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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:ラース・フォン・トリアー( 2 )

奇跡の海

「ほんとうのジャクリーヌ・デュプレ」を見たときのエミリー・ワトソンの衝撃的な演技は、いまでも忘れられません。

きっと、彼女がその演技で示した、深い孤独感に囚われた女性がその苦痛を紛らわすため、泥沼のような情欲にのめり込んでいくという女の「けもの」のような生臭い痛ましい描写があまりにもリアルすぎて、異性として見ているだけでも耐えられないと感じたからだと思います。

ジャクリーヌの破滅的な自傷行為が、エミリー・ワトソンの不気味な薄ら笑いの凄みある自暴自棄の演技と重なって、男として夢のような憧れのままでいてほしいと願う僕の清浄な女性像が、眼前に示されたいぎたない欲望を剥き出しにした薄汚い女性像への生理的な嫌悪と本能的な恐れから、あの作品を正当に評価し得たかどうか自信がありません。

そこでは、男として見たくない女の本性が赤裸々に演じられていたからだと思います。

すべての愛を捧げ、そして捧げた分だけの愛を相手に求めようとするとき、過剰な愛に生き急いだジャクリーヌ・デュプレのようなその思いの激しさによって、この世では壊れてしまう男と女の関係が実にたくさんあるのだと、僕たちに教えてくれたのだと思います。

それは逆に言えば、円満に持続できる愛の生活=結婚というものが、お互いを求め極めることを諦めた妥協の聖域を持つことで始めて成り立つ関係でもあるということを意味しているのかもしれません。

このラース・フォン・トリアー監督の「奇跡の海」という作品は、まさにその「聖域」を欠いた嘘のない結婚生活の中で、過剰すぎる愛によって破綻していく夫婦の物語と言えると思います。

この不可解な物語のすべての始まりは、そもそも、事故により性的な機能を含めた全身の麻痺によって体の自由を失った夫が、妻に他の男と性交することを勧め、そこでの情事をつぶさに自分に報告してほしいと求める部分にあります。

この夫の願いは、性的に満足させてあげられない妻を思いやる気持ちに支えらており、しかも夫のその異常な申し出を妻が従順に受け入れるという更に納得しがたいような常識では計り知れない異常で奇妙な夫婦関係にあります。

ただ、物語のはじめに妻ベスは、夫を心から愛する信仰心の厚い献身的な妻として描かれていますから、夫ヤンが、妻を性的に満足させてあげられないからといって、あえて、そのことで欲求不満の肉体をもてあますというタイプの情欲に支配されてしまうような女性とはどうしても思えません。

むしろ、夫が、妻を抱けないということを負い目に思い、彼女を気遣う気持ちから、他の男と「寝る」ことを彼女に勧めたのだとしたら、どうして、それをわざわざ報告させる必要があったのか、ちょっと理解できません。

夫にとって、妻の情事や、その悦楽の中にある彼女の状態を「知る」ことが、彼にとって、生きる上でのどういう支えになるのか、普通に考えれば妻の情事など最も知りたくないことだと考えるのが普通だと思うのですが。

妻を満足させられない自分を、それらの「いまわしい事実」をあえて知ることで自身を罰しようとしたのでしょうか。

しかし事故に遭遇したのは、彼の責任ではありませんから、常識的に考えれば、「罰する」必要はどこにもありません。

ラストの「奇跡」どころか、物語の始めのこんなところで躓いているようでは、この深遠な内容のトリアー作品をどこまで理解できるかとても不安です。

そして、不安ついでに、日本人なら、この設定から、どう物語を発展させていくか考えてみました。

日本人の心情からすると、これだけ条件が整えば、これはもう性的不能に基づく「のぞき」や「女体観察」の官能の世界にのめり込むしかないかもしれません。

日本の映画の傾向の中で捉えるなら、妻の情事を知りたいという夫ヤンの願いは、単なる「変態趣味」で十分に説明のつく設定です。

仮に妻ベスの「神への忠誠」や「信仰心の厚さ」、ラストで展開される「祝福の鐘の奇跡」を無視し、この強引過ぎる物語を読み解こうとすれば、上述したような異常さばかりが目に付く不可解な物語展開と言えてしまうのです。

