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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:西川美和( 2 )

ディア・ドクター

この映画のテーマについて、ある友人から、こんな感想を聞いたことがありました。

「ひとことで言ってしまえば、この映画って、ニセ医者でなにが悪い、という開き直りを撮った映画なんだろう?」というのです。

「だって、医者の来てがないようなド田舎の僻地には、ニセ医者だって随分と有難いわけだし、それにしても、そもそも医者ってなんなんだよ?っていうテーマだよね。
 
医者のやることといえば、多かれ少なかれ、どうせ映画で描かれているみたいな、モロ薬品会社とつるんで患者に大量の(時にはアカラサマに見当違いな)薬を与えて、その裏では高額なマージンを薬品会社から売り取っているという醜悪な実態があって、だけどこの映画では、そうした「安易な薬投与」では通用しないマジ重篤な絶対的病気(「癌」だよね)がニセ医者の前に立ちはだかって、ついに「見よう見まねの医療行為」だけではもう手も足も出なくなり、辻褄の合わなくなったニセ医者が、ソソクサと村から失踪せざるを得なかったという「事件」が描かれているわけだけど、シビアな現実つまり「癌」が、ニセ医者の仮面を引き剥がすことになり、結局「彼」は追放されてしまいましたという突き放した映画ではなくて、むしろ、無医村だった切実な過去を持った村が、突然の医者の失踪に村人は困惑し、ふたたび以前の惨憺たる無医村に戻ってしまうのかという不安から、必死に彼を探し、あるいは、たとえニセ医者だって構わない、戻ってきて欲しいとそこまで切実に訴えかけているという部分からも分かるように、やっぱりこの映画は、あきらかに「ニセ医者のどこが悪いという切り口で撮られた告発映画なんだよな」というのです。

そして彼は、僕に最終的で決定的な証拠を突きつけるみたいにして、さらに言い募りました。

刑事が村人たちの供述をとっていく過程で、「そういえば」みたいに、だんだんと、「失踪医」が残していった話の端々に、ちょっとずつおかしなところがあって、そうしたながで、彼がニセ医者かもしれないと、薄々勘付いていたらしい研修医や看護士の供述が語られているわけだけれども、しかし研修医や看護士は、その刑事たちの質問に対して、失踪医がもしニセ医者だったとしても「それでもいいか」というニュアンスの心境を持ったことが、徐々に分かっていく部分に、西川監督の、この映画に込めた意図が語られているのだと友人は言いました。

都会に集中する現代の医療から見捨てられた僻地の、病に苦しむ老人たちに寄り添い、親身になって愁訴に耳を傾ける医者がいたという心温まる日常が丹念に描かれていく一方で、突然の医師の失踪を対比的に描くことで、あるじを失った荒涼とした寂れた診療所と、喘息の発作に苦しむ子供を映し出したラストをみれば、西川監督の製作意図はオノズとあきらかだよね、と。

その話を聞いたあとずっと、彼はその結論を得ただけで、果たして本当にスッキリと満足できたのだろうかという気持ちにとらわれ続けていました。

研修医や看護士の供述にひそんでいた、薄々ニセ医者なのではないかという疑惑と、たとえそうだとしても「それでもいいか」と思ったというニュアンスの部分は、この詐欺事件とニセ医者の失踪のあいだの不可解な隔たりを埋めるにしては、随分と不十分な証言のような気がしました。

もし、西川監督が、「医療行為を為す者は、正規の医者でなければならない」という規制と、無医村の切実な惨状を対比させて告発しようとしたのだったら、「それでもいいか」という言葉の曖昧なニュアンスだけでは、なんの説明にもならないのではないかと感じました。

ニセ医者でも一向に構わないというヌルイ現実がある一方で、見せ掛けの医術の演技だけではどうにもできない重篤な病気もある、それをどう説明するのだろうと思いました。

病むことの不安に動揺する患者を抱きしめて、不安を取り除くことのできる「ニセものの医療」がある一方で、精密な薬によって確実に重篤な病気を治癒させることのできるものの、冷ややかに突き放す貧しい者たちや僻地で病む老人たちを切り捨てる高価な医療が片方にはある。

高価な医療は、どうしても採算に見合う地域を必要としていて、結果、採算のとれない地域は見捨てられ、切り捨てられて無医村になるしかない。

研修医や看護士が、いつのまにか厳格な規制を克服するものとしてニセ医者の存在を「それでもいいか」と認め始めたとき、西川監督は、人間の思いと思いのあいだにある「兆し」を描こうとしたのではないかと感じました。

