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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:西村昭五郎( 2 )

最近、西村昭五郎監督作品「競輪上人行状記」1963が、日本映画専門チャンネルで放映されたことから、6年くらい前にアップしたこの作品の感想(実際に書かれたのは、もう少し前のことかもしれません)に多くの方のアクセスをいただき身に余る光栄と感謝しながらも、なんだか少し戸惑っている部分もあります。

改めて読み返してみて、苦笑を通り越して恥ずかしさに思わず赤面してしまいました。

ここに書かれていることは単なる愚痴というもので、まさに半分は映画の感想とはなにも関係のないものなのではないかと思えてきました。

ブログというものが個人的な日記的性格でOKということなので、その辺は許容してもらえるのかもしれませんが、しかし不特定多数の方に読まれることを前提に書かれるものなら、それなりの配慮というか覚悟というものがなければいけないのではないかとすれば、この感想文にはそうした「身構え」が無残なほどに伺うことができないような気がします。

そう思うと、なんだか物凄い自己嫌悪にとらわれ、ここしばらくは気の抜けたような気分に落ち込んでしまいました。

というのは、いまの自分なら、到底このような書き方はしないだろうなと思うからです。

我ながらこの感想文のなにが気に食わないかといえば、作品を評価する際、まずは否定から入り、そしてさらに否定に次ぐ否定を書き連ねておいてから、おもむろに「肯定」に転じようとする、考えてみれば随分姑息でもったいぶったヒネクレタやり方です。

当時の自分が、書く行為だけではなく、人間関係においても斜に構えた嫌みたらしい、そういう生き方をしていたことを見せつけられたような感じで、そうしたことに対する自己嫌悪だったのだと思います。

しかし、いまの自分なら、こういう行き方・書き方には、絶対にしません。

優れた作品には、まずは素直に「諾」と表明してから、傑出した部分を数え上げていくことに専念しています。

この「競輪上人行状記」についてなら、そうですねえ、まずは以下の3点あげておくと思います。

①現代仏教への告発(宗教の本意を失った金拝葬式主義を批判する「道徳観」)、

②元教師・春道が少し知恵遅れの教え子・をどこまでも守り通そうとする「正義感」、

③最後に車券で大穴をとることによって憑きものが落ちたように描かれる春道なりの「悟り」、

これら3点を指摘しておいて、さらに、これらの部分を支えるものとして、春道の「真面目さ」を挙げると思います。

つまりその彼の「真面目さ」こそ、この映画の物語性のすべてを支えている核心になるもので、子供たちに対して何も為し得ない現在の教育の無力さへの憤り・現代仏教の金拝主義への疑念にいたる春道の数々の失望と義憤が、そのまま破滅の瀬戸際まで自分を追い詰めていく競輪へ入れ込む春道の異常さの精密な描写を支えていることが分かります。

また、この役を小沢昭一が演じているところから、今村昌平監督の「エロ事師たちより 人類学入門」のスブやんがエロを追及するあまり、その過剰さがエロをはるかに突き抜けてしまうあの歯止めの利かない「真面目さ」とどこか共通したものがあるように思えてなりません。

さて、ここまで書いてきて、改めて読み返してみると、現在の自分のこの「肯定」から入る書き方にすると、随分と「掴み」の衝撃度が薄まり、インパクトに欠き、読み手にとっては読む推進力になる興味もその持続力をも損ないかねないものになってしまうのではないか。

ただでさえ退屈な自分の文章を考えれば、やっぱり「掴み」の花火を一発ぶち上げるような書き方に頼らなければ、到底全文を通して読んでくれなくなってしまうのではないか、という若干の危惧が残りました。

