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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:グリフィス( 3 )

国民の創生 ②

1911年に製作された短編からは、職を失い、盗みを働いて捕らえられ、さらに妻を失う老人の救いの無い末路を描いた「老人たちをどうすべきか」(16分)のほかに、「女は嘲笑した」(17分)と薬物の脅威を訴える「息子のために」(16分)の3本が紹介されています。

この「老人たちをどうすべきか」のような悲劇的な結末を持つ作品は、この時期のバイオグラフにおいては一般的な傾向で、観客の強い支持があったのか、類似の作品が多く見られます。

また、「ドリーの冒険」や「国民の創生」にみられるような、いわゆるグリフィスのラスト・ミニッツ・レスキュー(最期の救出)の典型的なパターン(泥棒に襲われた一家を救いに駆けつける)の作品として挙げられるのが「女は嘲笑した」でしょうか。

悪役である泥棒を一途に愛する健気な娘を中心に据え、視点に工夫をこらして、ひとつのストーリーを多面的に描こうとする後年のグリフィスの兆しがうかがわれます。

ルネ・クレールは、「映画芸術は、グリフィス以後、何らかの本質的なものを何も付け加えていない」と言っています。

グリフィスがその手腕をいかんなく発揮した絶頂期「最初のゴールデン・イヤー」といわれる1912年に製作された8本、「女性」(16分)、「老男優」(17分)、「大虐殺」(35分)、「狭き道」(17分)、「厚化粧したレディ」(17分)、「ビッグ横丁のならず者」(17分)、「男性」(15分)、「電話交換嬢と御婦人」(17分)が紹介されています。

ここには、ルネ・クレールの言葉にあったように、クローズアップ、ロングショット、フェイド、アイリス、ソフトフォーカス、移動など、カメラによる自在な表現技法を堪能することができます。

まず、「女性」は、いがみ合いながら砂漠を彷徨う3人の女性を描いた作品ですが、同じ頃に撮られた作品が、1作品平均ショット数82に対して、この作品のショットは62と、緩慢なリズムを強調した編集処理によって砂漠の灼熱と渇きがリアルに表現され一層の効果をあげています。

また「老男優」は、栄光の座から滑り落ち、酒に溺れる俳優の悲哀を描いた作品ですが、後年フランス映画が好んで描いた落ちぶれた俳優たちの物語、例えば「旅路の果て」などを髣髴とさせる佳作です。

つづく「大虐殺」は、2巻ものの大作ですが、この作品が撮られた当時、まだ会社側の長尺ものへの警戒心が根強く、公開は、グリフィスがバイオグラフを去った後の1914年まで持ち越されています。

グリフィスの長尺ものを撮りたいという強い欲求の背景には、イタリア映画「クオ・ヴゥヂス」の空前の大ヒットを目の当たりにして刺激されたという説があります。

2時間という当時にあっては驚異的な長尺の史劇でした。

バイオグラフでは、2巻ものを撮ることさえままならない現実に失望したグリフィスは、「クオ・ウヴァヂス」や「カビリア」に劣らない堂々たるアメリカの史劇を撮ろうと、それに相応しい製作環境を求めたのだろうと考えられます。

また、更に、バイオグラフの役員たちが、同時に映画特許会社の役員を兼務しており、彼らは、ザ・トラストの慎重な製作方針をかたくなに固守して、2巻以上の長い作品を許さず、グリフィスと俳優たちの名前を画面に出すことや個人名を宣伝することも許さなかったという事情もあったようです。

技術を身につけ、自信も持ち始めたグリフィスにとって、これらの規制は窮屈そのものだったに違いありません。

会社との軋轢が少しずつ表面化してきた年でもあったわけです。

ほかには、100を超える短いショットを緻密に構成し、多彩なアクションを凝縮した「狭き道」と、地味な娘が男の裏切りと死を知って徐々に精神を病んでいく過程を繊細に描写した悲劇「厚化粧したレディ」、ニューヨークの街頭で撮影されたリリアン・ギッシュの単独主演作「ピッグ横丁のならず者」(この作品は、ギャング映画の起源のひとつとして知られています。リリアン・ギッシュは、同じ年の「見えざる敵An Unseen Enemy」からグリフィス作品に出演していました。) 、「男性」は、山に出かけた浮気男が田舎娘とカヌーで逃げ出し、娘の兄たちに追いつかれる大騒動のすえ、改心して妻の待つ家庭に戻るという活劇調の道徳譚。

アメリカではフィルムが失われたと考えられていた作品で、唯一の可燃性プリントが日本で発見されたといういわくつきの作品です。

1913年製作の作品として「たかが黄金」(17分)と、ラスト・ミニッツ・レスキューの優れた作品例として引き合いに出される「エルダーブッシュ峡谷の戦い」(29分)、そして、主人公の男女が現代と原始時代を自由に行き来するという卓抜なイメージで作られた「先史時代」(32分)と、これまで日本では、しばしば「ベッスリアの女王」として紹介されてきた史劇「アッシリアの遠征」(60分)が上映されます。

なかでも「アッシリアの遠征」は、バイオグラフが撮ることを許さなかった4巻ものの長編映画の製作をグリフィスがあえて強行することで、この会社を去る直接の契機となった作品であり、「国民の創生」や「イントレランス」の栄光と、そして挫折につながっていく彼の映画人生にとって重要な意味を持つ作品です。

それだけの覚悟でグリフィスは、この作品に臨んだのだと思います。

1913年の冬、グリフィスは、ニューヨーク本社の経営陣には無断で、この聖書の物語を企画し、南カリフォルニア、サン・フェルナンド峡谷の岩だらけの大地に城壁都市の巨大で豪華なオープンセットを建てて撮影を始めました。

彼は、演劇には到底真似のできない独自の映像的スタイルの確立し、あらゆる映画技法を駆使した様々なショットを積み重ねることで、映像空間と映画的時間とを併置させ途切れない物語の連続的な表現を目指しました。

