人気ブログランキング |

世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

カテゴリ:黒澤明( 33 )

前回のブログに書いた「日本のいちばん長い日」で、岡本喜八の論考「体験的戦争映画・試論」から一文を引用するとき、原文と照合するために論稿の掲載されている岩波書店刊「講座・日本映画 第5巻 戦後映画の展開」を久しぶりに書棚から引っ張り出しました。

やはり、原文との照合というのは、引用者の当然の責務だと思っているので、転記に際しては誤記のないよう細心の注意を払って、慎重のうえにも慎重を期しています。

以前、自分もヒト様の書いた「引用文」を全面的に鵜呑みにし、そのまま「孫引き」した結果、それが結構デタラメなもので大変な目にあったことがありました。そのときから原典との照合はしっかりしなくてはと、キモに銘じています。

でも、こうして岩波の「講座・日本映画」を手にするのは、なんだか本当に久しぶりです、書棚から引っ張り出したとき、本の周囲をうっすら覆っているホコリのマクに指の跡がつくのを見て、この本を開かなかった歳月の長さには胸に迫るものがありました、大袈裟ではなくて、なんだかこの本を片時も離すことなく手元に置いて夢中で読みふけっていたかつての自分と遭遇したような切ない感慨に捉われました。

まあ、ついでにと言ってはなんですが、懐かしさもあってパラパラと頁を繰ってみました。

当の岡本喜八の小論は、本の最後のほうに掲載されているので、頁を繰るのも自然と最後の頁から見ていくという感じになります。

余談ですが、どの本についてもそうですが、本の全体を眺めようというとき、最後のほうからパラパラ眺めていくというのが自分の流儀です。こうすると本の全体像というのが不思議と的確につかめるような気がして、なんだか物凄く合理的な感じがします。

単なる想像にすぎませんが、書く側にしても、いざ執筆を始めようという作業の起動時においてなら書く動機も構想もしっかり固まっているので、モチベーションも高く当然リキも入っていてガンガン書き始めるでしょうけれども、そのうちネタも尽き息切れもしてきて、最後のほうになるとだんだん構想が途切れて、イタズラニ素材をふやかして間延びさせるとか、「はしょる」とかして、終わりを急いで、最後のほうになると安直にまとめてしまうというのが世の常だと思うので(実際のところ、そういう本は実に多いのです)、だから本を終わりのほうから眺めるというのは、その「痕跡」を見つけ易いそれなりに理にかなった方法で、その本の熱の「途切れ」を測ることのできる優れた本の鑑定法ではないかと自負しています。

もちろん、これはどこまでも自分の経験から割り出した独善的な私見にすぎませんので、どこまで信憑性があるかは分かりません、念のため。

しかし、それにしても、こうしてこの「講座・日本映画」を実際に手にしてみると、とにかくこの岩波本「講座・日本映画」という書籍は、写真やイラストが豊富に掲載されていて(もちろん、収録されている論文はどれも映画史的に貴重で重要なものであることを前提にしてのハナシです)、こんなことをいっては失礼かもしれませんが、暇つぶしにただ写真や図版をつらつら眺めているだけでも楽しくて、いつの間にか時間を忘れてしまうくらいです、かつてそうやってこの本を傍らに置いて常にスチール写真をながめていた自分の習慣をはっきりと思い出しました。

スマホや電子書籍やアマゾンに挟撃されて惨憺たる状況にある現在の逼迫した出版業界において、金儲けとは無縁のこれほどの学術的な仕事をするのは、いまとなっては投入する費用と労力を考えれば、もはや「実現不可能」な、会社にとっては相当なリスクを負うとても困難な事業になることは間違いありません。

しかし、放っておけばいつの間にか散逸し、失われかねない映画関係の貴重な論稿やかけがえのない資料をこういうかたちで残そうというのは、まさに文化遺産保護の名に値する意義ある仕事です、いまになってよく分かりました。

あらためてこの本の奥付をながめると、なるほど、刊行年は1987年11月4日となっています。なるほど、まだまだゆとりのあった当時だから出来たのかなとも思いますが、しかし、心ある出版社なら、出せば売れるチャラチャラしたキワモノの写真集ばかりでなく、30年経とうと40年経とうと、こうして手にとり、読むに値する後世に残る意義ある仕事を切に望むところです・・・なんてね、宮使いの身でそんな奇麗事が通用しないのは、長年窮屈な思いをしながらご奉公してきたこの自分がいちばんよく分かっていますので、まあ、ただの老人の繰り言というか、あり得ない夢物語と聞き流してくだされば結構です。

とにかく、これほど優れた本なわけですから、少なくとも、ホコリで指の跡がついてしまうまで放ったらかしにするなんてことは、今後は決して許されないぞと自戒しつつ、我がキモに銘じた次第です。

さて、この「講座・日本映画 第5巻」のいちばん最後に掲載されている論稿は、廣末保の「映画と日本の古典」でサブタイトルには「西鶴の場合」とあります。

日本映画において西鶴がどのように描かれてきたか、と論証する論文らしいのですが、冒頭には三枚のスチール写真が掲げられていて、それぞれの写真に付せられたキャプションというのはこんな感じです。

〔上段〕「大阪物語」1957演出中の吉村公三郎

〔中段〕「好色一代男」1961演出中の増村保造、右は市川雷蔵

〔下段〕「好色五人女」の構想を語る加藤泰(1984年8月)

上段の「大阪物語」は、溝口健二が撮る予定だったところ、溝口監督が急逝したので吉村公三郎があとを引き継いだ作品だそうですが、物語のテーマの「えげつない吝嗇振り」が前面に出すぎていて原作のアクの強さばかりに振り回され、なんだか上滑りに終わってしまったような印象を持ちました。やはり溝口健二のように強烈な「こだわり」や「毒」がないと、映画は途端にストーリーの焦点がぼやけて、単に粗筋をなぞるだけの緩みを見せはじめ、結局どっちつがずの淡白な作品になってしまうんだなあと感じた記憶があります。

それにひきかえ、なんといってもいちばんに目を引くのは、中段に掲載されている写真、実に艶やかな町人姿でポーズをとっている市川雷蔵と、その左に立つ増村保造がなにやら話しかけている写真、1961年大映作品「好色一代男」だなとすぐに分かりました。

実は、自分は「好色一代男」の作品論をこのブログの早い時期に書いたことがあります。過酷な運命に翻弄され、男たちの身勝手な欲望とエゴによって堕ちるところまで堕ちつくす被虐的な溝口健二の「西鶴一代女」に比べて、自らの運命を自分の意思で選び取っていく強烈な「意思の物語」、まるで、たとえ地獄に堕ちるにしろ、どこまでも自分の意思で運命を選び取って堕ちていくことの爽快さを西鶴の物語のなかに読み取り、まるでイタリア映画のような明るさと活力に満ちた増村作品「好色一代男」をかつて手放しで評価したことを、この写真を見ながら思い出しました。

なるほど、なるほど、なんかいいじゃないですか、この本。

こうして、ただ眺めているだけでも、どんどん勝手に思い出が湧いてきて、はてしなく連想がつながり、ただただ妄想に身をゆだねていられる快感にしばし捉われていたのですが、でも、ちょっと待ってくださいよ、溝口健二の助監督を経験し、すぐれた溝口健二論も多く執筆したほどの増村保造です、その彼が撮った「好色一代男」を「西鶴一代女」と比較して論じるくらいの、ただそれだけのことなら、これってきっと誰もが容易に思いつくに違いない実に陳腐に関係づけた発想にすぎなかったのではないか、もし「好色一代男」という作品自体に真正面から対峙し論じようというなら、溝口作品と比較するなんていうのは単なる「端緒」にすぎず、もっと「その先」を苦しんで切り開いて論を展開させていくことこそが、オリジナリティというものではなかったのか、などとぼんやり考えていたのは、このとき同時に、黒澤明の「生きものの記録」1955をうっすらと連想し思い浮かべていたからかもしれません。

原水爆の恐怖に捉われノイローゼになって、いつ自分を見舞うかもしれない恐怖から遂に自分が経営する小さな町工場に放火したあの老いた工場主は、死の恐怖から逃れるためにブラジルに移住することばかり考えていました。

「好色一代男」において、無粋で過酷な社会の現実に絶望した世之介は、こんな愚劣な俗世なんかにさっさと見切りをつけて、優しい女しか存在しない平和な夢の島「女護が島」を目指して船出するというのが、たしか映画のラストだったと記憶しています。

ほら、このあたりなんか、どう見ても「生きものの記録」とそっくりじゃないですか。いや、似てます、似てます、そっくりです。

あっ、そんなこというなら、今村昌平の「人類学入門 エロ事師たちより」1966のラストなんかどうなのよと。あの作品こそは、モロこの流れに影響されているじゃないですか。

「な~る、そうか、そうなんだよなあ」などとひとりで感心し、まるで金脈を掘り当てたかのように興奮してブツブツと呟き、さらに「講座・日本映画 第5巻」をペラペラと遡上していきました。

この廣末論文「映画と日本の古典 西鶴の場合」の直前に掲載されている論稿は、亀井文夫と土本典昭の対談「ドキュメンタリーの精神」です、その話されている内容の、実に気が重たくなるほどの真摯な重厚さ(なにせこの二人です、そうならないわけがありません)に迷い込むまえに、まずは亀井文夫と土本典昭の取り合わせなんて、思わず、へえ~、こんな対談があったんだ、と今から思うとまるで「夢の対談」みたいに思われるこの傑出した企画の「そっち」の方にむしろ感心してしまいました。

しかし、いざ読みだしてみると、土本典昭が深刻でディープなイデオロギー的なものを引き出そうと必死にミズを向けるのに、亀井文夫の反応は、その論点の矛先をいなすように、むしろ技術論とか、常時撮影を監視していた軍部とどう折り合いをつけて作業を続けたかという、いわば作品は「妥協の産物だった」みたいな話ではぐらかしている印象を受けました。

それもこれも、(対談当時)この二人ともが「撮りたいものを撮る」ための傍流の資金稼ぎの「仕事」に忙殺されるという本末転倒な境遇に同じように晒されていて、そのリアルで愚劣な経済的葛藤に疲れ、面白くもないPR映画を何本も撮らねばならないことに心底うんざりされられているという、共通する「背景」が会話の過程で次第に浮かび上がってくる部分があります。

とくに、この場の亀井文夫の疲労は実に深刻で「ドキュメンタリー映画を撮りたい」という切実なモチベーションなど既に失っているのではないかという兆しも随所に窺われるくらいです。

果たしてドキュメンタリー映画なんかで本当に現実を抉り取ることなどできるのかという深刻な懐疑と、既に映画そのものに興味を失い始めているらしい「なげやり」とが同居し、ここで語られようとしているかつての「仕事」の栄光など、土本典昭が感激しているほどには亀井は感興を催していないどころか、もしかすると数々のドキュメンタリー映画の「名作」に対してさえも随所で自嘲気味に懐疑をもらし、そのことを土本典昭自身もまた会話を通して薄々気づき始めるという奇妙な関係と無残な過程、いわば「堕ちた偶像」のいかがわしさを憧憬者と当事者によってひとつひとつ暴き検証するという倒錯がこの「対談」の実体のような気がしてきました。

こう考えると、この対談そのものこそが、彼らがかつて共通して求めていた真実に肉薄して暴きだす「ドキュメンタリー映画」の優れた手法で進行しているような感じも受けたくらいです。

むしろ、この対談で面白かったのは話の傍流、たとえばカメラマン・三木茂との「無能な監督なんかいらねえよ」という「キャメラ・ルーペ論争」とか、「基地の子たち」における「農家を改造した売春宿」と題された三枚のスチール写真など、過酷な状況下、国家に見捨てられた庶民が、開き直ってふてぶてしく生きる痛ましくも逞しい姿を活写して、実に感動的でした。

それらの写真のなかには「米兵を案内する小学生」というのも写っていて、その農家の「nock-open」と殴り書きされている障子戸を開けて顔を見せているごく若い娼婦(障子にはエミーという名前も書かれているのが見えます)と、客引きらしい少年(肩から白い布カバンをさげていて、いま学校から帰ってきたばかりという様子です)が親しげに話している写真を見ると、もしかすると彼らは実の姉弟だったのではないかとさえ邪推してしまいました。

さらに、本をさかのぼっていくと、論稿は、その土本典昭の「亀井文夫・『上海』から『戦ふ兵隊』まで」と、谷川義雄の「十五年戦争下の『文化映画』」、そして、岡本喜八の「体験的戦争映画・試論」、増村保造の「市川崑の方法」と続いていきます。

どれも熟読しなければならない重要な論稿ですが、とくに日本ドキュメンタリー映画史の白眉、谷川義雄の「十五年戦争下の『文化映画』」は、たっぷりと時間をかけて読んでみたいと思いながら、次の論稿、いよいよ(というか、「やっと」ですが)当コラムの本筋、廣澤榮の「『七人の侍』のしごと」に到達しました。

この「遡上読み」の醍醐味は、論者が苦心して積み上げた「理由」を義理堅く最初から辿ったり、もったいぶった論者の前振りの「焦らし」に付き合わされることなく、その大切な核の部分の「結論」だけをちゃっかり先取りし、美味しいところだけをまずは頂いてしまおうという、あくまでも読者の側に立った実にC調な都合のいい読み方なのであります。

こうなるともう最初から論文のクライマックスに一気に突入です。これこそ煩わしいマクラなしの「一気読み」の醍醐味です。

《その最終カット。久蔵、菊千代が討死し、野武士はことごとく斃れふす。そのとき勝四郎が甲高い声で狂気のように「野武士は、野武士は!」と叫ぶ。と、勘兵衛が「もうおらん、野武士はもうおらん」という。それを聞いて勝四郎がそのまま、泥水の中にくたくたと崩折れて泣く。
そのとき木村功は声を震わせ激しい声でせぐりあげていた。その顔は涙と鼻水と泥でくしゃくしゃの顔だった。そして「カット」の声をきいても、そのままいつまでも泣きじゃくっていた―あれはもう演技ではなかった。なぜなら、それを見守る我らスタッフもその場に崩折れて泣き出したい思いだったから。
3月20日の夜―すべての撮影が終了した夜、スタッフルームに集まった一同の一人一人にテンノウは冷酒をつぎながら
「苦しい仕事だったな、ありがとう」
そして、いった。
「『七人の侍』はみんなでつくった仕事だな」
その言葉とともに『七人の侍』はそれぞれみんなの胸の奥そこに生きている。32年前、おれはあの仕事をやったんだ、わが青春をかけて懸命になって、まぎれもない「本物」をつくったのだと、いま誇らかに思うのである。》

