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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:原節子( 9 )

7月17日(火)の朝、いつものように、朝刊をペラペラめくりながら、すぐにでも話題に使えそうな記事を拾い読みしていたとき、突然、目の前に、大きな活字で「原節子」という文字が目に飛び込んできたので、本当にびっくりしました。

まさに、朝っぱら早々、原節子に「立ちふさがれた」という言い方がぴったりの突然の「鉢合わせ」です。

その活字には、こうありました。

「原節子の振り袖、ドイツに」

そして少し小さ目な活字で

「戦前 映画公開で訪問 ▶ 通訳に譲る」

です。

この見出しを読んだだけで、自分は思わず「あっ!」と声をあげてしまったくらいです。

あれだな。アーノルド・ファンク監督「新しき土」のことだなと。

記事の冒頭(リードとかいうんですよね)には、こうあります。

「戦前戦後活躍した伝説の女優で、2015年に95歳で死去した原節子さんが、1937年、主演した日独合作映画『新しき土』の公開に合わせてドイツを訪ねた際、通訳のドイツ人女性に譲り渡した振り袖が現存していることが分かった。振り袖は、通訳の知人でドイツ在住の女性が所有しており、現物の写真が18日発売の『新潮45』で公表される。」

へえ~、1937年ですか、単純に引き算したって、81年ですよ、こりゃ凄い。

また、わきに写真が2枚掲載されていて、一枚は、背広姿と軍服姿(たぶんナチスの軍服です)のドイツ人男性2人と美形の若いドイツ人女性とに挟まれた格好で、若き日の凛々しい和服姿の原節子が映っています。

もっとも、最初目にした大見出しで、すでに、これは「原節子」について書かれた記事らしいことを知っていたので、その美人が「原節子」その人だという見当がついていただけの話、もし事前のその予備知識がなかったら、はたしてこの妙齢の美女がいったい誰なのか、たぶんすぐには分からなかったと思います。それくらい目を見張る初々しい和装の美少女です。

ほら、よくあるじゃないですか、活躍した往年の壮年期のイメージしかない人の突然の訃報に接したとき、同時に発表される現在の老いた写真からは、自分たちが持っているその壮年期のイメージとあまりにもかけ離れているために、当のその老人が誰だかすぐには分からずに、ようやく知った時に「えっ、まさか」なんて驚いたりすること。たとえば、このたび85歳で亡くなった浅利慶太とか、それから常田富士男とか。

い~や、その例えって、どうなのよ。全然違うじゃん、「若さ」を「老い」で説明しようなんて、そういうのを無茶振りっていうんじゃね、良くないな・そういうの。良くない。失礼だしさ。鎮魂という意味でもすげえ問題だと思うよ。

それにあなたさあ、もともとが美しい原節子ですよ、それがまた更にすごく若くて初々しくて(ああ、この写真のことね)、清純とか、容易に人を寄せ付けない気品ある凛とした処女顔とか、そんなことはどうでもいいんだけどさ、そういう従来の刷り込みのイメージとあまりにもかけ離れてるからパッと見、分からないってことを言いたいだけなんでしょう? だめだ、だめだそりゃ。例が悪いわ。

すみません、話か横道に逸れました。

その写真説明には、こうありました、「現存が確認された振り袖を着て、ドイツの公式行事に出席した原さん(前列左)。右隣の女性がフランツ・エッケルトの孫娘」

そもそもこのフランツ・エッケルトなる人がいかなる人かは、記事の中で「明治時代に来日した音楽家」と紹介されていて、お爺さんが親日家だったらしいので、たぶんその孫娘という人もその影響で日本語が堪能だったのだと思います。なんて書きながら、一方でこの「フランツ・エッケルトなる人」を急いでwikiで検索して、ウラ取りしたところ、なんだか大変な人物であることを知りました。日本にとっても、韓国にとってもね。

ざっと言うと、こんな感じです。

《フランツ・エッケルト(Franz Eckert、1852.4.5~1916.8.6)

プロイセンの軍楽家。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本や朝鮮半島で活動した。「君が代」に和声を付けたことや、「大韓帝国愛国歌」を作曲したことで知られる。》

へえ~、この人って、わが国歌「君が代」の大恩人じゃないですか。

そしてさらにその【生涯】を読んだところ、ちょっと複雑な思いに捉われてしまいました。

そこには、こう書かれていました。


《1879年、エッケルト27歳のときに、日本で音楽教師として奉職することを任ぜられた。1880年、奥好義・林廣守作曲、林廣守撰定の「君が代」に伴奏、和声を付けた。以後、日本を離れるまで、海軍軍楽隊、音楽取調掛、宮内省式部職、陸軍戸山学校その他、洋楽教育機関のほとんどすべてにかかわった。1897年、英照皇太后の大喪の礼のために『哀の極』(かなしみのきわみ)を作曲した。
海軍は明治初年の創設以来英国式の軍制を採って来たが、音楽に関しては、当初のジョン・ウィリアム・フェントンによる英国軍楽隊方式から、エッケルトの着任以来、ドイツ式の理論や教育が浸透した。
1899年、離日する。帰国後、故郷では温泉保養地のオーケストラなどの仕事しか得られなかったため再びアジアでの活動を希望して朝鮮半島に渡り、李王朝の音楽教師となり、大韓帝国の軍楽隊の基礎を築くが、日韓併合後は野に下り、民間吹奏楽の指導者として西洋音楽の普及に貢献した。1916年、京城(現ソウル)で客死した。墓所は現在も韓国国内にある。》


う~ん、この短い経歴を読んだだけでも、アジアをこよなく愛し、多大な貢献もしたひとりのドイツ人が、皮肉にも日本発の強硬な政策に翻弄されながら(「日韓併合後、野に下り」と書かれています)、必ずしもその貢献に対して十分に報いられたとは決して思えない失意の最期をアジアの地で迎え、そして祖国に帰ることもなく、いまも「墓所は韓国国内にある」というクダリには思わず胸を打たれました。エッケルトにとって、「日韓併合」とは、なんだったのか、深く考えさせられるものがありました。

そして、さらに検索していたら、こんな記事にも遭遇しました。

メインタイトルは、「明治の唱歌とエッケルトの仕事」で、サブタイトルには「唱歌教育の原点・十九世紀末に外国人雇教師が編曲した『小学唱歌集』と箏の伴奏による美しい日本の唱歌」とあります。

そして、

《明治政府は西洋文明に追いつこうと学制を施行し、「唱歌」を教科目の一つとした。しかし実施の手だてはなく、伊澤修二らアメリカ留学組の帰国を待ってボストンの音楽教師・メーソンを招聘し、『小学唱歌集』の編集に着手した。オルガンやピアノを携えて来日したメーソンは自ら演奏しつつ唱歌を教えたが、伊澤は満足せず、2年余りでメーソンを解雇した。「東西二洋ノ音楽ヲ折衷シテ新曲ヲ作ルコト」を目指す伊澤はエッケルトを雇い入れた。
明治16年から足かけ21年間日本に滞在したドイツ人音楽家、フランツ・エッケルト(1852~1916)。まだオルガンやピアノを国内生産できる見通しが立っていない時代にあって、唱歌教育を推進するために、音楽取調掛の伊澤修二は当時の日本人にとってきわめて身近な楽器「箏」に着目し、エッケルトに箏二面伴奏による編曲を依頼した。ピアノやオルガンの伴奏に比べ、弾いたのち響きが減衰する箏の伴奏は、日本語が持つたおやかさを充分に生かせ、また、歌詞も聞き取りやすく、日本語の繊細な響きと非常によく合った。》

そして、その曲目はというのは、

『小學唱歌集』第二編(明治16年)フランツ・エッケルト 編曲/箏二面伴奏
[1] 第35「霞か雲か」(ドイツ民謡)
[2] 第38「燕」
[3] 第41「岸の桜」(南フランス民謡)
[4] 第42「遊猟」
[5] 第43「みたにの奥」
[6] 第45「栄行く御代」(クリスマス讃美歌)
『小學唱歌集』第三編(明治17年)フランツ・エッケルト 編曲/箏二面伴奏
[7] 第53「あふげば尊し」
[8] 第55「寧楽の都」
[9] 第56「才女」(スコット作曲『アンニー・ローリー』)
[10] 第58「めぐれる車」(フィッシャー作曲『復活祭前聖金曜日に』)
[11] 第60「秋の夕暮」
[12] 第62「秋草」
[13] 第63「富士筑波」(地唄『黒髪』より)
[14] 第64「園生の梅」(箏組歌)
[15] 第70「船子」【輪唱】(ライト作曲『Row your boat』)
[16] 第73「誠は人の道」(モーツァルト作曲『魔笛』より)
[17] 第78「庭の千草(原題/菊)」(アイルランド民謡)
[18] 第80「千草の花」
[19] 第89「花鳥」+「野薔薇」(ウェルナー作曲『野薔薇』)
箏三面合奏
[20] ふきの曲(箏組歌)[フランツ・エッケルト 編曲]
[21] 久方曲[フランツ・エッケルト 編曲]
[22] ピッツィカート・ポルカ  [J.シュトラウス II世&ヨゼフ・シュトラウス 作曲/    フランツ・エッケルト 編曲]
『箏曲集』(明治21年)
[23] 第2「桜」
『中等唱歌集』(明治22年)
[24] 第15「埴生の宿」
なのだそうです。


【閑話休題】

さて、原節子が写っている「写真」の話に戻りますね。

原節子の右隣に立っている女性が、かのフランツ・エッケルトの孫娘というところまでお話しました。人生のほとんどをアジアで過ごした感のある祖父と彼女がどれほど接触する時間が持てたのかは判然としませんが、少なくとも、その孫娘が(祖父亡きあとも)日本語の通訳ができるまでに精進したという事実は、祖父の彼女にそそいだ影響(愛情)の大きさと、そして、孫娘もまた祖父を深く敬愛していたことを証し立てているように思えて仕方ありません。

そこには、自分を野に引きずり下ろした無謀な政策「日韓併合」への恨み言などいささかも漏らされなかったことは、通訳として遥々東洋から来た若き女優・原節子に寄り添ったこの彼女の姿を一目見れば明らかです。

