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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:田中絹代( 4 )

女ばかりの夜

12月に入ったばかりのある酒宴の席でのことでした、どうしてそんな話になったのか、いまとなっては話の流れや、その切っ掛けも忘れてしまいましたが、誰かが売春禁止法の話(ずいぶん古い話です)をしたことを受けて、溝口健二の最後の作品が、たしか「赤線地帯」だったなという話になりました。

そのひとことで、それまで論議していた法律論はそっちのけで、その話題で座が盛り上がってしまいました。

映画好きばかりが揃っている酒宴です、そこにいた誰もが、当然のことながら溝口健二の「赤線地帯」は見ていましたから、やはり、話が集中したのは、あの鬼気迫る最後の場面、まだ幼さが残る少女が、苦界に堕ちて初めての客をとるために、物陰から恐る恐る手招きをするという痛切なシーンです。

いたいけな少女が、力づくでレイプされたり、圧倒的な脅迫のもとで無抵抗で犯されてしまうというのとは違って(それもかなり痛ましいことには違いありませんが)、金の力でがんじがらめに縛られ、男たちのおもちゃになるために自分からすすんで手招きをして、男たちを招き入れる(そうせざるを得なくさせられてしまっている)という象徴的な場面の痛切さに衝撃を受けたことを、その場の誰もが口にしました。

あの少女が、おそらくは、まだ男を知らない処女であろうことが、あのシーンに殊更な意味を持たせているのだと誰かが熱く語りました。

まだ男を知らない処女が、金を得るために男を誘うあの仕草は、既に多くの男たちを相手にしてきた擦れた娼婦たちの仕草を真似た手招きそのものであり、単に仕草を「真似た」というところに、あのシーンの悲痛にして壮絶な意味があるのだと語っていました。

見様見真似で、みずからを苦界に身を堕すため、手招きの仕草を同僚たちから真似たであろうあの少女は、やがてその先輩たちから数々の淫らがましい性技を習得していくに違いないまず最初の痛ましい決意として描かれているのだと彼は話していました。

それはまた、少女の背後に控える多くの女たちの数々の悲しい決意の象徴としての仕草でもあって、ほんのひとつのたどたどしい手の揺らぎだけで描き切ろうとした溝口健二の意図は、正確にして鮮烈に観客に伝わったと思います。

もちろん僕も、それらの意見には、まったくもって同感しました。

同感はしていましたが、同時に、自分としては、この「赤線地帯」よりも「夜の女たち」の方を評価しており、そして、好意も持っていることを、あえて話しました。

たぶん、このひとことは、熱く盛り上がっていたその座を随分と白けさせたに違いありません。

もし、反論でもあれば、「夜の女たち」は、「西鶴一代女」に匹敵する田中絹代の熱演が印象に残る代表作であることを話そうかと身構えていたとき、誰かが唐突に田中絹代自身が監督した作品のことを語り始めていました。

ただ田中絹代自身が監督した作品といえば、そのときは「恋文」しか見ていなかったので、自分としては未見の彼の語った「女ばかりの夜」については、ただ聞き役に徹していました。

話の様子からすると、「女ばかりの夜」もなんだか赤線地帯の話のようです、ぜひ見てみたいと聞き返してみると、なんとその映画を録画したテープを持っていて(CS放送で録画したのだそうです)貸してくれることになりました。

なんでも話してみるものですね、その夜の物凄い収穫でした。

後日、借りた作品、田中絹代監督「女ばかりの夜」を見た感想を友人から求められました。

この作品は、溝口監督の「赤線地帯」や「夜の女たち」とは、明らかに異なる視点から撮られた作品です。

溝口健二作品が、娼婦たちの視点から(敵意に満ちて差別する世間を睨みかえすような視点です)撮られた作品だとすると、田中絹代作品は、世間の眼から娼婦たちを客観的(侮蔑的)に見すえた、眉を顰めて距離をとるような常識的な作品にすぎないといえるかもしれません。

「女ばかりの夜」に登場してくる更生を目指している娼婦たちは、カタギの一般市民にとっては、結局のところ、男たちに体を売って生活するしか能力のない異常で少し頭のオカシナ哀れな女たちだと決め付ける世間の眼差しに炙られるような描かれ方をしているにすぎません。

田中絹代という人が、女優としてはともかく、映画監督としてどのくらいの資質があったのか、この「女ばかりの夜」という作品に限って言えば、やはり、溝口健二が危惧したとおりのものだったのかと思わざるを得ないのだろうかというのが、僕の率直な感想でした。

