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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:ハンフリー・ボガート( 1 )

Bogie

≪ハンフリー・ボガート(Humphrey DeForest Bogart愛称はボギー (Bogie)。≫

ハンフリー・ボガートの生年月日が1899年(または1900年)12月25日生まれという説は、悪役専門だったボギーをキリストと同じクリスマス生まれとして、実は悪人ではないと宣伝したワーナーの意図があったとか(「ボギー」の著者クリフォード・マッカーティの説)。
しかし、実際は、1899年1月23日がどうも本当の誕生日らしい。
イギリス系とオランダ系の血をひく父ベルモント・ディフォレスト・ボガートはマンハッタンの開業外科医、母モード・ハンフリーは雑誌の表紙を描くイラストレーターで,父は厳格なプレスビテリアンであり、母も同じく厳格なエピスコパリアンだった。
裕福な家庭の長男として生まれたボガートを、父親はトリニティ・スクールからマサチューセッツ州アンドーヴァーにある医学予備校フィリップス・アカデミーに入学させ、イエール大学への進学コースへ進ませるはずだったが、勉強嫌いの上に学生生活にもなじめずに1年弱で中退して18歳で海軍に入隊、第一次世界大戦に参戦する。
戦闘中の負傷が原因で上唇右端に裂傷を負い、傷が残り部分的に麻痺して喋り方が舌足らずになり、後にこれが彼のトレード・マークの一つとなるが、子供の頃の事故で負った上唇の傷をヤブ医者に下手に縫合されたのが原因だという説もある。
19歳で除隊、帰還。
20歳のとき、隣家に住んでいたブロードウェイの大プロデューサー、ウィリアム・A・ブラディに頼み込み彼の所有する劇団の事務員からニューヨーク・スタジオのステージ・マネージャーとなったが、ブラディの娘で女優のアリス・ブラディの薦めで俳優を志すようになり、22歳のとき、最初はマネージャーを務めていた地方巡業で端役ながら舞台で様々な端役を演じる(The Ruined Lady)など下積み生活を送る。
はじめは遊びのつもりだったのが、ウィリアム・A・ブラディから、俳優の方が稼げると言われ俳優転向を決意したと伝えられている。Driftingでは少し大きな役がついた。
26歳、舞台女優ヘレン・メンケン(26-27)と結婚。翌年、離婚。
27年「Baby Mine」などテニスラケットなどを抱えたロマンティックな若者役が多かったといわれる。
28歳、舞台女優メリー・フィリップスと再婚。舞台で様々な端役を演じる長い下積み生活を送る。
1930年にはニューヨークで撮影した10分の短編『Broadway's Like That』の端役で短編映画に出たが、本格デビューは、20世紀フォックスのスカウトの目にとまり、ハリウッドへ行ってからで、スクリーン・テストに合格して『哄笑の世界』(1930)で本格的な映画デビューを果たすものの、なかなか人気が出ずに映画と舞台を行き来する生活を送る。
その間の出演作は「河上の別荘」(1930) 「肉と霊」(1931) 「Bad Sister」 (1931) 「各国の女」(1931) 「モダーン西部王」け(1931)など週400ドルの契約で6本の映画に出演したが、これといった役が付かず、31年ニューヨークへ舞い戻った。
しかし、ブロードウェイも不況で「After All」のあと役がなく、ハリウッドでコロムビア映画に一本、ワーナー映画に二本出演してからふただび、ニューヨークへ。
四つの舞台をつとめ、映画「Midnight」 (1934)にも出演した、1932年、「Love Affair」で初の主役。その他「Big City Blues」 (1932) 「舗道の三人女」(1932) 「Midnight」 (1934)などに出演した。
1934年、舞台Invitation to a Murder を見た演劇プロデュサーのアーサー・ホプキンスが、彼の次回作「化石の森」に起用した。
作者のロバートシャーウッドも、ボギー自身でさえも、ギャング役など不似合いと思っていたのだが、ぴったりのはまり役だった。
冷酷無比の脱獄殺人犯デューク・マンテー役の好演によって彼のキャリアは上向きになり、36年に映画化の話が持ち上がると、スタジオはマンティ役にエドワード・G・ロビンソンを起用しようとしたが、舞台で共演したレスリー・ハワードの推薦によってボガートが起用される。
ボガートはハワードとベディ・デイビスを相手に強烈な演技を披露して高い注目を集めて、同年にはワーナー・ブラザーズ社との専属契約を勝ち取る。