どうです、このどこの世界に、そして誰が、ただ与えられた仕事をこなしていくだけのことなら、「あのときおれは紛れも無い本物を作ったのだ、やりきったのだ」なんて言い切れるものじゃありません、そんなサラリーマンなど、そんじょそこらには居るわけがありません。

一度でもそんなふうに言い切れる充実した仕事と時間を経験できた人のそういう人生は、そうじゃなかった僕たちに到底分かろうはずもありません。ここで語り尽くされている達成感と充実感のクダリには、敬意を表するなんてよりも先に、ただただ羨望の思いを抱くばかりです。

同時にその最終頁に掲げられているスチール写真の3枚を見ながら、この感動の文章を読むと、感興はさらに格別なものがあります。

ちなみに、スチール写真3枚のキャプションは以下の通り。

「雨の中の戦闘シーンにて、上 黒澤明」雨に打たれながらラストシーンの撮影に臨んでいる黒澤明は、笑みさえ浮かべた穏やかな表情です。

「雨の中の戦闘シーンにて、下 三船敏郎と宮口精二」菊千代と久蔵が死力を尽くして種子島に立ち向かい、そして相次いで種子島に撃ち倒される直前の壮絶な場面です。

その野武士を打ち倒すために誰かが死ななければ、この戦いはいつまでも決して終わらなかったかもしれないという絶望的な最後の死闘が描かれています。

その「誰か」こそが、この七人のサムライの物語において、勝四郎とともに僕たちが最も思い入れを強めた菊千代と久蔵で泣ければならなか痛切と痛恨が、この「七人の侍」のラストにおいて、感慨を示した当論文の論者にして現場の当事者・廣澤榮ならずとも、僕たちをもまたあの「聖域」に立ち会ったという思いにさせてくれたのだと思います。

泥水の中に片手片足をついて蹲り、必死の断末魔の抵抗を見せる野武士を鬼気迫る形相で見据える菊千代、そして久蔵は、タメをつくっていままさに斬りかかろうというド迫力のなか、二人が同時に後方に振りかざした刀は激しい軌跡のなかで偶然にも共に虚空で均しく並びあい、美しい均衡を一瞬留めてみせていたことにこの写真は気づかせてくれました。

まるで小津監督が、架空の物差しで虚空を1ミリ、2ミリと計り示し、僕たちにこの頼りなく儚い世界の虚無の瞬間・迫りくる美しい死の影を垣間見せてくれたみたいに。

「雨の中の戦闘シーン最終カットスナップ。右から志村喬、加藤大輔、木村項、一人おいて黒澤明」この写真が、前に引用した《勝四郎が甲高い声で狂気のように「野武士は、野武士は!」と叫ぶ。勘兵衛が「もうおらん、野武士はもうおらん」という。それを聞いて勝四郎がそのまま、泥水の中にくたくたと崩折れて泣く。》に当たる写真ですね。

そうですか、よく分かりました。

さてと、ここはこのくらいで、またまた次の頁へと遡上しますか、と頁を繰ったところに、あっ、ありました、ありました。これですよ、これ。見開いて左、偶数頁側(277頁)の下段に「キクさん」と書かれたその写真はありました。

野武士に身内を殺され一人取り残された老婆(久右衛門の婆様)は、村はずれの打ち棄てられたようなみすぼらしい小屋で、村人の気まぐれな施しと薄い温情にすがって辛うじて命をつないでいるという、「ただ家畜のように生かされている」というだけの惨めな棄民の老婆の姿を、黒澤監督は怖いほどの凝りに凝ったメイキャップで見せています。

それにしても物凄い形相に仕上がっていますよね。本編中まずいちばんに久右衛門の婆様の印象が強烈に残ってしまうのも当然です。

きっとその「物凄さ」は、いかに技術さんのメイキャップ力をもってしても、なにせ出発があれほどの絶世の美女「津島恵子」ですから、無理やりに汚して男装させたとしても、せいぜいがあんなところ、どこまでいっても「美女」からは明らかに逸脱できないのですが、久右衛門の婆様を演じる老婆は(きっと)普段でもすでに物凄い容貌怪奇のババ様だったので、同じメイキャップ力でも出発のそのフライング度も加味して、あれだけダントツに効果を発揮できたのだと思います。

そのことが「生きものの記録」や「影武者」のような描きすぎの「行き過ぎ感」を免れた理由だったに違いありません、久右衛門の婆様の仕上がりは十分リアルの範囲内にとどまっていて、それだけに見るものの印象も鮮烈だったのだと思います。

シーンとしては、勝四郎が志乃に握り飯を差し出す場面から、「それ」は始まります。

村を守るための侍を雇う条件として「侍たちには米の飯を食わせる」があり、そのぶん「百姓は稗や粟(麦だったかも)を食って耐え忍ぶ」というのが、この「七人の侍」という物語を貫いている重要なテーマです。

勝四郎も志乃が日頃米の飯を口に出来ないでいることを十分に知っていて、逢瀬の場に密かに握り飯を持ってきたという設定です。

しかし、志乃は「オラ、食わねえ」と拒み、「これ、久右衛門の婆様に持っていく」と言い返します。この二人の様子を物影から久蔵がじっと見ている場面に続いて、侍たちの食事のシーン。

勝四郎は、「利吉、いまは腹が一杯だ。またあとで食う」と言うと、久蔵が「いいから、お前は食え。今度は俺が残す」

勝四郎は驚いて久蔵を見つめ、侍たちも不審気に久蔵を見つめます。

勘兵衛「どうした? なにかわけがありそうな様子だが」

そして、老婆のいる「久右衛門の家」のシーンに続きます。

シナリオには《ひどい! まったく荒れ果てて、いまにも潰れそうな小屋。病みほうけた老婆が、ただ藁を敷いただけの寝床に起き上がって、その枕元に一椀の飯と汁を差し出す勝四郎と、その後ろに並んだ勘兵衛たちを拝んでいる》という場面説明があって、

勘兵衛「ひどいの! 身寄りはないのか?」

利吉「はい、野伏せりに・・・みんな」

勘兵衛「うむ」

老婆は、なにかに謝るような悲しい調子で訴えかけます。「オラ、早く死にてえだよ。早く死んで、こんな苦しみ、逃れてえだよ」と。

侍たちは、じっとその老婆を見つめています。

老婆「でもなあ、あの世にも、やっぱり、こんな苦しみはあるべえなあ」と語る一連のシーン、流れとしては、このエピソードが、すぐあとに続く生け捕りにした野武士を恨み骨髄の百姓たちがなぶり殺しにしようと殺到してくるのを、勘兵衛たちは、同じ侍としての同情から(せめて誇りある死に方を与えてやれと)懸命に制止しているところに久右衛門の婆様が鍬を振りかざして静かに現れるという場面です。

前の場面で家族を奪われた久右衛門の婆様の惨めさと怒りを十分に知っている侍たちには、この老婆だけは制止できず、野武士に鍬が打ち下ろされるのを静観するしかないという痛切な場面でした。

老婆が野武士を殺すこの場面がかなり衝撃的なので、ついこちらに目が捉われてしまいがちで、そのぶん前出の「久右衛門の小屋の場面」の印象がどうしても薄まってしまうのですが、この廣澤榮の論文「『七人の侍』のしごと」において、この小屋のシーンを撮るにあたってのエピソードの詳細が特別大きく扱われていて、そのリキが入っている分だけ、どうしても紹介せずにはいられません。

それは「第4章」、「『七人の侍』で苦労したのは役者の方も同じであろう。」の一文から始まっています。

そこではまず、亡くなった役者たちのことが語られます。

《「なんだかまた一年兵隊にいったような気分でした」と、亡くなった加東大介がそう言っていた。加東のほか、志村喬、宮口精二、木村功、稲葉義男ももう故人になり、生き残っているのは三船敏郎、千秋実だけになった。そのほか百姓の役をやった高堂国典、左ト全、小杉義雄も亡くなった。》

この論文が書かれた当時には、まだ三船敏郎も、千秋実も元気だったことが分かります。

そして、村の百姓たちを演じた有名無名の俳優たちのことが語られたあとに、こんな一文が出てきます。

《一人だけ俳優ではなく老人ホームのおばあさんが重要な役で出演している》と。

そして語られるのが久右衛門の婆様のエピソードです。

《それは台本では「久右衛門の婆さま」となっている役で、いろいろ年輩の女優さんを連れてきたが、テンノウは「みんな芝居くさくてダメだ」という。そして「本物の百姓の婆さんをつれてこい」という。
そこで私が杉並区高井戸にある浴風苑という老人ホームに婆さまさがしに行った。数多い婆さまの中からこれぞというのを見つけた。
骨太のがっちりした体つきで眼がぎょろっと利く。浅草寺の境内で鳩の豆売りをやっていた人でキクさんという。かなりの年輩らしいが、「年がいくつだったかもう忘れたよ」という。
撮影所に連れてきて見せると一ぺんで気に入った。そして「ひとつ、仕込んでくれ」という。
さあ大ヘンなことになった―この役は野武士に身寄りのすべてを殺されて一人暮らしをしている老婆で、やってきた侍たちにわが身の不遇を訴え「もう生きてる甲斐がねえ、早く死にてえ」という長い台詞がある。もう一つ、生捕りにされ村の広場に引き据えられた野武士にこの婆は「慄える手に鍬をもち、憤怒の形相で鍬を振り下ろす」というシーンもある。
そこでキクさんを撮影所の近くの旅館に泊めて、私とネコ(前出、同僚の助監督)と二人がかりで特訓をはじめる。
ここに至ってキクさんは漸く「活動のネタ取りのため」出演するのだと理解できる。そこで台詞を教えるが、それがなかなかのみこめない。そしてすぐ疲れてコロンと横になってしまう。仕方がないから眠気ざましに身の上ばなしを聞く。
と、キクさんは東京大空襲のときB29が落す焼夷弾の炎の中で倅夫婦と別れたまま、いまだにその消息がわからないという―しめた! では劇的境遇と全く同じだ、同じなら感情移入ができる。
そこで、「キクさんの気持をそのまま言えばいいんだよ」という―どうやらだんだん感じがでてきた。
そして数日後にセット入りとなる。ところがキクさんは、丹精こめてボロボロにした衣裳を見てイヤだという。折角「活動」に出るのならもう少しマシな着物を着たいという。
それを何とか説得してセットに入れる。疲れるからテストは私が代ってつとめ本番だけキクさんに代わる。まるでハリウッドのスタアなみである。
さて、キャメラが回り出すと、キクさんは「身寄りがB29の為に殺されて」という―
たちまち雷のような声がとどろく。
「いったい何をしこんだのだッ!」
私は狼狽してキクさんに台詞の訂正をする。ところが何べんやってもB29が出てくる。そのうちショーイダンまで飛び出してきた。なんせそう思いこんでしまったのだからどうにもならない。
と、テンノウは「表情は感じが出ているからOKにしよう」といってくれた。だからこのシーンは台詞だけ三好栄子さんが吹替をやっている。
さて、無事に大役を終ったキクさんは貰ったギャラに目を丸くして、「こんなにたんといただけるのなら、デパートへ行って着物でも買いたい」という。そのデパートは浅草松屋がいいという。
そこで私がその買い物のおともをする。会社差しまわしのハイヤーで浅草松屋へ乗りつける。そこでキクさんはうんと安物の銘仙を取り「これがいい」という。その銘仙をしっかり抱えご機嫌で浴風苑へ帰ったが、もう一つ後日談がある。
「七人の侍」の撮影が終って一年ほど後、キクさんが亡くなった。そのいまわの際に「トラという人に会いたい」という電話があったという。生憎私は別の映画で地方ロケに行っていた。帰京してから浴風苑を訪ねたら、キクさんはもう白木の位牌になっていた。
その位牌の傍に「七人の侍」に出演したときのスチールが飾ってあった。あの嫌がっていたボロボロの衣裳を着た姿で―キクさんは「七人の侍」に出演したことが生涯を通じてなによりもたのしい思い出だったと、亡くなる前にそう語っていたという。》

原典でこの一連のエピソードを読んだとき、この老婆のボケ振りが面白くて、その部分だけが自分の中で誇張されて、一種の「面白い引用」としての効果ばかりを考えていたのですが、こうして一連の成り行きを通して転写してみると、この論文そのものが映画「七人の侍」に関わった関係者たちが次々と鬼籍に入っていった死の影に覆われた記録=過去帖であったことに気づかされ慄然としました。

いや、そもそも、この論文の当の執筆者・廣澤榮自身が既に1996年2月27日に亡くなっていることを改めてwikiで知り、おびただしく「失われつつある」進行形のうえに映画「七人の侍」の存在が保たれていることを痛感せざるを得ませんでした。

果たして、映画「七人の侍」は、関係者がすべて亡くなったあとも、依然、不滅の名作としてこの地球上に永遠に残るだろうかという疑問と感慨に捉われたとき、なんの脈絡もなく不意に、カフカの短編「プロメテウス」を想起しました。

ごく短いので前文、転写してみますね。

《プロメテウスについて、四つの言い伝えがある。
第一の言い伝えによれば、彼は神々の秘密を人間に洩らしたのでコーカサスの岩につながれた。神々は鷲をつかわし、鷲はプロメテウスの肝臓をついばんだ。しかし、ついばまれても、ついばまれても、そのつどプロメテウスの肝臓はふたたび生え出てきたという。
第二の言い伝えによれば、プロメテウスは鋭いくちばしでついばまれたので苦痛にたえかね、深く深く岩にはりついた。その結果、ついには岩と一体になってしまったという。
第三の言い伝えによれば、何千年もたつうちに彼の裏切りなど忘れられた。神々も忘れられ、鷲も忘れられ、プロメテウスその人も忘れられた。
第四の言い伝えによれば、誰もがこんな無意味なことがらには飽きてきた。神々も飽きた。鷲も飽きた。腹の傷口さえも、あきあきしてふさがってしまった。
あとには不可解な岩がのこった。言い伝えは不可解なものを解きあかそうとつとめるだろう。だが、真理をおびて始まるものは、しょせんは不可解なものとして終わらなくてはならないのだ。》(池内紀訳)

