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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:三谷幸喜( 2 )

笑の大学

録画する際にチャンネルの設定を間違えて、まったく別の映画を録画してしまうなんてことが、結構あります。

何ヶ月も経ってから、ケースに記されたタイトルを信じて再生ボタンを押して、はじめて間違いに気が付くという始末です。

以前なら、そんなとき、見損なってしまった映画のことばかりに気持ちがいってしまい、癪に障って、折角録画した作品まで消去してしまうなんてこともありました。

しかし、考えてみれば、そういう偶然(見たいとは思っていなかった作品が、逆に見られるという成り行き)もなかなかオツなものではないかと最近思うようになりました。

自分の選択の基準に囚われて、普通なら絶対に見るはずもない作品を、こういうかたちで見る機会を得られるというのは、ある意味、自分の狭い価値観の限界を教えてもらえるチャンスでもあるかもしれないからです。

「笑の大学」は、そんなふうな出会い方をするのには、最も望ましい時間の経過と印象の成熟を持った作品だったといえるかもしれません。

作品の印象は、やはり強烈な部分だけを残して、薄い部分はどんどん忘れつつあります、それと同時に、この映画は「こういう作品だ」と決め付けた自分の凝り固まった固定観念を思い知らされるいい機会だったかもしれません。

時間の経過による、そういう自分と作品とのイビツなギャップを知るということは、とても素晴らしい体験をさせてくれることを、この「笑の大学」は教えてくれたと思います。

先入観が自分の中でコチコチに固定化されてしまえば、それから先は、自分からは二度とその作品を見ようなどという意欲は失われてしまうはずで、今回こんなかたちで録画設定を間違える偶然がなければ、この「笑の大学」という作品を、こんなふうにして見ることもなかったかと思うと、こういう偶然て大切なのかもしれないと思えるようになりました。

さて、この「笑の大学」という作品に対する自分のなかにある「固定観念」というヤツを少しだけ書いてみますね。

普通言われている権力への抵抗のカタチとしては、権力からのすべての働きかけを拒絶して信念を貫き、死を掛けて徹底抗戦するのがひとつの行き方だとすれば、稲垣吾郎演じる椿一の闘い方は、権力者からの無理難題をすべて受け入れ折り合いながら、どうにかして作品を優れたものに仕上げていこうという行き方です。

死をもイトワヌ徹底抗戦の方は、格好もいいし、同志からの賞賛も得やすい。

それに反して、権力者にぴったりと寄り添いながら折衷案を模索してどうにか行き場を切り開こうとする行き方は、日和見と誤解され、裏切り者と非難され、臆病者と軽蔑されたうえで排除され、悪くすると末期の連合赤軍のような内部処刑くらいは喰らいかねないオソレさえある。

検閲官の言いなりになって台本をどんどん書き換えていく椿一に対して、座員たちは、その不甲斐ない椿を「権力の犬」と罵って殴りつけたというエピソードも語られています。

「マイケル・コリンズ」や「麦の穂を揺らす風」みたいな作品を堂々と世に送り出す風土の国から見れば、なんとも女々しい「笑の大学」ではありますが、しかし、ここには考える価値が十分にそなわった「大人の問題」が内包されているという気がします。

むしろ、憎しみから躊躇なく敵を虐殺し、その憎悪の達成感から心底快笑するような「マイケル・コリンズ」や「麦の穂を揺らす風」の異常さにはどうしても付いていくことのできない自分にとって、この現実的な「笑の大学」のテーマは、成熟した大人のテーマだと思いました。

しかし、それなら何故、設定間違いでもしなければ、二度と見ることもない「戸棚」に仕舞い込んでしまったのかといえば、あのラストの場面、椿一が心通わせたと思い込んだ検閲官サキサカに、チカラない庶民の闘い方を滔々と話し始めた場面で、自分はこの作品に失望し、その失望感が作品の悪印象につながり、「その程度の作品」という記憶の固定観念の棚に仕舞い込んだのだと思います。

しかし、再度この作品を見て、その印象が、随分と早計すぎた結論であることを悟りました。

この作品が、椿一の闘い方の物語であるよりは、むしろ、検閲官サキサカの、人を楽しませることに何の意味があるのだと問い続け、そして、答えを得ていく物語なのだと分かりました。

(2004東宝)原作・脚本:三谷幸喜、監督:星護、製作:亀山千広、島谷能成、伊藤勇、企画:石原隆、プロデューサー:重岡由美子、市川南、稲田秀樹、アソシエイトプロデューサー:小川泰、佐藤玄、エグゼクティブプロデューサー:前島良行、音楽:本間勇輔、撮影:高瀬比呂史、美術:清水剛、照明:小野晃、録音:田中靖志、装飾:高畠一朗、編集:山本正明、スクリプター:外川恵美子、監督補:加門幾生、製作担当:牧義寛
出演・役所広司、稲垣吾郎、高橋昌也、小松政夫、石井トミコ、小橋めぐみ、河野安郎、長江英和、ダン・ケニー、チュフォレッティ、吉田朝、陰山泰、蒲生純一、つじしんめい、伊勢志摩、小林令門、眞島秀和、木村多江、八嶋智人、加藤あい、木梨憲武
by sentence2307 | 2009-05-24 17:04 | 三谷幸喜 | Comments(0)

笑の大学

戦前の検閲といえば、すぐにも陰惨な拷問の伴う思想検閲を連想してしまいがちですが、軽演劇に対しても、このような検閲があったのかという意想外の驚きを、この映画から受けました。

