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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:カール・ドライヤー( 18 )

牧師の未亡人

映画制作にかけたドライヤーの生涯には数限りない困難があって、その飛びぬけた天賦の才に照らしても、撮られた作品のあまりにも少なすぎる理由として考えられることは、そのような障碍をクリアすることに多くの時間を費やさねばならなかったという、いわば世俗の雑事に翻弄された結果だったようです。

天才モーツァルトが、同時にすこぶるつきの浪費家で生涯のほとんどを借金の依頼か、または滞納の言い訳に費やし、その僅かに残された合間の時間に、かろうじて作曲をこなして、やっと食い繋いでいたという事情とどこか似ているような気がします。

ドライヤーが直面した困難のひとつに、脚本をオリジナルではなく、他者の原作を脚色して映画化することから生ずるトラブルも多くあったようで、例えば第2作目の「サタンの書の数ページ」をめぐり、脚本を執筆したエドガー・ホイヤーから自分の脚本を勝手に換えたと抗議されたり、あるいはノーディスク社と製作費のことでトラブルが起きたり、更に完成後一年半も経過してやっとノルウェーのオスロで公開にこぎつけたかと思うと(最初にデンマーク本国で公開されなかったことに落胆したようです)、この映画のテンポがあまりにも緩慢に感じた上映者は、勝手にこの作品を短縮し、さらに映写機の回転を速めて上映したなどということもあったようです。

既にこの頃から、ドライヤーがかなり扱いにくい監督であり膨大な製作費をかけて全くあたらない映画を作るというイメージが出来上がっていたのではないかとさえ思えてしまう過酷なエピソードです。

そしてこのエピソードには、さらにおまけがついています。

この映画のキリスト篇が、教会の保守派から神を汚すものだと攻撃を受ける追い撃ちもありました(あの「裁かるるジャンヌ」がローマ・カトリック教会から激しく攻撃されたことはよく知られています)。

このような数々のうんざりするような事情から、ドライヤーは、ノーディスク社での映画製作にほとほと嫌気がさしたらしく、次回作「牧師の未亡人」が、当時全盛期だったスウェーデンのスヴェンスク・フィルムインドゥストリ社において、スウェーデン資本によるノルウェーでの撮影という結果に繋がっていったようです。

その背景にはまた、デンマーク映画産業の絶望的な凋落状況がありました。
by sentence2307 | 2004-12-15 22:34 | カール・ドライヤー | Comments(0)

サタンの書の数ページ

この1919年に撮られたドライヤーの第2作目「サタンの書の数ページ」の構成は、キリストの時代のエルサレム、16世紀の宗教裁判、フランス革命、20世紀初頭のフィンランドという人間界の四つのそれぞれの時代に神の命を受けたサタンが降臨し、人間を様々な方法で誘惑し堕落させようとする物語、いわば、人間の裏切り行為の4つの典型を描いた作品です。

幾つかの時代を交差させ単一のテーマをプロットに分けて物語を進行させていくところに、グリフィスの「イントレランス」からの強い影響が指摘されていますが、しかし、こうした構成は、かなり以前からあったようで、文献によると「イントレランス」やトマス・インスの「シヴィリゼイション」に先立つイタリア映画ルイジ・マッジの「(失楽園の)サタン」1912が嚆矢とされています。

むしろ、グリフィスの影響は、やはり俳優たちの大胆なクロース・アップを実験的に試みたことをあげるべきでしょう。

1918年の夏、友人フレイゼ・スコールプの事務所で初めて「イントレランス」を見たドライヤーは、この作品の現代篇に感銘を受け、以前彼自身が脚本の点検と手直しをしたマリー・コレッリのベストセラー小説「サタンの嘆き」を「サタンの書の数ページ」として発展させようと決心したといわれています(既にこの本は、1913年に劇作家エドガー・ホイヤーによって脚色されていました)。