カメラは、あらゆる場所にめまぐるしく移動し、群衆から一人へ、近景から遠景へ、そして地上よりの仰視から一転して城壁よりの俯瞰へと動きます。

当時、この偉大な映像叙事詩「アッシリアの遠征」が世論に与えた衝撃は、いままでの散文的説明的な従来の映画の原理の応用をはるかに凌駕し、映画にのみ可能な表現の様式を確立したという賛辞のあとに、「グリフィスは、動く映像の最初の芸術家であり、かつて誰も見ることのなかったような完全な世界をスクリーンに再現した最初の人物である」という賛辞がつけ加えられました。

バイオグラフの経営陣は、規則をないがしろにしたグリフィスに腹を立て、「アッシリアの遠征」の公開を差し止める措置(1914年3月まで抑えられていたということです。)にでる一方で、皮肉にも遅ればせながら、会社側は、時流に押されて長編物の製作を決定します。

しかし、その人選のなかにグリフィスは含まれていませんでした。

1913年9月、グリフィスは、『ニューヨーク・ドラマティック・ミラー』にバイオグラフを辞職する旨の記事を掲載します。

「バイオグラフの大当たりした全作品の製作者にして、映画劇を改革し、この芸術の近代的技法の基礎を確立し、そして更に発展させ続けているD・W・グリフィスは」、つまり自由になった、という広告を出しました。

スコセッシやスピルバーグ、そしてデ・パルマをハリウッドの第9世代と呼んでいる雑誌の記事を読んだことがあります。

その世代のカウントは、当然D・W・グリフィスを第1世代として数え始められるわけですが、ただ、グリフィス自身、そう看做されることをすんなり受け入れるかどうか、ちょっと想像がつきにくいところがあります。

というのも「イントレランス」の実験的な技法を理解せず、大胆すぎる構成や興業的な失敗のみを冷笑してドン・キホーテ扱いしたうえ、この作品を「葬り去った」多くの批評家や映画産業、果ては一般市民に対してまで及ぶグリフィスの不信と剥き出しの敵意が彼自身の中で深刻なものとして存在していたのではないかとおもわれるからです。

ただ、この作品のあまりにも早すぎた実験的な映画技法への挑戦の真の評価が、オーソン・ウエルズなどによってなされるまで、実際にはかなりの時間を要したことを思い合わせるとき、当時の悪意も含んでいたかもしれない評価が、あるいは、致し方なかったのかなという気もします。

簡潔なカッティングや、手や物の極端なクローズ・アップ、そしてパノラミックな遠景、独特のマスキング画面、テンポの速いクロス・カッティングなど、フランスのフォトジェニー論やソビエトのモンタージュ理論に多大な影響を与えたとされる独自の映画言語確立のための意欲的な映画史的貢献は無視されたうえで、むしろスキャンダラスな副次的な側面が過大に取り上げられました。

ある映画批評家は、当時のこの作品に対する世論の一般的な反応をこう要約しています。

半裸の女が大胆にも脚を広げ、あるいは、別のショットでは、入浴中の女が胸部をあらわにした姿を堂々と撮るなど、グリフィスは、バビロンの官能的な場面を今までにない過激で挑発的な描写によって、良識あるアメリカ市民の道徳感覚に挑戦し、逆撫でし、目をそむけさせ、そして反感をかいました。

さらに、彼は監獄を『ときとして不寛容になる家』と呼び、無実の若者に死刑を宣告する法体系に異議を唱えて、合衆国の法律と規則に対する政府の公的な見解にさえ挑戦的な態度をエスカレートさせていきます。

そして映画は、戦場と監獄の光景から花盛りの牧草地の描写に移り、愛と平和の永遠なる理想郷をほのめかすエピローグで終わります。

あまりに抽象的でおしつけがましい説教口調と一人よがりの感傷に満ちたこの「幼稚な」メッセージは、第一次大戦を背景にしていた当時の世論の好戦的な気分からかなりズレており、観客は、この民衆の良識を大きくはずした超大作に失笑し、無視し、結果的には葬り去ることとなる理由だったと見られています。

当然この『イントレランス』は、切符売り場で致命的な打撃をこうむることになりました。

第1次世界大戦さなか、グリフィスがイギリスに招かれて撮った「世界の心」1918や実写本位的な作品「偉大な愛」1918は、もはや往年の野心は失われた凡庸な戦争宣伝映画にすぎず、その押し付けがましい説教口調は、さんざんの酷評を受けることとなります。

グリフィスの時代錯誤をあからさまに非難し、大戦戦時下の時代風潮に適応しようとしない鼻持ちならない強烈な自我と頑迷さ、あるいは、あまりに素朴で抽象的な彼の幼い歴史観や思想が、過去の栄光にあぐらをかいただけの単なる時代遅れの妄想でしかないと非難するものでした。

そして、その見解の正当性をまるで裏付けるような幾つかのエピソードが同時に語られています。

どう考えても実現不可能な自作を専門に上映するための劇場チェーンの構想を唐突に発表したり、映画の字幕1枚ずつに自分の名前を入れたりするなど、ちょっと首を傾げたくなるようなハッタリとも何ともつかない行動をみせます。

この時期の彼を多くの解説書は、「名声は、とめどなく落下した」という表現を使っています。

何をやってもうまくいかない、ギクシャクする追い詰められた状況のなか、チャップリンやフェアバンクス、ピックフォードとともにユナイテッド・アーティスツを組織したグリフィスは、しかし、この時、まるで奇跡のように繊細な作品、あの名作の誉れ高い「散り行く花」1919を生み出しました。

可憐で儚げな白い花リリアン・ギッシュ、貧しくとも気高い理想に生きようとする中国人リチャード・バーセルメス、そして、欲望のままに生きる「けだもの」のようなドナルド・クリスプと、どの役者の演技もスコブル印象的です。

