世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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間宮兄弟の臨界

週末、会社の廊下で顔なじみの同僚とすれ違うときなど、軽い挨拶代わりに交わす言葉は、きまって「今年は、もう2回も雪が降ったのに、この4日もまた、ものすごい寒波がくるんだってさ」でした、「また大雪か」というウンザリした思いをみんなが持っていて、その危惧(やれやれ)を何度も確認しあったような気がします。

僅かの降雪でも電車のダイヤは大幅に乱れ、遅れ遅れの通勤電車の混雑が半端じゃなくなるので(まさに「殺人的」です)、早朝通勤を余儀なくされるサラリーマンには、ものすごい痛手です。「革靴で雪道」というのも結構苦痛で、それにまた、相当に危険ですよね。

実際に、知人の課長も雪道で転倒し、その際、前頭部を歩道の角でしたたかに強打して虎の門病院に救急搬送され、脳内出血を起こしてないかと大仰な精密検査をいくつも受けさせられたそうで(結果的に無事でしたが)、後日、本人からそのときのリアルな話を聞きました。

それによると、前を歩く若い女性がスマホの操作に夢中になりながら歩道の真ん中をノロノロと歩いているのに業を煮やした彼は、(いつも早めに出勤しているので、その朝も別段、急ぐ必要など少しもなくて、ただ単に彼女の「スマホでノロノロ」に苛立っただけだったそうで)傍らを追い抜こうとして、その際に歩道の端を踏み外して転倒したということですが、本人は「通勤労災で、結局治療費はタダ、そのうえ会社も1日堂々と休めたし、なんだかトクした気分だよ」なんて呑気に話しながら、冗談まじりに、彼が苛立って追い抜こうとした彼女は、目の前で転倒した自分を一瞬チラ見しただけで、またスマホに夢中になって、なにごともなく倒れ込んでいる自分を無表情のまま跨いで歩み去ったというのです、考えてみれば、それってゾッとする薄気味悪いシチュエーションですが(彼女にとっては、リアルに転倒している自分も結局はスマホ画面に写っている一風景にすぎなかった、みたいな)、そのへんを彼は面白可笑しく、尾ひれを付けて語っていました。

まあ、冗談はともかく、「頭部強打は洒落にならないよ、もしあれがオオゴトになっていたら、極端な話、オタクも家庭崩壊だぞ」と脅かしてやりました。

自分などは、踵に滑り止めの金具がついている雪道専用の靴をアイスバーンに突き立てながら小幅で恐る恐る歩くようにしているので、転倒リスクは、それなりに防いでいるつもりですが、それでも気を付けるに越したことはないと、さらに用心をしているくらいです。

こんなふうに語られる「三度目の大雪」の恐怖に相槌を打ちながら、そうか、誰もが、まだまだ今の寒さがこれから先もずっと続いて、温かくなるなんて考えられないくらい相当に先の話だと思っているらしいことを実感しますが、しかし、実は自分的には、ちょっと違う感覚もあります。

早朝は依然として寒いし、寝床の温もりを断って思い切って起き出すには、少しばかりの時間と決意が必要なことはまだまだ変わりませんが、それでも起きたとき、以前は真っ暗だった外が、最近は薄っすらと明るんできました。明るくなってくると、それなりになんだか温かくなってきたような気もしてきますし。

いつまでも温かい寝床に潜り込んでいたいといつも平日に思っているので、その快楽を十分に実現できるはずの土曜日なのに、いざ目が覚めて寝床の温もりの中にいるのに、そのまま横になっていられません、そうしていられるのはせいぜい10分がいいところで、どうしても起き出してしまうのです、ヒラのサラリーマンの悲しいサガだとお笑いください。

仕方なく、まるでイモ虫のようにもぞもぞと起き出して、パソコンのスイッチをonにするのが土曜日のいつもの日課です。

実は、この映画ブログ、こんなふうに土曜日の早朝に週イチペースで書き継いできたので(もちろん、書くことに失敗する土曜日というのも当然あります)、早朝の気温とか明るさ・暗さには人一倍敏感で関心もあって、そういう意味では微妙な季節の移り変わりにはそれなりに反応できていると自負しています。

さて、今日はどんな作品を書こうかと、今週見た作品のメモを眺めました。

いちばん重厚な作品といえば、マーチン・サントフリート監督の「ヒトラーの忘れもの」です、ドイツが敗戦した直後、デンマークでは捕虜になったドイツの少年兵たちが、現地デンマーク人のナチに対する憎悪に晒されながら、少年たちを傷みつけることだけが目的のような生還不可能な地雷除去作業(彼ら少年たちは地雷除去作業などしたことのない素人です)に従事・強制するという、この作品は、実に胸の痛くなるような憎悪の物語です、除去に失敗した少年たちは次々に地雷を暴発させて無残に命を落としていきます。

実は、少年兵たちの監視人ラスムスン軍曹とのあいだで、海岸の地雷をすべて撤去したらドイツへ帰国させるとの約束があって、それを唯一の希望として死の恐怖に身を晒しながら、必死になって地雷除去作業に従事し、ついに約束の作業をやり遂げます。

軍曹は約束通り少年たちをドイツへの帰国の途につかせますが、軍上層部から、別の場所の、それこそ生還など絶対不可能な過酷な地雷除去命令が、さらに少年たちのうえにくだります。

そのあとのストーリーは、軍曹が軍上層部の命令に逆らって少年たちを国境まで逃がして彼らとの約束を果たすという結末で、一応ホッとさせる結末にはなっていますが、しかし、全編を通して描かれている徹底したナチに対する憎悪と報復のリアル感にくらべたら、少年兵たちを約束通りに逃すという(取ってつけたような)ほのぼのとしたラストがいかにも無力で、実際には実に多くのドイツの少年兵捕虜たちは、こんなふうに虐待され、まるでナチが犯した侵略と虐殺の罪を贖うようにして憎悪の下で殺され、報復のような死を死んでいかねばならなかった過酷で無残な事実は覆い隠しようもなく(そこには依然として、ナチの虐殺した側と、蹂躙された被侵略国の側の事実とが厳然として存在しているわけですから)、この映画のラストで唐突に孤立した空々しい絵空事を見せられても、苦苦しい思いは払拭できず、言葉をつなげていくという困難と過酷に耐えられずに、結局はこの「ヒトラーの忘れもの」の感想を書くことは諦めました。

普段なら「憎悪」であろうと、「侮蔑」であろうと、そういう負の感情に対しても、それなりに距離を取って客観的に強引に書き伏せてしまうことができると思っていたのに、今日のところは駄目でした、このような憎悪の物語に耐えられないくらい、自分の気持ちも少し弱っていたのかもしれません。

ほかに気にかかった作品が2本ありました。

御法川修監督作品「世界はときどき美しい」(2006)と 森田芳光監督の「間宮兄弟」(2006)です、ともに2006年作品ですか、なんだか偶然ですが。

御法川修監督作品「世界はときどき美しい」は、5本のストーリーからなっているオムニバス映画です。

この5作品に共通して描かれているものは、おそらく、この社会や、そして他人にどうしても馴染めず、折り合いがつかず、打ち解けることもできない孤絶とか孤独感です。

なかでも、柄本明がアル中の中年男・蝿男を演じた第二作「バーフライ」にものすごく心惹かれました。

別にこれといったストーリーがあるわけではなく、日夜酒浸りの中年男の日常(これでもか、これでもかと酒を飲み続ける日々をコミカルに追っています)を終始男自身の愚痴とも悔恨ともつかないつぶやきをモノローグ風に綴るという、とてつもなくシンプルで、世間の嘲笑に煽られ追い立てられながら破滅の極限に踏み込もうとするやけっぱちの自傷行為が、ひた向きなだけに妙にピュアで、見るものを打つ映像の力強さがありました。それを痛ましいといってしまえば、それまでなのですが。

しかし、このもがき続けるシンプルな生き方(生きることの原初的な姿)について、なにをいまさら語り得るものあるだろうかという思いは確かにあります。

自分が、多くのアル中を扱った独特の映画群のどれにも、ある種の神聖さを感じてしまうのは、それが下降的に生き方にすぎなくとも、そのピュアな「ひたむきな姿」に惹かれるからに違いありません。

しかし、こうして「なにをいまさら語り得るものあるだろう」などという壁に突き当たってしまったら、もうそこから先には進めません。

そして、次に見たのが森田芳光監督の「間宮兄弟」(たぶん初見です)でした、この作品の全編にわたる優しさと、そして、ひとつのシーンに堪らなく感応するものがありました。この感応は、「ヒトラーの忘れもの」を見た後で、すっかりすさんでしまった自分の気持ちの落ち込みを抱えて見たことと無縁のものではありません。

そのことについて書きますね。


兄・明信の同僚大垣賢太夫妻の離婚騒動で、妻のさおりに惹かれた弟・徹信が、同情と関心半々から、自分の気持ちを伝えようと離婚後の彼女に会いにいくシーンで、弟・徹信は自分の気持ちをあれこれの品物(贈り物)で伝えようとして(その幼さが、かえって、痛手を負った女性の勘には堪らない無神経さとして苛立ちと怒りをかい)、手ひどく撥ねつけられる場面です。

撥ねつけるさおりの言葉の辛辣さに弟・徹信は傷つきます。

その場面をちょっと再現してみますね。

さおりの関心をかおうとして、いくつもの贈り物を差し出す弟・徹信にさおりは言います。

「そんなもの、いただくわけにはいきませんわ。なぜ私があなたから音楽をいただかなければいけないんですか。これも全部お返しします。一曲も聞いていませんから。こういうことされるのが、いちばん傷つくんです。迷惑なんです。あなたには、ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ないと思っています。もうなにもかもやめてください。あなたもいい大人なんだから、私の言っていること、もうお分かりでしょう。もう結構ですから、帰らせてください。」

こうまで詰られても、弟・徹信はこんなふう言います。「人生はまだまだ続くし、憎しみからはなにも生まれてきませんよ」と。そんなことを言うこと自体が、彼女の言う幼さであることにも気が付かずに。

そして、弟・徹信の失恋を知った兄・明信(彼もこの直前に、直美への芽生えかけた恋心を砕かれています)は、新幹線の操車場が見下ろせる場所で「これからもふたりで一緒に暮らしていこう」と弟を励まします。

そして、次の場面、昼の小学校の校庭で作業をしている弟・徹信のもとに直美の妹・夕美が現れます。そして、いつも一緒にいた恋人が勉強のためパリに旅立ってしまったことを徹信に告げます。

とつぜん恋人に去られたことを別段寂しそうにするでもなく、いつものように能天気にはしゃぐ夕美は、弟・徹信の失恋を聞き出し、一瞬息をのむような間があって、突然、背後からじゃれつくように抱きつきます。そして夕美は「これは違うよ、愛じゃないよ、友情の抱擁だからね」と囁きかけます。

不意に恋人に去られた女が空虚な気持ちを持て余しているとき、子供っぽいと相手に撥ねつけられた男の孤独に感応して思わず抱き締めずにいられなかった切なく実に優しさに満ちた場面でした。

そしてまた、ふたりのあいだに漂う孤独と遣り切れなさを静かなスローモーションでとらえたこの場面自体が、観客に深い思い入れを許す優しさと美しさ深く打たれました。

北川景子、その率直であけっぴろげな優しさが役柄とシチュエーションにぴったり嵌まり、優しさがじかに伝わってきたいい感じの演技でした。


世界はときどき美しい(2006)
監督脚本・御法川修、製作・棚橋淳一、中島仁、長田安正、プロデューサー・西健二郎、撮影・芦澤明子、録音・森英司、音響・高木創、衣装・宮本まさ江、ヘアメイク・小沼みどり、音楽監修・大木雄高、サウンドトラック盤・オーマガトキ (新星堂)、製作=「世界はときどき美しい」製作委員会、主題歌・鈴木慶江 「月に寄せる歌」〜歌劇「ルサルカ」より(EMIクラシックス)、Life can be so wonderful
第1話・世界はときどき美しい、松田美由紀(野枝)
第2話・バーフライ、柄本明(蝿男)、遠山景織子(スナックのべっぴんママ)、尾美としのり(スナックの酔客)、安田蓮(ハナタレ小僧)、川名正博(バーのマスター)、戸辺俊介(バーテンダー)、時任歩(仕事帰りのホステス)、
第3話・彼女の好きな孤独、片山瞳(まゆみ)、瀬川亮(邦郎)、
第4話・スナフキン リバティ、松田龍平(柊一)、浅見れいな(朋子)、あがた森魚(野辺山教授)、桑代貴明(幼い頃の柊一)、
第5話・生きるためのいくつかの理由、市川実日子(花乃子)、木野花(静江・花乃子の母)、草野康太(大輔・花乃子の兄)、南加絵(カフェの店員)、鈴木美妃(花乃子の友人)、


間宮兄弟(2006)監督・森田芳光、プロデュース・豊島雅郎、エグゼクティブプロデューサー・椎名保、プロデューサー・柘植靖司、三沢和子、原作・江國香織『間宮兄弟』(小学館刊)、脚本・森田芳光、撮影・高瀬比呂志、美術・山崎秀満、衣裳・宮本まさ江、編集・田中愼二、音響効果・伊藤進一、音楽・大島ミチル、主題歌・RIP SLYME『Hey,Brother』、照明・渡邊孝一、装飾・湯澤幸夫、録音・高野泰雄、助監督、杉山泰一
出演・佐々木蔵之介(兄・間宮明信)、塚地武雅(ドランクドラゴン)(弟・間宮徹信)、常盤貴子(葛原依子)、沢尻エリカ(姉・本間直美)、北川景子(妹・本間夕美)、戸田菜穂(大垣さおり)、岩崎ひろみ(安西美代子)、佐藤隆太(浩太)、横田鉄平(玉木)、佐藤恒治(中華料理店のおじちゃん)、桂憲一(犬上先生)、広田レオナ(薬屋のおばちゃん)、加藤治子(お婆ちゃん)、鈴木拓(ドランクドラゴン)(ビデオショップの男)、高嶋政宏(大垣賢太)、中島みゆき(間宮順子)、




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by sentence2307 | 2018-02-03 16:23 | 映画 | Comments(0)

伊豆の娘たち

数年前、「神保町シアター」で、特別企画として終戦直後に封切りされた作品ばかりを集めて上映するという企画がありました。

実に素晴らしい企画で、その貴重な機会を逃さないように無理やり仕事を算段して出来るだけ見に行こうと焦りまくっていたことを最近しばしば思い出すことがあります、残念ながら「日参」とまではいきませんでしたが。

あれから少し時間がたってしまい、だいぶ記憶も薄れてきたのですが、おりに触れて、そのときの苦労や、そこで見た幾つかの作品のことを懐かしく思い出しています。

しかし、いまとなっては、その作品を「神保町シアター」で見たのだったか、「フィルムセンター」で見たのか、いや、それとも、もっとべつの映画館で見たのだったか、記憶が錯綜してだんだんあやしくなってきました。

