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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:ジャン・リュック・ゴダール( 4 )

ゴダール映画史(全)

相性が悪いというか、こらえ性がないというか、何度挑戦しても最後まで読み通すことのできない本というのがあります。

その理由の1つには、当然「難解さ」という要素があるかもしれませんが、しかし、興味をもって読み始めた本なら、多少「難解」だったとしても、結構読み通してしまえることを思えば、難解さが決定的な要素でなかったことは、その貧しい経験からいっても分かります。

例えば、僕のその「読み通すことのできない本」というリストの中に、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」があって(なにしろ小学校の頃から現在に至るまで、幾度も挑戦しては挫折を繰り返しています)、あれなどは、別に難解でもなんでもないのに、どうしても最後まで読む切ることができないでいます。

おそらく、あの小説のなかに、どうしても受け入れることのできない(生理的に拒否せずにいられない)独特な「なにか」うだうだしたエグイものがあって、どうしても先に進めないでいるのかもしれません。

どうしても読み通すことができないなら、別に読まなければいいようなものなのでしょうが、それが、なかなかそうできないところが悩ましいところなのであって、この「読み通せない」でいることが、いつまでも心に引っ掛かって、その挫折感みたいなものがいつまでもわだかまり、それでまた懲りずに再度挑戦、再々度挑戦と、無駄と分かっている試みをせずにいられないのかもしれません。

そんな自分にとって、「ジャン・クリストフ」に匹敵する本として(比較にはなりませんが)「ゴダール映画史(全)」(ちくま学芸文庫)があります。

この本、何度読み返しても、一向に頭に入ってこない、それどころか、そこにいったい何が書いてあるのか、数頁読み終わった直後に思い返しても、自分の頭の中に何も残っていないという絶望的な空虚を確認するくらいなのです。

今回、三十年振りにこの本が文庫本になったということで、一念発起して再度挑戦してみることにしました。

しかし、結果は、当然のことながら「同じ」です。

しかし、これでも、細心の注意を払って、かなり気合いを入れて読んだつもりでしたが、ぶっちゃけ、そこになにが書いてあるのか、全然残らないのです。

まあ、そういうことで前回も挫折したわけですから、今回はおめおめ引き下がるわけにはいきません、ぎりぎりまで粘ってみることにしました。

とにかく、ここを克服しておかないと、また未練から、再び無益な挑戦を繰り返すだけなので、ここではやれるだけのことはきちっとやっておくことにしました。

まず、なにが障碍になっているのか、ここはじっくり考えてみました。

そして、その答えは、意外に近いところにありました、巻末にある「訳者あとがき」です。

この本を訳したのは、奥村昭夫。

そこには、こんなふうに記されていました。

《この訳文は、いわゆる忠実な訳文と比べると、訳者の解釈がいくらか多く加えられた訳文であるということ、それにまた、どうしてもゴダールの真意をつかめないまま訳さなければならなかった箇所も幾つかあるということを断っておかねばならない。
原書が、語られた言葉をほとんど手を加えずに(しかも、質問の部分を除いて)採録したものであるうえに、ゴダールの語りには、しばしば(トリュフォーが1963年に指摘したように)くわしく説明するということをしないまま、いきなり判断を下してしまうといったところや、説得的というよりはむしろ、注意を自分の内側に向け、(しばしば主題を少しずつずらしながら)思い浮かぶ考えを次々に言葉に変えていくといったところがあって、いくらか解釈を加えなければ、訳文として読むやすいものにならなかったり、あるいはまた、その解釈さえはねつけられたりするのである。
おまけに、このいわば詩人的哲学者には、「言葉を、その意味を少しずつ逸脱しながら使い、ついには、その意味を破壊したり、もっぱら声だけでなにかを言おうとしたりする」ことさえあるのである。》