そして、もう一枚の写真というのが、そのとき原節子が着ていたという振り袖の写真です。

この振り袖の写真を公表するに至った経緯を記事はこんなふうに紹介しています。

「振り袖を所有しているのは、澄子・モリソン・クリーターさん(70)。97年頃、通訳の女性と知り合い、振り袖などを譲り受けたという。クリーターさんはその後、振り袖を一時日本の映画評論家に預けており、存在自体は知られていた。自身が高齢になったため、新たな預け先を探していたクリーターさんが、評伝「原節子の真実」の著者で、ノンフィクション作家の石井妙子さんに相談。振り袖の写真を公表することになった。」・・・「孫娘は日本で暮らしたことがあり、原さんと懇意になり、通訳の礼として振り袖を託された」のだそうです。

なるほど、なるほど。これでよく分かりました。

とにかく81年ぶりのことですから、「保存できた」ことを含めて、これは物凄いことですよね。

当の原節子が生きていて、この着物と対面したらどんなリアクションをするか、考えただけでもわくわくしますが、実際問題として、それまでだって何が何でも姿を現さなかったわけですから、あるいは、「肩透かし」される方が、可能性として高いかもしれません。



by sentence2307 | 2018-07-19 12:09 | 原節子 | Comments(0)

ある日の原節子

ちょっと前の土曜日の昼過ぎに、借りていた本を返しに図書館に行ったときのことでした。

ここは図書館のほかに集会場や300席くらいのホールなど、それなりの施設が入っているものの、なにせ小さな市なので、さほど大きな建物ではありませんが、平日でも多くの市民が利用しているとても賑やかな場所です(他に適当な施設がないということもありますが)、図書館はその建物の1階部分を占めており、建物に入ってすぐの玄関ホールには市の広報紙やセミナーのパンフレットが置いてある場所があります。

毎年、確定申告の時期ともなれば、自分もここに「暮らしの税情報」(国税庁)を貰いに来たり、そのほか県の広報紙や市の広報をはじめ、NPO法人の地域のボランティア活動報告とか、認知症予防講座の参加募集とか、ウォーキングを兼ねた郷土史研究会のご案内だとか、高齢者のインフルエンザワクチンのお知らせのタグイだったりするので(いまのところは、幸いにして、そのどれにもお世話にならずに済んでいます)、それなりの時間つぶしにはなりますが、緊急の必要事でもなければ、わざわざここに立ち寄ることは滅多にありません。

いつもならさっさと通り過ぎてしまうその場所ですが、その日はなんだか、誰かに見られているようなヘンな視線を感じて(胸騒ぎとでもいうのでしょうか)、思わず足を止めてしまいました。

自分は、かなりの近視なので、少しでも距離があったりするとぼやけてよく見えないのですが、ある一枚のパンフレットに写っている女性が、行きかう人の足を思わず止めさせるほどの物凄い美形であることだけは、遠目にもはっきりと分かりました、これがまさに「オーラ」を発しているということなのだなと実感しました。

引き寄せられるように近づくと、その美人が、尋常でない美しさであることが、ますます、はっきりとしました。

ほら、よく言うじやないですか、ぱっと見、美人と思わせるための大きな要素として「柔らかな微笑」というようなものが必須だとか(七難隠す、みたいな)、そのパンフレットに掲載されている女性は、背後やや上方の肩越しの位置から撮られていて、振り向きざまになにかを真剣に凝視しているその横顔には、その「柔らかな微笑」などというタグイの俗世的な固定観念に真っ向から挑むような・否定するような、容易に人を寄せ付けない毅然として固く厳しい、それでいて、それが「美しさ」を少しも損なってないという完璧な表情です。

これが、足を止めさせるほどの「オーラ」の意味だったみたいです。

いわば「いやん、ばかん」ではなく、「何なさるんですか!!」みたいな。

よく分かりませんが。

まあ、このセリフがどのようなシチュエーションのもとで発せられる種類のものであるかは、ご妄想(ご想像だろ)にお任せしますが、いやはや「処女性」ということで、つい連想が暴走してしまいました。

さっそく、そのパンフレットを手に取ると、それは「原節子選集」(特集・逝ける映画人を偲んで 2015-2016)というフィルムセンターの宣伝チラシであることが分かりました、そこに写っていたのが、今まで見たこともないような美しい原節子です。いやいや、この言い方は少しおかしいか。

原節子が美しいのは、いまさら始まったことではないので、ここは「美しい原節子の今まで見たことのない写真」というべきでした。
裏返してみると、最下端右隅に小さな活字で「表紙・わが青春に悔いなし」と記されています。それなら自分が見てないわけがないじゃないか。自慢じゃありませんが、「わが青春に悔いなし」なら両の手の指をすべて折ってもまだ足りないくらいは見ていますし、このブログにもコラムを書いたことがあります。

しかし、こんなシーンあったかなと、パンフレットをひっくり返して、また原節子の写真をじっと見入りました。

艶やかな黒髪に縁どられたその凛とした表情には、「潔癖」という言葉が自然と思い浮かぶくらい微塵の隙も緩みもありません。

眉をきりりと引き締めた鋭い瞳には幾分の潤いがあって、それが緊張と感情の高ぶりを表していることは判然・分かるものの、それが悲しみのためなのか、それとも怒りとか不安のためのものなのかはともかく、迫りくる過酷な「時代」に立ち向かおうと身構えている緊張感の鬼気迫るものであることだけは確かです。

きっと、自分が、すでに本編を繰り返し見ていて「わが青春に悔いなし」という映画のストーリーを隅々まで知悉している(勝手にそう思い込んでいるだけかも)既知の記憶に沿って原節子の表情を当て嵌めようとしているだけなのかもしれませんが、しかし、いずれにしても、そんなあれこれの考えを巡らしたのは、結局のところ、しばらくの時間、じっとその美しい顔に見とれていたかったことの言い訳でしかなかっただけだったような気がします。

これ以上見つめていると、写真にキスでもしそうな勢いなので(ここは公共の場で傍目もあり、すでにほとんど「危ないおじさん」になっていると思います)そのパンフレットを2枚いただいて、あとでゆっくり鑑賞することにしました。

しかし、それにしても、やや横を向いてじっと彼女が見据えている先にあるものが、いったいなんなのか、すぐにでも知りたくなりました、さっそく家に帰って、我がライブラリーから「わが青春に悔いなし」を探し出し、このシーンを確認しようと思いました。

いやいや、実際に映画で確認するというのもいいのですが、その前に、この場面がストーリーのどのあたりのシーンなのか、見当をつけておくことも必要です、少しでも手掛かりを得ようと、道々、画像の隅々まで目を走らせて必死になって考えを巡らせました。

この写真からすると、きれいに撫でつけられている髪型から、生活感のない良家の子女という感じなので、ストーリー後半で描かれている村民の迫害と生活苦に疲れた「農婦」でないことは一目瞭然です。ならば、前半に描かれている自由奔放な「お嬢さん」風かといえば、その落ち着いた雰囲気とか黒地のスーツの隙のない着こなしから見ると、どうも付け回す特高に毅然として対峙する中盤の原節子だろうなという見当をつけました。

それに、彼女が美しい横顔を見せて座っている場所は、どうも池か川のほとりの野原という感じです。

これだけの情報をもとに、帰宅してすぐに「わが青春に悔いなし」を見るはずだったのですが、実は、あっ、結論から申し上げますと、我がライブラリーから、カノ「わが青春に悔いなし」を探し出すことに、結局、失敗しました。

というのは、その映画が「あったのか・なかったのか」よりも先に、手の付けられない未整理の混沌・テープの山のカオスから、目的のものを探し出すことなどとても不可能で、早々に断念せざるを得なかったというのが、最も相応しい説明ということができるかと考えています。

思い返せば、常日頃、自分にしてからが、たまたま山の頂上にあるテープを手に取って順番に見ているだけなので、「何かを見たい」などという大それた我欲に満ちた俗世の欲望というか煩悩などすでにして超越しているというか(せざるを得ない)境地に至っていることを早々に思い出すべきだったかもしれません。

なので、映画「わが青春に悔いなし」の「確かめ」は、ついに果たされなかったことを、遅ればせながらここにご報告する次第です。ならば、うだうだ言わずに最初からそう言えば良かったじゃん、とか言われてしまうやもしれませんが(「かもしれません」を多用したので、少し言い方を変えてみました)、今回見られなかったのは残念ですが、でも、自分のこの推理は間違いないと思うけどな。

もう一度見たい作品もあるので、フィルムセンターで11月9日から開催されている原節子特集の11本の上映作品を以下に記しておきますね、とにかく、ものすごく楽しみです。



【魂を投げろ】
原節子の出演第3作で、現存作品としては最も古い。オリジナルは65分のサウンド版だが、本篇途中部分のみが無声で残存している。甲子園を目指す旧制中学の野球部を描いた青春スポーツ映画で、原はエース投手の妹役。当時15歳ながら、その美貌が深い印象を残す。脚本の玉川映二はサトウハチローのペンネーム。プラネット映画資料図書館所蔵プリントからの複製。
(1935日活多摩川)監督・田口哲、原作・飛田穂洲、脚本・玉川映二、撮影・福田寅次郎、
出演・伊沢一郎、中村英雄、和歌浦小浪、原節子(女学生)、東勇路、大島屯、名取功男、正邦乙彦、松本秀太郎、
(26分・35mm・24fps・無声・白黒・部分) 1935.09.26 富士館 8巻 白黒 サウンド版