僕の感じた彼女の「限界」が、まんざら見当違いでもなかったことは、その後、田中絹代が映画監督であり続けることができなかったことを見れば、分かるような気がします。

しかし、そういう思いが、女優としての田中絹代の評価にいささかでも影響を及ぼしてはならないことと肝に銘じました。

亡くなってから既にもう長年月を経過し、しかも、かなり晩年になってからのごく僅かな期間の田中絹代しか知らない自分ごときが、とやかくウンヌンできるようなことではありませんが、その生涯を女優として全うした彼女の意志の強さに対する強烈な印象が、いまだに僕の中で生き続けています。

若くて美しい盛りを過ぎた女優たちが、いつの間にか映画界から遠のいていくという現実が一方にあって、しかし、あえてなお、女優一筋で生涯を全うしようということが、どういうことなのかを痛切に考えたことがありました。

そこではきっと、若くて美しかったキャピキャピの娘時代の好印象をいつまでも抱いているファンの前に、あえて老醜をこれ見よがしに晒さねばならない決意と勇気が必要とされたはずですし、女優自信、ファンには美しいままの自分をいつまでも記憶していてもらいたいと思うことは、美しさや可愛らしさで売ってきた女優ならなおさら、当然に抱く思いのはずです。

しかし、田中絹代が、娘役を演じるには到底ふさわしくない自身の年代を徐々に意識しはじめたとき、「俳優」であり続けることの危機感をつのらせ、日頃身近に見てきた「映画監督」の途に思い至ったことは、「そうだろうな」という思いと同時に、あまりにも軽はずみで無謀な思いつきだという思いは禁じられません。

女優であり続けることの将来に対する危機感は抱くことができても、すぐにでも「映画監督」になれると安直に思いつく見通しの甘さ=将来への危機感の方は、まったく抱くことができなかったように見受けられます。

新藤兼人が書いた田中絹代の伝記を読んでいて随所に感じるのは、人生の大切な節目で生き方の選択を誤る彼女の軽率さと、人間性を疑うような底なしの楽観であり、「映画監督」になろうとして行為もまた、意地悪く見れば、あのアメリカかぶれの「投げキッス」と同質のものと考えることができるかもしれません。

しかし、彼女の軽率さを示す数々のエピソードを読んでいても、そこに少しも不快感を感じることがないという違和感に囚われるのも、また事実です。

たとえそれらが失笑を誘うような軽率な行為であり、確かに人気絶頂のさ中で限りなくのぼせ上がった、思いの浅い軽率で傲慢な田中絹代という女がそこには息づいてはいるのですが、しかしその「軽率さ」のどれもが、その「無思慮」のどれもが、むしろ不快感を抱かせないのは、きっと、そのすべての愚行が、「映画」に対する盲目的な愛と限りない信奉とによって吸収されてしまっているからではないかという感じがしてなりません。

映画に対する思いだけは十分に善良な、そして、映画にその生涯のすべてを捧げたひとりの女優がしっかりと存在していて、それこそが彼女の魅力なのだという思いがします。

若さを失えば、その老いを逆手にとって老醜を演じ切り、さらにトップ女優でいることの困難に直面すれば「映画監督」の途を模索したことも、あのアメリカかぶれの「投げキッス」などもひっくるめてさえ、すべてが許されるべもののようにも感じられてきました。

「俳優」でありつづけるために、大切な何かを失ってきたことが、彼女の「軽率さ」というのなら、その「軽率」はとても愛すべきもののような気がします。

それどころか、「映画」から外れそうになる自身を叱咤して、その一本道をひたすら歩むことの意思力は、きっと並大抵のものではなかったという畏怖のようなものさえ感じています。

初々しい美形の幼な妻の役から、憚ることなく老醜をこれでもかと大衆の前に晒すことに、女優として、むしろ自負をさえ抱いたのではないかと見えたのは、自分の演技に対する確固たる自信というよりも、「映画」に仕えている自負がなければ、到底なし得なかったのだろうなと思います。

あの「サンダカン八番娼館・望郷」が、演技の結実=集大成だったという当時の論調に接したとき、同時に、女優開眼という出発点として溝口健二の「西鶴一代女」が上げられていました。

そのような背景を見据えながら、年を重ねていく田中絹代が、女優としてこのままやっていくことに不安と限界を感じ、映画監督の途を模索したとき、彼女の転進を溝口健二が強硬に阻んだというエピソードを知った溝口健二は、その田中絹代の軽率で安直な映画監督への転進の思いつきに対して、侮辱されたと感情的に反応したのだと思います。

