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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:森田芳光( 2 )

武士の家計簿

ある一大決心をしました。

最近、パソコンのなかの書きかけて放ったらかしにしてある未完の雑文を片っ端から消去してしまおうと思い立ったのです。

年始めにほんの数日だけ書き始めた日記風のものもあれば、タイトルとほんの書き出しだけ記された映画の感想らしきものもあります。

成績不振にあえぐ投資信託を整理しようかと、基準価格の安い銘柄や一定の成績を維持している優良銘柄を順番に書き出したものもあります。

もっとも、これは、あれこれ検討しているうちに、さっさと手持ちの銘柄が加速度をつけて値下がり、対処できるような状態のダメージどころではなくなり(換金すれば大損が明らかになるので、ここは仕方なく)、景気の回復を待ってそっと眠らせておくしかないものばかりという、暴落する「事態」に無理やり押さえ込まれて、いまさらチャラチャラした「検討」などやってみても仕方ないという自嘲気味の惨憺たる途絶に終わった、まさにムクロのような雑文まであります。

そうそう、その雑文の中に、「武士の家計簿」もありました。

とにかく一生懸命感想らしきものをまとめようと四苦八苦している様子が、その文面からはうかがえます。

この作品を見る前には、磯田道史の原作本も読んでいたので、一定の長さの文章をでっち上げるくらいの予備知識なら、自分の中には十分に入っていたはずでした。

それがなぜ書き切れなかったのか、今回、久しぶりに途絶した感想文を読み直してみて(当然、中絶した原因がどこら辺にあったのかを考えながら)、あることに気がつきました。

磯田道史の本を「原作本」と考えてしまったことが、そもそもの間違いだったのではないか。

磯田道史の「武士の家計簿」に一貫して書かれているのは、映画で描かれているような「家族愛」でもなければ、清貧に耐える下級武士の誠実さでもない。

むしろ、一人の若き学者が古文書の中から貴重な資料を探し当てて喜びに驚喜する研究者の躍動感がまずは全編に脈打っているのであって、「下級武士の生活の実態」の方は、それほど熱心に跡付けられているわけではない、という印象をもちました。

つまり、この映画「武士の家計簿」という作品のなかに描かれた「家族愛や清貧に耐える下級武士の誠実さ」は、まさに二の次で、この原作本と映画作品の溝というか乖離が、もうひとつ文章の推進力を鈍らせた原因だったかもしれません。

しかし、本当に「それ」だけか、というもうひとつの思いが僕の中にはありました。

いってみれば、それはごく単純な思いです。

加賀藩御算用者・猪山直之は、勤めばかりでなく、家庭においても詳細な収支を家計簿のように記録した、というのが本にも描かれ、映画でも描かれたこの物語の共通する揺るぎない「事実」です。

でも、どうでしょう。

僕たち、経理の門外漢からすると、少なくとも「家計簿」というのは、経済状態をいまよりは少しでも改善させる、収支を詳細に記録することによって経済を好転させようという目標がなければわざわざ記載する意味がないように思えるのです。

ここに描かれているのは、封建社会でお城勤めを続ける猪山家は、多くの武家たちがそうであったように、武士たる対面を保つために当然のような借金を重ねながら困窮におちいっていたのであって、その公然たる「困窮」に対して「家計簿」によって本当に(図式的に、ですが)立ち向かおうとしたと考えたのか、というのが疑問なのです。

猪山家の困窮の原因は、身分不相応な贅沢や散財にあったのではなく、武家社会というシステムに起因していたのであったのだから、家財を売り払い禁欲生活を家族に強いてまで家計の健全な収支の均衡をはかるという発想が他の武士たちにもあったかどうか、すこぶる疑問でした。

当然のように「困窮」におちいるはずのお城勤めの同僚の薄給武士たちが、皆ことごとく経済的破綻をきたしたかといえば、どうもそうでもないらしい。

きっと、そこには、強権的・超法規的な「借金踏み倒し令」とか、あるいは、日常的な賄賂や「袖の下」が公然と行われ、武士の家計を維持させ潤わせていたという熾烈な現実があったに違いありません。

