世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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カテゴリ:ドキュメンタリー映画( 14 )

書くことの重さ

あれはちょうど「海炭市叙景」が上映された少しあとの頃だったと思いますが、日本映画専門チャンネルで「海炭市叙景」放映に合わせて、作家・佐藤泰志のドキュメンタリーも併映していました。

タイトルは、たしか「書くことの重さ」だったでしょうか。

「海炭市叙景」の描く救いようのない人々の絶望と悲観、殺伐とした内容が、自分にはあまりにも重過ぎて、鑑賞後の不安と、振り切ってしまった動揺の持って行き所がなく、気持ちのおさまりのつかないまま、このドキュメンタリーになんらかの答えがあるのではないかと、すがりつくような思いで、この「書くことの重さ」をも見た気がします。

内容は、この若き作家・佐藤泰志が芥川賞の候補にあげられ、いままさにその受賞の連絡がくるかどうかという緊張の瞬間に立ち会う臨場感溢れるドキュメンタリーでした。

それまで幾度も芥川賞の選に漏れている佐藤泰志は、照れくさそうに苦笑しながら、そして弱々しく「今度もやっぱりダメですよ」と背をかがめて話していた映像が、いまでも強烈に残っています。

たぶん、そのドキュメンタリーの製作者の意図も、そこで「喜びの瞬間」を捉えようなどというつもりはさらさらなく、この不運の作家のさらなる「失意」を露骨に狙っている底意地の悪さがモロに透かし見える、なんだか見え見えの作品で(他人の「歓喜」よりも「失意」や「絶望」の方が、そりゃあ作品として見栄えがするし、玄人受けもいいというのは周知の事実なので、それなりに商売にもなるわけです)、その製作者の意図どおり、自分としても、佐藤泰志がそのように弱々しく卑屈に受け答える様子から、瞬時に、やがて自殺という「自己破産」に至る苦渋の瞬間まで、まっすぐに繋がる安直な失意の図式が連想され、まさに自分もまたこのドキュメンタリーの意図に易々と乗せられて共振するという、彼の「苦渋」を安直に「理解」してしまったことへの苦々しい自己嫌悪だけが残ってしまったような映像体験でした。

あきらかに、このドキュメンタリーは、ひとりの男の「自死」をあらかじめ織り込みながら、芥川賞落選の瞬間をも死の影に覆われたものとして描こうとしています。

やり過ごしてしまえばなんということもない、取るに足りない「落胆」を、より一層痛ましいものに無理やり関連付ける連続性のデコレーションに成功した作品だったかもしれません。

しかし、その自己嫌悪は、自分たちがすでに知っている彼の「自殺」という悲痛な出来事を時間軸を逆転させて作品に反映させ、弱々しい不運な作家をより一層マイナーに見せるという悪意に満ちた効果をいつの間にか自分たちも愉しんでしまっていることへの嫌悪という種類のものだったでしょう。しかし、今回この「そこのみにて光輝く」を見ていて、いつの間にか自分が抱いてきたその先入観(デコレーションへの嫌悪)にちょっと違和感をおぼえたシーンが幾つかありました。

それは、なによりもこの作品の持っている独自の力強さ(ストーリーはとことん絶望的であっても)です。

「海炭市叙景」が帯びていたあの弱々しい悲壮感(早世の作家の不運を利用して反映させた悲壮感)とはまったく違う、そして、佐藤泰志の卑屈で鬱屈した悲観(虚飾としてのデコレーションですが)に引きずられることなく、それらとはまったく異質な創意に満ちた力強さを感じました。

それは、「自殺作家」の悲観や叙情性を作品上で上手に利用したり、マイナーな雰囲気に寄り掛かろうとはしていない独自な自立した表現といえるものだったかもしれません。

オリジナルから距離をとり、自立した「自由」を確保しながら創造するということは、途轍もなくエネルギーを必要とする行為だと思いました。

「ここのみにて光輝く」には、全編を通して兄を気遣う「妹」からの手紙という形でナレーションが語られています。

それは逆に、貧しく苦しい生い立ちを、ともに過ごし育ってきた妹への深い愛情が感じられることでもあったのかもしれません。

下に掲げた佐藤泰志の年譜によれば、佐藤泰志が自殺する前年に、妹さんが急死されたと記されています。

「海炭市叙景」の最初のエピソードでは、谷村美月演じる妹が、絶望する兄がいつか死んでしまうのではないかという不安に駆られ、怯えながら絶えず兄をうかがっている繊細な姿が描かれていました。

(2013)監督・稲塚秀孝、プロデュース・稲塚秀孝、撮影・進藤清史 、作佐部一哉、美術・庄司薫 、嶋村崇、主題曲/主題歌・ロベルト・シューマン、ミキサー・永田恭紀、音響効果・塚田大、照明・男澤克幸 、川島孝夫、編集・油谷岩夫、EED・金井猛 、佐藤幸、音声・内田丈也 、斎藤泉 、武田脩平、助監督・岩田大生 、池田春花 、新見圭太 、中野沙羅、題字/タイトル・西本直代、ナレーション・松崎謙二、語り・仲代達矢
出演・佐藤泰志、村上新悟(佐藤泰志)、加藤登紀子(佐藤幸子)、杉本凌ニ、坪内守、大塩ゴウ、平田康之、鎌倉太郎、鈴木豊、神林茂典、本郷弦、樋口泰子、





佐藤泰志 年譜

昭和24年(1949)
4月26日、函館市高砂町(現 若松町)に佐藤省三・幸子の長男として生まれる。

昭和31年(1956) 7歳
函館市立松風小学校に入学。4年生頃から大人びた言動が目立ち始める。

昭和37年(1962) 13歳
函館市立旭中学校入学。 読書クラブに所属し、3年生の時、部長になる。「『赤蛙』を読んで」が第10回北海道青少年読書感想文コンクールに入選し、受賞式出席のため札幌へ行く。

昭和40年(1965) 16歳
函館西高等学校に入学。文芸部に入る。 学習雑誌の投稿欄に随筆・詩などを投稿する。

昭和41年(1966) 17歳
小説「青春の記憶」で第4回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。この頃、文芸読書サークル「青い実の会」結成を学友に呼びかける。

昭和42年(1967) 18歳
函館西高等学校で防衛大学校入学説明会阻止闘争が起こる。この事件を素材にした小説「市街戦の中のジャズメン」で第5回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。しかし、この作品は、高校生の書いたものとしては内容的に問題があるとされ、北海道新聞への掲載を拒否される。

昭和43年(1968) 19歳
3月、函館西高等学校卒業。函館で浪人生活を始める。 20枚の作品だった「市街戦の中のジャズメン」を30枚に書きなおし、「市街戦のジャズメン」と改題して『北方文芸』に発表。卒業前から北海道大学水産学部、北海道教育大学函館分校の政治的学生グループと接触。そのあたりから数年、大江健三郎・カミュ・ニザンなどを熱中して読む。 小説「市街戦のジャズメン」(『北方文芸』第1巻第3号)詩「ニューレフト」(『函館西高新聞』、3月)

昭和44年(1969) 20歳
浪人生活2年目。井田幸子・磯野新一・藤川巌・平智則ら年下の高校生と出逢う。

昭和45年(1970) 21歳
上京。中野区上高田に住む。 4月、國學院大学文学部哲学科に入学する。 高校時代の学友らと同人誌『黙示』を創刊に参加する。第6号まで詩や随筆数編を発表。

昭和46年(1971) 22歳
4月、大学の同級生漆畑喜美子と中野区上薬師で暮らしはじめる。 7月、『黙示』を脱会し、藤川巌、茜堵志哉、岩崎理らと同人誌『立待』を創刊。小説「贋の父親」(『立待』創刊号、7月) 小説「追悼」(『立待』2号、8月)小説「留学生」(『立待』3号、12月)

昭和47年(1972) 23歳
国分寺市戸倉に転居。喜美子は大学を中退。国分寺のジャズ喫茶に勤める。 小説「防空壕にて」(『立待』4号、7月) 小説「奢りの夏」(『北方文芸』第5巻10号)

昭和48年(1973) 24歳
国分寺市東元町に転居。さらに国分寺市本多に。短期間のうちに市内を転々とする。小説「孔雀」(『立待』5号、1月) 小説「兎」(『立待』7号、7月) 小説「犬」(『立待』9号、8月)小説「遠き避暑地」(『北方文芸』第6巻12号)

昭和49年(1974) 25歳
3月、国学院大学を卒業。卒業論文は「神なきあとの倫理の問題」。4月、喜美子就職。国分寺市戸倉に戻る。市役所を15か所受けるが全部落ちる。大学推薦の予備校事務員の職も自分で蹴る。服装メーカーの製品値札付けのアルバイトを皮切りに、その後職を転々とする。10月、同人誌『贋エスキモー』を藤川巌、酒井俊郎とガリ版刷りで創刊。 小説「颱風」が第39回文学界新人賞候補となる。小説「少年譜」(『立待』9号、4月) 小説「朝の微笑」(『北方文芸』第7巻11号)小説「休暇」(『贋エスキモー』創刊号、10月)

昭和50年(1975) 26歳
あかつき印刷に勤める。

昭和51年(1976) 27歳
10月、八王子市長房の都営団地に転居。喜美子、転職。 小説「深い夜から」(『北方文芸』第9巻8号)が第1回北方文芸賞佳作となる。授賞式のため札幌に行く。

昭和52年(1977) 28歳
精神の不調に悩み、3月、上目黒診療所で自律神経失調症の診断を受け、通院をはじめる。以後、没するまでずっと精神安定剤を服用。療法としてのエアロビクス体操とランニングをはじめる。1日、10キロ以上走る。9月、国立市の一橋大学生協に調理員として勤める。一橋の学生寮に出入りし、三里塚の援農にかかわる。 小説「移動動物園」(『新潮』6月号)が第9回新潮新人賞候補作となる。

