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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:張芸謀( 3 )

至福のとき

僕は、いままで自分がフランク・キャプラの映画を好きなのだ、と勝手に思い込んでいました。

しかし、このチャン・イーモウ作品「至福のとき」を観て、それが、単なる勘違いにすぎなかったことに気が付きました。

別にキャプラ作品が殊更に好きか嫌いかと考えたわけじゃない、心地いいから、あえて拒絶するほどの理由がなかっただけだったのだ、と思えてきたのです。

しかし、なぜいま、そんなことを考えたかというと、この映画「至福のとき」のなかで、盲目の少女ウー・インを預かることになってしまった失業中の中年男チャオが、按摩が得意なこの不幸な少女のために、閉鎖された工場の一角に按摩室を造り、失業中の友人たちに客の振りをしてもらうという、ちょっと感動的な部分に、フランク・キャプラが撮った作品の中で、多分最も良質な作品「ポケット一杯の幸福」61を連想したからでした。

キャプラ自身もこの作品のテーマがかなり気に入っていたらしく、この遺作となった61年作品は、キャプラ自身が戦前に撮った「一日だけの淑女」33のリメイク作品で、しかも製作も兼ねていたいうことですから、それは容易に想像されると思います。

物語は、スペインの修道院に預けておいた娘が貴族の息子に見初められ、結婚を報告するためにニューヨークに住む母親に会いに来るという設定ですが、実は貧しくみすぼらしいリンゴ売りにすぎない彼女(ベティ・デイヴィスが演じています)が自分の嘘に落ち込んでいるのを見かねたニューヨークのギャングたちが、この哀れなリンゴ売りの老婆を即製の貴婦人に仕立て上げ、母子の対面を成功させようというハート・ウォーミングな善意に満ちた良質の映画でした。

この映画を見終わった後の爽やかな感動は、僕にとっては、まさに「事件」でしたから、以後これに似たシチュエイションの映画に出会うたびに、ついキャプラの「ポケット一杯の幸福」を連想し、そこで描かれていた「善意」に結びつけてしまうという、「連想の方程式」=性癖を身に付けてしまったみたいなのです。

しかし、また、そういう「サプライズ→善意」のタイプの作品が多かったということもあったように思います。

失業中の中年男チャオや仲間たちが、按摩の得意なこの盲目の不幸な少女ウー・インのために、閉鎖された工場の一角に按摩室を造り、仲間が入れ替わり立ち代り客の振りをして少女に働く場を作ってあげるという善意のシーンに、僕はすぐにあのキャプラ作品を連想したのですが、しかし、そのキャプラ的な発想が、いかに「まやかし」であったかを、この作品によって思い知らされました。

偽りの按摩治療室、偽りの客、そして偽りの金、そうしたものに囲まれ、貧しくても温かな人々の善意の中で保護されるということが、実はどういうことなのか、このチャン・イーモウ作品はシビアに教え諭してくれました。

自分に与えられた恵まれすぎた境遇を不審に思った盲目の少女ウー・インは、手で壁をまさぐり、箒で天井を確かめます。

しかし、壁は途中で不意に途切れ、すぐに剥き出しの野原に出てしまうし、「天井」なんか存在しませんでした。

キャプラのリンゴ売りの老婆なら、きっと、そうした善意さえも疑いなく受け入れ、「幸せになったのだから、どこが悪い」という「結果オーライ」的な強引さでハッピーエンドで押さえ込んだのでしょうが、考えてみれば、その押し付けがましい強引さとか開き直りによって、無理やり心温まさせられたことで、見えにくくされてしまったものが、実はあったのだということが分かったのでした。

それは、「彼女のため」とはいいながら、しかし彼女が人間として自立するためには、なにひとつ役に立たっていない単なる隔離=収容の論理にすぎません。

さらに、もっと悪意に解すれば、障害者に施しを与えて自尊心を充足させるための健常者たちの自己満足でしかありません。

視覚障害者ウー・インは、ひとりの人間として、いつまでも他人の好意にすがり、まるでペットのように飼われ続けていくことを拒否して工場を出て行きます。

むろん工場から一歩外に出れば、そこは視覚障害者にとって、とても厳しい世界です。

チャン・イーモウは、その「厳しさ」を街行く人々の好奇に満ちた無遠慮な眼差しを視覚障害者ウー・インに浴びせかけることで熾烈に表現しています。

しかし、たとえそこが彼女にとっていかに厳しくとも、自立するためには踏み出していかねばならない世界です。

視覚障害者ウー・インが、人々の冷ややかな好奇の視線を浴び、不安気ながらも昂然と顔を上げて街路を歩く姿に、チャン・イーモウの明確なメッセージを感じることができました。
by sentence2307 | 2006-06-04 10:07 | 張芸謀 | Comments(0)