憂さ晴らしのために娘を殴り続け、死に至らしめる愚劣な父親の凶暴と残忍さ、虐待されるままに微かな希望さえ与えられることなく死んでゆく薄幸な少女の虫けらのような死の悲惨と感傷、そして理不尽な暴力に憤り、その愚劣な男を撃ち殺して自分も自殺を遂げる若き中国人の無念さ、この振幅の大きなドラマ展開のなかで、愛とさえ呼べないような微かな心の触れ合いが、繊細に描かれていきます。

結局は、すべての登場人物の無残な死によって、物語自体をことごとく破壊してしまうようなこの作品の根底にある虚しさは、グリフィスの当時の心情を反映していたのでしょうか。

貧しく絶望のどん底で、社会から完全に見捨てられた者同士が、限りなく傷つけあう救いの無い映画です。

「散り行く花」と同じ年1919年に撮られた「大疑問」は、グリフィスがしばしば描いてきた貧しい白人たちの生活を題材としたサスペンス・タッチの81分の中編作品です。

幼児に殺人事件を目撃した無垢な少女リリアン・ギッシュが、何も知らないままに、かつての殺人犯夫婦の家のメイドになるという設定から物語は始まります。

グリフィスの永遠のテーマである南部のpoor white たちの深刻な生活を、穏やかな田園風景のなかでとらえた不思議な雰囲気をもった知られざる傑作として紹介されています。

1924年製作のスペクタクル史劇「アメリカ」は、130分の大作です。

マサチューセッツの民兵ニール・ハミルトンと富豪の娘キャロル・デンプスターの恋物語に多くの登場人物の去就を絡ませた壮観な一大絵巻と紹介されている作品です。

アメリカ独立戦争に題材を求めたこの作品は、同じ南北戦争を扱った「国民の創生」1915と、第一次大戦を扱った「世界の心」1918とともに、グリフィスの戦争三部作と位置づけられている作品ですが、歴史学者ロバート・W・チェンバースの原作を、その細部に至るまで忠実に再現しようとした繊細な配慮がうかがえる戦争叙事詩の力作です。

1924年製作の「素晴らしい哉人生」は、第一次大戦後にポーランドからベルリンの郊外にやって来た教師一家の物語ですが、実際にドイツで撮影されたことでも知られている後期グリフィスの代表作です。

インフレ、失業、食糧難という苦境の中で懸命に生きようとする男女の生活の苦闘を描いた作品ですが、その中の1シーン、収穫した馬鈴薯を盗まれた失意の男ニール・ハミルトンを、女キャロル・デンプスターが力強く励ますラスト・シーンは、黒澤明の「素晴らしき日曜日」1947に多大な影響を与えたことは、広く知られています。

1925年製作の「曲馬団のサリー」は、ブロードウェイ・ミュージカル「ポピー」の映画化です。

サーカスの道に進んで厳格な父から勘当された娘は、やがてサリーという子を産んで息を引き取ります。

そして、成長したサリーは、サーカスの団長とともに母の故郷を訪れますが、孫と祖父母は、互いの身の上を知らない、というところから物語は始まりました。
by sentence2307 | 2007-04-28 22:40 | グリフィス | Comments(2)

国民の創生 ①

1915年に製作されたグリフィスのこの作品が、映像処理の基本的技法(フラッシュ・バックによる映画的時間の処理とか、クロス・アップや超ロングによるモッブ・シーンの使い分け、様々な形のマスキングの使用、ふたつの場面進行を交互に見せるクロス・カッティングなど)を確立した作品といわれるだけに、その優れた映画話法の完成度の高さと饒舌とにより、いま見ても左程語り口の古さを感じることなく鑑賞できるので、逆に、そこで描かれている強烈な人種的偏見も一層生々しく感じてしまうのかもしれません。

この作品は、南北に分かれて戦った二つの家族の若者同士が、南北の和解を象徴するかのように結ばれ結婚するというのが主要な話しの部分なのですが、それとは別に、北軍の勝利により、解放された黒人たちの凶悪な暴動に対処するために、自衛のため仕方なくKKKが組織されたという理由付けもなされています。

結成のタテマエは、自由の身となった黒人たちが白人に対し激しい憎悪をもって対抗し、その脅威に、やむを得ず白衣覆面のKKK団が暴徒と化した黒人に制裁を加えるためと説明されています。

実際に南軍の大佐だったという父親をもったグリフィスが、南軍的雰囲気の環境の中で育まれたに違いないこの暴力的な白人優越主義の人種偏見を、ごく日常的な常識として身につけていたことに驚くと共に、それを抵抗なく受け入れていた社会にも脅威さえ感じます。

そこには黒人を奴隷として虐待していた記憶に根ざす白人の根深い恐怖感が当然あったでしょうが、一方黒人自身のなかにも階級化された選民意識のようなもの(自分だけは特別白人に近いというような一種の優越感のようなもの)を持っていたらしいのです。

例えば1930年代のある黒人劇場では、冷酷で無知で野蛮なステレオタイプの堕落した黒人が、金髪の美女に襲い掛かろうとしている描写とのクロス・カットで、その黒人を制裁するために馬で駆けつけるKKK団の描写の場面が大写しになった時、黒人の観客が抗議どころか、KKKへ熱狂して喝采を送っていたという当時の新聞記事が紹介されており、黒人の中にもそれぞれ階層があって、ある選民意識を持った者の存在もあったことが窺われます。

しかし、これとても形を変えた「奴隷根性」でしかなく、黒人たちの隷従に甘んじた精神の打撃がいかに深刻なものであったかを示唆したエピソードだと思いました。

映画技法ばかりでなく、現代に与えた計り知れない影響から、アメリカ映画の父とも、また「天才と呼ばれるに値する創造性を持ったアメリカで唯一の監督」(K・ブラウンロウ)とも言われたグリフィスの、世界的な名声を得るまでのバイオグラフ社時代に撮られた短篇・中篇作品の一部をかつて京橋のフィルムセンターで見たことがありました。