いろいろなところで読んだことのある、溝口健二が自分で作り上げた「女優・田中絹代像」を失うことを懼れたのだという憶測よりも、短気で直情的な溝口健二という監督を考えるとき、こちらの「反射」の方が遥かに説得力があるように思います。

しかし、強硬なその溝口健二の反対に対して、生涯のコンビを解消させてまで頑として従わなかった田中絹代の強情さ=意思の強さを、「一本筋が通った十分に納得できるもの」というような言い方をしてもいいのか、長い間疑問でした。

溝口健二が短気で直情的なら、田中絹代も短気で直情的でおまけに軽率だったからこそ、当然のような「決別」がもたらされたのだと思います。

日本映画界にとって、至宝といわれたコンビがこんなカタチで解消されてしまったことに、どんな理屈付けをしても始まらないような気がします。

ふたりの不仲がもたらした「気に入らない相手とは仕事はできない」ということの裏には、かつて「気に入った相手と次々と名作を生み出し続けた」という背景があったわけですから、つまり、なんだかツケを払わされたような感じのような気がしてきました。

しかし、もうひとつ長年抱いてきた疑問があります。田中絹代が、生涯を女優として昂然と生きたと同じように、なぜ「映画監督」として生き続けることができなかったのだろうか、という疑問です。

もっともこれは、彼女が撮った作品を一本も見ていない段階での素朴な漠然とした僕の疑問だったのですが、今回見た「女ばかりの夜」によって、その疑問の一端は氷解したかたちになりました。

(1961東京映画・東宝)監督・田中絹代、製作・永島一朗 椎野英之、原作・梁雅子、脚色・田中澄江、撮影・中井朝一、音楽・林光、美術・小島基司、録音・長岡憲治、製音・西尾昇、照明・今泉千仞、
出演・原知佐子、淡島千景、北あけみ、浪花千栄子、富永美沙子、田上和枝、関千恵子、田原久子、千石規子、春川ますみ、沢村貞子、岡村文子、中北千枝子、佐藤徳明、深沢裕子、夏木陽介、桂小金治、菅井きん、香川京子、水の也清美、平田昭彦
1961.09.05 6巻 2,530m 白黒 東宝スコープ
by sentence2307 | 2009-12-31 12:36 | 田中絹代 | Comments(5)

月は上りぬ

この作品は、作品自体の出来を語られる以前に、小津監督が長年温めていた脚本を田中絹代の第二作目の監督作品として提供されたというエピソードがまず語られる、そういうきわめて著名な作品として記憶されています。

いつも思うのですが、製作過程のエピソードの賑わいによって、その作品の出来如何に関係なく、大衆が語り継ぐエピソードの影で、タイトルだけはしっかりと生き続けてしまうという過酷な運命を背負わされた作品というものがあるような気がします。

そして、その作品が、大衆の過酷な「注目」に耐えることができない脆弱な作品にすぎなかったら、なんだか映画史によって、永遠に「晒し者」にされてしまうような残酷な感じさえ受けます。

いえいえ、「月は上りぬ」が、そういう脆弱な作品だといっているわけではありません。

「月は上りぬ」は、実に愛らしい佳作だと思います。

秘めたる恋心を抱く青年に、どうしても自分の気持ちを打ち明けられずにいる内気な次姉のために、影ながら恋の手助けをして姉の恋を成就させた妹が、いざ自分のこととなるとどうしても頑なになってしまい、恋人になかなか心を開くことができず、自分に正直になれずに苦しむという作品です。

しかし、この作品が「実に愛らしい作品」だとはいっても、決して不満がないわけではありません。

現代から見ると、杉葉子演じる次姉が、あまりにも淡白に描かれすぎていて、彼女が久しぶりに逢った幼馴染の青年に本当に恋心を抱いているのだろうかという疑問が湧いてきますし、男にしても、彼女への気持ちを確かめるための友人の問い掛けに対して無関心をよそおい、最初は素気無く否定さえしています。

きっと、この辺の描写に物足りなさを感じてしまうのは、現代僕たちが、常日頃見慣れてしまっているドラマの顕著で見え見えな過剰な伏線と、話運びの振幅の激しさに、すっかり慣らされ毒されてしまったために、いつのまにか日本人の感情の機微と繊細にして静謐な陰りの部分に鈍感になってしまい、理解することもできなくなってしまったというのが、その証左かもしれません。

よく注意して映画を見ていると、相手への思いを直接は語られてはいくとも、その回想のエピソードには必ず相手の気配があって、自分でも「それ」とは意識していない相手への思いがなんとなく潜んでいることが描写されています。