なるほど、なるほど、重要なのは、この部分ですね。

「ゴダールの語りには、しばしば・・・くわしく説明するということをしないまま、いきなり判断を下してしまうといったところや、説得的というよりはむしろ、注意を自分の内側に向け、(しばしば主題を少しずつずらしながら)思い浮かぶ考えを次々に言葉に変えていくといったところがあって、いくらか解釈を加えなければ、訳文として読むやすいものにならなかったり、あるいはまた、その解釈さえはねつけられたりするのである。おまけに、このいわば詩人的哲学者には、「言葉を、その意味を少しずつ逸脱しながら使い、ついには、その意味を破壊したり、もっぱら声だけでなにかを言おうとしたりする」ことさえあるのである。」

分かってしまえば、なんてことない、つまり「破壊」ですよね。

いままでどうしてそこに気がつかなかったかなあ。

「ゴダールの映画」がめちゃくちゃ破壊的な映画だったのですから、「ゴダール映画史」が破壊的な映画史でないわけがない、それを一生懸命文脈をたどって理路整然と理解しようとしたその方法が、そもそも誤っていたということになるのかもしれません。

なにしろ「敵」は、「言葉を、その意味を少しずつ逸脱しながら使い、ついには、その意味を破壊したり、もっぱら声だけでなにかを言おうとしたりすることさえある」のですから、その場の勢いに任せて話す内容など重きをおくわけもなく、ことごとく「破壊」しまくるというスタンスの「ゴダール映画史」は、あの「ゴダールの映画」群と同じだったというわけです。

ここにきて、なんだか、長年の憑き物が落ちたみたいで、気分がすっきりしました。

必死になって内容を理解しようとしながら、真剣に、そして一生懸命この本に立ち向かい、しかし一向に理解できないまま、自分を責めていた日々が思い返され、その長年の罪悪感から一瞬のうちに解き放たれた開放感は、まるで「ジェーンに何が起こったか」のベティ・デイビスの気分です。

しかし、ちょっと待ってください、「開放感」はいいですけれども、最初から中身のない、あるいは、論旨を著者から悪意を持ってはぐらかされているような絶望的な本を一生懸命理解しようとしていたコチラの立場はどうなります? 

これは、出版業界の常識からいうと、誠実さを欠いたまさに読者に対する執筆者の背信行為・裏切り行為じゃないですか、そんないかさまみたいな本を堂々と出版などしてほしくないという「金返せ」的な怒りが徐々に沸き起こってきました。

しかし、怒ったって仕方ありません、ゴダールというブランドに惹かれてこの本を手にしたのは、まぎれもない「自分」なのですから、やっぱり、その「責任」は読者の側にあるというしかないか。

考えてみれば、むしろ巷には、「金返せ」的な書籍の方がよっぽど多いくらいで、「ゴダールの映画史」なんか、まだまだ可愛いくらいじゃないですか・・・という自分なりの結論に達し、「ゴダール映画史」を読み通せないという罪の意識から、ようやっと解放されたある日、ゴダール好きの友人にここに書いたとおりの「心の旅」を告白しました。

すると、「あんたねえ」が、まずは彼の第一声、「それじゃあ、分からないことを分からないまま、無理やり自分を納得させただけのことじゃないか。だいたいあんたはいつだってそうなんだ。自分の限界を棚に上げて、自分の理解を超える真理さえ平気で否定しくさる人間なんだよ」

なんだか雲行きがあやしくなってきたので、自分に向けられた話の矛先を反らすためもあって「それなら、どうすればゴダールの映画史を理解できるのか教えてくれよ」と彼の迫力に負けないように畳み掛けました。

「あのなあ」と彼はさびしそうな微笑みを浮かべて諭すように教えてくれました。

「そういうときは、索引を見るんだ」

「はあ?」

索引くらい、そりゃあ自分だって何度も見ました、何度も見ましたヨ、そこに示されているページを開いて、本文でその映画タイトルに見合った解説を探そうとするのに、そこにはそれらしい解説はなにも書かれていない、まともに書かれていたためしがない、だから、そうしたフラストレーションが溜まりに溜まって「分からない」になっているんじゃないですか。