「イントレランス」の現代篇において人物を大胆なクロース・アップでとらえていることに衝撃を受けたドライヤーは、この作品「サタンの書の数ページ」でクロース・アップによる俳優たちの表情が示す演技の威力を果敢に映像化することを試みています。

また、映画のテンポは、歴史的再現が中心となる第1話から第3話までのゆっくりとした重厚なペースに比べ、現代 (1918年当時) のフィンランドを舞台とした第4話では一転して各ショットの持続時間を短くして、サタンが人間の誘惑に失敗する結末に至るラストの急展開において各挿話にショットや俳優の演技に様々な変化と緩急に工夫を凝らし、後年のドライヤー作品の優れた原型を見ることができるといわれています。

撮影は1919年の夏に行われましたが一般公開は遅れ、まず1920年の11月にノルウェーで上映されから、続いてデンマークで1921年の1月に公開されました。

この作品「サタンの書の数ページ」で、実は、1918年の現代(当時)を描いた第4話をドライヤーが最初に撮影していることから、どうも彼がもっとも力を注いだのがこの部分らしいというのが、どうも一般的な見方のようなのです。

グリフィスの影響が顕著に見られる実験的なパートですね。

物語の場所は、フィンランド、赤軍の兵士が共産主義の教理を広め、還俗した僧侶となったサタンが、パーヴォの忠実な妻であるシリに対するラウタニエミの欲情を煽り立て、シリは祖国を裏切るよりは、むしろ死を選び取ることを選択し、サタンの試みが初めて失敗するというお話です。

こんなところにも、20世紀初頭の共産主義に対する好意的な世界的風潮がうかがわれて面白いですね。

そして、この第4話には興味深いエピソードが残されています。

というのは、この第4話、フィルムの長さでいえば約600メートルあって、そのショット数が500以上あるということですから、単純計算でも各ショットの平均映写時間は、実にたったの3秒ちょっと、という短さになります。

この短さは、当時としては、まったく異例のことで、これを聞いたノルディスク社の幹部たちは、ドライヤーがフィルムを台無しにしているのではないかと危惧し、この第4話の試写を見たうえで、今後の撮影の許可を出すと言い出しました。

しかし、その試写によって、危惧とは逆に、この短いショットのモンタージュが生み出す素晴らしいリズムと迫力に驚嘆した幹部たちは、あわてて撮影の続行を許可したというエピソードです。

似たようなエピソードをどこかで聞いたのを思い出しました。

黒沢明が「七人の侍」の撮影で、あまりにも時間が掛かりすぎると訝った東宝の重役が黒沢監督に試写を要求し、その素晴らしい出来栄えにびっくりしたというエピソードとあまりに似ていると思いませんか。

奇しくも歴史は繰り返したというわけでしょうか。

ちなみに1話から3話の要約です。
(第1話)紀元1世紀のパレスティナにて、サタンは一人のパリサイ人の姿になり、ユダがキリストを裏切るように仕向けます。
(第2話)16世紀のセヴィリアで、サタンは異端尋問所裁判官に扮しています。若い僧侶ドン・フェルナンデスは、娘イサベラの色香の誘惑から懸命に逃れようとします。イサベラの父ドン・ゴメスは、占星術に熱中したため異端尋問所で拷問され死亡します。イサベラは、魔女の嫌疑をかけられ、火刑に処せられることになります。
(第3話)フランス革命のさなか、シャンボール伯爵は死ぬ前に妻と娘ジュヌヴィエーヴを忠実な召使ジョゼフに託します。しかし、サタンに唆されたジョゼフは、過激派のジャコバン党員となって、シャンボール伯爵夫人とその娘ジュヌヴィエーヴを革命派に密告します。ジュヌヴィエーヴは、囚われの身にあるマリー・アントワネットを逃がしてくれればジョゼフを許してもいいと約束しますが、彼は再び裏切ります。