ここでいう「プロメテウス」をそのまま「七人の侍」と言い換えたらどうだろうか、「永遠」の意味を語るとき、ちょっとした誘惑を感じてしまう自分好みのカフカの短編です。

いずれにしても、この世にとどまりながら「忘却」によって空虚に蝕まれ「消滅」も果たしてしまうという「永遠」についての「真理」の話にほかなりません。



by sentence2307 | 2019-09-02 10:04 | 黒澤明 | Comments(0)

「赤ひげ」と「北浜駅」

木曜日の朝、BS放送の番組表を見ていたら、昼に黒澤監督の「赤ひげ」、夜には「新・鉄道・絶景の旅 北海道道東の旅」という2時間枠の旅番組を放送することを知り、いずれも楽しみにしていたのですが、朝一番に出かけた税務署での確定申告がスムーズにいかず、昼過ぎまでずれ込んでしまったために、結局、楽しみにしていた「赤ひげ」の一部を見逃してしまいました。

もちろん、この作品、初見というわけではありませんが、優れた作品というものは、鮮明に残っているはずの印象を、改めて木っ端みじんに打ち砕くほどのパワーを持っていることを幾度も経験しているので、その「パワー」に再び身をゆだねたくて、再見、再々見と、繰り返し見ることを楽しみにしている作品「赤ひげ」だったのですが、今回の場合は、感動を「更新する」というわけにはいきませんでした。

この作品を「見る」側の受け手たる自分のそのときの状態(心的低迷とか衰弱とか)ということも、もちろんありますが。

しかし、「貧困はすべての人間を歪める。それは行政が悪いからだ」というこの作品の主たるテーマは、残念ながら、この作品自体を随所で矮小化させ、「怒れる赤ひげ」本人を単にエエカッコウシイの薄っぺらなカッコマンにしただけのような気がします。

「貧困がすべての人間を歪める」などという素直な哲学なら、いまさら教えてもらわなくとも、いつの時代においても、ごく当たり前のことにすぎず、それまでの黒澤作品には、そういう歪んだ人間たちが炸裂させるさらなる瞬発力が描かれていたことを知っている僕たちは、こうした「赤ひげ」の描かれ方は、黒澤明という傑出した才能の衰弱と後退という惨憺たる印象(これなら単なる「前提」を描いたにすぎません)を一層与えることになったのかもしれません。

自分的には最近、早島大祐の「徳政令」(講談社現代新書2018)という本を読んでいたこともあって、それが多少影響していたのかもしれません。この本の副題は「なぜ借金を返さなければならないのか」、このキャッチフレーズからして知的イメージをくすぐられ、本論もまた傑出した論考という感想を持ちました。

世の中から理不尽な扱い=虐待を受け、あるいは貧困に追いつめられ、社会から見捨てられた弱者がさらに病んで、救いのないその最期のイマワノキワに恨み言ひとつ言うのでもなく、いままさに息を引き取ろうという不運な人々に焦点をあてた怒りのモチーフは大いに理解できますが、しかし、そのもうひとつ先に、黒澤明なら、また別の世界を見せてくれるのではないかという期待が停滞し、裏切られたこの作品に対する失意と、そして悔いとが、自分の中にあったのだと思います。

たぶん、以前に「衝撃」と受け止めたかもしれないこの作品の、細部にこだわった重厚な描写と演技者たちの大仰な演技の数々も、この視点から見れば、その騒擾のカオスを簡潔にまとめるだけの掌握力を欠いた黒澤明の戸惑いによる放置によって、ただ冗長で無意味なだけの引き延ばしがもたらされたものと感じたとしても、その直感は、あながち誤りではなかったように思いました。

これは晩年の黒澤作品に顕著にみられる特徴でさえあることは、周知の事実です。

今回、この作品を見た正直な感想は、「なにも、こんなに長い映画である必要があるのか」というものでした。

またいつか、この作品「赤ひげ」にめぐり会うことがあれば、こんどはどんな顔を見せてくれるのか、いまから楽しみです。

というわけで、不完全な形でしか見ることのできなかった「赤ひげ」だったので、今日の視聴予定番組として2番目にチェックをしていた旅番組「新・鉄道・絶景の旅 北海道道東の旅」の方は、なおさら見逃すまいと思ったかもしれません。サブタイトルは、「冬景色と大自然を満喫」となっています。

平昌オリンピック以来、なんだかカーリングづいている自分は(とくに「女子」にですが)、最近「オホーツク」とか「道東」というワードに出会うと敏感に反応してしまい、その「道東」とつく番組があれば、どうしても見てしまいます。

番組は、釧路駅を出発して知床半島、網走から北見、留辺蘂駅(この町の意外な賑やかさには驚きました)まで、釧網本線から石北本線にかかる旅を列車を乗っておこなうというものでした。

摩周湖に寄り、知床半島では流氷歩きをし、止別でホテルに宿泊し、北浜駅では駅レストランでランチをとり、網走で下車してまた食事をし、北見(とはいっても、実は、さらに常呂町の「カーリング場」まで車でいくのですから、相応の時間を要したと思います)でカーリングに興じ・・・とこの旅は延々と続いていきます、その間、幾度もホテルに宿泊して豪華な食事と贅沢な温泉につかっている場面もありました、自分はあまりにもぼんやりと見過ごしてしまったので、食事回数とか宿泊回数をうっかりしてカウントしなかったのですが、これっていったい何泊の旅行だったのだと突然の疑問に捉われてしまいました。

だって、それでなくともですよ、北海道といえば特急列車優先で、各駅停車など特急が走るスキマ時間を遠慮がちに縫うようにしてかろうじて走っているという継子扱いの状態ですから、それこそ特急が止まらない駅で下車などしてしまったら、次の電車がまたいつ止まってくれるのか、時刻表を見て愕然とし、寒風が容赦なく吹き込む駅舎で寒さに凍え、命の危険さえも感じて辛抱強く待つくらいなら、いっそのことその地で宿泊してしまった方がよほど賢明な選択と思うくらいなのに、この番組では、マイナーな各駅停車駅にも丹念に下車していました(と、感じました)、はたしてこの旅番組の旅行日数がどのくらいのものなのか、番組の最後に突然の疑問がわいてきたというわけです。

実はこの北浜駅には、若干の予備知識がありました、3月3日の読売新聞の日曜版にこの駅のことが紹介されていて(髙山文彦「せつない鉄路を巡る旅」)記憶に残っていたので、古い新聞の束から当の新聞を引っ張り出して確認しました。そしてことさらに記憶に残っていたかといえば、その見出しが印象的だったからだと思います。

そこにはこう書かれていました、「孤独感とは別のさびしさ」。改めて読むと、いい年をしてこんなバレバレの見出しに反応してしまったなんて、ちょっと気恥ずかしい気もしますが。

そして、全国の無人駅を紹介しているこの記事をあらためて読むと、「北浜駅」に言及している部分はほんの数行でした、期待していたぶん、ちょっと拍子抜けです。

そこには、こう書かれていました。

「網走の北浜駅は、目の前がオホーツク海。初雪がどっさりと降った日で大小の鮭が遡上していた。」

この一文を読んだとき、この駅が単に「無人駅」にすぎないのに、自分の記憶のなかに刻まれた時には、なぜかいつのまにか「秘境駅」にすり替わって覚え込んでしまったのだと思います。

番組でも紹介されていたとおり「北浜駅」は、無人駅であっても秘境駅なんかじゃありません。駅舎には立派なレストランもあって、さらにオホーツク海を一望のもとに見渡せる展望台さえ備えている立派な駅です。

あえて秘境駅というなら、女満別空港にもっとも近い駅、「西女満別駅」の方が相応しいだろうなと思いながら、この道東の列車旅の番組を見た次第です。



by sentence2307 | 2019-03-09 10:34 | 黒澤明 | Comments(0)
以前このブログで、「あったかもしれない渡辺邦男監督の『七人の侍』」というコラムを書いたことがありました。正確なタイトルは、すこし違うかもしれません、忘れてしまいました。

ときの流行を敏感に反映しなければ、「映画」という産業は成り立たず、すぐに大衆から見放されかねない危機を常にはらんでいることは、実際、過去に何度も経験してきたことだと思います。

しかし、大衆におもねってばかりいると、じきに飽きられてしまうという側面も、また見すごしにはできません。

「七人の侍」において黒澤明監督が、当初むすんだ契約を無視して、撮影にあまりにも時間をかけすぎることに業を煮やした会社の上層部は、黒澤監督への嫌がらせか、単なる脅しにすぎなかったとしても、後半部分は監督を交代して早々に撮り上げようという話まで飛び出した、というエピソードを紹介しました。候補に挙がった監督は、早撮りの巨匠の異名を持つ渡辺邦男監督です。

上層部から、やいのやいの言われて、イササカうんざりしていた黒澤監督が、気も弱っていたこともあって、その監督交代の話を「了承してもいい」の一歩手前までいったということを、そのときはじめて知りました。

しかし、渡辺邦男監督の「七人の侍」というのも、結構面白いものに仕上がったかもしれません。

前半では威厳があって重厚だった志村勘兵衛が、後半では一変して妙に軽々しくなり、踊りながら歌なんぞも歌ったりして(「鴛鴦歌合戦」1939の例があります、あのときも、既にお爺さんでした)、へらへらしながら、たまには志乃のお尻を撫ぜたりして、キャッキャッと飛び跳ねながら、ついにラストは、百姓も野武士も死んだ亡者たちも総出で、やけっぱちのヒステリー気味大団円、なんと後半部分はわずか1週間と半分で撮り上げたぞという撮影所長の賛辞のコメントが添えられたにこやかなツーショット写真が新聞に掲載され、さらに、「いやいや、1週間と半分の『半分』の方は余計だったな、馬さえオレのいうことを聞いてくれていれば、もっと早く撮れたはずだ、相手が動物じゃ仕方ないけどな、ワッハッハ」みたいなコメント付きの渡辺監督の写真も掲載されていて、これもまた違った伝説的な映画になっていたかもしれません。いまのような世界で1~2を争う名作とはいかないまでも、カルトムービーで生き残るという途もありますし。

そして、自分は、このいきさつを読んだとき、ずいぶん象徴的な話だなと思いました。

黒澤監督は、作品を作るうえにおいて、自分の信念とか構想を曲げてまで「時流」に乗ったり、取り入れたりするようなタイプの映画監督なんかではありません。

たとえ契約書に「撮影期間」という欄があって、そこに何かを記載しなければならないから、適当な日付を記入するだけのことで、最初からそんなものに従う気など毛頭なく、自分が取りたいものを納得できる時間をかけて撮るだけの話で、会社側も「少しくらいなら仕方ないか」と諦め半分のつもりでいて、それでもズルズルと引き延ばされ、とうとう資金繰りも尽きて、そろそろ「破産」の危機が現実的なものとなるにあたりで、とうとう切羽詰まって監督交代の話まで出てきたのだろうと思います。

たしかその頃だったと思います、この「あったかもしれない渡辺邦男監督の『七人の侍』」というフレーズが気に入って、しばらく、ひとり遊びに耽ったことがありました。

つまり、「あったかもしれない〇〇〇〇監督の『〇〇〇〇』」という○○の部分に適当な言葉を入れ、妄想を膨らませて楽しむのです。

例えば、小津安二郎の「仁義なき戦い」とかね。

小津監督は、松竹の監督ですから、メロドラマとか、軽い小市民映画(小津監督の小市民映画は、本当は「軽重たい」という本当は深刻な作品が多いのですが)などは、お手のものだと思うので、どうしても「東映」のやくざものとか、「日活」の社会派作品とかしか思い浮かびません。だけど、小津監督自身は、推測ですが「暴力描写」はあまり好きではないとお見受けしました、だって、「風の中の牝鶏」で、亭主が売春した妻を階段から突き落とす場面など、ずいぶん無理して撮ってるなあという痛々しい印象を受けましたから。野田高梧が、「風の中の牝鶏」を小津安二郎らしくないと言った意味が、なんとなく分かるような気がします。

それから、成瀬巳喜男の「四畳半襖の裏張り」なんていうのは、どうでしょうかね。あっ、これなら、なんとなく「あり」な気がしますね。あるある、きっと、ありそうだ。でも、成瀬監督は、濡れ場のシーンは、「そういうイヤらしいことは、やめましょう」とかなんとか言って、シーンやセリフをどんどん消してく人ですから、きっと濡れ場シーンのない「四畳半襖の裏張り」ができあがると思います。でも濡れ場シーンがない分だけ役者に複雑微妙な演技を求めるわけで、思えば、「山の音」なんて随分、隠微な夫婦の性生活が暗喩的に描かれていて、それを原節子は、夫から強いられる性技への嫌悪と、そういうことにどうしても応じられない、「女」に成り切れない自身の頑なさへの劣等感との葛藤が、微妙な表情と、身をすくませるようにして生理的に受け入れられない嫌悪をみごとな象徴的な演技で魅せてくれました。

考えてみれば、時代が進めば進むほど性行為の描写がどんどん許容されつづけ、それが直接的になればなるほど、印象度はますます薄まり、現在では「そのものズバリ」の性行為を(こうなると、もはや演技ではありませんが)行う女優も男優も、ほとんどの俳優が、真正な意味で、ついに「顔」そのものを失ってしまったということができると思います。

無限に続きそうな言葉遊びに飽きてきたころ、古い友人から「沢島忠全仕事」(ワイズ出版)をロハで譲り受けました。時間が空いたときなどに、思いついたところを適当に開いて拾い読みしているのですが、偶然読んでいたページにこんなことが書かれていました。


―― 右太衛門さんは、はじめてですか。

沢島 監督になってからも、私は若手ばかり撮っていましたから、市川先生には一本もご縁がなかった。今度はじめて監督することになった。所長も代わって。髙橋さんが所長でしたから。右太衛門さんがあんたとやりたがっているって。じゃあ、行きましょうと。
それで、「赤ひげ」が撮りたいって言ったんです。僕は前から山本先生の原作を読んでましたから。おお、ええやないかと。右太衛門先生もそれでいけと。喜んでホンを書いたんです。
そのころ、右太衛門先生は、南禅寺に物凄い大きな邸宅をお建てになった。北大路の家を売って。疎水の水が庭に引き込まれて、庭の池に鯉がピチピチしてて、門を入ってから玄関に行くまで、しばらく玉砂利を踏んでいかないとつかない。
大邸宅の応接間でホン読みしたんです。「赤ひげ」の。
「あかん、こんな地味なものはだめだ」即座におっしゃった。「小石川療養所なんて、そんな貧弱なものはだめだ。道場を持っていて、その横に診療所があって、剣と医術両方をやっている。街を歩くときは、〈悪鬼必殺道場〉と書いたのぼりをもって、それで庶民の治療に当たる。女にもてる。酒は強い。これをそのように書き直して」
もう封切りも決まっているしね。これを直すのは大変なんですよ。でも、右太衛門先生らしいでしょう。もっともこれは右太衛門先生らしい話です。それで急遽やり直しましたけれどもね。長崎から帰ってくる若い医学生の役が千代ちゃんだった。

