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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:フエデリコ・フェリーニ( 9 )

フェリーニの「道」について、時々考えることがあります。

あの映画の主人公は、果たしてジェルソミーナなのか、それともザンパーノなのだろうかと。

映画の作られ方からすれば、ザンパーノを主人公にした映画と見る方が、あるいは当たっているかもしれません。

大道芸人ザンパーノの手伝いをしていた娘が旅先で死んだために、寒村に住むその母親へ彼女の死を知らせに訪れた彼に、母親は、死んだ姉の代わりに妹のジェルソミーナを連れて行ってくれと懇願します。

しかし、母親のこの懇願の場面に、僕たちは虚を突かれたような違和を感じるかもしれません。

どういう死に方をしたにしろ、娘を死なせた責任は、当然旅に同行したザンパーノの方にあるのではないかと思うのが普通で、むしろ母親の方にこそザンパーノを非難する理由があるのではないかと考えるのが順当のように思えるからでしょう。

しかし、その取りすがるような母親の不自然な懇願の姿をじっと見ているうちに、僕たちはすぐに、死んだ娘が金で売られたらしいこと、そして、彼から受け取った金をいまさら返すことのできない貧しい母親は、姉の代わりに知恵遅れの妹ジェルソミーナを連れて行ってくれと彼に懇願しているのだと気がつきます。

しかし、なにかと覚えの悪いジェルソミーナに苛立ったザンパーノは、彼女を鞭打ち苛め続けます。

昼は家畜のようにこき使い、夜には性欲の捌け口としての相手をさせながら、常にその愚鈍さを嘲り、ときには見せ付けるように彼女の目の前で行きずりの女と交合さえします。

しかし、どのように踏みにじられ、辱められても、「抱かれる」という行為をザンパーノの愛情と信じて、ひたすら彼の愚行を許すジェルソミーナのひたむきさには、多くの論者の言うとおり、哀れさを通り越して「聖性」を感じることができるかもしれません。

ただ、多くのフェリーニ作品がそうであるように、その「聖性」は、誰からも見止められることもなく、決して理解されることがないという意味において、(キジルシの言葉を借りれば)石ころのように、本当に「無意味」なものだといっているのだと思います。

キジルシは、こんなふうに言ってジェルソミーナを励ましています。

「この世に無意味な人間など一人もいない。誰もが何かの役にたっているのだ」と。

その言葉を信じて、(皮肉なことに)ジェルソミーナは、ザンパーノに寄り添って生きる決意をします。

決して人を愛すことのできない魂の不具を抱えているザンパーノを、すでに見抜いているキジルシは、ことごとく彼をからかい、怒らせ、やがて、旅の途中でたまたま出会ったところで、ザンパーノに撲殺されてしまいます。

生きることの意味をキジルシに教えてもらったジェルソミーナは、ザンパーノに従う決意をしたことによって、目の前で大切な人キジルシの命が奪われる場面を目の当たりにしてしまいます。

ケダモノのような男にとっては、どのような石であっても、結局のところ、それはどこまでいっても、つまらない石以外のなにものでもないことを、ジェルソミーナは、大きな代償を払って思い知らされたのだと思います。

最近感じていることなのですが、多くのフェリーニ作品の中のいくつかは、救いのない徹底的な絶望を描いて神の不在を説いていながら、どこかで神の・希望の気配を感じさせる作品があるように感じの作品があるなかで、このフェリーニ作品「道」だけは、どこまでも救いのない徹底的な絶望が描かれていることに暗然たる思いを抱いています。

年老いたザンパーノが、失ったものの大きさに慄然としながら、夜の海岸で泣き崩れる姿を見ながら、この映画は、やはりザンパーノの映画なのだと思いました。

(1954ポンティ・ラウレンティス)監督・フェデリコ・フェリーニ、原案脚色・フェデリコ・フェリーニ、トゥッリオ・ピネッリ、台詞・トゥッリオ・ピネッリ、脚本協力・エンニオ・フライアーノ、演出協力・ブルネッロ・ロンディ、撮影・オテッロ・マルテッリ、美術・E・チェルベッリ、音楽・ニーノ・ロータ、演奏指揮・フランコ・フェルラーラ、
出演・ジュリエッタ・マシーナ、アンソニー・クイン、リチャード・ベイスハート、アルド・シルバーニ、マルチェッラ・ロヴェーレ、リヴィア・ヴェントゥリーニ、
by sentence2307 | 2008-11-10 21:53 | フエデリコ・フェリーニ | Comments(0)