【生命の冠】
北海道の漁港を舞台に、米国輸出用の蟹缶詰を製造する会社のオーナー・有村恒太郎(岡譲二)の奮闘を描く。原節子は恒太郎の妹役。オリジナルは94分のトーキーだが、現存プリントは無声の短縮版。皮肉にも当時まだあった無声映画館のためにサイレントにした版だけが残った。ほとんど失われた作品のもっとも悲惨な例として戦前の日活作品がよく例にあげられるが、内田吐夢の日活多摩川時代の諸作品もあげられるほか、村田実、伊藤大輔、溝口健二、山中貞雄、伊丹万作、田坂具隆、稲垣浩、熊谷久虎、倉田文人、阿部豊などの日活時代の名作のほとんどが失われた。この作品について佐藤忠男は「千島は1936年の内田吐夢監督の『生命の冠』で蟹漁場の港や蟹缶詰工場のある漁場基地として描かれた。この戦前の北洋漁場は1953年の山村聰監督の『蟹工船』でも描かれた。日本映画における北辺、さいはての苛烈な労働の場というイメージである。」(日本映画史④81)と記している。マツダ映画社所蔵16mmインターネガからの複製である。
(1936日活多摩川)監督・内田吐夢、原作・山本有三、脚本・八木保太郎、撮影・横田達之、
出演・岡譲二(有村恒太郎)、滝花久子(妻昌子)、伊染四郎(弟欽次郎)、原節子(妹絢子)、見明凡太郎(片柳玄治)、伊沢一郎(北村英雄)、菊池良一(漁夫)、鈴木三右衛門(漁夫)、光一(漁夫)、長尾敏之助
(53分・35mm・24fps・無声・白黒)  1936.06.04 富士館 9巻 2,588m


【冬の宿】
豊田四郎得意の「文芸物」の一本。元松竹蒲田のスター・勝見庸太郎が、落ちぶれてもなお見栄を張る中年男の悲哀を全身で演じている。原節子は勝見演じる嘉門がほのかに想いを寄せる清楚なタイピスト役。他にムーラン・ルージュ新宿座の水町庸子も出演。脚本は、豊田四郎の重要な作品「若い人」「泣虫小僧」「鶯」などを書いた八田尚之で「第二次大戦に突入する直前の時期の不安に満ちた市井の世相風俗をユーモアと哀感と知性的な態度でさらりと描く作品に巧みさを見せ」、「この作品は当時、奇妙な性格異常者を描いた掴みどころのない作品のように受け取られて、野心作ではあるがおおむね失敗作というふうに受け取られていた。しかしいま見れば、このせっぱ詰まっていながら、そういう自分たち自身の状況を認識できず、ますます愚行を重ねていく彼らこそ、まさに日中戦争の翌年というこの映画の製作時の日本の無自覚的な混迷ぶりを象徴する人物のように見える。あとからつけた理屈であるかもしれないが、芸術家の直感が時代の本質をとらえているとは言えないか。・・・情緒に流れることを排した小倉金弥の撮影も素晴らしい。」(佐藤忠男)オリジナルは95分で現存プリントは5巻目が欠けている。
(1938東京発声)製作・重宗和伸、監督・豊田四郎、脚本・八田尚之、原作・阿部知二、撮影・小倉金弥、音楽・中川栄三、津川圭一、美術・進藤誠吾、録音・奥津武、照明・馬場春俊
出演・勝見庸太郎、水町庸子、原節子、北沢彪、林文夫、藤輪欣司、島絵美子、堀川浪之助
(84分・35mm・白黒・不完全) 1938.10.05 日比谷劇場 10巻 2,534m


【美はしき出發】
叔父からの仕送りで何不自由なく暮らしている北條幹子(水町)と3人の子供。だが叔父は破産し、彼らは自分の生き方の見直しを迫られる。原は画家になる夢を捨てきれない長女の役。一家のために奔走する次女を演じる高峰秀子との初共演が話題となった。ニュープリントによる上映。
(1939東宝東京)製作・武山政信、監督脚本・山本薩夫、脚本・永見柳二、撮影・宮島義勇、音楽・服部正、美術・戸塚正夫、録音・村山絢二、照明・佐藤快哉、
出演・原節子(北條都美子)、高峰秀子、月田一郎、水町庸子、三木利夫、清川荘司、嵯峨善兵、柳谷寛
(66分・35mm・白黒) 1939.02.21 日本劇場 8巻 1,808m


【東京の女性】
丹羽文雄の同名小説を映画化。生活能力のない父に代わって一家を支えるため、節子(原)は自動車会社のタイピストから“セールスマン”へと転身し、次々と成功を収める。能動的で溌剌とし、男性社会を脅かしさえする女性を演じた原は、当時の映画評で「東宝入社以来おそらく最も生彩のある演技」と高く評価された。ニュープリントによる上映。
(1939東宝東京)製作・竹井諒、監督・伏水修、脚本・松崎与志人、原作・丹羽文雄、撮影・唐沢弘光、音楽・服部良一、美術・安倍輝明、録音・下永尚、
出演・原節子(君塚節子)、立松晃、江波和子、水上怜子、藤輪欣司、水町庸子、水上怜子、外松良一、鳥羽陽之助、深見泰三、如月寛多、若原雅夫
(82分・35mm・白黒) 1939.10.31 日本劇場 9巻 2,281m


【青春の氣流】
新鋭旅客機を設計した若き技師・伊丹(大日方)が、その製造実現に向け突き進む姿を、喫茶店で偶然出会った女性(山根)との恋愛を絡めつつ描くメロドラマ。社内で伊丹を支持する進歩派の専務(進藤)の令嬢に原が扮し、伊丹と添い遂げようと積極的にアプローチする姿が目を引く。ニュープリントによる上映。
(1942東宝)製作・松崎啓次、代田謙二、演出・伏水修、脚色・黒澤明、原作・南川潤「愛情建設」「生活の設計」、撮影・伊藤武夫、音楽・服部良一、美術・松山崇、録音・宮崎正信、照明・横井総一
出演・出演・大日方伝(伊丹径吉)、山根寿子(馬淵美保)、英百合子(その母)、中村彰(その弟章)、進藤英太郎(由定専務)、原節子(その娘槙子)、清川玉枝(その叔母)、清川荘司(竹内専務)、真木順(橋本設計部長)、藤田進(村上)、矢口陽子(喫茶店の女の子)、御舟京子[加藤治子](喫茶店の女の子)、永岡志津子(喫茶店の女の子)、
(87分・35mm・白黒) 1942.02.04 東宝系 10巻 2,389m


【緑の大地】
中国・青島に長期ロケを敢行した国策映画。運河建設をめぐり、日本人技師(藤田)やその妻(原)、女教師(入江)、悪徳商人(嵯峨)、反対派の中国青年(池部)たちが衝突するさまを描く。原は、女教師が夫の初恋相手であると知り、友情と嫉妬の間で揺れる妻の役を演じる。
(1942東宝)製作・田村道美、演出原作・島津保次郎、製作主任・関川秀雄、脚色・山形雄策、撮影・三村明、音楽・早坂文雄、演奏・東宝映画管弦楽団、美術・戸塚正夫、録音・下永尚、照明・平岡岩治、編集・長沢嘉樹、現像・西川悦二、後援・青島日華映画製作委員会、
出演・入江たか子(井沢園子)、丸山定夫(伯父井沢尚平)、藤間房子(母みね)、英百合子(尚平の妻すみ)、里見藍子(娘歌子)、江川宇礼雄(園子の弟幸造)、千葉早智子(呉女子)、藤田進(上野洋一)、原節子(妻初枝)、汐見洋(楊鴻源)、林千歳(楊劉子)、池部良(楊克明)、斎藤英雄(克明の友朱)、進藤英太郎(堺)、高堂国典(尹)、草鹿多美子(鄭秀蘭)、清川玉枝(南夫人)、沢村貞子(張嘉雲)、嵯峨善兵(宮川信成)、真木順(建設局長)、小島洋々(劉校長)、恩田清二郎(副校長)、鬼頭善一郎(取引所理事)、坂内永三郎(取引所理事)、大崎時一郎(宮川の友人)、松井良輔(木谷理事)、佐山亮(救済院長)、
(118分・16mm・白黒) 1942.04.01 紅系 12巻 3,217m


【母の地圖】
没落した旧家の母と子供たちが、東京で新たな生活を始める。しかし、長男(三津田)は満洲で一旗あげると飛び出し、次男(大日方)は出征してしまう。三女の桐江(原)ら女性だけが残され、一家の生活は逼迫していく…。植草圭之助の映画脚本第1作で、ヒロインの原節子も植草の指定によるものだった。文学座の俳優陣の手堅い演技が脇を固めた。
(1942東宝)演出・島津保次郎、演出助手・杉江敏男、脚本・植草圭之助、潤色・島津保次郎、撮影・中井朝一、音楽・早坂文雄、美術・戸塚正夫、録音・下永尚、照明・平岡岩治、編集・長沢嘉樹、現像・西川悦二、
出演・杉村春子(岸幾里野)、三津田健(長男平吾)、一の宮敦子(妻直子)、大日方伝(次男沙河雄)、千葉早智子(長女槙江)、花井蘭子(次女椙江)、原節子(三女桐江)、徳川夢声(舘岡一成)、東山千栄子(一成の妻)、丸山定夫(与田専務)、英百合子(与田の妻)、斎藤英雄(与田隆三)、中村伸郎(筧英雄)、森雅之(北野二郎)、若原春江(タイピスト)、立花潤子(タイピスト)、進藤英太郎(紳士)、嵯峨善兵(課長)、龍岡晋(課長)、深見泰三(村長)、横山運平(伊作老人)、
(102分・16mm・白黒) 1942.09.03 紅系 11巻 2,825m


【怒りの海】
ワシントン軍縮会議によって決定された主力艦保有数の制限を、米英による陰謀と強調した時局映画の一本だが、一方では「軍艦の父」と呼ばれ巡洋艦の開発に死力を注いだ平賀譲中将を描いた伝記映画で日本海防思想の発展を説いた。原節子は父である中将(大河内)の健康を気づかう娘の役。本作は、内閣情報局より、「国策遂行上啓発宣伝に資する」として国民映画選定作品に指定された。この年、ほかに選定作品に指定されたものに「勝鬨音頭」「決戦」「不沈艦撃沈」「水兵さん」「三太郎頑張る」「君こそ次の荒鷲だ」「あの旗を撃て」「加藤隼戦闘隊」「一番美しく」「命の港」「敵は幾万ありとても」「雷撃隊出動」「剣風練兵館」「菊池千本槍」「雛鷲の母」「肉弾挺身隊」「かくて神風は吹く」がある。ニュープリントによる上映。
(1944東宝)製作・佐々木能理男、藤本真澄、監督・今井正、脚本・八木沢武孝、山形雄策、撮影・小倉金弥、音楽・山田和男、美術・平川透徹、録音・安恵重遠、照明・平岡岩治、特殊技術・円谷英二
出演・大河内伝次郎、原節子(平賀光子)、月田一郎、河津清三郎、山根寿子、黒川弥太郎、村田知英子、志村喬、
(89分・35mm・白黒) 1944.05.25 白系 9巻 2,435m