――黒澤監督作品で加山雄三がやる役が千代之介さんに決まってたんですか。

沢島 私がそういうふうに配役していた。アタマから千代ちゃんを使うことになってるから。年のことは言わんでください。会社から与えられるものを私たちはやらなきゃならない。そういう監督ですから。黒澤さんみたいに自分が好きなものを全部呼んできてやるんじゃないんです。僕らのは、主役級を全部与えられる。右太衛門さん、千代之介さん、それから里見君。女は月丘夢路さん。これだけくらいは決まっている。その中で、こっちが料理していくんです。「赤ひげ」の原作に当たった役は皆あったんです。急遽変わりましたから、それを全部違う役にして、書き直しましたが、少し原形がのこるんです。これは山本周五郎先生の所へ許可を貰いにいかないかん。
先生は前の「暴れん坊兄弟」をすごく気に入ってもらってた。あれは先生の「思い違い物語」を脚色したんです。それで、僕のことをすごく信用してもらっていたから、企画部長の渡辺さんが、先生の所へお許しを貰いに行ってくださった。そしたら、山本先生は、「いいじゃないですか。時代劇の世界っていうのは、狭い世界だから、似た話もありますよ」って。許してくださった。




by sentence2307 | 2018-09-12 22:34 | 黒澤明 | Comments(0)
年末のBSで、朝から黒澤明の主要作品を一挙放送していました。

まず最初に放映された作品が、「七人の侍」。

どっこいしょとばかりテレビの前に陣取った当初は、すべての作品を見るつもりの意気込みだったのですが、実際に「七人の侍」を見はじめたとき、こんなふうにこれからさき何作も立て続けに重厚な黒澤作品を見ることができるのかと、なんだか自信がなくなってきました、というか、むしろ疑問が湧いてきたというべきかもしれません。

それは、まず、実際問題として、黒澤明の重厚な作品群を、集中力を途切らさずに何時間も見る気力が自分にあろうとは思えないことと、そんなふうにしてまで見ることにどのような意味も価値もあるのかと疑問に思えてきたからだと思います。

結局は、「七人の侍」だけを見て、案の定集中力を使い果たし、相当に疲れ、そのあと終日、この超弩級の名作の余韻に浸りながら過ごしました、他の作品を見逃したことの後悔などいささかもなく、むしろやり過ごした方が良かったくらいだと、心地よい疲労感に満たされながら、その残念な見逃しを自分自身納得さえしたのでした。

もっとも、黒澤作品は放映されるたびに几帳面に録画しているので、同じ作品のストックなら何本もあります、とくに記録とかはしてはいませんが。

黒澤作品に限らず、未見の作品となれば、(すぐに見るかどうかはともかく)極力録画する方針なので、空きスペースを無駄に遊ばせておかず、即有効活用することを心がけていますので、厳格な空きスペース管理は欠かせません(まるでこれじゃあアパートの空き部屋を必死で埋めるために管理に苦慮する不動産屋状態です)、緻密なタイムテーブルを作成し、それを俯瞰・駆使しながら秒数きざみまでカウントして的確にかぶせ録画しているのですが、黒澤作品だけは例外として消去せずに(また、できるわがありませんが)永久欠番状態にしています。

つまり、最初から消去するつもりなど全然ないのですから、当然管理とかも必要なく、黒澤作品は録りっぱなしの野放し状態の溜まる一方、ですので、これといった「記録」もしていないというわけです。

この治外法権的な監督作品といえば、ほかに小津作品、溝口作品、成瀬作品があり、こんな感じなので、将来のいつの日にか、自分の録画ストックはすべて、黒澤作品と小津作品と溝口作品と成瀬作品とに(他の作品を凌駕して)入れ替わってしまうかもしれません。

「七人の侍」を見た後に「晩春」を見て、さて、次は「東京物語」でも見るかと探したとき、たまたま手にしたのが「浮雲」で、高峰秀子いいよなゼッテエ~、などと呟きながら、両の手には次に見る「宗方姉妹」と「雨月物語」を握りしめ、足先で手繰り寄せたのは別に録画した「七人の侍」で、おっと、確かこれはさっき見たぞなどと呟いては退け、さらに「めし」と「生きる」を足先でモゾモゾと探し当てては確保し、さらに「用心棒」も小脇に抱え、そのとき一緒に手繰り寄せた1本の作品名を確認しなかったことを思いだして、いったいこれはなんじゃらほいと見直せば、なんと「にごりえ」じゃないですかと驚き、思わず「お~い、今井正もストックしとかなきゃダメじゃないか」と誰もいない部屋で架空の相手を叱りつけ、すぐに「はいはい」などと自分で答えてあやまり、すごすごと「永久欠番棚」(あんのか、そんなもの)にあわてて今井作品コーナーをこさえたりなんかするという、これってなんとも幸せな映画オタクの白昼夢の極地であって、自分の周囲にはすべてこれ「七人の侍」で埋め尽くされ、ひとりその恍惚郷にどっぷりと浸り込み、思わずクックックと湧き上がる哄笑を必死に抑えながら肩を震わせたりしています、あぶねぇ~。

冗談はさておき(冗談にするな、この野郎)、今回「七人の侍」を見て、感じたことを書いておこうと思います。

野武士に刈り入れ時期をねらわれ、そのたびに収穫したコメと村の女を強奪されて、これでは、もはや生きていくことなどとてもできないと悲嘆して困窮したとき、村の長老が、自衛のために食い詰めた侍を雇うこと、つまり、野武士と戦うことを提案します。

いままで野武士にされるがままになって耐え忍ぶだけだった無力な百姓にとって、野武士に刃向かうというのは、それだけでも価値観を根底からひっくり返すほどのとんでもないアイデアだったはずで、さらに、その手立てとして「侍を雇う」というのですから、それはもう驚天動地の(そんなことができるのかという)秘策中の秘策だったと思います。

しかし、この「食うだけは保証する」という最低限の条件は、もしかすると百姓たちを苦しめている野武士たちと同じような低劣悪逆な武士をさらに呼び寄せかねない恐れとリスクを伴うと同時に(妙齢の娘を持つ万造の不安は、まさにこの点にありました)、逆に、出世や功名とも無縁なこの死闘に命を懸ける条件が、とんでもなく素朴で無欲だからこそ、それに呼応するような清浄で無垢な侍たちをも引き寄せることができたことにつながり、この卓越したシチュエーションにはいつもながら感心させられます。考え抜かれた実に見事なシナリオです。

百姓が侍を雇って野武士を撃退するなど、本当にできるのかと疑心暗鬼の思いを抱く百姓たちは、それでも恐る恐る街にでて侍探しをはじめますが、もとより、戦いの報償が、ただの「食うだけは保証する」というだけなので、それだけでは当然、思うように侍を集めることができず、落胆した利吉・万造・茂助たちは、そろそろ村へ帰ろうと悲観にくれます。

そして、それから七人の侍がひとりひとり選ばれていくという前半のサムライ・リクルートの場面に続いていくのですが、中盤の戦いに備えて武士や百姓が村の防備に奔走する緻密な描写や、後半の野武士たちとの激烈な死闘場面(最初、タカをくくっていた野武士たちが、堅牢な防備と意表を突く逆襲に驚愕して次第に必死なっていく捨て身の死闘のダイナミズムも含めて)に比べても、なんら引けを取らない、ダイナミックで丹念な描写で、実に堂々としていて、観る者を惹きつけずにはおきません。

勘兵衛と勝四郎が出会い、保留的な伏線として菊千代が絡んで、やがて五郎兵衛、七郎次、平八、久蔵と侍はそろいます。

この7人のうち勘兵衛をのぞいて(すでに観客は、五郎兵衛が勘兵衛に表明した敬意の言葉「わしは、どちらかというと、おぬしの人柄に惹かれてついて参るのでな」を共有しているので、当然「勘兵衛をのぞいて」となります)、そのもっとも印象的な出会いは、以前にも書いたことがあるのですが、自分的には、七郎次との出会いということになります。

そのシーンをちょっと再現してみますね。

勘兵衛のはずんだ大きな声。
勘兵衛「ハハハ、いいところで会った。いや、有難い」
勘兵衛と物売り姿の男(七郎次)が入ってくる。
勘兵衛「フム、貴様、生きとったのか。わしはもう、てっきりこの世には居らんと思っとったが」
七郎次、静かに笑っている。
勘兵衛「ところで、貴様、あれからどうした?」
七郎次「はア、堀の中で水草をかぶっておりました。それから夜になって・・・」
勘兵衛「フムフム」
七郎次「二の丸が焼け落ちて、頭の上に崩れてきたときには、もうこれまでだと思いましたが・・・」
勘兵衛「フム、そのとき、どんな気持ちだった?」
七郎次「別に・・・」
勘兵衛「もう合戦はいやか?」
七郎次、静かに笑っている。
勘兵衛「実はな、金にも出世にもならぬ難しい戦があるのだが、ついて来るか?」
七郎次「はア」
勘兵衛「今度こそ死ぬかもしれんぞ」
七郎次、静かに笑っている。

この会話のなかで、勘兵衛は七郎次に、「死ぬことは恐ろしくないか」と問いかけたうえで、この百姓の苦衷を救う無償の戦いに誘っています。

そして、「今度こそ死ぬかもしれんぞ」とダメを押す勘兵衛の言葉にも、七郎次は「静かな笑い」で返しています。

むかしから自分は、このときの七郎次の笑みが、どういう種類の「笑み」なのか気になって仕方ありませんでした。

聞きようによっては、随分と意地悪い勘兵衛の遠回しの誘導尋問にあがらいながらの(身分制度の位置付けられた制約の中からの)精一杯の七郎次の自己主張と見ていた時期もありました、いまから思えば随分と穿ちすぎな考えですが。

例えば、夜陰に乗じて種子島を奪ってきた久蔵に対して、勝四郎が「あなたは、素晴らしい人です。わたしは、前から、それを言いたかったんです」という言葉に、久蔵が顔をやや歪めてみせるあの笑みと二分するような傑出したシーンです。

そのときの久蔵の笑みが、「苦笑→自嘲」の範囲の中にあるものだったとしたら、「今度こそ死ぬかもしれんぞ」と問われて返した七郎次の笑みは、あきらかに

「死ぬこと」など、なにものでもないと一笑に付すサムライの豪胆さだったのだと納得しました。

まさに、これが「命も要らず名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」だったのだなあと、大河ドラマ「西郷どん」が始まろうかというこの年頭、七郎次の「笑み」というのが「あれだったんだな」と、つくづく感じ入った次第です。

しかし、その私欲を絶った高潔な豪胆さこそが、最後には、久蔵に死をもたらし、西郷隆盛をも死へと追いつめた元凶だったのだとしたら、七郎次をあの激烈な死闘から生還させたものが、ただの偶然だったのか、もう少し考えてみる必要があるのかもしれません。



《スタッフ》
製作・本木壮二郎、脚本・黒澤明・橋本忍・小国英雄、撮影・中井朝一、同助手・斎藤孝雄、照明・森茂、同助手・金子光男、美術・松山崇、同助手・村木与四郎、音楽・早坂文雄、同協力・佐藤勝、録音・矢野口文雄、同助手・上原正直、助監督・堀川弘道(チーフ)・清水勝弥、田実泰良、金子敏、廣澤栄、音響効果・三縄一郎、記録・野上照代、編集・岩下広一、スチール・副田正男、製作担当・根津博、製作係・島田武治、経理・浜田祐示、美術監督・前田青邨・江崎孝坪、小道具・浜村幸一、衣装・山口美江子(京都衣装)、粧髪・山田順次郎、結髪・中条みどり、演技事務・中根敏雄、剣術指導・杉野嘉男、流鏑馬指導・金子家教・遠藤茂、

《キャスト》
三船敏郎(菊千代)、志村喬(勘兵衛)、稲葉義男(五郎兵衛)、千秋実(平八)、加東大介(七郎次)、宮口精二(久蔵)、木村功(勝四郎)、津島恵子(志乃)、高堂国典(儀作)、藤原釜足(万造)、土屋嘉男(利吉)、左ト全(与平)、小杉義男(茂平)、島崎雪子(利吉の女房)、榊田敬二(伍作)、東野英治郎(盗人)、多々良純(人足A)、堺左千夫(人足B)、渡辺篤(饅頭売り)、上山草人(琵琶法師)、清水元(町を歩く浪人)、山形勲(町を歩く浪人)、仲代達矢(町を歩く浪人)、千葉一郎(僧侶)、牧壮吉(果し合いの浪人)、杉寛(茶店の親爺)、本間文子(百姓女)、小川虎之助(豪農家の祖父)、千石規子(豪農家の嫁)、熊谷二良(儀作の息子)、登山晴子(儀作の息子の嫁)、高木新平(野武士の頭目)、大友伸(野武士の小頭・副頭目)、上田吉二郎(野武士の斥侯)、谷晃(野武士の斥侯)、高原駿雄(野武士・鉄砲を奪われる)、大村千吉(逃亡する野武士)、成田孝(逃亡する野武士)、大久保正信(野武士)、伊藤実(野武士)、坂本晴哉(野武士)、桜井巨郎(野武士)、渋谷英男(野武士)、鴨田清(野武士)、西條 悦郎(野武士)、川越一平(百姓)、鈴川二郎(百姓)、夏木順平(百姓)、神山恭一(百姓)、鈴木治夫(百姓)、天野五郎(百姓)、吉頂寺晃(百姓)、岩本弘司(百姓)、小野松枝(百姓女)、一万慈多鶴恵(百姓女)、大城政子(百姓女)、小沢経子(百姓女)、須山操(百姓女)、高原とり子(百姓女)、上岡野路子(百姓の娘)、中野俊子(百姓の娘)、東静子(百姓の娘)、森啓子(百姓の娘)、河辺美智子(百姓の娘)、戸川夕子(百姓の娘)、北野八代子(百姓の娘)、その他、劇団若草、劇団こけし座、日本綜合芸術社、



by sentence2307 | 2018-01-20 16:14 | 黒澤明 | Comments(0)
長いあいだ抱いてきた自分的な印象として、黒澤明が、自分の作品のためなら製作にまつわる関係者をボロ雑巾のように使い捨てるらしいという噂を聞いていて、それがもし本当なら、あの早坂文雄もまた、そのうちの一人だったのだろうかという単純な疑問から、前回のコラム「黒澤明は、早坂文雄を殺したか」を書いてみました。