(1919ノーディスク・フィルムス・コンパニ)監督・編集カール・ドライヤー、脚本エドガー・ホイヤー/カール・ドライヤー、原作マリー・コレッリ、撮影ゲオー・スネーフォート、舞台美術カール・ドライヤー、イェンス・G・リン、アクセル・ブルーン、
出演ヘリイェ・ニッセン、第1話(エルサレムにて)、ハルヴァーズ・ホフ、ヤーコブ・テクシエア、エアリング・ハンソン、ランスカブスマーラー・ヘアマンセン、テムラー・ヴァイツェル、ボウビナー・ギケ、スネズケア・ヴィルヘルム・イエンセン、第2話(宗教裁判、16世紀のセヴィリア)、ハランダー・ヘレマン、エボン・ストランディン、ヨハンネス・マイヤー、ナレ・ハルデン、フーゴ・ブルーン、第3話(フランス革命、1793年秋のパリ)、テンナ・フレゼリクセン、ヴィゴ・ヴィーエ、エンマ・ヴィーエ、ジャンヌ・トランクール、エリート・ピオ、エーミール・ヘルセングレーン、スヴェン・スコラナー、ヴィゴ・リンストレーム、ヴィルヘルム・ペーターセン、第4話(フィンランド、1918年春)、カーロ・ヴィート、クララ・ポントピダン、カール・ヒレブラント、カリーナ・ベル、クリスチアン・ニールセン
by sentence2307 | 2004-12-15 22:33 | カール・ドライヤー | Comments(113)

裁判長

1918年のこの作品は、カール・ドライヤーの監督昇進第一作です。

原作はオーストリア出身の通俗作家カール・エーミール・フランツォス(1848-1904)の同名小説で、自分がはるか昔に捨てた娘が、不幸の果てに死刑宣告を受けたと知った裁判長カール・ヴィクトルが深い苦悩に沈むという、20世紀初頭の当時にあっても十分に古めかしい父と子の二代にわたる過ちの物語ですが、こういう感傷性にみちた重厚なメロドラマはノーディスク社が得意とする人気ジャンルでもありました。

青年カール・ヴィクトルは、父が死ぬ間際に、かつての若き日にある女性と過ちを犯したことを父から聞かされます。

しかし、カールはその父の戒めを忘れ、ある貧しい女を愛し、二人には女児ヴィクトリンがさずかりますが、やがて、彼は女と生後間もない女児のもとを去ってしまいます。

父の死から30年後、カールは町の人々から尊敬を集めている裁判長になっています。

また、彼の娘ヴィクトリンは、ある家で家政婦として働いていますが、その家の息子と関係が出来たあと捨てられてしまいます。

家を追い出された彼女は、夜、野外で赤ん坊を産みますが、無残にも赤ん坊は死に、彼女は子殺しの罪で裁かれることになります。

カールは法廷に現れた被告ヴィクトリンが、婚姻外に生まれた自分の娘であることを知ります。

裁判で彼女が死刑の宣告を受けたことによって良心の呵責に耐え切れないカールは、自分の名誉を捨てる決心をして、彼女を牢屋から逃がし共に海外に逃亡します。

3年後カールはヴィクトリンが幸せな結婚をするのを見届けたあと自殺するという、さしずめ日本で言えば「滝の白糸」とか「金色夜叉」みたいな感じの物語なのでしょうか。

ゾラ、バルザック、ディケンズ、シュニッツラーからノルウェーの推理小説作家スヴェン・エルヴェスタードに至るまで、さまざまな作家の小説の映画化権を取得していたノーディスク社で脚本執筆の仕事を多くこなしてきたドライヤーにとって、原作小説を脚色して映画化することは極く手馴れた仕事で、すでにこの頃から、オリジナル脚本ではなく、他人の書いた小説や戯曲を自分の映画の素材にするという、その後のドライヤーが撮る長篇映画のスタイルの萌芽が伺われます。

この「裁判長」の撮影は1918年の夏に、室内場面はコペンハーゲン近郊のヴァルビューにあるノーディスク社のスタジオで、野外場面はスウェーデンのゴットランドで撮影されました。