現在、比較的上映される機会の少ない作品(喜劇から、ドラマ、文芸物、社会劇、ホーム・ドラマ、西部劇とジャンルの幅広さには驚かされます)に接することで、短編ながらも随所に「国民の創生」や「イントレランス」そして珠玉の名品「散り行く花」などを思わせるような巨星グリフィスの卓越した才気の煌めきを見ることができたと思います。

ちなみに、バイオグラフ社在職中の6年間(1908年から1913年の間)に監督した作品は、1~2巻ものとは言え、合計457本という驚くべき数字が残っています(ロバート・M・ヘンダースン「DWグリフィス、バイオグラフ時代」)。

なかでも特に、「ドリーの冒険」を見られたことは、大きな喜びでした。

1908年に、グリフィスはバイオグラフ社で61本の映画を撮影することとなりますが、「ドリーの冒険」(12分)は、そのうちの1本。

グリフィスの監督第1作です。

それまでに、少なくとも23本のバイオグラフ作品に出演し、7本の脚本を手がけたとされています。

その年の6月に撮影された「ドリーの冒険」の成功でグリフィスは一躍バイオグラフ社の看板監督になります。

作品は、田舎の良家のドリーという娘が、ジプシーの男に誘拐されたうえに樽に詰められますが、偶然その樽が小川に落ち、あわやという時に助けられるというプロットの、713フィートの作品です。

会社側は、作品の出来に懐疑的でしたが、観客には大受けし、以後1年半にわたり同社の監督はグリフィスただ一人に任されるという状況になりました。

それは、翌1909年に、グリフィスがバイオグラフ社で撮影した141本という驚異的な本数に現れています。

その中でも、グリフィスらしい才走った作品として、11月に撮影された190本目の監督作、小麦相場師の横暴と民衆の困窮を描く「小麦の買占め」(16分)は、初期の傑作として高い評価を得ています。

ほかに、フランスを舞台とする時代劇「毒蛇の飼育」(16分)や原住民と白人との確執を描く西部劇「インディアンの考え」(17分)、そして別れていた家族が再会するというハッピーエンドで終るクリスマス映画「罠にかかったサンタクロース」(18分)と飲酒による家族離散を教訓的に描いた「ロッキー・ロード」(15分)など1909年に撮られた作品の多様なジャンルから選択されています。

また、撮影はGWビッツァー、ここで挙げた作品では「ドリーの冒険」以外の撮影を担当していて、グリフィス監督の流動的で絵画のような独自の描写力を得ることができたのは、このG・W・ビッツァーとの絶妙なコンビネーションがあったからだというのが、もっぱらの通説のようです。

スクリューボールコメディで知られるプレストン・スタージェス監督のショッキングな晩年の逸話をかなり以前に読んだ記憶があり、それを確かめようと資料をゴソゴソ漁っていたのですが、結局確認できませんでした。

それには、最晩年にパリの街角で酔いどれ落ちぶれ果てた彼の姿を見かけたという証言に続いて、更に、その資料には、その時、スタージェスが、まるで物乞いのような卑屈な態度で、誰彼構わず酒代の小銭をねだっていたという惨めな様子が描かれていた、とうっすらと記憶していたのですが、手元にある資料には、亡くなったのが59年8月で、58年の「パリの休日」では俳優として出演していると書かれていますから、きっと僕の記憶違いか、根も葉も風聞を誤解したのだろうと思います。

しかし、なぜ、プレストン・スタージェスを思い出したかといえば、アメリカ映画の父といわれたグリフィスの晩年も、かなり悲惨なものだったらしいのです。

キネマ旬報の「世界映画人名辞典・監督編」には、その最期を、このように記していました。

「1931年を最後に引退するとまもなく、この『アメリカ映画の父』は、映画界から遠ざけられ、48年7月23日、ハリウッドのニッカーボッカー・ホテルでひとりさびしく息をひきとった」とありました。

あまり幸福そうな最期とも思えません。

また、別の資料には、こう記されています。

「映画の発達とともに歩んだグリフィスの初期の大成功と後期の大失敗の物語は、近年このメディアに感心を抱くすべての人におなじみのものとなっている。
バイオグラフにおける成長と革新の先駆者時代、白人優位を謳って論議の的となった長編映画『国民の創生』、いまだに映画史上、最も偉大な作品と主張する人の多い2番目の長編『イントレランス』、年を追って高まる名声、統率力と多産ぶり、彼自身の撮影所、『散り行く花』と『東への道』のようなより古典的な作品、そして財政上のつまずき、独立性の喪失、恥辱と失敗、酒、ケンタッキーでの孤独な年月と南カリフォルニアのパステル調の化粧漆喰の家、そして最期にニッカーボッカー・ホテルでの死。」

とても複雑な気持ちでこの一文を読みました。

「いま」という時代を映す鏡としての映画も、時が移り、その役割を終えて表舞台から退場を余儀なくされるとき、たとえ天才と言われたグリフィスにして、このさびしく惨めな晩年だったのか、と始めはショックでした。

しかし、すぐに自分の考え違いに気づきました。

その最期の瞬間、たとえ映画界から必要とされなくなり、もはや自分が成し得ることが何一つなくなって絶望的な酒びたりの日々を送ったとしも、グリフィスが果たして「惨め」だったかと言えば、違うように思えてなりません。