貧窮の中で家族が身を寄せ合い助け合う姿は、そりゃあ感動的ではあります。

感動的ではありますが、その誠実の前にもっと大きな歪みが存在したことに「釈然としない思い」というか、拭えない無力感というものをついに自分の中で処理できず、結局、僕の雑文は未完のままに終わったのだと思います。

武士がせっせと家計簿をつけていたという意外性よりも、俸給以外の臨時収入によって家計簿など必要としないくらい潤っていた武士のシステムとしての腐敗を描かないまま、その御算用の技術によって明治政府に重用され(そういう意味では、明治政府自体の中にも「腐敗」はあったはず)、栄達を遂げる息子を自慢気に描く振り返りの視点に承服できないものがあったのかもしれません。

(2010『武士の家計簿』製作委員会、松竹)監督・森田芳光、脚本・柏田道夫、音楽・大島ミチル、主題歌(イメージソング)Manami「遠い記憶」、撮影・沖村志宏、プロデューサー・元持昌之、アソシエイトプロデューサー・岩城レイ子、三沢和子、コ・アソシエイトプロデューサー・真壁佳子、池田史嗣、エグゼクティブプロデューサー・原正人、飛田秀一、豊島雅郎、野田助嗣、制作・エース・プロダクション、制作協力・松竹京都撮影所、企画協力・新潮社、『武士の家計簿』製作委員会・アスミック・エースエンタテインメント、松竹、北國新聞社、電通、ティーワイリミテッド、Yahoo! JAPAN、テレビ朝日、衛星劇場、住友商事、金沢経済同友会、配給・アスミック・エースエンタテインメント、松竹
出演・堺雅人、仲間由紀恵、伊藤祐輝、藤井美菜、松坂慶子、草笛光子、中村雅俊、西村雅彦、嶋田久作、山中崇、井手浩一朗、宮川一朗太、小木茂光、茂山千五郎
by sentence2307 | 2012-08-04 08:14 | 森田芳光 | Comments(7)

海猫 umineko

僕は、ずっと以前から、森田芳光のこの「海猫 umineko」について、もし感想を書く機会があるとすれば、その感想を語り始めるその前に、「失楽園」についてまず書き始めなければならないだろうなと、なんとなく考えていました。

つまり、「海猫 umineko」という作品を見る前から、僕の中ではこの作品が「失楽園」の延長線上にある作品だという思い込みがあって、自分なりのイメージを既に作り上げていたのだと思います。

しかし、実際にこの映画を見たとき、この作品が僕の思い込みを大きく裏切ったものであることも含めてショックを受けました。

まず、伊東美咲の美しくないことへの驚きです。

TVのCMなどで美しすぎる彼女を日常的に見せつけられている僕たちにとって、この映画で描かれているあまりに凡庸な彼女の描き方と、いじめに耐えているだけのなんとも生気のない容姿は、まさにがっかりでした。

森田芳光が、多分その美しさだけでは飽き足らず、彼女に余計な演技をも要求するという無謀さに唖然としたからでしょうか。

兄嫁・薫を慕う義弟・広次が、監禁同様に拘束されて衰弱している薫の姿を見かね、意を決して彼女を連れて兄・邦一の元から逃げようとするとき、一緒にいた娘が、追いかけてきた父親・邦一の姿を見て発する「おとうちゃん、かわいそう」というセリフが、それまでこの映画が示してきた監督の意図とは別の方向に急変し始めたことに突然気づかされ、実のところ誰もが驚き戸惑ったに違いありません。