すると彼は静かに言いました。

君が読みたいと考え探そうとした作品の解説なら、すでに君自身の中にあるはずだろ、自分の知識と照合して大差ない解説に接して安心するだけのオザナリな解説書を読みたいなら「ゴダールの映画史」はふさわしくない。

むしろ、この本に書かれていることは、映画史という大きな時間の「流れ」なんだ、その総体に身を浸すことが、この本の魅力なんだよ。

嘘だと思ったら索引に書かれているタイトルだけでも、もう一度読み返してみるといいよ、繰り返しね、と友人は言い置いて去っていきました。

お経じゃあるまいし、「繰り返し」ってなんだよ、と反発する気持ちと、その反面、そんなふうな目で索引を見たことがなかったので、試してみるのもなんだか面白いかもしれないという気持ちになってきました。

夜、落ち着いたところで、さっそく「索引」を開きました。

まあ、どうしても知っている作品のタイトルだけを拾っていくことになります。(当然、ゴダール作品は、省きますけどもね)

「アメリカの友人」
「アメリカの夜」
「アレキサンドル・ネフスキー」
「暗黒街」
「暗黒街の弾痕」
「イタリアにおける闘争」
「イタリアの旅」
「雨月物語」
「ウンベルトD」
「黄金時代」
「堕ちた天使」
「大人は判ってくれない」
「オペラ・ハット」
「海外特派員」
「怪物団Freaks」
「カッコーの巣の上で」
「神の道化師フランチェスコ」
「カメラを持った男」
「帰郷」
「ギーズ公の暗殺」

う~ん、なるほど、なるほど、頭のところを少し見ただけですが、確かに趣味はいいかもしれない。

なんてったって、天下のゴダールだもんねえ。
by sentence2307 | 2012-09-01 08:23 | ジャン・リュック・ゴダール | Comments(254)

勝手にしやがれ

ゴダールの「勝手にしやがれ」で、ジャン・ポール・ベルモンド演じるミシェルが、虫けらのように撃ち殺されるラストシーンを見たとき、すぐに「灰とダイヤモンド」のラストシーンを思い出しました。

あのとき、もしかしたら「勝手にしやがれ」のラストは、「灰とダイヤモンド」の痛切なラストシーンにささげられたオマージュなのかもしれないと、なんとなく考えながらも、しかし、結局のところ確認することもなく今に至っています。

あえて積極的に調べようとは思わなかった理由は、きっと、僕の中では、あのラストシーンが、物語の在り方からすると、それぞれが質的にまったく別ものだという明確な判断(あえて調べるまでもないという認識)があったからだと思います。

「灰とダイヤモンド」のラストシーンに「痛切な」という形容詞が似合っても、はたしてゴダールの「勝手にしやがれ」のラストシーンに、そんな叙情的な言葉が似合うものなのかどうか疑問に感じ、調査するまでもないと結論したのではないかと考えています。

しかし、それが、どういうふうに違うかまでは、突き詰めて考えたわけではありませんでした。

アマタいる他の映画監督たちからすると、ゴダールは特別扱いの映画監督だと思います、関連の研究書や映画批評関係の本はダントツで、それこそ溢れ返るような出版量ですから、それらの書籍群によって言い尽くされているという思いと、その膨大な情報量を前にしては、「素人」なんぞが、いまさら稚拙な感想を吐くことを躊躇してしまうのは、無理からぬことだと思います。

しかし、最近、僕の中で、ある「充たされない思い」が大きく育ち始めていることに気がつきました。

それらゴダール関連の多くの批評本は、たしかに難解な作品に真摯に取り組んで論評しようとする姿勢にこだわるあまりに、かえって見た目の「難解」に振り回され、作品に分け入って、それ自体の魅力の解析までは為し得ないまま、まるで息切れするような自己不全と自家撞着に陥ってしまっているような印象を受けるのです。