たとえ時代についていけない自分に苛立ち怒っても、決して「惨め」にだけはならなかったのではないか、と思えてきました。

「成し遂げた誇り」の高さの分だけ彼に絶望感を味合わせたように、それは彼の支えでもあったのではないかと思えてきたのです。

驚異的な量産を続けながら、それら一連の短編作品のなかで、繰り返し描かれながら徐々にひとつのテーマが絞り込まれていく過程を僕たちは知ることになります。

例えば、1910年に撮られた「不変の海」(16分)は、「航海に出た水夫を待つ妻」をテーマとした作品ですが、前の年に撮られた「時は流れて(または、幾歳の後)After Many Years」に連なり、以後も複数の「イーノック・アーデンEnoch Arden」(1911)で様々な形の発展的な変容を遂げ、グリフィス自らが語るべき物語の軸を次第に見出していく過程を知ることができると思います。

また、「国民の創生」(1915)で頂点を極めることになるグリフィスの一連の南北戦争ものの原点のひとつと言ってもいい、同じ1910年作品「境界州にて」(17分)と「鎧戸の締まった家」(16分)は、密書を届ける危険な任務につく兵士とその勇敢な妹をそれぞれ北軍、南軍の側から描いており、ひとつのストーリーを多面的に深めて行くグリフィスの深い洞察力を窺うことができると思います。

そのほかの1910年作品としては、家族を失った少女が新たな家族を見出す「ゲットーの娘」(17分)と、前年の「毒蛇の飼育」に続いてフランス革命に題材をとった「誓いと人間」(17分)が紹介されます。

「誓いと人間」のテーマは、のちに主演リリアン・ギッシュで撮られた「嵐の孤児」(1925)によって大きく開花しました。

バイオグラフ社にいた1908年から1913年の間に、グリフィスが養成した俳優は、リンダ・アーヴィドスン(グリフィス夫人)、マリオン・レオナード、フランク・ポウエル、フローレンス・ローレンス、マック・セネット、O・ムーア、ジェイムス・カークウッド、ヘンリー・ウォルソール、メーベル・ノーマンド、ドナルド・クリスプ、ブランチ・スウィート、ライオネル・バリモア、だそうです。

また、それらの作品の原作には、多くの古典の引用か、または、そこから着想の手掛かりを得たものが比較的多い印象を受けます。

テニスン、シェイクスピア、ディケンズなど、多くの文豪の名前が散見されます。

457本も量産しなければならなかったのですから、それら古典からの剽窃は、あるいは合理的な考え方に基づいてのことだったのかも知れませんし、グリフィスの教養の深さを示しているのかもしれませんが、少しひねった考え方をすると、そこには、早くから社会に出て働かなければならなかった少年の満たされなかった知識欲(悪く言えば、「教養」に対する深いコンプレックス)の表れとか飢えを感じてしまいます。

そして、それは「国民の創生」や「イントレランス」などに見られる一種の異常な事大主義に反映していったのではないか、あれらの巨大な妄想のような作品は、そうした「教養」への飽くなき劣等感が生み出した怪物だったのではなかったのかと思えてしまったのでした。
by sentence2307 | 2007-04-28 22:39 | グリフィス | Comments(55)
以前、京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターでは、「シネマの冒険・闇と音楽 グリフィス選集」と題してD・W・グリフィス監督の短編映画を主にして、中編を合わせた30作品を12プログラムに構成して上映していました。

映画技法ばかりでなく、現代に与えた計り知れない影響から、アメリカ映画の父とも、また「天才と呼ばれるに値する創造性を持ったアメリカで唯一の監督」(K・ブラウンロウ)とも言われたグリフィスの、世界的な名声を得るまでのバイオグラフ社時代に撮られた短篇・中篇作品です。

現在、比較的上映される機会の少ないこれらの作品(喜劇から、ドラマ、文芸物、社会劇、ホーム・ドラマ、西部劇とジャンルの幅広さには驚かされます)に接することで、短編ながらも随所に「国民の創生」や「イントレランス」そして珠玉の名品「散り行く花」などを思わせるような巨星グリフィスの卓越した才気の煌めきを見ることができることと思います。

ちなみに、バイオグラフ社在職中の6年間(1908年から1913年の間)に監督した作品は、1~2巻ものとは言え、合計457本という驚くべき数字が残っています(ロバート・M・ヘンダースン「DWグリフィス、バイオグラフ時代」)。

なかでも特に、「ドリーの冒険」を見られることは、大きな喜びですよね。

1908年に、グリフィスはバイオグラフ社で61本の映画を撮影することとなりますが、「ドリーの冒険」(12分)は、そのうちの1本。グリフィスの監督第1作です。

それまでに、少なくとも23本のバイオグラフ作品に出演し、7本の脚本を手がけたとされています。

その年の6月に撮影された「ドリーの冒険」の成功でグリフィスは一躍バイオグラフ社の看板監督になります。

作品は、田舎の良家のドリーという娘が、ジプシーの男に誘拐されたうえに樽に詰められますが、偶然その樽が小川に落ち、あわやという時に助けられるというプロットの、713フィートの作品です。

会社側は、作品の出来に懐疑的でしたが、観客には大受けし、以後1年半にわたり同社の監督はグリフィスただ一人に任されるという状況になりました。

それは、翌1909年に、グリフィスがバイオグラフ社で撮影した141本という驚異的な本数に現れています。

その中でも、グリフィスらしい才走った作品として、11月に撮影された190本目の監督作、小麦相場師の横暴と民衆の困窮を描く「小麦の買占め」(16分)は、初期の傑作として高い評価を得ています。

ほかに、フランスを舞台とする時代劇「毒蛇の飼育」(16分)や原住民と白人との確執を描く西部劇「インディアンの考え」(17分)、そして別れていた家族が再会するというハッピーエンドで終るクリスマス映画「罠にかかったサンタクロース」(18分)と飲酒による家族離散を教訓的に描いた「ロッキー・ロード」(15分)など1909年に撮られた作品の多様なジャンルから選択されています。

また、撮影はGWビッツァー、ここで挙げた作品では「ドリーの冒険」以外の撮影を担当していて、グリフィス監督の流動的で絵画のような独自の描写力を得ることができたのは、このG・W・ビッツァーとの絶妙なコンビネーションがあったからだというのが、もっぱらの通説のようです。

