人気ブログランキング |

世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

カテゴリ:ケン・ローチ( 2 )

カルラの歌

物語は、無賃乗車をした外国人カルラを、グラスゴーのバス運転手ジョージが見逃してあげるところから始まります。

無賃乗車を見逃したという職務的な怠慢が直接のきっかけとなって、彼の勤務状態を常に監視している会社側との対立が一挙に表面化し、彼は職を失うこととなりました。

それは、自分の首を賭けてまでも彼女カルラのことをかばったことから、結果的に、ジョージがカルラと結ばれ、やがて、彼女とともに、ニカラグアへの危険な旅に出発することになりますが、僕には、この物語の進め方のなにもかもが、不自然に思えて仕方ありませんでした。

ケン・ローチ監督の描く男と女の関係のとらえ方に、拭いがたい違和感をどうしても感じてしまうのです。

この作品のファースト・シーンからのことごとくが、ケン・ローチという監督の資質、つまり、弱者の窮状を見過ごしに出来ない正義感とか、同じテンションで高揚する強権への怒り、などを根底にした映画作りの姿勢というものがよく理解できる分だけ、疑問を感じてしまいました。

そうした図式的な感情のあり方が、どう恋愛に関係するのか、さっぱり理解できないのです。

ジョージは、愛するカルラの「すべて」のことを知りたいという気持ちから、彼女の恋人の安否を確かめるために、命の危険を冒してまで政情不安なニカラグアへ、カルラとともに旅立ちました。

ジョージは、最初「どことなく暗く沈んだ淋しげなカルラ」のことが気になり、強い関心を抱きます。

彼女の「暗く淋しげでいることの理由」を知りたい、そして、なんとかしてあげたいと切望するジョージの感情は、正義感や誠実さに基づくものなのでしょうが、そうした感情が、恋愛に必須な感情といえるかといえば、それは、ほとんど疑問です。

現実では、往々にして正義に反し、誠実さに欠ける恋愛など掃いて捨てる程ありますし、「知る」ことと恋愛感情とは、最初からなんの関係もありません。

ジョージは、このニカラグアが自分のいる場所でないことを知り、カルラのすべてを理解できないことを知り、「なにも分からなかった」とジョージは、ひとりイギリスに帰りますが、しかし、「分かろうとする」次元には、恋愛など成り立つわけがないことの理解が、この映画には決定的に欠けているように思えました。

ケン・ローチに関してよく言われる「感傷的でなく、また安易なハッピーエンドの気休めと救済を拒絶する」姿勢と、人を愛するということの表現の突き詰めていく姿勢とは、本質的にまったく異なるものであると言わざるを得ません。

(96英国)監督 ケン・ローチ、製作 サリー・ヒビン、脚本 ポール・ラヴァティ、撮影 バリー・アクロイド、音楽 ジョージ・フェントン、美術 マーティン・ジョンソン、編集 ジョナサン・モリス、衣装(デザイン) ダフネ・ダール、 レナ・モッサム
出演ロバート・カーライル、オヤンカ・カベザス、スコット・グレン、サルヴェイダー・エスピノーザ、ルイス・グッダール、リチャード・ローザ、ゲイリー・ルイス、パメラ・ターナー
by sentence2307 | 2007-04-28 22:44 | ケン・ローチ | Comments(1)
もし、この世にケン・ローチ作品のような強い信念に貫かれた真面目すぎる映画しか存在していなかったとしたら、とても息苦しくって堪らない気持ちになってしまうかもしれませんね。

しかし、逆にケン・ローチのような社会を真摯に見つめるような映画が、もしこの世に全く存在してなかったら、僕は、とっくの昔に映画なんか観ることを辞めてしまっていたと思います。

そしてこの映画、労働者の日常を熾烈に描いた作品とは言っても、その手の映画によくある薄気味悪いくらいニヤついて、やたら品行方正な、意志強固で健康な「労働者」が描かれているわけでもないし、見ている方が気恥ずかしくなるような左がかった宣伝臭などもない、ただ社会にうまく適用できない無骨な男の、悲しいまでに実直な実にまともな映画です。

むしろそういう意味でなら、極めて厳しい視点で「失格した労働者」を描いている苦渋に満ちた作品というべきかもしれません。

孤高の映像作家の名に相応しい気品さえ感じられると言ってもいいでしょう。

僕がこの作品を見て強く引かれたのは、失業者ジョーと健康管理センターの巡回保健婦セーラの、決して幸福そうには見えない男と女のたどたどしい触れ合いと、ささやかな幸せの前で物怖じする痛ましい姿でした。