よりにもよって喜劇に対する検閲なんて、実に素晴らしい着眼点だと(もっとも、これは架空のものではなく、実際にあったことなのでしょうが)感心し、その着想の面白さに感嘆しました。

「この重大な時局にあって、不真面目にも喜劇とは何事か」という権力者(または、その代理人)の視点が、徐々に「こんなものが本当に面白いのか」というズレを来たし始め、やがてもっと面白くするためにはどうしたらいいかと検閲官が台本作りに加担してしまうというこの作品の可笑しみは、同時に「検閲」がもっている本来の機能が、なんの根拠もない恣意的なものにすぎず、だから無様にも次第に変質を余儀なくされ、迷路に迷い込んでいく過程で、「検閲」というものそれ自体の虚妄をオノズから曝け出してしまうという笑えない苦汁に満ちた滑稽さに通じています。

権力者たちが強行する言論弾圧という庶民に対する口封じが、如何に的外れで愚かな施策であるか、その対象を重々しくみえる深刻な「思想」などではなく、そんなものとは到底無縁な低俗な「喜劇」に対するものと設定したところが、この作品の表現の可能性をさらに大きく広げることができた点だと思います。

しかもそれが、権力への一方的で安易な糾弾などではなく、逆に喜劇作家自身に向けられている自嘲・自戒を強いずにはおかない内向した辛らつな可笑しみに通じているからこそ、この映画に厚みをもたらしたのだという気がします。

ラストで「喜劇」に介入する国家権力の「思想統制」に抗議するナントモ晴れがましい場面が、むしろ、あまりにも唐突すぎるために、ただの鬱陶しい蛇足と見えてしまうほどでした。(映画的な表現からみると、あまり馴染まない締め括り方だったとしても、この叫びは劇作家としての三谷幸喜がどうしても言わずにおられなかったであろうことはよく理解でき、好感さえ持ちました)

それは、全編を通して発せられていた問い「いったい『喜劇』の何を検閲しようというのだ」という核心部分の答えが、いまだカタチになっていないときに、その唐突で性急な「国家権力への告発」によって、残念ながらその追求の矛先を突然頓挫・中絶させてしまうような印象を受けてしまったのが本当のところだったのですが。

声高な告発調のアジテーションが許される演劇ならともかく、映画には「この手」の締め括り方は、少し唐突すぎたかもしれません。

大陸で厳しい思想検閲官として華々しい辣腕を振るってきた向坂睦夫には、この国家存亡の重大なときに愚にもつかない喜劇の検閲官などに異動させられて、実のところクサっている、という設定からこの作品は始められています。

国家にとって、この危急存亡のとき、馬鹿馬鹿しい「喜劇」など端からすべて禁止してしまえばいい、「思想性」のかけらもない「喜劇」などに検閲などとはオコガマシイ、そもそもあんなものは存在すること自体許されないのだという軽侮に満ちた思いのなかで向坂睦夫は椿ハジメと対しています。

そこでは、深刻なものだけに重要な価値があり、軽薄なものなどには何の意味もない唾棄すべきものという価値観が披瀝されています。

そしてそこには、三谷幸喜の積年の「喜劇作家」としての怒りが十分語り尽くされており、なにもラストでわざわざ国家権力への怒りなどぶち上げてダメを押さなくとも、その苛立ちは僕たち観客に十分に伝わってきたし、理解できました。

しかし、このような大上段に構えて論を進めてしまえば、どこかの教科書にでも書いてあるような「タテマエ」だけで、この作品の魅力を見失ってしまうような気がしてなりません。

三谷幸喜がこの「ホン」で本当に言いたかったことから、どんどんかけ離れていくような気がしてならないのです。

劇団・笑の大学の座付作家・椿ハジメは、検閲官の無理難題のすべてを受け入れたうえで、どうにか「ホン」を完成させようとします。

しかし、権力者の言いなりになって「ホン」を完成させようとする彼の不甲斐ない姿勢に、劇団員からお前には信念というものがないのかとなじられ、突き上げられています。

ここには、創作者としての「二通りの姿勢」が描かれているのだと思いました。

権力の脅迫にも決して信念を曲げずに、死を賭して「オノレ」を貫き通すという生き方が一方にあるとするなら、もう片方にあるものは、権力が許容する制約のなかで、あらゆる無理難題を受け入れ、その姿勢を卑屈と罵られても、どうにか折り合いをつけて工夫しながら、「表現すること」そのものを維持し続けようとする立場です。

ここで三谷幸喜が表現しようとしていたことは、同時に戯作者としての彼自身の生き方の表明だったのかもしれませんね。

(04東宝)原作・脚本:三谷幸喜、監督:星護、製作:亀山千広、島谷能成、伊藤勇、企画:石原隆、プロデューサー:重岡由美子、市川南、稲田秀樹、アソシエイトプロデューサー:小川泰、佐藤玄、エグゼクティブプロデューサー:前島良行、音楽:本間勇輔、撮影:高瀬比呂史、美術:清水剛、照明:小野晃、録音:田中靖志、装飾:高畠一朗、編集:山本正明、スクリプター:外川恵美子、監督補:加門幾生、製作担当:牧義寛
配役・役所広司、稲垣吾郎、高橋昌也、小松政夫、石井トミコ、小橋めぐみ、河野安郎、長江英和、ダン・ケニー、チュフォレッティ、吉田朝、陰山泰、蒲生純一、つじしんめい、伊勢志摩、小林令門、眞島秀和、木村多江、八嶋智人、加藤あい、木梨憲武
by sentence2307 | 2007-05-19 22:38 | 三谷幸喜 | Comments(175)