たぶん刑事たちが、村人から供述を取っていく過程において、ニセ医師・伊野が、自分を「医師」らしく見せようと演じることで、病におびえる村の老人たちの閉ざされた頑なな心の扉を開かせることができることに気がついたのだと思います。

皮肉にも、刑事たちの執拗な尋問によって、刑事たち自身が徐々に分かったように、研修医や看護士もまた、「そのこと」に気がついたのだと思う。

たぶん、逆に言えば、必死にニセ医者を演じる「伊野」に対して、誰もが医者の理想像を見ていたからではないか、そしてそれは、矜持や権威にがんじがらめにされた「真正な医者」には、到底為しえなかったこと(孤独に病んだ老人たちの心のそばに寄り添うこと)でもあったのからだと思います。

(2009エンジンフイルム、アスミック・エース)監督・脚本:西川美和、製作:川城和実、重延浩、島本雄二、久松猛朗、千佐隆智、喜多埜裕明、原作・西川美和「きのうの神さま」(ポプラ社刊)、 プロデューサー:加藤悦弘、撮影:柳島克己、美術:三ツ松けいこ、編集:宮島竜治、音楽:モアリズム、エンディングテーマ曲:モアリズム 「笑う花」
出演・笑福亭鶴瓶、瑛太、余貴美子、松重豊、岩松了、笹野高史、井川遥、キムラ緑子、森康子、市川千恵子、奥野匡、 高橋昌也、中村勘三郎、香川照之、八千草薫、
第33回山路ふみ子映画賞:映画賞(西川美和)、映画功労賞(八千草薫)、第34回報知映画賞:助演男優賞(瑛太)、助演女優賞(八千草薫)、監督賞、第22回日刊スポーツ映画大賞:作品賞、監督賞、主演男優賞、助演女優賞(余貴美子)、第52回ブルーリボン賞:主演男優賞、監督賞、第19回東京スポーツ映画大賞:主演男優賞、監督賞、第33回日本アカデミー賞:最優秀脚本賞(西川美和)、最優秀助演女優賞(余貴美子)、
by sentence2307 | 2010-05-30 16:27 | 西川美和 | Comments(165)

ゆれる

「弟の呼び掛けに、あのお兄さんは、結局、家に帰ってくるのかしら」

この映画について、女ともだちがぽつりと話したひとことで、僕は完全に混乱してしまいました。

最後のシーン、通過するバスの車体で一瞬兄の姿が見えなくなる直前、あそこには確かに弟に向けられた兄の笑顔がありました。

あの笑顔こそは、兄弟の間に起こった気まずい行き違いのすべてを許して、弟の謝罪を受け入れようという兄の親愛と寛容とが現れた笑顔だったんじゃなかったのか、という彼女への抗弁を思いとどまり、結局それらの言葉を飲み込まなければならないほど、彼女の
「弟の呼び掛けに、あのお兄さんは、結局、家に帰ってくるのかしら」
という言葉は、僕に深刻な衝撃を与えたのだと思います。

それまで、僕が持っていたこの兄弟の和解へ向かうであろう楽観的な手放しの確信が、そのひとことによって完全に揺らぎ潰え、兄弟の和解がなんの根拠もないただの「思い込み」にすぎなかったことを、そのひとことで思い知らされました。

そういえば、そもそもあのシーンの弟が、刑務所から出所してきた兄の姿を歩道の向こうに見止め、弟が自分の存在に気づかせようとして呼び掛けながら走り始めたとき、彼が本当に心から兄に「謝罪」しようとしていたのかどうかさえ疑わしくなりました。

この弟が、実家の商売と親のために寂れた故郷に踏み止まって働いている兄に対し、少しでも「済まない」という気持ちがあったかといえば、多分それはなかっただろうし、しかもそのうえで故郷で燻っている兄の鬱屈した思いには悪意も含めて気づいていたとさえ考えられます。

兄の鬱屈を十分に気づいていないとすれば、あえてあのとき弟が敵意を秘めた刺々しい気持ちで、かつての恋人、現在は兄の仕事を手伝い、兄との結婚話も出掛かっていた彼女にSEXを仕掛けるはずがないという気がします。

あのまま成り行きに任せれば、静かな故郷で兄と結ばれたであろう平凡な二人の関係を、ただ壊すためだけに彼女を誘ったと思う方が、その後でとった弟の彼女に対する冷ややかな態度や、法廷の場での兄に対する憎悪を込めた裏切りを理解するうえで、弟の荒んだ気持ちの在り様を示しているのは明らかだと思います。