どうしようかなあ~という感じです。

さて、本作「競輪上人行状記」のラストシーンで小沢昭一演じる場立ちの予想屋・競輪上人の圧巻の場面、その素晴らしい口上を筆写しました。

稀代の名優・小沢昭一氏のご冥福をお祈りしながら。合掌

≪バカ者どもが。
いったいどういう積りで大事な金をドブに捨てるんだ。
いまお前らの失くした金があれば、かあちゃんに新しいパンティ買ってやれるんだぞ。
子供にバットもミットもグローブも買ってやれるんだ。
ろくに調べもしないで大事な金を、つまらんサイコロの目に賭けて失くすバカがあるか!
一日汗水たらして働いて、やっとこ500円取れるか取れないお前達が、どきどき震えながら1000(円)だ2000(円)だと車券を買って、それで儲かると思ってんのか!
はい、ありがとう。
お前達何も悪い事してるんじゃないんだぞ!
いいか、高い税金取られたうえにまだ足りなくて、100円券1枚について25円も役場に寄付している、道路作らせたり学校建てさせたりしている功労者じゃないか。
もっと大きな面をしろ!
胸を張って威張るんだ!
そうすりゃ心も落ち着いて目も見えてくるから損をしない。
お前たち素人には、なにものにも捉われず心を空しゅうして予想を立てるということは難しいよな。
だから、お前たちの代わりに俺の立てた予想どおりに買ってこい。
1000や2000は必ず儲けさせてやる。
はい、ありがとう。
いいか、余計なものを買うなよ。俺のいうとおり一本で買え。
本当に救われようと思ったら、あれこれ構わず迷わず念仏一筋に生きろ。
俺たちの宗祖さま法然さんも選択本願集のなかでいっておられる。
あらゆる雑行を捨てて、念仏という正行一本に生きるんだ。
どうせおれたちは、煩悩というものが体の中にこびりついている。
断ち切ろうと思っても断ち切れるものじゃない。
だから、きたない体のまま、よごれた体のまま阿弥陀さまにおすがりしろ。
おれも、このおれも坊主の身でありながら、お前たちと同じようにギャンブルの世界に飛び込んできた。
そのおれがお前たちに教えるものはこれだ。
いいか。車券は外れることを怖がっちゃいけない!
取れる時は一本で取れ!
わかったか、あれこれ迷うな!
…救われることを望んじゃいけない!
救いというのは一度きりしかないんだ!≫

実は、画面を見ながら、セリフを追いかけてタイプしたのですが、最後から2行目がどうしても聞き取れません。
「…救われることを望んじゃいけない!」と聞こえたので、そう打ちましたが、どうもこれでは少し違うかもしれないと思えてきました。
法然の考え方からすると、ここは「…救われることを諦めちゃいけない!」あるいは「恐れちゃいけない」みたいな方がふさわしいのかも。
どなかたお分かりの方がいらしたら、なにとぞご教示ください。

(1963日活)監督・西村昭五郎、原作・寺内大吉、脚本・大西信行、今村昌平、企画・大塚和、撮影・永塚一栄、美術・大鶴泰弘、音楽・黛敏郎、編集・丹治睦夫、録音・八木多木之助、スクリプター・石川久宣、照明・三尾三郎
出演・小沢昭一(伴春道)、南田洋子(伴みの子)、河合健二(伴玄道)、加藤嘉(伴玄海)、伊藤アイコ(小酒井サチ子)、高橋昌也(佐山了雲)、松本典子(佐山徳子)、高原駿雄(芳順)、初井言栄(シマ)、加藤武(色川)、渡辺美佐子(辰代)、竹川清明(伴道夫)、土方弘(源二)、高山千草(セキ)、佐々木景子(館野トミ)、武智豊子(ブラック婆)、江角英明(オサム)、嵯峨善兵(山県)、漆沢政子(石井カツ)、山口哲(石井金次)、小山田宗徳(鏡味)、福田トヨ(ヤス)、三崎千恵子(作子)、水木京二(川村)、玉村駿太郎(山上)
1963.10.13 9巻 2,699m 99分 35mm 白黒 シネマスコープ
by sentence2307 | 2012-12-16 13:28 | 西村昭五郎 | Comments(5)

競輪上人行状記

1日中さんざん仕事に追いまくられて、やっと解放された後でも、同じ顔ぶれのまま、飲み屋でまた仕事の話に付き合わねばならないようなうんざりした時に、たまたま隣に座ったヤツが映画の話なんか始めると、つい乗ってしまってマジになる自分を、最近は用心深く自制するようにしています。

疲れ切っていて気持ち的にもすごく弱くなっているそういう時の自分が、多分空虚な部分を埋めようとするみたいに、映画のことを懸命に喋れば喋る程、だいたいは虚しいリアクションの中でいつの間にか孤立して、結局失望で終る後味の悪さを幾度も味わってきたからだと思います。

映画に「マジ・カッコよかった」とか「超かわいかった」程度のもので満足できたなら、それは本当に幸福なことだろうなと思います。

「今度は、アレだよね」みたいに次々と面白おかしく映画を追いかけ、ただ本数を消化することだけを自慢し合うような映画愛好家と、それに応えるような作品群に取り囲まれている現実のこの世界に、そういう映画しか存在しなかったら、多分僕はこんなにも映画を見ることにコダワリを持つことも苦しむこともなく、知らず知らず映画離れを果たして、結構快活に日常生活に適用できるかもしれないと思うこともあります。

しかし現実は、そんな幸福を許す程甘くはないし、依然としてシビアな日常の中で精一杯のたうちもがき廻り、そして多くの映画に心の底から失望しながら、ほんの僅かの作品に心を揺すぶられ感銘して、生きる意味と勇気を得ることで、かろうじてこの世界の末端の部分と繋がっていられるような、実に情けない凡夫です。

