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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:ロブ・マーシャル( 1 )

SAYURI

花街という極めて特殊な社会を、まるで「これが日本だ」みたいに描いたこの作品に対して、観た人たちに多くの反撥があったことは聞いていました。

あるいは、日本が舞台の作品なら、主役に日本の女優を起用するのが当然じゃないか、端役だって、もっと素晴らしい俳優が日本にはたくさんいるわけだし、なんでまた、こんなふうに英語と日本語がチャンポンに飛び交う怪しげな多国籍キャストにしなければならないのだという意見があったことも聞きました。

ある過酷な時代の日本を忠実に再現しようというのがこの映画の狙いだとしたら、「ここで描かれているのは、日本ではない」という言い方は、妥当かもしれません。

しかし、そのように異議を唱え検証できるほど、僕たち自身がその当時の日本の状況や花街について精通していると言えるでしょうか。

たぶん、この映画が、花街の忠実な再現などを目指しているわけではなく、欲に駆られた人間たちの好色と享楽、策謀と金とが交錯し、性欲の対象たる「処女」の値段を競り合うイカガワシイ「欲望の磁場」として「花街」を捉えようとした作品なら、なにも寸分違わぬ写実にこだわる必要など端からあるはずもないと考えました。

あるいは、この映画が描いている花街や芸者たちの「しきたり」や「儀式」の描写についての不完全さや錯誤を指摘する意見も、あまりに表面的で浅墓なこだわりでしかないものばかりで思わず失笑してしまいました。

かつての日本で公然と行われていた極貧の家庭の娘たちの人身売買と、借金の拘束によって為されていた売春の強要など、人間のもっとも醜い欲望が絡み合った特殊社会「花街」において、整然と体系化された厳格な「しきたり」や「儀式」が必要とされたのは、欲望に狂う人間の醜く生々しい行為をバックアップし正当化する役割を果たす制度が是非とも必要だったからにすぎず、例えば「吉原」を例にとって考えてみれば、それらは容易に理解できることだと思います。

絢爛豪華で艶やかな芸者の世界の「しきたり」や「儀式」を表面的になぞれば、ただそれだけで根底に蠢いていた「人間の欲望」のいかがわしい部分までをも描き切れたかどうか、やはりそれは疑問といわざるをえないでしょう。

また、繊細で意志強固な難しいこの役SAYURIを迫真の演技で演じきったチャン・ツィイーに匹敵するだけの女優が日本にいるのかと考えれば、結局は、残念ながら、このハードな生涯を生きた芸者SAYURI役に相応しい女優さんを思い浮かべることができないのは、彼女たちの演技力が不足しているとか、容姿がどうのとかいう次元の問題ではなく、もっとそれ以前のもの、いってみれば僕たちがとっくの昔に失い、そして忘れてしまった日本人独特の感性と、「モラル」に対する考え方が理解できるかどうか、その微妙なところを、すっかり様変わりしてしまったこの現代の日本社会にどっぷりと浸かって生きている女優さんたちに、果たして表現することができるだろうかという危惧でした。

もちろん誰彼というのではなく、おしなべて、という意味でですが。

それなら、かのチャン・ツィイーは「それ」が出来たのかと問い返されるかもしれませんが、僕としては、日本人以上に彼女が「芸者の掟」を外国人の立場から、ひとつの「知識」として、かえって理解しやすかったのではないかと思いました。

この映画のもっとも重要なテーマは、「芸者は、芸は売ってもカラダは売らない」という、いわば信念とか矜持とか花柳界に生きる彼女たちの「意地」を言い表した言葉に象徴的に表現されていると思います。

つまり、自分の肉体しか財産といえるものを持たない貧しい出自の彼女たちにとって、芸妓の道を踏み外すことは、そのまま苦界に身を落とすことに直結しており、身を汚す売春から一線を画して芸に生きるということは、彼女たちにとって切実な問題だったに違いありません。

成瀬巳喜男の「歌行燈」において、花柳章太郎が、山田五十鈴に繰り返し「男のおもちゃになるなよ」と諭す言葉のなかに、芸で身を立てていこうとする女に対する厳しい戒めの思いが込められていたことを連想せずにはいられませんでした。

だからこそ、世話になっている置屋に重大な損害を与えてしまったSAYURIが、その負債を贖うまでの間、下女として下働きを強いられたとき、それが芸者になる途を閉ざされた彼女の絶望をも言い表していたことがよく理解できるとともに、励ましの言葉を掛け、生きる希望と目的を与えてくれた「会長」に対する思いが、恋とは少し違う彼女の生存にかかわる報恩的なものであり、それが彼女たちの生き方としての「モラル」の一部だったと理解することは、そんなに難しいことではありません。

この作品が、クライマックスに向かって不思議な高揚感に満たされているのは、過酷な環境に耐えて、笑みを忘れたひとりの少女の、ひたすら一流の芸者の途を駆け上っていく気持ちの拠り所となったその幼い一途な思いが、同時に影ながら「会長」の支えに導かれていたものであったことを知らされるラストのささやかな「衝撃」によって、SAYURIと僕たち観客が、等しく受ける幸福感にあったからかもしれません。

(05)監督・ロブ・マーシャル、製作・スティーヴン・スピルバーグ、ルーシー・フィッシャー、ダグラス・ウィック、製作総指揮・ゲイリー・バーバー、ロジャー・バーンバウム、ボビー・コーエン、パトリシア・ウィッチャー、原作・アーサー・ゴールデン、脚本・ロビン・スウィコード、ダグ・ライト、撮影・ディオン・ビーブ、プロダクションデザイン・ジョン・マイヤー、衣装デザイン・コリーン・アトウッド、編集・ピエトロ・スカリア、音楽・ジョン・ウィリアムズ
出演・チャン・ツィイー、渡辺謙、ミシェル・ヨー、役所広司、桃井かおり、工藤夕貴、大後寿々花、ケネス・ツァン、コン・リー、ツァイ・チン、ケイリー=ヒロユキ・タガワ、ランダル・ダク・キム、テッド・レヴィン、ポール・アデルスタイン、ユージニア・ユアン、カール・ユーン、シズコ・ホシ、伊川東吾、マコ岩松
by sentence2307 | 2007-05-07 09:24 | ロブ・マーシャル | Comments(0)