いま、あらためて読み返してみると、なんだか最後などは強引な胴体着陸みたいな随分安直な結論だったかもしれないなと、思わず赤面してしまいます。

しかし、だからといって何の収穫もなかったというわけではありません。

結論的には、あらゆる映画人が、「映画への殉教者」だったに違いなく、結局、黒澤明も含めて「勝者」など、誰ひとりいなかったのだというそれなりの結論であったとしても、観念の果実のようなひとつの言葉が浮かびあがってきました。

「七人の侍」のラストで語られる有名なセリフ「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」というあの卓越したセリフとの近似性です。

前著「黒澤明と早坂文雄-風のように侍は」(筑摩書房)のなかで、西村雄一郎が、黒澤明本人に、この有名な台詞の意味を直接訊いたというクダリがあります(739頁)。

《黒澤本人に、聞いたことがある。
「七人の侍」のラストで、志村喬の勘兵衛が「勝ったのはあの百姓たちだ、儂たちではない」というが、あれはどんな意味だったのかと。
すると黒澤はこう答えた。
「百姓は、なかには藤原釜足のようにずるいのもいるし、土屋のような賢いのもいる。しかしどんな場合でも、大地と共に根強く生き続けていく。それに対して侍は、ただ旗のように翻っているだけだ。大地をさっと吹き過ぎていく風のようなものなのだ」
と答えた。》
のだそうです。

いざ分かってしまうと、な~んだ、それだけのことかと拍子抜けしてしまうくらい、「世界のクロサワ」の言葉にしては随分つまらないコメントですが、しかし、こちらが勝手に「世界のクロサワ」と祭り上げ、それらしい決め言葉を期待していたにすぎないだけなのであって、このシンプルで至極つまらない観念を、力強い映像に変えてしまう強引さこそ、黒澤明の偉大の証しなのかもしれないなと、すぐに思い返しました。

実は、自分も長い間、「勝ったのはあの百姓たちだ、儂たちではない」という言葉の意味を考え続けてきたひとりです。

勝ったのは、本当にあの百姓たちだったのか、野武士はもう二度とあの村を襲ってこないといえない状況の中でも「勝者」などと言い切ってしまっていいのだろうか、そして、ふたたび襲われる危機に直面したとき、あの途轍もなく善良だった「七人の侍」たちが残した「勝利」の記憶を手掛かりにしてしまっていいのか、むしろあの「成功事例」は、野武士たちより更に悪辣な侍たちを雇ってしまうリスクを生み出しやすくしていないだろうか、それによって百姓たちが皆殺しの憂き目に会うという悲惨を自ら招き寄せるようなことはないのだろうか、とそこまで考えてきたとき、ある思いに捉われ愕然としました。

「勝ったのは・・・儂たちではない」というひとことは、「勝ったのは・・・儂だ」までも、否定はしていないのではないか、という思いに捉われたからでした。

野武士との死闘によって、勇猛果敢な前衛としての4人の侍たちは、壮絶な死を遂げています。

それが痛切な討ち死にだったとしても、しかし、想定外の出来ごとだったというわけではない。

戦うべき兵士たちが、その能力を十全に出し切り、そのうえで戦死していったのですから、この乱世の世、イクサと手柄とを求めて諸国を彷徨っていた侍たちにとって、いつか戦闘にまみれて突然の死を得ることが、想像もつかないほどのことだったとは思えないのです。

あるいは、勘兵衛のもとに生き残ったのは、年端のいかない若者(木村功)と従者(加東大介)です。

戦闘能力のある手勢をすべて使い切り、目の前の敵をことごとく殲滅し、そして最後には、司令官と参謀と未来のある若き兵士が生き残ったという状況は、熾烈な戦闘における作戦の大いなる成功であり、幾人かの当然の犠牲を織り込んだうえで、これを「勝利」と宣言することに、なんの躊躇もなかったはずです。

むしろ、百姓たちにとって、この目先の戦いを切り抜けたからといって、それはただ今回だけのことにすぎず、百姓たちの置かれている危険な状況(野武士たちの襲撃)がすべて消えたわけではない、そういうことのすべてを知悉したうえで、勘兵衛がなぜ、あえて「勝ったのはあの百姓たちだ、儂たちではない」などと、ことさらに言わねばならなかったのか、という方が、かえって不自然なような気がしてきました。

例えば、生き残った若侍(木村功)と従者者(加東大介)に向けて、あえて言ったのではないかと考えてみました。

そこにあるのは、手柄と名聞と良き仕官とを求めて明日からもまた諸国を渡り歩こうという彼ら侍たちの「明日」に対してです。

衝撃されるリスクのある土地に縛りつけられ、留まるしかない百姓たちよりも、不安定であっても、もっと自由な「明日」へ踏み出そうとしている侍たちの方が、ずっと「勝者」に相応しいと感じました。

こんなふうにいうと、西村雄一郎の問い掛けに対して黒澤明が「大地と共に根強く生き続けていく」といった百姓観とは随分隔たってしまったみたいですが、ここに黒澤明の、天才ならではの「独特の御都合主義」と安易な理想主義とを感じざるを得ません。

前著、西村雄一郎の「黒澤明と早坂文雄-風のように侍は」(筑摩書房)に「七人の侍」の構想を練っている部分にこんな箇所があります。

《次に江戸時代にできた剣豪列伝をもとに、強い侍ばかりが登場するエピソードをつなぎ合わせてみた。
そうして剣客の生活を調べて行くうちに、武者修行の侍たちは野武士の襲撃を防ぐために農民に雇われていたという事実が浮かび上がってきた。
「それだ!」橋本の言葉を聞いて、黒澤は叫んだ。
そのことをモチーフに、小国英雄と橋本と黒澤は、脚本を三稿まで練り直した。
ソビエトの作家ファジェーフの記録文学「壊滅」が下敷きにあったという。
当初は「武士道時代」と題されていた。(697頁)》

ここで突然出てくる「ソビエトの作家ファジェーフの記録文学「壊滅」が下敷きにあった」の1行が、ずいぶん奇異に感じました。

不意に出てきて、2度と触れられていない最初で最後の奇妙な1行です。

「下敷き」にしたほどなら、もう少し露出があってもよさそうなものではないですか。

例えば「検討されたけれども、採用するに至らず、結局諦めた」となれば、少なくとも3か所には出てこなければならず、このくらいが読書人として納得できるすれすれの最低条件だとすれば、こんな思わせぶりの不意の登場と消滅ではかえって気にかかって、「ソビエトの作家ファジェーエフの記録文学『壊滅』」なるものがいかなるものなのか、ここはどうしても調べないわけにはいきません。

手元にある「新潮・世界文学小辞典」の「ファジェーエフ」の項には、こんな解説がありました。

《【ファジェーエフ】1901~1956ソヴェトの作家。
教師の家に生まれ、少年時代から極東の革命運動に参加、1923年にその体験に基づいた中編「氾濫」と短編「流れに抗して」で文壇にデビュー、続いて長編「壊滅」1927によって一躍プロレタリア文学系作家の中心的存在となった。
極東の白軍、干渉軍との困難な戦いの中でついに全軍離散の運命をたどる一パルチザン部隊の悲劇を語りながら、作者はこの長編で雑多な過去と性格をもつ隊員たちの群像をトルストイばりの心理主義的リアリズムの手法で描き分け、隊長レヴィンソンの人間像に生きた共産主義者の風貌を示し、悲劇を越えて前進する革命思想のたくましさを訴えることができた。
この作品が初期ソヴェト文学に新紀元を開いた傑作とされるのは偶然でない。
彼にはこのほか、極東の少数民族の運命を描いて、エンゲルスの「家族、私有財産、国家の起源」を小説化しようとした野心的な未完の長編「ウデゲ族の最後のもの」1929~36、第二次大戦中の対独抵抗運動の実話に基づいた長編「若き親衛隊」1945があり、特に後者はスターリン賞を受けたのち、党の批判を受けて改作するなど話題をまいた。
しかし、ファジェーエフはショーロホフなどと異なって、作家である以上に文学運動の組織者、理論家であり、この面へのあまりの深入りによって作家としての体制を阻まれた。
すでにラップの時代から目立った論客であった彼は、34年にソ連作家同盟が設立されると、まずその党グループの責任者、ゴーリキー死後は同盟の第一の実力者となり、折からの大粛清の恐怖のもとで、ソヴェト文学をスターリン体制に組み入れるうえで最も顕著な役割を果たした。
39年には文学者代表として党中央委員にも選ばれている。
戦後は作家同盟書記長となり、社会主義リアリズム論の公式スポークスマン、文学統制の元締めとして活躍した。
ただこの間にも、彼自身の中に作家と文学官僚の矛盾に苦しめられていたことは確かで、それがスターリン批判後、彼を自殺に追いやったことが理解できる。
こうした彼の苦悩は、ラップ時代からの文学上の発言に彼が自ら手を入れ、死後に刊行された論文集「30年間」1957にもよく現われている。》

小説「壊滅」に描かれていた主たるテーマは、革命にとってはただの毒でしかない「知識人への嫌悪」であり、小説「壊滅」が党中央・スターリン体制に対するひたすら奉仕しようとした作品だったことが推察できます。

それは、そのままあの紅衛兵による知識人階層への弾圧とか、ポル・ポト政権下における知識人を虐殺した精神につながる同質の何かであることも感じます。

年譜によれば、1953年のスターリン死後、ほんの数年で自らの生き場所がなくしたファジェーエフは、1956年に自殺しています。

1954年4月26日に公開された「七人の侍」が、その動揺の影響を受けていないはずがないと見るのは、あるいは穿ち過ぎなのかもしれませんが、あれほどソヴェトに傾倒し、ロシア文学を愛した黒澤明の、たった一行の奇妙な露出と不意の消滅(沈黙)に、スターリン批判のなかで、「下敷き」にした元ネタを秘匿せざるを得なかった黒澤明の一瞬の苦渋を感じたのかもしれません。

そして、その「苦渋」さえも、踏み台にして映画を撮ったというなら、黒澤明にまつわるあの「自分の作品のためなら製作にまつわる関係者(や思想)さえもボロ雑巾のように使い捨てるらしい」という黒い噂は、やはり信じるべきなのか迷い始めているところです。
by sentence2307 | 2014-12-06 22:46 | 黒澤明 | Comments(2)
先週、wowowの番組表を眺めていたら、あるタイトルが目に飛び込んできました。

その活字だけが特別に輝いて、まるで乱舞しているように強烈に自己主張していました。

それが「天才作曲家・早坂文雄 幻のテープが語る『七人の侍』」でした。

このwowowの「ノンフィクションW」は、結構面白いので、欠かさず見ています、うっかり見過ごしたりしないよう、すぐに番組予約をしておきました。

それを昨夜ようやっと見ることができました。

この「ノンフィクション」の冒頭は、東宝系列の音楽会社(よく覚えていないのですが、おそらく「そう」だったと思います)が、東宝本社から倉庫に眠っている映画関連のテープなど、映画で使われた音源を丸ごと買い受けたそのなかに、なんと「七人の侍」の映画音楽の録音テープがまざっており、まさに「発見した」というところから始まっています。

まあ、この部分、素直に感動すべきところだったのかもしれませんが、そのワザとらしい煽るような前振りに、なんとなく反発を覚えてしまいました。

「発見」したときの様子や状態をよく聞いていると、数個あったその録音テープの箱はしっかりと紐で括られており、箱の横の見やすい箇所に丁寧にも「七人の侍」とタイトルが付されていて、誰が見てもすぐにそれと分かるよう、整理棚のそれなりの位置に整然と置かれていたというのです。

それって、もともとそこに「整理」されていたもので、はたしてそれを「発見」といえるのかと、ちょっと引っかかるところがありました。

番組中、映画関係者もインタビューに答えていましたが、映画ができてしまえば、製作段階で作られた副造物(音楽テープとか、そのほかモロモロあるとは思いますが)は破棄するのが映画界では当たり前のことで(いわば今回の払い下げだって、そのケースのひとつといえないことはありません)、それがまがりなりにも倉庫で保管されていたということだとすれば、それは「破棄」という慣習から大きく外れた破格の扱いだったわけなのであって、そういうことをあれこれ思い合わせると、確かにその箱の存在は忘れられていたかもしれませんが、かつては管理者の明確な認識のもと、倉庫の「その位置」に保管・整理されていたということは推察できると思いますし、それを見つけたからといって、はたして《「発見」の名に値するような行為》だったのかという疑念に捉われたのでした。

この「ノンフィクション」のこうした作為的な始め方にはちょっと引いてしまって、企画者の意図したようなテンションまではあげられなかったのですが、気を取り直してこの番組を見始めました。

そうそう、この番組制作者の意図したものといえば、もうひとつ、「黒澤明は、早坂文雄を殺したか」の真偽の解明にあったかもしれません。

自分もむかし、雑誌だったか単行本だったかで、「『七人の侍』の製作過程において、黒澤明が早坂文雄に過酷な仕事を強いたために彼の生命を縮めた」というマコトシヤカな記述を読んだことがあり、その記述がいつまでも忘れられずに気持ちの端っこに引っ掛かっていました。

つまり、この「疑念」は、なにも自分だけのものだったのではなく、あくまでも「噂」というニュートラルな外見を装いながらも、こういう番組のテーマとして据えられるくらいの、スタンダードな流通性(というか、さらに踏み込んでいえば「信憑性」でしょうか)をもって語り伝えられてきたのだと思います。

しかし、ここまで殺伐でかつ過激だと、かえって客寄せのキャッチコピーみたいに非現実化し、かえって嘘っぽく、衝撃性を薄めてしまうものなのでしょうが、それにしても「殺した」という語調の強さは、いささか穏やかではありません。