かくて、ワーナーと契約し、ギャング俳優ハンフリー・ボガートの誕生となったが、1941年の「ハイ・シエラ」までは、主役級ではなかった。
1937年メリー・フィリップスと離婚(1928-37)。
「札付き女」(1937)で共演したメイヨ・メソッドと3度目の結婚。
「化石の森」と、サミュエル・ゴールドウィン社に貸し出されて出演した「デッド・エンド」(1937)は大きな成功を収めるものの、ワーナーはボガートを悪役専門の俳優として使い、「汚れた顔の天使」(1938)、「彼奴(きゃつ)は顔役だ!」(1939)、「愛の勝利」(1939)など5年間に28本の映画で主にハードボイルドなギャング・スターとして人気を得る。
その出演作は、「化石の森」(1936)、「弾丸か投票か!」(1936)、「Two Against the World」(1936年)、「太平洋横断機」(1936) 「Isle of Fury」 (1936) 「黒の秘密」(1937年) 「The Great O'Malley」 (1937) 「札付き女」(1937) 「倒れるまで」(1937年) 「San Quentine」 (1937) 「デッド・エンド」(1937) 「身代り花形」(1937) 「Swing Your Lady」 (1938)「 Crime School」 (1938)「 Men Are Such Fools」 (1938) 「犯罪博士」 (1938年)「Racket Busters」 (1938) 「汚れた顔の天使」(1938) 「King of the Underworld」(1939)「オクラホマ・キッド」(1939年) 「愛の勝利」(1939)「You Can't Get Away with Murder」 (1939) 「彼奴は顔役だ!」(1939年) 「The Return of Doctor」 (1939)「前科者」(1939)「ヴァジニアの血闘」(1940年) 「It All Came True」 (1940) 「ニューヨークの顔役」(1940)「夜までドライブ」(1940)である。
1941年には出演を断ったジョージ・ラフトに代わって主演に起用された「ハイ・シェラ」(ラオール・ウォルシュ監督、共演アイダ・ルピノ)の脱獄殺人犯役ロイ・アール役と、「The Wagons Roll at Night」 (1941)を経て、ダシール・ハメット原作の「マルタの鷹」(ジョン・ヒューストン監督、共演メアリー・アスター、ピーター・ローレ)での私立探偵サム・スペード役に大抜擢され、興行的にも成功したこの二本の犯罪映画での好演によって観客に強烈な印象を与え、一躍ワーナーのトップ・スターに踊り出てハードボイルド・スターとしての地位を確立する。
「マルタの鷹」は、「ハイ・シエラ」の脚本家だったヒューストンの監督第1作で、ダシール・ハメットのハードボイルド映画の伝説的な作品だが、これも他のスターに断られて回ってきた役だった。
ボガート扮するタフで非情な私立探偵スペードのきびきびとした行動、曲者揃いの共演者たちなど、随所に見どころ多く、原作に忠実かつ切れ味の鋭い演出も見事。
監督の父である名優ウォルター・ヒューストンが「2秒間だけ」特別出演している。
「All Through the Night」 (1942)と「The Big Shot」 (1942) 「Across the Pacific」 (1942)のあと、42年メロドラマの傑作「カサブランカ」(マイケル・カーティス監督。共演イングリッド・バーグマン)に出演する。
昔の恋人と出会う酒場の経営者リックを哀愁漂う演技で演じ1943年度の初のアカデミー賞主演男優賞にノミネートされて大ブレークし、一躍マネー・メイキング・スターの仲間入りをはたした。
作品は同作品賞を受賞。“Here's looking at you, kid.”「君の瞳に乾杯」は有名なせりふ。当時第二次世界大戦において劣勢であったアメリカ国民を鼓舞し、同時に反ドイツ勢力の1つであった自由フランスへの支援を呼びかけるための国策プロパガンダ映画であるが、ハリウッド映画らしい粋な味わいから国民的な人気を博しボガードの代表作の一つとなった。
1940年代~1950年代を代表する名俳優として、ボガートは、この作品とともに、以後時代の象徴的存在に挙げられる。
「北大西洋」(1943) 「Thank Your Lucky Stars」 (1943) 「サハラ戦車隊」(1943) 「渡洋爆撃隊」(1944)のあと、44年、アーネスト・ヘミングウェイ原作「持つと持たぬと」を「カサブランカ」もどきに大改変した冒険ドラマ「脱出」(ハワード・ホークス監督、共演ローレン・バコール)では再び「カサブランカ」的な役を演じた。