しかし、なんだってそんなことが気になるのかといえば、自分にとって「むかし見た映画」(記憶の中にあっては、昨日も10年前もみんな「むかし」です)というのが、ただ単に「作品」それ自体の記憶というのではなくて、その作品を見た場所というのが、記憶の重要な属性になっているからだと思います。

作品自体を覚えてさえいれば、それだけで十分じゃないかと言われてしまいそうですが、自分にとって「映画の記憶」とは、それを見た映画館と一体のものとして格納されています。

小津監督や溝口監督の諸作品は、すべて銀座の並木座で見ましたし、大島渚作品「少年」や吉田喜重作品「戒厳令」など、当時の時代の先端を行く尖鋭で重厚な作品は、ことごとく池袋の文芸地下で出会いました。ロベール・アンリコの「冒険者たち」の底抜けの悲しい明るさや、ゼフレッリの「ロミオとジュリエット」の宿命的な死の輝きと美しさに圧倒されたのは、神楽坂の「佳作座」でした。「keiko」や「不良少年」「絞首刑」を寒々しい場末の映画館で見ていなければ、こんなにも映像に打ちのめさ、その衝撃を衝撃として感受できなかったかもしれません。

映画を求めて東京の薄汚い繁華街の闇をさまよった先の映画館の思い出がなければ(さらには、「誰と見たか」とか、その時の「気分=失恋とかね」が再現できなければ)、きっと「映画の記憶」をこんなにも燦然と輝かせることも、自分のものにすることも叶わなかったに違いありません。

思い出していくうちに、たまらなくなって「神保町シアター」のホームページからその企画を検索して確認したくなりました。
ありました、ありました。

「◆戦後70年特別企画 1945-1946年の映画」、これですね。具体的には、1945年8月15日から1946年末までの間に封切られた映画、とあります。

なるほど、なるほど。

上映作品は、以下の通りです。

1.『歌へ!太陽』 昭和20年 白黒 監督:阿部豊 出演:榎本健一、轟夕起子、灰田勝彦、川田義雄、竹久千惠子
2.『グランドショウ1946年』 昭和21年 白黒 監督:マキノ正博 出演:高峰三枝子、森川信、水ノ江瀧子、杉狂児、三浦光子
3.『そよかぜ』 昭和20年 白黒 監督:佐々木康 出演:並木路子、上原謙、佐野周二、齋藤達雄、若水絹子
4.『はたちの青春』 昭和21年 白黒 監督:佐々木康 出演:河村黎吉、幾野道子、大坂志郎、高橋豊子、坂本武
5.『わが恋せし乙女』 昭和21年 白黒 監督:木下惠介 出演:原保美、井川邦子、増田順二、東山千栄子、勝見庸太郎 *16mm上映
6.『伊豆の娘たち』 昭和20年 白黒 監督:五所平之助 出演:三浦光子、佐分利信、河村黎吉、桑野通子、四元百々生、飯田蝶子、笠智衆
7.『お光の縁談』 昭和21年 白黒 監督:池田忠雄、中村登 出演:水戸光子、佐野周二、河村黎吉、坂本武、久慈行子
8.『大曾根家の朝』 昭和21年 白黒 監督:木下惠介 出演:杉村春子、三浦光子、小沢栄太郎、賀原夏子、長尾敏之助 *16mm上映
9.『国定忠治』 昭和21年 白黒 監督:松田定次 出演:阪東妻三郎、羅門光三郎、尾上菊太郎、飯塚敏子、香川良介
10.『狐の呉れた赤ん坊』 昭和20年 白黒 監督:丸根賛太郎 出演:阪東妻三郎、阿部九州男、橘公子、羅門光三郎、寺島貢、谷譲二
11.『東京五人男』 昭和20年 白黒 監督:齊藤寅次郎 出演:古川緑波、横山エンタツ、花菱アチャコ、石田一松、柳家權太樓
12.『へうたんから出た駒』 昭和21年 白黒 監督:千葉泰樹 出演:見明凡太郎、潮万太郎、岩田芳枝、浦辺粂子、逢初夢子
13.『或る夜の殿様』 昭和21年 白黒 監督:衣笠貞之助 出演:長谷川一夫、山田五十鈴、高峰秀子、飯田蝶子、吉川満子、志村喬、大河内傳次郎
14.『歌麿をめぐる五人の女』 昭和21年 白黒 監督:溝口健二 出演:坂東簑助、坂東好太郎、髙松錦之助、田中絹代、川崎弘子
15.『浦島太郎の後裔』 昭和21年 白黒 監督:成瀨巳喜男 出演:藤田進、高峰秀子、中村伸郎、山根壽子、管井一郎
16.『人生とんぼ返り』 昭和21年 白黒 監督:今井正 出演:榎本健一、入江たか子、清水将夫、河野糸子、江見渉

◆巨匠たちが描いた戦争の傷跡
終戦間もない時期に公開された巨匠たちの戦争の傷跡を色濃く映し出した作品
17.『長屋紳士録』 昭和22年 白黒 監督:小津安二郎 出演:飯田蝶子、青木放屁、河村黎吉、吉川満子、坂本武、笠智衆、殿山泰司
18.『風の中の牝鶏』 昭和23年 白黒 監督:小津安二郎 出演:田中絹代、佐野周二、村田知英子、笠智衆、坂本武
19.『夜の女たち』 昭和23年 白黒 監督:溝口健二 出演:田中絹代、高杉早苗、角田富江、浦辺粂子、毛利菊江
20.『蜂の巣の子供たち』 昭和23年 白黒 監督:清水宏 出演:島村俊作、夏木雅子、久保田晋一郎、岩本豊、三原弘之

そして、解説には、こうあります。
《戦争で焼失した映画館は全国で500館を数え、一方、空襲を免れ残った映画館は、終戦の日から一週間だけ休館し、営業を再開したといいます。その後、焼け跡にはバラックの映画館まで出現し、マッカーサーが日本に降り立ったまさに1945年8月30日同日、終戦後初の封切作品『伊豆の娘たち』(1945.08.30 松竹大船 五所平之助)『花婿太閤記』(1945.08.30 大映京都 丸根賛太郎)の二本が公開されたのです。
終戦直後、映画会社や映画館の人々の情熱によって届けられた映画は、戦災の中で生き抜こうとする人々の希望の光になったと、信じてやみません。今回は、日本が復興に向けて歩み出した1945年8月15日から翌年末までにGHQの厳しい検閲を通過し公開された、知られざる映画たちを回顧します。》

解説を読んでいくうちに、「伊豆の娘たち」の長女・静子(映画の中では「静江」ですが)の揺れる娘心を健気で繊細に演じた三浦光子の演技(清潔感と妖艶さが矛盾なくひとつのものであること)に衝撃を受けたことを鮮明に思い出しました。

脇を固める役者もこれまた実に素晴らしく、河村黎吉や桑野通子や東野英治郎や飯田蝶子らが、畳みかけるように生き生きと掛け合いを演じていくシーンは、まるで心地よい映画の波動にいつまでも身を委ねていられるような快感さえ感じられました。

いろいろな解説書のいたるところで、かならずといっていいほど「戦時中にもかかわらず」という文言を見かけますが、そんな思い込みが無意味に思われるほど、この映画には独自の映画的な固有のリズムがあって、「戦時色」などという末梢的な粗さがしなど排除してしまう力強さと気高ささえ感じることができました。

(1945松竹大船撮影所)演出・五所平之助、脚本・池田忠雄、武井韶平、撮影・生方敏夫、西川享
配役・河村黎吉(杉山文吉)、三浦光子(長女・静子)、四元百々生(次女・たみ子)、桑野通子(叔母・きん)、佐分利信(宮内清)、東野英治郎(村上徳次郎)、飯田蝶子(しげ)、笠智衆(織田部長)、忍節子(夫人)、柴田トシ子(娘雪子)、坂本武(宗徳寺の和尚)、出雲八重子(おたけ婆さん)、
1945.08.30 紅系 8巻 2,018m 74分 白黒



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by sentence2307 | 2018-01-28 09:54 | 映画 | Comments(0)
年末のBSで、朝から黒澤明の主要作品を一挙放送していました。

まず最初に放映された作品が、「七人の侍」。

どっこいしょとばかりテレビの前に陣取った当初は、すべての作品を見るつもりの意気込みだったのですが、実際に「七人の侍」を見はじめたとき、こんなふうにこれからさき何作も立て続けに重厚な黒澤作品を見ることができるのかと、なんだか自信がなくなってきました、というか、むしろ疑問が湧いてきたというべきかもしれません。

それは、まず、実際問題として、黒澤明の重厚な作品群を、集中力を途切らさずに何時間も見る気力が自分にあろうとは思えないことと、そんなふうにしてまで見ることにどのような意味も価値もあるのかと疑問に思えてきたからだと思います。

結局は、「七人の侍」だけを見て、案の定集中力を使い果たし、相当に疲れ、そのあと終日、この超弩級の名作の余韻に浸りながら過ごしました、他の作品を見逃したことの後悔などいささかもなく、むしろやり過ごした方が良かったくらいだと、心地よい疲労感に満たされながら、その残念な見逃しを自分自身納得さえしたのでした。

もっとも、黒澤作品は放映されるたびに几帳面に録画しているので、同じ作品のストックなら何本もあります、とくに記録とかはしてはいませんが。

黒澤作品に限らず、未見の作品となれば、(すぐに見るかどうかはともかく)極力録画する方針なので、空きスペースを無駄に遊ばせておかず、即有効活用することを心がけていますので、厳格な空きスペース管理は欠かせません(まるでこれじゃあアパートの空き部屋を必死で埋めるために管理に苦慮する不動産屋状態です)、緻密なタイムテーブルを作成し、それを俯瞰・駆使しながら秒数きざみまでカウントして的確にかぶせ録画しているのですが、黒澤作品だけは例外として消去せずに(また、できるわがありませんが)永久欠番状態にしています。

つまり、最初から消去するつもりなど全然ないのですから、当然管理とかも必要なく、黒澤作品は録りっぱなしの野放し状態の溜まる一方、ですので、これといった「記録」もしていないというわけです。

この治外法権的な監督作品といえば、ほかに小津作品、溝口作品、成瀬作品があり、こんな感じなので、将来のいつの日にか、自分の録画ストックはすべて、黒澤作品と小津作品と溝口作品と成瀬作品とに(他の作品を凌駕して)入れ替わってしまうかもしれません。

「七人の侍」を見た後に「晩春」を見て、さて、次は「東京物語」でも見るかと探したとき、たまたま手にしたのが「浮雲」で、高峰秀子いいよなゼッテエ~、などと呟きながら、両の手には次に見る「宗方姉妹」と「雨月物語」を握りしめ、足先で手繰り寄せたのは別に録画した「七人の侍」で、おっと、確かこれはさっき見たぞなどと呟いては退け、さらに「めし」と「生きる」を足先でモゾモゾと探し当てては確保し、さらに「用心棒」も小脇に抱え、そのとき一緒に手繰り寄せた1本の作品名を確認しなかったことを思いだして、いったいこれはなんじゃらほいと見直せば、なんと「にごりえ」じゃないですかと驚き、思わず「お~い、今井正もストックしとかなきゃダメじゃないか」と誰もいない部屋で架空の相手を叱りつけ、すぐに「はいはい」などと自分で答えてあやまり、すごすごと「永久欠番棚」(あんのか、そんなもの)にあわてて今井作品コーナーをこさえたりなんかするという、これってなんとも幸せな映画オタクの白昼夢の極地であって、自分の周囲にはすべてこれ「七人の侍」で埋め尽くされ、ひとりその恍惚郷にどっぷりと浸り込み、思わずクックックと湧き上がる哄笑を必死に抑えながら肩を震わせたりしています、あぶねぇ~。

冗談はさておき(冗談にするな、この野郎)、今回「七人の侍」を見て、感じたことを書いておこうと思います。

野武士に刈り入れ時期をねらわれ、そのたびに収穫したコメと村の女を強奪されて、これでは、もはや生きていくことなどとてもできないと悲嘆して困窮したとき、村の長老が、自衛のために食い詰めた侍を雇うこと、つまり、野武士と戦うことを提案します。

いままで野武士にされるがままになって耐え忍ぶだけだった無力な百姓にとって、野武士に刃向かうというのは、それだけでも価値観を根底からひっくり返すほどのとんでもないアイデアだったはずで、さらに、その手立てとして「侍を雇う」というのですから、それはもう驚天動地の(そんなことができるのかという)秘策中の秘策だったと思います。

しかし、この「食うだけは保証する」という最低限の条件は、もしかすると百姓たちを苦しめている野武士たちと同じような低劣悪逆な武士をさらに呼び寄せかねない恐れとリスクを伴うと同時に(妙齢の娘を持つ万造の不安は、まさにこの点にありました)、逆に、出世や功名とも無縁なこの死闘に命を懸ける条件が、とんでもなく素朴で無欲だからこそ、それに呼応するような清浄で無垢な侍たちをも引き寄せることができたことにつながり、この卓越したシチュエーションにはいつもながら感心させられます。考え抜かれた実に見事なシナリオです。

百姓が侍を雇って野武士を撃退するなど、本当にできるのかと疑心暗鬼の思いを抱く百姓たちは、それでも恐る恐る街にでて侍探しをはじめますが、もとより、戦いの報償が、ただの「食うだけは保証する」というだけなので、それだけでは当然、思うように侍を集めることができず、落胆した利吉・万造・茂助たちは、そろそろ村へ帰ろうと悲観にくれます。

そして、それから七人の侍がひとりひとり選ばれていくという前半のサムライ・リクルートの場面に続いていくのですが、中盤の戦いに備えて武士や百姓が村の防備に奔走する緻密な描写や、後半の野武士たちとの激烈な死闘場面(最初、タカをくくっていた野武士たちが、堅牢な防備と意表を突く逆襲に驚愕して次第に必死なっていく捨て身の死闘のダイナミズムも含めて)に比べても、なんら引けを取らない、ダイナミックで丹念な描写で、実に堂々としていて、観る者を惹きつけずにはおきません。

勘兵衛と勝四郎が出会い、保留的な伏線として菊千代が絡んで、やがて五郎兵衛、七郎次、平八、久蔵と侍はそろいます。

この7人のうち勘兵衛をのぞいて(すでに観客は、五郎兵衛が勘兵衛に表明した敬意の言葉「わしは、どちらかというと、おぬしの人柄に惹かれてついて参るのでな」を共有しているので、当然「勘兵衛をのぞいて」となります)、そのもっとも印象的な出会いは、以前にも書いたことがあるのですが、自分的には、七郎次との出会いということになります。

