人気ブログランキング |

世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリ:熊澤尚人( 2 )

虹の女神

この映画を見る前に、既に僕はある女性から、この作品についてこんな感想を吹き込まれていました。

「この映画に出ている男って、他人の気持ちがまったく分からないイラつく天然よね」って。

映画を見て、そのデリカシーのない男とは、市原隼人演じる智也のことを指しているのだなとすぐに分かりました。

しかし、そんなふうに、そこだけを強調してしまったら、この映画が描こうとしているテーマから、どんどん遠ざかってしまうような気がします。

たぶん、智也が「そう」だったのなら、上野樹里演じるあおいもまた、「そう」だったに違いなく、つまり、このふたりのそれぞれの不器用さによって、お互いの気持ちを率直に伝え合い、受け入れ合う機会をむざむざ失ってしまう彼らの「気後れ」を理解できない限り、この映画で描かれている恋物語の核心に迫ることなどできないだろうと思いました。

智也のことを「イラつく天然」といった知人の女友達というのは、バリバリのキャリア・ウーマンです。

なにごともアグレッシブにコトを運ばなければ気のすまない彼女にとって、智也やあおいの不可解な気後れや、そしてそのふたりに寄り添ってうじうじとこの恋の顛末を描く映画でさえ、到底理解できないシロモノだったに違いありません。

世の中には、熾烈な現実を前にして、ぐずぐずとたじろぐしかスベのない、そして、後ずさりするばかりで、ついには劣等感に押し潰されてしまう女の子や、嘘やお世辞で言葉を飾ることができない気の利かない天然少年ならたくさんいます。

自分の考えをはっきり主張して、否定すべきものは否定し、多くの恋を揺ぎ無い確固たる価値観でもって退けてきたタフで自信たっぷりの彼女にとって、彼らの自信無げな物怖じしたそういう消極さがどうしても理解できない、いや、むしろ、理解しようとすること自体に生理的な嫌悪感を抱いているような彼女へ、どのように説明すればいいのか、ついたじろいでしまいました。

社会に適応できない不器用な男・智也が、自分への恋心を上手に伝えることなく死んでいった少女・あおいの思いを始めて知ったときの悲しみと喪失感を、どう彼女に説明すればいいのか、はじめから僕なんかにうまく説明できるはずもありませんでした。

きっと、智也やあおいが世間に対し、自分たちの悲しみや喪失感をなにひとつ説明することができないで、疎外されて押し潰されたのと同じように。

結局、彼女にうまく説明できないまま、むしろこの映画に対する彼女の理解を一方的に聞かされる破目になりました。

彼女は言います、こういうのって「純愛映画」っていうのよね。

自分の将来に対して、これだという確証が持てないまま、目の前の成り行きに流されていくしかない男女の、日常に飲み込まれてしまう悲恋が描かれているわけよね。

迷いの中で、智也とあおいは、もどかしいすれ違いを繰り返して、それから突然の飛行機事故でふたりに永遠の別離がきて、関係が途切れる。

だけど、「永遠の別離」の方はともかく、「思いを伝えきれない別れ」の方なら、この世界ではなにも特別なことではなくて、きっとよくあることだと思うの。

それは多くの場合、わたしたちが常にナニゲに遣り過ごしていることだと思うし。

男と女のこうした行き違いは、たとえ片思いでも両思いでも、この結果を招いた自分の「不器用さ」も含めて、そんなこと別に意識しないまま次の恋に向かうわけだけど、でもわたしたちは、前の苦い失敗の経験を生かして、口を慎むことを学んだり、相手の領域に踏み込み過ぎないように注意して、慎重にコトを運ぶことを少しずつ習得していくのだと思う。

そこで、また更に傷つけたり・られたりするかもしれないけれど、それでも少しずつ人間関係における距離のとり方みたいなものを学習していって、いずれはある「到達点」にたどり着くのだと思うのね。

人間そこまで馬鹿じゃない。ふたりが未熟だったために成就できなかった恋が純粋で、失敗を重ねながら成熟していったふたりの、やっと成立させることができた恋が不純だみたいに描くこういう「純愛映画」って、だからどうかと思うわけ。

人間は、進歩してしまう生き物だもの。立ち止まれないんだもの。

あおいの死後、遺された手紙の裏に記された彼女の抑制された思いを知らされたとき、すでに智也の方は僅かながらでも経験の学習を積んでしまっていて、あおいの思いに100%共感できたかといえば、それは疑わしいとしか思えなかったの。

それはきっと智也にとって、既にもう乗り越え、克服してしまった過去のことだから。

映画のラストで、智也があおいの手紙を握り締めて泣く場面(彼の「泣く」という行為を、とりあえず肯定的に受け入れると仮定してだけど)、あれって、あおいの不器用さを哀れんでいるというより、過去に置き去りにしてきてしまった「あおい」に対する、だから自分自身に対する贖罪の涙だったような気がするわ。

