世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:根岸吉太郎( 1 )

ヴィヨンの妻

体調を崩したときなどつくづく思うのですが、映画を見るという行為は、本当に体力がいることなんだなあと痛感しています。

とにかく、心身ともに充実してないと、「映画」のなかに入っていくことはできないし(ストーリーをたどるということもそうですが、さらに深い意味での映像の流れみたいなものに身をゆだねるという意味でも)、当然集中もできません。

ある瞬間に、目の前をただ映像がよそよそしく流れすぎていくだけ、あとには空っぽの自分がひとり取り残されているなんてことに突然気づいて、愕然とすることがあります。

だからでしょうか、たまに、見る映画がどんどん自分に中に入ってきて、どんどん消化できているなと実感できるときなど(そんなこと滅多にありませんが)、嬉しくなって、この充実の波を逃す手はない・何本でも見るぞなんて過剰に意気込んでしまったりするのも、我ながら至極当然なことだとは思うのですが、しかし、その「快調」も、諸手を挙げて喜ぶことはできません。

そんなふうに映画を何本も重ねて見ることによって、結果的にそれぞれの作品の印象を相互に薄めてしまうということにもなり、そしてなによりも、いつの間にか「本数を消化した」という、感性とは違う部分で、自分の中で満たされてしまうものがあるとすれば、それもなんだか恐ろしいような気もします。

ですので、体調のいいときでも、立て続けに映画を見るのは、なるべく避けようとしているのですが、どうしても映画を見る時間が限られている自分にとって、余裕の時間ができれば、さっそく貪欲に体力の限界まで何本でも見てしまうというのが、悲しい現状です。

もっと余裕をもって、じっくり映画を見られたらいいのになとか思いながらも、また今日も無謀な映画のハシゴをしているというのが実情です。

そんなわけで、実は、世評の高いこの「ヴィヨンの妻」を見たあとで、もう1本、こちらの方は、あまり評判の芳しくなかった映画「蛇にピアス」を立て続けて見てしまいました。

「見てしまいました」という言い方には、当然「よせば良かった」というニュアンスが含まれています。

「ヴィヨンの妻」において自堕落な小説家・大谷の妻・佐知を毅然として演じた松たか子と、猥雑な都会で恋人を見失い、そして生きる意味も見失って、ただ自分を傷つける痛みだけを頼りにして生きていくような孤独な少女を粗雑で不器用に演じた吉高由里子とを、「女優」という次元ではとても論じられるわけもないでしょうし、このふたつの作品を無理やり「感想」の同じ俎上に乗せること自体、清らかな印象の強い「ヴィヨンの妻」を、なんだか汚すような後ろめたさを感じないわけではありませんが。

「たまたまふたつの作品を続けて見たというただそれだけのことなのに、無理やり変な理屈をつけて、『ヴィヨンの妻』とあんな作品とを強引に一緒にするなよな」くらいは言われてしまうかもしれませんね。

そのくらい「蛇にピアス」という作品は、フツーの人には、ちょっと近寄りがたい、相当な努力をしなければ受け容れられない挑戦的なもの? まあ、はっきり言ってしまえば「理解」の前に「嫌悪感」が立ちふさがっているような作品だと思います。

しかし、そんな二本の作品なのですが、立て続けて見たことによって、極端に異なるこのふたつの作品が、瞬間的に微妙に接近した部分(いわゆる「ニアミス」というヤツでしょうか)を発見してしまったのです。

あてどなく渋谷を彷徨する少女・ルイが、赤い髪をしたアマと出会い、舌にピアスを入れることで、ゆくゆくはその穴を広げ、蛇の舌のようにしたいという切実な思いにとらわれます。

舌にピアスを入れ、さらに背中に麒麟と龍のタトゥを彫り、自分の体をひたすら傷つけることをエスカレートさせて、生きている証し(厳密な意味では、自分を滅ぼすための理由づけですから、むしろ緩慢な自殺への意思とでもいった方がいいかもしれません)を、「痛み」に求めるかのように、次第に「負」の昂揚に囚われていく過程で描かれていた一場面でした。

ふらふらと街をさまようルイに子供が接触し、道端に倒れ込み、倒れた子供を母親がかばって、見るからに荒廃したルイを恐れと非難の眼差しを見返す場面です。

母子の視線にさらされたルイは、「こんな世界に生きていたくない」と吐き捨てるように呟き、その場から逃げるように立ち去ります。

この映画のなかでは、ほかにこの場面を説明するような彼女の生い立ちとか事件とかが描かれているわけでは別段ないので、彼女がなぜ「こんな世界には、生きていたくない」と呟いたのかは分かりませんが、自分が突き飛ばした母子の眼差しに炙られて、思わずそう呟いたのだとすれば、彼女が、母子の世界とは別な世界にいることを認識し、この母子の世界に対して取り返しようもない隔たりと違和感を覚えていることが分かります。

しかし、この母子がルイの世界を理解できないように、ルイが母子の世界を理解できていないかというと、それはむしろ逆のような気がしてなりません。

母子の世界を十分に理解しながらも、もはや取り返すことのできない喪失感のなかで、あの「こんな世界には、生きていたくない」と彼女は呟いたのだと見るのが相応しいような気がしてきました。

ルイのことを「理解する必要もない」あの母子の属する世界への苛立ちが、ここでは語られているのだと感じました。

ここまできて、あの母子が、なんだかそのまま「ヴィヨンの妻」の佐知(松たか子が、彼女の最良の演技で演じていました)とその子供にダブって見えてきました。

いままで、太宰治を描いてきた映画が欠落していたものが、この映画には描かれていると感じました。

太宰治を語るとき、そこには常に、自殺する者たちだけが純粋で、生き残った者たちは純粋さに欠け俗物にすぎないのだという劣等感や罪悪感など、「理解」に先立って、まずは贖罪の意識で語られることが多かったように思います。

自殺=純粋→延命することの負い目→理解する素振り、から始められることの多かった太宰治モノが、しかし、映画「ヴィヨンの妻」においては、妻・佐知は、自堕落な夫の鬱屈の理由を理解できないことを隠そうともしません。

もしかしたら、夫の鬱屈など、ただの見せ掛けで、本当は中身の空っぽのポーズだけの人間に過ぎないのだと見くびっている節さえうかがわれるくらいです。

誰しもが持つ人間の劣等感を巧みに突いて成立した太宰文学に、もし同調しなければ、そのことだけで文学を理解できない不純な人間だと非難される雰囲気のなかで、僕もまたある時代を過ごしてきたことを、この映画「ヴィヨンの妻」を見ながら思い出しました。

(2009東宝)監督・根岸吉太郎、脚本・田中陽造、原作・太宰治、音楽・吉松隆、撮影・柴主高秀(JSC)、照明・長田達也、録音・柿澤潔、美術監督・種田陽平、美術・矢内京子、編集・川島章正、衣裳デザイン・黒澤和子、フードスタイリスト・飯島奈美
出演・松たか子、浅野忠信、室井滋、伊武雅刀、光石研、山本未來、鈴木卓爾、小林麻子、信太昌之、新井浩文、広末涼子、妻夫木聡、堤真一
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by sentence2307 | 2010-10-03 11:13 | 根岸吉太郎 | Comments(147)