そのシーンをちょっと再現してみますね。

勘兵衛のはずんだ大きな声。
勘兵衛「ハハハ、いいところで会った。いや、有難い」
勘兵衛と物売り姿の男(七郎次)が入ってくる。
勘兵衛「フム、貴様、生きとったのか。わしはもう、てっきりこの世には居らんと思っとったが」
七郎次、静かに笑っている。
勘兵衛「ところで、貴様、あれからどうした?」
七郎次「はア、堀の中で水草をかぶっておりました。それから夜になって・・・」
勘兵衛「フムフム」
七郎次「二の丸が焼け落ちて、頭の上に崩れてきたときには、もうこれまでだと思いましたが・・・」
勘兵衛「フム、そのとき、どんな気持ちだった?」
七郎次「別に・・・」
勘兵衛「もう合戦はいやか?」
七郎次、静かに笑っている。
勘兵衛「実はな、金にも出世にもならぬ難しい戦があるのだが、ついて来るか?」
七郎次「はア」
勘兵衛「今度こそ死ぬかもしれんぞ」
七郎次、静かに笑っている。

この会話のなかで、勘兵衛は七郎次に、「死ぬことは恐ろしくないか」と問いかけたうえで、この百姓の苦衷を救う無償の戦いに誘っています。

そして、「今度こそ死ぬかもしれんぞ」とダメを押す勘兵衛の言葉にも、七郎次は「静かな笑い」で返しています。

むかしから自分は、このときの七郎次の笑みが、どういう種類の「笑み」なのか気になって仕方ありませんでした。

聞きようによっては、随分と意地悪い勘兵衛の遠回しの誘導尋問にあがらいながらの(身分制度の位置付けられた制約の中からの)精一杯の七郎次の自己主張と見ていた時期もありました、いまから思えば随分と穿ちすぎな考えですが。

例えば、夜陰に乗じて種子島を奪ってきた久蔵に対して、勝四郎が「あなたは、素晴らしい人です。わたしは、前から、それを言いたかったんです」という言葉に、久蔵が顔をやや歪めてみせるあの笑みと二分するような傑出したシーンです。

そのときの久蔵の笑みが、「苦笑→自嘲」の範囲の中にあるものだったとしたら、「今度こそ死ぬかもしれんぞ」と問われて返した七郎次の笑みは、あきらかに

「死ぬこと」など、なにものでもないと一笑に付すサムライの豪胆さだったのだと納得しました。

まさに、これが「命も要らず名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」だったのだなあと、大河ドラマ「西郷どん」が始まろうかというこの年頭、七郎次の「笑み」というのが「あれだったんだな」と、つくづく感じ入った次第です。

しかし、その私欲を絶った高潔な豪胆さこそが、最後には、久蔵に死をもたらし、西郷隆盛をも死へと追いつめた元凶だったのだとしたら、七郎次をあの激烈な死闘から生還させたものが、ただの偶然だったのか、もう少し考えてみる必要があるのかもしれません。



《スタッフ》
製作・本木壮二郎、脚本・黒澤明・橋本忍・小国英雄、撮影・中井朝一、同助手・斎藤孝雄、照明・森茂、同助手・金子光男、美術・松山崇、同助手・村木与四郎、音楽・早坂文雄、同協力・佐藤勝、録音・矢野口文雄、同助手・上原正直、助監督・堀川弘道(チーフ)・清水勝弥、田実泰良、金子敏、廣澤栄、音響効果・三縄一郎、記録・野上照代、編集・岩下広一、スチール・副田正男、製作担当・根津博、製作係・島田武治、経理・浜田祐示、美術監督・前田青邨・江崎孝坪、小道具・浜村幸一、衣装・山口美江子(京都衣装)、粧髪・山田順次郎、結髪・中条みどり、演技事務・中根敏雄、剣術指導・杉野嘉男、流鏑馬指導・金子家教・遠藤茂、

《キャスト》
三船敏郎(菊千代)、志村喬(勘兵衛)、稲葉義男(五郎兵衛)、千秋実(平八)、加東大介(七郎次)、宮口精二(久蔵)、木村功(勝四郎)、津島恵子(志乃)、高堂国典(儀作)、藤原釜足(万造)、土屋嘉男(利吉)、左ト全(与平)、小杉義男(茂平)、島崎雪子(利吉の女房)、榊田敬二(伍作)、東野英治郎(盗人)、多々良純(人足A)、堺左千夫(人足B)、渡辺篤(饅頭売り)、上山草人(琵琶法師)、清水元(町を歩く浪人)、山形勲(町を歩く浪人)、仲代達矢(町を歩く浪人)、千葉一郎(僧侶)、牧壮吉(果し合いの浪人)、杉寛(茶店の親爺)、本間文子(百姓女)、小川虎之助(豪農家の祖父)、千石規子(豪農家の嫁)、熊谷二良(儀作の息子)、登山晴子(儀作の息子の嫁)、高木新平(野武士の頭目)、大友伸(野武士の小頭・副頭目)、上田吉二郎(野武士の斥侯)、谷晃(野武士の斥侯)、高原駿雄(野武士・鉄砲を奪われる)、大村千吉(逃亡する野武士)、成田孝(逃亡する野武士)、大久保正信(野武士)、伊藤実(野武士)、坂本晴哉(野武士)、桜井巨郎(野武士)、渋谷英男(野武士)、鴨田清(野武士)、西條 悦郎(野武士)、川越一平(百姓)、鈴川二郎(百姓)、夏木順平(百姓)、神山恭一(百姓)、鈴木治夫(百姓)、天野五郎(百姓)、吉頂寺晃(百姓)、岩本弘司(百姓)、小野松枝(百姓女)、一万慈多鶴恵(百姓女)、大城政子(百姓女)、小沢経子(百姓女)、須山操(百姓女)、高原とり子(百姓女)、上岡野路子(百姓の娘)、中野俊子(百姓の娘)、東静子(百姓の娘)、森啓子(百姓の娘)、河辺美智子(百姓の娘)、戸川夕子(百姓の娘)、北野八代子(百姓の娘)、その他、劇団若草、劇団こけし座、日本綜合芸術社、



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by sentence2307 | 2018-01-20 16:14 | 映画 | Comments(0)

忠臣蔵

いよいよ年の瀬になりました、昨夜は、各課合同の会社の納会も終わり、いよいよ一週間の正月休暇です。

この期間に、まとまった旅行でもすれば有意義に使えるのではないかと、いつも思うのですが、現実問題として考えれば、はずせない定番の家庭のイベントがいくつかありますし、そのための用事がちょびちょびあり、毎年、あとから振り返れば、家庭人としてそれなりに必要とされているので、そのすべてを放り出しての「正月旅行」というのは、今のところ自分的にはちょっと考えられません、しばらくは家庭サービスのためにもこの期間を開けておこうと思っています。

それにほら、よく言うじゃないですか、旅行はあれこれ計画しているときが一番楽しいって。

そして実際、旅行会社にあちこち連れまわされる総花的な定番ツアーのあとの、あの義務を果たしたときに感じるような疲労感というか徒労感(そうした旅の思い出も、あとから考えれば、なんだかカタログ的です)しか残らない虚しさを思えば、やはり正月旅行は、近い将来には果たしたい「夢」として持ち続け、先送りしている状態の方が、なんだか正解のような気もしますし。

しかし、この期間に自分の時間がまったく持てないかというと、そんなことはありません。

なんといってもサラリーマンの武器は、「早起き」の習慣です、すっかり「休暇」に緩みきって、午前中はゆっくり寝ている家人に比べたら、自分は日頃からとんでもない早朝に起きる習慣が身についている筋金入りのサラリーマンです、目覚まし時計などセットしておかなくとも、「その時間」ともなれば1秒たがわずパッチリ眼が開いて、今の時期は日の出までまだまだ1時間は優にあろうかという時刻ですが、体の方はもうすっかり目覚めていて、もはや積年あこがれの「二度寝」など考えられないような覚醒状態にあり、家人が起き出してくるまでの数時間は、読書をしようが、ゲームをやろうが、you tubeに嵌まろうが、なんだってできる、まさに自分だけの解放区なわけですよね。Webで見られるお手軽映画なら、優に2本はいけそうな時間です。

さっそく「クリック・クリック」で検索を始めました。

ハハーン、gyaoで大曾根辰保の「大忠臣蔵」がアップされていますね、こりゃまた面白そうじゃないですか、画像には、討ち入りの衣装を着込んだ大石内蔵助の写真が大きく掲載されています、市川猿之助ですか。へぇ~めずらしいなというわけで、スタッフとキャストの記事をチェックしたら、「出演: 高田浩吉, 有馬稲子, 山田五十鈴, 松本幸四郎(初代・松本白鸚), 市川染五郎(九代目・松本幸四郎)」とだけあって、主役のはずの猿之助の名前がありません、これじゃあまるで「松本幸四郎(初代・松本白鸚)」が主役で大石内蔵助を演じているみたいじゃないですか。

松本幸四郎主演の忠臣蔵といえば、名作の誉れ高い「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」のはずです。おかしいじゃないですか、今日は一日中、暇なことでもありますので、ここはじっくり調べてみることにしました。
この1950年代に撮られた大曾根辰保監督「忠臣蔵」といえば2本あって、1957年製作がこの猿之助主演の「大忠臣蔵」で、松本幸四郎作品は、1954年に製作された「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」みたいですよね、まあ、せっかく調べたことでもありますので、その調査結果を以下に掲げておきますね。


忠臣蔵 花の巻、雪の巻(1954松竹・京都撮影所)総指揮・大谷竹次郎、製作・大谷隆三、高村潔、製作補・高木貢一、市川哲夫、監督・大曾根辰夫、脚本・村上元三、依田義賢、撮影・石本秀雄、音楽・鈴木静一、
配役・松本幸四郎・初代松本白鸚(大石内蔵助)、高田浩吉(浅野内匠頭)、滝沢修(吉良上野介)、鶴田浩二(毛利小平太)、北上弥太郎(岡野金右衛門)、高橋貞二(多門伝八郎)、田浦正巳(大石主税)、山内明(片岡源五右衛門)、近衛十四郎(堀部安兵衛)、水島道太郎(不破数右衛門)、薄田研二(堀部弥兵衛)、河野秋武(原惣右衛門)、大坂志郎(武林唯七)、柳永二郎(柳沢出羽守)、坂東鶴之助(矢頭右衛門七)、山田五十鈴(大石妻りく)、月丘夢路(瑤泉院)、淡島千景(浮橋太夫)、桂木洋子(しの)、瑳峨三智子(つや)、幾野道子(安兵衛妻こう)、
1954.10.17 25巻 6,401m 白黒


大忠臣蔵(1957松竹・京都撮影所)総指揮・城戸四郎、製作・白井和夫、監督・大曾根辰夫、脚本・井手雅人、撮影・石本秀雄、音楽・鈴木静一、美術・大角純一、録音・福安賢洋、照明・寺田重雄
配役・市川猿之助・猿翁(大石内蔵助)、市川団子(大石主税)、水谷八重子(大石妻お石)、高田浩吉(早野勘平)、高千穂ひづる(おかる)、坂東簑助(加古川本蔵)、山田五十鈴(戸無瀬)、嵯峨三智子(小浪)、北上弥太郎(浅野内匠頭)、有馬稲子(あぐり・瑤泉院)、石黒達也(吉良上野介)、大木実(清水一角)、永田光男(千崎弥五郎)、市川小太夫(原惣右衛門)、名和宏(片岡源五右衛門)、森美樹(桃井若狭助)、片岡市女蔵(斧定九郎)、野沢英一(与市兵衛)、毛利菊枝(おかや)、小夜福子(戸田局)、戸上城太郎(不破数右衛門)、近衛十四郎(寺坂平右衛門)、市川染五郎(矢頭右衛門七)、嵐吉三郎(落合与右衛門)、伴淳三郎(幇間)、松本幸四郎(立花左近)、
1957.08.10 松竹中央劇場 17巻 4,248m カラー 松竹グランドスコープ


こんな感じです、しかし、「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」に比べて、こちらは「シネマスコープ・総天然色」が売りなだけで、出来としては、やや精彩を欠いた作品とはいわれているものの、渋みのある市川猿之助主演ですから、これもまた大いに楽しみです。

当時、映画批評家・北川冬彦は、「大忠臣蔵」について、こんなふうにコメントしています。
「この『大忠臣蔵』には新たな解釈などいささかもない。これははっきり仮名手本で、歌舞伎的な場面が充満している。映画と歌舞伎との、あまり見事ではないがまあカクテルの味があった。シナリオにはごたごた無駄があったが映画を見て大曾根辰保のシネスコ的コンテの作り方に感心した。それに映画と歌舞伎のカクテルになり損ねていたり、名優猿之助や幸四郎に精彩がなかったのは考えさせられた。映画の演技として右太衛門、千恵蔵に及びもつかないのである。八重子もセリフははっきりしているが表情がいただけない。歌舞伎と映画とが割合ミックスした場面、例えば、一力茶屋の場は画面が充実していてシネスコ的演出を感じた。」(キネマ旬報186号)

まあ、べた褒めというわけにはいきませんが、しかし、こういう批判もまた映画を楽しむためのひとつの材料にはなりますよね、いや、それどころか、一層楽しみが増すってものじゃないですか。

しかし、このとき、ちょっとショッキングな記事も見つけてしまいました。自分が、「名作の誉れ高い」と思っていた「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」が、「それほどのものか」という疑問が投げかけられている記事です。

「この忠臣蔵はあくまでも仇討ではなく、お家の再興という点を強調して描かれた。大石が討入りを決心するのは、決行の5日前くらいとなっている。
4時間に及ぶ長尺だが、いたるところに疑問を感じながら観た記憶がある。とくに大きな矛盾は、大石が討入りすることをすべての人々が知っていて、討入りを決意するのは5日前くらいとなっているが、その間どうして討入り道具が揃ったのか、新解釈もところどころボロを出している。幸四郎の大石もこのときは重厚な演技とはいえなかった。」(御園京平「映画の忠臣蔵」)



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by sentence2307 | 2017-12-29 11:23 | 映画 | Comments(0)



原題「Der Staat gegen Fritz Bauer」と邦題「アイヒマンを追え!」では、見る前の観客に相当見当違いな、あるいは、誤った先入観を与えてしまったのではないかと危惧しています。

その副題の「ナチスがもっとも畏れた男」だって、原題の不正確さを補完するために慌てて付け足したかのような蛇足感をまぬがれません、かえってメイン・タイトルが言葉足らずなことを、逆に証明してしまっているようなもので、それだけでも責任ある命名者(興行者)として作品のイメージをそこない、さらに営業戦略としても、ずいぶんな失策だったのではないかと思いました。

自分の受けた感じからすると、これは単に「フリッツ・バウアー」(どうあろうと、この映画の主人公なのです)という名前を出すよりも、世間的に遥かに浸透している「アイヒマン」とした方が、宣伝効果があるに違いないという短慮から、このような見当違いな邦題の命名に至ったというなら、それは、この作品に対する根本的な認識不足というしかありません。