僕たちは、「七人の侍」の撮影現場において、落馬や馬に蹴られて負傷者が続出したとき、チーフ助監督の堀川弘通が、このままでは死者がでるかもしれないと懸念し、黒澤明に直接防護策(金属製の鬘を被らせるなど)を具申したところ、
「そんなことはできないよキミ、レンズは望遠で狙っているんだよ。たとえ死人がでたとしても、そりゃ仕方ないね」
と言い放ったと伝えられています。

このエピソードから窺われる苛烈さは、映画を完成させるためには、いささかの犠牲もいとわない、あるいは人が死のうと生きようと、とにかく映画を完成させるのだという映画に対する黒澤明の強い信念が込められていて、当然その「犠牲」の容認のなかには、「早坂文雄の落命」だて当然視野にあったに違いないと思わせるところが、あの「噂」を、必ずしも荒唐無稽なガセでないと思わせた「信憑性」を支えてきたのだと思います。

このノンフィクション、しばらく見ているうちに気がついたのですが、この番組が大きく依存している元ネタというのが、西村雄一郎の「黒澤明と早坂文雄-風のように侍は」(筑摩書房 2005.10.20)らしいということが、だんだん分かり始めてきました。

「黒澤明と早坂文雄」という本は、自分にとって、エピソードの宝庫というか、「黒澤明・逸話大事典」とでもいうべきとても使い勝手のいい存在でした(「過去形」なのは、いつの間にか手元から消えてしまっているからですが)。

黒澤明と早坂文雄のふたりの天才のそれぞれの生い立ちを並列的に書き進み、やがて運命的に出会い、そして早坂文雄の急死によって交友が絶えるところまでのエピソードを丹念に積み上げた800ページを超える大作です。

この本は、ふたりのことばかりでなく、黒澤明をめぐるおびただしい関係者の名前を知るうえでも、とても役に立った魅力溢れる労作でした。

読んだのはもう何年も前のことになりますが、読み耽っていたそのときのことは、よく覚えています、ページの余白に書き込みをしたり、本文にせっせと線を引いたりして夢中になって読んだ記憶はしっかりとありますし、そういえば確かそこには「七人の侍」のテープの話もあったはずだと、だんだん本の内容が思い出されてきました。

あっ、そういえばあの本、どうしたっけかなと突然その「不在」に気がつき、同時に不吉な思いに囚われもし、しかし、あれだけ愛着のあった本なのだから、まさか「処分」などするはずがない、いやいや、あってはならないことだぞ、などとブツブツ自問しながら、あわてて物置の中の物を大方引っ張り出し、ようやく探し当てました。

これこれ、これが、まさに「発見」という名に恥じない聖らかな行為というものなのですネ。

ああ懐かしいという思いで、しばらく振りに、この本と対面し、表紙を撫で撫でしたり、ページをペラペラしていましたが、しかし、いつまでも、そんなふうな懐旧の念に捉われている場合ではありません。

目指すは、「七人の侍」です。

ありました、ありました、「第三部 熱き日々、第二章 別れ」の項に「『七人の侍』開始」と「『七人の侍』完成」があります。

そして、「開始」と「完成」の項に掲げられている小項目を見ただけで、当時の早坂文雄が死と直面していた切迫した様子と同時に、その充実感に満たされた栄光とが、はっきりと分かります。

ちょっと、その小項目を筆写しておきますね。

★「七人の侍」開始(プロコフィエフの死、病のなかの「雨月物語」、遺書、遅れるに遅れる「七人の侍」、早坂邸の周辺、侍のテーマ、死人が出てもしかたがない、尊敬セル人)

★「七人の侍」完成(死ぬ思いで、第五福竜丸、三人の弟子によるオーケストレーション、歴史的なダビング、6ミリテープの存在、空前のゴールデンウィーク決戦、風のように侍は、若き作曲家たちの結婚、汎東洋主義、音楽の裾模様、「近松物語」に溢れる実験精神)

じつは、「黒澤明と早坂文雄」を何年振りかで改めて読み返しました。
その「プロローグ」には、家族に見守られながら早坂文雄が亡くなる臨終の様子が簡潔に記されています。

《「子供たちは早く来なさい!」
その日は、昭和30年10月15日にやってきた。夕食が食卓に運ばれようとしていた。まさにその時の出来事である。
早坂は仕事場で突然倒れた。長女の卯女、次女の絃子は、母・憲子のおおきな声に従って、すぐさま仕事部屋に駆け込んだ。
早坂は「胸が苦しい、苦しい」ともがいている。
憲子は早坂をしっかりと抱いた。
「憲子、申し訳ない、申し訳ない。お前に申し訳なかった」
早坂は、荒い息の中で繰り返した。
「そんなことない、そんなことない」と憲子も繰り返し声をかけた。
早坂は「黒澤さんに申し訳ない」とも言った。「撮影中にこんなことになって申し訳ない。後のことは頼む」
そう言い残して、早坂は妻の腕の中で事切れた。それが早坂の最後の言葉となった。たった15分ほどの出来事である。
葬儀は3日後の10月18日に行われた。》

末尾に掲げた「早坂文雄の仕事」をみれば、黒澤明と溝口健二とにかかわった仕事が、彼にいかに充実した日々をもたらしたか、それはおそらく、早世しなければならない悔しさはあったとしても、なによりも替えがたい奇跡と呼んでもいい充実の日々を早坂にもたらしたに違いありません。

この番組を見た自分の一応の結論を書いておきますね。

早坂文雄は、黒澤明に殺されたりはしなかった、むしろ早坂は黒澤明と仕事をともにすることで「死んでもいい」とさえ考えたのではないか、と思えてきました。

そして、黒澤明がひとり生き残って良い目を見たかといえば、晩年の凋落ぶりを知っている僕たちは、これもまた否定せざるを得ない。

世紀の名作「七人の侍」に魅入られ押し潰されたのは、なにも早坂文雄や本木荘二郎ばかりではなかったはず、黒澤明もまた、その後、「七人の侍」以上の作品を求められ続け、しかし遂に果たせず、煩悶しながらあの名作に押し潰された犠牲者のひとりとして数え上げねばならないかもしれません。


【「酔いどれ天使」以後の早坂文雄の仕事】
酔いどれ天使
酔いどれ天使(1948.4.27東宝 監督・黒澤明)
わが愛は山の彼方に(1948.5.25東宝 監督・豊田四郎)
富士山頂(1948.6.23新東宝 監督・佐伯清)
天の夕顔(1948.8.3新東宝)  
生きている画像(1948.10.12新東宝 監督・千葉泰樹)
虹を抱く処女(1948.11.16新東宝 監督・青柳信雄)
小判鮫 第二部 愛憎篇(1949.1.11新演技座)  
望みなきに非ず(1949.4.18新東宝=渡辺プロ)  
エノケンのとび助冒険旅行(1949.9.20新東宝=エノケンプロ 監督・中川信夫)
野良犬(1949.10.17映画芸術協会=新東宝 監督・黒澤明)
春の戯れ(1949.04.12映画芸協=新東宝 監督・山本嘉次郎)
妻と女記者(1950.4.2新東宝)  
醜聞(1950.04.26松竹大船 監督・黒澤明)
羅生門(1950.08.26大映京都 監督・黒澤明)
雪夫人絵図(1950.10.21滝村プロ=新東宝 監督・溝口健二)
女性対男性(1950 監督・佐分利信)
暁の脱走(1950.01.08新東宝 監督・谷口千吉)
窓から飛び出せ(1950.3.26新東宝 監督・島耕二)
細雪(1950.05.17新東宝 監督・阿部豊)
熱砂の白蘭(1951.03.24第一協団)  
その人の名は云えない(1951.05.11藤本プロ=東宝)  
お遊さま(1951.06.22大映京都)  
白痴(1951.05.23松竹大船 監督・黒澤明)
月よりの母(1951.08.24新東宝)  
武蔵野夫人(1951.09.14東宝)  
死の断崖(1951.09.28東宝)  
めし(1951.11.23東宝 監督・成瀬巳喜男)
長崎の歌は忘れじ(1952.03.27大映東京)  
滝の白糸(1952.06.12大映東京)  
風雪二十年(1951監督・佐分利信)
馬喰一代(1951監督・木村恵吾)
生きる(1952.10.09東宝 監督・黒澤明)
慟哭(1952監督・佐分利信)
人生劇場 第一部・青春愛欲篇(1952.11.06東映東京 監督・佐分利信)
人生劇場 第二部・残侠風雲篇(1953.02.19東映東京 監督・佐分利信)
三太頑れっ!(1953.02.12伊勢プロ)  
広場の孤独(1953.09.15俳優座 監督・佐分利信)
雨月物語(1953.03.26大映京都 監督・溝口健二)
山椒大夫(1954.03.31大映京都 監督・溝口健二)
七人の侍(1954.04.26東宝 監督・黒澤明)
君死に給うことなかれ(1954.08.31東宝)  
千姫(1954.10.20大映京都)  
近松物語(1954.11.23大映京都 監督・溝口健二)
叛乱(1954監督・佐分利信)
楊貴妃(1955.05.03大映東京=ショウ・ブラザース 監督・溝口健二)
密輸船(1954.11.30東宝)  
新・平家物語(1955.09.21大映京都 監督・溝口健二)
あすなろ物語(1955.10.05東宝 監督・堀川弘通)
生きものの記録(1955.11.22東宝 監督・黒澤明)
大地の侍(1956.01.29東映東京)  
幸福はあの星の下に(1956.02.05東宝)  
by sentence2307 | 2014-11-22 11:27 | 黒澤明 | Comments(0)

「七人の侍」就活論

もう去年のことになりますが、最後のお得意さん廻りをした時のこと、当初予定していた訪問先の挨拶が終えて、さあ帰るとするかと同行してきた若手社員をうながすと、彼は、あと1件だけ挨拶しておきたいお得意さんがありまして、そこには自分だけで伺いたいのですがよろしいでしょうか、と言いにくそうに切り出しました。

話によるとその会社は、もっか彼が開拓している最中の会社で、大手の会社と受注を競っており、いまのところ微妙な状態にあるので、このタイミングでイカメシイ肩書きを持った責任者が顔を出したりすると、先方が変に身構えて彼がいままでせっかく苦労して進めてきた話も壊れてしまうのではないかと懸念しているのでした。

苦心して契約直前まで漕ぎ付けた話を、何も知らない上司がしゃしゃり出てきて勝手放題にタテマエ論をぶち上げ、挙句の果てにせっかくの担当者の苦労を台無しにしてしまうという「ちゃぶ台返し」の苦い話なら若い頃の自分にも充分に覚えがあります。

ですので、ここは若い彼の判断に任せて同行は遠慮し、自分だけ最寄りの駅から電車で一足先に帰社することにしました。

普段、営業廻りはもっぱらクルマなので、昼間の電車に乗るなどということは滅多にありませんが、それにしても昼間だというのに、電車内は結構混雑していて、少し驚きました。

それも、乗客が学生とか主婦とかならともかく、パッと見、働き盛りのオッサンたちがラフなチャラチャラした服装で競艇新聞などを堂々と広げたりしていたりしていて、見るからに「いま、ひと勝負してきたところです」みたいな感じです。

まあ、見たところではモロ競艇狂いとか色ぼけした遊び人にはどうしても見えないので、自分のこの第一印象は、せかせかと働くしか能のない貧乏性の自分のひが目にすぎず、彼らが生活の心配のない余裕のある富裕な自由人か、勤務時間に拘束されない社長さんたちに違いないのだと思うことにしました。

さて、その電車がターミナル駅に到着し、ドアが開いたとき、一見してそれと分かるリクルート・スーツを着こんだ数人の就活生がドカドカと乗り込んできました。

話すことは、やっぱり「会社説明会」の話題です。

そうか、早いもので、もうそういう季節になったのかと聞くともなしに彼らの話に耳を傾けていました。

話題は、会社選びに迷っていることから始まって、そもそも自分がどういう職業に向いているのかさっぱり分からないとか、最近行われたらしい就活ゼミの模擬面接のことなどでした。

きっとそこには「想定問答集」みたいなものがあって、テーマ別に「こういう質問には、こう答える」みたいな感じのパターンがあり、そのひとつに「チームワーク」と問われた場合の答え方について、想定できるあれこれの模範解答を熱く語り合っていました。

こう言ってはなんですが、長い間会社に身を置いている者から言わせてもらうと、まるで大学の受験勉強みたいなむなしいこうした努力を強制されて疲れさせられ、入社後の彼らにサラリーマンとしての生活にいち早く失望させて離職にみちびく原因になっているのではないかと思ってしまうくらいです。

「会社は、学校とは違うよ」とでも声を掛けてあげたくなりました。

会社の真実の法則というのはね「もらった給料分くらいは働けよ」ですヨ。

そのとき、交わされる会話の中に「七人の侍」という言葉が聞こえてきたので、反射的に思わず耳をそばだてました。

話の内容というのは、映画「七人の侍」は、七人が互いの長所を生かし合い短所を補い合って苦難のすえに難局を乗り越えて目的を達成するという経営戦略にもつながる重要な示唆があるというくらいのことでした。

つまり、映画でもナンデモ、経営に役立つ素材というのは、注意深く探せば日常ザラに転がっているものだというのが、どうもその「教え」らしいのです。

な~んだ、そんなことか、身を乗り出して聞こうとしたぶん、損した失望もけっこうなダメージとして残りました。

しかし、それにしても、あの「七人の侍」が、そこいらに転がっている素材のひとつにすぎないのかと、一瞬腹立たしい思いに捉われましたが、いやいや、そうではありません、「七人の侍」を「就活映画」として見るというのなら、ずいぶんと面白い発想ではないかと内心ちょっと感心しました。

たしかに、あの侍たちは、仕官するチャンスを求めて全国を渡り歩いている訳ですから、たとえ、たまたまその途上で百姓たちの苦難を見かねて、成り行きとはいえ助けの手を差し伸べ「野武士との壮絶な戦い」という寄り道をしただけであって、それはまさに「就活」(これが本筋です)途中にたまたま遭遇した出来事にすぎない、ひとつのエピソードを描いた映画ということに違いはありません。

初老の勘兵衛は、親子ほども年の違う功名心に逸る勝四郎にこう諭しています、

「わしもお前と同じ年頃だったことはあるで。
腕を磨く。そして、戦に出て手柄を立てる。それから一国一城の主になる。
しかしな、そう考えているうちに、いつの間にか、ほれ、このように髪が白くなる。
そしてな、そのときはもう親もなければ身内もない、自分の眠る土もない・・・。
勝四郎、明日は国へ発て。親御がさぞ心配しとることじゃろう。」