あの子を探して

友人が言いました。

「あのミンジという子、ホエクーを探しに行ったのは、連れ戻さないと報酬がもらえないから、ただそれだけの理由から、都会に行った訳じゃないだろう?」

言下に、彼が「二十四の瞳」の一場面、大石先生が、貧困のために学校を辞めて奉公に出た教え子を心配して尋ねていく、あの情感豊かな泣かせ所の場面を思い描いたうえでのコメントに違いないと直感しました。

そうあって欲しい、金欲しさの利害のためだけに動いた訳じゃないんだろう、と思いたい気持ちは痛いほど分かりました。

また、そうでも考えなければ、この映画、印象として、本当にやりきれないほど損得にこだわった寒々しい感じが残ってしまう独善的で身勝手で、おまけに理不尽な部分が随所にあります。

この作品の率直な感想の多くに「中国人は金の亡者なのか。なんであんなに金にこだわるんだ。それにあの女の子、あんなにも強情で、頑なで、そのうえ、あそこまで思慮分別に欠ける必要があるのか?」 という言葉をよく聞き、ここで語られる事件のことごとくが金銭がらみの話なので、その感想に僕も半分は同意したい気持ちがしました。

しかし、都会に行くミンジーの動機の伏線は、ホクエーが出稼ぎに出て行く前夜に、チョークを踏み潰したことを学級委員の女の子に謝罪させようとした際、彼が「弁償すればいいんだろ」と言い残した言葉に描かれていますから、それを受けた上で、ミンジの気持ちの中にホエクー出奔の自責の念が深く残ったに違いなく、責任を感じた彼女は、何が何でも都会に出て、ホクエーを連れ戻したいと考えたと思っていいと思います。

そして、この事件に対するミンジーの感情表現の乏しさも、この作品の魅力を知る上で重要な要素になると思いました。

確かに、彼女の無表情と強情さと頑なさは、見ている側がイラつくほど素っ気無いものですよね。

日本や欧米の映画で、豊かな感情表現を自在に駆使できる訓練された俳優の、洗練された演技を見慣れている僕たちの眼からすると、いかにも無愛想で可愛げ気がなく、映画の中で彼女に接した都会の人たちの冷たく余所余所しい態度も、あるいは無理からぬことかもしれないと思わせるほどです。

だから、友人は、あの少女の行動の理由付けに、せめても「二十四の瞳」の大石先生が見せた涙なくしては見ることが出来ないくらいの溢れ出る情感を考え合わせたかったのかなと思いました。

感情移入できない無愛想なミンジーに対する彼の苛立ちは、よく分かりました。

しかし、彼女の朴訥さは、好意を持たれようと愛らしい表情を作ったり、計算づくの媚びの仕草ができる訳ではありませんし、また、涙を誘う可哀想な女の子の振りを演じることもできません。

表情を作るテクニックを知らないミンジは、「愛想のいい」欧米作品に慣れ親しんだ僕たちの思い入れを拒むように、常にふて腐れた顔のままで、ただ、なりふり構わず一生懸命に生活と格闘しているのです。

生活費の必要から、五十元のために経験も無い代用教員を引き受け、教え子がいなくなれば連れ戻すためのバス代を工面し、その子が行方不明と知れば稚拙ではあっても考え付く限りの方法で探し出そうと必死です。

それらのすべては、冒頭で走り去る自動車に乗った村長を追いかけて、報酬の五十元を確認せずいられない率直さと同じ種類の自分を飾ることなどいささかも念頭にない子供らしい行為です。

僕たちなら、出稼ぎに出たホクエーを無理矢理連れ戻しても、彼の家庭の生活の困窮は依然として存在し、一少女の力ではどうすることもできない絶望的な現実認識から、彼女の行動は思慮分別に欠ける無意味な行為と当然に考え躊躇するだろうと思うしかないのですが、しかし、彼女は「良識ある教師」として都会に出かけたわけではありません。

むしろ、幾つも違わない同じような子供が、ただその幼い責任感から、闇雲に、「考えなしに」、行方不明の子を捜すため、自分自身もどうなるか分からない危険を抱えて都会をさまよったのです。

行き場のないホクエーが、飢えから浮浪児のように物乞いをしているのと同じように、彼女自身も、ほとんどストリート・チルドレン化しました。

冷静に考えれば、まだ、たった13歳の少女が、生活に追い捲られ、たかが50元という金のために(10元が約160円くらいなのでしょうか)、自分の目の前にある事柄の利害をいちいち秤に掛けながら選択していく精一杯の行為の中で、そのギスギスした損得計算から少し外れて迷子捜しに奔走するという子供心に芽生えた微かな罪悪感や自責や不安や愛情に、飾らない人間性に触れて僕たちは撃たれたのだろうと思います。