【北の三人】
原、山根寿子、高峰秀子らスター女優が、女性通信兵として北方の航空基地で活躍する姿を描いた時局映画。戦争も末期を迎え、「銃後の守り」を主としていた映画の中の女性像も、戦地で積極的に活動するものへと変わっていた。1945年8月5日に封切られた戦中最後の劇映画。残存フィルムは不完全(オリジナルは72分)。
(1945東宝)製作・田中友幸、監督・佐伯清、脚本・山形雄策、撮影・中井朝一、美術・平川透徹、音楽・早坂文雄、特殊技術・円谷英二、
出演・原節子(上野すみ子)、高峰秀子、山根壽子、藤田進、河野秋武、佐分利信、志村喬、田中春男、淺田健三、光一、小森敏、羽鳥敏子
(41分・35mm・白黒・部分) 1945.08.05 白系 8巻 1,972m オリジナル72分


【わが青春に悔なし】
占領軍の民主化政策に沿って、戦前の京大滝川事件とゾルゲ事件を題材にして製作された民主主義啓蒙映画。学生運動弾圧の犠牲となって獄死した愛人・野毛(藤田進)の遺志を継いで社会意識にめざめるブルジョア令嬢(原節子)の革新的な熱情を描く黒澤明の戦後第一作。令嬢が愛人だった貧農学生の母を訪れて、みずから百姓生活に飛び込みスパイの汚名を受けながら陰湿な迫害の下で泥まみれになって働くという強烈な女性像は、戦争直後、民主化の機運の高まりに高揚していた当時の青年たちに多大な感銘を与えた。
(1946東宝)製作責任・竹井諒、製作・松崎啓次、監督・黒澤明、演出補助・堀川弘通、脚本・久板栄二郎、撮影・中井朝一、音楽・服部正、美術・北川恵笥、録音・鈴木勇、音響効果・三縄一郎、照明・石井長四郎、編集・後藤敏男、現像・東宝フィルム・ラボトリー
出演・原節子(八木原幸枝)、藤田進(野毛隆吉)、大河内伝次郎(八木原教授)、杉村春子(野毛の母)、三好栄子(八木原夫人)、河野秋武(糸川)、高堂国典(野毛の父)、志村喬(毒いちご)、深見泰三(文部大臣)、清水将夫(筥崎教授)、田中春男(学生)、光一(刑事)、岬洋二(刑事)、原緋紗子(糸川の母)、武村新(検事)、河崎堅男(小使)、藤間房子(老婆)、谷間小百合(令嬢)、河野糸子(令嬢)、中北千枝子(令嬢)、千葉一郎(学生)、米倉勇(学生)、高木昇(学生)、佐野宏(学生)、
(110分・35mm・白黒) 1946.10.29 12巻 3,024m



by sentence2307 | 2017-11-12 09:05 | 原節子 | Comments(0)

永遠の処女

滅多にない長い休暇となる年末を読書三昧で過ごそうかと急に思い立ち、適当な本を借りに、先日、図書館に出かけました。

そういえば、今日は今年最後の図書館開館日だったっけ、しかも行った時間が閉館間際の夕方だっただけに、駆け込みで本を借りようとして何冊もの本を重そうに抱えた多くのお客さんたちで貸し出し窓口はごったがえしていて、もはや長蛇の列でした。

もの凄い混雑を横目にしながら、もう面白い本などとっくに借り出されてしまっているに違いないという諦めの気持ちで、館内の雑踏とはウラハラの隙間だらけの寒々しい書棚を見て回りました。

当然、新刊書など残されているわけもありませんが、そんな気持ちで「映画」の棚ものぞいてみて回っていたとき、ある本の背表紙のタイトルが、さっと目に飛び込んできました、「原節子のすべて」とあります。

それってまさか、今年、新潮社から刊行されたばかりのアレじゃないよな、と思いながらさっそく手に取ったところ、まさにその本でした。

借り手ばかりがいやに多すぎるという需要過多のこの状況下で、まだ新刊本が残っていること自体、ホント奇跡とはこのことです。

こんなことって、まずありません。

なんか、ラッキー!という気持ちで借り受けて、家に帰って早速読み始めた次第です。

この本には、本来、原節子の幻の出演作(かどうかは疑問です)「七色の花」という作品のDVDが付録として付いているとのことですが、著作権者からの貸出許諾が得られなかったとかで「貸し出しができません」というシールが貼られています。

むこうさんが、ヤレ著作権がどうしたと騒ぎ立てるなら、それはそれで仕方なく、こちらとしては、ご当人の印税受領の当然の権利を侵害するわけにもいかず、そりゃ諦める立場でしかないわけですが、無資力な庶民にとっては、マコトに恨めしい限りで本当に残念です。

それにしても、自分は、この図書館で、新刊本「原節子のすべて」の借り手がいなかったことを、思わず奇跡的なラッキーと狂喜してしまったのですが、しかしマテヨと。

これって本当にそういうことだったのか、と少しあとになって改めて不安な気持ちに捉われました。

もしかすると「いまどきの人たち」などは、原節子になんか興味を持たず(ヘタすると、若い人たちのなかには、「原節子なんか知らないよ」なんて言い出す連中だっていないとも限りません)、この本が借りられなかったのは、実は「奇跡」などではなくて、最初から借り手なんかいなかったという方が真実だったのではないか、とちょっと疑心暗鬼に捉われたりもしたのですが、いやいや、そんなことはない、現にこうしてメジャーな出版社から単行本として堂々と刊行されているわけじゃないですか、このこと自体、彼女の人気が「一過性」のものなんかではなく「永遠性」を獲得しはじめていることの証拠に違いないく・・・いやいや、そうであらねばならないハズだと自分に言い聞かせた次第です。

それに「著作権」とかの観点からいえば、やっぱ内容を第三者にコト細かに伝えたりしてもいけないことなのでしょうが、しかし、「目次」くらいの紹介なら、かえってこの本の宣伝にも販売促進にもなることでもあるし、べつに咎めだてされるようなこともないだろうと考え、主だった項目だけを筆記してみることにしました。

最初のコラムは、白井佳夫の「なぜ原節子だけが永遠なのか」です。

キネマ旬報の元編集長で、むかしこの人の解説付きで貴重な邦画をテレビで何本も放映していたのを、よく見ていました。

今井正の「にごりえ」とか「どっこい生きてる」など、この番組枠で始めて見ることができて、そうとうに衝撃を受けた記憶があります。

次の論評は、石井妙子という人の「評伝 原節子」です、サブタイトルは「『永遠の処女』の悲しき真実」とあります。

なるほど、なるほど、でも白井氏もそうですが、誰もがこう「永遠、永遠」って幾度も持ち上げて、「永遠の処女」とかをこんなふうに大安売りされると、「永遠の処女」もなんだか少しダレてきて、薄汚れはじめ、ヘタするとどんどんグロテスクなものに変質しかねない嫌な感じを覚えます。

そうか、そのこと(標語化されることで、手垢にまみれて本来の清冽さが失せて、イメージがどんどん薄汚れてしまうという感覚)をいちばん意識したのは、もしかしたら、当時の原節子自身ではなかっただろうかという直感が、そのとき、ふと自分の脳裏を過ぎりました。

原節子をミステリアスな存在にしている「永遠の処女」というイメージを形作っているものは、たぶん「一生結婚しない」とか「決然とした引退」とか「二度と人前には姿を見せない」という、あの楚々とした面差しからは到底推し量りがたい決然としたもの、それらの衝撃的な幾つかの事実が積み重ねられて形作られているものだと考えられます。

そして、そのどれにも彼女の強い意思が秘められていて、女優として、あるいは人間としての人生のターニングポイントにおける彼女の選択のどれもが、あまりに純粋すぎて、庶民の通念からはちょっと推し量ることのできない常識を超えた、「虚を突く」ような決然とした判断があってのことと気づかされます。

彼女の標語の「気高い貞操観念」とか「純潔」とか「強固な道義心」など、それら彼女の揺るぎない意思が、庶民に衝撃的な感銘を与えたことは、たぶんそれはその通りだったでしょうが、同時にそれは庶民が「敬遠」せざるを得ないものでもあったことが、借り手がつかないまま図書館の書棚にいつまでも取り残されていたあの現象に繋がるのかもしれないなと思い至りました。

確固とした貞操観念や純潔や強固な道義心などは、それは確かに「感銘」を与えはするでしょうが、庶民には、それはあくまでも映画館の中だけで感銘するくらいでいい「理想」に過ぎず、その日暮しで世過ぎ身過ぎをしなければならない泥にまみれた庶民にとっては、到底無縁の、かえって疎ましいものでしかないこと(庶民にとっては、「高潔さ」など、あくまでも「商標」としてだけ理解すればいい馬の糞か駱駝のゲップほどの価値しかないもの)、それこそが「原節子」と「観客」を隔てる正しい距離だったはずです。

そして、そのことをいち早く、そして最も正しく認識したのは、原節子本人だったのではないか(当然それは、自身の受けるべき真正な「屈辱感」としてだったはずです)と考えました。

つまり、メディアが飾り立てた商標的な虚飾の部分を洗い流していけば「純潔」や「貞操」や「隠棲」の真正な姿が(いかがわしい部分も)現れるのではないか、少しは原節子の実像(庶民の実像とともにです)に近づけるのではないかと考えたのですが、しかし、単にこれらの関係性だけに拘っていたら、なにも見えてこないことは、統一性を欠いたこのヨイショ本「原節子のすべて」の雑多な内容(そのどれもが随筆「馬の糞」か論考「駱駝のゲップ」です)を誠実に隅々まで精読しても、なにひとつ得るものがなかったことからも明らかです。

それは、単にいままでの「原節子像」の認識の失敗を繰り返すだけの、前車の轍を踏む愚行を繰り返すだけのことでしかないような気がします。

「原節子のすべて」の中ほどに「1937年 原節子の世界一周」という二色刷りのページがあります。

ドイツとの合作映画「新しき土」のドイツでの公開に合わせて、出演した原節子が招聘されたもので、ほかに川喜多長政・かしこ夫妻と義兄の熊谷久虎監督が同行したとあります。