甘い生活

このブログを始めようとした理由のひとつは、日記を書くみたいに映画の感想文を書き続けられたらいいなと思ったからなのですが、でも、そもそもの最初は、「日記を書く」ということの方に重きを置いていました。

というのは、いつものことなのですが、年頭から書き初めようとした日記が、必ず1月3日で途切れ、あとは空白というのが毎年繰り返している僕の年中行事だからです。

弁解するわけではないのですが、書くぞと思って日記に向かうと、小学生の夏休みの絵日記みたいに、「今日も何もなかった」状態で書くことが何も思い浮かばず、しばし呆然と時間を無為にすごし、ため息をついて空白の頁を閉じ、それを何日か繰り返して、やがて日記を放棄するということを毎年続けてきています。

だいたいがズボラで日記向きの人間ではないのにもってきて、人並みに日記を書きたいという執念だけはしっかりとあったというのがすべての悪の種子だったのですが、こんな自分でもどうしたら書く習慣が身に付くのかと考えた結果、映画鑑賞という趣味とコラボしてみようと考えてみました。

これが、意外にうまく回転できました。

実際に書いてみると、私事について書くのではなくて映画についての感想が主体なので、とても気楽にパソコンに向かえます。

こんなことに今更ながら気付くということ自体がウッカリなだけなのかもしれませんが、「自分自身についてのことは書きたくない」という気持ちと、「日記を書きたい」という憧れがガチンコしていて、そもそも最初から不可能の要因を抱え込んでいたのだと、遅ればせながら最近になってやっと分かりました。

さて、映画の感想を書く上で、自分に課したひとつのテーマがあります。

このブログには、自分が本当に好きな映画のこと、本当に感動した映画のことだけを書き込もう。そうすることで昼間のストレスから自分を遮断し、解放できる空間というかリラックスの場を作り、このブログを自分の好きな映画に向けてのラブ・レターで満たし、好きな監督たちへのオマージュだけで埋め尽くそうと考えていました。

しかし、実際に始めてみると、心から感動できる映画とか、自分の感性と響きあうような作品は極めて少なくて、むしろ、耐え難いほどの嫌悪や苛立ちから「なにかを言いたくなる」という最悪な作品ばかりと出会うことが分かってきたのでした。

当然かもしれませんが、気が付いてみると、僕のブログは、そのような作品群に向けられた苛立ちや皮肉や嘲笑で満たされているブログです。

これでいいのかという思いと、これでいいのだという両方の思いがあります。

好きな作品のことだけに絞ってしまえば、きっと書かれるべき作品は、過去の作品ばかりになってしまうでしょうし、厳しい現実から目をそらし、自分に心地よいものばかりに取り巻かれるという望ましくない結果が招来される危険もありますし。

しかし、最悪な作品について書いていくにつれて、考えてみれば、世の中には、愛を伝える言葉は、あまりにも少なくて、バリエーションにも乏しいのに、怒り罵倒し、蔑み揶揄し、嘲笑する言葉のバリエーションのなんと豊富なことか、うんざりするほど実感させられて、そして同時に、僕がこのブログで目指していたものからの「ズレ」を意識し始めていたちょうどその頃、中津川市の市営老人保健施設の事務長が親族5人を殺害するという事件に遭遇しました。

不可解で、そしてあまりにも陰惨すぎる事件です。

しかし、この事件で、まず最初に僕が想起したことは、フェリーニの「甘い生活」のなかの一場面、爛れ切った都市生活に絶望し切っていたマルチェロが、尊敬を寄せ唯一心の支えにしていた詩人スタイナー(アラン・キューニー)が、突如家族を巻き添えにして無理心中をはたし、マルチェロが絶望のどん底に叩き落され自暴自棄に至るというラストの前触れとなる重要な場面でした。

それは、そと目には調和と安らぎに満ちたアカデミックで穏やかな生活を送っていたと見えていた詩人の心の中の荒廃した風景画が、突如僕たちの眼前に無理心中というグロテスクな姿で立ち現れた衝撃の場面です。

僕のこの映画日記に、また望んでいない背日性の陰惨な一文が記るされそうな悪い予感がするとともに、現実の事件を映画の一シーンを通して受け入れようとしているオタク的な自分もまた、意識せずにはおられませんでした。
by sentence2307 | 2005-03-05 12:01 | フエデリコ・フェリーニ | Comments(1)

