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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:ジャック・フェデー( 2 )

ミモザ館

この映画の主題は、女の中に潜む母性愛というものが、必ずしも清浄なものでも崇高なものでもなく、むしろ注ぐべき肉親の対象への肉欲の発散を、近親ゆえに抑止せねばならない歪められた思いが、どろどろとした愛情表現となって息子に纏わりつき、却ってそれが彼の自殺を促すこととなり、母子諸共に不幸に見舞われてしまうという母親の物語なのでしょうが、しかし、僕には、このどうしょうもないやくざな養子の数々の醜行が、母親の盲目的な溺愛に呼応する媚態のように思えて仕方がありませんでした。

気が弱く、博打と放蕩を重ね、やくざの内紛に巻き込まれては、母親の元へボスの女と逃げ帰ってきて、果ては女のために店の金を着服し、辻褄を合わせることができなくなれば、ついには自殺するというこの愚かな養子の一連の行為を、それでも母親はねちねちと溺愛し続けます。

ケチな悪事が露見すれば、その度に芝居じみた空涙で懺悔を繰り返し、母の憐憫の情を誘います、人を喰ったようなその行動の奥には、小悪党特有の幼稚な隙があって、しかし、その見え透いたしおらしささえも、たまらない愛嬌と写る母親は、どこまでも許し続けます。

逆に言えば、この尽きることがない数々の彼の幼稚な悪事は、母親の温かい胸の中で許され続ける限り、更に際限なく死へ向かってエスカレートしてゆくしかありません。

寛容な母親の「許し」に応えるためにも、彼はなおも愚行を重ね続けるのです。

しかし、この映画の本当の主題は、母親に対する非行や従順も媚態という同じ根を持ついかがわしい馴れ合いの一種にすぎないのかという啓蒙的教訓だとか、あるいは、息子に対し母親と女との間を揺れ動き危うく逸脱しそうになる母と子の淫靡なつるみ合いの物語、だけでもなさそうです。

むしろ、人が、善意と愛情とによって発せられたその行為と思いの悉くが、悪結果によってしか報いられることのないアイロニカルな一種の寓話なのではないでしょうか。
そんな気がしました。

いわゆるジャック・フェデーの三部作、「外人部隊」33、「ミモザ館」34、そして「女だけの都」35のなかで、フランス映画史上の頂点を示したといわれている「ミモザ館」です。

脚本のシャルル・スパーク、そしてフェデー夫人のフランソワーズ・ロゼーの最高の演技といわれている作品です。

さて、そこで、トリュフォーが、この名作に対しどういう態度をとったかを知りたくて、いろいろ検索を試みたのですが、適切な結論を見つけ出すことはできませんでした。

クロード・オータン=ララやルネ・クレマンに対したように全否定したのか、ジャン・ルノワールやヒッチコックのように持ち上げたのか、興味がありました。

予想では、全否定かなと思っていました。確認できれば、それを受けて、この雑文の結語を「トリュフォーは判ってくれない」と落としたかったのですが。

しかし、それにしても、あの珠玉の名品に「大人は判ってくれない」とは、なんて物欲しそうな下卑たタイトルを付けたものか、命名した人のセンスを疑いたくなります。

大人たちの拘束を嫌って自由を求めた少年の、いかがわしい現状からの脱出は、もう少し差し迫った、深刻でさえある大人たちへの怒りが存在しているはずです。

「判ってくれなくて結構。お前らの価値観で測られるのは、もう真っ平だ。」といった感じの見放したニュアンスが欲しいところですよね。

原題を直訳すると「400回の殴打」となりますが、常套句で「常軌を逸した悪戯」くらいの軽い意味なのだそうです。

しかし、「400回の殴打」と「常軌を逸した悪戯」をモンタージュ的に繋げてしまえば、偶然ですが、また、もうひとつの世界が見えてきそうですよね。

(34トビス)監督:ジャック・フェデー、製作:シャルル=フランシス・タヴィノ、脚本・台詞:ジャック・フェデー、シャルル・スパーク、撮影:ロジェ・ユベール、音楽:アルマン・ベルナール(俳優のアルマン・ベルナールとは別人)、助監督:マルセル・カルネ、アリ・サドゥール、美術:ラザール・メールソン
出演・フランソワーズ・ロゼー、ポール・ベルナール、リーズ・ドラマール、アンドレ・アレルム、ベルナール・オプタル、ジャン・マクス、ポール・アザイス、レーモン・コルディ、アルレッティ、イラ・メーリ、ピエール・ラプリ、エレーナ・マンソン、モーリス・ラグルネ、ネストル・アリアーニ
1936.1.29帝劇 110分
by sentence2307 | 2006-06-23 00:04 | ジャック・フェデー | Comments(44)
「ミモザ館」について何か感想めいたものを書いてみようかと思い立ち、どこから書き始めたらいいか、最初の取っ掛かりを考えていました。

もちろん、この作品について書くとしたら、当然その「取っ掛かり」は母親と養子の、母子関係の境界線上で危うく揺れる微妙な男と女の屈折した関係から、まずは書き始めないわけにはいきません。

しかし、その危うい関係を言い表すのにもっとも相応しい言葉をあれこれと探してみても、僕には結局「近親相姦」という味も素っ気もない無味乾燥な言葉を思い浮かべることしかできないのです。