少なくとも日本では、多くの人が表明した、あの唐突に描かれたラストの「奇跡」によって「白けて引いた」という冷淡な感想に、それは端的に表明されていると思います。

僕なりに自分の混乱した頭を整理してみると、この映画についての僕の疑問は、結構単純なものなのだなと思えてきました。

信仰厚い妻が、夫に献身的に尽くすその延長線上に淫乱な娼婦の振る舞いがあって、そのために村の教会から追放されることとなり、死してのちに祝福の鐘が響くという奇跡が示されるこの作品の、ひっかかったのは「娼婦」の行いと「奇跡」の2点です。

村の男たちの誰彼構わず寝たのは夫がそう望んだからですが、その夫の言動の背後に、ベスを最愛の夫と娶せた神の意志を更に彼女が聞いたからだと見るべきなのかもしれません。

妻ベスは冒頭、神と対話のできる女として描かれています。

常軌を逸したと見えるほどの彼女の従順は、それが彼女にとっての神の「みためし」に応えるものだったからと見たならどうでしょうか。

彼女の従順も、そして淫らにまで至るあらゆる意味での献身も、彼女のそのすべての行いが神の意志の下に行われたものなら、彼女を追放した教会や卑俗な村人たちに対する神の怒りの表れとして「奇跡」が行われたと解釈できないでしょうか。

この「奇跡」によって示されているものは、信仰なき者たちへの怒りと、最も卑しい者たち、最も穢れた者たちに向けられた神の愛です。

しかし、現代という時代に、なぜこのような「奇跡」などを描いた映画が撮られたのでしょうか。

それは、すぐに思い至りました。

カール・テオドール・ドライヤーが死者のよみがえりの奇跡を描いた1955年作品「奇跡」の影が、明らかにちらついています。

ラース・フォン・トリアーは、ドライヤー以来のデンマーク映画界の最高の才能と言われている逸材ですから、「奇跡の海」は、おそらくあの作品を極めて強く意識して作られた作品だろうと思います。

ドライヤー作品の「奇跡」が、不信心な者(長男のミッケル)への戒めが強く打ち出されていた作品だとすると、トリアーのこの作品「奇跡の海」は、そのラストに顕著なように、祝福の鐘の音をまるで不吉なものでも聞くかのように顔を歪める人々の畏怖の表情が極めて印象的な作品でした。

神の「み示し」にただ恐れおののくばかりの人々は、些かも歓喜の兆しが窺えない戸惑いを露わにしたまま、神から見放されてしまったような放心と恐れとを描いたあのラストシーンを僕たちはどう解釈すればいいのか、いまは、ただ暗澹たる気持ちでいます。
by sentence2307 | 2006-05-27 14:29 | ラース・フォン・トリアー | Comments(1)

ドッグヴィル

自分より弱い相手と見ると、その弱さにどこまでも付け込み、徹底的に苛め抜くというのが、この人間社会の遣り切れないルールなのかもしれません。

そして、そこで苛めに甘んじていた人間もまた、自分より更に弱い人間を嗅ぎ付けて、まるでウサ晴らしのように苛める側に回るとい陰惨な階層構造は、苛める相手を見出せない「最後尾」に列する逃げ場のない子供たちの悲痛な自殺を伝える小さな記事の中に凝縮しています。

それは、この国では、なにも珍しいことでもなんでもありません。

この無限に続く陰惨な連鎖は、貧しく卑弱な者たちのなかにも、さらに支配する者・される者という支配構造が生じて、幾重にも階層が生み出されるというこの社会の深刻な差別構造と、どこかで繋がっているのですが、この作品「ドッグヴィル」には、それを敷衍したかたちで、弱き者が弱き者を、お為ごかしを装って付け込むことの卑しさと傲慢に対して、限りない憤りを示唆した映画であり、それこそは、断罪に値する卑怯卑劣なものである、というトリアーの怒りに満たされた作品です。

風景描写の拘束から解き放たれた剥き出しの「人間」そのものの、殊更な心の闇が暴き出されるラース・フォン・トリアーのこの衝撃作を見ていると、人間であり続ける限り、誰もが捌け口の必要な欲望と欲情を抱え持っている絶望的な存在であることに、つくづく思い知らされます。