あまりにも愚かで、ザンパーノの大道芸の手伝いも満足に出来ずに落ち込んでいる失意のジェルソミーナを、道化のキ印は、「この地上で役に立たない物など何ひとつないさ。この石だって何かの役に立ってるんだよ」と、励ます場面があります。

ジェルソミーナが、初めて人間として扱われ、こんな自分も誰かのために役立つことが出来るのかと自信をもつ重要な場面です。

しかし、ジェルソミーナがやっと得ることのできたその「自信」が、こともあろうにザンパーノに向けられ、なんとか彼の役に立ちたいと思うその部分が、多くの人がこの映画に聖性を感じる所以かもしれないと感じることがあります。

ザンパーノにとっては、性欲の対象(それも「女」としてというよりも、まるで「便器」のような)でしかなかった自分をひとりの自立した女性としてザンパーノに認めさせようとまで決意させたこの希望に満ちたシーンが、やがてくるキ印殺害の衝撃を更に大きなものにしたのだろうと思います。

その無垢のゆえに、殺人というあまりにも残酷な出来事の衝撃に耐え切れず、心を閉ざし泣き続けるしかない廃人のように生きるジェルソミーナに手を焼いたザンパーノは、彼女をその場に置き去りにしたまま立ち去ります。

そして、ラストのあの映画史に残る名シーンです。

寒々しい海辺の町に流れてきた今ではすっかり老いさらばえたザンパーノは、そこで自分がかつて捨てたジェルソミーナがいつも口すさんでいた歌を耳にし、歌っている洗濯女に訳を尋ねます。

その女は、気のふれた乞食女が泣きながら惨めに死んでいったこと、それでも気分のいい時には、呟くようにこの歌を歌っていたのだと言います。

やがて夜更け、荒れすさみ、絶望の中で泥酔したザンパーノは、喧嘩の果てにさまよい出た夜の海岸で泣き崩れます。

人生を、ただ欲望と快楽にのみ空費し、あと僅かしか残されていない無意味な時間が残酷な罰のようにザンパーノにのし掛かってきます。

一瞬のうちに過ぎ去った人生という儚い時間に対しての驚愕と後悔。

そしてあまりにも大きすぎる失ったものへの恐れ。

途切れるように不意に終わるこのラストには、安易な救いなどどこにも見つけ出すことの出来ない、フェリーニの人間への突き放したようなやりきれない絶望感しか感じられません。

ザンパーノの死後も、あの洗濯女は、いつまでもあのメロディを口ずさむのでしょうか。

キ印もジェルソミーナもザンパーノも、そして彼らを知る総てのものが死に絶え、哀しいこの物語の記憶もやがて人々から失われても、ジェルソミーナが愛した美しく物悲しいあのメロディだけが、いつまでも人づてに空しく生き続けていくことの残酷を思うと、何だか胸苦しくてなりません。
by sentence2307 | 2005-02-17 23:28 | フエデリコ・フェリーニ | Comments(144)

フェリーニの道化師

デヴィッド・リンチの「ストレイト・ストーリー」を見たときも感じたことですが、老醜という言葉はあっても、老美という言葉がないのは何故なのでしょうか、こうした優れた映画に出会うたびに考えさせられてしまいます。

それは、ちょうど、めくるめく絢爛さの中で、一瞬きらめいて、やがて果てる閃光のように、ここに描かれている道化師たちの栄光の時代は去り、無情に移ろう時に置き去りにされたような時代遅れのその道化に仮託するように、フェリーニもまた彼らに夢中になっていた頃の少年の日々、青年の日々の失われた若さを振り返っているように思えました。

青春期とは、振り返れば、気恥ずかしくなるほどの乱痴気騒ぎの饗宴のようなものなのかもしれません。

人生の黄昏を迎えた老いた道化師たちに、かつてその若さのすべてをぶつけた道化を精一杯演じさせることによってフェリーニは、今は既に老い衰えた彼らに、失った青春の日々を再び生き直させるかのような残酷さでおどけさせ、走り回らせます。

そして、息を切らせ、座り込む道化師をもフェリーニのカメラは、追い続けます。

それは、まるで抱きしめるような愛情に満ちた描写です。

肩を落として退場してゆくそこには、道化師たちを温かく送り出す拍手さえもありませんが、しかし、ただひとつの人生を懸命に生き抜いたという人間の生きた時間の重さと厳粛さとが、その老いを清らかで愛らしいものにしているのだと思いました。