ここで描かれているものは、臆病というのとは少し違う、誰かの力添えがなければ、決して溶けることも前進することもできない「心の抑制」のかたちです。

しかし、それらの抑制と不能を、この作品では決して不甲斐ないものとも煮え切らないものとも描いているわけではないような気がします。

むしろ、それは「気高いもの」として描いているのかもしれません。

そして、さらに、その秘めたる思いも、誰かの手助けがなければ、そのまま「何も起きずに」すれ違い、通り過ぎてしまうという、もうひとつの「無」の現実が語られているともいえます。

ここまで考えてきて、不意に、小津監督が述べていたという「映画は、ドラマだ」という言葉を思い出しました。

あれは確か、吉田喜重監督が、小津安二郎について回想するというテレビ番組の中で語られていた言葉だという記憶からすると、生誕百年の年のことだったのでしょうか。

しかし、この言葉、当初は、揶揄と韜晦で自分というものを表には出したがらない小津監督の「言葉」にしては、あまりにもストレートすぎて、小津監督の「言葉」だとは、にわかに信じることができませんでした。

状況としては、「権威」に反抗する若手監督が、酔った勢いで「大御所」に執拗にからみ、小津監督もその無礼な放言に対して、遂にまともに受けて逆上したうえ、激昂の中で吐かれたという、ストレートさの意味としては、十分に想像できることではありました。

しかも、相手は、「物語の破壊」を標榜している吉田喜重です。

このエピソードを知ったとき、これは乱れた宴席だけでの完結した話しだとずっと思ってきました。

しかし、よく考えて見れば、激昂し逆上のなかで吐かれたストレートな言葉だからこそ、そこには韜晦と揶揄の装いから自由になった飾られていない小津監督の生の肉声が込められているのではないかと考えるようになりました。

そして、この「月は上りぬ」との遭遇です。

きっと、小津監督が撮っていたら、もう少し違う映画にはなっていたかもしれません。

ラストの仲直りの愁嘆場などは、「風の中の雌鶏」や「宗方姉妹」の愁嘆場からすると、あんなものじゃないだろうという気がどうしてもします。

しかし、日本人の気高いまでの抑制と、「誰かの手助けがなければ、そのまま何もなくすれ違い、そしてなにごともなく通り過ぎてしまうに違いない」冷ややかな現実と人間関係のむなしさが同時に語られている「月は上りぬ」は、小津監督の「映画は、ドラマだ」という言葉を裏付けている作品にちがいないという確信は、たしかに「あった」のだと感じました。

(55日活)企画・日本映画監督協会、製作・児井英生、監督・田中絹代、脚本・小津安二郎・斎藤良輔、撮影・峰重義、美術・木村威夫、音楽・斎藤高順、録音・神谷正和、照明・藤林甲
出演・笠智衆、山根寿子、杉葉子、北原三枝、安井昌二、三島耕、佐野周二、増田順二、小田切みき、田中絹代、汐見洋、
 1955.01.08 11巻 2,805m 白黒
by sentence2307 | 2009-11-23 10:06 | 田中絹代 | Comments(1)

恋文

以前、「日本映画専門チャンネル」で昭和の純愛映画という特集をやったおりに、たまたまその1本として、この田中絹代の監督第1作「恋文」53を放映していたので、久しぶりにゆっくり見ることができました。

以前この作品を僕が見たときには、まだ田中絹代がご存命で、そして、ちょうど新藤兼人が監督したあの衝撃作「ある映画監督の生涯-溝口健二の記録」75が撮られた後の、なんというか、溝口健二と田中絹代の関係について、世間には一種独特な「合意」が形成された状況下での鑑賞だったような気がします。

しかも、この作品が出来るについての周辺事情みたいなものも予備知識として仕込んでいて、そんなことで、はたして、そのような自分がこの作品を純粋に鑑賞できたのかどうか、自信がなかったというのが本当のところでした。

実をいうと、僕の中には、この作品がマーヴィン・ルロイの「哀愁」40のコピーだという根強い先入観(偏見)もあったので、「その感」をなおさら強くしたのかもしれませんね。

また、随所に散見されるあまりに美しい場面(たとえば、森雅之が思い続けた人と再会をはたす公園のシーン)や、ラストの衝撃的な場面(生きる道を塞がれ、死に向って走り出すしかないまでに追い詰められた久我美子の苦悶と絶望の神々しい表情)に気を取られてしまって、肝心の物語をしっかりと受け止めていなかったことも、今回の鑑賞で知りました。

