世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:リチャード・ブルックス( 2 )

以前、東電OL殺人事件の詳細を知ったとき、とっさにこのダイアン・キートンが主演した映画「ミスター・グッドバーを探して」を思い出しました。

確かそのときのポスターには、こんなふうな宣伝文句が書いてあったように記憶しています。

「酒場で男を漁り、挙句の果てにオカマに殺される聾唖学校の女教師」

テレサには、ポリオ後遺症の脊髄彎曲も、大学講師との失恋も、この社会から受ける痛手のように残っていきます。

テレサが求めた男たちとの邂逅と別離は、けっきょく克服せざるを得ないひとつの社会的象徴としてのものであり、男を得、そして彼女自身の意思で別れることが、誰にも頼らず、何者からも拘束されずに自立して生きるテレサの確信を更に深めたのだと思います。おそらく、こうした確信だけが、劣等感に抗して、辛うじて生きていく彼女の自信の原点だったと思います。

小さな平穏だけを後生大事に抱きしめて生きる父親は、一見幸福そうな安定のなかで、生活する家庭の俗悪さの象徴にしか過ぎませんし、彼女に言い寄り求婚するジェームズにしても、外見だけの健全さと良識の体裁を取り繕い、自ら望む一切の欲望から隔たった場所でしか得ることのできない家庭の平穏へ、いぎたなくのめり込むことしか求めてはいません。

そうしたもの総てに対するテレサの拒絶は、その背後にある多くの女たちの、生活の安定と引き換えに、あらゆる人間的欲情を自制して、男たちから選ばれることを待ち続けていることに対する反撥なのだと思います。

家庭の擬制の幸福に浸り、一見穏和な微笑をたたえながら男たちや女たちは、望んでもいない生活に耐え続けなければならない、そういうことへのテレサの鬱勃とした怒りが、さらに彼女を欲望の赴くままに生きさせたのだと思います。

テレサはちょうど、自分の運命を選ぶかのように男を選び、そして、自らの生活の自立を証かすために、男との別離を繰り返します。

自分の快感だけを、生きる唯一の拠り所とし、見せ掛けだけの愛や幸福や希望を得るための取引の道具にしかすぎなくさせてしまう性の頽廃を拒んだ彼女が、しかし、本当は何を求めていたかといえば、おそらく彼女が、ただ劣等感によってのみ生きたように、その悲惨な孤独を知る同じ劣等感を抱え持った男を探し求めていたような気がします。

だからこそ、ひとりのオカマに繋がる社会の惨めさに殺されなければならなかったのかもしれません。

負と負を掛け合わせれば正になるという数学の鉄則は、しかし、この現実においては、結局冷笑を浴びせかけられるだけのお伽噺にすぎないことを、この映画「ミスター・グッドバーを探して」は教えてくれているような気がします。

(1977アメリカ)監督脚本・リチャード・ブルックス、製作・フレディ・フィールズ、原作・ジュディス・ロスナー、撮影・ウィリアム・A・フレイカー、美術・エドワード・C・カーファグノ、音楽・アーティ・ケーン、編集・ジョージ・グレンヴィル
出演・ダイアン・キートン、チューズデイ・ウェルド、ウィリアム・アザートン、リチャード・カイリー、リチャード・ギア、アラン・フェインスタイン、トム・ベレンジャー、レヴァー・バートン
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by sentence2307 | 2008-08-25 10:12 | リチャード・ブルックス | Comments(4)

冷血

CSの「ムービープラス」の番組表を見ていたら、リチャード・ブルックス監督の「冷血」を放映していたので、懐かしさもあり、早速観てみました。

服役していた刑務所で聞き込んだ情報につられて2人の前科のある青年が、農場主の家に押し入ったものの、結局そこには現金はなく、強盗の目的を果たせなかった報復のように農場主の一家4人を猟銃で悉く惨殺するという、カンザス州で実際に起こったショッキングな殺人事件をもとに、トゥルーマン・カポーティが一切の感情的な思い入れを排して事実だけを積み上げ、犯行に至る犯罪者の心理・過去・行動の細部に徹底的・冷徹に肉薄しながら、犯罪者の歪んだ人格を形成した寒々しい背景をも暴き出していった、まさにニュージャーナリズムの源流といわれた迫力のノンフィクション・ノヴェルの映画化です。

この作品をカポーティは、最初の3年を6,000頁に及ぶ資料収集に費やし、あとの3年をその資料の整理につぎ込んだと伝えられています。

「それらは決して裁かれず、ありのまま提出される」ことのために、それは必要な時間だったのだと思います。

映画では、目当ての大金が、そもそもその家にはなく、ないどころか、刑務所仲間から聞いていた「金庫」さえ存在しないことに焦り苛立った犯人たちが、怒りから発作的に一家を次々に惨殺していくという血の凍るような描写の迫力には、紙に印刷された活字からは到底感じることのできない強烈な印象=衝撃を受けたことを、僕はいまでも「記憶の映像」として所有しているくらいです。

たしか佐木隆三の「復讐するは我にあり」が直木賞を受賞したとき、トゥルーマン・カポーティのこのノンフィクション・ノヴェルの手法と似ていたところから、この映画もまた話題になったと記憶しています。