それは、この映画が無視し、見捨ててきたはずの秘められたもうひとつの物語「邦一の物語」が突然立ち上がり、自己主張し始めたからだと思います。

それまで、確信をもって編まれてきたはずのストーリーが、ここに来て突如様相を一変させてしまったという戸惑いと驚きです。

ここに描かれている漁師・邦一はデリカシーのカケラもない粗暴な男として描かれています。

どう見ても漁師の女房には向きそうにない卑弱な薫に過重な労働を課し、欲情すれば妻=相手の状態など構うことなく所構わず強姦同様のSEXを強要するような血の気の多い漁師です。

そして、夫・邦一がおとなしい妻とのSEXに飽きたらず、ほかに愛人をこさえて、妻からは得られなかった性の快楽を貪っているとき、ひとり置去りにされた薫が、その寂しさを紛らわすために義弟・広次と一夜を共にし、そこで、夫・邦一とのSEXではいまだかつて経験したことのない性の歓びが対照的に描かれている場面で、僕たちは、あるいは、こんな人間味の欠けた一方的な描かれ方をした邦一の人間像に、いち早く疑問を持つべきだったかもしれません。

女の足の指を一本一本舐め上げるようなそんな薄気味悪いSEXが、どうしてそれが真実の愛で、そのために「邦一」の愛し方が、なぜ否定されなければならないのか、ここのところが僕にはよく分からないのです。

そしてラストのあの場面、「おとうちゃん、かわいそう」というセリフに遭遇しなければ、僕たち観客は、てっきり「俺の女を、意地でも弟にだけは渡さないぞ」という憎悪と独占欲に逆上した邦一を(違和感を持ったにしても)受け入れていたかもしれません。

ラストにおいてこの三角関係は、おのおのの憎悪と憤りが錯綜して修復不能なほどドロドロの関係に至っていますが、だから、なおさら娘が、追いすがる邦一の姿を見て「おとうちゃん、かわいそう」と発する言葉があまりに唐突すぎるだけに、夫・邦一という男の本当の姿が、それまでなにひとつ描かれていなかったことに観客は初めて気づかされたのかもしれません。

「粗暴な男」像とは、明らかに違うタイプの佐藤浩市をミスキャストと片付けてしまったら、それこそミもフタもありませんが、このラストで、追いすがる邦一の感情の中に憎悪と独占欲とによる陳腐な逆上を見るよりも、どう妻を愛していいか分からないまま妻・薫から去られてしまう哀れな邦一が、無様に追いすがって「そこまで」来たのだと見る方が、なんだか自然なように思えてきました。

邦一には、薫の足の指を一本一本舐め上げるようなSEXなんか到底できるわけもありません。

知的な薫が目を輝かすような横文字の画家の名前の知識もありません。

彼が知っていることといえば、海で巧みに漁をすること、そして、たとえ強姦のようなSEXしかできなかったとしても、彼にはそういうふうにしか薫を愛すことができない無骨で哀しい男だったのではないか、彼が彼の方法でそのように愛するしかなく、そして深く愛せば愛すほど、愛する女を傷つけてしまうという絶望的なジレンマこそが、このラストで描かれなければならなかった本当のテーマだったのではなかったか、という気がしてきました。

娘が発した「おとうちゃん、かわいそう」という唐突なセリフだけがラストで空しく響いて孤立したまま、しかし、この言葉は、この映画が、もう少し違ったふうな繊細な映画になり得た可能性を僕たちに教えてくれたのかもしれません。

(04東映)監督:森田芳光、プロデューサー:野村敏哉、小島吉弘、三沢和子、企画・坂上順、原作:谷村志穂、脚本:筒井ともみ、撮影・石川稔、美術・山崎秀満、編集・田中愼二、音楽:大島ミチル、主題歌・MISIA『冬のエトランジェ』、照明・渡辺三雄、録音・橋本文雄、助監督・杉山泰一
出演・伊東美咲、佐藤浩市、仲村トオル、ミムラ、深水元基、角田ともみ、三田佳子、蒼井 優、鳥羽 潤、小島 聖、白石加代子
129分
by sentence2307 | 2006-04-13 00:10 | 森田芳光 | Comments(0)