この作品の大きなポイントとなる、森雅之が、「食うために」アメリカ兵に身を任せた久我美子をなじる重要な場面など、もっとよく考えてみる必要があったかもしれません。

米兵相手の日本の娼婦たちが、本国に帰ってしまった「恋人」に送金をねだる「ラブレター」の代筆を引き受けるという、これは戦後の混乱期の渋谷で実際にあった商売の話だそうです。

ツボに嵌まった滅多にない面白い話ですよね。

戦後すぐの混迷した世相が、一挙に見渡せてしまうような「視座」とも「磁場」ともいいたくなる、またとないエピソードだったと思います。

この作品の「恋文」とは、例えていえば、ちょうどデ・シーカの「自転車泥棒」で描かれる自転車に匹敵するかもしれないほどの、現実の世相を輪切りにして見せてしまうような重要な意味をもつキイワードだったといってもいいでしょうか。

「恋文」の代筆をする男・森雅之は当初、自分と娼婦たちとの境遇に明確な距離を確信していたから、一層そういった女たちに対して冷静な同情心をも持つことができたのだと思います。

しかし、物語は進み、男が探し求めていた最愛の人もまた、本国に帰った兵士に送金を乞う手紙を依頼するという行為の現場に遭遇することによって事態は一変します。

男は、それまでの「寛容」などすっかり忘れ、進駐軍の兵士に身を任せた彼女をどうしても許すことができずに激しく罵ります。

それが、この作品のなかで最も美しい公園のシーンのなかで展開されるのですが、しかし、森雅之の罵るその内容をよく聞くと、彼女が「米兵」に体を許したこと自体に我慢ができなかったことが一番許せなかったことのように聞き取れますし、さらに、「日本人相手だったのなら、まだしも」という含みがあるようにさえ理解することも可能かもしれない気にさせられます。

しかし、そこには、アメリカに帰還してしまった兵士に手紙を送ろうとする久我美子が、まだその米兵に愛情が残っているかもしれないという可能性は少しも検証されることなく、森雅之の罵りの言葉には不思議なくらい「嫉妬」の響きは感じられずに演出され、むしろ、「日本人の誇りを傷つけられた憤り」を久我美子にぶつけているだけのように感じられます。

そこに込められているものは、アメリカ兵に体を自由にさせて、それと引き換えに豊かな生活を享楽するふしだらな女たちへの民族的な憤りです。

「純愛映画」と信じて、この作品を観たあとの、なんともやりきれない後味の悪さは、多分そのあたりにあるのかもしれません。

その辺が、マーヴィン・ルロイの「哀愁」とは決定的に違うところだと思いました。

5年ものあいだ探し続けてきた久我美子とやっと再会できた公園で、森雅之は彼女にこんなことを言っています。

「目の青い子供を抱いているあなたを見て世間がなんて言うか、あなたは考えたことがなかったのか。過去を清算するためには、むしろ子供が死んで良かったんだ」と。

普通の神経の人間なら、かつてどんな関係にあろうと相手からこんな言い方で罵られ、自尊心を傷つけられたら、キレて逆上してもなんの不思議もありません。

相手の横っ面を張り倒し、捨て台詞のひとつも吐いて、そんな男とはさっさと別れてしまうのが極めて普通の対応だと思います。

しかし、森雅之が言ったこの台詞には、実にいろいろなニュアンスが込められていて、例えば、占領され貧しさに耐えている日本人が米兵に向けた憎悪と偏見、その現地妻でいた久我美子への憎悪、彼らの庇護によって豊かさや享楽を得ていた華やかさへの羨望と憎悪、混血児を見る冷ややかな眼差しなど、日本人・森雅之は明らかに、自分もまた「いかがわしきもの」に憎悪と蔑視を注ぎかける「日本の大衆」の側に身を置いて、多くの娼婦たちを見るのと同じ眼差しで、米兵の現地妻・久我美子をただ冷ややかに見くだしているだけです。

その言葉には、はなから彼女を理解してあげようとか、守ってあげようなどという「あたたかい愛情」を感じさせるものは、いささかもありません。

誰の子を、どのような事情で出産したにしろ、その子を失った母親に、「むしろ子供が死んでしまって良かったんだ」と言い放つ男の冷酷さや、自分の苛立ちや憤りを抑えることができないまま、相手の気持ちも構わずに酷い言葉を吐き掛けずにはおられない「男の身勝手さ」を、このシーンに強く感じます。

自分が過去に誰を愛そうと、あるいは、どんな生き方をしてこようと、他人にとやかく言われる筋合いのものではない、などと僕などはつい考えてしまいます。

ましてや、愛するということが、きっと相手の過去や行為のすべてを「受け入れ、そして引き受けること」にあるとするなら、この日本人・森雅之演じる「罵る男」は、その愛の観念からはるかに遠い人物だというしかありません。