東京駅(1937.3.10)を出発して中国・大連(1937.3.14)からシベリア鉄道経由でベルリン(1937.3.26)に入り、パリ(1937.5.21)からニューヨーク(1937.6.21)、ニューオリンズをまわってサンフランシスコ(1937.7.12)、太平洋を渡って日本(1937.7末)へ帰るという、4ヶ月余にわたるまさに世界一周の旅をした行程が7頁にわたり詳細に書かれていて、各地で撮られて当時の写真も何枚か掲載され、川喜多夫人とのツーショット写真では、旅の疲れも見せずに笑顔さえ見せている朗らかな若き原節子の姿が写されています。

それだけに、熊谷久虎と隣り合わせで撮られたほかの2枚の写真の原節子のいやに緊張した表情が、異様に見えてしまいました。

そもそもドイツに招聘さるというのなら、原節子はともかく、同行者に熊谷久虎というのは、ちょっと意外な感じがします。

映画の関係者という線なら、まずは監督の伊丹万作が同行するというのが自然でしょうし、伊丹監督が病弱で無理というなら、主演の小杉勇が同行するというのが道理にかなったことのような気がします。

「義兄が一緒でなければ、自分は行かない」と原節子が駄々をこねたのか、熊谷が「俺を同行させなければ、義妹は行かせない」と凄んだのか、しかし、そのどちらにしても、限られた「同行者枠・一名」という貴重な席を「義兄」が捻じ伏せるように座を占める強引さは、とても不自然です。

義兄をカギ括弧でも括らなければ、この「影響大」の不自然さの納まりがつきません。

もし、そこに信頼関係以外になんらかのことがあったとすれば、この「同行者枠・一名」の強引な印象への疑惑から発した《「純潔」や「貞操」や「隠棲」の真正な姿が(いかがわしい部分も含めて)現れるのではないか》という投げ掛けの、一応の答えの体裁としては整ったかなと考えました。

石井妙子「評伝 原節子-『永遠の処女』の悲しき真実」には、東宝プロデューサー・藤本真澄が原節子との関係についての語った述懐が、孫引き引用されています。

《原節子に、実は惚れてたんだよ、昔だけどもね。
できたら結婚したいなんて若気の至りで思ったんだが、そのとき、ほら、熊谷久虎。知ってるだろう、姉さんの旦那さ。
あの右翼野郎と出来てるってきいてね、それで、あきらめたのさ》40頁下段、(原出「シナリオ別冊 脚本家 白坂依志夫の世界」平成20.6)

《小津は死に、熊谷は映画を撮ろうとはしなくなり、そして節子は女優をやめた。
数々の小津映画に出演し、それがゆえに女優としての評価を高めた節子である。
にも拘わらず、彼女は昭和27年の時点で、自分の出演作で気に入っているものを聞かれて、「晩春」も「麦秋」も挙げてはいない。
そのうえでこのように述べているのである。
「いまやってみたいと思っている役に細川ガラシャ夫人があります。実現できれば義兄の熊谷(久虎のこと)に演出してもらいたいんです。私の見た日本映画でほんとに心に迫るものを感じたのは、義兄の監督した『阿部一族』でした。義兄のことを褒めて気が引けるんですが、私は熊谷の演出を高く買っています。」
小津よりも熊谷を高く評価していたと受け取れる発言である。
それほどまでに熊谷への崇敬の念は強かったのか。
熊谷の才能を認めようとせず、『細川ガラシャ伝』の企画を潰した日本の映画界に彼女は背を向けたのかもしれない。》39頁中段(「近代映画」昭和27.1)

wikiでの熊谷久虎の紹介は、こんなふうに始まっています。
「戦時中多くの映画監督たちが国策映画や戦意昂揚映画を撮ったことはよく知られているが、そのなかでも熊谷久虎の存在は特異である。」


【熊谷久虎】1904.3.8~1986.5.22
1904年大分県中津市に生まれた。隣家は福沢諭吉の生家だった。中津中学校を経て
22年大分高等商業を卒業。
25年、父親の従兄弟で日活の重役・池永浩久のツテで大将軍撮影所に入社した。当時、池永は撮影所長を兼ねていて、豪放な性格から「聯隊長」の異名をとっていて、その人情味あふれる人柄で厚い人望を集めていた。熊谷は田坂具隆の組についた。
30年に監督昇進。第一作「恋愛競技場」。監督五年ほどは青春謳歌の明るい作品が多いが、師匠の田坂のスタイルを表面的になぞったものだった。
35年日活多摩川撮影所に移る。
36年の「情熱の詩人啄木」で一躍日本映画界期待の新人監督として認められる。渋民村時代の石川啄木を主人公に代用教員の啄木が自由で進歩的な教育を志し、ついには頑迷な校長や村人の反感を買い村を追われるという内容。熊谷は、主人公を愛情込めて描くとともに、彼の生活との結びつきに力を注ぎ、そこから溢れ出る哀傷と激情は、観客の心を深く捉えた。
37年の「蒼氓」での成功は、早くも彼を一流監督の地位に昇りつめさせた。原作は、石川達三の第1回芥川賞受賞作品で、ブラジルへ移民する農民たちが神戸の移民収容所で乗船する一週間前の集団生活の日々を描いた群像劇で当時の日本の暗い社会事情を反映した骨太な作品である。映画にするにはあまりにも重苦しい作品と危ぶまれたが、敢えてこれに取り組んだ熊谷にはひとつの決意があって、それはともすれば安易な境地になずもうとする自分への叱咤でもあり、また彼の入社当時に発表された村田実の「灰燼」、内田吐夢の「生ける人形」、溝口健二の「唐人お吉」などに対する奮起でもあった。「蒼氓」は、ブラジル渡航直前の移民の群像を神戸の収容所に捉えたものだが、熊谷はそこに当時の日本をおおう暗い社会事情を暗示的に語り、いわゆる小市民映画とは一線を画する熊谷の重厚な作風であり、社会的感覚を持った当時一級の知性映画として当時の現代劇の主流ではなかったために貴重な存在だった。この「蒼氓」を最後に彼は、古巣の日活を去り東宝に移った。
東宝に移籍した熊谷は38年森鴎外原作の『阿部一族』を発表した。
森鴎外の原作は封建制度化の殉死を冷たく見据えたものだが、映画は領主の病死をめぐって起こる藩臣間の腹の探りあいと思惑や、その中心に置かれた一族の抵抗を通じて武士階級への批判を示し、前進座俳優の好演も得て、見事なドラマとなった。熊谷は、封建制度下の殉死というテーマで彼の抵抗精神をモチーフにした重厚な作風は一流監督の地位を得、頂点を極めたかにみえたが、しかし戦時体制下の思想統制は、彼の作家的資質の方向性を大きく変え、直後に撮った『上海陸戦隊』(39年)や『指導物語』(41年)は極端に形骸化された国策映画であり、それまでの作品に見られた批判性や抵抗精神などは姿を消し、その変貌ぶりに周囲の関係者は戸惑いを隠せず、次第に名声と信頼を失い始める。「阿部一族」に続く「上海陸戦隊」39、「指導物語」41は、ともに戦時国策型の映画で、構えの大きさに似ず内容的には「啄木」以後の作品に見られた批判性も抵抗性も持たない作家不在の迎合型映画であった。この変質については幾つかの憶測がつく。
所属会社東宝の保身第一の安全主義、さらにその背後にあって強圧を加えた軍部の要請など。だが、たとえそれが要因であったとしても、この変質、作家的変貌は、人々を落胆させるに十分であり、かつての反世俗的な抵抗精神は姿を消して、熊谷に残ったものは、事大主義の形骸だけであった。
その後、熊谷は映画を離れて、国粋主義思想研究団体「すめら塾」を結成し、リーダーとして政治活動に没頭していった。太平洋戦争中は海軍報道班員としてジャワ島に渡ったりした。当時の国家の指導のもと多くの映画人が戦意昂揚・国策映画を製作し戦争協力を果たしたことは周知の事実だが、熊谷の場合その大真面目な極右的国粋主義思想への傾倒ぶりが人々の(特に映画評論家の)困惑をいっそう大きくした。後年研究者たちはその変貌の要因を「ドイツに渡りヒットラーにあってファシズムにかぶれた」ことや、「所属会社の東宝の保身第一の安全主義」や「強圧を加えた軍部の要請」といったことに見出したりしたが、いずれにせよ熊谷の評価はこの時期に大きく変化し、以後覆ることはなく、終戦後8年の間、監督に復帰することはなかった。
49年、義理の妹にあたる原節子も参加した芸研プロを創立し、プロデューサーとしての活動を始める。そして53年には東宝に復帰して映画監督を再開した。58年にかけての5年間に5本の作品を発表するが、57年の『智恵子抄』が評価を受けた程度であったが、それも高村光太郎の原作に負うところが少なくなく、戦後の熊谷の映画活動は、戦争中の彼の政治活動に対する贖罪とはならなかった。しかしさわやかな好篇として人気を博した1954年の『ノンちゃん雲に乗る』と『柿の木のある家』は、熊谷が第二次芸研プロでプロデュースした作品であることを記憶にとどめたい。

人間 前後篇(1925.12.01日活大将軍)助監督
結婚二重奏 前後篇(1928.01.21日活大将軍)助監督
恋愛競技場(1931.03.06日活太秦)
玉を磨く(1931.06.23日活太秦)
本塁打(1931.09.10日活太秦)
動員令(1931.10.08日活太秦)
北満の偵察(1931.12.18日活太秦)
さらば東京(1932.05.20日活太秦)
喜卦谷君に訊け(1932.08.25日活太秦)
彼女の道(1933.02.08日活太秦)
青春の唄(1933.09.30日活太秦)
炬火 田園篇(1933.11.30日活太秦)
群盲有罪(1933日活太秦)
炬火 都会篇(1934.02.01日活太秦)
三家庭(1934.06.28日活多摩川)
巌頭の処女(1934.11.08日活多摩川)
わたしがお嫁に行ったなら(1935.01.05日活多摩川)
青春音頭(1935.04.03日活多摩川)
情熱の詩人琢木 ふるさと篇(1936.03.12日活多摩川)
気まぐれ夫婦(1936.12.17日活多摩川)
蒼氓(1937.02.18日活多摩川)
阿部一族(1938.03.01東宝映画東京=前進座)
上海陸戦隊(1939.05.20東宝映画東京)
指導物語(1941.10.04東宝映画東京)
白魚(1953.08.05東宝)
かくて自由の鐘はなる(1954.06.01東宝)
美しき母(1955.12.04東宝)
智恵子抄(1957.06.29東宝)
密告者は誰か(1958.11.18東宝)
by sentence2307 | 2014-12-31 12:47 | 原節子 | Comments(2)