昭和53年(1978) 29歳
5月、長女・朝海(あさみ)誕生。 10月、『贋エスキモー』をタイプ印刷であらためて1号から発行。 小説「光の樹」(『贋エスキモー』1号、10月) 小詩集「愛あらば一枚の皮膚」(『贋エスキモー』1号、10月)

昭和54年(1979) 30歳
梱包会社に正式に就職。 12月9日、睡眠薬による自殺未遂で入院。 小説「もうひとつの朝」(『北方文芸』第12巻3号)小説「颱風伝説」(『北方文芸』第12巻6号) 小説「草の響き」(『文藝』七月号)小説「ディトリッヒの夜」(『幽幻』2号、8月) 小説「画家ティハニー」(『贋エスキモー』2号、10月)随筆「私信・今もまだ贋エスキモーである藤川巌に」(『贋エスキモー』2号、10月)

昭和55年(1980) 31歳
1月13日、長男・綱男誕生。1月23日退院。 小説「もうひとつの朝」(『北方文芸』第12巻3号)で第16回作家賞を受賞。2月、その受賞式のために名古屋へ。「もうひとつの朝」は文芸誌『作家』3号に転載された。小説「七月溺愛」(『北方文芸』第13巻3号)

昭和56年(1981) 32歳
3月、郷里の函館市に転居。 職業安定所に通いながら、就職先を探す。 5月、職業訓練校の建築科に入り、大工になるための訓練を受ける。 小説「撃つ夏」(『北方文芸』第14巻第2号) 童話「チエホフの夏」(『贋エスキモー』3号、8月) 小説「きみの鳥はうたえる」(『文藝』9月号)が第86回芥川賞候補作となる。

昭和57年(1982) 33歳
3月、東京に戻る。国分寺市日吉町4丁目に住む。 『きみの鳥はうたえる』(3月、河出書房新社刊、表題作のほかに「草の響き」を所収)随筆「函館の朝市」(朝日新聞社北海道支社発行〈旅のメモ〉4月号) 小説「光る道」(『文藝』10月号)小説「空の青み」(『新潮』10月号)が第88回芥川賞候補作となる。

昭和58年(1983) 34歳
『きみの鳥はうたえる』の表紙を担当した画家・高専寺赫と親しくなる。 このころから文芸誌の新人賞の下読みと新聞の書評の仕事が入るようになる。 小説「鳩」(『性教育研究』2月号) 小説「水晶の腕」(『新潮』6月号)が第89回芥川賞候補作となる。 小説「黄金の服」(『文學界』9月号)が第90回芥川賞候補作となる。

昭和59年(1984) 35歳
5月から『日刊アルバイトニュース』の連載エッセイ「迷いは禁物」がはじまる。週に1本、1985年7月まで全部で56回書く。5月、国分寺市日吉町3丁目に転居し、以後、没するまでここに住む。次女・佳乃子誕生。小説「防空壕のある庭」(『新潮』3月号) 随筆「夢みる力」(『北海道新聞』2月22日付)随筆「八百五十キログラムの詩集」(『オーバー・フェンス』6号、3月) 小説「美しい夏」(『文藝』六月号)小詩集「僕は書きはじめるんだ」(『オーバー・フェンス』7号、9月)

昭和60年(1985) 36歳
小説「鬼ガ島」(『文藝』3月号) 小説「オーバー・フェンス」(『文學界』5月号)が第93回芥川賞候補作となる。随筆「書斎」(『北海道新聞』7月30日付) 小説「野栗鼠」(『文藝』9月号)小説「風が洗う」(『文學界』11月号) 小説「そこのみにて光輝く」(『文藝』11月号)詩「そこのみにて光輝く」(『オーバー・フェンス』9号、11月)

昭和61年(1986) 37歳
「もうひとつの朝」の再発表をめぐって波紋。事実上、文芸ジャーナリズムからほされる。 アルコール中毒ひどくなる。 小説「もうひとつの朝」(『文學界』6月号)

昭和62年(1987) 38歳
随筆「十年目の故郷」(『北海道新聞』1月20日付) 随筆「『北方文芸』と私」(『北海道新聞』4月25日付)小説「大きなハードルと小さなハードル」(『文藝』12月号)

昭和63年(1988) 39歳
4月よりテレビドラマの時評を月1回書く。(共同通信系で全国より地方紙に「放送時評」あるいは「テレビ時評」として、1989年3月まで連載される)。 加藤健次編集の雑誌『防虫ダンス』に連載していた「海炭市叙景」の連作を途中で打切り、文芸誌『昴(すばる)』で、11月号より新たに最初から断続的に掲載を始める(1990年の4月号まで6回にわたり発表する。なお、この連作は当初の構想では、全体を4章(36編)とし、第1章「物語のはじまった崖」と第2章「物語は何も語らず」の18編が『昴』誌上に発表された。しかし、1990年の自裁により第3章以降は中断となる)。 小説「海炭市叙景/1まだ若い廃墟 2青い空の下」(『防虫ダンス』4号、1月) 随筆「青函連絡船のこと」(『中國新聞』ほか、3月10日付) 小説「海炭市叙景/3冬を裸足で」(『防虫ダンス』5号、5月) 随筆「もうひとつの屋上」(『昴』7月号) 小説「海炭市叙景」(『昴』11月号) 小説「納屋のように広い心」(『文藝』季刊冬季号)

平成元年(1989) 40歳
1月19日、北海道浦河町に住む妹・由美が急死する。小説「闇と渇き(海炭市叙景2)」(『昴』3月号)『そこのみにて光輝く』(3月、河出書房新社刊、既発表の「そこのみにて光輝く」を第1部として、書き下ろしの第2部「滴る陽のしずくにも」を合わせたもの)が第2回三島由起夫賞候補作となる。小説「裸者の夏」(『群像』5月号)小説「新しい試練(海炭市叙景3)」(『昴』5月号)随筆「浦河の映画館」(『北海道新聞』6月2日付)小説「春(海炭市叙景4)」(『昴』9月号)『黄金の服』(9月、河出書房新社刊、表題作の他に既発表の「撃つ夏」「オーバー・フェンス」を所収)随筆「背中ばかりなのです」(『新刊ニュース』11月号)小説「夜、鳥たちが啼く」(『文藝』季刊冬季号)

平成2年(1990) 41歳
10月9日夜、ロープをもって家を出る。10日朝、自宅近くの植木畑で死体となって発見された。11日、通夜。12日、告別式。小説「青い田舎(海炭市叙景5)」(『昴』1月号) 随筆「武蔵野雑感」(『北海道新聞』1月23日付)随筆「アメリカの叫び」(映画『ブルックリン最終出口』パンフ、3月) 小説「楽園(海炭市叙景6)」(『昴』4月号)随筆「川の力」(『毎日新聞』5月29日付) 随筆「失われた水を求めて」(『東京人』7月号)随筆「卒業式の思い出」(国学院大学広報誌『滴』、10月) 小説「星と蜜」(『文藝』文藝賞特別号)小説「虹」(『文學界』12月号)

平成3年(1991)
『移動動物園』(2月、新潮社刊、表題作のほかに既発表の「空の青み」「水晶の腕」を所収) 『大きなハードルと小さなハードル』(3月、河出書房新社刊、表題作のほかに既発表の「美しい夏」「野栗鼠」「納屋のように広い心」「裸者の夏」「鬼ガ島」「夜、鳥たちが啼く」を所収) 『海炭市叙景』(12月、集英社刊) 3月、福間健二発行による文芸同人誌『ジライヤ』第6号が佐藤泰志追悼特集を組む。

平成4年(1992)
4月、佐藤喜美子より函館市文学館へ遺品が寄贈される。7月、辻仁成・荒木元発行の文芸同人誌「ガギュー」(創刊号)が佐藤泰志特集を組む。10月、「佐藤泰志をしのぶ会」(三回忌)が国分寺市内で営まれる。発起人は木村和史・佐藤喜美子・福間健二・藤川巌。

平成5年(1993)
3月、函館市文学館が開館し、佐藤泰志の展示コーナーが設置される。中高時代の学友などによる「函館文学館の佐藤泰志コーナーに絵を飾る会」から、高専寺赫作品「叙景」(『海炭市叙景』の表紙絵)が函館市文学館へ寄贈される。4月、「絵を飾る会の夕べ」が開催される。6月、文芸同人誌『ガギュー』第2号が再度、佐藤泰志を特集する。

平成8年(1996)
8月、藤田節子(元函館文学学校事務局長)から函館市文学館へ、佐藤泰志からの書簡などが寄贈される。

平成9年(1997)
5月、坂本幸四郎(文筆家)から函館市文学館へ、佐藤泰志からの書簡などが寄贈される。
平成11年(1999)
9月、函館市文学館で「佐藤泰志 途絶した青春」展が開催される(9/17~10/20)。同文学館主催により、日本近代文学会会員北村巌による講演会「佐藤泰志、その眼底に焼き付けしもの」が開催される。中高時代の学友らの手により、佐藤泰志追想集「きみの鳥はうたえる」(佐藤泰志追想集を発行する会発行)が刊行される。
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by sentence2307 | 2015-05-04 20:49 | ドキュメンタリー映画 | Comments(0)

人事も経理も中国へ

先週の夜、風呂上りにビールを飲みながらNHKの総合テレビを見ていたら、NHKスペシャルで「人事も経理も中国へ」というタイトルのドキュメンタリーをやっていました。

忙しさに取り紛れて、ほとんど忘れ掛けていたのですが、今日のBS1の番組表に1時30分から再放送されるということを知って、記憶が甦ってきました(まあ、それほど大袈裟なものでもありませんが)。

しかし、結構強烈な印象だったので、覚えとしてこのブログにメモしておこうと思います。

確か京都か大阪の通信販売の会社での話しです。

日本でますます高くなっていく会社の人件費をどうするか、経営の合理化のために無駄な人件費をできるだけスリムにする、つまり、解雇とか自主退職とか自宅待機とか行きっぱなしの出向とか、ということにつながっていく深刻な問題が背景にあります。