裏切りや失望や悲しみも、そんなもの全部過去の記憶の中に封じ込め、変質させ、そうした記憶に一切囚われることなく忘れてしまって、それらをただの「通過点」のひとつにすぎなくさせてしまう。

そうした生活の技術を身につけながら生きていくなかで、だんだん、少々のことなんかでは決して傷つかずに、生き延びていくことができるようになっていくのよ。技術よね。

わたしたちは悲しみを変質させたり、忘却してしまう能力で身を鎧っていくのだと思う。

智也もまたそのようにして、徐々に器用さを獲得して生きてきて、そんなときに過去に置き去りにしてきたあおいの突然の死に遭遇したんだと思うわ。

僕には、彼女の感想にもちろん異論などあるわけもありません。

「あのとき智也がそこまで考えていたかどうかは分からない」という思いを抱きながらその話を聞いていて、実は一方で別な思いに囚われていました。

いくつかの映画のシーンが思い浮かんできたのです。

打算のために過去に棄てた女への贖罪を描いた「私が棄てた女」、そうそう「アメリカの悲劇」もそうなら、「青春の蹉跌」もそうでした。

自分の若さと、そして「愛した」という行為が、いかに相手を傷つけたかを痛切に描いた「草原の輝き」もそうでした。

しかし、なによりも僕の気持ちを占領していたのは、この世のすべてを失いつくした絶望の果てに、失ったものの大きさに押し潰される男の悲しみを描いた「道」だったかもしれません。

そして、「映画の記憶」をたどる愉しさと、「解釈」を突き詰めていく虚しさの、もうひとつ向こう側でこの映画が強烈に訴えかけてくるものがありました。

この作品で、大学の映画研究会部員あおいの撮ったプライベート・フィルム「エンド・オブ・ザ・ワールド」は、物語の最後で、重要な役割を担わされています。

飛行事故により既にこの世にいない彼女に代わって、その深い思いが語られるというそのフィルムの出来が稚拙であればあるほど(そこに仕掛けられたわざとらしささえ気にならなければ)、一層、観客への訴えかけを最大限に発揮できるという不思議な相乗効果を獲得した設定でもありました。

地球最期の日に、待ち続けた愛する男が不可能を乗り越えて自分のもとに帰ってくるというシュチエーションそのものが、彼女の夢のなかでの出来事であり、やがて彼女の死によって「地球最後の日」の意味が一挙に判明したとき、同時に「世界」もまた閉じてしまうという儚く切ない内容です。

しかし、このプライベート・フィルム「エンド・オブ・ザ・ワールド」は、ここではなにも内容自体が問われているわけではありません。

冒頭、大写しされるあおいの表情の上を木漏れ日が揺らいで、眩しそうに目覚める上野樹里の美しさと儚さに、この映画のすべてが語られているような気がします。

ケータイの電源が切れると同時に、虹も、そしてすべての記憶もあっさり消滅するように。

(2006東宝)プロデューサー・岩井俊二、橘田寿宏、監督・熊澤尚人、原案脚本・桜井亜美、脚本・齊藤美如、網野酸、撮影・角田真一、藤井昌之、美術・川村泰代、音楽・山下宏明、CG:小林淳夫、VE:さとうまなぶ、スタイリスト:浜井貴子、照明:佐々木英二、装飾:松田光畝、録音:高橋誠、主題歌・種ともこ「The Rainbow Song ~虹の女神~」
出演・市原隼人、上野樹里、蒼井優、酒井若菜、鈴木亜美、相田翔子、小日向文世、佐々木蔵之介、尾上寛之、田中圭、田島令子、田山涼成、鷲尾真知子、ピエール瀧、マギー、半海一晃、山中聡、眞島秀和、三浦アキフミ、青木崇高、川口覚、郭智博、武発史郎、佐藤佐吉、坂田聡、坂上みき、東洋、内藤聡子、大橋未歩、
by sentence2307 | 2007-12-31 13:51 | 熊澤尚人 | Comments(0)

ニライカナイからの手紙

僕とても、涙腺を刺激され、少しウルウルしてしまったことは、まぎれもない事実です。

ラストの「これでもか、これでもか」という押し付けがましい「感動的」な場面を畳み掛けられ、押し切られ、誰かと一緒にこの映画を見ていたら(可愛い子だったらなおさら)、「いい映画だったよね」くらいは、きっと言ってしまったかもしれません。

しかし、ある程度時間が経過し冷静になってみると、はたして自分がこの作品の「なに」に感動したのか、はっきりとは思い出せないような軽い錯乱状態にいることに気がつきました。