幻の「蛇姫様」

物置から引っ張り出した斎藤忠夫著「東宝行進曲・私の撮影所宣伝部50年」を手に取るのは、本当に久しぶりです。

すぐに仕舞い込むというのも、なんだかもったいない話なので、せっかくですから暇なときに少しずつ読んでいます。

撮影所の宣伝マンの立場から書かれた本です、当然、俳優をはじめ、撮影所の所員や事物について、ことごとく好意的に書かれているというのは、むしろ当たり前ですが、そういう手前味噌的な姿勢が少しも嫌味に感じませんでした。

少しまえだったら、書くうえにおいて、そういう馴れ合い的な筆勢というものに、反射的に嫌悪感を覚えたと思うのですが、かえって心地よささえ感じてしまいました。

しかし、こうした感じ方の変化に、なんだか自分の感性の衰えというか、若さを失っていく実感というか、そうしたことのアカシのように思えて、一面さびしい気もします。

さて、この本を読み進むにつれて随所に興味をそそられる箇所がありました。

そのなかで、「原節子」について描かれている部分(ほんの数頁程です)をかなり面白く読みました。

原節子は、15歳のときに、義兄・熊谷久虎監督の勧めで日活入りし、青春映画「ためらうこと勿れ若人よ」で映画デビューしています。

すぐにでも辞めるつもりでいた女優業ですが、彼女の意に反して徐々に人気が出て、やがて日独合作映画のために来日した監督アーノルド・ファンクに見出され、「新しき土」に大抜擢されます。

この映画に出演したのち、原節子は、宣伝のために作品とともにドイツの各都市を回りますが、彼女の東洋の花のようなエキゾチックな可憐さは多くのドイツ人を魅了し、一躍その名を欧州に知らしめ、国際女優としての評価を確立させました。

やがて東宝に入社して、「巨人伝」「母の曲」「田園交響楽」等の大作に出演しますが、すでに大女優が綺羅星のごとくいる東宝に入社したあたりの微妙な雰囲気を、斎藤忠夫は、こんなふうに描写しています。

「こうして大女優になったが、他動的にスターにさせられたという感じのまま、東宝という大所帯の真っ只中に立たされた彼女の心の重みは大変だったと思う。
ましてここには、PCL当時からいる、千葉早智子、竹久千恵子、堤真佐子、椿澄枝、神田千鶴子、里見藍子などの生え抜きの小姑がおり、そこへもってきて、入江たか子とその一党、山田五十鈴、花井蘭子らの日活時代の大先輩、なかでも、目下人気絶頂で東宝映画の人気若手ナンバーワンの霧立のぼるが君臨している。
いわば霧立は王座の地位を原節子に追われる立場になりかねない。
先輩後輩、役のつく・つかないのにらみ合い、陰口、嫉妬、意地悪、その隠微な確執は、原節子にとってはたいへんつらい悲しい『女の園』であったと思う。」
と記してから、
「演技もうまくない女が、美人だからと世間で言われ、わいわい騒がれる。
これを自覚している聡明な彼女は、女優らしからぬ女優。
わりあい無口で自分から世間話などしようとしない女優。
仕事が終われば誰ともつき合わないで、自宅へ帰ってしまう女優。
男優陣の誰かが冗談をいってふざけると、そっと肩をそらして逃げてしまう女優。
・・・こんなことから、原節子には、格別な聖処女のレッテルが貼られるようになったのである。
そんな彼女もようやく20歳、美貌はますます光り輝いていた。」

そういうときに、アメリカのライフ誌のカメラマンが、日本の撮影所の紹介をグラビアで組みたいと、通訳つきで撮影所にやってきます。

セット風景を撮影し、大道具・小道具部屋、セット組立建築中風景、現像場から製作部、そして、俳優部のオフィスから、俳優部屋の中まで案内します。

そして衣裳部屋で、ちょうど原節子が「蛇姫様」の衣装合わせをしているところに遭遇します。

「新しき土」ですでに世界的に有名な日本女優・原節子ですから、「ライフ」誌に掲載するのに不足はありません、むしろ願ってもない格好の被写体だったに違いありません。

事実、「ライフ」誌に掲載されたという原節子の「蛇姫様」衣装合わせの写真が、一頁を割いて掲載されています。

しかし、この「蛇姫様」、製作までの背景には、東宝ではそれまで本格的な時代劇がうまく作れなかったという特別な事情がありました。

唯一、熊谷久虎監督の「阿部一族」が高い評価を得たくらいで、あとはパッとしない。

せっかく入社した時代劇の鬼才・山中貞雄は戦死、才人・伊丹万作も、すでに病死しています。

俳優人には、時代劇こそ本領を発揮できるという長谷川一夫も大河内傳次郎も控えているというのに、「鶴八鶴次郎」や「白蘭の歌」「支那の夜」、それに「巨人伝」では、いかにも物足りないという観がありました。

そんなとき、松竹から時代劇の名匠・衣笠貞之助が東宝入りしてきます。

その第1回作品として企画されたのが、波瀾と怪奇に富んだ川口松太郎原作の時代絵巻「蛇姫様」でした。

出演は、大河内傳次郎、長谷川一夫、山田五十鈴、黒川弥太郎、花井蘭子など、かつての日活、松竹の時代劇大スター総出演の超大作前後編ものです。

そして、物語発端の中心人物、姫君琴姫・通称蛇姫様は入江たか子に決まります。

しかし、配役の発表も終わり、スチール撮影も終了したとき、入江たか子が突然発病して、入院してしまいます。

そこで、急遽会社側は、新人・原節子を代役に立てます。

もっと大物女優の起用を考えていた衣笠貞之助も会社の意向にしぶしぶ同意しますが、蛇姫様の腰元役の花井蘭子がゴネだします。

彼女のバックは、実父でもある関西芸能界のボス・元新派俳優の清水林之輔「入江たか子の姫につかえるのならともかく、原節子なんかの素人役者につかえる腰元役なんかやれるものか、まして前編で殺されてしまう役なんか」と出演を拒否し、花井蘭子を連れて京都に帰ってしまいます。

会社は仕方なく、「白蘭の歌」で長谷川一夫の妹役をやったことのある山根寿子を代役に立てて、やっとクランクインしたという裏話です。

このゴタゴタは、マスコミには発表されず、映画の方は大ヒットとなりました。

しかし、これで話は終わりません。

「ここでまた不思議なことが起こった。
引き続き製作に入った『続蛇姫様』は、そのまま原節子が姫君をやるのかと思ったら、病気の癒えた最初に予定した入江たか子に変更。
ついでながら、いずれ前後同時に公開することもあるだろうとして、前編分の原節子の出演部分も全部カットして、あらためて入江たか子で撮り直しました。
なぜこんなことをしたのか、首脳部の考えはわからない。
これにはなにか理由があったのだろう、謎のまた謎である。
その後、戦後に至るまで衣笠貞之助は原節子を一度も使っていない。
マスコミもこの件については疑問を持つ人もいなかったので、宣伝課はしあわせであった。
それにしても、この事件でいちばん可哀そうだったのは、原節ちゃんだったことだけは、たしかである。」

このクダリを読んでいて、むかし、ある掲示板で、こんなやりとりがあったことを思い出しました。

それは、
「Jmdbによると、「蛇姫様」の蛇姫の役は、原節子が演じているとされているのに、私の持っている総集編のビデオには、最後まで 原節子はまったく出演してしない、どうしてでしょうか。」
という問いに対して、
「たぶん入江版蛇姫様は戦前のもので、原節子版は戦後のものなのではないでしょうかね?」
などというやり取りがあり、さらに別の人が
「「蛇姫様・第一編」が原節子で、その続編「続蛇姫様」が入江たか子の主演。どちらも1940年の作品です。 当初は続編も原が演じる予定だったのが、都合により入江に代わったらしい。総集編には原節子が出てないとは知りませんでした。」
と答えていた記憶がありました。

僕たちが、「蛇姫様」総集編しか見る機会を持てないのだとしたら、やはり「蛇姫様」前編は、幻の映画になってしまうということになります。

しかし、なぜ、あえて前後編を整合性を持たせようとしたのか、その奇妙な律儀さには理解に苦しむものがありますが、おそらく原節子が新人でなかったら、そんな強引なこともしなかったかもしれません。

しかし、とにかく、この本のおかげで、その辺の事情はよく分かりました。

それにしても、衣笠貞之助がどういう気持ちで撮り直したのか、そしてそのことを原節子は、どう思ったのか、いずれにしても、その答えは、「戦後に至るまで、衣笠貞之助は原節子を一度も使っていない。」あるいは「原節子は衣笠貞之助作品には一度も出演していない。」にすべて言い尽くされているというわけなのでしょうか。

(1940東宝映画・東京撮影所)製作・森田信義、演出・衣笠貞之助、製作主任・森一、楠田清、脚本・衣笠貞之助、原作・川口松太郎、撮影・三村明、和楽作詞・岡安喜三郎、田中伝一郎、杵屋正一郎、鼓曲・望月太明蔵、洋楽・深井史郎、演奏P.C.L.管弦楽団、装置・島康平、舞台製作・稲垣円四郎、録音・安恵重遠、村山絢二、照明・藤林甲、編集・岩下広一、現像・西川悦二、按舞・藤間勘十郎、
配役・長谷川一夫、山根寿子、御橋公、三條利喜江、宮野照子、横山運平、加藤照子、薄田研二、原聖四郎、黒川弥太郎、藤輪欣司、鳥羽陽之助、清川荘司、丸山定夫、原節子、水町庸子、鈴村京子、歌川十糸子、生方賢一郎、進藤英太郎、馬野都留子、真木順、鬼頭善一郎、高堂国典、山田五十鈴、市川朝太郎、小島洋々、江藤勇、高松文麿、大河内伝次郎
1940.04.03 日本劇場 11巻 3,066m 112分 白黒
by sentence2307 | 2010-08-04 21:33 | 原節子 | Comments(255)