その会社では(確か、日本IBMの事業の仲立ちを得て)中国・大連にある仕事請負会社に、その会社の経理と人事の仕事を任せており、現在かなりスムーズにコトが運んでいるという状況が前提としてあって、それならば「総務課」の仕事の一部でも中国に任せられないかという提案が会社側からなされたところからこの番組は始まります。

僕もかすかに知っていますが、総務の仕事は、予算の作成など最重要なものから、いわば雑用的な、これだというものがあってないような性格のものが多く、それを雑用といってしまえばそれまでですが、このあたりがうまく機能しないと、どの部門の仕事も滞ってしまうという大切なところです。

そのなかなか体系化できない細々とした雑学百科事典のような知識をすべて頭に入れていることを自慢にしている総務課の最古参がどこにでもいるもので、「総務課」の仕事を中国に請け負わせるという会社側の提案に「できるわけがない」と、まず冷笑を浴びせて拒否したのがその最古参のミスター・総務課でした。

しかし、度重なる会社の強いプッシュに押されて「できるものなら、やってみたらいいでしょう」と譲歩して、やがて中国から研修にきた大学出立ての、車の車種さえ分からないような「小娘」を見て、俺の仕事はこんなものかとプライドを深く傷つけられ、また、仕事のなくなった経理や人事の同僚が会社を去っていくことも、彼の気持ちに重くのし掛かり、なおさら頑なになっていく様子が描かれています。

そんななか、中国から来た「小娘」へのレクチャーは続いています。

彼女と口も利かなかったミスター総務課も、きっと立場上仕方なく彼女へのレクチャーに参加するようになります。

仕事が進行していくなかで画面は、彼女が中国の農村の出で、苦労して大学まで卒業させてくれた両親の姿を写し、なんとか両親に楽な暮らしをさせてあげたい恩返しをしたいという彼女の熱い思いを語らせながら、総務課の「引継ぎ」の仕事にひとり懸命に取り組んでいる彼女と、いまの日本の若者に欠けているその懸命さに心動かされるものを感じて、自分が若いときに持っていた懸命さとが次第に重なり合って、ミスター総務課が心を開いていく過程が静かに描かれていました。

まるで良質の映画を見ているような感銘を受けました。

背景には、少しずつ仕事を失っていく日本の深刻な状況もあっての感銘なのですから、それはとても複雑なものがあるわけですが。

しかし、その番組のなかでこんなことが語られていました。

中国への仕事の請負をミスター総務課がしぶしぶ同意した直接の切っ掛けは、中国が日本の五分の一の経費で仕事をするという部分です、一方で中国の外国語大学の日本語学科を卒業すると、給料が2倍~3倍に跳ね上がるという部分もありました。

どちら側に身を置くとしても、これは気が重くなるばかりの話なのですが・・・。

これって、絶対映画にできる題材だと思いました。
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by sentence2307 | 2007-09-10 21:47 | ドキュメンタリー映画 | Comments(0)

いとしき子らのために

戦後すぐ、GHQが日本人に向けて、民主主義啓蒙政策のひとつとして、アメリカで製作された文化映画の上映を全国各地でおこなったことは知っていました。

そういえば、何年か前、その当時に上映された作品が、国内のどこかの図書館で発見されたという記事だかを読んだ記憶もうっすらあったので、ためしに「CIEフィルム 図書館」とパソコンに打ち込んで検索を試みたのですが、どうもそれらしい記事が探し出せません。

映画通の友人に聞いてみたところ、確かではないけれども、という前置きで「桐生の図書館あたりじゃなかったかな」という答えをくれました。

結局これ以上の情報は得られなかったのですが、なぜそんなことを知りたくなったかと言えば、いま「日本映画専門チャンネル」で「戦後民主主義の原点~GHQがつくった日本映画」という特集を放映しているからでした。

確か占領軍が全国各地で上映活動をしたCIEフィルムというのがあって、アメリカの風景とか、政治・経済そして音楽、教育、スポーツにいたるまで豊かなアメリカの文化全般をアピールし、日本の民衆をレクチャーするために多くの米国製の映画を使ったという認識だったので、「桐生の図書館」で見つかった映画というのも、きっとこのアメリカ製の映画だったのだろうと頭から考えていたところ、この特集のサブ・タイトルに「GHQがつくった『日本映画』」という部分があって、どうしても気になって仕方なかったからでした。

「日本映画」とある以上、たとえGHQが主導したとはいえ、日本人がつくった映画もあったのかと、いままでその可能性さえ、これっぽっちも考えなかった自分の迂闊さに我ながらあきれ返り、しばらくのあいだ脱力感に囚われて何も手につきませんでした。

今回の上映作品は「こども議会」50、「いとしき子らのために」50、「腰のまがる話」49、「働くものの苦情処理・安全燈」50、「働くものの権利」50の5本です。

なんだか胸が苦しくなるほどの期待感でドキドキします(その割には、最初に放映された「こども議会」の録画をうっかり忘れてしまい、なんだか「大丈夫か」という頼りなさなのですが)。

とりあえず、最初にみたのは、「いとしき子らのために」という作品でした。

分かっているのは、公開年度とアバウトな上映時間とモノクロということだけで、それ以外のデータはまったくありません。

わずかに名前をしっている俳優を手がかりにして調べてみようとしたのですが、例えば、「御橋公」とか「花沢徳衛」をjmdb検索の出演作リストで見ても、1950年の花沢徳衛の項には、せいぜい「日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声」に出演したとあるだけで、「いとしき子らのために」などというタイトルはどこを探しても見当たりません。

あらゆる情報を閉ざし、民間からはとてもとてもアクセスなんかできそうにない、また、出演者とか技術者の表示なんかどうでもいい、これは本当に政治的なレベルでつくられた啓蒙目的の政策戦略の材料でしかない映画なんだなとつくづく感じました。

それにしては、この時期に日本でも盛んに作られていた軍国主義への猛烈な懺悔と、それに反比例するかのような猛烈で攻撃的な「民主主義映画」と比べると、この作品の印象は、随分とおとなしく遠慮がちな感じを受けました。

民主主義に基づく真に子供のための「教育」を、どうすれば根付かせることができるか、戦前の軍国教育を受け、そしていまだそれを引き摺っている当時の日本人にとっては、その理想の高邁さは、相当なショックだったというか、むしろあっけに取られたと言った方が相応しかったかもしれません。

なぜなら、当のアメリカ人自身にとっても、これらの夢のような理想は、単なる実験的な試みにすぎなかったことが、やがて数年後には、その蹉跌によって明されることになってしまうからです。

(50日本映画新社)40分・モノクロ

さて、400本以上あるといわれているCIEフィルムの中でこの「いとしき子らのために」のような日本製の作品がどのくらいあるのか、無謀ですがあるサイトの資料をもとにして調べてみました。

以下が、その一覧です。(★印が、今回放映される作品です。)

火の用心〔(日本製)〕Beware of Fire(1948.06.17公開)上映時間17分
国際連合憲章〔(日本製)〕Charter of the United Nations(1948.08.13公開)上映時間19分
食生活(日本製)(1948.09.17公開)上映時間19分
明日の市民たち(日本製)Leaders of Tomorrow(1949.07.03公開)上映時間18分
会議のもち方(日本製)(1948.03.25公開)上映時間23分
伸びゆく婦人(日本製)Progress of the Japanese Women(1949.09.02公開)上映時間23分
科学する女性(日本製)(1949.03.04公開)上映時間17分
公衆衛生(日本製)Public Sanitation(1949.05.13公開)上映時間16分
新しい保健所〔(日本製)〕Model Health Center(1949.08.05公開)上映時間20分
★腰のまがる話(日本製)Bent with the Years(1949.09.02公開)上映時間20分
漁業生産組合(日本製)Fishing Co-Operatives(1950.01.06公開)上映時間22分
新しい交通(日本製)New Traffic(1949.11.26公開)上映時間19分
この妻の願いを(日本製)(1949.11.11公開)上映時間19分
国を支える三つの柱(日本製)Three Pillars of Government,(1950.06.09公開)上映時間14分
議事の進め方〔(日本製)〕The Using Parliamentary Procedures(1950.09.22公開上映時間)21分
新しい警察(日本製)The New Police,(1950.09.08公開)上映時間32分
CIE図書館(日本製)(1950.06.23公開)上映時間19分
★こども議会―子供向―(日本製)Children's Diet(1950.05.19公開)上映時間19分
わが街の出来事(日本製)It Happened in Our Town(1950.06.30公開)上映時間15分
アメリカ博覧会の一日(日本製)A Day at the America Fair,(1950.09.29公開)34分
★働くものの苦情処理(安全灯)〔働くものゝ苦情処理〕(日本製)Workers' Grievance Procedure(1950.09.01公開)上映時間34分
公民館(日本製)Citizen's Public Hall(1950.12.29公開)上映時間32分
格子なき図書館(日本製)Libraries without Bars(1950.12.05公開)上映時間22分
★働くものの権利〔働くものゝ権利〕(日本製)Rights of the Worker(1950.11.17公開)上映時間20分
農村の生活改善(日本製)Better Rural Homes(1951.01.12公開)上映時間20分
★いとしき子らのために(日本製)Children's Guardian(1950.10.20公開)上映時間40分
農業ホーム・プロジェクト(日本製)Agricultural Home Project(1951.03.09公開)上映時間31分
明るい家庭生活(日本製)For a Bright Home Life(1950.10.20公開)上映時間20分〔21分〕
ぼくらの夢〔ぼくらのゆめ〕(日本製)Our Dream(1950.06.02公開)上映時間22分
スクエアダンスを踊ろう(日本製)Let's Square Dance(1950.07.21公開)上映時間14分
漁る人々(日本製)Men Who Fish(1950.12.15公開)上映時間25分
損をするのはだれだ(日本製)(1950.10.13公開)上映時間11分
高崎での話(日本製)Takasaki Story(1951.09.28公開)上映時間20分〔23分〕
友達への手紙(日本製)Letter to a Friend(1951.07.27公開)上映時間20分
ユネスコと私たち(日本製)UNESCO and Japan(1952.02.01公開)上映時間26分〔25分〕
国連旗の下に〔(日本製)〕Under the United Nations Flag(1950.10.20公開)上映時間15分
わたしの大地(日本製)This Land Is Mine(1951.07.13公開)上映時間17分
正義の殿堂(日本製)Citadels of Justice(1951.08.10公開〔1951.08.31〕)上映時間20分〔21分〕
新しい眼、新しい耳(日本製)(1951.08.17公開)上映時間20分
保健婦の手紙(日本製)Public Health Nurse(1951.11.09公開)上映時間18分
一歩前進(日本製)Step Forward(1952.01.04公開)上映時間20分
USISスクリーン・マガジン 第1集(日本製)USIS Screen Magazine No.1(1951.09.28公開)上映時間11分
値段と品物(日本製)Price and Quality(1951.11.30公開)上映時間22分
ある村の歩み(日本製)Changing Village(1952.02.15公開)上映時間22分
友情のかがり火(日本製)Torch of Friendship(1951.12.07公開)上映時間10分
国際連合の意義(日本製)The Meaning of the United Nations,(1952.02.08公開)上映時間19分
人間の権利(日本製)Human Rights(1952.02.29公開)上映時間26分
キモノ海を渡る(日本製)The Kimono Crosses the Seas,(1952.03.21公開)上映時間10分
アメリカの印象 第2集(日本製)Impressions of America No.2(1952.03.14公開)上映時間17分
公衆道徳(日本製)Individual Rights in Public(1952.03.21公開)上映時間20分
ディスカッションの手引(日本製)Discussion Techniques(1952.04.04公開)上映時間23分
赤の陰謀(日本製)The Communist Conspiracy,(1952.03.28公開)上映時間21分
病菌はどこにあるか?(日本製)Where Are the Germs?(1952.03.28公開)上映時間18分
労働組合員教育(日本製)Education in Labor Unions(1952.04.04公開)上映時間17分
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by sentence2307 | 2007-08-11 15:24 | ドキュメンタリー映画 | Comments(43)
以前、京橋のフィルム・センターの「逝ける映画人を偲んで」で上映された「わたした達はこんなに働いてゐる」は、終戦間近の昭和20年6月28日に公開された、戦意高揚を目的としたいわゆる国民総動員映画です。