原題「Der Staat gegen Fritz Bauer」を「フリッツ・バウアーをめぐる状況」とでも訳すれば、このサブ・タイトル「ナチスがもっとも畏れた男」の方だって、相当あやしいものになってくると思います。

だってそうですよね、この原題が指向しているものは、戦後、いまだに国内の司法にはナチの残党・抵抗勢力が残っているという中で、ナチの戦争犯罪を追及しょうというユダヤ人検事長の苦労話なわけですから、ここで描かれているものは、少なくとも「人=アイヒマン」なんかではなかったというのが本筋です。まあ、言ってみれば、アイヒマンという設定は、ユダヤ人検事長にとっての「困難な状況」を説明する単なる素材にすぎなかったわけで、タイトルに掲げられた「アイヒマン」を注視していた観客には、見当違いの道しるべを与えられたような、なんとも迷惑な話だったかもしれません。

それは、検事長の職務にあるフリッツ・バウアーが、ブエノスアイレス市民からの投書によって、アイヒマンが彼の地に潜伏しているらしいことを知り、それが本人であるという更なる確証を得たあとで、検事長としての権限でドイツ本国に連行し裁きを受けさせたいと上申したときに、強硬に拒否された抵抗勢力(当時のドイツ司法に占める多数の元ナチス党員や関係者たち)のことを「状況」と表現しているのですから、それを「アイヒマン」という見当違いな人名をタイトルの前面にだしてしまったら、タイトルに引きずられた観客が戸惑い幻惑されるのも、そりゃあ当然のことだったと思います、「作品を損なう」と言われても決して言い過ぎなんかではない、むしろ「暴挙」とさえ言い得るタイトルの命名だと思いました。

検事長フリッツ・バウアーがユダヤ人であるために国内で受けなければならなかった困難が、具体的な数字として残されています、つまり、当時の西ドイツ司法部(裁判官と検察官)には戦前からの元ナチス党員・関係者というのが、まだ1,118人いたと、東ドイツのキャンペーンの数字としてwikiには記載されています。(注)


(注)「だが実際には1945年のナチス党の解散時にナチス党員は約850万人、協力者は300万人以上にものぼっており(合計で当時のドイツ総人口の約2割)、また官僚や政治家、企業経営者など社会の中核をなす層にも浸透していたことから、ナチスの追及は敗戦で荒廃したドイツの戦後復旧を優先した結果としておざなりなものとならざるを得なかった。加えて直接の関係者はもとより親族などの反対もあり、ナチス追及は不人気な政策であった。
1950年代末には、西ドイツに対して「血に飢えたナチ裁判官」キャンペーンが東ドイツで行われている。そこでは元ナチス関係者(党員か協力者)の裁判官や検事など司法官僚が1,118人も西ドイツにはいると非難されており、これらの元ナチス司法官僚はナチスの追及に大きな障害となった。最終的に有罪になったナチス関係者は、罰金刑のような軽い罪を含めても6000人あまり、関係者全体の0.06%に過ぎない。」


当時のドイツにおけるこの元ナチの残党1,118人という数字が意味する「逆境」において、「ナチの戦犯を追及」することの困難と、公正な法の支配とその執行など、そもそも最初から望むべくもなかった状況にあったことは明らかでした。

だからこそ、フリッツ・バウアーは窮余の一策として、ドイツ国内法の「国家反逆罪」のリスクを負ってまで、秘密裏にイスラエルの秘密警察モサドに助力を仰がざるを得なかった、そして、この事実(第三国への協力と通報の行為)が明らかにされたのが、彼の死後数十年も経ってからのことだったと、この映画の最後で語られていました。

自分は、このナニ気に付け足された「彼の死後数十年も経ってから」という部分に強く惹かれました。

つまり、「数十年経たなければ」このユダヤ人検事長の犯したドイツにおける「国家反逆罪」の嫌疑は薄まることなく、ずっと有効だったわけで、いまになってやっと語られるこの「美談」風な衝撃の事実は、逆に、彼が生きている限りは容認されなかったし、彼が死に、さらにその影響が薄らぐまで語るのを憚られてきたということのアカシにほかならないと理解してみました。

このシチュエーションを日本に当て嵌めて考えてみれば、その「トンデモナサ」は明らかですが、フリッツ・バウアーのしたことは、「他国」と気脈を通じ、そして利するために「自国」を裏切るという背信行為なのであって、少なくとも、国家から国の秩序の安定をはかるために全面的に権力を託された検事長・公務員にとって(この全面的な権力の委託=なんでもできる強権を受諾する見返りが、国家への限りない忠誠でなければ)、その裏切り行為は、とても深刻な事態だというしかありません、たとえそれが「一民族の正義」のために行われたことだったとしても、みずからの属する国家を一蹴し、あるいは飛び越えるという違和感は、どうしてもぬぐえません。

それは「正義」のために躊躇なく決行した第三国への協力・通報の行為(裏切り)は、この映画にあっては、称賛されこそすれ、いささかも問題にされていないという視点です、そこに自分はこのストーリーにも、このフリッツ・バウアーという人物にも、嫌悪に近い限りない違和感をもちました、この映画には、わが意に反して生きなければならない者の、迷いや葛藤はことごとく無視され、「正義は我にあり」という被害者意識に満ちた踏み絵をかざし、讒言と密告も、そして国家ぐるみの誘拐も拉致も当然視され、そのうえでなされる裁判と処刑も、何でもアリという、目をそむけたくなるような思い上がりに対する、限りない嫌悪です。

それは、最後のこんな場面でも感じました。

フリッツ・バウアーが協力を要請した部下の検事・カールが、同性愛者のクラブ歌手との淫行(「彼女」に嵌められたのですが)の写真を盗撮されて当局に脅迫され、屈服しないカールはやがて自首します。

カール検事を拘束したと上席検事クライトラー(ナチ側です)からの報告を受けた検事長フリッツ・バウアーとの素っ気ない会話が、この映画のラストで描かれています。

カール検事拘束の報告を聞いて、検事長フリッツ・バウアーはこう言います。

「考慮したまえ。彼は猥褻行為に及んだが自首したんだぞ」

「本件に、なにか拘りでも?」

「ない、仕事に戻りたまえ」そして「覚えておけ。私は自分の仕事をする。私が生きている限り、誰にも邪魔をさせん」

たった、それだけ!? あんたねえ、仮にも無理やり協力を強いて働かせた部下なんでしょ、抵抗勢力を抑えてあれだけのことができたわけですから、検事長の権限でオカマの検事ひとりくらい助けるくらいわけなくできそうなものじゃないですか。

彼のこの冷ややかな対応は、「自分にもそのケはあり、国外でやらかすなら罪にならないぞと、だから国内ではアレは決してやるなよってあれほど言ったろう。ドジ・まぬけ・バカヤロー」くらいしか窺われません。

わが身可愛さで、結局彼は、のうのうというか、ぬけぬけと職務を全うしたっていうじゃないですか。

なんか他に言いようがないんですかね、言うに事欠いて「私は自分の仕事をする」だって?
アホか。
役に立たなくなった人間は、そうやってどんどん切り捨てて、戦犯追及の大義名分のもとに、ぬけぬけと自分だけ生き抜いていくというわけですか。なるほどね。あんたという人も、この映画も、よく分かりました。


この小文を書くまえに、手元にあるアイヒマンについて書かれた幾つかの論文に目を通しました。

そのなかのひとつ、広島大の牧野雅彦という人が書いた論文「アレントと『根源悪』―アイヒマン裁判の提起したもの―」(思想2015.10)のなかに興味深い部分があったので、どこかで活かせるかなと思いながら、念のためにタイプしておいたのですが、結局、活用する機会を逸してしまいました。

むげに捨てるのも、もったいないので、「参考」として記載することにしました。

「悪事をなす意図を前提として始めて法的責任と罪を問うことができる―意志を持たず善悪の弁別能力を持たない無能力者は処罰の対象にならない―というのが近代刑法の原則であるとするならば、アイヒマンの犯罪はそれを超えた―いやそれ以前の、というべきか―いわば世界とその法的・道徳的秩序そのものを破壊するような悪なのであった。そうした悪に対しては極刑をもって対する以外にない。アレントは仮想の裁判官に託してアイヒマンに対して次のような裁きを下している。

『君が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、ひとえに君の逆境のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それゆえ積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては、服従と指示とは同じものなのだ。そしてまさに、ユダヤ民族および他の幾つかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む・あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み、誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように・政治を君が支持したからこそ、何人からも、すなわち人類に属す何者からも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないと我々は思う。これが君が絞首刑にならねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。』」

あらためて読んでみると、論旨は至極まっとうで、やはり、自分のコラムのなかに、この文章を生かせる箇所は、なかっただろうなという思いを新たにした次第です。自分もやはり、当初、タイトルの「アイヒマン」に引きずられた被害者のひとりにすぎなかったことを示している見当違いな残骸を前にして、しばし呆然の感じでいたかもしれません。

(2015ドイツ)監督脚本・ラース・クラウメ、製作・トマス・クフス、脚本オリビエ・グエズ、撮影・イェンス・ハラント、美術・コーラ・プラッツ、衣装・エスター・バルツ、編集・バーバラ・ギス、音楽・ユリアン・マース、クルストフ・M・カイザー、製作・ゼロ・ワン・フィルム、原題・Der Staat gegen Fritz Bauer

出演・ブルクハルト・クラウスナー(フリッツ・バウアー)、ロナルト・ツェアフェルト(カール・アンガーマン)、セバスチャン・ブロムベルグ(ウルリヒ・クライトラー)、イェルク・シュットアウフ(パウル・ゲプハルト)、リリト・シュタンゲンベルク(ヴィクトリア)、ローラ・トンケ(シュット嬢)、ゲッツ・シューベルト(ゲオルク=アウグスト・ツィン)、コルネリア・グレーシェル(シャルロッテ・アンガーマン)、ロベルト・アルツォルン(シャルロッテの父)、マティアス・バイデンヘーファー(ツヴィ・アハロニ)、ルーディガー・クリンク(ハインツ・マーラー)、パウルス・マンカー(フリードリヒ・モルラッハ)、ミヒャエル・シェンク(アドルフ・アイヒマン)、ティロ・ベルナー(イサー・ハレル)、ダニー・レヴィ(チェイム・コーン)、ゼバスティアン・ブロンベルク(ウルリヒ・クライトラー)、


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by sentence2307 | 2017-12-09 17:50 | 映画 | Comments(0)

ある天文学者の恋文

まるでなにかの罠に嵌まってしまったみたいに、同じようなタイプ(それも取り分けレアなテーマです)の映画を立て続けに見てしまい、そのまるで計算しつくされたような奇妙な符合に、これってなにかの不吉な予告とか祟りのタグイなのかと、思わず不安になるなんて経験したことってありませんか。

先日、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ある天文学者の恋文」(2016)を見ていたときに、そのオゾマシイ霊感とやらに突然金縛りにあってしまいました。

ジュゼッペ・トルナトーレ監督作品なら、それがどのように不評な作品であろうと、とりあえずは見てみたいと思っている自分にとって、この「ある天文学者の恋文」もそのうちの1本でした、それもこれも数多くの幸福な映画の記憶をトルナトーレからいただいているからこその、そしていまもなおその「保証期間」が継続中であることの証しみたいなものなのかもしれません。

しかも主演が、超繊細な演技が売りのジェレミー・アイアンズとくれば、もうそれだけで一見の価値があります、最近では、見るからに弱々しい繊細さで売るこういう男優って稀有な存在になってしまいましたし、思えば、かつてはこのタイプの男優はすぐに思いつくくらいに多くいて、例えばジェラール・フィリップだとか、モンゴメリー・クリフトだとか、ジェームス・ディーンなんかも、そういうタイプの役者の代表格でしたよね、むしろマッチョで猛々しいタイプの俳優よりも、「こっち系」の男優の方が、はるかに主流だったような気がします、あの時代がそういう軟弱な俳優を求めていたからかもしれません。

ほら、例のフィリップ・マーロウの「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.(強くなければ、生きられない。優しくなければ、生きている資格がない」なんて言葉が象徴していたあの雰囲気です。

自分としては、それを聞いた当時だって、ずいぶん甘々で、それを平気な顔して言う相手の顔をまじまじと見てしまうくらい、なんだか気恥ずかしくてたまりませんでしたが。

しかし、今の時代、優しいばかりでウジウジなどしていたら、無視されて放っておかれるどころか徹底的に干渉されて生き場を失い叩き潰すまで追い詰められて秒殺されるという過酷な時代なのであって、現代がそれだけハードで容赦ない時代になったからだと思います。

でも、自分としては、むしろこの本音の現代の方が、ずっと生き易くて気に入っています。

さて、この「ある天文学者の恋文」ですが、天文学者の大学教授エド(ジェレミー・アイアンズ)と教え子の女学生エイミー(オルガ・キュリレンコ)は不倫の関係にあって、この映画の冒頭でも、さっそくふたりの「くんずほぐれつ」の情事の描写から始まっている始末です、私見ですが、こういうのって実にけしからんと思いませんか。老いぼれとピチピチの女子大生が、あっちを舐めたり、こっちを吸ったりなんかしたりして、なんなんだこの野郎という感じです。そんなことして、気持ちいいだろ、てめ~。

自慢じゃありませんが、自分はこのようなことにただの一遍だって遭ったことがありません、悔しくて悔しくてたまりませんよ。

まあ、それはさておいて話を続けますね。

ある日、大学の講義を受けていたエイミーは、エド教授が急逝したことを知らされます。

しかし、エド教授から旅行に行くと知らされていたエイミーのもとには、依然として彼からなにごともなかったかのようなメールが継続的に入ってくるし、それに、まるでタイミングを計ったような郵便物も届くので、彼女にはどうしても教授の死を信じることができません、そして、エド教授の死を確かめるための彼女の旅が始まるというちょっとミステリーっぽい物語です。

しかし、このミステリー仕立ての物語の根底にあるものは、たとえ自分が死んでも、愛する者をどうにかして、いつまでも見守り続けたいという痛切な深い思いがあって、たぶんそれが観客を感動させずにはおかないのでしょうが、自分としては、この手を替え品を替えの「仕掛け」の部分がどうにも引っかかって、しっくりと受け入れることができませんでした。

はたして教授が思っているほど、彼女が将来にわたって「永遠の愛」を信じ続けることができて、そして、教授の見守りをいつまで必要とし、彼女の歓迎を保てるか、愛の企みを夢中になって仕掛けていた死期の迫った教授が、「そのこと」に少しの不安も抱かなかったのかという疑問です。まあ、少しでも疑問を持ってしまったら、こんな企みができるわけもありませんが。

自分としては、教授が仕掛けたこれらすべての企みは、教授のエゴから発した未練にすぎないもので、決して生き残る愛する者を思いやってのことではない、つまり、「余計なお世話だ」という感想を持ちました。