監督のハワード・ホークスが共演者として抜擢した25歳年下の新人女優ローレン・バコールと意気投合し、前妻メイヨ・メソッドとの離婚(1938-45)が成立した45年に4度目の結婚した。
24歳年下ではあったが同じニューヨーク生まれのバコールとの息の合ったコンビぶりは観客に好評を持って迎えられ、映画のヒットに気を良くしたスタジオは「三つ数えろ」(1946)、「潜行者」(1947)、「キー・ラーゴ」(1948)でも二人を共演させる。
「追求」(1945)のあと、ハワード・ホークス監督の「三つ数えろ」(46、共演ローレン・バコール)は、レイモンド・チャンドラーの初の長編ハードボイルド小説「大いなる眠り」の映画化。
邦題はクライマックスのセリフからつけられた。
1946年版とは別にローレン・バコールとの絡みを追加した1947年版がある。
その他の作品には、「Two Guys from Milwaukee」 (1946) 「大いなる別れ」(1947) 「第二の妻」(1947) 「潜行者」(1947) 「Always Together」 (1948) がある。
1947年には独立プロダクション「サンタナ・ピクチャーズ」を設立。サンタナは所有するヨットの名前。早川雪舟と共演した「東京ジョー」(1949)やニコラス・レイ監督の「暗黒への転落」(1949)など5作品をプロデュースした。
同年、長男スティーブン誕生。
俳優としても「黄金」(1948)や「孤独な場所で」(1950)に出演して、クールでタフなイメージを売りに安定した人気を獲得した。
その他の作品には、「Chain Lightning」(1950) 「脅迫者」(1951) 「モロッコ慕情」(1951)がある。
ジョン・ヒューストン監督の「黄金」(1948、共演ウォルター・ヒューストン)は、覆面作家B・トレイヴンの小説「シエラ・マドレの黄金」の映画化。メキシコ奥地での財宝探しの末に仲間割れしていく男達の末路を描いたシリアスな作品で、ボガートは演技派としての実力を発揮した。アカデミー賞に多数ノミネートされ、監督賞(ジョン・ヒューストン)・助演男優賞(ウォルター・ヒューストン)を父子で受賞した。
おなじくジョン・ヒューストン監督「キー・ラーゴ」(1948、共演ローレン・バコール、エドワード・G・ロビンソン、ライオネル・バリモア)は、マックスウェル・アンダーソンの舞台劇の映画化。ハリケーンに見舞われたフロリダの小さなホテルを舞台に、退役軍人がギャングの大親分一味と対峙するサスペンス。寡黙なボガートを、共演のベテランであるロビンソンが喰ってしまった印象。ベティ・バコールとは最後の共演作で、ボガートにとっての最後のワーナー作品ともなった。アル中の元歌手を演じたクレア・トレヴァーがアカデミー賞助演女優賞受賞。
ニコラス・レイ監督「孤独な場所で」(1950、共演グロリア・グレアム)は、ボガートが自らのプロダクション「サンタナ・プロ」でプロデュースした異色のフィルム・ノワール。ボガートは現代で言う「ボーダー」型の異常な性格を持つシナリオライターに扮した。
製作当時はヒットしなかったが、近年、ニコラス・レイへの再評価に伴って、フィルム・ノワールのジャンルにおける重要な作品として扱われるようになっている。
なお共演者のグレアムはレイ監督の当時の妻だったが既に別居中で、映画完成後に離婚している。
1940年代末期から1950年代初頭にかけて製作されたサンタナ・プロ作品は、本作に限らず興行的に失敗に終ったものが多かった。
1940年代末期からのハリウッドにおける赤狩りに際して、ボガートやヒューストンは左翼ではなかったが、自由主義の立場から批判的態度を取った。
しかし名声ある彼らとてマッカーシー旋風には抗しきれず、ボガートは政治的発言を控えるようになり、ヒューストンはイギリスに活動の場を移す。
「アフリカの女王」はC・S・フォレスターの冒険小説の映画化で、イギリスで製作された。難行苦行のアフリカ・ロケは、狩猟に熱中したヒューストンの脱線行動など数々の伝説を残す。
ボガートは大女優キャサリン・ヘプバーンと共に、びしょ濡れ、泥まみれになりながらドイツ軍砲艦に戦いを挑むカップルを熱演し、コメディのセンスがあることも披露した。アクション映像や、アフリカの風景を捉えたカラー撮影なども好評で、ヒット作となった。おんぼろランチ「アフリカの女王」号の酔いどれ船長役で、ボガートは1951年のアカデミー賞主演男優賞を受賞している。ボガートとヒューストンは、ロケ地で酒ばかり飲んでおり、すべて酔ったまま演じ、演出されたといわれる。
52歳、長女レスリー誕生。スターとしてブレークした「化石の森」で世話になった主演女優レスリー・ハワードへの感謝の気持ちから命名。