国民映画賞を受賞しています。

海軍衣糧廠で軍服を縫製している女子挺身隊の少女たちの必死の作業が齣おとしで撮影されているので、すべての動作が(部分的には、コマ落しで)目まぐるしく描かれています。

この作品をどう見るか、戦争に憑かれた人間のヒステリックで異常な姿と見るか、あるいは、その少女たちを「いとおしく」「けなげ」と見るか、いろいろあっていいのですが、僕はまず、後者と見ています。

黒澤明の「いちばん美しく」を見たときの感動に通ずるあの思いと同じです。

必死の作業の最中にミシンの針が突然折れて、くやしさに突っ伏して泣く少女の有名なシーンは、戦時下に生きた国民の異常さを象徴するという意図のもとに、僕達はこれまで、しばしば見せられてきたのですが、あそこに描かれている少女たちの姿や気持ちのすべてが、戦意高揚のために作為的に作られた嘘だったとはどうしても思えませんし、反省したり全否定すべき種類のものでもないと考えています。

むしろ、ある時代の極限の瞬間を見事に捉えたドキュメンタリーとして、ここに描かれているけなげな少女たちの「居ても立ってもいられなかった切迫感」必死さ懸命さにこそ、時代にまともに向き合おうとした誠実さに対して、いとおしさで胸うたれるものがあります。

「実にいやな時代だった」と言い切ってしまうことで自ら見えにくくしてしまう映像の真実もあるのではないかと、つい思ったりしてしまいます。

解説には、こう紹介されていました。

「革新的な製作集団芸術映画社(GES)に結集し、ドキュメンタリー理論を日本に導入した功績でも知られる女性ドキュメンタリストの先駆者厚木たか。
戦時下の言論統制の中でサイパン島の陥落に言及した本作には、厚木の現実に対する鋭利な視線が感じられる。
1945年(製作・朝日映画社)脚本・厚木たか、監督・水木荘也、撮影・小西昌三」
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by sentence2307 | 2007-04-07 17:42 | ドキュメンタリー映画 | Comments(2)
1930年日活京都撮影所に入社して伊藤大輔監督のもとで助監督として出発した西原孝監督は、デビュー作「流星」や、第一映画で「京洛浅春譜」、新興キネマで「沓掛時次郎」など12本を撮り、大映で「護る影」を撮ったのち、戦後は、長篇映画の監督業を辞してプロデューサーに転じ数々の教育映画の製作に当たったと年譜には記されていますが、この「愛の道標・妊娠調節を中心として」は、製作年度から見て、東映教育映画部で仕事を始める以前の1本と見られます。

内容は、復興期の人口増加に対し受胎調節の意義と避妊法を啓蒙的に解説した社会教育映画です。

フィルムの発見が沖縄の那覇市ということで、米軍占領初期、本土との間に貿易の手段がなかったときに密貿易の形で本土から沖縄に流入した通称「闇フィルム」と呼ばれたものと推測されています。

「闇フィルム」とは、本編の内容には露骨な性描写などないものに、別の「煽情的な場面」を挿入することで東京の盛り場などで非合法的に上映されたというフィルムだったらしいということが当時のカストリ雑誌の記事から推測されます。

娯楽の乏しかった戦後の混乱期に、こうした作品も一種の「闇フィルム」として流通し、刺激を求めて興味本位の鑑賞に群がった人々のニーズに応えたという当時の切迫した生々しい世情をうかがえる貴重な作品ということができるのでしょうか。

西原監督の東映教育映画部における仕事には、「ちえ子の世代」、「直子の感傷」、「職場の不満」、「私たちの結婚」、「宿題」、「輝しき娘たち」、「信子の生活設計」、「駐在さん一家」、「破られた約束」などがあり、また産業映画にもすぐれた仕事を残しています。1971年死去、享年70歳。

(1950大阪映画人集団) 監督・竹島豊、製作・西原孝、脚本・長尾政明、撮影・木村久次郎、美術・岡軌介。復元作業:育映社(21分・35mm・白黒)
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by sentence2307 | 2007-01-18 00:05 | ドキュメンタリー映画 | Comments(0)

全身小説家

ドキユメンタリー映画の魅力は、目的の対象をじわじわと追い込んでいく映像作家の執拗な粘りと編集のダイナミズムを味わうこと以上に、おそらく、じっと「見つめ続ける」行為によって、対象それ自身の内部から「本質」が、まるで膿のように溶け出してきて、まるごと明らかにされ白日の下に曝け出されてしまうような残酷な過程を、僕たちが目の当たりにできるからでしょう。

しかし、かつてそこには「見つめ続ける」ための前提として幾つかのルールが、例えばひとつには、撮る側は、対象に対して決して作為をもって、あるいは悪意をもって働き掛けないというような暗黙の了解が求められていたかもしれません。

羽仁進監督の「教室の子供たち」など、撮る対象に対する限りない善意を持ちながら、あくまでもその対象に過剰な感情移入を出来る限り抑えることを自らに課したジャーナリスティックな姿勢(スタンス)をきちんと守ることを忘れなかった代表的な作品だったと思います。

そしてきっと、そういう姿勢があったからこそ、あのような日常の子供たちをあるがままの姿で活き活きと活写することのできた傑出した羽仁進作品が成立し得たのだと思うし、また僕たちに限りない衝撃を、深い感動と同じ意味において与えてくれたのだと思います。

しかし、そうした客観的・第三者的な立場とともに、冷静さと公平さをもって「見つめ続ける」という善意の姿勢というものが映像作家にとって本当はどういうことなのか、原一男は、あの「極私的エロス・恋歌1974」や「ゆきゆきて、神軍」によって僕たちに厳しく問い掛けてきたのでした。

原一男は、躊躇なく対象者に踏み込んでいきます。

時には衝突し、時には対象者を故意に煽り、あえて作り出した緊迫した状況の中で、そこにある「現実」を、むりやり自分の側へ捻じ向けようとさえします。

その過程で、もしかしたら「人権蹂躙」とか「軽犯罪」とかという概念のすれすれのところまで対象に迫り、迫ることによって自分自身も窮地に追い込まれることさえ厭わないという、原一男の執念と迫力に僕たちは撃たれ、また圧倒されもしたのでした。

この「全身小説家」は、前2作「極私的エロス・恋歌1974」や「ゆきゆきて、神軍」に較べると、当初その語り口は随分とソフトな印象を受けるかもしれませんが、しかし、畳み掛ける後半部分の辛辣さは、前2作の比ではないどころか、はるかに凌ぐ厳しさ残酷さを感じました。

小説好きの読者ならきっと誰でもがそうだと思いますが、いつの間にか作家に対して独特の幻想を抱いてしまうものです。

ここに描かれている井上光晴を囲む文学伝習所の女性たちに、もしそうした「文学に対する憧れ」という幻想性を付加できなければ、あの、女とみれば相手構わず性交を誘っていたとされる井上光晴の、その求めに嬉々として応じていた伝習所の彼女たちの姿は、何とも不気味でグロテスクな色情狂以外の何者でもないかもしれません。

埴谷雄高の「三割バッター」の話を語る後で、伝習所で熱っぽく語る井上光晴の姿をとらえた映像のモンタージュを絵解きすれば、明らかに熱っぽい弁舌の底意にあるものは、目の端でなびきそうな女を窺い淫猥に品定めしながら、少しでもその「きざし」があれば、とにかくモノにするために、思いつく限りのあらゆる口説き文句を吐き続ける厚顔無恥なスケコマシ程度の人間にしか描かれていません。

「文学に対する憧れ」に囚われ、そうした幻想から自由ではない読書人(残念ながら僕自身のことなのですが)にとって、戦後の文学史に濃密な場所を占めてきた傑出した作家のこうした虚の部分を、容赦なく暴き立てる原の視点は、途轍もない衝撃でした。