スクリューボールコメディで知られるプレストン・スタージェス監督のショッキングな晩年の逸話をかなり以前に読んだ記憶があり、それを確かめようと資料をゴソゴソ漁っていたのですが、結局確認できませんでした。

それには、最晩年にパリの街角で酔いどれ落ちぶれ果てた彼の姿を見かけたという証言に続いて、更に、その資料には、その時、スタージェスが、まるで物乞いのような卑屈な態度で、誰彼構わず酒代の小銭をねだっていたという惨めな様子が描かれていた、とうっすらと記憶していたのですが、手元にある資料には、亡くなったのが59年8月で、58年の「パリの休日」では俳優として出演していると書かれていますから、きっと僕の記憶違いか、根も葉も風聞を誤解したのだろうと思います。

しかし、なぜ、プレストン・スタージェスを思い出したかといえば、アメリカ映画の父といわれたグリフィスの晩年も、かなり悲惨なものだったらしいのです。

キネマ旬報の「世界映画人名辞典・監督編」には、その最期を、このように記していました。

「1931年を最後に引退するとまもなく、この『アメリカ映画の父』は、映画界から遠ざけられ、48年7月23日、ハリウッドのニッカーボッカー・ホテルでひとりさびしく息をひきとった」とありました。

あまり幸福そうな最期とも思えません。

また、別の資料には、こう記されています。

「映画の発達とともに歩んだグリフィスの初期の大成功と後期の大失敗の物語は、近年このメディアに感心を抱くすべての人におなじみのものとなっている。
バイオグラフにおける成長と革新の先駆者時代、白人優位を謳って論議の的となった長編映画『国民の創生』、いまだに映画史上、最も偉大な作品と主張する人の多い2番目の長編『イントレランス』、年を追って高まる名声、統率力と多産ぶり、彼自身の撮影所、『散り行く花』と『東への道』のようなより古典的な作品、そして財政上のつまずき、独立性の喪失、恥辱と失敗、酒、ケンタッキーでの孤独な年月と南カリフォルニアのパステル調の化粧漆喰の家、そして最期にニッカーボッカー・ホテルでの死。」

とても複雑な気持ちでこの一文を読みました。

「いま」という時代を映す鏡としての映画も、時が移り、その役割を終えて表舞台から退場を余儀なくされるとき、たとえ天才と言われたグリフィスにして、このさびしく惨めな晩年だったのか、と始めはショックでした。

しかし、すぐに自分の考え違いに気づきました。

その最期の瞬間、たとえ映画界から必要とされなくなり、もはや自分が成し得ることが何一つなくなって絶望的な酒びたりの日々を送ったとしも、グリフィスが果たして「惨め」だったかと言えば、違うように思えてなりません。

たとえ時代についていけない自分に苛立ち怒っても、決して「惨め」にだけはならなかったのではないか、と思えてきました。

「成し遂げた誇り」の高さの分だけ彼に絶望感を味合わせたように、それは彼の支えでもあったのではないかと思えてきたのです。

驚異的な量産を続けながら、それら一連の短編作品のなかで、繰り返し描かれながら徐々にひとつのテーマが絞り込まれていく過程を僕たちは知ることになります。

例えば、1910年に撮られた「不変の海」(16分)は、「航海に出た水夫を待つ妻」をテーマとした作品ですが、前の年に撮られた「時は流れて(または、幾歳の後)After Many Years」に連なり、以後も複数の「イーノック・アーデンEnoch Arden」(1911)で様々な形の発展的な変容を遂げ、グリフィス自らが語るべき物語の軸を次第に見出していく過程を知ることができると思います。

また、「国民の創生」(1915)で頂点を極めることになるグリフィスの一連の南北戦争ものの原点のひとつと言ってもいい、同じ1910年作品「境界州にて」(17分)と「鎧戸の締まった家」(16分)は、密書を届ける危険な任務につく兵士とその勇敢な妹をそれぞれ北軍、南軍の側から描いており、ひとつのストーリーを多面的に深めて行くグリフィスの深い洞察力を窺うことができると思います。

そのほかの1910年作品としては、家族を失った少女が新たな家族を見出す「ゲットーの娘」(17分)と、前年の「毒蛇の飼育」に続いてフランス革命に題材をとった「誓いと人間」(17分)が紹介されます。

「誓いと人間」のテーマは、のちに主演リリアン・ギッシュで撮られた「嵐の孤児」(1925)によって大きく開花しました。

バイオグラフ社にいた1908年から1913年の間に、グリフィスが養成した俳優は、リンダ・アーヴィドスン(グリフィス夫人)、マリオン・レオナード、フランク・ポウエル、フローレンス・ローレンス、マック・セネット、O・ムーア、ジェイムス・カークウッド、ヘンリー・ウォルソール、メーベル・ノーマンド、ドナルド・クリスプ、ブランチ・スウィート、ライオネル・バリモア、だそうです。

また、それらの作品の原作には、多くの古典の引用か、または、そこから着想の手掛かりを得たものが比較的多い印象を受けます。

テニスン、シェイクスピア、ディケンズなど、多くの文豪の名前が散見されます。

457本も量産しなければならなかったのですから、それら古典からの剽窃は、あるいは合理的な考え方に基づいてのことだったのかも知れませんし、グリフィスの教養の深さを示しているのかもしれませんが、少しひねった考え方をすると、そこには、早くから社会に出て働かなければならなかった少年の満たされなかった知識欲(悪く言えば、「教養」に対する深いコンプレックス)の表れとか飢えを感じてしまいます。

そして、それは「国民の創生」や「イントレランス」などに見られる一種の異常な事大主義に反映していったのではないか、あれらの巨大な妄想のような作品は、そうした「教養」への飽くなき劣等感が生み出した怪物だったのではなかったのかと思えてしまったのでした。