新しき土

ドイツ山岳映画の第一人者アーノルド・ファンクが、日本においてデビューしたての原節子で撮ったこの映画が、ドイツ国内では「侍の娘」というタイトルで公開されて大当たりをとったことは、よく知られています。

資料には、1937年3月23日から5月18日の間にドイツ主要都市2600の大小映画館で上映されて観客総数600万人を超えたとされています。

これは、それまでのロング・ラン作品テラ・フィルムのポーラ・ネグリ主演「モスコー・シャンハイ」の記録を大幅に破る快挙でした。

この圧倒的な人気はドイツのみにとどまらず、欧州13カ国をはじめギリシャ、ポーランド、ハンガリー、フィンランドからの上映の申し込みが殺到したと記されています。

しかし、日本において、それほどの圧倒的な人気を得ることができたのかどうか、その辺の確認はできませんでしたが、僕の知る限り、それほどのものではなかったように思われます。

その理由のひとつは、日本の観光地をただツギハギしただけの独善的で誠意のない描き方にあったのかもしれません。

原節子が鹿に餌をあげている同じ庭園内から、安芸の宮島が望まれるというようなシーンには、ただただ驚かされてしまいますが、しかしこれが当時の欧米人が夢見た極東の島国の限界だったのでしょうか。

しかし、本当は、日本人が受ける「違和感」は、もう少し違う所にあるのかもしれませんね。

つまり、例えば、冒頭に映し出される傑出した荒々しい富士山の威容を描いている力強い映像はどうでしょうか。

それまで僕たちが見てきた日本人の撮った富士が、どこまでも霊峰としての神々しさを失うことなく、穏やかでごく身近な静謐さをたたえた富士山の映像しか見たことがなかっただけに、やはり、この映像体験は、僕にとってはやはり衝撃といえるものだったかもしれません。

もうひとつ別に作られたという伊丹版が、このあたりをどう処理しているのか未見なので分りませんが、少なくともファンク版における富士は、容易には人を寄せ付けそうにない険しい岩肌に、叩き付けるように逆巻く雪まじりの突風が行き交い、荒々しく吹き荒れる自然の猛威と不気味さを湛えた今まで見たこともないような自然そのものの只中にある猛々しい富士山の姿でした。

そこには、僕たちがいつの間にかこの単なる山に付加してしまっていた価値観とかモロモロの観念(霊峰とか)を打ち砕く「まぎれもない自然そのものの姿」がありました。

この日独同盟が産み落とした政治的な映画が、意外に当時の日本人に不評だったのは、日本人のイデオロギーそのものでもあった富士山をこんな形で剥き出しに描いたこのあたりにあったのかもしれませんね。

この場合のリアリズムが、日本人にとっては受け入れがたい場違いな「否定」を意味していたに違いありません。

(37J.O.スタジオ・東和商事映画部)総指揮アーノルド・ファンク、監督・日独版 アーノルド・ファンク 日英版 伊丹万作、脚本・日独版 アーノルド・ファンク 日英版 伊丹万作、原作アーノルド・ファンク、撮影リヒアルト・アングスト、撮影助手ワルター・リムル 上田勇 ハンス・シュタウディンガー、音楽・山田耕筰、伴奏・新交響楽団 中央交響楽団、作詞・北原白秋 西條八十、装置・吉田謙吉、録音・中大路禎二、衣装・松坂屋
出演・早川雪州、原節子、小杉勇、英百合子、中村吉次、高木永二、市川春代、村田かな江、常盤操子、ルート・エヴェラー、マックス・ヒンダー
1937.02.04 帝国劇場 12巻 3,143m 115分 白黒
by sentence2307 | 2007-04-28 22:50 | 原節子 | Comments(149)
以前、「日本映画専門チャンネル」の原節子特集で多くのめずらしい作品が上映された際に、ちょっと毛色の変わった作品があったので、特別に印象に残っていました。

吉村廉監督の「女医の診察室」50という作品です。

上原謙と共演した医者ものの大恋愛映画なのですが、見ているこちらが恥ずかしくなって思わず顔を伏せてしまいたくなるような物凄い代物です。

原節子が、その長い映画女優のキャリアのなかで、なにも小津作品や成瀬作品のような良質のきちっとした作品ばかりに出演していたわけではないのは十分に承知していた積りでも、その内容もさることながら、あの作品の荒っぽい作り方が特に印象に残ってしまったのかもしれません。

なにしろ、原節子の出演作を年を追ってざっと見ていくだけでも49年の「お嬢さん乾杯」、「青い山脈」、「続青い山脈」、「晩春」、51年の「白痴」、「麦秋」、「めし」、53年の「東京物語」、54年の「山の音」という超ハイテンションのラインナップの中で、それにしても「女医の診察室」という盛り下がる奇妙な存在に、特に奇異に感じてしまったのかもしれません。

その「奇異に感じた」理由は、多分この作品のタイトルをプログラムで見たときから始まっていたのだと思います。

そのときは、まだこの作品が、原節子の出演作とは全然知りませんでした。

僕が見たのは、「女医の診察室」と「新東宝」という2つの言葉だけです。

この扇情的な2つの言葉が、瞬時に官能的で淫らな幾つかのイメージを僕の脳裏に呼び覚ましました。

そしてこれまでの数少ない映画経験から、それが具体的なセリフとなって結実していきます。

「あら、何をなさるんです。およしあそばして。」

「まあ、いいじゃありませんか、先生。ほら、もうこんなに。」

「あれー!」

なにしろ、ブツは新東宝作品です。

なにしろ、「女医の診察室」です。

しかし、すぐにこの作品が、聖・原節子様の出演作であることを知り、わが身の不徳を深く恥じ、悔い改め、懺悔し(同じか)、みずからを鞭打ちました。

てなわけで、改めて清らかな気持ちでこの映画を見たのですが、きっと、出だしの最悪のダメージが継続していたためか、印象はやはり散々のものでした。

上記の作品の映画会社をそれぞれあたってみると、なぜ「女医の診察室」だけが奇異に感じたのか分かりました。

ざっとこんな具合です。

「お嬢さん乾杯」(松竹大船)、
「青い山脈」(東宝)、
「続青い山脈」(東宝)、
「晩春」(松竹大船)、
「白痴」(松竹大船)、
「麦秋」(松竹大船)、
「めし」(東宝)、
「東京物語」(松竹大船)、
「山の音」(東宝)

そうなんですよね、新東宝は、「女医の診察室」の1作だけでした。

僕の受けた印象が当を得ていたことがこれで証明されたみたいな気がしましたが、しかし、なにも「新東宝」をコケにするためにダラダラと書いたわけではありません。

観客が潜在的に持っているあるイメージを喚起させずには置かない「新東宝マジック」のことを書いてみたかったのです。

新東宝映画を見終わって誰もが叫ぶというあの怒りの合言葉、

「なんだよ、裸女なんて、ひとりも出てこないじゃないか!」

という愛すべきラブ・コールを頼りに、今晩はじっくり、新東宝作品群の傑作タイトル集めでもしてみようかと思っています。
by sentence2307 | 2005-06-26 19:17 | 原節子 | Comments(292)

女ごころ


夫に浮気をされた妻・原節子が、意を決して家を出て行く際や、夫の裏切りに離婚を決意したときなど、この映画の随所で原節子が口にする「試験別居」なるセリフが、映画の流れにそぐわず違和感を覚えるほど浮いてしまっていたので、この言葉いったい何なんだと訝しく思っていたら、これは原作の由起しげ子著「試験別居」という小説のタイトルだったのですね。

映画を見た後でそのことを知って、ちょっと複雑な気持ちになりました。

例えば、この映画をリアルタイムで見た人たちには十分に理解できたことでも、時を経てこの言葉が持っていた共有感覚みたいなものもすっかり色褪せ、多分「死語」同然になっていて、いまでは何を意味しているのかさえ分からない抜け殻のような言葉にときたま遭遇することがありますよね。

僕にとってリアルを欠いた「試験別居」という言葉が、まさにそういう言葉でした。

そしてまた、「試験別居」という「死語」を幾たびも口にする原節子に対しても同じような気持ちを抱いてしまい、きっと僕が感じた「複雑な気持ち」とは、そういうことだったのかもしれません。

大学教授の夫が、雑誌社の若い女性社員に心魅かれ肉体関係を持ち、その裏切り行為を憤った妻が子供を連れて家を出て自活していく。

夫婦の前に突然若い女が出現し、倦怠期にさしかかっていた夫婦間の亀裂が明らかになり破綻の危機にさらされるというあの成瀬巳喜男の「めし」の傑出した演技に与えられた評価以来、原節子が繰り返し演じた役柄でもありました。

しかし、皮肉にもその評価によって、原節子は、そういったタイプの役、つまり、もはや自分には、夫を夢中にさせ自分に繋ぎとめておくだけの美貌も若い肉体もない、という「中年の妻」の役柄を図らずも演じ続けなければならなくなり、そのとき、それほどの工夫も必要ない、次第に地のままで演じられることに気づき始めてしまったとき、こうした役柄が、かつて美貌で売っていた女優にとって耐え難いものでないはずがない、などとつい余計なことを勘繰ってしまいました。

この作品は、1959年度の作品ですが、この類いまれな美貌に恵まれ戦前戦後を通して日本映画界の第一線で華々しい足跡を残した大女優は、その3年後の1962年の「忠臣蔵・花の巻、雪の巻」を最後に映画界を去っていくこととなりました。

(59東宝) 製作:藤本真澄、監督:丸山誠治、脚本:田中澄江、原作:由起しげ子、撮影:小泉福造、音楽:斎藤一郎、美術:浜上兵衛、録音:渡会伸、整音:下永尚、照明:石川緑郎

出演:原節子、団令子、江原達怡、森雅之、佐原健二、三井美奈、丹阿弥谷津子
1959.02.10 6巻 1,612m 白黒 東宝スコープ
by sentence2307 | 2005-03-27 20:14 | 原節子 | Comments(120)

