを胸に当てさせ、ストッキングを履くことを要求します。

夫アイナーも戯れ気分でストッキングを履いたその瞬間、そのストッキングの滑らかな感触に思わずぞくっとするような官能を刺激されて、柔らかいドレスを胸に抱き締めながら一瞬恍惚となる密かな性的動揺(妻に気取られないような)に囚われたことが描かれています。

彼がそのストッキングの滑らかさに陶酔し、ストッキングに包まれた自らの足を撫でまわして密かな快感を楽しんでいるうちに、その手の感触から自分の肉体の奥底に「女性」性が潜んでいることを探り当ててしまう、つまり、自分の中の「男性」が揺らぎ、不意に「女性」に覚醒するというナルシックな場面が精密に描かれているこの場面は、いわばこの作品全体を象徴する重要なシーンとなっています。

アイナーは懊悩のすえに、自分の肉体から「偽りの性」を抹殺することを決意し、心身を一致させるための自己否定を具体的な除去手術という形で肉体を破損し、やがて術後の感染症によって生命までも失うという痛切で悲惨な彼の生涯の結末に至るその発端を描いている重要な場面でした。

夫アイナーの痛切な願いとその挫折に振り回されながら、妻ゲルダは終始「夫」への愛を貫こうとしているからこそ、夫アイナーのなかの女性「リリー」の人格だけはどうしても認めることも受け入れることができないでいたそのラストで、死の床にある瀕死の夫アイナーを、はじめて「リリー」と呼びかけ、生涯の最後で彼を女性と認めます。

夫アイナーは、心身ともにひたすら「女性」になることを求め、その彼を支える妻ゲルダは、彼の願いが叶った瞬間に最愛の「夫」を失うという夫婦の悲痛で皮肉な愛の物語というふうに自分的には一応は解釈し、当初はこれで自分なりに納得できるような気がしたのですが、しかし、考えてみれば、妻を気遣い、妻への思慕を強く表明しながらも、夫アイナーは、それとは裏腹に「女性」になるためのいかなる手続きや「性転換手術」へとのめり込んでいくという頑なさの前では、妻への気遣いや愛情でさえも異常なほどに無力であることの違和感が、自分にはどうしても払拭できませんでした。

もし、それほどまでに妻を愛し気遣うというのなら、彼には手術を放棄することだって選択肢のひとつでもあり得たはずなのに、「妻への思慕」を理由に手術を躊躇し思い悩む場面などこの作品にはいささかも用意されてはいませんでした。

以上のことをまとめるとすれば、こんな感じになるでしょうか。

つまり、妻ゲルダが「夫の浮気」に対して異常な嫉妬と苛立ちを示したようにして、果たして、夫が強く望んでいる男性器の除去手術に対しても同じように示しただろうか、「夫の愛を失う」という意味においては、後者の方がよほど深刻であるはずなのに、施術に対する妻のこの異常な無関心は、不自然で理解できないものがあります。

そして、このことと前述した夫アイナーが「妻への思慕を理由に手術を躊躇し思い悩む場面などこの作品にはいささかも用意されてはいませんでした」との一文が奇妙な対を成していることにはじめて気が付きました。

この夫婦の互いに対する気持ちのカクノゴトキ微妙な行き違いやズレがあるのは、いったい何を意味しているのかと思い始めたとき、実際にはこのときアイナーとゲルダは「夫婦」でなかったからではないかという思いが募り、しばし「実話」を手掛かりにあれこれと検索してみたところ「LUCKY NOW」というタイトルのブログでこんな一文に遭遇しましたので、一部を引用させていただきますね。


「1930年、アイナーは世界初の性別適合手術を受ける。性別適合手術への理解が乏しいこの時代に手術にアイナーが手術を決断するのは容易なことではなかった。

性に寛容なパリでは、リリーとして自由に生きられたアイナーだったが、やはりその時間は夫婦に危機感を与え始めた。

二人はパリの医者のもとに相談に行くが、医者からは服装倒錯(異性の服装を身に着けることで、性的満足を得ること)と診断され、具体的な処方はされなかった。「女の格好をするのを我慢しろ」ということだ。

その後しばらくして、リリーの体から奇妙な出血が見られるようになる。それは月に1回、まるで女性の生理の様に起こった。

それは、リリーにとって戸惑い以上に女性の人格をより強く意識するきっかけとなり、さらに苛烈に“女性”を求めるようになっていく。そして二人は、当時ジェンダー研究の最先端だったドイツに向かい、そこで驚くべき診断を下されることになる。