同時代的に井上の作品を読んできて、それぞれの作品にそれなりの感慨を抱いてきた者にとって、こういう描かれ方をされてしまうということは、その時代を生きてきた僕自身のある重要な時間を全否定されてしまったようなショックでもありました。

原一男の、この渾身のドキュメンタリー作品が傑出して優れているだけに、です。

しかし、ひとつ気になったことは、この原一男作品を見た若い世代が、この作品を「そのまんま」受け取ることによって井上光晴をアタマから冷笑し揶揄するだけの感想に接し、もし彼らが井上光晴作品を1作も読むことなく、こうした裏話を仕込まれてしまったのなら、それはある意味ひとつの不幸なのかもしれないなと思ったことでした。

どんな人物であれ、その小説が優れていれば、その小説に感動することに何の障碍もないという気もします、問題行動を起こしながら優れた作品を残した小説家を「問題行動」ゆえに全否定できるのか、逆の意味で、僕たちがかつて愛した「書かれざる一章」、「双頭の鷲」、「虚構のクレーン」、「完全なる堕落」、「死者の時」、「地の群れ」、「他国の死」、「心優しきテロリストたち」などにもう一度立ち戻っていくしかないのかも知れません。

しかし、ただひとこと、弁解じみたことを言わせて貰えば、作家には、本当のことを言いたがらない「衒い」というものもあります。

全部を肯定できないなら、全部を否定することも、あるいは間違っているかも知れません。

大時代な精神分析みたいで少し恥ずかしいのですが、井上光晴の虚言癖の根は、きっと過酷な少年時代に経験した両親に対する深い失望が「恥」となって、癒されないまま彼の中で「嘘」という否定の形(隠し、そして事実を捻じ曲げるという行為)で現れたのではないかと考えています。

満州で行方不明になっていた筈の父親は、実際には同居していて陶器の絵付けをする陶工でした。

映画の中に映し出されたお猪口の底に描かれた父親の作品というのは、女が獣とマグワウ春画まがいの絵でした。

少年が春画を描く父親を恥じ、そして父を否定したとしても、それは無理からぬことだったかもしれません。

子を捨てて再婚した母親を婚家先に訪ねていって、冷ややかに追い返された屈辱と失望を、それが耐え難いものであればあるほど、綺麗な記憶に摩り替えようとした事もまた、無理からぬことだったかもしれないのです。

それらの嘘には、他人を欺くというよりも、むしろ「こうあって欲しかった」と願う、過酷な境遇の中で必死に生きようともがいた孤独な井上光晴少年が抱いたであろう絶望的なささやかな望みだったと見ようとするのは、多分僕が甘すぎるからかもしれませんね。

ドキュメンタリー「全身小説家」に対する僕の素朴な疑問、つまり、作家・井上光晴を描くのに、彼がどのような経歴詐称を行い、あるいは女あさりにふけるような破滅的な人格であったとしても、だからといって、それだけで、彼の過去に残した数々の小説の実績まで、よみがえって否定することができるのか、そもそも小説が、それを書いた作家の人格がただ醜悪だからというだけで、既にそれなりの評価を得て文学史上に残された小説に果たして影響するものだろうか、すっかり混乱してしまった僕は、友人にそれとなく訊いてみました。

「原一男の『全身小説家』ってあるだろ、井上光晴の。あれってさ、どう思う?」

僕の質問の趣旨は、こうです。

あのドキュメンタリーでは、井上光晴についての予備知識のないヤツがみたら、彼が残した既に評価が定着している作品までも「超」いい加減な印象を受けてしまうんじゃないか。

いままでだって、品行方正の作家の方がむしろ少ない位だったんだから、ただそれだけの理由で、その辺を拡大解釈し人格的に問題があるからといって、その作家の作品が最初からまるで劣っていたものであったかのような印象を与えてしまうそういう姿勢っていうのは、ちょっとおかしいんじゃないのか。

逆に、作品の評価によって作家の価値や評価を浮かび上がらせていくほうがドキュメンタリーとしてはむしろ本道なんじゃないのか、みたいな感じです。

「女あさりは、いいんだ」

友人が言います。

「問題は、経歴詐称。お前が言う両親を恥じて嘘の生い立ちを創作したっていう説明だけじゃ、まだまだ理解できないことが井上光晴にはたくさんあった。むしろあの原一男のドキュメンタリーは、井上光晴が数十年にわたる日本文学史に記された彼の実績の名誉を守るために、十分に踏み込めない部分があって、「わが秘密の生涯」だけじゃない、もっと人間の本質にかかわるヤバイものを感じさせてしまうその辺の含みをもたせた中断なんだ。」

このドキュメンタリー映画の感動の質を一言で言い表すとすれば、「後味の悪さ」や、時には嫌悪をさえ伴う映像の数々が描き出す総体としての衝撃を、例えばそれを「感動」というには、僕たちがこれまで経験してきた種類の「感動」とは、あまりにも異質な「衝撃」だったからでしょうか。

その「後味の悪さ」の中身とは、あくまでも嘘をつき通し続けて死んでいった井上光晴という作家の徹底した不可解さ、さらには何ひとつ本質的なことは分らないままに僕たちは「彼」に翻弄され続けたすえ、その中途半端な状態をそのままそっくり受け入れざるを得ない「フラストレーション」と呼ぶしかないような種類の感動を原一男に「強いられた」からだと思います。

原一男という映像作家の、素手で殴り倒すような荒々しく力強い「演出」に、されるがままになることの、いわば強姦される側の快感と同質の映像体験とでもいえば、そうした倒錯した感情の感動を少しは説明できたことになるかもしれません。

虚構を描く「普通」の映画なら、主人公の不可解さは、ラストでそれなりの結論を得て、ともかく最後には「すっきり」と整理された感情を得ることができるのでしょうが、この「フラストレーション」を、例えばドキュメンタリー映画と虚構を描く物語映画のアリカタそれ自体の違いと簡単に結論付けてしまうには、僕たちを躊躇させるに十分な井上光晴という強烈な個性がそこには立ちはだかっています。

井上光晴が残していったおびただしい「嘘」が何故だったのかという疑問だけは何も解明されないまま、自分の「あるがままの生涯」を、まったく別のナニモノかにしようとしていたらしいことだけは何となく分りかけてきました。

きっと、彼の「小説」もそれらの作為の一線上でなされた行為だったのでしょう。

映画の中で埴谷雄高が語っている「適職としての小説家」の意味がまさにそこにあったのだと思います。

井上光晴にとって小説を書くということは、特別な意味など何ひとつなかった。

彼は「生涯」を創作したように、「小説」もまた創作したにすぎなかったのだと思います。

この映画において井上光晴の夥しい嘘を解明していく過程から浮かび上がってくるものは、愚劣なこの世に生き続けることの彼の根深い嫌悪と、そして、この世界のありとあらゆるものに対する彼の「否定」です。

つきつめてしまえば結局は捉えどころのない不確かな自分の人生そのものに嫌気がさし、やけっぱちになり、なげやりになり、すべてのものを軽蔑し、すべてのものを欺き、なにひとつ本心を悟られないような嘘をつき続けました。

しかし、その虚構としての人生の最後に得たたったひとつ確かなものとして「癌とその進行」があったのだと思います。

奇しくも、このドキュメンタリーは、井上光晴の嘘を暴き立てることによって、彼が癌の進行という「真実」に裏切られていく優れて稀有なドキュメンタリーになったのだと思います。

闇の世界に厚い視線を投げ掛け、やがてその真っ黒な情動に突き動かされて僕たちの視野から突然姿を消していく自殺願望者や殺人者などの自己破壊の破滅的な衝動の不可解さを井上光晴もまた持っていて、死んで始めて彼が闇の感情を抱え持ったまま猶予の時間を生きていことに気がつかされるそういう人だったのかもしれません。

なんとなく、ルイ・マルの「鬼火」1963のことを考えてしまいました。

この作品がもし、社会派作家・井上光晴の経歴詐称に対して「公人」としての社会的責任を糾弾するとか告発するとかというスタンスで撮られたドキュメンタリーだったら、僕たちの感性をこれ程の至近距離から直撃するような打撃を与えたかどうか。

原一男にとって、対象者「井上光晴」への射程距離が、「極私的エロス・恋歌1974」を撮った時の武田美由紀とか、「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三までの距離と、それ程のへだたりがあるとも思えません。

そもそも原一男にとってのドキュメンタリーを撮ることの発想の根は、「公人」という社会に向けられた仮面に対してなどではなく、その裏に隠された個人的なものの極限にこそ真実が隠されているのだと見ているからでしょう。

そこに隠された「真実」は、きっと個人史の「恥ずかしい場所」にあって、理性の抵抗が伴うその手法は当然に「暴く」という姿勢になったのだろうと思います。

「恥ずかしい記憶」を虚偽に置き換えてひそかに隠そうとする取り繕いの態度は、それ自体人間の弱さをもまた自ずから露呈してしまうからでしょう。

正義とか強さを強調することによって公的な立場を保とうとすることで、どうしても隠されねばならない自分の「恥ずかしい部分」を虚偽に置き換える弱々しさのなかにこそ、人間の真実の姿がある、という原一男の思いが、図らずも「暴く」とか「晒す」という姿勢に繋がっていくことは、あるいは当然の帰結かもしれませんが、原がその暴露的行為を為すことで、たとえ社会の秩序が一部破壊され、そして混乱をきたすとしても、それがしっかりと原一男の計算のなかにあることは、例えばあの「さよならCP」1972おいて既に実践されています。

原一男は、車椅子を放棄した障害者・横田弘をマチナカに解き放ち、公衆の眼にあえて晒すことによって、健常者たちが暗黙のうちに形成してきたココチヨイ市民社会の共同幻想の歪んだ暗部にその鮮烈な映像を照射し、ひとつのテロルのごとき痛撃を与えました。

思えば「極私的」な視点をつきつめることが、そのまま「取り繕った社会の嘘」を痛撃することの出来る武器になるという思想から出発した原一男のベクトルは、横田弘を突き通し、武田美由紀を突き通し、奥崎謙三を突き通し、井上光晴を突き通して、果たしてどこに向かおうとしているのか分りませんが、いつの日にかきっとさらに極私的な場所へ立ち帰ってご母堂を撮ることになるかもしれませんね。