就活に失敗しつづけ生涯の黄昏を迎えようとしている老いた勘兵衛の悲嘆が込められたその痛切な述懐の場に居合わせたのは、勝四郎のほかに、やがて勘兵衛の参謀役となる五郎兵衛と、苦しいときには気の開ける重宝な男・平八、勘兵衛の従者・七郎次です。

そしてまさにこの5人に共通している最大の思いが、いずれも「就活」にあったからこそ、この場を痛切な空気が支配し、勘兵衛の鎮痛な述懐に動揺し身につまされ、5人が深い思いに打ちのめされるのです。

人生の大半を掛けた就活に、ついに失敗し、人として大切なものを失いながら年老いてゆくのかという絶望と後悔は、その場に居合わせた侍たちの共通の悲嘆だったはずで、映画「七人の侍」のなかでも傑出した場面のひとつといわれています。

しかしすぐに、本当にそうだろうかという思いに捉われました。

それというのも、その場面のすぐあとに立て続けに登場する「最後の2人」、久蔵と菊千代という存在があるからです。

自分を鍛え上げることだけに凝り固まったストイックな剣豪・久蔵と、百姓の身分を隠しながら身分制度の呪縛から逃れようと必死に足掻く菊千代(彼もある意味「剣豪」には違いありません)、この2人にとって「就活=仕官する」などということが、どれほどの意味があり現実的なことだったのかという疑念に捉われたのです。

明確に仕官を求めていたあの5人の侍たちにとって、野武士の襲撃から百姓たちを守る結果として引き受けなければならなかった死や、死ぬほどの経験は、それが「仕官」には一切つながることのない、「就活」とは無縁の遭難だっただけに、どうしても犬死とか徒労としか思えない印象を拭えないのに対して、久蔵と菊千代の死は、「就活侍」平八と五郎兵衛の戦死とは明らかに、また本質的に異なるように思えてなりません。

自分を鍛え上げることだけに凝り固まったストイックな剣豪・久蔵にとって、実際に人を斬ることのできる野武士斬りは、彼にとってはまさに腕を磨き、そして卓越した剣技を実証できる絶好のチャンスだったはずで、少なくともそれが「仕官」のためなどということとはまったく無縁の、どこまでも自分自身のために孤高をめざす鍛錬にすぎなかったというべきで、久蔵としてもただそのことだけで満足できたはずです。

しかし、その「鍛錬」の最後で、「剣」とはまるで関係のない「種子島」によって落命を余儀なくされるという皮肉で悲痛な死にみまわれる最期は、だから平八と五郎兵衛たちの戦死とはまったく異質のものというべきと考えています。

そして菊千代にとってもまた、野武士斬りの意味合いは、「仕官」とは無縁の、切実なものがあったはずです。

百姓の身分から離脱しながら、しかし、侍の身分にも受け入れられない拒まれた存在、浮遊民・菊千代にとって、降ってわいたような野武士斬りの計画は、特別な意味合いを持っていたはずだと思います。

武力を持たない無力で従順で狡猾な百姓たちへの苛立ち(まさにそれはかつて彼自身が囚われていた状況でした)を募らせ、その苦衷と憤懣を野武士に向けて炸裂させて斬りかかるという直接的な行為は、差別への怒りをバネにした彼の身分制からの離脱の動機とぴったり重なるわけですから、彼を野武士の殺戮へと駆り立てた情理と行為とは、しごく素朴で素直な直線で当然と必然を結び合わせ得たのだと思います。

そして、そこに「仕官」などという想定は入り込む余地さえなかったと思います。

目の前の就活生たちは、電車の揺れに身を任せながら、まだ経営戦略の宝庫「七人の侍」について盛んに会話をしています。

その会話を聞きながら、よっぽど

「しかし、君たちね。
この『七人の侍』というのはね、最後には就活に失敗する、っていうか、就活中に余計なことをして、結局満足な就活さえできませんでしたという、君たちにとってはなんの知識ももたらさない不吉で悲惨な挫折の物語なのだから、あんまり参考にはならないかもしれないよォ」

とでも言ってあげようか少し迷いましたが、老いぼれが不意にそんなことを言い出すと、また頭のおかしなジジイが繰り言をはじめたなどと思われかねません。

ここはやっぱり就活に踊らされてうんざりしかかっている若者諸君を逆に励ますというのが、やはり本筋で、長老たるもののスタンスかもしれません、映画みたいにね。

そうですよね、長老なら長老らしく、口をもぐもぐさせながら、「やるべす!」とでもここは無責任に煽っておきますか。

若者諸君、もうひと踊り、狂ったように踊ってみてください。

そうやって苦労して苦労して、やっと入った会社というのはね、実はね・・・・。

まあ、辞めときましょう、それに離職率の話とかもあえてやめておきますね。

実際入ってみりゃあ、すぐに分かることですから。

はははは(・・・ここで笑ったりなんかして、いいわけ?)
by sentence2307 | 2014-01-07 22:41 | 黒澤明 | Comments(90)

七人の侍

どの会社でもきっとそうだと思いますが、あるポストに就くと、その職責として、必ず果たさなければならない会社恒例の「記念事業」みたいなものが課せられていて、その取り組みと達成の如何が、あからさまではなくとも全社員の注目の的に晒され(自分も第三者のときは「そう」でした)、仕事の完成とかよりも、むしろそちらの方が結構、物凄いプレッシャーだったりします。

去年、その順番が、ついに自分のところに廻ってきました。

その仕事というのは、ある有資格者(推定掲載者数3万人)の名鑑を3年毎に出版するという企画で、準備も含めて仕事の期間は、ほぼ1年と決められています。

会社の記念事業ということで、投入できる人数には特に制限はありませんし、責任者の判断に一任されているのですが、それは、後日問題が生じた場合の責任の所在をあきらかにするため(そう聞いています)、人材はすべて社外からの雇用することになっているとされています。

つまり、アルバイトは何人使っても構わないが、社内の人間は使うなよという会社の方針ですよね。

こう書くと、この事業に対する会社の姿勢がなんだか冷ややかなものに聞こえるかもしれませんが、これは、仕事上なんらかのトラブル(調査ミスとか校正ミスとか)が生じた場合に、責任が会社に及ばないようにするための当然の配慮であって、会社人間の自分にとっては、こうした仕事の距離の取り方には、なんら違和感は覚えません。

それに、この事業を同じ条件下で取り組んだ歴代の先輩たちの苦労を思えば、不甲斐ない愚痴など吐けるものでもありませんし。

仕事自体は、別に難解なものでもなんでもなく、単に多種膨大な情報をどう捌くかの問題だけなのですが、なにしろ対象とするのが3万人、その人たちがそれぞれに結婚して改姓したり、離婚して前姓に戻ったり、あるいは戻ったものの姓だけは替えずに職業姓としてそのまま名乗ったり、改名したあとに死んだ人の同姓同名者が行方不明者も入れて10人もいたりするなど、同姓同名者の取り違えを生じさせないようにすることに神経をすりへらすくらいですが、それぞれに地位のある大先生方なので、掲載事項(同姓同名者の取り違えで、最悪は「死亡」と錯誤することです)にひとつでも誤りがあったときの対処を考えて、会社がそれなりの距離をとっているので、直接の担当者からすれば、むしろ、そうしてもらった方が、かえって気が楽なくらいです。

そんなこんなのドタバタの一年をどうにか乗り切って、名鑑は、さしたる誤りもなく完成しました。いまのところ誤りの指摘はなく、評判も上々です。

一応「成功」といってもいいかな、くらいには考えています。

そして最近、人事課長と昼食を共にしたとき、彼から、今回の事業で手伝ってもらったアルバイトさんの質について聞かれました。

事業の「成功」の如何は、やはり、お手伝いしていただくアルバイトさんの「質」が、大きな問題であるには違いありませんから、それは当然の質問だと思います。

ですので、そういう質問のされ方をしたら、その答えもまたお座なりな「お陰様で優秀な人材がそろったので・・・」というような言い方でしか返すことしかできません。

もちろん、人間の「質」は、大きな問題です、今回の「成功」もそのお陰ですし、感謝もしています。

しかし、本音のところは、少し違いました。

問題は、きっと「質」にあるのではなくて、たぶん「数」にあると言いたかったのですが、人事課長相手にその辺を上手く伝える自信がなかったし、それに、食事しながらチョコチョコと言うようなことでもないだろうという思いも強かったので、その場は「お陰様で・・・」と言っておきました。

自分のデスクに戻り、忘れないうちに「いま」の考えをメモに残しておこうと思って鉛筆を握り、相応しい文章をしばし懸命に考えたのですが、どうしても一文にまとめることができないまま、その昼休みも終わってしまいました。

相応しい文章も考え出せず、結局、記憶のヨスガとなるようなものないまま、ほとんど忘れかけていたときに、新聞のある記事に出会いました。

はたして、自分のいいたかったことは、まさに「これだ」という感じです。

ちょっと引用しますね。

《「いま就活をする学生たちが本当に気の毒」。
神戸女学院大名誉教授の内田樹さんがブログで書いている。
映画「七人の侍」を論じた中での発言だ。
野武士に狙われた農民らに請われ、村を守ると約束した侍は腹心、参謀、剣の達人を集める。
残り三人が変わっている。
腕はもうひとつだが、場を和ませ、「苦しいときには重宝」な浪人。
元は農民という型破りな男。
そして、頼りない若者。
出身や経歴にこだわらず、あえて多様な人材を抱える。
今で言うダイバーシティー経営だ。
均質な集団は想定外の事態に対応できない。
弱肉強食だけでは内部でつぶしあいを招く。
多様な資質が強さを生む。
見落とされがちなのが若者の役回りだと内田さんは見る。
集団が力を発揮するのは、最も非力な仲間を皆で育て、共同対を未来につなごうとするときだからだ。
現実はどうか。
リーダーはイエスマンや達人ばかり求め、若者は即戦力であれと言われたり、安く使い捨てられたり。
内田さんの目に「気の毒」と映るゆえんだ。
経営学者・今野浩一郎氏の近著に制約社員という言葉が登場する。
育児、介護、病、障害、年齢などの制約を抱えつつ働く人を指す。
増える制約社員を生かす多元的な人事制度を作れれば、日本企業の新たな強みになると今野氏。
若者の志、シニアの知恵、子育て社員の視野の広さ。
人事部は貴重な社内資源を生かせるか。》
日経新聞2012.12.25「春秋」
by sentence2307 | 2013-03-18 22:19 | 黒澤明 | Comments(9)

羅生門

敗戦によってすっかり自信をなくしてしまった日本人にとって、湯川秀樹のノーベル賞受賞と、映画「羅生門」のヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞が、いかに特別な出来事だったか、まだまだ日本が貧しかったこの時期に少年期を過ごしてきた者にとっての痛切な実感として記憶しています。

このふたつの「事件」は、挫折と絶望と諦念に見舞われ、すっかり無力感にとらわれていた日本の大人たちに生きる意欲と勇気とを思い出させた「希望」そのものだったことは、子ども心にもよく分かりました。

いまだ日本が経済の低迷期にあって、まだまだ極貧に耐えてねばならなかった多くの大人たちにとって、この受賞のニュースの意味はとても重大で、とりわけ欧米による「羅生門」の評価は日本人に失った自信を取り戻させたという重要な役割を果たしたと思います。

ですので、今日まで、幾たびか「羅生門」を見る機会があっても、これを論じるべき映画作品というより、「戦後」という背景を伴った社会現象として意識する方がはるかに優先し、既に権威ある西洋の映画祭から認知を得ている「羅生門」という作品をあえて検証しようという気さえ起こさせなかったという感じがします。

多分、多くの日本人もきっと「そう」感じていたと思います。

よく言われることのひとつに、当時、日本におけるこの作品の評価は、たとえばキネマ旬報の年間ベスト10でいえば、確か第5位だったわけで、決して高い評価を得ていたわけではありませんでした。

ちなみにその年の第1位は今井正監督の「また逢う日まで」、2位は大庭秀雄監督の「帰郷」、3位は谷口千吉監督の「暁の脱走」、4位は佐分利信の「執行猶予」とされていて、ヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞作品「羅生門」が5位に甘んじたことに(受賞後の言われ方の多くは、こんな感じでした)ちょっとした違和感があります、などと繰り返えされてきたものでした。

それは自分も、確かにそんな感じは持ちます。

しかし、同じくこの年に製作された小津監督の「宗方姉妹」がランキング7位とされたことを思えば(それを「1位」といわれれば、確かに「そうだな」と思うでしょうし、逆にランク外に落とされても、あるいは納得してしまうかもしれません)、まったく異なるテーマで撮られた各作品をあれこれと評価する「核」とはどういうものなのか、日本での評価が5位だったものが、なぜ外国人にはグランプリと見えたのか、「羅生門」より上位にランクされた他の作品が、「羅生門」と同じように外国人に評価されるのだろうか、そこのところを知りたいと痛切に感じていました。

人間の自分を利するエゴから現実を少しずつ歪めていく人間の醜い姿(必ずしも自分は「醜い」とは思わないのですが)を描いている「羅生門」のテーマだけが、なぜ他を圧して「高評価」なのか、実は、この疑問を誰かに問い掛けたいという衝動は子供の頃から持ち続けていましたが、しかし、そのことを大人に対しても、ましてや同年輩である友だちに対しても、公然と聞くことを躊躇わせるものがありました。

それは、この映画が描いている事件の発端が「人妻の強姦」だったからだと思います。

この作品「羅生門」が国際的地位を獲得し、この芸術性高い映画について話すことなら、なんら躊躇させるものなどないはずでしたが、しかし、それが「大人」ならではの話なのであって、思春期の子どもにとっては、やはり、口にするのもはばかられる強姦は強姦なので、その行為の意味するところはあくまでも生々しく、強烈すぎ、その妄想に押しつぶされそうになるばかりで、ついにこの映画を概念として昇華できないまま口を噤まざるを得ませんでした。

きっと、その少年が、もっと器用だったなら、「強姦」をはぐらかしながら、論を進めることもできたかもしれませんが、やはり、「年齢」というハンディを痛感し、自分の気持ちを抑圧し、沈黙するしかなかったのだと思います。

今にして思えば、そんな些細なことなど気にせず一挙に「突破」してしまえば、なんでもないことだったのだと、とても残念な思いでいっぱいです。

えっ、いまですか、お蔭様で、やっと心臓にも毛が生え揃いましたので、「強姦」だろうと「獣姦」だろうと「机姦」だろうと、もはや何でも来いのスタンスで堂々と過ごしています。