たぶん、最愛の人を失った彼女は、しばらくの間、そりゃあ悲しむでしょうし、相当な「喪失感」に苦しむには違いありません。

しかし、時が経てば、いつまでも悲しんでいることの空しさを悟り、やがて時間が、過去の辛いことを少しずつ忘れさせ、立ち直ることができるものだと思います。

しかし、そこに相変わらず「教授のメール」が届いたりすれば、それは彼女の立ち直りを阻む効果しかないことは明らかです。

彼女が自由に生きることは許されないのか、という思いを持ちました。

そして、この映画を見た少しあとに、「愛を積むひと」(2015、朝原雄三監督)を見ました。

心臓病で余命幾ばくもないことを知った妻(樋口可南子)は、夫に幾通もの手紙を、まるで「仕掛け」のように残していきます。

まだ十分に若い彼女には、この世に思いを残すことは、きっと数多くあったに違いありません。

夫(佐藤浩市)を見舞うはずの困難な事態を予測して、妻は、的確な場所に明快な手紙を残して迷う夫に天国から助言を与え助けます。

この部分を見ながら、ふっと小学生か中学生だった頃に流行った小噺を思い出しました。

ある男がトイレに貼ったら、正面の壁に「左を見ろ」と書いてあるので左を見ると、左の壁には「右を見ろ」と書いてあったので、今度は右を見ると「上を見ろ」と書いてある。天井には、「きょろきょろするな、バカ」と書いてあったという滑稽噺です。

「愛を積むひと」は、きっと良質な作品には違いないとは思いますが、たとえドラマにすぎないとしても、死者の傲慢というか、人の人生に身勝手に立ち入る「お節介」さには、耐え難いものがあります。

以前、「ニライカナイからの手紙」(2005、熊澤尚人)を見たときに感じたことですが(以前、このブログに書きました)、早世する母が、娘を気遣って、自分の死を知らせずに、まるで生きているかのように成人するまで誕生日に手紙を送り続け、娘を励ました行為に疑問を抱いたのは、そんな歪んだかたちで「母の死」を隠されたこと自体を娘はどのように感じたか、という疑問でした。

たとえ遺された娘が、「母の死」を知らされたとしても、一時は悲しみ、苦しんで、しかし、それに耐え、跳ね返す力を持つことが、「生きること」なのではないか、と思ったからでした。こんなことは、社会一般のごく常識なことにすぎません。

家中で自分だけが知らされていないことがある、しかもそれが「母の死」だとすれば、その歪んだ関係は、すこぶる異常だと言わざるを得ません。

(2016イタリア)監督・ジュゼッペ・トルナトーレ、製作・イザベラ・コクッツァ、アルトゥーロ・パーリャ、脚本・ジュゼッペ・トルナトーレ、撮影・ファビオ・ザマリオン、美術マウリッツォ・サバティーニ、衣装デザイン・ジェンマ・マスカーニ、編集・マッシモ・クアリア、音楽・エンニオ・モリコーネ、プロダクション・デザイン・マウリツィオ・サバティーニ
出演・ジェレミー・アイアンズ(エド・フォーラム)、オルガ・キュリレンコ(エイミー・ライアン)、ショーナ・マクドナルド(ヴィクトリア)、パオロ・カラブレージ(オッタヴィオ)、アンナ・サヴァ(アンジェラ)、イリーナ・カラ(エイミーの母親)、



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by sentence2307 | 2017-11-26 22:23 | 映画 | Comments(0)

ある日の原節子

ちょっと前の土曜日の昼過ぎに、借りていた本を返しに図書館に行ったときのことでした。

ここは図書館のほかに集会場や300席くらいのホールなど、それなりの施設が入っているものの、なにせ小さな市なので、さほど大きな建物ではありませんが、平日でも多くの市民が利用しているとても賑やかな場所です(他に適当な施設がないということもありますが)、図書館はその建物の1階部分を占めており、建物に入ってすぐの玄関ホールには市の広報紙やセミナーのパンフレットが置いてある場所があります。

毎年、確定申告の時期ともなれば、自分もここに「暮らしの税情報」(国税庁)を貰いに来たり、そのほか県の広報紙や市の広報をはじめ、NPO法人の地域のボランティア活動報告とか、認知症予防講座の参加募集とか、ウォーキングを兼ねた郷土史研究会のご案内だとか、高齢者のインフルエンザワクチンのお知らせのタグイだったりするので(いまのところは、幸いにして、そのどれにもお世話にならずに済んでいます)、それなりの時間つぶしにはなりますが、緊急の必要事でもなければ、わざわざここに立ち寄ることは滅多にありません。

いつもならさっさと通り過ぎてしまうその場所ですが、その日はなんだか、誰かに見られているようなヘンな視線を感じて(胸騒ぎとでもいうのでしょうか)、思わず足を止めてしまいました。

自分は、かなりの近視なので、少しでも距離があったりするとぼやけてよく見えないのですが、ある一枚のパンフレットに写っている女性が、行きかう人の足を思わず止めさせるほどの物凄い美形であることだけは、遠目にもはっきりと分かりました、これがまさに「オーラ」を発しているということなのだなと実感しました。

引き寄せられるように近づくと、その美人が、尋常でない美しさであることが、ますます、はっきりとしました。

ほら、よく言うじやないですか、ぱっと見、美人と思わせるための大きな要素として「柔らかな微笑」というようなものが必須だとか(七難隠す、みたいな)、そのパンフレットに掲載されている女性は、背後やや上方の肩越しの位置から撮られていて、振り向きざまになにかを真剣に凝視しているその横顔には、その「柔らかな微笑」などというタグイの俗世的な固定観念に真っ向から挑むような・否定するような、容易に人を寄せ付けない毅然として固く厳しい、それでいて、それが「美しさ」を少しも損なってないという完璧な表情です。

これが、足を止めさせるほどの「オーラ」の意味だったみたいです。

いわば「いやん、ばかん」ではなく、「何なさるんですか!!」みたいな。

よく分かりませんが。

まあ、このセリフがどのようなシチュエーションのもとで発せられる種類のものであるかは、ご妄想(ご想像だろ)にお任せしますが、いやはや「処女性」ということで、つい連想が暴走してしまいました。

さっそく、そのパンフレットを手に取ると、それは「原節子選集」(特集・逝ける映画人を偲んで 2015-2016)というフィルムセンターの宣伝チラシであることが分かりました、そこに写っていたのが、今まで見たこともないような美しい原節子です。いやいや、この言い方は少しおかしいか。

原節子が美しいのは、いまさら始まったことではないので、ここは「美しい原節子の今まで見たことのない写真」というべきでした。
裏返してみると、最下端右隅に小さな活字で「表紙・わが青春に悔いなし」と記されています。それなら自分が見てないわけがないじゃないか。自慢じゃありませんが、「わが青春に悔いなし」なら両の手の指をすべて折ってもまだ足りないくらいは見ていますし、このブログにもコラムを書いたことがあります。

しかし、こんなシーンあったかなと、パンフレットをひっくり返して、また原節子の写真をじっと見入りました。

艶やかな黒髪に縁どられたその凛とした表情には、「潔癖」という言葉が自然と思い浮かぶくらい微塵の隙も緩みもありません。

眉をきりりと引き締めた鋭い瞳には幾分の潤いがあって、それが緊張と感情の高ぶりを表していることは判然・分かるものの、それが悲しみのためなのか、それとも怒りとか不安のためのものなのかはともかく、迫りくる過酷な「時代」に立ち向かおうと身構えている緊張感の鬼気迫るものであることだけは確かです。

きっと、自分が、すでに本編を繰り返し見ていて「わが青春に悔いなし」という映画のストーリーを隅々まで知悉している(勝手にそう思い込んでいるだけかも)既知の記憶に沿って原節子の表情を当て嵌めようとしているだけなのかもしれませんが、しかし、いずれにしても、そんなあれこれの考えを巡らしたのは、結局のところ、しばらくの時間、じっとその美しい顔に見とれていたかったことの言い訳でしかなかっただけだったような気がします。

これ以上見つめていると、写真にキスでもしそうな勢いなので(ここは公共の場で傍目もあり、すでにほとんど「危ないおじさん」になっていると思います)そのパンフレットを2枚いただいて、あとでゆっくり鑑賞することにしました。

しかし、それにしても、やや横を向いてじっと彼女が見据えている先にあるものが、いったいなんなのか、すぐにでも知りたくなりました、さっそく家に帰って、我がライブラリーから「わが青春に悔いなし」を探し出し、このシーンを確認しようと思いました。

いやいや、実際に映画で確認するというのもいいのですが、その前に、この場面がストーリーのどのあたりのシーンなのか、見当をつけておくことも必要です、少しでも手掛かりを得ようと、道々、画像の隅々まで目を走らせて必死になって考えを巡らせました。

この写真からすると、きれいに撫でつけられている髪型から、生活感のない良家の子女という感じなので、ストーリー後半で描かれている村民の迫害と生活苦に疲れた「農婦」でないことは一目瞭然です。ならば、前半に描かれている自由奔放な「お嬢さん」風かといえば、その落ち着いた雰囲気とか黒地のスーツの隙のない着こなしから見ると、どうも付け回す特高に毅然として対峙する中盤の原節子だろうなという見当をつけました。

それに、彼女が美しい横顔を見せて座っている場所は、どうも池か川のほとりの野原という感じです。

これだけの情報をもとに、帰宅してすぐに「わが青春に悔いなし」を見るはずだったのですが、実は、あっ、結論から申し上げますと、我がライブラリーから、カノ「わが青春に悔いなし」を探し出すことに、結局、失敗しました。

というのは、その映画が「あったのか・なかったのか」よりも先に、手の付けられない未整理の混沌・テープの山のカオスから、目的のものを探し出すことなどとても不可能で、早々に断念せざるを得なかったというのが、最も相応しい説明ということができるかと考えています。

思い返せば、常日頃、自分にしてからが、たまたま山の頂上にあるテープを手に取って順番に見ているだけなので、「何かを見たい」などという大それた我欲に満ちた俗世の欲望というか煩悩などすでにして超越しているというか(せざるを得ない)境地に至っていることを早々に思い出すべきだったかもしれません。

なので、映画「わが青春に悔いなし」の「確かめ」は、ついに果たされなかったことを、遅ればせながらここにご報告する次第です。ならば、うだうだ言わずに最初からそう言えば良かったじゃん、とか言われてしまうやもしれませんが(「かもしれません」を多用したので、少し言い方を変えてみました)、今回見られなかったのは残念ですが、でも、自分のこの推理は間違いないと思うけどな。

もう一度見たい作品もあるので、フィルムセンターで11月9日から開催されている原節子特集の11本の上映作品を以下に記しておきますね、とにかく、ものすごく楽しみです。



【魂を投げろ】
原節子の出演第3作で、現存作品としては最も古い。オリジナルは65分のサウンド版だが、本篇途中部分のみが無声で残存している。甲子園を目指す旧制中学の野球部を描いた青春スポーツ映画で、原はエース投手の妹役。当時15歳ながら、その美貌が深い印象を残す。脚本の玉川映二はサトウハチローのペンネーム。プラネット映画資料図書館所蔵プリントからの複製。
(1935日活多摩川)監督・田口哲、原作・飛田穂洲、脚本・玉川映二、撮影・福田寅次郎、
出演・伊沢一郎、中村英雄、和歌浦小浪、原節子(女学生)、東勇路、大島屯、名取功男、正邦乙彦、松本秀太郎、
(26分・35mm・24fps・無声・白黒・部分) 1935.09.26 富士館 8巻 白黒 サウンド版


【生命の冠】
北海道の漁港を舞台に、米国輸出用の蟹缶詰を製造する会社のオーナー・有村恒太郎(岡譲二)の奮闘を描く。原節子は恒太郎の妹役。オリジナルは94分のトーキーだが、現存プリントは無声の短縮版。皮肉にも当時まだあった無声映画館のためにサイレントにした版だけが残った。ほとんど失われた作品のもっとも悲惨な例として戦前の日活作品がよく例にあげられるが、内田吐夢の日活多摩川時代の諸作品もあげられるほか、村田実、伊藤大輔、溝口健二、山中貞雄、伊丹万作、田坂具隆、稲垣浩、熊谷久虎、倉田文人、阿部豊などの日活時代の名作のほとんどが失われた。この作品について佐藤忠男は「千島は1936年の内田吐夢監督の『生命の冠』で蟹漁場の港や蟹缶詰工場のある漁場基地として描かれた。この戦前の北洋漁場は1953年の山村聰監督の『蟹工船』でも描かれた。日本映画における北辺、さいはての苛烈な労働の場というイメージである。」(日本映画史④81)と記している。マツダ映画社所蔵16mmインターネガからの複製である。
(1936日活多摩川)監督・内田吐夢、原作・山本有三、脚本・八木保太郎、撮影・横田達之、
出演・岡譲二(有村恒太郎)、滝花久子(妻昌子)、伊染四郎(弟欽次郎)、原節子(妹絢子)、見明凡太郎(片柳玄治)、伊沢一郎(北村英雄)、菊池良一(漁夫)、鈴木三右衛門(漁夫)、光一(漁夫)、長尾敏之助
(53分・35mm・24fps・無声・白黒)  1936.06.04 富士館 9巻 2,588m


【冬の宿】
豊田四郎得意の「文芸物」の一本。元松竹蒲田のスター・勝見庸太郎が、落ちぶれてもなお見栄を張る中年男の悲哀を全身で演じている。原節子は勝見演じる嘉門がほのかに想いを寄せる清楚なタイピスト役。他にムーラン・ルージュ新宿座の水町庸子も出演。脚本は、豊田四郎の重要な作品「若い人」「泣虫小僧」「鶯」などを書いた八田尚之で「第二次大戦に突入する直前の時期の不安に満ちた市井の世相風俗をユーモアと哀感と知性的な態度でさらりと描く作品に巧みさを見せ」、「この作品は当時、奇妙な性格異常者を描いた掴みどころのない作品のように受け取られて、野心作ではあるがおおむね失敗作というふうに受け取られていた。しかしいま見れば、このせっぱ詰まっていながら、そういう自分たち自身の状況を認識できず、ますます愚行を重ねていく彼らこそ、まさに日中戦争の翌年というこの映画の製作時の日本の無自覚的な混迷ぶりを象徴する人物のように見える。あとからつけた理屈であるかもしれないが、芸術家の直感が時代の本質をとらえているとは言えないか。・・・情緒に流れることを排した小倉金弥の撮影も素晴らしい。」(佐藤忠男)オリジナルは95分で現存プリントは5巻目が欠けている。
(1938東京発声)製作・重宗和伸、監督・豊田四郎、脚本・八田尚之、原作・阿部知二、撮影・小倉金弥、音楽・中川栄三、津川圭一、美術・進藤誠吾、録音・奥津武、照明・馬場春俊
出演・勝見庸太郎、水町庸子、原節子、北沢彪、林文夫、藤輪欣司、島絵美子、堀川浪之助
(84分・35mm・白黒・不完全) 1938.10.05 日比谷劇場 10巻 2,534m