むかし子供の頃、叱られたときの言い訳に「誰それが、そう言ったから、そうした。」と言い繕うと、「じゃあ、そいつが死ねと言ったら、お前は死ぬのか。」みたいによく大人に返されたものです。

それは、ただ素直でいることで褒められるという年齢にも限界がであって、そういう年齢に差し掛かっている子供にとって、自分がいつまでも子供のままではいられない、自分がいよいよ大人になることを否応なく強いられるという年齢にあることを知らされる痛烈な一言だったと思います。

このドキュメンタリー映画を見ていて、ふとその言葉を思い浮かべました。

井上光晴という人が、他人が聞きたいと思っているとおりの「もの」や「こと」を先回りして本当らしく創り上げたサービス精神の旺盛な人だったというコメントがこの映画の中で随所に繰り返されます。

その視点から言えば、例えば、旅順出生のこと、満州で行方不明になったという父親のこと、進学できなかった中学のこと、娼妓となった初恋の少女との失恋の話、そして戦後初の除名された共産党員だったという話など、あの幾多の眉唾ものの経歴詐称をそうした井上光晴の特異性と考え合わせるなら、あるいはまた別の井上光晴像が浮かび上がってくるかもしれないのです。

いままである程度の量のこの映画に関する感想を読んできたのですが、そのほとんどが、彼の企んだ嘘八百を頭から問題外とする論評でした。

ハナから嘘だと分っていることを誰がマトモに取り合うかというのが、そこに見られる一貫した批評の姿勢で、それは至極もっともなことだと思います。

しかし、見逃してはならないのは、井上光晴は、人が話して欲しい話をデッチ上げてでも喜ばせる、感動させる、そのために、嘘のディテールの細部にわたり細心の洗練をほどこし、練りに練り上げて虚構を真実に劣らないものに仕上げようとした異常な情熱だけは、しっかりと「あった」のだと思います。

それこそが、「人が死ねと言ったら、死ぬのか」という精神だったような気がするのです。

そこには、もはや自分というものがない。

やぶれかぶれの自棄の中で「自分」など、とっくの昔に放棄してしまっているとしか思えない空虚を生きる井上光晴という人は、生きていくために必要な「何か」を若くして既に失ってしまい、抜け殻のような仮の人生を生きてきたことで、だからなおさら虚構のディテールを執拗に飾る必要があったのであり、あんなにも虚構への情熱を傾けることが出来たのかもしれないのです。

僕が、井上光晴のその虚構を形作る力強い技術力に、かつて感動したということを、時間を甦って否定出来るはずもありません。

たとえ虚偽を飾った彼の行為のすべてを否定しても、しかしそれに傾けた「情熱」を否定するまではできないだろうと思っています。

それは、突き詰めていえば、いままで真実だと思い込んでいたことが「嘘」だと知り、そして憤る以前に、過去においてディテールの完成度を堪能したり見事な仕上がりに感動した経験を持った自分自身だけは否定するわけにはいかない、むしろ、たとえそれらが嘘であっても一向に構わないと思い始めている自分を感じているからでしょうか。

この映画の企画に対して、既に「ゆきゆきて、神軍」を見ていた井上光晴が、この映画をどのように撮るかという原監督との話し合いの際に「自分は、奥崎謙三じゃない。」と一本クギを刺したという話を、いろいろなところで読んだ記憶があります。

それは、原一男の既成のフィクションをひとつひとつ突き崩していくあのようなドキュメンタリーの撮り方には承服できないという井上光晴の姿勢を示していたのだろうと思いますが、「あの」という言葉が示している概念は、つまり、被写体の奥崎謙三自身の、犯罪者になることも最初からいとわないような暴力を伴った破滅的なパフォーマンスに満ちた自己顕示と、それを過激に煽る原監督の「演出」を容認する、そのような製作姿勢(イニシアチブの在り様)のことをいっていたのだと思います。

井上光晴は、当初このドキュメンタリーを撮り進めるに当たって自らシナリオを書いて、それを演じてもいいことを提案したということもあったようです。

ドキュメンタリーといえども所詮「やらせ」でしかないのなら、むしろそういう自分を積極的に「演ずる」ことで、演出側のどのような破天荒で破廉恥な要求も「演ずる」というフィルターで守られた行為(というタテマエ)によって自己表現しようとしたのでしょうか。

いまから思えば、それは、真実の露呈を恐れての「演技」ではなく、井上光晴という人はそういういき方でしか自分の「真実」を語ることができなかったんだなあという気がします。

しかし、パフォーマンスという意味でなら、奥崎謙三と井上光晴の違いに、それ程の差があるとも思えません。

誰でもがきっとそうなのだと思いますが、自分を表現しようというとき、ストレートに自分の弱味や醜さや恥ずかしい破廉恥な部分を生の言葉で言ってしまうことが、いかに他人に理解されにくいものか、優れた表現者であればあるほど「知っている」のではないかという気がするのです。

だから、彼らは自分の気持ちの深い部分に蟠るものをナニモノカに託す、演技であっても暴力であっても嘘であってもいい、それが彼らの「真実」にたどり着くための手段であり道具であり観念なのであって、そして、それをまた十分に認識していた原一男監督は、例えば、奥崎謙三の「自分は、この一連の告発と追及の過程で、人殺しをするかもしれないが、その場面もしっかりと撮影して欲しい」という提案に、狂気に囚われた既に常人でない奥崎の言動にたじろぎながらも、眼前に展開するかもしれない殺人の瞬間を躊躇なく撮るかもしれないドュメンタリストとしての自分を感じたという所感のなかには、原監督もまた井上や奥崎と同質の、破滅覚悟で真実の核心を突こうという表現者の姿勢を感じます。

僕にとって「極私的エロス・恋歌1974」は、その頃の「時代」の雰囲気を鮮明に甦らせてくれる衝撃的なドキュメンタリーでした。

あの映画に登場した武田美由紀という女性は、夫婦という人間関係の虚構を否定し、「女」であると決めつける社会的な「性」を歴史的に捉え、そして拒絶することによって自己主張しようとしたウーマン・リブ運動の影響下で生きようとした女性です。

以前の恋人とSEXしてくると夫に宣言して家を出て行く場面とか、ひとりで出産するところを撮影させたりする場面は、単に人間宣言という以上の「自立する女」としての過激な自己主張でした。

ただ、それらの場面は、過激であっても衝撃的ではありません。

それはきっと本質的なものをはずしたあの運動の意外に早かった退潮が恕実に示しているでしょう。

愛によって隷従化する「性」の解放を謳ったあの運動の本質的な錯覚は愛を不動の制度として捉えようとした男への甘えが根底にあったからではないかと思えてなりません。

もともと人を愛するということは極めて理不尽なことなのです。

その人のために自分のすべてを捧げたいとか、あるいは、そういう相手の一方的な思いに耐え切れずただ負担に感じて逃げるとか、あるいは、その思いに応える振りをして相手の気持ちを弄んで徹底的に利用するとか、そういう恋愛の関係そのものが最初から理不尽なものであることを見逃した運動だったのでしょう。

しかし、それらの行為は、「人を愛さないで生き続ける」という行為よりは、まだまだ自然なことだというべきでしょうか。

だから、僕にとってのこの映画の最も衝撃的だったところは、フリーセックスや出産シーンではなく、原一男が、新しい愛人の出来たことを武田美由紀に告げたあとの彼女の激昂する場面でした。

自分こそは、制度としての夫婦関係からどこまでも自由な女でありたいと思いながら、逆に夫が自分の思いから自由になって、新たな女性との関係を築きたいということを知らされた瞬間のリアクションは、男の愛を失って捨てられる定番の惨めな妻=女そのものでした。

「全身小説家」において、最も不気味なのは、破れかぶれともいえる井上光晴の数々の行状が写し出されていく場面の端で、薄笑いを浮かべながら眼を伏せてじっと座っているこのドキュメンタリー作品のすべてを覆い尽くすかのような大きな井上夫人の存在感でしょうか。

かつて寺山修司は、その自伝(しかし、正確には、そのタイトルは、「自叙伝らしくなく」というものでしたが)において、みずからの出生について、こう書いていました。

≪歴史について語るとき、事実などはどうでもよい。問題は伝承するときに守られる真実の内容である。虚構であり、他国であり、手でさわることのできない幻影である「過去」を、しばしば国家権力が作りかえて伝承してきたように、われわれもまたわれわれの時の回路の中で望み通りの真実として再創造していく構想が必要なのである。「個人における歴史の役割」というのはまさにそのことによってどのような自由を獲得するかにかかっている。(中略)私にも、私の「天地創造」から書きはじめることができることの自由、それが個人における歴史の役割である。≫


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by sentence2307 | 2006-10-01 18:54 | ドキュメンタリー映画 | Comments(7)

HARUKO

このドキュメンタリー映画の圧倒的な映像の「力」は、在日朝鮮人の息子・金性鶴が、煙草専売法違反で逮捕されていた母・金本春子を、罪を解かれて今まさに警視庁から出てこようとする瞬間・緊張の果て何かに憑かれたような定まらない視線を呆然と泳がせながら歩く母の表情を撮ったあの場面にすべて集約されるだろうと思います。

おそらくプロデューサー・岡田宏記あるいは監督・野澤和之は、このフィルムの存在、わけてもこのシーンがあったからこそ、1本のドキュメンタリー映画として編むことを決意したのではないかと思わせるほど、その母・金本春子=チョン・ビョンチュンの表情を活写した映像は、人の心を捉えて離さない強烈なインパクトがありました。