ゴダール作品のなかでも「勝手にしやがれ」という作品は、「ゴダール」を読み解くための、またとない恰好な作品と考えています。

しかもそのラストシーンということになれば宝庫のようなものなのかもしれません、在来のすべての価値観を打破するためにゴダールが仕掛けた猥雑な諧謔と韜晦の武装の奥底に、「難解さ」の解釈だけでは見えてこないキラリと輝くものがひそんでいるに違いないという思いは、抱き続けてきました。

「愛」の拘束よりも自由を選んだパトリシアの裏切りによって、路上で警官に背後から銃撃されたミシェルは、それでも無様に走りながら、やがてよろめき倒れ、コト切れる直前に「俺は最低だ」とつぶやきます。

その言葉が聞き取れなかったパトリシアは、警官に「何て言ったの」と聞きます。

すると警官は、「お前は最低だ、と言ったのさ」と答えます。

その人生の最後にミシェルによって痛烈な拒絶のひとことを浴びせ掛けられたパトリシアは、その絶望と孤独を抱えて生きていかねばならないことを暗示させたこのラストシーンによって、ゴダールは、どうにでも発展させることができる物語の可能性・自由な想像力を解き放つことのダイナミズムを示唆したのだと感じました。

そこに至るまでのパトリシアとミシェルの約束された恋物語は、警官の微妙な言い換えのひとことによって、突如破綻し解き放たれる不安定のなかで、物語の構造そのものが瓦解してしまう衝撃的な大展開を来たし、だからこそ、どうにでも発展できる「自由」を獲得し得たのだと思います。

映画の作劇の常識を根底から覆すようなその衝撃に比べれば、「虫けらのように射殺されるラスト」の他作品からの影響の有無に心捉われることなど、さして重要なことではなかったのかもしれませんね。

(1959フランス)監督脚本ジャン=リュック・ゴダール、製作ジョルジュ・ド・ボールガール、原案脚本フランソワ・トリュフォー、監修クロードシャブロル、撮影ラウール・クタール、音楽マルシャル・ソラル
出演ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ、ダニエル・ブーランジェ、ジャン=ピエール・メルヴィル、ジャン=リュック・ゴダール
by sentence2307 | 2008-12-13 13:42 | ジャン・リュック・ゴダール | Comments(469)

勝手にしやがれ

僕の部屋には収納場所というものが全然ないので、読み終えた本は、生活空間を確保するという必要から、(本に限らず嵩張るものは、ですが)ことごとく片っ端からどんどん処分することにしています。

しかし、あるとき、その「処分」をしながら、ふっと疑問にとらわれました。

自分は、本を読むとき、気になる部分に傍線を引く習慣があり、そうやって読んではせっせと傍線を引きまくり、そして、読み終えた時点でさっさと処分してしまうわけですから、つまり、なんのために傍線を引いているのか、自分でもその不可解な行為にはじめて気が付き、遅まきながら疑問を抱いたというわけです。

そのことに思い当たったのは(随分と間抜けな話ですが)、処分し忘れていた一冊の本との再会が契機でした。

それは、松本俊夫が書いた「映像の発見 アヴァンギャルドとドキュメンタリー」です。

奥付には、1972年の9刷版とありますから、「あれから」気の遠くなるような時間が経過してしまったんだなあという思いにしばしとらわれ、暫らくボンヤリしてしまいました。