【美はしき出發】
叔父からの仕送りで何不自由なく暮らしている北條幹子(水町)と3人の子供。だが叔父は破産し、彼らは自分の生き方の見直しを迫られる。原は画家になる夢を捨てきれない長女の役。一家のために奔走する次女を演じる高峰秀子との初共演が話題となった。ニュープリントによる上映。
(1939東宝東京)製作・武山政信、監督脚本・山本薩夫、脚本・永見柳二、撮影・宮島義勇、音楽・服部正、美術・戸塚正夫、録音・村山絢二、照明・佐藤快哉、
出演・原節子(北條都美子)、高峰秀子、月田一郎、水町庸子、三木利夫、清川荘司、嵯峨善兵、柳谷寛
(66分・35mm・白黒) 1939.02.21 日本劇場 8巻 1,808m


【東京の女性】
丹羽文雄の同名小説を映画化。生活能力のない父に代わって一家を支えるため、節子(原)は自動車会社のタイピストから“セールスマン”へと転身し、次々と成功を収める。能動的で溌剌とし、男性社会を脅かしさえする女性を演じた原は、当時の映画評で「東宝入社以来おそらく最も生彩のある演技」と高く評価された。ニュープリントによる上映。
(1939東宝東京)製作・竹井諒、監督・伏水修、脚本・松崎与志人、原作・丹羽文雄、撮影・唐沢弘光、音楽・服部良一、美術・安倍輝明、録音・下永尚、
出演・原節子(君塚節子)、立松晃、江波和子、水上怜子、藤輪欣司、水町庸子、水上怜子、外松良一、鳥羽陽之助、深見泰三、如月寛多、若原雅夫
(82分・35mm・白黒) 1939.10.31 日本劇場 9巻 2,281m


【青春の氣流】
新鋭旅客機を設計した若き技師・伊丹(大日方)が、その製造実現に向け突き進む姿を、喫茶店で偶然出会った女性(山根)との恋愛を絡めつつ描くメロドラマ。社内で伊丹を支持する進歩派の専務(進藤)の令嬢に原が扮し、伊丹と添い遂げようと積極的にアプローチする姿が目を引く。ニュープリントによる上映。
(1942東宝)製作・松崎啓次、代田謙二、演出・伏水修、脚色・黒澤明、原作・南川潤「愛情建設」「生活の設計」、撮影・伊藤武夫、音楽・服部良一、美術・松山崇、録音・宮崎正信、照明・横井総一
出演・出演・大日方伝(伊丹径吉)、山根寿子(馬淵美保)、英百合子(その母)、中村彰(その弟章)、進藤英太郎(由定専務)、原節子(その娘槙子)、清川玉枝(その叔母)、清川荘司(竹内専務)、真木順(橋本設計部長)、藤田進(村上)、矢口陽子(喫茶店の女の子)、御舟京子[加藤治子](喫茶店の女の子)、永岡志津子(喫茶店の女の子)、
(87分・35mm・白黒) 1942.02.04 東宝系 10巻 2,389m


【緑の大地】
中国・青島に長期ロケを敢行した国策映画。運河建設をめぐり、日本人技師(藤田)やその妻(原)、女教師(入江)、悪徳商人(嵯峨)、反対派の中国青年(池部)たちが衝突するさまを描く。原は、女教師が夫の初恋相手であると知り、友情と嫉妬の間で揺れる妻の役を演じる。
(1942東宝)製作・田村道美、演出原作・島津保次郎、製作主任・関川秀雄、脚色・山形雄策、撮影・三村明、音楽・早坂文雄、演奏・東宝映画管弦楽団、美術・戸塚正夫、録音・下永尚、照明・平岡岩治、編集・長沢嘉樹、現像・西川悦二、後援・青島日華映画製作委員会、
出演・入江たか子(井沢園子)、丸山定夫(伯父井沢尚平)、藤間房子(母みね)、英百合子(尚平の妻すみ)、里見藍子(娘歌子)、江川宇礼雄(園子の弟幸造)、千葉早智子(呉女子)、藤田進(上野洋一)、原節子(妻初枝)、汐見洋(楊鴻源)、林千歳(楊劉子)、池部良(楊克明)、斎藤英雄(克明の友朱)、進藤英太郎(堺)、高堂国典(尹)、草鹿多美子(鄭秀蘭)、清川玉枝(南夫人)、沢村貞子(張嘉雲)、嵯峨善兵(宮川信成)、真木順(建設局長)、小島洋々(劉校長)、恩田清二郎(副校長)、鬼頭善一郎(取引所理事)、坂内永三郎(取引所理事)、大崎時一郎(宮川の友人)、松井良輔(木谷理事)、佐山亮(救済院長)、
(118分・16mm・白黒) 1942.04.01 紅系 12巻 3,217m


【母の地圖】
没落した旧家の母と子供たちが、東京で新たな生活を始める。しかし、長男(三津田)は満洲で一旗あげると飛び出し、次男(大日方)は出征してしまう。三女の桐江(原)ら女性だけが残され、一家の生活は逼迫していく…。植草圭之助の映画脚本第1作で、ヒロインの原節子も植草の指定によるものだった。文学座の俳優陣の手堅い演技が脇を固めた。
(1942東宝)演出・島津保次郎、演出助手・杉江敏男、脚本・植草圭之助、潤色・島津保次郎、撮影・中井朝一、音楽・早坂文雄、美術・戸塚正夫、録音・下永尚、照明・平岡岩治、編集・長沢嘉樹、現像・西川悦二、
出演・杉村春子(岸幾里野)、三津田健(長男平吾)、一の宮敦子(妻直子)、大日方伝(次男沙河雄)、千葉早智子(長女槙江)、花井蘭子(次女椙江)、原節子(三女桐江)、徳川夢声(舘岡一成)、東山千栄子(一成の妻)、丸山定夫(与田専務)、英百合子(与田の妻)、斎藤英雄(与田隆三)、中村伸郎(筧英雄)、森雅之(北野二郎)、若原春江(タイピスト)、立花潤子(タイピスト)、進藤英太郎(紳士)、嵯峨善兵(課長)、龍岡晋(課長)、深見泰三(村長)、横山運平(伊作老人)、
(102分・16mm・白黒) 1942.09.03 紅系 11巻 2,825m


【怒りの海】
ワシントン軍縮会議によって決定された主力艦保有数の制限を、米英による陰謀と強調した時局映画の一本だが、一方では「軍艦の父」と呼ばれ巡洋艦の開発に死力を注いだ平賀譲中将を描いた伝記映画で日本海防思想の発展を説いた。原節子は父である中将(大河内)の健康を気づかう娘の役。本作は、内閣情報局より、「国策遂行上啓発宣伝に資する」として国民映画選定作品に指定された。この年、ほかに選定作品に指定されたものに「勝鬨音頭」「決戦」「不沈艦撃沈」「水兵さん」「三太郎頑張る」「君こそ次の荒鷲だ」「あの旗を撃て」「加藤隼戦闘隊」「一番美しく」「命の港」「敵は幾万ありとても」「雷撃隊出動」「剣風練兵館」「菊池千本槍」「雛鷲の母」「肉弾挺身隊」「かくて神風は吹く」がある。ニュープリントによる上映。
(1944東宝)製作・佐々木能理男、藤本真澄、監督・今井正、脚本・八木沢武孝、山形雄策、撮影・小倉金弥、音楽・山田和男、美術・平川透徹、録音・安恵重遠、照明・平岡岩治、特殊技術・円谷英二
出演・大河内伝次郎、原節子(平賀光子)、月田一郎、河津清三郎、山根寿子、黒川弥太郎、村田知英子、志村喬、
(89分・35mm・白黒) 1944.05.25 白系 9巻 2,435m


【北の三人】
原、山根寿子、高峰秀子らスター女優が、女性通信兵として北方の航空基地で活躍する姿を描いた時局映画。戦争も末期を迎え、「銃後の守り」を主としていた映画の中の女性像も、戦地で積極的に活動するものへと変わっていた。1945年8月5日に封切られた戦中最後の劇映画。残存フィルムは不完全(オリジナルは72分)。
(1945東宝)製作・田中友幸、監督・佐伯清、脚本・山形雄策、撮影・中井朝一、美術・平川透徹、音楽・早坂文雄、特殊技術・円谷英二、
出演・原節子(上野すみ子)、高峰秀子、山根壽子、藤田進、河野秋武、佐分利信、志村喬、田中春男、淺田健三、光一、小森敏、羽鳥敏子
(41分・35mm・白黒・部分) 1945.08.05 白系 8巻 1,972m オリジナル72分


【わが青春に悔なし】
占領軍の民主化政策に沿って、戦前の京大滝川事件とゾルゲ事件を題材にして製作された民主主義啓蒙映画。学生運動弾圧の犠牲となって獄死した愛人・野毛(藤田進)の遺志を継いで社会意識にめざめるブルジョア令嬢(原節子)の革新的な熱情を描く黒澤明の戦後第一作。令嬢が愛人だった貧農学生の母を訪れて、みずから百姓生活に飛び込みスパイの汚名を受けながら陰湿な迫害の下で泥まみれになって働くという強烈な女性像は、戦争直後、民主化の機運の高まりに高揚していた当時の青年たちに多大な感銘を与えた。
(1946東宝)製作責任・竹井諒、製作・松崎啓次、監督・黒澤明、演出補助・堀川弘通、脚本・久板栄二郎、撮影・中井朝一、音楽・服部正、美術・北川恵笥、録音・鈴木勇、音響効果・三縄一郎、照明・石井長四郎、編集・後藤敏男、現像・東宝フィルム・ラボトリー
出演・原節子(八木原幸枝)、藤田進(野毛隆吉)、大河内伝次郎(八木原教授)、杉村春子(野毛の母)、三好栄子(八木原夫人)、河野秋武(糸川)、高堂国典(野毛の父)、志村喬(毒いちご)、深見泰三(文部大臣)、清水将夫(筥崎教授)、田中春男(学生)、光一(刑事)、岬洋二(刑事)、原緋紗子(糸川の母)、武村新(検事)、河崎堅男(小使)、藤間房子(老婆)、谷間小百合(令嬢)、河野糸子(令嬢)、中北千枝子(令嬢)、千葉一郎(学生)、米倉勇(学生)、高木昇(学生)、佐野宏(学生)、
(110分・35mm・白黒) 1946.10.29 12巻 3,024m



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by sentence2307 | 2017-11-12 09:05 | 映画 | Comments(0)

オーバー・フェンス

先日、社員食堂でひとりランチをとっていたら、背中合わせに座っていた若い4人の女子社員たちが、にぎやかに映画の話で盛り上がっていたので、思わず耳を傾けてしまいました。

話しているその映画というのは、どうも山下敦弘監督作品「オーバー・フェンス」らしいことが、彼女たちの会話の内容からすぐに分かりました。

最近自分もwowowでこの作品を見たばかりだったので、なおさら興味を惹かれました。

いつもランチなど5分もあれば十分というくらいの早食いが身上の自分ですが、彼女たちのこの面白そうな話を聞くために、当然ここはゆっくりとした咀嚼にギアチェンジした次第です。

彼女たちの会話を盗み聞きながら、その内容のまえに、「へぇ~」と思ったのは、その4人が4人とも、このやたらに地味でシリアスな作品「オーバー・フェンス」を皆が実際に見ているらしいということがだんだん分かってきたので、ちょっと意外な感じを持ちました。

この作品は、どう考えても女性客に魅力を感じさせるような内容の映画とは、到底思えません。

なにしろ、重厚で暗く悲壮感にみちた原作です、どのように味付けしてみたところで、その根にあるのは「生きよう」という意欲を失った悲観と絶望に満ちた、いわば「死」に魅入られた失意の視点から描かれた、あまりにも弱々しすぎる佐藤泰志の作品です。

生きる意欲に満たされた「繊細さ」ならともかく、悲観と絶望に満たされた「繊細さ」など、いささかたりとも理解したいとは思いません。

仮に、なんらかの希望をほのめかしたラストシーン(この実作品もそうかもしれません)を付け足そうとも、そこに描き出される風景は、結局のところ、すでに死を決している者・これから死していこうとしている自殺予定者の見る捨て鉢で投げやりな荒廃した死の風景に変わりなく、正直、自分など見ていて胸苦しくなるばかりで、まともに対峙などしたくない、ギスギスした世界が描かれているばかりで、できれば敬遠・遠慮したいというのが正直な気持ちですが、だからなおさら、こういう作品を若い女性があえて見ようとしたことがなんとも意外でした、きっと、それもこれも主演のオダギリジョーという役者の集客力のタマモノなんだろうなと感じました。

ひとりの女性が、友だちに盛んに疑問を投げかけています、それは、映画の中でたびたび唐突に演じられる聡(蒼井優)の「鳥の求愛」の所作の意味が、さっぱり分からないと話しているのでした、「あれって、なんなん?」。

なるほど、なるほど、たびたび挿入される聡の「鳥の求愛」みたいな奇妙な踊りには、自分も引っかかるものがありましたが、むしろシラけが先に来て、いちいち考えるのもなんか億劫で面倒くさくて、あえて意識的に見過ごしたのですが、それだけに彼女の素朴な疑問に虚を突かれたような感じを受けました、迂闊です。

それにしても、この女性、実にいいところをついていると思いました。

こういう「素朴な疑問」こそ見過ごしにせずに、しっかりと向き合うという姿勢が、とても大事なんですよね。

彼女、たぶん、これがなにかの象徴らしいとは感じているのですが、なんの象徴なのかが分からないので、なおさら、その意味を知りたがっているのだと思います。

真向かいに座っていた女性が、「ああして彼女、いつも誰かを求めていたんじゃない? つまり、求愛のサインとか」と返すと、別の女性が、「でも、どう見ても『求愛』じゃないところでも、彼女、踊っていたわ」「うん、あった、あった、酔った店の客にもね」と、話はどんどんヒートアップしています。

そういえば、白岩(オダギリジョー)が、はじめて聡を見かけた場面、路上で妻帯者らしき男となにやら揉めていて、男をなじり、苛立ちをあらわにしながら鳥の動作で奇声(鳥の鳴き声だと思います)を発して男の周囲を踊り廻っていたという場面は、少なくとも「求愛」ではなかったと思いますが、しかし、別の場面では、知り合ったばかりの白岩に「鳥の求愛はどんなふうにするの?」と問われ、突如スーパーの駐車場で踊り始め、しかし、踊りながらだんだん気分を害した聡が憮然として立ち去ってしまうという場面には、彼女が本心からではない形ばかりの踊りを踊ることでその「空疎感」に堪えきれなくなって(好意を抱き始めた白岩の前だからこそ)苛立ちのあまり立ち去ったのだと考えれば、逆に、その裏には、踊る真の目的を貶められ汚され、そのことを理解できない白岩に彼女が憤ったと考えるのが順当なのかもしれません。