リリーの体内に未発達の卵巣があり、それが女性の人格を生み出しているというのだ。

そうして初めて、アイナーには服装だけでなく身体もリリーに作り変えるという選択肢が与えられたのだ。性別適合手術を目の前に戸惑うアイナーの背中を押したのは、他ならぬゲルダだった。

そうしてアイナーは睾丸摘出、陰茎除去、卵巣移植、子宮移植と、1年間かけて計5回の手術を受けた。中でも卵巣移植には拒絶反応を起こし、数度の手術を経て再摘出された。

しかし理解を示していたゲルダも、夫の身を案じて引っ切りなしに繰り返される手術には反対していたようだ。

こうしてアイナーは法的にもリリーとして生きることを認められ、リリー・エルベの名前でパスポートも手に入れている。しかし、手術のことを知った当時のデンマーク国王に婚姻を無効にされ、その後二人は別々の人生を歩むことになった。

別れてすぐにリリーはフランス人画家のクロード・ルジュンと恋に落ちた。女性に目覚めて初めて恋をしたリリーは、次第に母性を求めるようになる。そして5回目となる子宮移植の手術を受け、リリーはその数ヵ月後に心臓発作でこの世を去った。

当時は移植免疫拒絶反応について解明されておらず、そもそも臓器移植という考え方そのものが議論されていない時代だった。そんな時代に、リリーは命をかけてでも母親になることを求めた。

それは内から湧き出る性への渇望だったのか、あるいは恋人に対しての引け目だったのかは知る由も無い……」

(2015英米独)監督・トム・フーパー、脚本・ルシンダ・コクソン、原作・デヴィッド・エバーショフ『世界で初めて女性に変身した男と、その妻の愛の物語』、製作・ゲイル・マトラックス、アン・ハリソン、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、トム・フーパー、製作総指揮・リンダ・レイズマン、ウルフ・イスラエル、キャシー・モーガン、ライザ・チェイシン、音楽・アレクサンドル・デスプラ、撮影・ダニー・コーエン、編集・メラニー・アン・オリヴァー、製作会社・ワーキング・タイトル・フィルムズ、プリティー・ピクチャーズ、アルテミス・プロダクションズ、リヴィジョン・ピクチャーズ、セネター・グローバル・プロダクションズ
出演・エディ・レッドメイン(アイナー・ヴェイナー、リリー・エルベ)、アリシア・ヴィキャンデル(ゲルダ・ヴェイナー)、マティアス・スーナールツ(ハンス・アクスギル)、ベン・ウィショー(ヘンリク・サンダール)、セバスチャン・コッホ(ヴァルネクロス)、アンバー・ハード(ウラ)、エメラルド・フェネル(エルサ)、エイドリアン・シラー(ラスムッセン)



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# by sentence2307 | 2018-02-26 22:25 | 映画 | Comments(0)

間宮兄弟の臨界

週末、会社の廊下で顔なじみの同僚とすれ違うときなど、軽い挨拶代わりに交わす言葉は、きまって「今年は、もう2回も雪が降ったのに、この4日もまた、ものすごい寒波がくるんだってさ」でした、「また大雪か」というウンザリした思いをみんなが持っていて、その危惧(やれやれ)を何度も確認しあったような気がします。

僅かの降雪でも電車のダイヤは大幅に乱れ、遅れ遅れの通勤電車の混雑が半端じゃなくなるので(まさに「殺人的」です)、早朝通勤を余儀なくされるサラリーマンには、ものすごい痛手です。「革靴で雪道」というのも結構苦痛で、それにまた、相当に危険ですよね。

実際に、知人の課長も雪道で転倒し、その際、前頭部を歩道の角でしたたかに強打して虎の門病院に救急搬送され、脳内出血を起こしてないかと大仰な精密検査をいくつも受けさせられたそうで(結果的に無事でしたが)、後日、本人からそのときのリアルな話を聞きました。