映画は、村では地位も信用もあって尊敬されている裕福な農場主クラッター家の平和に満ちた暮らしの様子が細やかに描かれていく一方で、大金の強奪を目論んだ犯罪者たちが徐々にその一家のもとへと自動車を駆り、リアルタイムで迫っている場面をカットバックで描いています。

そこには社会や家族からも見捨てられた彼らの過酷な過去が明らかにされていきながら、やがて至る被害者一家と接触する瞬間が、すぐにそのまま「惨殺」に移行するはずと思い込んでいた僕の思い込みを軽くいなし、映画は近所の人たちによる「惨殺死体の発見」と、そして犯人たちの「逃避行」とが、再び同時進行的に描かれていきます。

分かれては合流し、合流してはまた分かれるという実に見事な構成だと思いました。

それはちょうど、なんの前触れもなく僕たちが、ある朝突然惨たらしい殺人事件を知らされたあの「世田谷一家惨殺事件」の衝撃とどこか通い合う不安と似ていたかもしれません。

メキシコに逃れた彼らが、なにもかもうまくいくはずだったその「夢の場所」で、結局は夢破れて挫折し、無一文で再びアメリカに舞い戻ってこようとしているエピソードと、捜査に向かう警察が惨殺の「動機」を解明していけば必ずや犯人に行き当たると考えている矢先、刑務所仲間からの密告によって犯人が特定され、殺人が単に僅かな金のために為されたにすぎない「動機なき殺人」と分かった警察の遣り切れない虚脱と挫折とは、犯罪者たちの挫折感のイメージと巧みに重なって見事なシンメトリーを形作っていると思いました。

見事なシンメトリーといえば、最初の場面でペリー・スミスがディック・ヒコック(演じていた俳優は両者とも実際の殺人犯にそっくりです。)に自分の父親との金塊探しを「夢のような戯言」と揶揄されたことで逆上する場面と、ラストの処刑直前にペリー・スミスが自分に銃口を向けた父親を未だに憎み続けていることを神父に告白する場面とは、この映画の本質を語り尽くしている究極のシンメトリーといえるかもしれません。

ペリー・スミスについてトゥルーマン・カポーティはこんなふうに紹介しています。

「アイルランド人とインディアンの混血であること、家族で放浪生活を送ったこと、まともな教育を受けられなかったこと、母親がアル中で育児放棄状態だったこと、兄弟4人のうち二人までが自殺を遂げていること、父親に集中的に愛情を注がれたらしいが、それは本人にとっては束縛と拷問だったこと、身体と教育に激しいコンプレックスがあること、奇妙な荷物を常時持ち歩いていること。」

僕は、クラッター家に向かうペリー・スミスが、直前まで犯行に加担することを躊躇し迷い続けている描写が、ちょっと丹念すぎるような気がして引っ掛かっていました。

犯行後目当ての金がないと分かり、吹っ切れたように一家を惨殺して回る描写が躊躇なくストレートに描かれているのに対して、犯行直前のペリー・スミスの加担への逡巡は奇妙なくらい煮えきらず、むしろこれは逆ではないかという気持ちさえしていました。

そのことを考えているうちに、ふと少し前の「稚内母親刺殺事件」が思い浮かびました。

母親の殺人を30万円で依頼された友人は、最初冗談かと思ったと供述しています。

その「冗談かと思った」部分が、実際に友人の母親に切り掛かる直前のどのあたりで「冗談ではない」という思いに変わったのか、エモノを手渡され、殺人を依頼された当の母親に襲い掛かり、肉を刺し貫き、おそらく大量の返り血を浴びたであろう行為のどのあたりで、これが冗談ではないと気が付いたのか、大変興味がありました。

こんなことをしていいわけがないと迷い、逡巡しながら、心の底ではいつでも引き返せる、自分にはそれだけの理性があると確信しながら、ある瞬間に突如スイッチが入ってしまったみたいに豹変し、どのようにも制止できない殺意に突き動かされて、一家4人を惨殺してしまう狂気の激情がどのように噴出したのか、知りたいと思いました。

凶行の夜に見せたペリーの、怯えるクラッター一家にみせた優しい心遣いと同時に、その家族たちの顔面を次々と散弾銃で打ち砕く冷酷さの不可解なギャップを正確に描くためには、カポーティは、両極端に揺れるこの行為とその結果を、つまり虚無の闇の深さをそのまま提示するしかなかったのかもしれません。

(67コロンビア)監督・脚本:リチャード・ブルックス、原作:トルーマン・カポーティ、撮影:コンラッド・ホール、音楽:クインシー・ジョンーンズ、美術:ロバート・F・ボイル
出演:ロバート・ブレイク、スコット・ウィルソン、ジョン・フォーサイス、ジェフ・コーリー、ポール・スチュワート、ジェラルド・S・オルーリン、ジョン・ガローデット、ジェームズ・フレイヴィン、チャールズ・マッグロー、ウィル・ギア、ジョン・マクリアム
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by sentence2307 | 2006-09-17 08:46 | リチャード・ブルックス | Comments(1460)