そして8月半ばまでには最終編集が終了して映画は完成されますが、しかしノーディスク社はこの作品をすぐには公開せず、1919年2月にひとまずスウェーデンで公開し、デンマークでの公開は、それからさらに1年後の1920年の2月と遅れました。

この作品で特徴は、ドライヤーが物語を語るために複雑なフラッシュバックを多用していることでしょうか。

全体で4回使用されるフラッシュバックは、プロローグ、30年後、3年後という時間的な飛躍の中で語られる物語の中に組み込まれていて独特の時間感覚を形成しています。

いまや、その短く美しいフラッシュバックによって伝説のように語り伝えられているドライヤーの華麗な遺作「ゲアトルーズ」は別にしても、その後のドライヤー作品では影を潜めたこの技巧は、ドライヤーの時間意識の象徴として、この第一作において顕著に示されているといえるでしょう。

(1918ノーディスク・フィルムス・コンパニ)監督・脚本・編集・舞台美術カール・ドライヤー、原作カール・エーミール・フランツォス、撮影ハンス・ウォーゲ、

出演ハルヴァーズ・ホフ、エリート・ピオ、カール・マイヤー、オルガ・ラファエル・リンデン、ベティー・キアケビュ、アレックス・リカーズ・クリステンセン、ペーター・ニールセン、アクセル・マッセン、ヤコバ・イェッセン、ハランダー・ヘレマン、ファンニー・ペーターセン、ヨン・イヴァーセン
by sentence2307 | 2004-12-15 22:32 | カール・ドライヤー | Comments(0)

裁かるるジャンヌ ⑦

以前どこかのTVで見たのですが、ヘミングウェイとかヒッチコックがすごいマザコンで、この巨人たちが残した偉大な作品群は、自分の母親の関心を引くために為された仕事だったとかいう、確かそんな番組を見たことがありました(もし、記憶違いだったらゴメンナサイ。)。

しかし、創作をナリワイとするものにとって、「誰かに認められたい、褒められたい」と思うのは当然の欲求ですよね。

どんなに大衆に人気があって、指示されていると思っていても、大衆という不確かな実体のなさに、いつかは不安に駆られて、その虚しさに耐え切れずに自分からペースを乱して表舞台から消えていった才能ある芸能人の失速を数多く見てきました。

人気の絶頂期に自殺した人もいました。

だから、あれだけの人気に支えられていた天才・美空ひばりが、自分の周囲を母親はじめ血縁者で固めていたのは、その辺の虚しさをよく分かっていたからではないかと思えて仕方ありません。

それは、レコードを百万枚売り上げても、母親にひとこと褒めてもらう方がよっぽど励みになったということだと思います。

「実体」というものでいえば、母親以上の存在はないでしょうし、大衆の支持などというものは、それが巨大化すればする程、空虚な実体を逆にさらけ出し、本人を不安にさせてしまうだけかもしれません。

しかし、なぜ、美空ひばりが、カール・ドライヤーなのか、疑問でしょうね。

それは今からお話します。

年譜によるとドライヤーの実の母親は貧しい農夫の娘で、地主の息子と道ならぬ恋に落ちて婚姻外の子(これがドライヤーです)を出産しますが、幼すぎる彼女には子供を育てられず、結局は養子に出して、彼女自身は一年後に亡くなっています。

そこにはきっと筆舌に尽くしがたい悲惨な出来事があったに違いありませんし、成人したドライヤーが養家と気まずくなって家を飛び出してしまうというあたりの事情も、悲惨な母親の死とひと続きのものと考えざるを得ません。

僕たちが初めてドライヤーの映画を見て、なにしろ驚いたのは、奇跡だとか殉教だとか僕たちにはまるで馴染みのない世界を見せ付けられたからですが、しかし、その抽象の世界に、例えば、社会から見捨てられた不遇な女性像を重ね合わせることによって、はじめてドライヤーの苦渋に満ちた世界が完結するのではないかと思えてきました。