1911年に製作された短編からは、職を失い、盗みを働いて捕らえられ、さらに妻を失う老人の救いの無い末路を描いた「老人たちをどうすべきか」(16分)のほかに、「女は嘲笑した」(17分)と薬物の脅威を訴える「息子のために」(16分)の3本が紹介されています。

この「老人たちをどうすべきか」のような悲劇的な結末を持つ作品は、この時期のバイオグラフにおいては一般的な傾向で、観客の強い支持があったのか、類似の作品が多く見られます。

また、「ドリーの冒険」や「国民の創生」にみられるような、いわゆるグリフィスのラスト・ミニッツ・レスキュー(最期の救出)の典型的なパターン(泥棒に襲われた一家を救いに駆けつける)の作品として挙げられるのが「女は嘲笑した」でしょうか。

悪役である泥棒を一途に愛する健気な娘を中心に据え、視点に工夫をこらして、ひとつのストーリーを多面的に描こうとする後年のグリフィスの兆しがうかがわれます。

ルネ・クレールは、「映画芸術は、グリフィス以後、何らかの本質的なものを何も付け加えていない」と言っています。

グリフィスがその手腕をいかんなく発揮した絶頂期「最初のゴールデン・イヤー」といわれる1912年に製作された8本、「女性」(16分)、「老男優」(17分)、「大虐殺」(35分)、「狭き道」(17分)、「厚化粧したレディ」(17分)、「ビッグ横丁のならず者」(17分)、「男性」(15分)、「電話交換嬢と御婦人」(17分)が紹介されています。

ここには、ルネ・クレールの言葉にあったように、クローズアップ、ロングショット、フェイド、アイリス、ソフトフォーカス、移動など、カメラによる自在な表現技法を堪能することができます。

まず、「女性」は、いがみ合いながら砂漠を彷徨う3人の女性を描いた作品ですが、同じ頃に撮られた作品が、1作品平均ショット数82に対して、この作品のショットは62と、緩慢なリズムを強調した編集処理によって砂漠の灼熱と渇きがリアルに表現され一層の効果をあげています。

また「老男優」は、栄光の座から滑り落ち、酒に溺れる俳優の悲哀を描いた作品ですが、後年フランス映画が好んで描いた落ちぶれた俳優たちの物語、例えば「旅路の果て」などを髣髴とさせる佳作です。

つづく「大虐殺」は、2巻ものの大作ですが、この作品が撮られた当時、まだ会社側の長尺ものへの警戒心が根強く、公開は、グリフィスがバイオグラフを去った後の1914年まで持ち越されています。

グリフィスの長尺ものを撮りたいという強い欲求の背景には、イタリア映画「クオ・ヴゥヂス」の空前の大ヒットを目の当たりにして刺激されたという説があります。

2時間という当時にあっては驚異的な長尺の史劇でした。

バイオグラフでは、2巻ものを撮ることさえままならない現実に失望したグリフィスは、「クオ・ウヴァヂス」や「カビリア」に劣らない堂々たるアメリカの史劇を撮ろうと、それに相応しい製作環境を求めたのだろうと考えられます。

また、更に、バイオグラフの役員たちが、同時に映画特許会社の役員を兼務しており、彼らは、ザ・トラストの慎重な製作方針をかたくなに固守して、2巻以上の長い作品を許さず、グリフィスと俳優たちの名前を画面に出すことや個人名を宣伝することも許さなかったという事情もあったようです。

技術を身につけ、自信も持ち始めたグリフィスにとって、これらの規制は窮屈そのものだったに違いありません。

会社との軋轢が少しずつ表面化してきた年でもあったわけです。

ほかには、100を超える短いショットを緻密に構成し、多彩なアクションを凝縮した「狭き道」と、地味な娘が男の裏切りと死を知って徐々に精神を病んでいく過程を繊細に描写した悲劇「厚化粧したレディ」、ニューヨークの街頭で撮影されたリリアン・ギッシュの単独主演作「ピッグ横丁のならず者」(この作品は、ギャング映画の起源のひとつとして知られています。リリアン・ギッシュは、同じ年の「見えざる敵An Unseen Enemy」からグリフィス作品に出演していました。) 、「男性」は、山に出かけた浮気男が田舎娘とカヌーで逃げ出し、娘の兄たちに追いつかれる大騒動のすえ、改心して妻の待つ家庭に戻るという活劇調の道徳譚。アメリカではフィルムが失われたと考えられていた作品で、唯一の可燃性プリントが日本で発見されたといういわくつきの作品です。

1913年製作の作品として「たかが黄金」(17分)と、ラスト・ミニッツ・レスキューの優れた作品例として引き合いに出される「エルダーブッシュ峡谷の戦い」(29分)、そして、主人公の男女が現代と原始時代を自由に行き来するという卓抜なイメージで作られた「先史時代」(32分)と、これまで日本では、しばしば「ベッスリアの女王」として紹介されてきた史劇「アッシリアの遠征」(60分)が上映されます。

なかでも「アッシリアの遠征」は、バイオグラフが撮ることを許さなかった4巻ものの長編映画の製作をグリフィスがあえて強行することで、この会社を去る直接の契機となった作品であり、「国民の創生」や「イントレランス」の栄光と、そして挫折につながっていく彼の映画人生にとって重要な意味を持つ作品です。

それだけの覚悟でグリフィスは、この作品に臨んだのだと思います。

1913年の冬、グリフィスは、ニューヨーク本社の経営陣には無断で、この聖書の物語を企画し、南カリフォルニア、サン・フェルナンド峡谷の岩だらけの大地に城壁都市の巨大で豪華なオープンセットを建てて撮影を始めました。

彼は、演劇には到底真似のできない独自の映像的スタイルの確立し、あらゆる映画技法を駆使した様々なショットを積み重ねることで、映像空間と映画的時間とを併置させ途切れない物語の連続的な表現を目指しました。