つい先日「週刊新潮」に「原節子の映画界引退の真相」みたいな記事が出ていたので、つい買ってしまいました。

内容は、憶測ばかりの羅列で特に目新しいものはなく、あえていえば白内障にかかり、しかも足の調子も思わしくなくて立ち居にも不自由していたらしく、映画出演の激務に耐えられなくなったというあたりでしょうか。

あまりにも美しい人が、その美形をウリにしていたことで、容色の衰えをスクリーンに晒すということを俳優としての本人がどう考えるかが、女優を継続していくか引退するかの分かれ道になるのだろうななんて考えていた矢先、まあだいたいは番組をチェックしている「日本映画専門チャンネル」で、ここのところいやに原節子の映画を放映しているのに気が付きました。

いや、うっかり見過ごし続けていた自分の迂闊さに、遅ればせながら気が付いたといった方が正しいかもしれません。

とにかく、あわててhome pageを検索してみたのです。

ありました、ありました。

いつもながら彼女のコピーが物凄いです。

「輝くばかりの美貌と演技力を兼ね備え、今なおその存在感が衰えることのない永遠の処女」ですから。

いえいえ、決して揶揄しているわけではありません。

僕もまったくその通りだと思います。

自分で言うのも変ですが、僕がもっと色気のあった時分なら、「輝くばかりの美貌と演技力を兼ね備え、今なおその存在感が衰えることのない永遠の処女」などというコピーに出会ったら、ウッソだろー、女なんて結局はみんな同じだと嘯いてその仮面を引っぺがしたくなるような気持ちにかられ、つい茶化してしまっただろうなと思うのですが、最近はすっかりそういう気持ちがなくなりました。

今頃そんなふうに思えられるようになるなんて、なんて時間を無駄づかいしてしまったんだろうという後悔でいっぱいですが、確かにこの世には美形に加え気持ちもきれいな人がいるのですよね。

まあ、よく存じ上げないので、女優・原節子がそうだという意味ではありませんが。

さて、原節子特集の紹介はこんな感じで書かれていました。

「名作から知られざる作品まで、前代未聞の<全作品TV初登場>となる原節子の出演映画全24作品を一挙放送。1月から毎月8作品ずつ、3ヶ月にわたって年代順に放送」
するのだそうです。

最後には、必見の超豪華企画と書かれていました。

確かにそうですよね。

そこで、どんな作品が放映されるのか心覚えのために記しておきます。


【1月】

「田園交響楽」(38)アンドレ・ジィドの同名小説を翻案した文芸メロドラマ。敬虔なクリスチャンで小学校校長の日野東作(高田)は、身寄りのない盲目の少女・雪子(原)を引き取り世話をしている。東作は雪子を愛情を込めて育てるが、手術が成功して目が見えるようになった雪子は、東作の弟・進二(佐山)に惹かれていく。当時18才の原節子が気品ある演技を見せている。
監督・山本薩夫、原作・アンドレ・ジィド、出演・原節子、高田稔、佐山亮、清川玉枝(77分・モノクロ)

「美はしき出発」(39)原節子(19歳)・高峰秀子(14歳)の初共演作。ブルジョア一家の怠慢さを諷刺した人間ドラマ。北条家は、叔父(清川)の財力に頼りつつ、何一つ不自由のない生活をしていたが、次女の奈津子(高峰)だけは厳しい現実に目を向けていた。そんなある日、叔父の会社が突然倒産してしまう。
監督・山本薩夫、出演・原節子、高峰秀子、月田一郎、清川荘司(68分・モノクロ)

「上海陸戦隊」(39)1937年、日中戦争・上海激戦での海軍陸戦隊の活躍から、陸軍部隊の敵前上陸までの戦闘経過をドキュメンタリータッチで描く。日中戦争が始まり、日本の海軍陸戦隊は、上海で敵の猛攻撃を受ける。少数の兵力ながらも奮闘するが、上海の街まで激戦の場となり・・・。日本軍に守られて九死に一生を得る中国人避難民に扮した原節子が光彩を放っている。
監督・熊谷久虎、出演・大日方伝、原節子、清川荘司、小杉義男(96分・モノクロ)

「女の街」(40)出征した夫の留守を守る妻の姿を描いた人間ドラマ。夫・進治郎(大川)の留守を守るため、妻・いね子(原)は東京・本郷通り横町におでん屋を開業する。近所の助けもあり、商いは順調だったが、いつしか彼女の美貌を目当てにした客が出入りするようになり・・・。
監督・今井正、原作・川村花菱、出演・原節子、大川平八郎、林喜美子、沢村貞子(71分・モノクロ)

「二人の世界」原節子と島津保次郎監督とのコンビ3作目。ある軍需工場内を舞台にした群像劇。工作機械の会社・技術部長の戸塚(丸山)は会社の好況の裏側で、部下と重役との間に挟まれ苦悩していた。その中でも部下の家村(藤田)との関係は複雑。彼は戸塚の娘・さち子(原)と恋仲でもあった。原節子が颯爽とした洋装のいでたちでモダン・ガールぶりを発揮。
監督・島津保次郎、原作・山形雄策・塚本靖、出演・原節子、丸山定夫、藤田進、里見藍子(81分・モノクロ)

「姉妹の約束」(40)父の留守を守りながら、母と三姉妹でたくましく生きる姿を描いた人間ドラマ。岡村家は、軍医として父が応召され、母(英)と3人娘(花井・原・若原春江)で暮らしていた。ある日、隣りに大岩老人(小杉義男)とその孫・喬(中村彰)が越して来る。やがて互いの家族は親密になっていく。元気で勝ち気な次女・幸子役を原節子が熱演。
監督・山本薩夫、原作・山下與志一、出演・原節子、花井蘭子、英百合子、大川平八郎(72分・モノクロ)

「兄の花嫁」(41)兄夫婦と共に過ごす妹の目から、二人の新婚生活の一週間を描いた人間ドラマ。見合い結婚をした銀行員・原田浩(高田)と下町育ちの春枝(山田)。浩の妹・昌子(原)は、一度きりの見合いで結婚を決めた兄に不信感を抱く。一方、春枝の家族は、原田家の家風に違和感を感じ始める。スーツを着こなすキャリア・ウーマンを、当時20歳の原節子が好演。
監督・島津保次郎、出演・原節子、山田五十鈴、高田稔、清川玉枝(81分・モノクロ)

「結婚の生態」(41)幼な妻と理想の家庭を築こうとする男の姿を描いた恋愛ドラマ。新聞記者の佐野二郎(夏川)は、同僚から洋装店に勤める中村春子(原)を紹介される。やがて二人は惹かれ合い、結婚を約束する。そこから春子を完全な妻とするための教育が始まった。二郎の兄たちはこの理詰めの女房教育を陰ながら心配して・・・。石川達三のベストセラー小説を「また逢う日まで」の今井正監督が映画化。
監督・今井正、出演・原節子、夏川大二郎、石黒達也、高田稔(100分・モノクロ)


【2月の放送予定作品】
 指導物語(1941)、希望の青空(1942)、青春の気流(1942)、若い先生(1942)、緑の大地(1942)、母の地図(1942)、望楼の決死隊(1943)、決戦の大空へ(1943)


【3月の放送予定作品】
 熱風(1943)、緑の故郷(1946)、麗人(1946)、かけ出し時代(1947)、恋の風雲児(1953)、白魚(1953)、美しき母(1955)、女ごころ(1959)
by sentence2307 | 2005-01-15 23:36 | 原節子 | Comments(0)

新しき土・ドイツ語版

ドイツ山岳映画の第一人者アーノルド・ファンクが、日本においてデビューしたての原節子で撮ったこの映画が、ドイツ国内では「侍の娘」というタイトルで公開されて大当たりをとったことは、よく知られています。

資料には、1937年3月23日から5月18日の間にドイツ主要都市2600の大小映画館で上映されて観客総数600万人を超えたとされています。

これは、それまでのロング・ラン作品テラ・フィルムのポーラ・ネグリ主演「モスコー・シャンハイ」の記録を大幅に破る快挙でした。

この圧倒的な人気はドイツのみにとどまらず、欧州13カ国をはじめギリシャ、ポーランド、ハンガリー、フィンランドからの上映の申し込みが殺到したと記されています。

しかし、日本において、それほどの圧倒的な人気を得ることができたのかどうか、その辺の確認はできませんでしたが、僕の知る限り、それほどのものではなかったように思われます。

その理由のひとつは、日本の観光地をただツギハギしただけの独善的で誠意のない描き方にあったのかもしれません。

原節子が鹿に餌をあげている同じ庭園内から、安芸の宮島が望まれるというようなシーンには、ただただ驚かされてしまいますが、しかしこれが当時の欧米人が夢見た極東の島国の限界だったのでしょうか。

しかし、本当は、日本人が受ける「違和感」は、もう少し違う所にあるのかもしれませんね。

つまり、例えば、冒頭に映し出される傑出した荒々しい富士山の威容を描いている力強い映像はどうでしょうか。

それまで僕たちが見てきた日本人の撮った富士が、どこまでも霊峰としての神々しさを失うことなく、穏やかでごく身近な静謐さをたたえた富士山の映像しか見たことがなかっただけに、やはり、この映像体験は、僕にとってはやはり衝撃といえるものだったかもしれません。

もうひとつ別に作られたという伊丹版が、このあたりをどう処理しているのか未見なので分りませんが、少なくともファンク版における富士は、容易には人を寄せ付けそうにない険しい岩肌に、叩き付けるように逆巻く雪まじりの突風が行き交い、荒々しく吹き荒れる自然の猛威と不気味さを湛えた今まで見たこともないような自然そのものの只中にある猛々しい富士山の姿でした。

そこには、僕たちがいつの間にかこの単なる山に付加してしまっていた価値観とかモロモロの観念(霊峰とか)を打ち砕く「まぎれもない自然そのものの姿」がありました。

この日独同盟が産み落とした政治的な映画が、意外に当時の日本人に不評だったのは、日本人のイデオロギーそのものでもあった富士山をこんな形で剥き出しに描いたこのあたりにあったのかもしれませんね。

この場合のリアリズムが、日本人にとっては受け入れがたい場違いな「否定」を意味していたに違いありません。
by sentence2307 | 2004-11-27 13:42 | 原節子 | Comments(150)