しかも奇妙なことに、その男に、米兵の「現地妻」であったことを散々に罵しられる久我美子もまた、逆上するどころか、ただ「すみません」と謝るばかりなのです。

これをただ、いまはすっかり失われた「日本人の美しい心情」とでも強引に納得すればいのでしょうか。

それとも単に監督・田中絹代の演出力不足と片付けてしまえば、それでいいのでしょうか。

もし仮に演出意図というものがあったとしたら、それがどのあたりにあるのか、この理不尽なシーンが僕の気持ちを強く捉えて離そうとしません。

占領軍兵士に身を任せた久我美子を罵り、そして拒絶するという森雅之の不自然なまでの頑なさは、それが当時の日本人の男たちの一般的な考え方だったとは、どうしても思えません。

思いを寄せた初恋の人に、いつまでも清らかなままでいて欲しいと望むのは誰しも同じでしょうが、たとえ現実がそうでなかった場合でも、変節したその人を責めたり、罵倒するようなことが現実にあり得るかどうか、それは極めて想像しにくいことだと思います。

夜の日比谷公園で昔の娼婦仲間に出会い、そして絡まれた後で、「本当にあなたは、何人もの男たちと(娼婦として)関係しなかったのですね」と弟・ヒロシに問い詰められるというこの映画のラストで、久我美子は、その詰問を力なく否定しながらも、結局は、「やっぱり駄目ね」とポツリと言った後で、自分のことを「穢れている」とまで卑下しています。

男たちが「理不尽に責めたてて」、そして、女は「卑屈なまでにただ詫び続ける」、僕たちを苛立たせずにはおかない、この非現実的な男女の異常な関係図を、もし田中絹代が意識的・作為的に演出したのだとしたら、その意図は一体なんだったのか、真っ先に念頭に思い浮かぶのは、やはり田中絹代と溝口健二との関係、ということに帰するのでしょうか。

「恋文」の監督をしてみないか、という求めに田中絹代が応じた理由というのが、日本経済新聞社の「私の履歴書」に記されています。

「中年の役ではもう主役はとれないし、脇役ではやりがいのある役は年に幾つもない。
それなら自分が監督になって、自分のできない若い役を新しいスターに精一杯演じてもらう、そんな気持ちが私の中で次第に固まっていった。」

からだという。

そして、「恋文」の製作を担当することとなる永島一朗が、田中絹代なら監督もこなせるに違いないと確信したというエピソードも伝えられています。

53年の初夏、伊藤大輔監督の「獅子の座」(大映京都作品)に田中絹代が出演した折、仕事を終えて部屋に戻ってきた絹代が何か気に掛かることでもあるのか、しきりに首を傾げています。

「どうしたのか」と永島が聞くと、「今日撮り上げたシーンだが、どう考えても、あともうワン・カット必要に思う」と言うのです。

つまり、監督がワン・カット撮り残したか、あるいは撮り忘れているような気がするという。

ほどなく助監督が慌てて駆け込んできて、「田中さん、もうワン・カットあるそうです。」と告げにきた。

多くの優れた監督たちとの厳しい仕事を通して、培ってきた女優の勘だけとは思えないこの鋭い指摘が、永島一朗を田中絹代の処女作「恋文」のプロデューサーとなることを決意させたというエピソードです。

しかし、なにしろこれほどの大女優が監督業にも手を染めるというのですから、それはもう物凄い話題になり、多くの監督や映画関係者の暖かい数々の支援の手が差し伸べられています。

かつて男社会の撮影所で、女であるというただそれだけの理由で無視され、そして圧殺されるように息の根を止められ、やがて失意のうちに癌で逝った坂根田鶴子とは、あまりにも大きな違いですね。

初監督をするという田中絹代になされた著名な監督たちの「特別扱い」の最たるものは、成瀬巳喜男の「あにいもうと」の撮影現場に助監督としてつくことが許されたことかもしれません。

時期はちょうど「雨月物語」の出品のためにベネチアへ乗り込もうという直前(この「修行」のために絹代のベネチア着が遅れました)のことです。

とにかく、50日間ものあいだ、あの成瀬巳喜男の傍らでその卓越した演出を目の当たりにすることができ、また直接指導も受けられた監督修行ができたのですから、こんな「優遇」がまたとあろうとは思えません。