従来の定説どおり、この「裁かるるジャンヌ」を始め他のドライヤー作品を人間と神との相克の関係だけに限定し、ドライヤーの閉ざされた作品世界を無理矢理読み解こうとすれば、その強引さは逆に僕たちを出口のない不条理の迷宮に追い込み、ただ意味のない抽象の世界を当てもなくさまよい歩く不毛な泥沼に足を取られるだけの結果しか望めないかもしれません。

おそらく、これまで映画史に残されてきたこの作品のどこかいまひとつ納得できない煮え切らなさを持つ多くの映画批評が、それを恕実に示しているでしょう。

それは、ひたすら「神」のいる方向を仰ぎ見ながら終始したことで証明されていると思います。

彼の描くどの物語にも、その根底には、ただ悲惨だった母親の短い生涯に対する悲憤が込められていたのだと思いますが、きっと敬虔なファンの多い壮大なドライヤーの世界をこんなに小さくまとめてしまっていいものかどうか、申し訳なさでいっぱいです。
by sentence2307 | 2004-12-15 22:30 | カール・ドライヤー | Comments(1)

裁かるるジャンヌ ⑥

ドライヤーのどの作品にも一貫して描かれている「信仰」のテーマは、特に「裁かるるジャンヌ」においては顕著に現れています。

しかも、この作品では、迫り来る処刑を前にしたジャンヌが、必死になって神に救いを求め続けますが、しかし神は、ジャンヌばかりでなく、狡猾な審問官や、また、権力の不正な裁定に怒りを露わにする群衆にさえも、何ひとつ啓示らきしものを顕わすことなく、まるで神への「信仰」は最初から叶えられるはずのない、むしろ無残に裏切られるのが至極当然であるかのような、神の不在を証かし立てる辛辣なドライヤーの印象を強く感じずにはいられないドライヤー作品中もっとも先鋭な作品です。

そしてこの映画のクライマックスに「信仰」のテーマが大きく浮き彫りにされています。

審問官は、ジャンヌに火刑による死を宣し、ペニタント服を着た彼女が刑場に引き出されて、やがて壮絶な処刑が執行されるというこの一連の厳しいショットのひとつひとつが、映画史に刻印された至宝です。

眼前に迫る死の恐怖に十字架を抱きしめて怯えるジャンヌは一杯の末期の水を恵まれ、塔の上には不吉にざわめいて喧しく飛ぶ鳩たちが群れ、差し迫った不吉な死の影に怯える母親と赤ん坊や悲しみに泣き崩折れる老婆のショットに続くうず高く積み上げられた薪の描写は、ジャンヌが抱いている死の恐怖と同質の苦痛を、僕たちもまた深刻な緊迫感のなかで不安と動揺をもって見ないわけにはいきません。

飛び立つ鳩、投げ入れられる火、そして移動ショットで捉えられる騒擾の中の群集。

「イエス」の名を呼び続けながら苦悶に歪むジャンヌの悲痛な表情と流れる涙、それを見つめる群集の激昂。

画面にはスポークン・タイトルで「やつらは、聖女を殺した!」という群集の怒りの絶叫が刻印されます。

ここで見せられる畳み掛ける迫力に満ちたショットの連続は、ドライヤー自身の怒りの生の声をそのまま映像として完璧に表現し得ている迫真のシーンです。

やがて塔の上のイギリス軍は、騒ぎ出す群集に向かって槍を投げつけます。

無差別の殺戮に狂奔する軍隊と怒り狂う群集との血なまぐさい激突と並んで、火の中の十字架が交互に映し出されたあと、猛然と燃え盛る火煙の中でジャンヌのシルエットのかすかな身じろぎが静かに止まる瞬間を映し出します。

神は何ひとつ奇跡を顕わすことなく、ジャンヌは、炎の中で息絶えていきました。
by sentence2307 | 2004-12-15 22:29 | カール・ドライヤー | Comments(0)