それによると、前を歩く若い女性がスマホの操作に夢中になりながら歩道の真ん中をノロノロと歩いているのに業を煮やした彼は、(いつも早めに出勤しているので、その朝も別段、急ぐ必要など少しもなくて、ただ単に彼女の「スマホでノロノロ」に苛立っただけだったそうで)傍らを追い抜こうとして、その際に歩道の端を踏み外して転倒したということですが、本人は「通勤労災で、結局治療費はタダ、そのうえ会社も1日堂々と休めたし、なんだかトクした気分だよ」なんて呑気に話しながら、冗談まじりに、彼が苛立って追い抜こうとした彼女は、目の前で転倒した自分を一瞬チラ見しただけで、またスマホに夢中になって、なにごともなく倒れ込んでいる自分を無表情のまま跨いで歩み去ったというのです、考えてみれば、それってゾッとする薄気味悪いシチュエーションですが(彼女にとっては、リアルに転倒している自分も結局はスマホ画面に写っている一風景にすぎなかった、みたいな)、そのへんを彼は面白可笑しく、尾ひれを付けて語っていました。

まあ、冗談はともかく、「頭部強打は洒落にならないよ、もしあれがオオゴトになっていたら、極端な話、オタクも家庭崩壊だぞ」と脅かしてやりました。

自分などは、踵に滑り止めの金具がついている雪道専用の靴をアイスバーンに突き立てながら小幅で恐る恐る歩くようにしているので、転倒リスクは、それなりに防いでいるつもりですが、それでも気を付けるに越したことはないと、さらに用心をしているくらいです。

こんなふうに語られる「三度目の大雪」の恐怖に相槌を打ちながら、そうか、誰もが、まだまだ今の寒さがこれから先もずっと続いて、温かくなるなんて考えられないくらい相当に先の話だと思っているらしいことを実感しますが、しかし、実は自分的には、ちょっと違う感覚もあります。

早朝は依然として寒いし、寝床の温もりを断って思い切って起き出すには、少しばかりの時間と決意が必要なことはまだまだ変わりませんが、それでも起きたとき、以前は真っ暗だった外が、最近は薄っすらと明るんできました。明るくなってくると、それなりになんだか温かくなってきたような気もしてきますし。

いつまでも温かい寝床に潜り込んでいたいといつも平日に思っているので、その快楽を十分に実現できるはずの土曜日なのに、いざ目が覚めて寝床の温もりの中にいるのに、そのまま横になっていられません、そうしていられるのはせいぜい10分がいいところで、どうしても起き出してしまうのです、ヒラのサラリーマンの悲しいサガだとお笑いください。

仕方なく、まるでイモ虫のようにもぞもぞと起き出して、パソコンのスイッチをonにするのが土曜日のいつもの日課です。

実は、この映画ブログ、こんなふうに土曜日の早朝に週イチペースで書き継いできたので(もちろん、書くことに失敗する土曜日というのも当然あります)、早朝の気温とか明るさ・暗さには人一倍敏感で関心もあって、そういう意味では微妙な季節の移り変わりにはそれなりに反応できていると自負しています。

さて、今日はどんな作品を書こうかと、今週見た作品のメモを眺めました。

いちばん重厚な作品といえば、マーチン・サントフリート監督の「ヒトラーの忘れもの」です、ドイツが敗戦した直後、デンマークでは捕虜になったドイツの少年兵たちが、現地デンマーク人のナチに対する憎悪に晒されながら、少年たちを傷みつけることだけが目的のような生還不可能な地雷除去作業(彼ら少年たちは地雷除去作業などしたことのない素人です)に従事・強制するという、この作品は、実に胸の痛くなるような憎悪の物語です、除去に失敗した少年たちは次々に地雷を暴発させて無残に命を落としていきます。

実は、少年兵たちの監視人ラスムスン軍曹とのあいだで、海岸の地雷をすべて撤去したらドイツへ帰国させるとの約束があって、それを唯一の希望として死の恐怖に身を晒しながら、必死になって地雷除去作業に従事し、ついに約束の作業をやり遂げます。

軍曹は約束通り少年たちをドイツへの帰国の途につかせますが、軍上層部から、別の場所の、それこそ生還など絶対不可能な過酷な地雷除去命令が、さらに少年たちのうえにくだります。