この西村昭五郎監督の「競輪上人行状記」は、僕にとってのそういう作品です。

この作品は、今村組の助監督だった西村監督がデビューするにあたって送られた今村昌平と大西信行の共同脚本になる伝説的な傑作です。

以前、映研の友人に、こう訊いたことがありました。

この「競輪上人行状記」って、モロ今村昌平的だろう。

全然違う、と彼は強く否定してから、西村昭五郎が関わったロマン・ポルノの諸作品中「団地妻シリーズ」におけるひときわ衝撃的だった数々の傑出したセックス描写について滔滔と捲くし立てたものでした。

きっと「昼下がりの情事」あたりが念頭にあったのかもしれませんが。

しかし、僕が思うに、性交場面を写実的に描けば描いていく程、その衝撃度は麻痺的に薄まり続け、映像自体の自殺行為となることは、はからずも、あのロマン・ポルノ路線の凋落自体が自己証明してしまっているのではないかな、と考えていました。

観客のエスカレートし続ける要求に応えようとするハードな性描写も、いつか息切れしてしまうか、もしくはエロス自体に麻痺し、あっさり飽きられて、結局見放されるという状況をいくらも見てきました。

それが現実だと思います。

それは、ひとりの人間の中に、激しく狂おしい情欲の「処理」を死を賭けてまでなし遂げたいと熱望する気持ちのすぐ傍らに、禁欲してでも平穏無事な人生を送りたいと願う気持ちもまた、ほとんど同じレベルで同居しているからだと思います。

そういう視点が、あのロマン・ポルノの路線には欠落していたのだと思います。

人間は、ことごとくスケベだ、という定理は正しいかもしれませんが、市民社会の一員として誰もがその「スケベ」であることに誠実に、そしてまた全身全霊を賭けてまで追及するとは考えられません。

話が飛ぶかもしれませんが、フェリーニの「甘い生活」のラスト・シーン、酒池肉林の狂態の限りを尽くした果ての夜明けの海岸で、マルチェロが清純な少女に出会うという有名なシーンがあります。

マルチェロは、この世に生きる人間たちの、汚らわしい欲望や偽善や薄っぺらの虚栄のすべてに絶望し、自分や身近にいる他人を徹底的に傷つけるため、そして汚れなき者を自分と同じような絶望を味あわせずにおかない自棄に囚われ、夜を徹して、誰彼構わずセックスし、ほとんど「逆上と狂乱」の一夜の後で、その朝を迎えています。

そして、言葉の通じないあの清浄な少女と出会うのです。

あの場面を、マルチェロにとって、すっかり失ってしまった今は遠い「清浄」なものと、既に通じ合えなくなっしてまっているという距離感の象徴的な場面として捉えている論評を読んだことがありますが、むしろ、僕は逆に、人間がどんなに堕ちようとしても堕ちきれない地獄のような「清浄」に囚われ続けるのだと言っているような気がしてなりません。

「競輪上人行状記」を撮った西村昭五郎が、数々のロマン・ポルノ作品においていくら扇情的に性的場面に工夫を凝らそうと、結局「競輪上人行状記」を超えられる作品を残こせなかった理由がこの辺りにあるのかもしれないな、という気がしてきました。

以前、小沢昭一が監修したという日本の放浪芸のなかの「節談説法」というレコードを聴いたことがありました。

地方の寺の住職が近隣の村民を集め、ありがたいお説教を説いて聞かせるというものですが、その説教には独特の節回しがあって、住職が重々しく地獄のこと・極楽のことを真に迫って語り聞かせると、そこに参集している(死期の迫った?)多くの老人たち聴衆が、説教の節目ごとに「なんまんだぶ・なんまんだぶ」と地の底から呻くような「合いの手」を唱和で返すという、土俗的な独特の雰囲気を持ったレコードでした。

浪曲とか義太夫とか啖呵売の語り口調などに枝分かれしていく原型みたいな「口伝芸能」の一種だそうですが、この「競輪上人行状記」のラストで、衆生に煩悩の愚かさ・浅ましさを説き聞かせるあの節談説教と同じ調子で唸る競輪の予想屋・小沢昭一の口上の演技に、その口調がそのまま反映していました。

競輪にのめり込み、寺も住職という地位も失い、肉親からも見放されて破戒僧となり、破滅のぎりぎりの所まで追い込まれながら、それでも競輪狂いはやまず、予想屋にまで落ちぶれながらも各地の競輪場を渡り歩き、場立ちとなって人の道を説いては1枚百円の予想を売るというケサを着た競輪上人を、迫真の演技で演じた小沢昭一の姿は、「説法」というものの本来の意味さえも考えさせる熱い思い入れのこもった壮絶なシーンでした。