しかも、主演は、「恋文」でも主演をすることとなる森雅之、そして久我美子も出演しているという作品でした。

成瀬は大船撮影所での同窓生、森は「雨月物語」で共演したばかりの、演技の呼吸は既に分かっている気心の知れたいわば仲間です。

こんなにめぐまれた環境で監督修行がスタートできたのですから、監督修行をするにあたって成瀬が絹代に課したという有名な「条件」というのも、なんかいやに生ぬるいナアナアの感じがしてしまいますね。

その成瀬の出した条件は、
「スター意識をすてること、自家用車には絶対に乗らぬこと、撮影30分前には必ず撮影所に入ること、セット内では腰をかけぬこと」
でした。

円熟期のピークにあった女優・田中絹代が、初めて映画監督に挑戦するとあって、「恋文」の撮影が始まると、撮影現場には大監督や高名な俳優が、入れ替わり立ち代り訪れています。

成瀬巳喜男はじめ、小津安二郎、吉村公三郎や、著名俳優もぞくぞくと応援に訪れ、なかには喫茶店のシーンの客のエキストラ出演をかってでた役者までいたということですから、現場のスタッフも大いに刺激され、いい意味での緊張感のある現場だったのだろうと思います。

しかし、そうした絹代を取り巻く華やかな雰囲気に対して、絹代が監督することに終始反対してきた溝口健二は苦々しく思いながら、監督業への安易な挑戦がもし失敗した場合、当然傷つかずにはおかない大女優・田中絹代(溝口健二は、自分が育て上げたという自負が当然あったと思います)へ浴びせられる汚名を極度に恐れてらしいことがいろいろな文献から伺われます。

つまり、それは自分の誇りを傷つけられることでもあったからでしょうか。

その耐えられない強迫観念と危惧の気持ちから周囲に漏らしていた苦言が、やがて、監督協会理事・小津安二郎からの「月はのぼりぬ」にまつわる依頼の電話の際のあの答えとなって現れてしまいます。もちろん、なにを言い出すか分からないといわれた溝口健二の感情的な失言だったと思うのですが、それは「絹代のアタマでは、監督はできませんよ」という辛辣にすぎる言葉でした。

しかし、この失言は、やがてそのまま絹代に伝わり、ただの失言だけでは済まなくなります。

このことを契機として、数々の名作を生み出してきた溝口・田中のコンビは、「噂の女」を最後に終わりを告げることとなりました。

長年溝口監督の言いなりになって堪えに堪えてきた絹代が「鬱憤晴らし」の「腹立ち紛れ」で監督になったと、この作品「恋文」の脚本を書いた木下恵介の談話が残されています。

「田中さんとすれば、俳優として自分も老けてきたし、いつまでも一線で頑張っているということも出来ないと読んで、ここらでいっぺん監督に抵抗しとこうかと思ったのかな。
抵抗っていうよりは、永年監督の言いなりになって、監督を傷つけないように傷つけないようにと付き合ってきたから、ここらでちょっと鬱憤晴らしに自分も撮ってみようと思ったんでしょうね。
つまらない映画でも、喧嘩のできない人だからね、表立っては。
堪えに堪えていたから、腹たち紛れに監督になったような気がするね。」(新藤兼人著「小説・田中絹代」270頁)

【男たちが「理不尽に責めたてて」、そして、女は「卑屈なまでにただ詫び続ける」、僕たちを苛立たせずにはおかない、この非現実的な男女の異常な関係図を、もし田中絹代が意識的・作為的に演出したのだとしたら、その意図は一体なんだったのか】という先に記した僕の疑問に対する答えを、この木下恵介の明晰な認識の中に見つけたような気がしました。

罵倒することでしか自分の気持ちを伝えられなかった映画監督・溝口と、目を伏せるようにして一生芝居をしとおして生きた映画女優・絹代の異常な関係性を見抜いて、木下恵介は、この「恋文」の脚本にひそかに反映させたのではないかというのが、僕がやっと辿り着くことのできた結論です。

溝口健二から「絹代のアタマでは、監督はできない」と言われた憤りをバネに、その後、田中絹代は、第2作「月は上りぬ」55、「乳房よ永遠なれ」55、「流転の王妃」60、「女ばかりの夜」60、「お吟さま」62の計6本の映画を撮ることになりますが、それらの作品群が、溝口健二の危惧の正しかったことを証明しているのか、それとも、見事その屈辱的な罵りを撥ね返して、溝口健二を見返すだけの仕事をしおおせたのか、それら6本の作品から判断するだけの鑑識眼に欠けている自分の浅識が、いかにも残念でなりません。