すさんだ世界を悲しく道化て、人生を飾り立ててくれた名もない道化師たちに向けて、フェリーニの眼差しは、限りない優しさに満たされていました。 
by sentence2307 | 2004-11-07 07:21 | フエデリコ・フェリーニ | Comments(0)

8 1/2 ふたたび

「アマデウス」を見た時に感じたことですが、あの作品が描いていた殺意にまで至る程のサリエリの嫉妬とは、つまり、自分の愛する至上の音楽を、自分では生み出すことができないからこそ、粗野で下品で到底尊敬するに値いしないような劣悪なモーツァルトという人間が、いとも簡単に珠玉の名曲を生み出してしまうことへの許しがたい憤り、でした、つまり凡人の物語です。

それは、「優れた芸術作品」が、「優れた人間」から生み出されなければならないものと決め付ける鑑賞者の側からの一方的で身勝手な思い込みであり、その身勝手な「期待」が、創作者を破滅へと追い込むプレッシャーとなる一種の暴力だ、とフォアマンは描いていました。

「鑑賞者」を「大衆」と言い換えてもいいし、「製作者」と言い換えてもいい。

高い評価の作品を連発し続けた実績を持つ映画監督グイド・アンセルミが、更に高度な作品を期待され、しかし何のインスピレーションも得られないまま、製作者や周囲の者たちの好奇の眼差しに晒され破滅の崖っぷちまで追い込まれていくという「8 1/2」は、そういう作品です。

構想に行き詰まり、創作の苦しみにのた打ち回る映画監督グイドが、脅迫観念や妄想に怯えながら(拳銃自殺まで妄想します)、その苦しみの果ての孤独のなかで蘇る少年の日々と、海岸に住んでいた巨女娼婦サラギーナとの出会いを回想することによって、魂の危機から脱します。

確かに以後のフェリーニ作品には、女性に対する脅迫観念に満ちた対立的受身的部分が薄れ、風変わりな人物を、まるで陳列物を鑑賞するような回想の姿勢が支配的になったような気がします。

「甘い生活」が、殺伐とした愛欲の空しい遍歴の果ての救いのない絶望を描いて終るのとは対照的に、この映画はパレードで終ります。

この最後のパレードが、何を意味しているのかが、この作品を解く鍵だと考えていいですよね。

日常の雑事に忙殺され、とことんうんざりして、夢見るように自殺を思った主人公が、破滅の瀬戸際で出会うパレード。

自分の人生に関わってきた多くの人たち、愛した人、憎んだ人、裏切った人、総ての人々がぞろぞろと現れ、自分に向かってエールを送ってくれている。

こんな風に人生を考えられたらどんなに幸せだろうと思いました。

ここでは、どんなダメージもフェリーニの不思議な錬金術で、ことごとく生きていく力に変えられてゆく。

生きることが、歓びそのものだった少年の日々、溢れ出る好奇心の前では世界は輝きに満ち満ちていたことを、少年の心を取り戻したフェリーニは、このとき進むべき新しい方向を「発見」したのではないでしょうか。

そんな気がしました。
by sentence2307 | 2004-11-06 22:47 | フエデリコ・フェリーニ | Comments(0)
すごく面白いと思うのは、戦後のイタリア社会が経済的発展を遂げていく過程で、それまでの戦争という熾烈な現実を直視するために先鋭化されてきたネオ・レアリズモが、豊かなイタリア社会を描写する力を失い新たな方法論が求められた時、初期のネオ・レアリズモが予想もしなかったような斬新な変貌を遂げていったことだと思います。

その推進役たる代表的な映像作家が、アントニオーニであり、フェリーニだったのですが、特に注目すべきは、彼らが外部から突然現れたわけではなく内部からの生え抜きの盟友だったことであり、その新たな潮流が初期のレアリズモが衰退する過程で、形成されたことにあります。

まず最初、経済的な窮乏を逆手にとって編み出された初期レアリズモの、

①撮影所を用いない(セット撮影のない)ロケーション本位のドキュメンタリズム、
②非職業俳優の起用、
③即興的演出、非物語性、非演劇性、

→などの基本的な方法論が、イタリア社会の経済的成熟の前で力を失ったとき、アントニオーニやフェリーニが、従来のレアリズモとは全く無縁の場所と方法で登場したのかというと、むしろ、あくまでもネオ・レアリズモの諸要素を基本に据えた所から出発したというべきだと思います。