そのあとのストーリーは、軍曹が軍上層部の命令に逆らって少年たちを国境まで逃がして彼らとの約束を果たすという結末で、一応ホッとさせる結末にはなっていますが、しかし、全編を通して描かれている徹底したナチに対する憎悪と報復のリアル感にくらべたら、少年兵たちを約束通りに逃すという(取ってつけたような)ほのぼのとしたラストがいかにも無力で、実際には実に多くのドイツの少年兵捕虜たちは、こんなふうに虐待され、まるでナチが犯した侵略と虐殺の罪を贖うようにして憎悪の下で殺され、報復のような死を死んでいかねばならなかった過酷で無残な事実は覆い隠しようもなく(そこには依然として、ナチの虐殺した側と、蹂躙された被侵略国の側の事実とが厳然として存在しているわけですから)、この映画のラストで唐突に孤立した空々しい絵空事を見せられても、苦苦しい思いは払拭できず、言葉をつなげていくという困難と過酷に耐えられずに、結局はこの「ヒトラーの忘れもの」の感想を書くことは諦めました。

普段なら「憎悪」であろうと、「侮蔑」であろうと、そういう負の感情に対しても、それなりに距離を取って客観的に強引に書き伏せてしまうことができると思っていたのに、今日のところは駄目でした、このような憎悪の物語に耐えられないくらい、自分の気持ちも少し弱っていたのかもしれません。

ほかに気にかかった作品が2本ありました。

御法川修監督作品「世界はときどき美しい」(2006)と 森田芳光監督の「間宮兄弟」(2006)です、ともに2006年作品ですか、なんだか偶然ですが。

御法川修監督作品「世界はときどき美しい」は、5本のストーリーからなっているオムニバス映画です。

この5作品に共通して描かれているものは、おそらく、この社会や、そして他人にどうしても馴染めず、折り合いがつかず、打ち解けることもできない孤絶とか孤独感です。

なかでも、柄本明がアル中の中年男・蝿男を演じた第二作「バーフライ」にものすごく心惹かれました。

別にこれといったストーリーがあるわけではなく、日夜酒浸りの中年男の日常(これでもか、これでもかと酒を飲み続ける日々をコミカルに追っています)を終始男自身の愚痴とも悔恨ともつかないつぶやきをモノローグ風に綴るという、とてつもなくシンプルで、世間の嘲笑に煽られ追い立てられながら破滅の極限に踏み込もうとするやけっぱちの自傷行為が、ひた向きなだけに妙にピュアで、見るものを打つ映像の力強さがありました。それを痛ましいといってしまえば、それまでなのですが。

しかし、このもがき続けるシンプルな生き方(生きることの原初的な姿)について、なにをいまさら語り得るものあるだろうかという思いは確かにあります。

自分が、多くのアル中を扱った独特の映画群のどれにも、ある種の神聖さを感じてしまうのは、それが下降的に生き方にすぎなくとも、そのピュアな「ひたむきな姿」に惹かれるからに違いありません。

しかし、こうして「なにをいまさら語り得るものあるだろう」などという壁に突き当たってしまったら、もうそこから先には進めません。

そして、次に見たのが森田芳光監督の「間宮兄弟」(たぶん初見です)でした、この作品の全編にわたる優しさと、そして、ひとつのシーンに堪らなく感応するものがありました。この感応は、「ヒトラーの忘れもの」を見た後で、すっかりすさんでしまった自分の気持ちの落ち込みを抱えて見たことと無縁のものではありません。

そのことについて書きますね。


兄・明信の同僚大垣賢太夫妻の離婚騒動で、妻のさおりに惹かれた弟・徹信が、同情と関心半々から、自分の気持ちを伝えようと離婚後の彼女に会いにいくシーンで、弟・徹信は自分の気持ちをあれこれの品物(贈り物)で伝えようとして(その幼さが、かえって、痛手を負った女性の勘には堪らない無神経さとして苛立ちと怒りをかい)、手ひどく撥ねつけられる場面です。

撥ねつけるさおりの言葉の辛辣さに弟・徹信は傷つきます。

その場面をちょっと再現してみますね。

さおりの関心をかおうとして、いくつもの贈り物を差し出す弟・徹信にさおりは言います。

「そんなもの、いただくわけにはいきませんわ。なぜ私があなたから音楽をいただかなければいけないんですか。これも全部お返しします。一曲も聞いていませんから。こういうことされるのが、いちばん傷つくんです。迷惑なんです。あなたには、ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ないと思っています。もうなにもかもやめてください。あなたもいい大人なんだから、私の言っていること、もうお分かりでしょう。もう結構ですから、帰らせてください。」

こうまで詰られても、弟・徹信はこんなふう言います。「人生はまだまだ続くし、憎しみからはなにも生まれてきませんよ」と。そんなことを言うこと自体が、彼女の言う幼さであることにも気が付かずに。