裁かるるジャンヌ ⑤

実は、1969年2月にフィルム・ライブラリーの主催による「デンマーク映画祭」と冠した「カール・ドライヤー監督週間」という企画が草月会館ホールで1週間開かれたことがありました。

思えば随分と古い話ですが。

上映された作品は、「牧師の未亡人」1920、「あるじ」1925、「裁かるるジャンヌ」1928、「吸血鬼」1932、「怒りの日」1942、「ことば(この作品は、現在は、「奇跡」というタイトルになっています。)」1955、「ガートルード」1964などです。

そのときのカタログが、たまたま書庫に残っていることが目録で確認できたので、さっそく探し出してきました。

そのカタログの冒頭には、飯島正氏の「カール・ドライヤーとデンマーク映画」という序論が掲げられています。

そして、各作品についての解説の他に、ジャン・ルノワールの「ドライヤーの罪」という貴重な論評も掲載されていて、さらに、それら上映作品のほかに、作品総覧として、その他のドライヤー作品群についての言及もなされており、当時ドライヤーに対してまったく無知だった僕にこの天才監督の全容を初めて窺い知ることができ、衝撃と感動を受けたことを記憶しています。

その他の作品とは、「裁判長」1918、「サタンの日記の数頁」1919、「不運な人たち、」1921、「むかしむかし」1922、「ミカエル」1924、「グロムダールの花嫁」1926、「ふたりの人間」1945です。

最初に僕がドライヤー作品、とりわけ「裁かるるジャンヌ」に接することができたのは、おそらく、この上映会でだったろうと思います。

映画を見始めた頃に、いち早くドライヤーの名前を知り、そしてまた、世界の最高峰に位置するこのような作品「裁かるるジャンヌ」に接することができたことは本当に幸運でした。

しかし、今回のような、さらに重要な意味を持つ短編(母親支援、村の教会、癌との戦い、彼らはフェリーに間に合った、トーヴァルセン、ストーストレーム橋、城の中の城)も余すところなく見られる機会を持つことの出来る現在の人たちの幸運は、当然のことですが、僕たちの持ったささやかな幸運などとは較ぶべくもありません。

そして、最近知ったことですが、当時僕たちが見ることのできた「裁かれるジャンヌ」は、ツギハギの不完全な物だったらしいのです。

この作品のオリジナル・ネガは火災によって失われ、1980代の初めにそのオリジナル・ポジ・プリントがノルウェーで見つかり完全な原型で見ることができるようになったのは、つい最近のことなのだそうです。

現代若い人たちは、本当に幸福ですね。
by sentence2307 | 2004-12-15 22:28 | カール・ドライヤー | Comments(4)

裁かるるジャンヌ ④

ドライヤーが、「裁かるるジャンヌ」、「吸血鬼」、「怒りの日」、「奇跡」などの作品に描いたテーマは、「信仰」です。

しかし、なぜ「信仰」だったのか、僕には、とても興味があるのです。

そして、もしドライヤーの「生い立ち」が、そのテーマにこだわる何かを教えてくれるなら、耳を傾けないわけにはいかないかもしれませんね。

「スウェーデンの貧しい農民の娘ヨセフィーナ・ニルソンは、デンマークの富裕な地主の息子イェンス・クリスチャン・トープと「結婚外の関係」により、1889年2月3日コペンハーゲンで男子を出産します。
しかし、貧困のため子供を育てられないヨセフィーナは、1890年にこの子をドライヤー家に養子に出します。
不幸な境遇に生きなければならなかったヨセフィーナは1891年1月20日に死亡し、やがて映画監督となるカールはドライヤー家で育てられることとなりました。
厳格な養父母のもとでの彼の唯一の楽しみは音楽で、ドライヤーは義理の伯父で音楽家でもあったアクセル・クリステンに無料でピアノのレッスンを受けました。
1897年から1904年までは、私立学校のフレデリックスベア・レアルスコーレに通いました。
学校を卒業したドライヤーは、冷淡な養父母のもとを出て通信電話会社に就職します。
そして、1908年にこの会社を辞めると、彼はジャーナリストとして急進的な地方紙に匿名で演劇評を書き始めることとなりました。」