だから、この映画が一般に告知されるとき、必ず母・金本春子=チョン・ビョンチュンのその表情の映像が使われるのも頷けるのだと思います。

その表情は、決して大袈裟ではなく、例えば、僕たちに「戦艦ポチョムキン」の幼児を目の前で虐殺される主婦の絶望と怒りの表情とか、あるいは「無防備都市」や「アルジェの戦い」など、強権に追い詰められた無力の民衆が死を掛けて権力に挑む絶望的な戦いを描いた傑出した諸作品に共通して見ることのできる「あの絶望と怒りの表情」と同質のものを、僕たちはこのドキュメンタリー映画「HARUKO」に見、まずはその映像それ自体の圧倒的な迫力に押し潰され、ぶちのめされるのだと思います。

崔洋一監督の渾身の一作「月はどっちに出ている」は、今にして思えば日本人の朝鮮人に対する差別意識を余すところなく描き切った傑出した作品であったにしても、しかし、逆に日本で生きる在日朝鮮人の、差別にあがらうリアルな姿を本当に描き切ることができたかということになると、我ながら最近少し確信が持てなくなってきました。

それというのも、きっと僕が、このドキュメンタリー映画「HARUKO」を見てしまったからでしょうか。

もちろん、現代日本の急速に変動する政治状況・社会状況を反映して、当時なら十分に「あった」はずの作品自体の衝撃性というものが、徐々に変質を余儀なくされつつあるということは、おそらく大いにあり得ることかもしれません。

しかし、それにも増して、このドキュメンタリー映画「HARUKO」を見た後の、「月はどっちに出ている」で描かれている崔監督の屈折した「北」への思いには、あきらかに一部のめぐまれた階層・裕福な知識層の、それゆえの負い目に引きずられた甘甘な観念の遊びにすぎない、あまりにも卑弱なものと感じざるをえないのです。

「HARUKO」で描かれている金本春子や金性鶴の「希望」から「失意」に至る象徴としての「北」への憧れと挫折は、もっともっと切実な、生きていること自体の意味と、その喪失とを同時に問う壮絶なものだったように思われてなりません。

故郷を失い、そして家族を失いながら、異国でただ金のために生きる後ろめたさ=過酷な自己喪失を、そうではないと否定することのできる一種の免罪として「北」は、彼らの中では「聖地」であり続けなければならなかったのだと思います。

「北」が彼らの心の中に確固として存在しているからこそ、異国での過酷な差別にも耐えることができたのだろうし、そしてまた、生きるために必要なら、あらゆる脱法行為も彼らの強靭な鎧った気持ちの中だけで十分に正当化され得たのだと思います。

きっとそれは、「北」への仕送り荷物の中にこっそりと現金を潜ませて、せっせと送金し続けるかぎり保証されるというたぐいの「信仰」のようなものだったかもしれません。

そして「月はどっちに出ている」で描かれていたのも、残念ながら「そこまで」だったのですが、この作品「HARUKO」に描かれている87歳の金本春子=チョン・ビョンチュンにとって、この国での数々の脱法行為と摘発、37回におよぶ逮捕、そして起訴や懲役など、なにほどのものでもなかったのだということが証明しているものこそが問われなければならないのだと思います。

この異国における逮捕も起訴も懲役も、彼女には聊かの痛手も与えることが出来なかった。

このドキュメンタリー映画の圧倒的な迫力は、異国にあって過酷な時代を生き抜かなければならなかった彼女に強靭な意志の力を与え、かつ支えることのできた「北」という価値観が、実は地に堕ちたまったくのマガイモノだったという事実を突きつけられたときの喪失感をも図らずもこの映画はしっかりと描き出してしまっていることだと思います。

幾つか読んだこの作品の多くの感想が、この映画の宣伝コピーに沿うもの、つまり「そしてこの作品は、彼女が一番幸せを感じる瞬間を映し出して幕を閉じる」という感じのものがほとんどでした。

しかし、本当に「そう」でしょうか。

ラスト、亡き夫への礼拝を拒みひとり余生を頑なに生きる老婆を撮らえるその姿には、過酷な時代に押し潰されなかった分だけ、そして耐えに耐えていき続けた壮絶さの分だけ、多くの喪失と犠牲を払い深く傷ついた痛ましい不屈な心の荒廃が苦々しく描き出されていることを僕たちは見のがしてはならないのかもしれません。

このドキュメンタリーは、圧倒的な映像の「力」によって僕たちをねじ伏せ、映画が本来持っていた「力」とは、ストーリーを捏ね繰りまわすことではなく、なによりも映像それ自体の「力」であることを、この作品は思い出させます。

*岡田宏記、代表作に「アラカワストーリーズ」「グルを失った人々」など。「短い命を刻む少女・アシュリーの生き方」で2004年ニューヨークフェスティバル・ドキュメンタリー部門銀賞受賞。
*野澤和之、主な作品に「涙の川・野宿の夫婦愛」(ギャラクシー賞)、「母よ・引き裂かれた在日家族」(ギャラクシー賞)「生きる力を求めて・中村久子の生涯」(文部省選定作品)

(04フジテレビジョン、ポレポレ東中野) 監督・野澤和之、製作・亀山千広、太田英昭、企画・西渕憲司、プロデューサー・岡田宏記、協力プロデューサー・宮澤徹、企画協力 大槻貴宏(ポレポレ東中野)、構成 上久保直哉、ナレーション・原田芳雄、エンディングテーマ「Day Dream feat. chimin」 KP、製作・フジテレビジョン、製作協力・湧源社、ジャパンビジョン(出演)金本春子、金性鶴
(カラー、35mm 82分)
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by sentence2307 | 2005-10-10 08:33 | ドキュメンタリー映画 | Comments(0)

にっぽん零年

文献を読んで、この映画の企画の話を大塚和プロデューサーに持ちかけたのが、「私が棄てた女」の撮影が中断していた際の浦山桐郎だと初めて知って少し驚きました。

浦山監督のイメージからは、ちょっと結びつかないような気がしたのです。

そのあとで斎藤光正、河辺和夫、藤田敏八ら新人3監督に声をかけ、この映画の企画がいよいよ現実味を帯びてきます。

そのとき会社側が考えていた題名は、「日本の若者たち」というタイトルで、きっと、前年に興業的にヒットした森川時久の「若者たち」を十分に意識したネーミングだったと思います。

資料には、この映画を製作するにあたりそれぞれの監督の担当が記録されていて、斎藤光正監督が性風俗嬢、河辺監督はフーテン少女と自衛隊員、藤田監督は学生運動家、浦山監督はデモ用のヘルメットを作っている青年、という役割分担になっていて、それぞれが撮影し編集作業を経て一本のドキュメンタリー映画にまとめようという構想だったそうです。

作品のコンセプトは、「安保闘争という緊迫した時代性をそのままの雰囲気で撮って、生の状況の空気を後世に伝える」といった気宇壮大なもので、大きな時代のうねりに対してまともにぶつかっていくなり、無関心をよそおうなり、とにかくそれぞれの異なった環境にある青年たちの生き方を多面的重層的に製作しようとしていたことがよく分かります。

そういう意味ではこの映画、三十数年間倉庫に眠らされていたのですから、「後世に伝える」という役割は十分に果たせたかもしれませんね。

しかし、予期していた以上に、学生運動が激化して、1968年の秋には状況がエスカレートし暴動・内乱化していくなかで、会社側はその事態を危惧するに至り、「国民に急進な左派的思想を浸透させる恐れがある」という理由で映画製作の中止を決断した日活・会社側は、突然製作中止命令を発しました。

しかし、大塚プロデューサーは、会社側のこの決断に抵抗してそのまま撮影を続行したわけですが、やがて編集段階で4監督の意見が対立して、議論の末、浦山・斎藤の2監督が降板し、藤田・河辺両監督がゲリラ的に製作を続行していくことで映画を完成させました。

つまり、斎藤光正監督の性風俗の部分と、浦山監督のデモ用のヘルメットを作っている青年を描いた部分を含んでいない作品が作られたというわけです。

残念ながら、浦山・斎藤両監督の撮ったフィルムは消失し、この2監督の名前もクレジットから外されました。

また、藤田・河辺両監督の編集版も公開された版以外のものは廃棄されてしまったらしいと報じられています。

そして、この作品が封印されたまま、なぜ34年間も公開されることなかったのかという理由については、よど号ハイジャック事件・連合赤軍事件に見られる学生運動の過激化・先鋭化が公開を躊躇させたうえに、ロマンポルノという日活の路線変更という状況の変化もあって公開の時期を失したのだろうとみられています。

いずれにしても、会社側の製作中止命令につらなっている一連の流れにそった措置だったろうと考えるのが自然のような気がします。

この映画は、結局正式には一度も公開されることがなく封印され、1995年の山形国際ドキュメンタリー映画祭に突然登場することとなりました。

きっと、「光の雨」や「突入せよ! あさま山荘事件」などの作品の一応の興業的成功という周辺事情の成熟がなかったら、この作品の公開もなかっただろうという見方が多分当たっているかもしれません。

とにかく、この作品は、まさに、いわく付きの幻のドキュメンタリー映画といえる作品であることは確かです。

このドキュメンタリー映画について、ジャーナリストと自称している人のコメントを読んだことがありました。

それは、《『にっぽん零年』は、私たちに、自分で何かを変えるという夢を持つことの重要性と、その夢がやがて社会をも変える夢へとつながる可能性を思い出させてくれる。》とかいうような趣旨のことを大真面目に書いているのです。

この人、実際にこの映画を見たうえで、本気でそんなこと言っているのだとしたら、ちょっと暗澹たる気持ちにさせられて落ち込んでしまいました。

例えば、よく僕たちが、会社の会議などに、あらかじめ読んでおくべき資料を読まずに臨んでしまい、予備知識のまるでない重要案件について意見を求められたときなどに、とりあえず差し障りのない公式的な見解を述べておいて、ひとまずその場を逃れるという「あの手」のいい加減さと、この所信表明はなんら変わりありません。

このドキュメンタリー映画から、もし本当にこんな誠意のない感想を引き出したのだとしたら、そういう偽善的なことを平気で言えるこうした評論家の言葉など、信用しない方がいいかもしれませんね。