それはロッセリーニ作品への脚本参加や助監督をしたフェリーニに際立って現れています。

描くべき世界を遂にはセットだけで表現しようとしたり、一見素人俳優を使っているように見えながら、実はそうじゃない俳優の好み、例えば、カメラを凝視させながら“ど”アップに耐えさせるというフェリーニの過度な演技指導に十分応えている一癖も二癖もありそうな彼らが、ズブの素人とは到底思えません。

しかし厳密に言えば、あのロッセリーニの「無防備都市」にしても、実はその成功は、原則に反したような練達の演技陣の起用(ファブリーツィやマニャーニ等)にあったというのは周知の事実です。

ですから、ある意味では、リアリズムを極めた「無防備都市」が、そのままリアリズムからすっかり距離をとってしまった「サテリコン」に繋がるという言い方も、あるいは許されるかもしれません。

「8 1/2」という作品は、ある評者にいわせると、プルーストやジョイスに匹敵するほどの、表現の可能性の領域を広げたフェリーニの偉業だといわれています。

それまでは、映画は、ただストーリーをなぞるだけの、物語の絵解きとして文学の従属物でしかなかったその映像を、人間の意識の流れをも描き得る高度な表現手段にまで高めた・証明したという評価です。

「映像の解放」という言葉さえも散見されるのですが、しかし、それにしては、柳澤一博著・フィルムアート社刊行の「イタリア映画を読む」には、ショックを受けました。

代表的イタリア映画作家として9人の名前が挙げられているのですが、そのなかにフェリーニの名前がありません。

ヴィスコンティ、ロッセリーニ、アントニオーニ、パゾリーニ、まあ、この辺はいいでしょう。若干考え方と評価の違いがあれば仕方ないにしても(なんか、広沢虎造の「森の石松」みたいになってしまいましたが・・・)、そのあとは、タヴィアーノ兄弟、ヴェルトミュラー、カヴァーニ、ベルトリッチ、最後はプーピ・アヴァーティ(誰だ、そいつは? 「道」より凄い映画撮ったのか。聞いてねぇぞ、コンニャロー)だそうです。

ちょっと拍子抜けしてしまって、どうも作品論までいく気力が失せました。
by sentence2307 | 2004-11-06 18:01 | フエデリコ・フェリーニ | Comments(0)

カビリアの夜

娼婦カビリアが、男を信じ易いことと、騙され続けることとが、なにか密接に関係する永久運動のように描かれています。

人の良さとか素直なこととかは、まるで人間的な欠陥ででもあるかのようにさえ思えます。

裏切られ、慰みものになっても、なお、こんなふうに人を信じられるものか、ちょっと受け入れ難い部分もあるのですが、そんな失意のとき、善良そうなオスカルという青年に出会い、その誠実な態度に心引かれて、カビリアは夢中になります。

やがて彼の求婚を受け入れ、彼に全財産を捧げますが、すぐに金だけが目当ての求愛だったことが分かります。

そのうえ危うく殺されかけ、助かったものの、もはや生きてゆく支えを全く失った絶望と放心の状態で彷徨い歩いてゆくその帰り道で、カビリアは、偶然に少年たちの歌声の群れの中に紛れ込みます。

そのとき彼女は思わず微笑んでしまうのです。

心に残る名場面ですが、同時に、でも何故彼女は微笑んだのか様々な解釈がなされ得る謎のシーンでもあります。

天使のように無垢だから、愚かな人間の悪い行いも総て許したのでしょうか。

それとも失意ゆえの諦念からでしょうか。

多くのフェリーニの解説書には、そのどちらかが記されています。

しかし、それは少し違うように思います。

カビリアは、男たちから散々に弄ばれ、堕ちるところまで堕ちつくした惨めさのどん底にあっても、突然自分とは全く関係のない賑わいと微笑とに取り囲まれたとき、彼女は、その絶望にも関わらず思わず微笑んでしまったのです。

それまで男たちが望むままの性的玩具になってきたのと同じように、彼女は周囲の雰囲気に促されるままに微笑んでしまっただけなのです。

後年のフェリーニには、このようなされるがままになっているどこまでも受動的な悲しい女を描くことはなくなりましたから、その無垢さに聖性を持たせる意味がどこにあったのか今では知るよしもありませんが、こうフェリーニに訊いてみたいと思いました。

「従順とは、人間にとって欠陥なのですか。カビリアは、更に壊され続け、やがてジェルソミーナのように死んでゆくのですか」と。 
by sentence2307 | 2004-11-06 12:14 | フエデリコ・フェリーニ | Comments(4)