製作・永島一朗、監督・田中絹代、脚本・木下恵介、原作・丹羽文雄、撮影・鈴木博、音楽・斎藤一郎、美術・進藤誠吾、照明・藤林甲
出演・森雅之、加島春美、夏川静江、宇野重吉、久我美子、香川京子、田中絹代、関千恵子、中北千枝子、花井蘭子、木下恵介、道三重三、
新東宝 1953.12.13、11巻、2685m、98分、白黒
by sentence2307 | 2006-05-04 18:28 | 田中絹代 | Comments(15)

田中絹代

新藤兼人監督の著作に「小説・田中絹代」(読売新聞社刊)という本があります。

通して読んだことも幾度かありますし、折に触れて読みたい部分だけを拾い読みしています。

じつは僕は、読書に関してひとつの固定観念を持っています。

あらゆる著者は、ただひとつの文章を書きたいために、何万語を費やして本を書くものだ、と。

ですので、僕は、著者が書きたかったというそのただひとつの文章を探し出すために本に向かい読書しているのだと思っています。

その意味では、読書は僕にとって「旅」なのかもしれません。

かつてその一文にめぐり合えた幸運な旅もありましたし、ついに見つけられずに終わった不運な読書もきっとあったのだと思います。

さて、この新藤兼人の本は、女優・田中絹代の生涯を、関係者や映画人とのエピソードを連ねて書かれている、いわば伝記小説のたぐいなのですが(珠玉の名編「ある映画監督の生涯」が重要なベースになっています)、内容からいえば、むしろ「実録・田中絹代と溝口健二」とでも付けた方が相応しいくらい溝口監督との関係をおもなタテ軸として書かれたノンフィクションです。

昭和31年、溝口監督が骨髄白血病で死去したとき、田中絹代は46歳、そして彼女が亡くなったのが67歳ですから、彼女にとって残された21年間という時間は、普通に考えれば決して短い時間ではなかったはずという気がしていました。

しかし、溝口健二を失った女優・田中絹代にとって、その21年という時間が、まさに「余生」に過ぎなかったと思われるくらい、新藤兼人のこの本は、それほどのページをさくわけでもなく、この大女優の最後の21年間をあっけなく無残に終らせてしまっています。

溝口監督の死を記した章「映画監督の死」から、田中絹代の死を描いた最終章「女優の死」に至るまで、その間に置かれている章はたったの3つ、それは、「それでも生きなければ」、「たった一人になった」、「栄光と孤独」と、なんとも遣り切れないくらいのさびしいタイトルです。

そんなとき、僕は改めてこの本の冒頭に戻ってみます。

新藤兼人は、この本をこんなふうに始めています。

「女優田中絹代の死を知ったとき、死を悼む悲しみはなく、静かに幕が下りた瞬間の喝采を聞いた。『お見事』声を張り上げて、その死を讃え、拍手をおくりたかった。」

この一見お座成りな社交辞令のように読める一文が、しかし、本当は「女優」であるために何もかもを棄てて、「女優」であることを業のように生きた一人の女の壮絶な生涯が描かれているとともに、可愛らしい「女」を演じることで「田中絹代」という人間がどれほど歪み傷つかねばならなかったか、僕たちはこの本を読んで知ることになるかもしれません。

さて、この小文の冒頭に書いた「あらゆる著者は、何万語を費やして、最も書きたかった一文を書き残す」というこの読書によって見つけた成果をご報告しなければなりませんよね。

その前に、その一文が生きたものであるかどうか、少し長文にわたるのですが、前置きの部分を書き写します。

「役者は、親の死に目にも演技の涙を流すと言われている。
また、それほどの役者でないと真の演技はできないかもしれない。
このとき見せた田中絹代の涙は、演技かマコトか、それは本人でも分かりかねるものだろうが、私は、田中絹代の女としての本心をちらりと垣間見たと思っている。
それだから、横須賀線での殊勝な一言『先生にいいお土産ができました(「サンダカン八番娼館・望郷」でベルリン映画祭女優演技賞を受賞したこと)』を感慨をもって聞いたのだが、すぐそのあとで成沢昌茂には、・・・『地獄で会うか極楽で会うか』と(絹代の頭では、監督なんてできませんと溝口健二に言われたことに)恨みを込め、『溝口健二に言ってやります』と、髪を逆立てていきり立っている。」

そして、これに続く次の一文に僕は実に生々しい衝撃を受けたのでした。


《そのどちらも、田中絹代の、むき出しの心に違いない。

いちど魂を男に触らせた女のいぶり続ける嘆きであろう。》
by sentence2307 | 2006-04-06 23:59 | 田中絹代 | Comments(0)