こんな低俗な言葉と、現代の陰性のコマーシャリズムによって散々薄汚れてしまったイメージをたよりにして、この崇高な作品の核心にどこまで迫ることができるというのか、冷静に考えなくとも到底為し得ることとは思えません。

この「ミモザ館」をリアルタイムで見たその当時の人々が、この作品をどのように感じたのか、とても知りたいと思います。

子を思う母の気持ちに、僕たちが「近親相姦」という破綻的な観念としての性愛を見てしまう以前に、もっと別な、既に僕たちが窺い知れないような自然な形で、母親の息子に向けるもっと深い情愛の表現の在り様が存在していたのではないか、当時の人々なら十分に理解できた「それら」も、現代を生きる僕たちには、もはやその「表現」を読み解く磁力さえ失っていて、せいぜい「近親相姦」という芸のない言葉を無様に当て嵌める程度のことしかできなくなっているのかもしれません。

特に最近、そう思うことが多くなりました。

他の世代の人間なら、当然クリアに判断できることも、僕たちにはとても困難で難しいと思う、という思いです。

思い返せば、僕たちのあの時代、「近親相姦」はとても近しい言葉でした、例えば「観念」として。

「アポロンの地獄」を見、「地獄に堕ちた勇者ども」を経て、「薔薇の葬列」も抵抗なく受け入れることが出来ました、たぶん「観念」として。

そこには同性愛があり、近親相姦があり、考え得る限りの倒錯した世界観が描かれていたのですが、そのすべてが交錯して展開するその地獄絵が、十分に衝撃であったにしろ、それらがどこまでも「観念」であることを知っていた僕たちにとっては、「衝撃的」であることもまた観念的に受け入れて消化することが可能だったのだと思います。

つまり、あらゆる地獄絵も、「観念」と知っていたからこそ、すべて無条件で受け入れることができたといえるかもしれません。

僕たちにとって「近親相姦」とは、そういった言葉だったのだと思います。

その言葉は、あの「薔薇の葬列」には有効だとしても、はたして、この「ミモザ館」に通用するかどうかは、すこぶる疑問だと感じた所以です。

僕のいいたいことは、僕たちの持っている「ある種の言葉」が、「あの時代」以外の場所では不能を来たしてしまっているということなのです。

すこし前に、「69 sixty nine」という作品がありました。

データを取っておこうとまでも思いつかないほどの作品でしたが、実は、見ているうちに堪えられなくなって、途中で見るのを諦めた作品でした。

僕は、「どんなにつまらなくとも、映画は最後まで見通す」ということだけは、自分に課している積りでした。

最後まで見て、それでも「はかばかしくない」映画だったら、それで納得して徐々に忘れてしまうことができると思っていました。

つまり最悪なのは、面白くもない映画を、何かの事情で最後まで見通すことが出来ず、あとあとまで記憶の片隅にその映画の「タイトル」を癌のように棲みつかせてしまい、ことある毎に思い出さなければならない状態になってしまうことです。

まるで不良債権のようなそういう最悪な状態を避けるためにも、見はじめたのなら、徹頭徹尾映画は必ず最初から最後まで見通すように努力してきました。

しかし、自分に課していたはずのこの「最後まで見通す」という掟を破ってしまった作品が、この村上龍作品の映画化「69 sixty nine」だったのです。

確かあの映画のキャッチ・コピーは、「青春は、ロックとエロスとハッタリだ」だったと思います。

たとえ、あの映画を最後まで見通したとしても、きっと「青春は、ロックとエロスとハッタリだ」以上のものがあったとは思えません。

そう、この作品をあとあとまで気持ちの中に蟠らせておかないためにも、もう一度すべてを見通すことで、ミソギを済ませて、苦笑のひとつでも浮かべながら、すっきりと忘れてしまうのがベストな選択肢であることは十分に分かっているのですが、どうしてもそれができないのです。

別に「1969年」に拘っているわけではありません。

あの年をあんなふうに茶化されて怒っているという気持ちはありません。

残念ながら、僕にはそういったデリカシーの持ち合わせなど、きっと微塵もないと思っているからでしょうか。

しかし、あの映画には、あの時代をくぐり抜けて来た人間には、とても堪えられない部分があった。

むしろあの当時、時代の先が見通せなかった僕たちは、深刻でいることでしか自分を支えるすべがなかったというべきかもしれません。

もし、あの映画で描かれているような、なにごとも深刻ぶらずに茶化して遣り過ごせる「軽さ」が少しでも僕たちにあったとしたら、きっと僕たちはもっと饒舌になれたかもしれない。

あの映画「69 sixty nine」を最後まで見通せなかったのは、僕たちには望むべくもなかったあそこに描かれていた「軽さ」に対する単なる嫉妬だったかもしれません。

しかし、あの時代、実際にはそんなものは「存在」する余地など、なかったはずです。

あの「連合赤軍事件」こそは、僕たちが逃れられなかった「深刻さ」の延長線上にあったもので、当時の感覚で言えば、起こるべくして起こったというリアルな思いは、確かに誰もが持ったものだと思います。

だからこそ、「69 sixty nine」の軽さを暗に敬遠し、そして嫌悪したのかもしれません。

そして、おそらく僕たちが持たざるを得なかった「深刻」な言葉では、豊饒な「ミモザ館」の世界は語り切れないかもしれません。そんな気がしてきました。
by sentence2307 | 2006-06-21 00:26 | ジャック・フェデー | Comments(0)