もし、下半身の欲望を処理してくれる自分専用の「家畜」(なんだか昔、高名な裁判官が匿名で執筆し、三島由紀夫が絶賛したという、そんな小説がありましたよね。)を所有することができれば、たぶん自己矛盾なしに、日常生活の上澄みの部分だけで、世間に向かって、より美しい仮面的な生き方や、あるいは高潔な言葉を堂々と顕示することさえ、あるいは不可能ではないかもしれないなと、そんな思いにさせられた映画でした。

きっと、あの古代ギリシャの都市国家において驚くべき平等社会を実現せしめた理想的な「民主主義」の根底には、実は厳密な意味での「奴隷制度」の支えがあったように、あえて善人面を世間に向けようとすれば、その反面には、荒ぶる邪悪な意思を鎮めるための「捌け口」がどうしても必要になってくるのは、至極当然のことなのかもしれません。

トリアーが描こうとした怒りは、まさにこの偽善の仮面の影にあるけち臭い「欲望」に対してだろうと思います。

ある独身の友人が、雑談の流れで、こんなことを話していました。

「その『欲望処理』というやつ、既婚者なら、配偶者との性的関係で満たされるのではないか」と。

彼には大変申し訳ないと想いながら、独身の彼が考えている「結婚」というものに抱いている「薔薇色の幸せ」という妄想(それは当然、性的な関係も含みます)を壊したくはなかったのですが、「キミ、結婚なんてね、そんなものじゃないよ」(どことなく成瀬作品のセリフ回しみたいになってしまいます)と言わずにはおられませんでした。

結婚こそは、社会に向けられた「制度」そのものです。

独身者が「孤独な自由」の「孤独」に耐えられず、淋しさと交換しようとしている「薔薇色の幸せ」は、あの「自由」が本当の意味での自由でも何でもなかったように、制度による男女の結合に守られた、そして性的結合を為す行為のすべては、きっと、どこまでいっても単なる肉体の物理的な結合・あるいは退屈な摩擦運動、もしくはそれぞれ孤立した・孤独なマスターベージョンにすぎず、そこに心の繋がりを求めても、得られるものは結局、更なる深刻な孤独だけのような気がします。

それはきっと結婚という制度に守られたSEXが、どこまでいっても管理された社会の「おつきあい」の域を出るものでないことによる当然の帰結かもしれません。

実は、制度としての「結婚」も、そして「集落=ドッグヴィル」における共同意識も、この憧憬と失望との間に生ずる小さな落差によって形作られていたような気がしてなりません。

この小さな落差を少しずつ埋めながら自己同一性を実現しようとする行為(それを表わす最も相応しい言葉は、おそらく「自己欺瞞」です)が、グレースに課せられた「どうでもいい仕事」だったのだろうと思います。

その「どうでもいい仕事」というものが、村人たちの「性」にまつわる切実なものだっただけに、親愛と、そして逆に、憎悪をも抱かせたのでしょうか。

しかし、ただ単にそれだけのことを主張する作品なら、きっとそこらにざらにあるポルノ映画の妄想的な発想と、それほどの隔たりがあるとも思えません。

僕たちを打ちのめしたのは、やはりラストで炸裂する怒りの在り方です。

グレースに向けられた村民たちの「要求」の描き方は、ずうずうしくはあっても、どこかおずおずとした怯えが描きこまれています。

それは、村民たちが自らの「自己欺瞞」を自覚していることを証し立てているのだと思いました。

その「自覚」がクレースには、許せなかったのだと思います。

もしこれが、ラース・フォン・トリアーの見た「アメリカ」の姿なのだとしたら、アメリカの庇護のもとで経済大国にのし上がった日本にも一脈通じるものが、あるのかもしれませんね。

弱者を助けようとする「倫理観」に、尊大さが加わり、やがて欲望のはけ口の対象になっていく。

欲望を果たすために利用され、弱者への救済は言葉ばかりのものとなり、「倫理」は、お為ごかしのただの言い訳に変わり、そのことを決して認めようとしない彼らの自己欺瞞の正当化の道具に成り下がる。

トリアーの作品が象徴的なだけに、とりとめのない妄想的な言葉が次々と湧き出てはくるのですが、結局纏め上げることはできませんでした。

実はこの映画、初めて見たインターネット配信の映画でした。集中して見られなかった理由が、そのあたりにあるとは思いませんが、とにかくこんな大作をロハで見られるなんて驚きですよね。
by sentence2307 | 2006-05-17 00:29 | ラース・フォン・トリアー | Comments(7)