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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:ルイス・ブニュエル( 3 )

この猛暑のなか、格別な用事でもなければ、炎天下にわざわざ外出するなど、思っただけでもウンザリなので、結局、冷房をギンギンにきかせた部屋で寝転がりながら、終日、新作・旧作の映画を手当たり次第見ている毎日です。

しかし、いざ映画を見るとなると、どうしても録画したストックのなかから古いものを見なければという気持ちが強く、結構な旧作を見ることが多いのですが、昨日もそんな感じで、増村保造の「巨人と玩具」1958と「最高殊勲夫人」1959、そして吉田喜重の「告白的女優論」1971を立て続けに見ました。

録画データによれば、この3作品、かなり以前に(残念ながら正確な日付は記されていません)「日本映画専門チャンネル」で放映時期が一緒だったみたいで、ともに追いたてられるような逼迫した時代の雰囲気みたいなものがシビアに感じられる秀作だと思います。

増村保造の2つの作品は、日本経済が加速度的な高度成長をとげていくなかで、その過酷な渦に否応なく巻き込まれて翻弄されるサラリーマンの焦燥と破滅への無残な活力と、そして絶望とを人間喜劇としてヒステリックに描いた秀作です(まさに60年安保直前の不安と動揺感が伺えます)し、一方の吉田喜重の「告白的女優論」の全編に漂う過度の内向き姿勢は、あの経済の狂奔と破綻、政治の季節の終焉の底深い絶望のなかで、結局なにひとつ得ることのなかった日本人の静かに内向した絶望が描かれた魅力的な作品だといえるかもしれません(あの浅丘ルリ子までが全裸になって性交画面を撮らせるなど、ある「時代」が終わり、その絶望感が過度に「性」へと振り切れた時代の片方の歯止めのきかない異常さも顕著に描かれていました)が、しかし、そういうことをすべて認識しながらこれら諸作品をいざ見るとなると、そこに描かれた状況が「いま」ではないというズレの決定的な理由によって、観客たちに見る集中力を止切らせてしまうということは、どうしても否めない事実だと思います。

なかでも出だしから結末が見えてしまう「最高殊勲夫人」では、それが特に顕著で、若尾文子が、自分の置かれた恵まれすぎるシチュエーション(姉たちが秘書から玉の輿を得るという道筋)に反発して決意した最初の「約束」に反して、徐々に川口浩に惹かれていくという定番の展開も、しかし、集中力を欠いてしまった不運な目の端で、すぐ脇の金魚の水槽の汚れの方がどうしても気に掛かり、結局映画鑑賞を中止して、水槽洗いを思い立つという実に情けない仕儀になってしまいました。

しかし、この不謹慎な「水槽洗い」にも、一定の収穫はありました。

水の滴りを受けるため、水槽の下に敷いていた日経新聞(2015.2.15朝刊。つまりこの日以後水槽を洗っていなかったのかも)に魅力的な記事を見つけたのです。

水槽洗いなどそっちのけで、記事を読みふけってしまいました。

最終の文化面に掲載されている「芸術と科学のあいだ」という小さなコラム(生物学者・福岡伸一筆)です、題して「ダリにもまた科学者の心」。

本文で、「科学者にとって、ときにアートの心が必要であるように、芸術家にもサイエンスの解像度が求められることがある」と書き出され、サルバドール・ダリのフェルメールへのオマージュ作品「フェルメールの〈レースを編む女〉に関する偏執狂的=批判的習作」(つまりデフォルメということだと思います)を掲げながら、「よほどフェルメールのことが好きだったのだろう、繰り返し自作のなかにフェルメールの〈レースを編む女〉を引用している。シュルレアリズム、ある意味でSF的世界を精密に描き続けたダリも科学者の心を持った芸術家といえるのではないか。」と結論づけられている小文なのですが、問題の箇所は、ダリのフェルメールへのオマージュを導き出すために挿入されたエピソードにあります。

ちょっと長い引用になりますが、筆写してみますね。

「そういえば、スペイン出身の映画監督ルイス・ブニュエルは、若い一時期、解剖学者ラモニ・カハールの研究室で学んだ経験があると聞いた。
カハールは顕微鏡であらゆる細胞を探求し、今日の神経化学の基礎となるニューロン説を唱え、ノーベル賞を受賞している。
ブニュエルの映画の中で、眼球にカミソリを入れる衝撃的なシーンがあるが、彼は研究室で来る日も来る日も細胞を削ぎきりする作業を命ぜられていたのかもしれない。
そう思って「アンダルシアの犬」1928をもう一度眺めていたら奇妙なシーンに気がついた。
本のページが風でめくれ一瞬だけ絵が見える。
それはフェルメールの「レースを編む女」なのだ。
ここにはどんな意味が込められているのだろう。
思えば、フェルメールほど科学的なマインドで絵を描いた画家もいなかった。
三次元空間をありのまま二次元のキャンバスに写し取りたい。最先端技術を使って。
これは科学的探究心以外の何ものでもない。彼は焦点深度のずれやレンズ視野周囲のにじみまで正確に描きとめた。」