たぶん、この映画でもっとも重要な場面は、聡にキャバクラへの同伴出勤を依頼された夜、白岩がカウンターで飲んでいるところに、同じ職業訓練校に通っている訓練生・代島(松田翔太)が不意にあらわれ、そこに白岩を見止めてちょっと驚き、さらに自分のキープしているボトルを白岩が飲んでいるのにも気が付きます、その不審顔の代島のもとにすぐに聡が駆け寄って弁解するという、3人が揃うこの場面に、この映画のすべてのエッセンスが集約されているのだと感じました。

代島は、白岩に、聡と本気で付き合っているのかと問いつめます、傍らで聡は、水割りを作りながら、代島の話を聞いて終始ヘラヘラとニヤついているという場面です。

その場面をちょっと再録してみますね。

「白岩さん、この女と本気で付き合ってるんすか。本気じゃないですよね。こいつはただのヤリマンっすよ。」

「ちょっと、やめてよ」

「お前が、やめろや。白岩さんは、真面目なんだからよ。お前に、嵌まってっけよ」

「嵌まってるの?」

「白岩さん、この女はマジでそういう女じゃないんすよ。俺がやったときなんか、あれ、クスリかなんかで決まってた? 外でやってんのに声出してたべ。やばかったんですよ。白岩さん純粋だから、そういう女だって分かんねえんだよなあ。こういう商売、向いてないかもしんないですね。ああ、他に誰かいねえかな。学校の奴らにろくなのいねえからな。」

聡は、卑屈とも見えるニヤニヤ笑いを崩すことなく、カウンターの奥に音楽をかけてくれと声を掛けてその場を立ち去り、店の奥で流れる曲に乗って激しく踊り始めます、きっと、いつもそうするように。

その聡の踊る姿を見ながら、さらに代島は白岩に話し続けます。

「頭おかしいんですよ、あいつ。白岩さん、女で失敗するタイプだから、気を付けたほうがいいっすよ」

聡の踊る姿をじっと見つめながら、その話を聞いていた白岩は、代島に答えます。

「心配ないよ。俺、なくすものなんか、なんにもないから」

そう答えて白岩は立ち上がり、聡が引く架空の引き綱に引き寄せられるように彼女に近づいて、そして不意に彼女の細い体を深く抱き締めます、社会からはじき出され、裏切り傷つけられ続け、ついに行き場を失った男と女が、もう二度と傷つけられまいと身構えた疑心暗鬼のすえの、薄汚れた場末の飲み屋で始めて心かよわせることができた痛切な場面なのだなと気が付きました。

あの終始保っていた聡の卑屈ともいえるニヤニヤ笑いは、この社会で二度と傷つくまいとする、負け犬なりの「武装」だったのに違いありません。

そしてそれなら、あのとき、職員食堂で女子社員たちが疑問として語り合っていた「求愛の踊り」にしても、かつて傷つけられた者が、他人とまともには接したくないという必死の「武装」だったのかもしれないと思えてきました。


(2016)監督・山下敦弘、原作・佐藤泰志、脚本・高田亮、撮影・近藤龍人、製作・永田守、製作統括・小玉滋彦、余田光隆、エグゼクティブプロデューサー・麻生英輔、企画・菅原和博、プロデューサー・星野秀樹、アソシエイトプロデューサー・吉岡宏城、佐治幸宏、米窪信弥、キャスティングディレクター・元川益暢、ラインプロデューサー、野村邦彦、撮影・近藤龍人、照明・藤井勇、録音・吉田憲義、美術・井上心平、編集・今井大介、音楽・田中拓人、
出演・オダギリジョー(白岩義男)、蒼井優(田村聡)、松田翔太(代島和久)、北村有起哉(原浩一郎)、満島真之介(森由人)、松澤匠(島田晃)、鈴木常吉(勝間田憲一)、優香(尾形洋子)、塚本晋也(義男の元義父(声))、



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by sentence2307 | 2017-11-03 16:14 | 映画 | Comments(0)
この作品を見る前も、そして見た後も、やはり原題の「Assassination(暗殺)」では、作品の全容を伝えるタイトルとしては、なんだか相応しくないのではないかという思いにずっと捉われていました、

この映画が描いているものを「暗殺」と言い切ってしまったら、なんだか元も子もないような気がしたのです、この映画が描いているものは、社会から疎外された孤独な青年がずっと抱いてきた夢としての偶像(義賊ジェシー・ジェームズ)をただ汚すものでしかない現実に存在する卑小な者(びくびくと追手から逃げ回る無様で小心な犯罪者)を否定する行為として、あの殺害があったわけですから、ここは無理な直訳に捉われず、ずばり「否定」でもよかったと思うし、具体的に「殺害」としてもよかったのではないかと思ったのです。

いままでだって映画のタイトルをつけるうえで「直訳」に拘ったり囚われたりしたことなんて、ただの一度もなかったじゃないかという思いも当然ありました。

なにせ、アメリカから遥か遠く隔たっている極東の、肌が真っ黄色な東洋人からすると、「暗殺」ときたら、そりゃどうしてもリンカーンやケネディを思い描いてしまうわけで、地政学的ギャップから逃れられないという悲しい現実もあり、その思考の東洋的限界が、「暗殺」などという大そうな政治的なタイトルになじめず、極端に言えば拒否したい(いまでも、ですが)気持ちになったのだと思います。

追われる犯罪者ジェシー・ジェームズの疑心暗鬼をブラッド・ピットが暗く重厚に演じ、その「偉大な」犯罪者の疑心暗鬼に、まるで炙られ追い立てられるようにして、「義賊・ジェシー・ジェームズ」への失意を殺意にまで変質させる暗殺者ロバート・フォード(ケイシー・アフレックの名演が光ります)の苛立ちと深い孤独を繊細に描いたこの死の影に覆われた物語が、そのまま当時のアメリカの国情・「時代の苛立ち」を反映したものでもあったことがよく分かりました。

この物語の背景には、北軍に敗れた南部の鬱積と憎悪のはけ口として、南北戦争に参加した犯罪者ジェシー・ジェイムズを、まるで鼠小僧のように崇拝し、「義賊」としてイメージすることで、当時の沈滞の中にあった南部の救いとして社会的な必要性から生み出された妄想だったとすれば、たとえそれが仮に「ジェシー・ジェイムズ」でなかったとしても、ほかの誰かでもよかったのだというその「空虚」を、この作品「ジェシー・ジェームズの暗殺」は精密に描きだしているのだと思いました。

深い劣等感のなかで社会から疎外され傷ついた孤独な青年が、唯一の心の支えとして仰ぎ見た「義賊ジェシー・ジェームズ」が、追手から逃げ回る小心な疑心暗鬼に囚われている臆病者にすぎないことの失意と失望が、やがて「射殺」という否定にまで高揚していく孤独な復讐の物語として見れば、やはりこの映画のタイトルは、「ジェシー・ジェームズの暗殺」などではなく、理念をも込めて「落ちた偶像」的なものにすべきだったのではないかと考えた次第です。

こんなふうに自分としては、この作品に深く思い入れ、また、感動もしたのですが、しかし、この作品に対する感想の多くが、まずはどれも「長い割には、とても退屈だった」という前置きから始められていることを知り、とても驚き、そして愕然としました。

しかし、この「愕然」は、なんだか以前にも似た経験をした思いがあったので、ちょっと考えてみて、そしてすぐに思い出しました。

テレンス・マリック監督の衝撃作「ツリー・オブ・ライフ」2011です、きっと同じブラッド・ピットが主演した重厚な演技に通い合うものがあって、すぐに連想することができたのだと思いますが、あのときも、多くの人の意見は「なんだ、こりゃ」みたい感想が多かったと記憶しています。

もちろん、この「なんだ、こりゃ」は、そのままこの作品に「ドン引き」した観客の辛辣な評価と惨憺たる反応に直結したわけですが。

「ツリー・オブ・ライフ」の評判がすこぶる悪かった理由のひとつには、善良な好人物しか演じてこなかったあのブラッド・ピットに、親に逆らう子供に逆ギレして子供を殴りつけ徹底的に痛みつけるという暴力的で横暴な父親を演じさせ、作品を鑑賞する以前に、その異常さが多くのファンをげんなり(嫌悪です)させて最初から拒絶の姿勢を誘発させてしまったからに違いありません。

子供への暴力描写は、自分をも含めて、多くの鑑賞者を居たたまれない思いにさせ、その拒否反応は、作品そのもの・トラウマを抱えた子供たちが煩悶し、自殺の衝動を超えながら成長し、やがて再生をはたすという、映画の内実を鑑賞させることもなく、物語の核心に至る以前に、観客の気持ちを閉ざさせてしまったことにあるからかもしれません。

この「子供への暴力」の場面は、「ジェシー・ジェームズの暗殺」にもありました。

疑心暗鬼になったジェシー・ジェームズが、裏切り雲隠れした男を追って、父親の行方を否定するその息子(少年です)に、感情を失ったような冷ややかさで、仲間が止めるのも聞かずに執拗に何度も殴りつけ痛みつける場面です。

狂気にでも囚われていないかぎり、そんな惨いことは、とてもできるものではないという演出の思いが込められた場面なのは分かりますが、見る側としてはその現象自体に堪えられないものがありますし、ブラッド・ピットが二度までもこの「親からの暴力」に執拗にこだわるのは、もしかしたらここに、ブラッド・ピット自身のトラウマがあって、彼の「なんらかの訴え」が込められているのではないか、などと勘ぐってしまうし、それがどのようなものであれ、それ自体の重さが鬱陶しく感じてしまったくらいでした。

しかし、いわば、ここまでは、この作品に感動した表向きの「公式的な」感想です。

実は、自分の感激した部分は別にありました、この映画の付録のように付け足された暗殺者フォード兄弟の後日談の部分です。

ロバートとチャーリー兄弟は、ジェシー・ジェームズを射殺した顛末を芝居に仕立てて巡業します。

いまから見れば、そのグロテスクさは相当なものがあるのですが、娯楽の乏しかった当時とすれば、巡業芝居のなかでも多くを占めた「きわもの芝居」のひとつだったかもしれませんが、事件の当事者が演じるというその異色さで、客を呼びこむ話題性としては、とびぬけたものがあったのだろうと思います。

しかし、実際は、映画の中でも描かれているとおり、客の反応としては、世評そのままの、どこまでも「義賊」を後ろから射殺した「卑怯者」という非難の込もった関心以上のものではありませんでした。

兄弟は、観客のその冷ややかな視線に常に晒され、非難に徐々に追い詰められ、兄チャーリーは自らの銃で脳髄を撃ち抜き、ロバートも市民のひとりに撃ち殺されます。

せめてもの救いは、かつて自分が背中を撃ち抜いて殺したジェシー・ジェームズと違い、正面から撃たれたことで、少なくとも自分が殺される瞬間をその目で確認することができたくらいの差しかありませんでしたが。

この「事件の当事者が、その事件を芝居仕立てにして巡業した」というクダリに大変興味を持ちました。

いやいや、そもそも芝居の成り立ちとは、多かれ少なかれ、そうしたキワモノから成り立っているのではないかという思いを強く持ちました。

そして、このような芝居なら、日本にもあったのではないかと、ちょっと調べてみたくなりました。

しかし、どのように調べ始めたらいいのか、その取っ掛かりが掴めません。

あれこれ思い悩んだすえに、思いついたのは、中川信夫の「毒婦高橋お伝」でした、あの映画の最後は、どうだっただろうか、

あの阿部定だって、劇団を組織して、自分の関わった「あの事件」を芝居にして地方を巡業したなんてこともちょっと聞いたことがあるような気もしてきました。

そこで手始めにwikiで「高橋お伝」を検索してみました。

そして、すぐに自分の見込みが、甘すぎたことを痛感させられました。

まず、こんなクダリがありました。

「(高橋お伝の)処刑の翌日から「仮名読新聞」「有喜世新聞」などの小新聞が一斉にお伝の記事を「仏説にいふ因果応報母が密夫の罪(「仮名読」)」、「四方の民うるほひまさる徳川(「有喜世新聞」)」といった戯作調の書き出しで掲載した。読売の自演により、口説き歌として流行した。これが後の「毒婦物」の契機となる。明治14年(1881年)4月、お伝三回忌のおりに仮名垣魯文の世話で、谷中霊園にもお伝の墓が建立された(遺骨は納められていない)。」

そして「十二代目守田勘彌、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、三遊亭圓朝、三代目三遊亭圓生らがお伝の芝居を打って当たったのでその礼として寄付し建てたという。」くらいですので、こういう話を芝居がほっておくわけがないのは当然だったのです。

それに、映画としても、以下に掲げる作品がつくられているのですから、なにをかいわんやです。

『高橋お伝』(1912年 福宝堂)
『お伝地獄』前中後編(1925年、監督:野村芳亭、高橋お伝:柳さく子 松竹下加茂撮影所) 
『高橋お伝』前後篇(1926年、監督:山上紀夫、高橋お伝:五月信子 中央映画社)
『高橋お伝』(1929年、監督:丘虹二、高橋お伝:鈴木澄子 河合映画製作社)
『お伝地獄』(1935年、監督:石田民三、高橋お伝:鈴木澄子 新興キネマ京都撮影所)
『毒婦高橋お伝』(1958年、監督:中川信夫、高橋お伝:若杉嘉津子 新東宝)
『お伝地獄』(1960年、監督:木村恵吾、高橋お伝:京マチ子 大映東京撮影所)
『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(1969年、監督:石井輝男、高橋お伝:由美てる子 東映京都撮影所)
『毒婦お伝と首斬り浅』(1977年、監督:牧口雄二、高橋お伝:東てる美 東映京都撮影所)
『ザ・ウーマン』(1980年、監督:高林陽一、高橋お伝:佳那晃子 友映)
『紅夜夢』(1983年、監督:西村昭五郎、高橋お伝:親王塚貴子 にっかつ=アマチフィルム)


まあ、最初は、高橋お伝で思わしい結果が得られなければ、すぐさま「夜嵐おきぬ」にあたりをつけて、それでも駄目なら「鳥追お松」に立ち寄ってから、「花井お梅」まで行ってみようかななどと考えていたのですが、こうまでポピュラーな存在なら、あえて検索してみるまでもないかと、なんだか意欲も気力も失せました。

しかし、負け惜しみではありませんが、これって、どれも「本人」が演じたものってわけじゃありませんよね。

自分が当初目指したのは、「事件の当事者が、その事件を芝居仕立てにして巡業した」という事例検索なのですから、やっぱりこれとはちょっと違うわけで、と考えていた矢先、リアルタイムで読んでいた吉村昭の小説「赤い人」(講談社文庫)の末尾で、こんなクダリに遭遇しました。

少し長くなりますが、重要なので転記してみますね。

「樺戸集治監開設と同時に収容された五寸釘寅吉の異名を持つ西川寅吉は、空知監獄署でも7回の脱獄を企て、捕えられて網走監獄署に服役していた。かれは無期が3刑、有期徒刑15年が2刑、懲役7年、重禁錮3年11月それぞれ1刑の罪を課せられていた。
その後、かれは別人のように穏和な人物になり、同囚を親身になって世話し、看守にも礼儀正しく接し、読書を好んだ。その傾向は年を追って強まり、行状査定は良から最良に進み、賞を受けることもしばしばで、署内屈指の模範囚になった。
大正13年9月3日、72歳という高齢と悔悟の念が極めて強いことが認められ、異例ともいうべき仮釈放が彼に伝えられ、出獄した。それは新聞にも報道されたが、たちまち彼の周囲に興行師が群がった。そして、札幌に事務所を持つ新派連続劇を上演していた新声劇団大川一派の誘いを受けて参加した。
かれは、浪曲師のように布を垂らした机を前に、自らの一代記を述べる。その脚本は警察の保安課の許可を得たもので、犯罪予防の社会奉仕と唱われていた。
かれは、興行師から興行師に渡され、「五寸釘寅吉劇団」と称して東京の人形町喜扇亭、三ノ輪三友亭、八丁堀住吉をはじめ九州、台湾にも巡業し、武州鴻の巣で興行師に捨てられ、故郷の村に帰った。昭和10年、網走刑務所からの問い合わせに、村役場から、
「・・・現在ニ於テハ老衰シ労働不能ノ為、本籍自家ニ閑居シ温厚ナリ。而シテ本人ハ元ヨリ無産ニシテ辛ウジテ生活ヲナス」
と、回答が寄せられ、その後、老衰による死が伝えられた。」

ほらね、あったでしょ、自分が言いたかったのは、これなんですよ、これ!