あの1968年という年につながるこの「いま」という現実のどこに、「何かを変えるという夢を持ったこと」が、「やがて社会をも変える夢へとつながる可能性を思い出させてくれる」ようななにが存在しているなどと言えるのか、現実を直視せず、本音を隠してスローガンや看板だけの公式見解をぬけぬけと言い放つこうした良識面した厚顔無恥な「公式人間」が、大手を振ってぬけぬけと生き得るこの現実に対し、苛立ちや怒りを通り越して深い失望と虚脱感にとわられ、しばし呆然とさせられてしまいました。

このドキュメンタリー映画に描かれているのは、語るべきものはおろか自分の言葉さえ持ちあわせず、大きな状況のうねりの前で、ただ時代に翻弄されるがままに、ワケも分らずびくびくと駆けずり回っていただけの若者たちと、なすすべもなくそのような増長を許した無様な親たちが描かれていくというその一方で、鮮明に浮かび上がってくる後半部分に、このドキュメンタリー映画の魅力のすべてがあるといってもいいと思いました。

それは、運動方針を巡って延々と続く議論とセクト抗争に明け暮れる虚しさの中から、学生活動家が、そういう生き方に迷い疑問を抱きながら、母が被爆した広島へ旅立ち、そこで暮らす被爆者たちを前にして「常套句」を喋れば喋るほど被爆者たちの生活実感から発せられる重い言葉に押しつぶされ、沈黙を強いられて、ついには押し黙ってしまうという苦渋に満ちた場面の迫力が、そのことを明確に示していると思います。
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by sentence2307 | 2005-03-22 00:21 | ドキュメンタリー映画 | Comments(2)

妻はフィリピーナ


ごく狭い交友関係からの一方的な印象なので、まずは、偏見と独断とに基づいたコメントであることを明記しておかなければなりません。

僕の友人にフィリピン女性と結婚した男がいました。

この映画と違うところは、彼女は日本支社に勤めていたOLでしたが、随所で聞いた言動や行為など、このドキュメンタリーに描かれている「テレサ」とそれほどの隔たりがあるとは思えません。

結局その結婚生活は、ほんの数年で破綻しましたので、現在は夫婦ではなくなっています。

もちろん彼らとて楽しい時期もあったのでしょうが、僕が友人として彼の愚痴を聞かされ始めたのは、すでにふたりの関係が(彼の気持ちが、と書くべきかもしれませんね)破綻に向かい始めているときでしたので、彼女との些細な言葉の行き違いとか、理解できない相手の考え方や習慣などという積もりに積もった不満や不信の数々をリアル・タイムで逐一聞かされたのでした。

当初彼が考えていたのは、近所の親切な日本人の奥さん連中とのつきあいを通して、早く日本の習慣と言葉に慣れさせようと目論んでいたのですが、それが彼女の強い拒絶にあって頓挫したことから、彼らの結婚生活のギクシャクは始まりました。

彼女の、あまりにも強い「日本の奥さん」に対する拒否に出会ってショックを受けたと彼は語っています。

それからというもの、オフタイムの居酒屋などで毎日のように彼の口から彼女への不平・不満・不信が語られ、それを聞いていると、結局彼の不満や不信の核となっているのは、要するに金銭がらみのことばかりで、この映画に描かれていることも、要するに「そのこと」だと思います。

まず彼女が言い出したのは、結婚の証しとして「向こうの」親族のためにフィリピンに家を建てて欲しい、から始まって、家財とか日常使っているちょっとした家電や、さらに家計費からもかなりの金額をどんどん親元に送金してしまう、それを注意すると「自分の稼いだお金をどう使おうと、自分の自由ではないか。干渉しないで欲しい」と突っ撥ねられたというのです。

この作品「妻はフィリピーナ」でいうと、監督・寺田靖範が、テレサに対して「(こちらに頼らずに)向こうは向こうで生活費を稼げないのか」と漏らし、テレサが、自分にはフィリピンの家族の面倒を見る責任があると答える場面と照応します。

友人の彼女の「干渉しないで欲しい」と答えた言葉の向こうには、テレサと同じ責任感が込められていたのかもしれません。

思わず僕たちが違和感を覚えてしまうという、この「自分の生活費まで削って『親族の面倒までみる』という観念」が、どうして「異常」と思うのか、そこには経済成長の果てに家族の崩壊を経験した日本人の僕たちが培ってきた血族への考え方を躓かせるような何かが潜んでいるのかもしれません。

そして、この映画の中でテレサが「日本人の奥さん」が亭主に傅きながら家に閉じこもっている姿を軽蔑を込めて揶揄してみせる姿には、何者にも頼ることなく、どんなことをしても、そして、どこまでも自立して生きていこうとする活き活きとしたフィリピン女性の生き様を見つけることは、それほど困難なことでもありません。

この映画が、彼らの将来がどうなるか予想も付かないとしながらも、一応は幸せな予感の「continue」で終わることができたのは、幸いにも寺田靖範監督の貧しさによって、疑心暗鬼からお互いが自由でいられたからかもしれませんね。

そのような映画に反して、僕の友人の結婚生活の方は、失敗に終わってしまいましたが、彼らのその関係を決定的に終わらせた彼女の一言というのを以前彼の口から聴いたことがありました。

それは、「いずれはフィリピンに帰って、日本で稼いだ金で向こうの親族たちと安穏に暮らしたい」という彼女の言葉だったそうです。

そのとき、彼は、果たしてその彼女の構想の中に自分というものが含まれているのか、結婚をなんだと思っているんだ、フィリピンの親族の方ばかり向いている彼女の気持ちを知って、もうこれ以上駄目だなと思ったといいます。

彼が僕に話したモロモロのネガティブな痛ましいエピソードは、きっと、フィリピン女性に対する僕たちの偏見の一端をも浮かび上がらせているかもしれません。

聞かずに終わってしまったもう半分を占めているに違いない「幸せな思い出」や、話したこともない別れたフィリピンの奥さんの言い分を聞く機会がもしあったなら、一層リアルにそのことが判明したかもしれません。

そうなれば、どこまでも平行線を辿ったまま接点を見つけられなかった、日本人の側の「騙されているのではないか」という偏見と、フィリピン女性の側の「日本人はこんなに裕福な暮らしをしているのだから、貧しい暮らしをしているフィリピンの親族に少しばかりの援助をしてあげてもいいではないか」という偏見とをぶつけ合わせ、なんらかの接点を作りだせたかもしれません。

この作品を観て僕の中に広がった苦々しい後悔の念は、きっとこの作品の傑出していることを証しているのだと思います。

この作品「妻はフィリピーナ」は、第1部が、1992年第2回国際学生映画祭ドキュメンタリー部門賞を獲得し、その奨励金をもとに製作された第2部が1993年度の日本映画監督協会新人賞受賞を受賞した優れたドキュメンタリーです。
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by sentence2307 | 2005-02-13 11:24 | ドキュメンタリー映画 | Comments(3)

につつまれて

「かたつもり」が94年の作品で、「につつまれて」が92年の作品だとすると、僕はこの2作品を時間的に取り違え、逆に見てしまったみたいです。

この河瀬直美の記念碑的な自主映画作品「につつまれて」は、いわば「父親探し」の映画です。

父親が不在のまま、幼い頃から今まで自分を育ててくれた祖母や別居している母親など、近親者たちが「あんたを捨てていったあんな父親を、今更なんでわざわざ探し出して逢う必要がある?」という強い抵抗とともに、彼女なりの不安と葛藤を抱えながら、あえて生き別れた父親を探し求め、ついに探し当てるという自主製作映画です。

僕としては、「かたつもり」の方を先に見てしまったために、この2作品の関係を、例えばこんなふうに考えました。

「かたつもり」という作品は、自分を育ててくれた祖母が、愛情いっぱいに描き出されています。

愛情溢れる河瀬直美のキャメラは、子犬がじゃれつくみたいに、ただひたすら祖母の姿だけを追い求めます。

しかし、そのキャメラは、近づいても近づいても、どうしても祖母に届かないというような「もどかしさ」を観る者に感じさせ、そこには、ある種の苛立ちと鬱屈とが存在していて、例えば作品中の場面でいえば、ロングで捉えた遠景の祖母の立ち姿を、河瀬がキャメラの背後から手を差しのべて指でなぞる場面など、祖母を完全に捉えきれないという苛立ちと、さらに自分の満たされない気持ちの両方をもてあましているような感じを強く印象付けられました。

撮られる祖母の方も、しまいには執拗にまとわり付く孫・河瀬直美をうるさく感じ始めている仕草(笑いながら「いなす」という感じです)を時折あらわにします。

この描写は、互いに強い愛情で結ばれながらも、執拗な求愛の姿勢を抑えることのできない河瀬直美の、祖母との絆に心から満ち足りていない空虚感を抱え持っていることを示している、と最初は感じました。

だからきっと、彼女の抱え持つその空虚感が、彼女を「父親探し」に向かわせたのだろうと。

しかし、それにしても、必死になって探し回り、苦労して辿り着いたにしては、父親の扱いは実に素っ気なく、前半の熱い思いに比べると異様な感じさえ抱きました。

実際は「につつまれて」(父親探し)は、「かたつもり」よりも以前に撮られた作品であることを知ったとき、僕の考えた構図は少し違ってくると考えた方がいいのでしょうか。

例えば、「父親探し」に失望して、育ての親への愛に目覚めて祖母に回帰していく、みたいな。

しかし、たとえこの2作品の時間的配列が前後したとしても、常にそこにあるのは、誰からも答えを得られないまま求めては裏切られ続けるという過剰な河瀬の求愛と失意の姿です。

ここでも失望し、別のなにかを求めずにおられないままに、次の求愛も更に失意に終わるという河瀬直美の絶え間ない空虚です。

そして、この作品のどのシーンにも、静かに時が流れ、決して留まることのない死の影を感じずにはおきません。

祖母の姿が、一瞬ストップモーションで捉えられたとき、そのセピア色の像は、まさに「遺影」でした。

彼女の執拗な求愛の姿勢は、迫りくる時=死の怯えと無関係ではないように思えました。
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by sentence2307 | 2005-02-05 10:20 | ドキュメンタリー映画 | Comments(116)