ブニュエルが「アンダルシアの犬」のなかにフェルメールの「レースを編む女」を密かに描き込だという目新しいエピソードの引用でこの文を感動的に閉じてもいいのですが、実は、自分が興味を引かれたのは「ブニュエルとフェルメール」のエピソードというより、「引用する」という行為そのものの方にあったことを書いておかねばなりません、もう少し書いてみます。

この同じ文化面には、もうひとつ富士川義之の「詩話について」というエッセーが掲載されています。

実は、こちらの方が紙面の半分を領する大きな記事で、その日の文化面のメイン記事なのですが、筆者は文学形式としての「詩話」を現代に蘇生させるために、こんなふうに解説しています。

そもそも「詩話」とは、江戸時代の文人たちが愛好したジャンルで、「著名な先人の名詩や人柄や生活などに関する故事逸話が、古書の渉猟を通じてまとめられ、語りなおされたもの。
江戸時代の代表的な知識人である儒者たちは文化の継承に不可欠なものとしての知識の伝承行為を重視し、それを主として逸話や逸事の蒐集を通じて行っていた」のだそうで、「日本随筆大成」全71巻という書物も刊行されており、そのなかに多数の「詩話」が収められているのだそうです。
つまり江戸期の文人墨客のエピソードを集めたものということでしょうか。

そして、この「詩話について」を読んだあと、同じ紙面のコラム「ダリにもまた科学者の心」を読み、「ブニュエルとフェルメール」のエピソードに遭遇したのですが、アタマのなかには、まだ「詩話について」の読後のイメージがあって、「ブニュエルとフェルメール」のエピソードが、その江戸期の文人墨客のエピソードを集めた「詩話」と共通するものがあるような気がして興味をそそられ、「詩話」の映画編みたいなものがあったら面白いなという気持ちで、この文章を書いた次第です。
by sentence2307 | 2015-08-04 08:27 | ルイス・ブニュエル | Comments(1)

昼顔

朝の通勤電車で、乗換駅に着くまでの三十分のあいだ「日本経済新聞」を読むのが、いつもの習慣です。

しかし、このところ不景気な記事ばかりなので、経済記事をひととおり読むというのもなかなかの苦痛なのです。

これが、ひとむかし前みたいに新聞の隅々まで景気のいい記事で満たされていたのなら、赤鉛筆でも片手に、あっちの記事をマルで囲んだり、こっちの数字に二重線をグリグリ引いたりして、株で大儲けなんていう妄想に、朝のひととき恍惚のなかに浸れるというものなのでしょうが、昨今の切羽詰った日本では、そんな悠長なことをいっていられるような状況ではありません。

むかしなら国を閉ざして内輪だけの需給で十分盛り上がっていられたのに、保護と規制で守られていたから「お山の大将」だったのにも気づかず、自分のチカラを過信し、国際競争力もないくせにグローバル化などと世迷言をほざいて、世界に打って出るなんて大風呂敷もいいところです、いったいどこの誰なんでしょうかねえ、こんな無謀なことを言い出したのは。

極東の島国に暮らす人々には、値段が少しくらい高くても、安心できるしっかりした物を買って(これは、安かろう悪かろうで懲りたので、また「国産」に戻ってきた感じです)、めぐりめぐっていいお給料も貰えたという循環のなかで平和に暮らしていたわけですから。

そんなわけで新聞を読むというのも、なんとも気の重い遣り切れない作業になってしまっています。

うんざりしながら紙面を眺めていたそんなとき、目の端で一瞬「昼顔」という文字を捉えたような気がしました。

条件反射的にゾクっと震えがきて、もしそれがあのブニュエルの「昼顔」なら、捨ててはおけません。

「なんだ・なんだ・なんだ」という感じでした。

紙面の第一面の下一段抜きで「春秋」という欄があって、そこに、やはり紛れもないブニュエルの「昼顔」のことが書かれているのを発見しました。

きっと、これが、別のタイトルの映画だったら(たとえ映画のことが書いてあったとしても)、こんな過剰反応はおこさなかったと思います。

夫だけでは性的に満足できない主婦が、性の飢えを満たすために、昼だけこっそり娼婦を装って、売春宿に「女」を買いに来る飢えた男たちの性の相手をし、次第に快楽に目覚めていくという、SMの雰囲気もただよう物凄い作品です。

