世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:ケーリー・グラント( 2 )

このポーリン・ケイルの映画評論集「明かりが消えて映画がはじまる」のなかに「夢の国から来た男・ケーリー・グラント」が収録されています。

全体のほぼ4分の1を占めている分量で、しかも巻頭に掲げてあるくらいですから、もちろんこの評論集のなかでは一番の力作と考えていいと思います。

好き嫌いがはっきりしすぎている映画評論家(ほとんどが「そう」なのですが)の文章を読むのは、はっきり言って辟易するほど疲れることが多いのですが、この本の場合、ポーリン・ケイルという女性の飾らない率直さがそれを救っています。

なかでも、この「夢の国から来た男・ケーリー・グラント」は、グラントへの手放しの賞賛と愛情とに満ち溢れており、女性の「恋は盲目」的な、幾分ヒステリー気味の高揚した快感の同じ心地よさに浸れる、男にとっては滅多に経験できない稀有なエクスタシーが体験できた感じでした。

もうこうなると、ほとんどSEXと同じですよね。

例えば、こんな部分がありました。

「後期のグラントの映画で彼に恋するヒロインたちは、みな彼が生きた伝説であることを知っていた。
わたしはいま伝説を誘惑しているんだ、と心得ていた。
『ここの鬚はどうやって剃るの?』オードリー・ヘップバーンは、『シャレード』でケーリー・グラントのあごのV字型のくぼみに指をやってうっとりと言ったものだ。
彼女が演じる女はグラントの魅力に射すくめられて、すっかり惚れてしまうことになっている。」《p.81-82》

これなどは、オードリーがではなく、ポーリン・ケイルこそが、ケーリー・グラントのあごのV字型のくぼみに指をやって性的にうっとりとしていることがよく分かる部分です。

そういえば、先日tsubakiさんがおっしゃっていたケーリー・グラントがランドルフ・スコットと数年間同棲していたという記事も、そのポーリン・ケイルの映画評論集の中に見つけました。

こんな感じです。

「ケーリー・グラントが『新婚道中記』に次いで再びアイリーン・ダンと組んだ『僕の愛妻』は、またまた大当たりしたが、ここでの彼の演技は『新婚道中記』の時ほど溌剌としていない。
この結婚喜劇はとにかく話が陳腐で(原作は、アルフレッド・テニソンの長編叙事詩「イノック・アーデン」で、1908年以来少なくとも1ダース以上の映画化がある。)、妻に振り回される夫になるグラントの演技は、困惑や一呼吸遅れてびっくりしてみせるダブル・テイクという決まりきった技巧で笑わせるだけなのだから淋しい。
共演者のなかに親友のランドルフ・スコット(数年間同居していたという間柄)がいて、グラントの恋敵を演じているために、グラントは演技に集中することができなかったのではなかろうか。
一人の人間を本当らしく演じることにさえ失敗している。
この映画のグラントは、コンディションの悪い名人というところだ。
月並みな役と錯綜したプロットが彼から何も新しいものを引き出していないのである。」《p.50-51》

この文章を素直に読むと、昔の「恋人」の目の前で、異性に対する偽りのラブシーンを演じなくてはならない居心地の悪さで緊張して硬くなってしまっている不器用な同性愛者の姿が見えてきてしまいますし、後者なら、オードリーの為すがままに弄ばれているダッチハズバンド?みたいな像しか見えてきません。

引用したこのふたつの文章を読んでケーリー・グラントという俳優がどういう人だったのか、複雑な内面を持っていた人なのか、それとも不気味な空虚さを抱えて生きた人だったのか、見当がつかなくなりました。
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by sentence2307 | 2006-02-04 09:51 | ケーリー・グラント | Comments(1)
ここのところずっと、ケーリー・グラントとロック・ハドソンをごっちゃに覚えていたことが、どうも気に掛かって仕方ありませんでした。

まあ、取り違えていたとか単なる錯覚なら、それこそ今に始まったことでもないし、そんなことをいちいち気にするようなデリカシーなども、まるで持ち合わせていないのですが、「ケーリー・グラントvsロック・ハドソン」というこの字面の組み合わせだけは、はっきり覚えているのに、つまり「記憶がある」ということだけは、はっきりしているのに、その中身が全然思い出せない、そんな感じです。

それだけに、気になって仕方ありませんでした。

ほら、よくあるじゃありませんか、例の「既視感」(間違っていたら、スミマセン)とかいう、過去に同じようなものを見た気がするとか、なんか前世で経験していたことが突然立ち上がってくるみたいに、その記憶という入れ物だけが甦ってくるのだけれども、その中身がどうしても思い出せないのです。

今回のそれは、「どこかで読んだ気がする」なのですが、しかし、それが、どこに書いてあったことなのか、皆目思い出せません。

僕の読書のスタイルは、1冊を読み切るのではなく、知りたい箇所だけを何冊も同時に拾い読みするタイプなので、時間が経ってから、その特定部分を探そうとすると、これがもう実に大変です。

同じような部分の微妙に異なる箇所をいちいち当たるわけなので、「あっ、あった!」みたいにスッキリしたかたちの発見ということには繋がらなくて、だいたいは「そうだっけ?」という無理やりの納得というなし崩しの終わり方を余儀なくされてしまう場合がどうしても多いのです。

もしこれが、一冊の本の最初のページから終わりまで、順序正しく読む人なら、きっと後から何かを探すにも、それほどの苦労はしないのではないかという気がします。

そんなわけで物置に放り込んでおいたままの映画本を数日掛けて片っ端から眼を通しました。

そして遂に発見しました。

「ニューヨーカー」誌に書いていた映画評論家ポーリン・ケイルの映画評論集「明かりが消えて映画がはじまる」の中の一節に、こんなクダリがありました。

「興行的に見れば、彼は『ミンクの手ざわり』のドリス・デイの相手役の方が成功していた。しかし、ありていに言って、それはロック・ハドソンで十分間に合う役であった。この役にグラントは、もったいないのである。」

映画評論家ポーリン・ケイルが、このように書いているところを見ると、ケーリー・グラントとロック・ハドソンは、たとえ俳優の格は「月とスッポン」だったとしても、この二人には引き合いに出されるだけの共通した「なにか」があったからだったのではないかという気がします。

今回は「思い出せない」ことを必死に辿って、やっと探し当てることの出来た稀な例だったのですが、久々にスッキリした気持ちになれました。

ところで、このポーリン・ケイルの映画評論集「明かりが消えて映画がはじまる」は、僕としては結構熱心に読んだ本だったのであちこちに線が引いてあり、時間も忘れて、しばしその部分に読み耽ってしまいました。

読みながら、だんだん思い出してきました。

この人ポーリンの3番目の亭主というのが映画館の経営者で、ポーリンは、そこの映画館のプログラムの編成を担当していたらしいのです。

そこのところを読んだとき、僕は、自分が一番したかったことが、映画館のプログラムの編成の仕事だったのではないかという思いに天啓のように囚われたことを思い出しました。

現実では、もう手遅れなのですが。

しかし、それ以来、自分が映画館を経営していたら、どういうプログラムを編成しようか、などという思いにすっかり心を奪われ、しばらく空想の快楽に耽り込みました。
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by sentence2307 | 2006-02-03 21:36 | ケーリー・グラント | Comments(0)