極貧のなかで、なりふり構わず懸命に生きているこの子供たちの姿を見て、多くの人たちから聞いたような感想に与することはどうしてもできませんし、無神経に「金の亡者」とせせら笑うことも、僕にはできませんでした。

これは、極貧のなかで生きる子供たちの、とても悲惨な物語です。

その視点からこの物語を見るとき、表情を作ることを業とする者には決して演じることができない現実の生活感を備えたそのままの子供たちを起用したことの意味が何となく分かるような気がしてきました。
by sentence2307 | 2006-06-04 10:06 | 張芸謀 | Comments(0)

初恋のきた道

この作品の評価の高さは、既に実証済みです。

近頃あまり聞かなくなった清貧のなかでの爽やかな純愛もの(正確に言えば、「なれそめ」の段階で、まだ恋愛にまで至っていないから、ういういしく爽やかな印象を受けるのかもしれません)で、きっと、僕たちの中に、こういう飾り気のない素直な作品を求めている部分もあったのかもしれません。

ストーリーをやたら捏ねくり回す現代にあって、こんなにもシンプルな映画を撮れるなんて、まずは驚きでした。

でも実は、見たとき少し違和感もあって、僕としては、この作品に深い感動を表明した人達のような思い入れを持つまでには至りませんでした。

というのも、主演のチャン・ツィイーが、あまりにも今風な可愛らしさで、メイクの垢抜けた感じとか、あるいは、着ているものもこざっぱりしていることなど、なんかリアルさに欠けていることが気になってしまい、思うように物語の中に浸りきることができなかったのでした。しいて言えば、この作品で「ひっかかるところ」といえば、この一点です。

この彼女、文革の時代の、しかも教育の行き届かないような僻地の娘には、どうしたって見えません。

あの少女が、あまりにも貧しく、そして教育も満足に受けられなかったからこそ、青年教師に恋していることを知った祖母が「身分が違いすぎるから、諦めろ」と忠告する場面も生きてくるのだと思いますし、また、授業中の校舎をしばしばのぞき見にいく場面なども、映画では、教師に対する恋慕の情が前面に出されていますが、むしろ、満足な教育を受けることができなかった彼女の学校というものへの好奇心、勉強に対する抑えがたい向学心をまず描いた方が、恋心に変化していくストーリーの自然な流れを無理なく伝えられるのではないかなどと思ったりしました。

インテリの若い教師に釣りあうだけの能力など、なにひとつ持ち合わせてない文盲の無力な少女が、若い教師に喜んでもらうために自分にとってそれが総ての、それしかない日常的な生活の「技術」である料理を、心を込めて必死に作るという行為のなかに、自分のことを振り向かせようとする彼女の「けなげさ」がより一層表現できるのであって、その方が僕たちに感動を与えるのではないかと思いさえしました。

「こういう映画であって欲しい」というこの作品に対する僕の思いは、きっと、チャン・イーモウが、カメラマンとして参加したあの熾烈なリアリズムをもった名作「黄色い大地」と知らぬ間に比較していたからだろうと思います。

そこで、この作品への無意識の失望と拭いがたい欠落感を覚えたのかもしれません。

そんな時、ある人の書いたこの作品の感想文に出会いました。
「このういういしい初恋の少女の可憐さ美しさに較べると、伴侶を失った老いた母親が同一人物とはどうしても思えない、あまりにも汚すぎる、つながらない。」というのです。

まず苦笑してしまいましたが、しかし、その飾り気のない素直な感想には、はっきり胸打たれました。

きっと、彼は、感動的な若々しい初恋の描かれているこの映画に、汚らしい「老い」が同居することそれ自体が許せなかったのだと思います。

この言葉は、逆の意味で、この映画の本質をついていると直感しました。

追憶の中にある総てのものは、ただ美しいだけで十分だったんですね。

そして、その美しさは、若さを失い美しさを失った者にしか見ることができない種類のものだということが分かりました。

愛する人が、町から村に通ずる道をたどって自分に逢い帰ってきた同じ道を再び辿たどる葬列に、ふたりの仲を引き裂いた文革のかすかな気配が遠慮がちに仄めかされながらも、しかし、すべてを美しくとらえることに徹しようとしたこの映画、もしかしたら、これだってひとつのリアリズムの姿勢なのかもしれないなという気がしてきました。
by sentence2307 | 2006-06-04 10:04 | 張芸謀 | Comments(0)