不幸な境遇のなかで、悲惨な死をとげた実の母親ヨセフィーナをドライヤーがどのように思っていたのか、「信仰」のテーマとともに、それは、ただ彼の残した諸作品から推測するしかないかもしれません。
by sentence2307 | 2004-12-15 22:27 | カール・ドライヤー | Comments(0)

裁かるるジャンヌ ③

殉教者ジャンヌ・ダルクの苦悩をクロース・アップの連続によって内面までも見事に描き切ることのできた「裁かるるジャンヌ」や、中世の暗黒時代において魔女狩りの犠牲となった女性を描くことで「魔女」という架空の人格を精神史の中で意味づけた「怒りの日」、また、狂気に囚われたひとりの男の祈りによって女を死から甦らせるという甦りの奇跡を描いた「奇跡」(最初、日本での公開当時は、確か「ことば」というタイトルだったと記憶していますが。)など、その諸作品の論評に接するとき、これらの映画が類い稀なる傑作であることは間違いないとしても、しかし、同時にそれらのどの作品にもうかがわれる極限にまで持続されるぎりぎりの緊張感や、画面の隅々にまで行き渡る研ぎ澄まされた神経の異常な使い方など、張り詰めたドライヤー作品に、異常なものを感じ取った評者たちが、おそらくは自身の感性の理解を遥かに超えているその仕上がりに対する畏怖からか、ドライヤーに「狂気」の印象を仄めかす幾つもの論評に接してきました。

例えば「吸血鬼」は、このように論評されています。

「不安定な放浪の中で創られたこの作品の精神異常を思わせる程の特異な視覚美は、歴史的に見ても今なお光輝を失っていない」と。

ドライヤーは、この作品以後、10年以上の沈黙を強いられることとなりますが、しかし、はたして、あれらの傑出した作品は、狂気に囚われた映像作家の目が捉えた単なる「幻影」にすぎなかったのでしょうか。

しかし、作品の中で極度の緊張感を持続できる演出手腕は、能力ではあっても、決して狂気とは思えません。

黒沢明の諸作品を見れば、それははっきり分かることだと思いますが、もっとも、あの黒沢監督さえ日本国内においては、ちょっと異常な程の偏屈として日本の映画界では「敬して遠ざけていた」わけですから、そのことからもドライヤーがどのような遇され方をしたのかの察しは大方つくかもしれませんね。
by sentence2307 | 2004-12-15 22:26 | カール・ドライヤー | Comments(0)

裁かるるジャンヌ ②

そういえば、ゴダールの「女と男のいる舗道」1962でアンナ・カリーナが涙を流すシーンは、それ自体が「裁かるるジャンヌ」の引用だったのですね。

だから、あのアンナ・カリーナの顔の大胆なクロース・アップこそは、映画史上もっとも美しいクロース・アップといわれるファルコネッティ=ジャンヌへの熱いオマージュを同時に意味していたのだったのかと、迂闊にもいま思い当たりました。

「裁かるるジャンヌ」を見て痛感することは、僕たちが日常的に接しているテレビによって、すっかり感受性を磨耗され尽くされてしまっていて、例えば、クロース・アップというものになんの感動も抱けなくなっている、いわば映像的不感症状態に陥っている自分に気付かされたりすることにあるかもしれません。

多分、僕たちは、テレビによって映像のなにもかもを経験し尽くしてしまったような積りになっています。

この世界のすべてのものを既に見尽くしてしまったような「すれっからしのやり手ババア」みたいな傲慢な視覚経験を経た(積りの)知識のバケモノみたいになってしまった気でいるのかもしれません。