ページを繰っていくにしたがった、もうそこら中に引きまくっている傍線のむこう側に、せっせと本に書き込みをしている若い自分がみえます。

古い日記を読み返すのとは、また別の懐かしさというか、感慨みたいなものがありました。

傍線を引いたなかから、一部分を抜書きしてみたくなりました。

「ドラマの無いドラマ」から、ゴダールの「勝手にしやがれ」に言及した部分、パトリシアに裏切られ、ミシェルが射殺される場面です。

《ミシェルが死ぬ間際に「俺は最低だ」とつぶやくのを耳にして、パトリシアは警官に「何を言ったのか」と質問をする。
すると警官は「お前は、最低だと言ったのさ」とパトリシアに答えるが、これなどはフランス人のアメリカ嫌いを、かなり痛烈に表現していて面白い。
しかし、だからといって、このドラマの主題はそこにはない。
主題は明らかに主人公のミシェルを通して、孤独で絶望的な現代フランスの青年像を描き出すことにあったのであり、その意識の内側を掘り起こすことによって、置かれた状況の歪みをそこに浮き彫りにすることにあったのである。》

なぜ、このいささか長い文章を抜書きしたかというと、「ここに書かれていること」よりも、多分「ここに書かれていること」に共鳴した「かつての自分」に興味があったからだと思います。

「俺は最低だ」という言葉を「お前は最低だ」と伝えられる歪められた伝聞によって引き裂かれる恋人たちのドラマに、当時の僕はたまらない魅力を感じたのかもしれません。

あるいは、「俺は最低だ」と呟きながら孤独のうちに死んでいく(いま死ぬことだけで精一杯の)男に対して、そんなときでさえも、男というものは、絶対自分に関心を持ち続けているものだと信じる身勝手な女たちの煌めくような傲慢のファンタジーに心引かれたのかもしれません。

「ミシェルは、最期まで私のことを思いながら死んでいくのね、可哀想に」と。
by sentence2307 | 2007-05-22 23:27 | ジャン・リュック・ゴダール | Comments(4)

アルファヴィル

「さっきから聞こうと思ってたんですが」とマリは言う。「どうしてホテルの名前が『アルファヴィル』っていうんですか?」

「さあ、どうしてかなあ。たぶんうちの社長がつけたんだろう。ラブホの名前なんて、どれもいい加減なものだよ。結局は男と女がアレをやりにくるところだからさ、ベッドと風呂がありゃオーケー、名前なんて誰も気にしない。それ風のものがひとつついてりゃいいんだ。なんでそんなことを聞くわけ?」

「『アルファヴィル』って私のいちばん好きな映画のひとつだから。ジャン・リュック・ゴダールの」

「それ、聞いたことないな」

「ずいぶん昔のフランス映画です。1960年代の」

「じゃあ、そこからとったのかもしれないね。今度社長に会ったら聞いてみるよ。で、どういう意味なんだい、アルファヴィルって?」

「近未来の架空の都市の名前です」とマリは言う。「銀河系のどこかにある都市」

「じゃあ、SF映画なわけ?『スターウォーズ』みたいな?」

「いや、そういうんじゃないんです。特撮とかアクションとかはなくて・・・、うまく説明できないけど、観念的な映画です。白黒映画で、台詞が多くて、アートシアターでやっているようなやつ」

「観念的っていうと?」

「たとえば、アルファヴィルでは涙を流して泣いた人は逮捕されて、公開処刑されるんです」

「なんで?」

「アルファヴィルでは、人は深い感情というものをもってはいけないから。だからそこには情愛みたいなものはありません。矛盾もアイロニーもありません。ものごとはみんな数式を使って集中的に処理されちゃうんです」

カオルは肩を寄せる。「アイロニーって?」

「人が自らを、また自らに属するものを客観視して、あるいは逆の方向から眺めて、そこにおかしみを見出すこと」

カオルはマリの説明について少し考える。「そう言われてもよくわかんねーけど、でもさ、そのアルファヴィルには、セックスは存在するわけ?」

「セックスはあります」

「情愛とアイロニーを必要としないセックス」

「そう」

カオルはおかしそうに笑う。「それって考えてみれば、ラブホの名前にはけっこうあっているかもな」

村上春樹「アフターダーク」より抜粋
by sentence2307 | 2006-11-03 08:28 | ジャン・リュック・ゴダール | Comments(1)