そして、弟・徹信の失恋を知った兄・明信(彼もこの直前に、直美への芽生えかけた恋心を砕かれています)は、新幹線の操車場が見下ろせる場所で「これからもふたりで一緒に暮らしていこう」と弟を励まします。

そして、次の場面、昼の小学校の校庭で作業をしている弟・徹信のもとに直美の妹・夕美が現れます。そして、いつも一緒にいた恋人が勉強のためパリに旅立ってしまったことを徹信に告げます。

とつぜん恋人に去られたことを別段寂しそうにするでもなく、いつものように能天気にはしゃぐ夕美は、弟・徹信の失恋を聞き出し、一瞬息をのむような間があって、突然、背後からじゃれつくように抱きつきます。そして夕美は「これは違うよ、愛じゃないよ、友情の抱擁だからね」と囁きかけます。

不意に恋人に去られた女が空虚な気持ちを持て余しているとき、子供っぽいと相手に撥ねつけられた男の孤独に感応して思わず抱き締めずにいられなかった切なく実に優しさに満ちた場面でした。

そしてまた、ふたりのあいだに漂う孤独と遣り切れなさを静かなスローモーションでとらえたこの場面自体が、観客に深い思い入れを許す優しさと美しさ深く打たれました。

北川景子、その率直であけっぴろげな優しさが役柄とシチュエーションにぴったり嵌まり、優しさがじかに伝わってきたいい感じの演技でした。


世界はときどき美しい(2006)
監督脚本・御法川修、製作・棚橋淳一、中島仁、長田安正、プロデューサー・西健二郎、撮影・芦澤明子、録音・森英司、音響・高木創、衣装・宮本まさ江、ヘアメイク・小沼みどり、音楽監修・大木雄高、サウンドトラック盤・オーマガトキ (新星堂)、製作=「世界はときどき美しい」製作委員会、主題歌・鈴木慶江 「月に寄せる歌」〜歌劇「ルサルカ」より(EMIクラシックス)、Life can be so wonderful
第1話・世界はときどき美しい、松田美由紀(野枝)
第2話・バーフライ、柄本明(蝿男)、遠山景織子(スナックのべっぴんママ)、尾美としのり(スナックの酔客)、安田蓮(ハナタレ小僧)、川名正博(バーのマスター)、戸辺俊介(バーテンダー)、時任歩(仕事帰りのホステス)、
第3話・彼女の好きな孤独、片山瞳(まゆみ)、瀬川亮(邦郎)、
第4話・スナフキン リバティ、松田龍平(柊一)、浅見れいな(朋子)、あがた森魚(野辺山教授)、桑代貴明(幼い頃の柊一)、
第5話・生きるためのいくつかの理由、市川実日子(花乃子)、木野花(静江・花乃子の母)、草野康太(大輔・花乃子の兄)、南加絵(カフェの店員)、鈴木美妃(花乃子の友人)、


間宮兄弟(2006)監督・森田芳光、プロデュース・豊島雅郎、エグゼクティブプロデューサー・椎名保、プロデューサー・柘植靖司、三沢和子、原作・江國香織『間宮兄弟』(小学館刊)、脚本・森田芳光、撮影・高瀬比呂志、美術・山崎秀満、衣裳・宮本まさ江、編集・田中愼二、音響効果・伊藤進一、音楽・大島ミチル、主題歌・RIP SLYME『Hey,Brother』、照明・渡邊孝一、装飾・湯澤幸夫、録音・高野泰雄、助監督、杉山泰一
出演・佐々木蔵之介(兄・間宮明信)、塚地武雅(ドランクドラゴン)(弟・間宮徹信)、常盤貴子(葛原依子)、沢尻エリカ(姉・本間直美)、北川景子(妹・本間夕美)、戸田菜穂(大垣さおり)、岩崎ひろみ(安西美代子)、佐藤隆太(浩太)、横田鉄平(玉木)、佐藤恒治(中華料理店のおじちゃん)、桂憲一(犬上先生)、広田レオナ(薬屋のおばちゃん)、加藤治子(お婆ちゃん)、鈴木拓(ドランクドラゴン)(ビデオショップの男)、高嶋政宏(大垣賢太)、中島みゆき(間宮順子)、




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# by sentence2307 | 2018-02-03 16:23 | 映画 | Comments(0)