この「競輪上人行状記」という作品全体を覆っている活力のふてぶてしさを庶民の爽快なバイタリティの現れとして肯定的に見るか、あるいは、人間の欲望を際限なくどこまでも肯定してしまうことで、破滅に至るまで命ある限り懸命に疾駆し続けるしかない人間を絶望的な哀しい生命体と見るかは、きっと観客各人のいままでの今村昌平体験を通して判断するしかないのでしょうが、ぼくには、この作品、今村昌平第1回監督作品の「盗まれた欲情」に極めて近いタッチを見てしまいます。

そして、この破滅的な魅力に満ちた傑作「競輪上人行状記」が公開された63年に45歳の若さで急死した川島雄三の、どうせ堕ちるなら堕ちる所まで堕ちて徹底的に駄目になってやるぞ、みたいな猥雑で殺伐とした逆説的浄土観をこよなく愛した川島の匂いさえも感じられる快作だと思っています。

この作品を初めて見たとき、まず圧倒されるのは、兄嫁みつ子(南田洋子)の人物設定でしょうか。

圧倒される理由付けに、思わず「デモーニッシュな」という形容詞をつけかけましたが、躊躇して思いとどまりました。

こんなところで、この形容詞を無駄遣いしてしまったら、この先、この作品について書き進めていくうえで至る所に付けていかなければならなくなってしまう、という不安があったからです。

それに「デモーニッシュな」という言葉、そもそも、この作品自体を形容するために大切に取って置かねばならない種類の言葉かもしれません。

寺の跡継ぎの兄が急死したために、中学校教師の弟・春道(小沢昭一)が跡継ぎとして兄嫁・みつ子(南田洋子)に呼ばれるところからこの物語は始まります。

その寂れた寺は犬の葬式などを引き受けて日銭稼ぎで辛うじて食い繋いでいる状態で、世間からは「犬寺」と呼ばれています。

春道は、実は以前からひそかに義姉に思いを寄せていたことから、ついに肉体関係を持ちました。

やがて住職の父・加藤嘉が死に、小沢昭一が寺を継ぐというとき、兄嫁・みつ子から衝撃的な告白を聞きます。

犬の葬式が途切れないように、みつ子が影で犬を殺していること、そして義父とも肉体関係があったことなどを聞かされ、愕然となった春道は、キレて競輪に狂い始め、またたく間に寺の財産を使い果たしてしまいます。

その破れかぶれの放蕩ぶりは、みつ子が影で犯し続けたという犬殺しや誰とでも寝る彼女の淫蕩さに対する春道の深い動揺に基づいているのですが、むしろ彼の衝撃は、その空恐ろしい悪行の数々を開き直って平然と話すみつ子のふてぶてしさにあります。

男が欲しくなれば誰とでも寝るし、必要なら犬も叩き殺してやる、あんたと寝たことだって同じ理由さ、という彼女の損得づくの真意(犬殺しと自分と寝たことが同じ動機から為されたこと)に圧倒されたからです。

しかしこれを、人間が持つ欲望の素直な表出と見れば、醜くはあっても「デモーニッシュな」と形容すべきかどうかスコブル疑問でしょう。

デモーニッシュなのは、むしろ、狂ったように競輪に賭けては負け続け、日夜借金取りに追われながら、次のレースこそは絶対勝てるという勝利への不思議な確信と殺気立った精神の強烈な高揚感に突き動かされ、更に賭けては負け続けるという生き地獄のような凄惨な破滅描写にあります。

この作品が、同時期の他の作品と較べ特に傑出しているという印象を強くするのは、おそらく、背日性とでも表現するしかない破滅に向かって堕ちてゆく人間の心地よい疾走感というべきものが、それにふさわしい殺伐とした風景の一部として描かれていたからだろうと思います。

(63日活)監督・西村昭五郎、原作・寺内大吉、脚色・大西信行、今村昌平、企画・大塚和、撮影・永塚一栄、音楽・黛敏郎、美術・大鶴泰弘、編集・丹治睦夫、録音・八木多木之助、スクリプター・石川久宣、照明・三尾三郎、
出演・小沢昭一、加藤嘉、河合健二、南田洋子、竹川清明、高橋昌也、松本典子、高原駿雄、初井言栄、伊藤アイ子、土方弘、高山千草、佐々木景子、加藤武、武智豊子、江角英明、嵯峨善兵、漆沢政子、山口哲、小山田宗徳、渡辺美佐子、福田トヨ、三崎千恵子、水木京二、玉村駿太郎
1963.10.13 9巻 2,699m 白黒 シネマスコープ
by sentence2307 | 2006-06-04 10:08 | 西村昭五郎 | Comments(1109)