もう決して若くはない中年の男と女が出会い、それぞれがそれなりの過去に深く傷ついていて、これ以上傷つくくらいなら、もはや人生の伴侶を無理して求めようとはしない諦めの中で、残された人生を自立して静かにひとりで生きることを選んだ男と、そして女です。

他人と関わることに、とても不器用で、それでも無理して相手に折り合おうとした結果、逆に深く傷ついてしまった繊細すぎる彼らは、もはや人を求めることにとても臆病になっています。

期待や希望を持ちさえしなければ、失望や絶望に見舞われることもないと気がついた自立したオトナの男と、そして女です。

ひとりで生きていこうと決意した彼らにとっての「自立」とは、寂しさや衝動的な性欲の「かつえ」などから距離をとって他人を求めることに無感心でいられる振りのできる生活を確立することでもありました。

しかし、これは理性というにはちょっと違う、むしろもっと自虐的で自罰的なもののような気がします。

この健康管理センターの巡回保健婦セーラを見たとき、僕はいままで映画の中で出会ってきた幾人かの女性像を連想しました。

自分の容貌に自信がなく、こんなにも醜い自分が誰からも愛される訳がないと固く信じて心を閉ざし、男から差し伸べられる数少ない誘いの手にも戸惑いながら悲しそうな曖昧な微笑でやり過ごし、傷つくより先にいち早く自分の殻の中に閉じこもってしまおうとする臆病な少女たち、例えばミア・ファローとかシシー・スペイセクが演じた幾つかの役どころとか、「ロッキー」のエイドリアンや、「フィッシャー・キング」のリディアなどが思い浮かびました。

しかし、実は、それよりもさらに映画史に燦然と残る名作が思い浮かんだのでした。

1955年のアカデミー作品賞を受賞したデルバート・マン監督の「マーティ」です。

友人が苛立たしげに言いました。

「なんだ、こいつら。現実の苦しさに耐えられなくなると安易にドラッグに逃げ、ヤクを買う金がなければヤクザから金を借り、返済できなくなって女房の体で返済しろと脅されると、助けてくれと失業保険で暮らしているジョーに泣きつく。ジョーも、自分の最愛の人セーラを失う危険をおかしてまで体を張って彼らを守ろうとする。」

愚かだ、とまでは言いませんでしたが、友人が言った「なんだ、こいつら。」は、そういうニュアンスが込められていたのだと思います。

つまり、一言でいえば、自分を大切にしない人間の弱さを目の当たりにすると、僕たちはたまらなく苛立たってしまうのは、あるいは仕方のないことかもしれません。

おまけに、なんで愚かな他人のために自分から進んで危ない目に身を晒よような愚かなお節介をしなければならないのか、という思いは、確実に僕たちの神経を逆撫でし、たまらなく腹立たせてしまいます。

しかし逆に、だからこれがケン・ローチの映画の魅力だといってしまったら、実もフタもないでしょうか。

きっと、ケン・ローチ作品がもつ独特の映画の流れに逆らわず、そのまま身を任せるようにして作品を受け入れてしまえば、硬派な内容の中に意外と素朴な主張、例えば「仲間を決して見捨てない」とか「頼って来る者の信頼は決して裏切らない」とか、結構シンプルなものが核になっているのかもしれませんね。

ケン・ローチの描く虚飾のない人間像が、その「弱さ」において極めて辛辣かつリアルに描かれていながら、なお、気品さえ感じてしまうのは、そうした思いの高さにあるからでしょう。

スコットランド・グラスゴーの貧民地区に住む37歳の失業者ジョー(ピーター・ミュラン)は、アルコール依存症からようやく立ち直りかけています。

映画は、ジョーが「My Name is・・・」と皆の前で自分の過去を告解する断酒会のシーンから始まりますが、そこでは酒のために彼が大切な人を傷つけた罪悪感のために酒を断とうとしているらしいことや、そのように酒に溺れ込まなければ、どうにも耐えられなかった彼の弱さも同時に仄めかされています。

しかし現実に押し潰され掛けながら、アルコールに依存することによってしか凌げなかった彼の弱さはまた、ケン・ローチの多くの作品がそうであるように、人間としての「誠実さ」を同時に意味しているように思えてなりません。
by sentence2307 | 2006-05-27 14:27 | ケン・ローチ | Comments(0)