さて、「羅生門」では、事件の当事者3人と、3人のやり取りを目撃した1人がそれぞれ事件についての供述が展開されていくのですが、そこで語られていることこそ、自分を利するために現実を少しずつ歪めていく自分勝手な人間像があらわにされていくとして、しかし、杣売と旅法師が、当事者たちの供述の核心がそれぞれ異なるという部分で、なぜあれほどまでに大げさに悲嘆してみせなければならないのか、自分にはちょっと異様な感じを受けました。

たとえ実際は女々しくふがいないとしても、山賊が自分を雄雄しくみせたいと虚言を吐くことが、それほど悲嘆すべきことなのか、貞淑な妻の仮面の下に淫蕩で性悪な性格を隠し持っていることが明かされてしまい、体の関係ができた山賊にも見放されてしまうような性悪女である自分を必死になって隠そうとする行為が、それほどまで弾劾されなければならないことなのか、目の前で妻の本性を見せ付けられた寝取られ夫の弁明も耳をふさがなければならないほどのものとは、どうしても思えませんでした。

このわざとらしい当事者たちの愁嘆場と、傍観者たちの悲嘆の部分を見たとき、思わず原一男の「ゆきゆきて、神軍」を思い出しました。

あれは、まさに終戦間際のどさくさの中で統制を失った軍人たちが無責任な命令に従い、ことなかれ主義から従順に殺人に加担し、あまつさえその死者の肉を食らったのではないかという驚くべき軍人たちの犯罪行為が次第に明かされていくのですが、結局確かなことは誰一人言わないし、真実は最後まで分かりません。

しかし、少なくとも、それらの虚言と慄然たる事実がどのようなものであったとしても、それは決して(「現在」という時点から見ると)もっともらしい悲嘆が似合うものとはどうしても思えません。

きっと、この映画が撮られた時からの膨大な時間の隔たりが、黒澤明が信じていた頃の「ヒューマニズム」というものを、世界的な意味でも規模でも、すっかり変質させてしまったということなのかもしれませんね。

そんな気がしてきました。

(1950大映)監督・黒澤明、原作・芥川龍之介、脚本・黒澤明、橋本忍、企画・本木荘二郎、箕浦甚吾、撮影・宮川一夫、音楽・早坂文雄、美術・松山崇、編集・西田重勇、録音・大谷巌、照明・岡本健一
出演・三船敏郎:多襄丸(盗賊)、森雅之:金沢武弘(武士)、京マチ子:真砂(武士金沢の妻)、志村喬:杣売り(遺体の第一発見者)、千秋実:旅法師(生前の武士の目撃者)、上田吉二郎:下人(雨宿り時、杣売りと法師の話の聞き役)、本間文子:巫女(金沢の霊を呼び、証言をおこなう)、加東大介:放免(多襄丸を発見し、検非違使に連行する)
by sentence2307 | 2012-10-06 22:47 | 黒澤明 | Comments(39)

わが青春に悔なし


9月7日の朝刊で堀川弘通監督の訃報に接しました。

黒澤組ゆかりの人々が次々に逝ってしまい、さびしい限りです。

最近、偶然に見た「わが青春に悔なし」のスタッフのなかに助監督として堀川氏の名前も見ていたのですが、黒澤作品としてはあまりにも当然という名前だったので、別段気にも止めずにいつものようにやり過ごしてしまった数日前の自分を思うと、あまりにも迂闊だったことを痛感しています。

なにも考えずに毎日をだらだらと鈍感にやり過ごしている緊張感を欠いた情けない自分に動揺しています。

残酷に刻々と進行している時間は、確実に人間の生命を捉え、片っ端から呑み込んでいることを思い知らされました。高倉健だって、もはや81歳なんですよね、居たたまれない焦りみたいな思いに追い立てられるというか、なんだか感無量の毎日です。

NHKのBSで黒澤明の作品を集中的に放映しているので、ついつい見てしまいます。

賛否はともかく、どの作品も、映画を作ることの確固たる自信と、人間描写の掘り下げの執拗な意欲、そしてなによりも確信に満ちたテーマ追求の徹底した姿勢には圧倒される作品ばかりなのは、いまさら言うまでもありませんが、今回、久しぶりに「わが青春に悔いなし」を見て、長年感じてきた違和感を少しばかり書いてみたくなりました。

「わが青春に悔いなし」を最初に見たとき、そのひとつひとつのショットの強烈な映像に、ことごとく圧倒され続けた割りには、それに伴う内容的な感動というか、共感というのが正直全然なくて、その落差になんだかひとり戸惑い、人にうまく話せずにモヤモヤしたものだけが残ったというのが、まずは最初の印象でした。

その理由を自分なりに納得するための理由付けとして、この作品が女性を主人公に据えたために黒澤明の本領が発揮できずに、また、黒澤自身の思い入れも乏しく、作品が弱々しいものになってしまったのかもと一応の理由づけをしてみたのですが、それから少し経ったころ、女性が主人公という設定は同じ「一番美しく」について、むしろ共感をもって感動したという感想を、「わが青春に悔なし」への失望と絡めて対比的に書いたところ、ずいぶんの数の抗議のコメントをいただいたことがありました。

理由は、明快だったように思います。

「一番美しく」が、戦前に撮られた戦意高揚の国策映画にすぎないというのに褒め上げ、戦後民主主義を高らかに謳いあげた賞賛すべき戦後の記念碑的名作「わが青春に悔なし」をけなすとはどういうリョーケンなんだ、けしからん、というものだったと思います。

だいたい戦前の戦意高揚映画と民主主義映画とを比較すること自体が、おかしいではないかというものでした。

そういうマニア気取りで、斜に構えた本末転倒の駄文を「屁理屈の映画評」というのだ、あるいは、天邪鬼でへそ曲がりの奇をてらった愚にもつかない映画批評というのだという内容の随分なお叱りだったと思います。

「わが青春に悔いなし」が、内容の「空疎」な単なるプロパガンダ映画にすぎず、同じ「国策映画」なら、「一番美しく」の方が、作品的にはるかに優れており、また、一見熱演に見えるかもしれない原節子の演技にしても、随所にほころびが露呈していて見るに耐えなかったこと、それは彼女が演じなければならなかった明晰でそれだけに孤独な女性像を原節子が摑みきれないまま「わがままで気まぐれな癇癪持ちの令嬢」としか表現することができず、僕たちが目にした迫真の演技(と見えたもの)は、実は彼女自身の戸惑いと苛立ちの反映でしかなかったこと、つまり原節子の役者としての限界を表出したものでしかなかったと分析し、その自信なげな空回りした上滑りな演技に比べたら、「一番美しく」の矢口陽子の素朴で真摯な演技の方がはるかに好感がもてるし、黒澤明の「熱」も感じられると指摘した部分に対しての多くの方々からの反発の抗議だったのかもしれません。

たぶん、寄せられた多くのクレームが、「戦後民主主義の賞賛映画」より「戦前に撮られた戦意高揚の国策映画」を評価したことへの抗議や非難というよりも、むしろ、原節子の熱演をムゲに一蹴・全否定した素っ気ない書き方が、原節子ファンの怒りをかってしまったのかもしれません。

しかし、俳優の演技の評価の基準は、人それぞれの価値観とか情緒とかに密接に関わるきわめてナイーブで主観的なものなので、それを理論的に説明するということは難しいとしても、「わが青春に悔なし」という作品に対する失望の方なら、どうにか説明することができるかもしれません。

「わが青春に悔なし」は、CIE(民間情報教育局)のデイヴィッド・コンデの要請と指導によって製作を促された「民主主義映画」作品群のなかの一本で、そのほかの作品としては、今井正の「民衆の敵」、楠田清の「生命ある限り」、木下恵介の「大曽根家の朝」、千葉大樹の「瓢箪から出た駒」、大庭秀雄の「喜劇は終わりぬ」、成瀬巳喜男の「浦島太郎の後裔」、マキノ正博の「まちぼうけの女」、溝口健二の「女性の勝利」、山本嘉次郎と黒澤明の「明日を創る人々」(後年、黒澤明は、この作品から監督としての自分の名前を消すように求めます)などがありますが、しかし、どの作品をみても、それぞれの監督の持ち味が十分に発揮された作品とは言い難く、ずいぶん無理して撮ったなという感じの時代迎合的な作品ばかりです。

時間の洗礼を経た現在においても一定の評価を保っているのはせいぜい「わが青春に悔なし」と「大曽根家の朝」くらいでしょうか、しかし、「大曽根家の朝」に描かれているテーマが、木下恵介本来の作風に叶っているかといえば、やはり否定せざるを得ないとしても、「わが青春に悔なし」に比べれば、その「らしさ」は、まだしもの感があるといえます。

多くの作品が、「民主主義賛美」という結末を義務付けられたために、その「戦前」を一層陰惨強権非情に描くことを迫られたことが、どのようなストーリーにおいても、GHQの顔色をうかがい、ご機嫌取りのために、自国の過剰な自己卑下から語り起こし、お約束のファシズムの断罪と絵空事の民主主義賛美(やっぱりアメリカさんは、すごいね)に無理やり結びつけるという物語構成の画一化を強いられていて、どの作品も必然的に低俗な思想映画の様相をていし、考えられないような突飛な現実離れした作品を量産させてしまったのだと思います。

それでは、「わが青春に悔なし」のどこが、絵空事の現実離れした作品かというと、滝川事件にゾルゲ事件を無理やりくっつけた題材設定の強引さと突飛さにあります。

もし、この作品が、戦時下の言語統制・言論弾圧の象徴的な「滝川事件」だけを描いたものなら、こんなにも作品としての破綻は、まぬがれたかもしれません。

当時にあって、国家権力による言語統制・言論弾圧の監視の目は、社会の隅々・国民生活の端々にまでおよび、熾烈を極めた巧妙な監視体制だったことは、「笑の大学」を見るまでもありません。

どのような描き方をしても「言論弾圧」と「言論の自由」という道筋だけの物語だったのなら、その暴虐を骨身にしみて認知している国民を納得させることは、それほど困難なことではなかったと思います。

しかし、「スパイ行為」について、たとえそれが苛烈な軍国主義下の思想弾圧と、抵抗運動の圧殺を象徴するような無残な事件だったとしても、現在の「ソビエトの不在」と「共産主義体制の破綻」をすでに知っている僕たちにとって、日本を裏切り、ソビエトに内通し、日本を混乱させ、他国からの侵略の道案内をして、やがては日本を消滅させる手助けに至りかねない逸脱の国家反逆罪としての「スバイ行為」までも容認できるか、というかなりヤバイ問い掛けが、この「わが青春に悔なし」には仕掛けられています。

この映画の後半部分で、非国民として村八分の差別を受けている夫の実家に住みついた嫁・原節子が、姑・杉村春子とともに折角耕した田圃を夜陰に乗じて村民たちに荒らされるという陰険な差別行為をうけるシーン、絶望から怒りの再起までを演じ分けるという俳優冥利につきるような、この映画一番の鬼気迫る場面があります(資料によると、同時期に同題材の映画が企画されていたため、「新人監督をつぶすつもりか」との労働組合の圧力を受けて、黒澤の意図に反して映画後半の展開を大幅に変更しなければならず、この農村シーンに込められた凄惨な気迫は、その圧力に対する反感もあったと黒澤監督の述懐があるそうです。労組に対する嫌悪も徐々に意識していったかもしれません)。

荒らされた田圃の中央には、「スパイは出て行け」と書かれた筵旗が幾本も陰険に立てられています。

嫁も姑も、筵旗を引き抜き、投げ込まれたゴミを放り出し、黙々と再びの田植えをやり直します。

そして終戦、一転した状況のもとで、原節子は、まだまだ立ち遅れている村の女性たちの「民主教育」解明のために奉仕しようと再び村に帰るシーン、村人たちの乗ったトラックが通りかかり、親愛に満ちた作り笑顔で村人たちは原節子をトラックに引き上げます。

その村人たちは、つい昨日まで、陰険な村八分・差別的な行為を散々にしてきた彼らなのですが、そんなことはすっかり忘れてしまったようなニコヤカナ顔を作って親愛の情を示しています。

しかし、あの苛烈にして執拗な村八分を陰険に実行してきた彼らの、いくら敗戦を経たからといって、手のひらを返したようなあの柔和な表情を信じるという方が、むしろ不自然なような気がします。

あの田圃をひっくり返し荒らした行為としての「村八分」というものが、なにも国の体制が「軍国主義」だったから為されたわけではなく、そこには古来から歴然としてある固有の「村の秩序」に反した行いがあったから為された懲罰なのであって、たとえそれが「民主主義」の時代になったからといって、固有の秩序維持の考え方が変容するとは、どうしても思えません。

ラストシーン、トラックに同情している青年団らしき若者たちが、原節子を取り巻いて、薄気味悪く微笑み掛けています。

頑迷な村民の意識改革に成功した(と思い込んでいる)原節子は、それらのへつらい笑いに、自己満足で悦に入って、さらなる微笑みを返す、「顧みて悔いのない青春」などといういやに薄っぺらな言葉だけが虚しく響く壮絶なラストシーンではありました。

(1946東宝)製作責任:竹井諒、製作:松崎啓次、監督:黒澤明、脚本:久板栄二郎、撮影:中井朝一、美術:北川恵司、録音:鈴木勇、音楽:服部正、演出補佐:堀川弘通、照明:石井長四郎、音響効果:三縄一郎、編集:後藤敏男、現像:東宝フィルムラボラトリー
出演・原節子(八木原幸枝)、藤田進(野毛隆吉)、大河内傳次郎(八木原教授)、杉村春子(野毛の母)、三好栄子(八木原夫人)、河野秋武(糸川)、高堂国典(野毛の父)、志村喬(毒いちご)、深見泰三(文部大臣)、清水将夫(筥崎教授)、田中春男(学生)、光一(刑事A)、岬洋二(刑事B)、原緋紗子(糸川の母)、武村新(検事)、河崎堅男(小使)、藤間房子(老婆)、谷間小百合(令嬢A)、河野糸子(令嬢B)、中北千枝子(令嬢C)、千葉一郎(学生A)、米倉勇(学生B)、高木昇 (俳優)(学生C)、佐野宏(学生D)
by sentence2307 | 2012-09-13 22:57 | 黒澤明 | Comments(675)