実は、そんなことなど、つい最近まで気にもとめていなかったのでしたが。

とにかく「感動」したのだから、それだけで十分、「結果オーライ」というところだったのだろうと思います。

しかし、ある日の会社の昼休みに、女の子たちの賑やかな会話のなかで「この映画、とっても良かったわ。感動しちゃった。」という言葉の断片を漏れ聞いたとき、とっさに彼女たちの話に割り込んで「じゃあ、君たちが、母親からこんなふうにされたらどうする」と聞いてみたい衝動に駆られ、そのとき、はじめて僕自身がいったいこの作品の「なに」に感動したのか、気がついていなかったことに「気が付いた」のでした。

これは、一言でいうなら、善意からの嘘を肯定的に描いた映画です。

幼い娘をこの世に残したまま死んでいかねばならない若き母の悔しさと悲しみと焦燥と、そしてなによりも親として娘の成長を見守って上げられない自分自身に対する憤りと憐れみのなかから、母親は娘には自分の死の事実を隠して(あたかも生き続けているかのように)用意された手紙を、彼女が成人するまで(20歳になれば、すべてを話すという意味深な条件がついています)、毎年の誕生日にその年代にふさわしい手紙を送り続けるという物語です(そこには、東京の特定郵便局の協力がありました)。

しかも、祖父は、うってつけのような、すこぶる無愛想な郵便配達のプロです。

毎年渋谷局の消印で送り届けられてくるその手紙によって、東京の母に会いたいという娘の思いは一層募り、やがていたたまれなくなった彼女は20歳を待たずに、写真の勉強という口実をつけて東京に出ていきます。

しかし、東京での写真のアシスタントの仕事は厳しく、さらに都会で孤独な生活を強いられるうちに、いつしかカメラを持つことさえ忘れてしまうそんな危機的状況にあるとき、再びその意欲を取り戻させてくれたのが、同郷の幼馴染との再会、そして母親に会うまでに立派な写真を撮りたいという思いでした。

彼女が20歳になったその日、母親との再会の場所に現れた祖父に言います「おっ母に会えると思ったから、この写真が撮れたんだ」と。

彼女にとって東京がよそよそしくて冷たいだけの場所であるように、写真への情熱も、もし「母親」の介在がなければ、どうなるのだろうという割り切れない不安が、この作品を見ている間中僕は抱き続けていました。

いつかはその厳しい現実に直面しなければならない事実を前にして、「生き続けている母」によって先延ばしされたにすぎないその猶予は、娘にとっては、現実から目を逸らし、早急に必要だった自立をはばむものでしかなかったのではないか、という思いでした。

彼女の母親は、自分もまた母親を早く亡くしたために、もし母が生きていてくれたら、こんな言葉をかけてほしかったという「言葉」を、自分の娘への手紙に託しています。

この世に愛する子供を残して、死んでゆかねばならない母親の、いたたまれないような無念の気持ちから発せられた切ない言葉です。

その言葉が人を感動させないわけがありません。

しかし、この娘にとって、残酷でも、そしてつらくとも母の死を「あの時」知らされていたら、どうだったのだろうと、ふと考えてしまいました。

ふるさとの人々の好意や善意に対して、もっと素直に、もっとありがたいものとして受け入れることができ、そしてそういう中で強い心を育て上げ、もっと別なかたちで人間的な成長を遂げられた可能性もあったのではないかと思います。

ただ自分自身を痛みつけただけの東京行きも、あるいは回避できたかもしれません。

もちろん、同じだけの逆の可能性もあったでしょうが。

もし、たとえばこれが「僕」だったら、この母親と祖父の企みを知ったとき、どうするだろうと考えたとき、この手紙に書いてあることを素直に受け入れられるかどうか自信がありません。

思いはどうあれ、自分の考えを押し付けて、大切な事実をひた隠しに隠し、こんなかたちで先送りをした母と、自分に対して日常的に嘘をつき続けて、ある意味裏切り続けてきた祖父のことを、複雑な思いをもってまずは考えずにはおられないだろうなと思いました。

(2005) 監督脚本・熊澤尚人、プロデューサー・竹之内崇、脇坂嘉紀、三木裕明、エグゼクティブプロデューサー・井筒雅博、撮影・藤井昌之、美術・花谷秀文、編集・山中貴夫 、音楽・中西長谷雄、主題歌・永山尚太『太陽(てぃだ)ぬ花』、主題歌プロデュース・織田哲郎、録音・古谷正志、助監督・橋本光二郎
配役・蒼井優、平良進、南果歩、金井勇太、かわい瞳、比嘉愛未、斎藤歩、前田吟、
by sentence2307 | 2007-05-26 22:33 | 熊澤尚人 | Comments(20)