しかし、事実は、僕たちが「なにひとつ見ていない」ただの無知でしかないことを、「裁かるるジャンヌ」の驚異的な映像群は、僕たちに教えてくれるでしょう。

ドライヤーが捉えたファルコネッティのクロース・アップと、僕たちがいまテレビ画面で見ている日本の役者たちのアップとが、どうしてこうも違うのか、しかしまあ、考えるまでもなく、幸福ズレしたニヤけた役者たちのワンパターンのなんとも退屈な薄ら笑いの稚拙な演技と、あのファルコネッティ演じる殉教者ジャンヌの落胆と苦悶、恐怖と悲嘆、憤怒と卑下などの感情を搾り出すような深い演技を、そもそも同一線上で論ずることにどんな意味があるのか、それとも、比較にさえ値しないと言い切るくらいの誠実さは、やはり失うべきでないのか、迷っています。

が、しかし、ここで、やはり天才的に突出したドライヤー作品を「神のみわざが為した映画の奇跡」という言葉で封印する必要があるのかなという気がしてきました。

この世界は凡人の世界です。

年譜で見るドライヤーの生涯の仕事の遇され方の印象は、ひとことで言えば、「封印」の生涯だったような気がします。

天才は封印し、日本のテレビに映し出されるドラマは、それはそれで肯定すべきものなのかもしれませんね。思いなおしました。

そして、カール・ドライヤーをひとことで言い表すなら、ふっと「異端者の悲しみ」という言葉が思い浮かびました。
by sentence2307 | 2004-12-15 22:25 | カール・ドライヤー | Comments(0)

裁かるるジャンヌ ①

ジャンヌ・ダルクを描いた映画を思いつくままにざっと数えてみても、ドイツ・ウーフアのグスタフ・ウチツキイ1934年作品、ヴィクター・フレミングがイングリット・バーグマンで撮った1948年作品、ジャン・ドラノワがミシェル・モルガンで撮った1953年作品、オットー・プレミンジャーがジーン・セバーグで撮った1957年作品、ロベール・ブレッソンの1962年作品、ジャック・リヴェットの1994年作品、リュック・ベッソンの1999年作品と、これだけあるのですから、きっと知られざる「ジャンヌ・ダルク」ものや、その関連映画が、ヨーロッパでは、まだまだ数え切れないくらいたくさん作られているのかもしれませんね。

まさか日本の「忠臣蔵」のような作られ方をしているとも思えませんが。

しかし、フランス人のイギリスに対する根深い敵意は、「ジャンヌ・ダルク」というフランスにとっては、あまりにも屈辱的で、そして悲しすぎる象徴的な物語に強烈に感じることができますよね。

こういう苦渋に満ちた物語がきっかけとなって、取り澄ましたどんな知識人でさえも抑えていた愛国心が噴出してしまう、みたいな? 

あのゴダールでさえ「女と男のいる舗道」でアンナ・カリーナに涙を流させているくらいです。

ゴダール作品を見るにつけ、これはとても「いけない見方」かもしれませんが、僕はいつも、彼の、たまたま大国に生まれただけの偶然にのうのうと「あぐら」をかいて芸術的放蕩に血道を上げているだけの「あまえ」を感じてしまうのです。

まあ、芸術って、そういうものかもしれませんが。

しかし、こういうフランス人の感情的な愛国心て、なんか微笑ましくなってしまいます。

だからなのかもしれませんが、最後結局はジャンヌが火刑に処せられてしまうにしろ、だからこそ、やはりこの物語には、一度はイギリス軍を徹底的に打ち負かして溜飲を下げる場面が、フランス人にとっては、どうしても不可欠・必要なものなのだったのかもしれませんね。

コテコテのフランス人・リュック・ベッソン作品を観ていると、そのことを痛感します。

その辺のことをぼやり考えながら、オルレアンの聖処女ジャンヌが、イギリス軍に捕らえられ、宗教裁判の結果、火刑に処せられるまでの苦悩に満ちたたった一日の出来事を描いたドラマ、カール・ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」が、とても新鮮に感じてしまうのは僕だけでしょうか。
by sentence2307 | 2004-12-15 22:24 | カール・ドライヤー | Comments(2)