しかし、理解しがたい弟の激しい憎悪と敵意が、いったい何に基づいているのか、誰に向けられたものだったのかという疑問が、そこには残るかもしれません。

おそらくその激しい苛立ちと憎悪とは、故郷に生きるすべての人々に向けられたものだったに違いないという気がします。

きっと人々は、多くのものを失いながら、そして少しずつ傷つきながら、その人生をどうにか遣り過ごしていくのだと思います。

故郷を捨てた人間、あるいは故郷から追い立てられた人間には、その土地に根を張って生きている人間よりも、自分が失ってしまったものを、よりリアルな実感をもって認識することができたでしょう。

しかし、その土地に根を張って生きている人間もまた、同じものを同じように失っていることに、あの弟は果たして思いを及ぼすことができただろうかという疑問が残りました。

生きた分だけ傷つき、愛した分だけ憎悪を抱え込みながら、とっくのむかしに失ってしまったものを、あたかもまだそこに存在しているかのように振舞う故郷の人々に対して弟は、過酷な現実に正面から向き合おうとしない彼らの誤魔かしとその鈍感さの部分だけを叩き壊したいと切望しただけで、兄の内向した苛立ちと怒りに気づくことに対しての怯えと恐れとがあったのかもしれません。

故郷から追い立てられた追放者にとって、その「鈍感さ」は(たとえ世間体を取り繕うための処世にすぎなかったとしても)、絶対に許しがたいものと思ったに違いない。

なにごともなかったように人々が取り澄まして日常をやり過ごしている生き方に対して、心の拠り所を失った追放者=弟はひたすら苛立ち、真っ黒な憎悪と怒りとを直接ぶつけるように、その「喪失」や「隠蔽の欺瞞」の有り様を思い知らせようとしたのだと思います。

それが、故郷に生きるすべての人間の生活を破壊するために弟が取った行為・かつての恋人に仕掛けた「悪意に満ちたSEX」という象徴的な行為だったのだと思います。

法廷で明かされる「真実」に畳み掛けるような弟の裏切りの証言があって、やがて刑を全うして兄が釈放される日が迫ったとき、弟は幼い自分たち兄弟を写した8ミリフィルムに出遭います。

そこには両親の愛情に包まれた何のわだかまりもない兄弟の姿が映されていて、弟は失ったものの重さに撃たれながら、とめどなく流れる涙でその場面を見つめます。

そして、この映画の核心に投げ掛けられた女ともだちの言葉
「弟の呼び掛けに、あのお兄さんは、結局、家に帰ってくるのかしら」
のあの問いに集約されていくラストシーンがあったのだと思います。

寂れた故郷で息の詰まるような諦観に絡め取られ、眼を伏せるようにして生きるしかなかった兄の怒りを無視して、煌びやかな都会で軽やかに生きる振りを続ける故郷を失った底深い苛立ちを抱えたこの弟との間に、どういう接点が有り得たでしょうか。

たぶん、弟は謝罪するために兄に呼び掛けたのではないと思います。

かつて母親の深い愛情に守られた弟が、幼い兄とその背後に広がる遠い幸せの記憶・失われた「時」に虚しく呼び掛けたのだと思う。

すべてが満たされ、許されていたその幸福な時間のなかでは、助けを求めて無邪気に差し出した弟の手は、兄の思いやりに満ちた幼いチカラでしっかりと受け止め保護してくれていました、あの時確かに結ばれていたその瞬間の一点に向かって、弟は無残な「現実」から必死になって幼い兄に呼び掛けたのだと思います。

しかし、それらの時間は、もはやすでに失われた時間にすぎません、兄弟の絆を大きく包みながらつなぎとめていた母親はすでにこの世になく、ともに故郷から追われた兄弟は、あのラストで、ふたりの間を疾走する路線バスによって、ついに「接点」をも断たれたのだと思いました。

この映画を見ながら、なんとなく「エデンの東」と比較して見ている自分に気がつきました。

あのエリア・カザン作品のテーマは、きっと弟の仕打ちによって「壊れていく兄」の姿を描いた作品だったと僕なりに理解しています。

父親の手厚い庇護の中で大切に育てられてきた兄の「理想」を、父親の愛を得られない弟は、傷つけられた怒りと僻みから、兄に醜い現実を直視させることで、彼の「理想」をずたずたに引き裂いて絶望の淵に叩き落すという過酷な物語でした。

この「ゆれる」には、「エデンの東」と通い合う部分がたくさんあります、しかし、ただひとつだけこの物語を覆う母親の存在が大きく異なっていることに、もう少しこの作品に拘っていたいような未練がましい困惑を感じました。
by sentence2307 | 2008-02-23 07:25 | 西川美和 | Comments(0)