朝の通勤電車のまばゆい陽光のなかでは、ちょっとどうかなと思う周囲をはばかる物語かもしれません。

しかし、よく読んでみるとその記事の内容は、つい先日亡くなったイブ・サンローランの追悼でした。

あの作品「昼顔」でカトリーヌ・ドヌーブが着た衣装の数々が、若き無名の頃のイブ・サンローランのデザインだったという紹介です。

なあんだ、それだけのことを言いたいために、わざわざ「昼顔」を持ち出したのですか、人騒がせにもほどがある、という感じです。

もっとほかに何か適当な作品がなかったんでしょうかねえ、もっとオシャレで穏やかなファッション雑誌のような映画が。

カトリーヌ・ドヌーブほどの大女優ともなれば、ちょっと探せばイブ・サンローランのデザインの衣装くらい、いやというほど着込んだ映画なんか掃いて捨てるほどあるような気がするのですが。

しかしまあ、久しぶりにブニュエル作品のことを思い浮かべられたことで、体内に熱い血が駆け巡り、朝の倦怠に沈み込んでいたダレ気味の気分が、一挙に活性化しました。

「昼顔」のなかで、僕の大好きな、とても印象的なシーンがあります。

売春宿に娼婦を買いに来た客が、自分を「邪険」にするスベを知らない素人のドヌーブを追い払い(きっと、その被虐趣味の客は、快楽への手続を知らないドヌーブではどうにもならないと遠ざけ)、「いつもの娼婦」に急遽変えさせるという場面です。

相手をした娼婦の言う「こうしてあげると、あの客はとても歓ぶのよ」という言葉によって、そのテの趣味が、暗黙の了解によって儀式と契約のうえに成り立つ秘儀であることを、そのとき初めて知りました。

手加減を加えた加虐と、ことさらに取り乱してみせる演技過剰のリアクションを相手に見せ付ける被虐とが、互いに性欲を亢進させるためだけの他愛ない、あるいはワザとらしい寸劇にすぎないことを知ったのでした。

なんかピンク映画の題名みたいですが、「閨房の秘戯」とでもいえばいいのでしょうか。

いまはその辺の普通の女子高生でも、コンビニの前なんかに座り込んで、平気で私はSだとかMだとか、堂々と大声でお喋りしている時代です。

性や性戯が、じめじめとした隠花植物のような不健全なものであるより、コンビニの前で大声で話せてしまうという「そっち」の方が、余程健全でいいという人もいるかもしれませんが、いまや陽のあたる場所に引き摺りだされ、まさに市民権をさえ得かねない勢いの「陰湿な性のジメジメ」は、しかし、極私的であるがゆえに、あらゆる芸術にとって、とても大切な原動力でもあったと思うのですが・・・。
(1966)製作・アンリ・バオム、ロベルト&レイモン・アキム、監督脚本・ルイス・ブニュエル、脚本・ジャン=クロード・カリエール、原作・ジョセフ・ケッセル、撮影・サッシャ・ヴィエルニ、美術・ロベール・クラベル、編集・ルイゼット・オートクール、
出演・カトリーヌ・ドヌーブ、ジャン・ソレル、ミシェル・ピコリ、ジュネヴィエーヴ・バージュ、フランシスコ・ラバル、ピエール・クレマンティ、マーシャ・メリル
by sentence2307 | 2008-06-05 21:37 | ルイス・ブニュエル | Comments(1)

エル

ルイス・ブニュエルのメキシコ時代の作品を、すべて否定する評論を読みました。

単なるプログラムピクチャーとして生活の糧を得るために、決められた作品をただ単に消化したにすぎないという趣旨なのですが、しかし、幾らかの作品(スサーナ,昇天峠、乱暴者、エル、嵐が丘、犯罪の試み等)を実際に見て、その完成度の高さと素晴らしさに驚きました。

また当時のメキシコにこんなにも名優がそろっていたのかと意外でした。

前記の評価は、シュールレアリスト・ブニュエルを愛し神聖化するが故の贔屓の引き倒しにしかならない不毛な固定観念にすぎないと思ったのです。

この作品は、美しい妻と結婚したために嫉妬に狂う男の話なのですが、その強迫観念が、決して特殊な狂気として片付けられない「愛すること」と「愛しすぎないこと」との境をどうやって判断すればいいのか、という後年の作品「昼顔」に通ずるものを感じました。

メキシコで撮られた作品を見ていくと、メキシコの俳優たちの過剰ともいえる熱い演技を得て、ブニュエルは、「節度ある愛などというものが、果たして有り得るのか」といっているように思いました。

愛することをラディカルに突き詰めてゆくブニュエルの描く世界では、もはや理性によって愛するという行為を節度あるものとして押し留めることの不可能がメキシコ時代の作品には見られると思います。

なんとも不可解な「嵐が丘」という物語も、ブニュエルの解釈によって、やっと理解することができたのでした。

僕は、むしろこの時代のブニュエルを否定したら、彼の力量の重要な部分を見逃すことになると考えています。

残念ながら、まだ未見の「忘れられた人々」をいつの日にか見ることができる日がくるのを楽しみにしているこの頃です。 
by sentence2307 | 2006-05-27 14:28 | ルイス・ブニュエル | Comments(0)