(2007 WB)監督脚本・アンドリュー・ドミニク、原作・ロン・ハンセン、製作・ブラッド・ピット、デデ・ガードナー、リドリー・スコット、ジュールズ・ダリー、デヴィッド・ヴァルデス、トム・コックス、マーレイ・オード、ジョーディ・ランドール、製作総指揮・ブラッド・グレイ、トニー・スコット、リサ・エルジー、ベンジャミン・ワイスブレン、音楽・ニック・ケイヴ、ウォーレン・エリス、撮影・ロジャー・ディーキンス、編集・ディラン・ティチェナー、カーティス・クレイトン、衣装デザイン・パトリシア・ノリス、製作会社・ワーナー・ブラザース、プランBエンターテインメント、ジェシー・フィルムズ、スコット・フリー・プロダクションズ、アルバータ・フィルム・エンターテインメント、バーチャル・フィルムズ、原題: The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford
出演・ブラッド・ピット(ジェシー・ジェームズ)、ケイシー・アフレック(ロバート(ボブ)・フォード)、サム・シェパード(フランク・ジェームズ)、メアリー=ルイーズ・パーカー(ジー・ジェームズ)、ジェレミー・レナー(ウッド・ハイト)、ポール・シュナイダー(ディック・リディル)ズーイ・デシャネル(ドロシー・エバンズ)、サム・ロックウェル(チャーリー・フォード)、ギャレット・ディラハント(エド・ミラー)、アリソン・エリオット(マーサ・ボルトン)、マイケル・パークス(ヘンリー・クレイグ)、テッド・レヴィン(ティンバーレイク保安官)、カイリン・シー(サラー・ハイト)、マイケル・コープマン(エドワード・オケリー)、ヒュー・ロス(ナレーション)、

第64回ヴェネツィア国際映画祭男優賞(ブラッド・ピット)
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (2007年)助演男優賞(ケイシー・アフレック)
全米批評家協会賞助演男優賞(ケイシー・アフレック)
サンフランシスコ映画批評家協会賞作品賞、助演男優賞(ケイシー・アフレック)
シカゴ映画批評家協会賞撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
セントルイス映画批評家協会賞助演男優賞(ケイシー・アフレック)、撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
第12回フロリダ映画批評家協会賞:撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
ヒューストン映画批評家協会賞:撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
第80回アカデミー賞助演男優賞(ケイシー・アフレック)
第80回アカデミー賞撮影賞候補(ロジャー・ディーキンス)


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by sentence2307 | 2017-10-15 16:30 | 映画 | Comments(0)

哀愁

むかし、ある映画を見ていたときのことですが、その映画が相当につまらない作品だったらしく、すっかり集中力を欠いてしまい、傍らに置いてあった文庫本に手を延ばして、いつしか映画そっちのけでその本を夢中で読んでいました。

映画に「END」マークが出てからも、ビデオを停止する気さえ起きず、そのままテープを回転させていたら、突然、画面にジョン・フォード監督作品「怒りの葡萄」の、あの感動のラストシーンが映し出されたので、びっくりしたことがあります。

つまり、一本のテープに何度も映画を重ね録りしていた結果、上映時間の長い作品のラストシーンの部分だけが残った状態になっており、消去されなかったそのわずかな最後の場面が連続して(というのは、「怒りの葡萄」のほかに「道」と「哀愁」のラストシーンが続いて録画されていました)流れてきたというわけです。

それはまるで、感動のラストシーンばかりを集めたダイジェスト版を見ているような、ちょっとしたサプライズ体験でした。

いままで見ていた映画が印象の薄い「いまいち作品」でテンションが下がりまくっていただけに、なおさら印象を強くしたのかもしれません。

ちょうど、「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストシーン・神父が風紀上よろしくない場面をカットした上映禁止の「キス・シーン」が立て続けに流れたあの感動の場面をじっと見つめている感じとダブルものがあったからでしょうか。

その「怒りの葡萄」、場面はジョード一家が、やっと自由で公平な国営キャンプに落ち着くことができて、さあこれから暮らしも安定すると思っていた矢先、真夜中に巡回している警官たちの密談を聞いてしまったトム(ヘンリー・フォンダ)が、身元を警察に嗅ぎつけられ明日にも逮捕されるかもしれないと知り(彼は前にいたキャンプ地で殺人を犯しています)、夜陰に乗じて逃げようとする直前の僅かな時間に、母親(ジェーン・ダーウェル)と濃密な言葉を交わす緊迫した別れのシーンです。


「トミー、黙って出ていくのかい」

「どうすべきか分からない。外へ出よう。警察が車のナンバーをチェックしていた。誰かにバレたんだ。でも心の準備はできているよ」

「座って」

「一緒にいたかったよ。住むところを見つけて、母さんに喜んで欲しかった。幸せな顔が見たかったけど、もう無理だ」

「お前ひとりくらい、かくまえるよ」

「殺人犯をかくまうと、母さんまで罪に問われる」

「わかったよ、これからどうする気なの」

「ずっと考えていた、ケーシーのことをね。彼が言ったことや、彼がしたこと、そして彼の死にざま、目に焼き付いている」

「いい人だったからね」

「俺たちのことも考えていた。豚のように生きる人間と眠っている豊かな土地、広大な地主の土地。10万の飢えた農民・民衆が団結して声を一つにすることができれば」

「そんなことしたらケーシーの二の舞だ」

「遅かれ早かれ、俺は捕まるよ、そのときまで・・・」

「えっ、トミー、誰かを殺すんじゃないだろうね」

「そんなつもりはないよ、だが俺は、いずれにせよ無法者さ。でも、こんな俺にもできることがあるはずだ。それを探し求めながら不正を正していきたいんだよ、自分でもまだはっきりとは分からないんだ、なにをすればいいのか。まだ力不足だからね」

「この先、どうなるのかしら。もし、お前が殺されても、母さんには分からないじゃないの」

「ケーシーがいつも言ってたよ。人間の魂は大きな魂の一部なんだとね。この大きな魂は皆につながっている。そして・・・」

「だから、何」

「たとえ暗闇の中であろうと、俺はいつでも母さんの見える所にいるよ。飢えている人が暴動を起こせば、俺はそこにいる。警察が仲間に暴行を加えていたら、そこにもいる。怒りで叫ぶ人の間にもいるさ。夕食が用意されて喜びに満ちた幸せな子供たちの所にも俺はいる。人が自分で育てた物を食べて、自分が建てた家で安らぐ時にも俺はそこにいるんだ」

「よく分からないわ」

「俺もだよ。でも、ずっと考えていたことさ。手を出して。元気でね、母さん」

「お前もね。ほとぼりがさめたら、また戻ってきてくれるだろうね」

「もちろんだとも」

「あまりキスなんか、したことないけど」

「じゃあ、母さん、行くね」

「元気でね。トミー、トミー」


何度でも繰り返して見てきた素晴らしい場面です。

これらのセリフを筆写しながら初めて気がついたことですが、このラストが僕たちに与えた高揚感は、決して「言葉の羅列」だけにあるのではなく、ヘンリー・フォンダの抑えた名演があったからだと今更ながら実感しました。


つづいてフェリーニの「道」のラストシーンが映し出されています、いまではすっかり老いたザンバーノ(アンソニー・クイン)が侘しい夜の海岸で泥酔し、悲しみの果てに寂しく死んだという捨てた女・ジェルソミーナの思い出に打ちのめされて、その失ったものの大きさと、神に見捨てられた絶望的な孤独の深さとに慄然として号泣する場面です。

おびただしい凡庸な作品に取り囲まれ、ほとんどが失望と嫌悪しか経験できないような繰り返しの毎日の中で、なぜ自分は相も変わらず映画を見続けようとしているのか、かつて自分を決定的な感動で映画に引き寄せた「感動と動機」の原点に生で触れる思いがして、改めて思いを新たにした素晴らしい体験でした。


そして、続いて映し出されたのが、マーヴィン・ルロイ監督の「哀愁」です。

実は、自分は、今でもこのラストシーンの部分だけはyou tubeで繰り返し見ています。

バレエの踊り子マイラ(ヴィヴィアン・リー)は、ウォータールー橋でロイ・クローニン大佐(ロバート・テイラー)と出会って恋に落ち、しかし、大佐はすぐに出征しなければならないために、慌ただしく結婚を約して、ふたりは別れます。

やがて、待ち続けるマイラの目に飛び込んできたのはクローニン大佐の戦死記事。

絶望し、生きる意欲も失い、「もう、どうでもいい」という虚脱と、そして生活苦から、マイラは娼婦となって夜の街頭に立ち始めます。

そんなある夜、駅の雑踏で適当な客を探すマイラの前に突然、戦地から戻ってきたクローニン大佐が現れます。「僕が帰ってくるのが、よく分かったね」と彼は微かに訝りながらも、喜びでたちまち掻き消されてしまうその「真の理由」が、後々に彼女の破滅・自殺の原因として暗示されている、なんとも痛切なラストシーンです。

どんな好色な相手の淫らな要求にも、いかようにも応じることができるしたたかな娼婦の、客を淫らに誘う薄笑いの表情が、クローニン大佐の突然の出現によって、一瞬にして清純だった「あの頃の乙女」に立ち戻るヴィヴィアン・リー生涯の名演技です、何度見ても見飽きることも色あせることもありません。

しかし、あの時、この突然の出会いがよほど嬉しかったにしろ、娼婦として客待ちしている人間が、あんなふうに突然豹変できるものだろうかという疑念に微かに捉われたことがありました。

自分の頭の中にはそのとき、卓越した日本の映画監督の幾つかの作品が交錯していたのかもしれません。

例えば、溝口健二演出なら、喜びのあまり駆け寄って抱擁するなんてことは、まずはあり得ません。

それでは、大佐と別れたあとで彼女が体験しなければならなかった過酷な過去を、すべて無視し・否定することになる、溝口健二のリアリズムにとっては到底考えられない理不尽な演出になってしまいます。

自分が娼婦にまで身を落とさなければならなかった原因のひとつは、荒廃した戦時下の社会にひ弱な女性が、なんの手当もされずに突如無一文でひとり放り出されたことにあります。

裕福らしく見える大佐なのですから、婚約した以上、もう少しどうにか生活に困らないだけの手当をしてあげることもできたのではないか、経済力を持たない踊り子にやがてどのような過酷な未来が待ち受けているか、少しも想像できなかったクローニン大佐の迂闊と無邪気さが、マイラの苦痛と堕落の因となったわけで、その意識をマイラもまた少しでも持っていたとしたら、まずは「憤り」をぶつけて掴みかかるくらいが当然で、溝口健二もそのように演出したに違いありません、少なくとも「喜びのあまり抱き着く」なんて演出は、まずはあり得ない・理不尽な行為と考えたはずです。

それなら、小津演出なら、どうだったか、駆け寄る大佐に冷笑を浴びせ、客として一夜を共にし、金を受け取ってウォータールー橋で別れさせたかもしれません。別れがたく後ろを何度も未練がましく振り返る男と、一度も振り返ることもなく毅然として立ち去る女、架空の小津作品を妄想しながら、これも違うなという思いもまた、意識のどこかにありました。

実は、自分の気持ちは、ずっと、成瀬巳喜男監督作品「驟雨」のラストシーンに占められていました。

妻(原節子)は、夫とデパートの屋上で待ち合わせますが、遠目から、夫が上司の夫婦と話している姿を見つけます。

華やかに着飾っている上司の妻に引き換え、自分のみすぼらしいナリを恥じて、妻は物怖じしながら物陰に身を隠すというシーンです。

それを思うと、娼婦として客を誘っていることの意識がマイラにあれば、その延長線上で考え得る行為は、「憤激」や「冷笑」よりも、むしろ「物陰に身を隠す」方が、なんだか最も相応しいように思えてきました。

あえてドラマを動かさずに、日常の揺れを繊細に撮り続けた成瀬監督が、果たして全編にわたるヴィヴィアン・リーのヒステリックな演技をどう抑え込むことができたかは、ちょっと想像することはできませんでしたが。


哀愁 (1940 MGM)
監督製作・マーヴィン・ルロイ、製作・シドニー・A・フランクリン、原作戯曲・ロバート・E・シャーウッド、脚本・S・N・バーマン、ハンス・ラモー、ジョージ・フローシェル、撮影・ジョセフ・ルッテンバーグ、美術・セドリック・ギボンズ、編集・ジョージ・ベームラー、挿入曲・別れのワルツ
出演・ヴィヴィアン・リー(マイラ・レスター)、ロバート・テイラー(ロイ・クローニン大佐) 、ルシル・ワトソン(マーガレット・クローニン) 、ヴァージニア・フィールド(キティ) 、マリア・オースペンスカヤ(オルガ・キロワ) 、C・オーブリー・スミス(公爵) 、ジャネット・ショー(モーリン)、レオ・G・キャロル、ジャネット・ウォルド(エルサ)、ステフィ・デューナ(リディア)、ヴァージニア・キャロル(シルヴィア)、レダ・ニコヴァ(マリック)、フローレンス・ベイカー(ビータース)、マージェリー・マニング(メアリー)、フランシス・マクナーリー(ヴァイオレット)、エレノア・スチュワート(クレイス)、



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by sentence2307 | 2017-10-01 10:26 | 映画 | Comments(0)