あまりにも愚かで、ザンパーノの大道芸の手伝いも満足に出来ずに落ち込んでいる失意のジェルソミーナを、道化のキ印は、「この地上の物で役に立たない物など何もないさ。この石だって何かの役に立ってるんだよ」と、励ます場面があります。

ジェルソミーナが、初めて人間として扱われ、自信をもつ重要な場面です。

ザンパーノにとっては、性欲の対象(それも「女」としてというよりも、まるで「便器」のような)でしかなかった自分を、ひとりの女性としてザンパーノに認めさせようとまで決意させたこの希望に満ちたシーンが、やがてくるキ印殺害の衝撃を更に大きなものにしています。

その純真さゆえに、殺人というあまりにも残酷な出来事に耐え切れず、心を閉ざした廃人のように泣き続けるジェルソミーナに手を焼いたザンパーノは、彼女をその場に置き去りにしたまま立ち去ります。

そして、ラスト。映画史に残る名シーンです。

寒々しい海辺の町に流れてきた今ではすっかり老いさらばえたザンパーノは、そこで自分がかつて捨てたジェルソミーナがいつも口すさんでいた歌を耳にし、歌っている洗濯女に訳を尋ねます。

その女は、気のふれた乞食女が泣きながら惨めに死んでいったこと、それでも気分のいい時には、呟くようにこの歌を歌っていたのだと言います。

やがて夜更け、荒れすさみ、絶望の中で泥酔したザンパーノは、喧嘩の果てにさまよい出た夜の海岸で泣き崩れます。

ただ欲望と快楽にのみ空費し、あと僅かしか残されていない無意味な人生が残酷な罰のようにザンパーノにのし掛かってきます。

一瞬のうちに過ぎ去った人生という儚い時間に対しての驚愕と後悔。

そしてあまりにも大きすぎる失ったものへの恐れ。

途切れるように不意に終わるこのラストには、安易な救いなどどこにも見つけ出すことの出来ない、フェリーニの突き放した人間へのやりきれない絶望感しか感じられません。

ザンパーノの死後も、あの洗濯女は、いつまでもあのメロディを口ずさむのでしょうか。

キ印もジェルソミーナもザンパーノも、そして彼らを知る総てのものが死に絶え、哀しいこの物語の記憶が人々から失われても、ジェルソミーナが愛した美しく物悲しいあのメロディだけが、いつまでも人づてに空しく生き続けていくことの残酷を思うと、何だか胸苦しくなりました。
by sentence2307 | 2004-11-06 08:09 | フエデリコ・フェリーニ | Comments(0)

フェリーニのカサノバ

フェリーニの映画は、どれも、なんか名場面集のような気がします。

決して軽く見ている訳ではなく、それも映画に酔うという重要な要素だと思っていますし、イタリア語のあの響きが大好きです。

最近の映画では、あまり感じることができなくなりましたが、特にフェリーニ作品にその魅力を強く感じます。

イタリア語の響きがあまりに心地よく、つい二度見てしまうこともしばしばありました、その時はただ眼を閉じたまま言葉の響きの美しさだけを堪能したのです。

「道」の冒頭の老母(立て続けに娘二人をザンパーノに買われ、その命まで奪われることとなります)が叫ぶ「ジェルソミーナ!」は忘れられません。

二度目の回では、ザンパーノに虐待され精神の均衡を失した彼女がやがて無残に野垂れ死ぬことが分かっているだけに泣けて仕方ありませんでした。

さて、名作「道」を思いながら色物の「カサノバ」を書くのは、何だか気が引けるのですが、ご容赦下さい。

「カサノバ」を見て考えました。

好色であることと絶倫であることとは、必ずしも一致するわけではない。

もし、絶倫だからといって、好色でなければ(それどころか性に対し嫌悪感や罪悪感を催すような設定だったら)、ポルノ映画としては、これくらい深刻で鼻白むことはないでしょう。

性の解放を謳歌しているはずのこの好色文学の映画化このカサノバを、むしろ僕はそのような逆の禁欲的で性に対する嫌悪をすらフェリーニが抱いているのではないのかという感じすら覚えました。

きっとフェリーニという人は、人間が嫌いだったのではないかと思えたくらいでした。 
by sentence2307 | 2004-11-06 07:48 | フエデリコ・フェリーニ | Comments(0)