「デッドライン~U.S.A.」(1952)と 「Battle Circus」 (1953)のあと、撮られたジョン・ヒューストン監督「悪魔をやっつけろ」(1953、共演ジーナ・ロロブリジータ)は、ヨーロッパとアフリカにまたがる巨大な密輸組織の悪行を、命を掛けて暴き出すハードボイルド・アクション・スリラー。米国においてもパブリックドメインとなった。
1954年の「ケイン号の叛乱」では、精神に異常をきたした船長という難しい役どころを見事に演じて再びアカデミー賞にノミネートされた。エドワード・ドミトリク監督。共演ホセ・フェラー、フレッド・マクマレイ。米海軍駆逐艦での指揮権剥奪事件と軍法会議を通じ、軍隊の病巣を描き出した重厚な社会派大作。演技派としてのボガートの代表作。
翌1955年にはウィリアム・ワイラー監督と組んで「必死の逃亡者」に出演して、凶悪な逃亡犯を演じて演技を披露した。ボガートの脇役時代の代表作に「化石の森」1936があり、食堂に立てこもる凶悪脱獄犯デューク・マンテーに扮したボガートは、その冷酷非情な貫禄のある演技で注目された。それから約20年ぶりに、同様の役柄に扮したのが本作。「アメリカの理想的な父親」であるフレドリック・マーチを相手に、彼の家に押し入った脱獄犯たちのリーダーを演じ、悪役としてのキャリアの長さを改めて観客に示した。
「麗しのサブリナ」(1954)や「俺達は天使じゃない」(1955)などコメディ映画にも出演して幅広い役柄をこなしてゆく。ビリー・ワイルダー監督「麗しのサブリナ」(1954、共演オードリー・ヘプバーン、ウィリアム・ホールデン)は、オードリー・ヘプバーンが愛らしさを前面に出した豪奢で楽しいコメディ。ボガートとしては珍しく、中年に至って未だ独身の朴念仁をユーモラスに演じた。ワイルダーとホールデンは「サンセット大通り」での初顔合わせ以来、たいへん気が合い、オードリーも彼ら寄りだったので、硬派なボガートにとっては彼らと反りが合わず、ますます不機嫌だったという。
ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の「裸足の伯爵夫人」(1954) は、エヴァ・ガードナー主演で、酒場のダンサーから大女優に、そして伯爵夫人になった女の波乱の半生を描いたメロドラマの佳作。脚本家出身の才人マンキーウィッツ監督らしいユニークな作品である。ボガートはガードナーを見出した映画監督に扮して狂言回しとなり、ナレーションも務めた。ボガート最後のトレンチコート着用映画でもあった。
54年には再びマンティ役を演じたテレビ・ドラマ「化石の森」でバコールと最後の共演を果たした。「俺たちは天使じゃない」(1955) 「The Left Hand of God」 (1955) 「必死の逃亡者」(1955)のあと、遺作となったサスペンス映画「殴られる男」(56)ではスポーツ記者を演じ、これが最後の出演作となる。撮影終了後痛みを伴う激しい咳に襲われ、検査の結果食道ガンと診断される。
バコールと5度目の映画共演作「将軍ベッドに死す」の準備中に咽喉ガンで入院、闘病生活の末に1957年1月14日(享年57歳) 帰らぬ人となる。1999年にAFIが発表した「アメリカ映画スターベスト100」では男優の1位に輝いている。「女優のモンロー、男優のボガート」といわれるくらいのハリウッド・スターのシンボル的存在である。晩年に過ごした住居は、 ハリウッド、ホーンビィ・ヒルズ(Holmby Hills)にあった。墓所は、Forest Lawn (Glendale), Glendale, California, USA. Garden of Memory, Columbarium of Eternal Light, to the left of the statue.(ウォルト・ディズニー、サミー・デイヴィスJr.も同じ墓地。)
パロディ作品としては、
「ボギー! 俺も男だ」(1973年) ウッディ・アレン脚本・主演の、ボガートへのオマージュに満ちたコメディ映画。原題 「Play It Again, Sam」 は「カサブランカ」が由来なのだが、厳密にはボガートはもちろん作中誰もこの台詞は口にしていない。
「ハリウッドに別れを」(1975年) アンドリュー・バーグマン作の探偵小説。1950年代のハリウッドが舞台になっており、ボガートが主人公の私立探偵を助ける役回りで登場する。
「ラスト・アクション・ヒーロー』 一瞬だけ登場する。セリフは無い。
がある。
by sentence2307 | 2008-04-19 07:59 | ハンフリー・ボガート | Comments(5)