カメラは、あらゆる場所にめまぐるしく移動し、群衆から一人へ、近景から遠景へ、そして地上よりの仰視から一転して城壁よりの俯瞰へと動きます。

当時、この偉大な映像叙事詩「アッシリアの遠征」が世論に与えた衝撃は、いままでの散文的説明的な従来の映画の原理の応用をはるかに凌駕し、映画にのみ可能な表現の様式を確立したという賛辞のあとに、「グリフィスは、動く映像の最初の芸術家であり、かつて誰も見ることのなかったような完全な世界をスクリーンに再現した最初の人物である」という賛辞がつけ加えられました。

バイオグラフの経営陣は、規則をないがしろにしたグリフィスに腹を立て、「アッシリアの遠征」の公開を差し止める措置(1914年3月まで抑えられていたということです。)にでる一方で、皮肉にも遅ればせながら、会社側は、時流に押されて長編物の製作を決定します。

しかし、その人選のなかにグリフィスは含まれていませんでした。

1913年9月、グリフィスは、『ニューヨーク・ドラマティック・ミラー』にバイオグラフを辞職する旨の記事を掲載します。

「バイオグラフの大当たりした全作品の製作者にして、映画劇を改革し、この芸術の近代的技法の基礎を確立し、そして更に発展させ続けているD・W・グリフィスは」、つまり自由になった、という広告を出しました。

マーティン・スコセッシが今年のアカデミー賞でどこまで健闘するのか、とても楽しみですね。

そのスコセッシやスピルバーグ、そしてデ・パルマをハリウッドの第9世代と呼んでいる雑誌の記事を読んだことがあります。

その世代のカウントは、当然D・W・グリフィスを第1世代として数え始められるわけですが、ただ、グリフィス自身、そう看做されることをすんなり受け入れるかどうか、ちょっと想像がつきにくいところがあります。

というのも「イントレランス」の実験的な技法を理解せず、大胆すぎる構成や興業的な失敗のみを冷笑してドン・キホーテ扱いしたうえ、この作品を「葬り去った」多くの批評家や映画産業、果ては一般市民に対してまで及ぶグリフィスの不信と剥き出しの敵意が彼自身の中で深刻なものとして存在していたのではないかとおもわれるからです。

ただ、この作品のあまりにも早すぎた実験的な映画技法への挑戦の真の評価が、オーソン・ウエルズなどによってなされるまで、実際にはかなりの時間を要したことを思い合わせるとき、当時の悪意も含んでいたかもしれない評価が、あるいは、致し方なかったのかなという気もします。

簡潔なカッティングや、手や物の極端なクローズ・アップ、そしてパノラミックな遠景、独特のマスキング画面、テンポの速いクロス・カッティングなど、フランスのフォトジェニー論やソビエトのモンタージュ理論に多大な影響を与えたとされる独自の映画言語確立のための意欲的な映画史的貢献は無視されたうえで、むしろスキャンダラスな副次的な側面が過大に取り上げられました。

ある映画批評家は、当時のこの作品に対する世論の一般的な反応をこう要約しています。

半裸の女が大胆にも脚を広げ、あるいは、別のショットでは、入浴中の女が胸部をあらわにした姿を堂々と撮るなど、グリフィスは、バビロンの官能的な場面を今までにない過激で挑発的な描写によって、良識あるアメリカ市民の道徳感覚に挑戦し、逆撫でし、目をそむけさせ、そして反感をかいました。
さらに、彼は監獄を『ときとして不寛容になる家』と呼び、無実の若者に死刑を宣告する法体系に異議を唱えて、合衆国の法律と規則に対する政府の公的な見解にさえ挑戦的な態度をエスカレートさせていきます。
そして映画は、戦場と監獄の光景から花盛りの牧草地の描写に移り、愛と平和の永遠なる理想郷をほのめかすエピローグで終わります。

あまりに抽象的でおしつけがましい説教口調と一人よがりの感傷に満ちたこの「幼稚な」メッセージは、第一次大戦を背景にしていた当時の世論の好戦的な気分からかなりズレており、観客は、この民衆の良識を大きくはずした超大作に失笑し、無視し、結果的には葬り去ることとなる理由だったと見られています。

当然この『イントレランス』は、切符売り場で致命的な打撃をこうむることになりました。

第1次世界大戦さなか、グリフィスがイギリスに招かれて撮った「世界の心」1918や実写本位的な作品「偉大な愛」1918は、もはや往年の野心は失われた凡庸な戦争宣伝映画にすぎず、その押し付けがましい説教口調は、さんざんの酷評を受けることとなります。

グリフィスの時代錯誤をあからさまに非難し、大戦戦時下の時代風潮に適応しようとしない鼻持ちならない強烈な自我と頑迷さ、あるいは、あまりに素朴で抽象的な彼の幼い歴史観や思想が、過去の栄光にあぐらをかいただけの単なる時代遅れの妄想でしかないと非難するものでした。

そして、その見解の正当性をまるで裏付けるような幾つかのエピソードが同時に語られています。

どう考えても実現不可能な自作を専門に上映するための劇場チェーンの構想を唐突に発表したり、映画の字幕1枚ずつに自分の名前を入れたりするなど、ちょっと首を傾げたくなるようなハッタリとも何ともつかない行動をみせます。

この時期の彼を多くの解説書は、「名声は、とめどなく落下した」という表現を使っています。

何をやってもうまくいかない、ギクシャクする追い詰められた状況のなか、チャップリンやフェアバンクス、ピックフォードとともにユナイテッド・アーティスツを組織したグリフィスは、しかし、この時、まるで奇跡のように繊細な作品、あの名作の誉れ高い「散り行く花」1919を生み出しました。
by sentence2307 | 2004-11-12 21:30 | グリフィス | Comments(0)