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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:市川準( 3 )

トニー滝谷

朝食のテーブルに新聞を広げ、さて台風はどうしたんだと思いながらページをめくっていたら、とつぜん市川準監督の逝去の記事に接して、びっくりしました。

脳内出血ですか、59歳の早逝を伝えるその記事を幾度も読み返しながら、そのたびに、「まだまだ若いのに」と反射的に思い浮かべてしまうお座なりな言葉と、我ながら随分と冷静陳腐な儀礼的なお悔やみの言葉しか湧いてこないことに対して、なんだかとても腹立たしく感じられてなりません。

事実以外のことは、なにがあっても報じるものかと、あまりにも頑なに無味乾燥にこだわったその新聞記事も、僕を随分苛立たせたのかもしれません。

市川準監督作品が与えてくれた多くの感動のほんの一部(底深い孤独感と、まったく同じ場所にあった優しさ)でさえ、僕はまだまだ理解できていないし、そして、少しも消化していないのに、という悔恨の思いが、自分自身へ向けられた腹立たしさに繋がったのかもしれません。

最近見た「あしたの私のつくり方」の全編に漂っていたものは、誰にも心を開くことができない少女の痛ましい孤独が描かれていました。

他人から傷つけられ、自分を守るために心を閉ざし、「親友」というブランドに扮した他人のために、笑顔を作ることに疲れてしまい、スポイルされた少女たちが、孤独のなかで「自分」の存在価値の無意味さに囚われ、こんな自分などこの世にいない方がいいのだと自殺の衝動に心を揺らしながら、その絶望感の果てで「無意味」と立ち向かい、煩悶し、やがて、無様でもすべてを抱え込んで生きていくことの意味を見出していくという作品です。

無愛想で、決して見栄えは良くはないけれども、自分らしく素直に生きていくことの意味を見出していくというそういう映画でした。

この社会に馴染めず、閉塞された小さな社会の居場所を失ってスポイルされ、いっそ死んでしまおうと決意する絶望感のどん底(この社会に取りすがることをやめた瞬間)で、少女たちはこの世で生きてていい自分だけのささやかな領分を遠慮がちに見つけ出していきます。

たとえ、そこに至るまでの過程は痛ましくとも、「あしたの私のつくり方」という作品は、いわばこの世界に回帰しようという希望の映画でした。

だから、この僕にも感想が書けたのかもしれません。

しかし、「トニー滝谷」を見たとき、僕の楽観は打ちのめされ、自分の中からは、どうもがいても、ただのひとことの感想の言葉も出てきませんでした。

あの「あしたの私のつくり方」のベースにあるものが、いつかは人と心を通わせたいと願う希望なら、「トニー滝谷」という作品を支配しているものは、二度と人間なんか信じるものかという絶望感です。

そして、帰する場所は、常に「閉ざされた心地のいい孤独の場所」です。

ここには、人間は希望なしには生きられないし、ひとりでは生きていけないという陳腐な楽観を厳しく拒む絶望感が潜んでいます。

それがどういうものなのか、もう少し、市川準の作品を見ていけば、きっと、これから撮られるであろう作品のなかに、その答えが見つかるかもしれないと思っていた矢先の訃報でした・・・。

(2005ウィルコ・東京テアトル)製作・橋本直樹、米澤桂子、プロデューサー・石田基紀、企画・市川準事務所、アシスタントプロデューサー・樋口慎祐、監督脚本・市川準、助監督・早川喜貴、監督助手・田中祐巳子、平体雄二、原作・村上春樹 「トニー滝谷」、撮影・広川泰士、撮影助手・桐原峰雄、志田貴之、和田裕也、撮影応援・松田克義、音楽・作曲・編曲・演奏・坂本龍一、美術・市田喜一、照明・中須岳士、編集・三條知生、
出演・イッセー尾形、宮沢りえ、篠原孝文、四方堂亘、水木薫、草野徹、谷田川さほ、小山田サユリ、山本浩司、塩谷恵子、猫田直、山崎彩央、塩山みさこ、田中靖夫、ケネス・エマーソン・フランクル、三原佳子、木野花、
ナレーション・西島秀俊
2005.01.29 テアトル新宿/ユーロスペース 75分 カラー
by sentence2307 | 2008-09-20 20:13 | 市川準 | Comments(1)

あしたの私のつくり方

1本の映画を1週間かけて、あれこれ捏ね繰り回して考え続け、その週末に短いコメントにまとめるという作業を、日常的な愉しみのひとつにしています。

通勤電車の中だとか、売上伝票に捺印しているときとか、会議の真っ最中などに、不意に脳裏に浮かんできた感覚的な言葉を書き留めておいて、それを膨らませたり圧縮したりして、なんとか小文に纏め上げています。

きっと、ひとつの言葉を捏ね繰り回しながら、ああでもない、こうでもないと迷ったりしながら、煮え切らない中途半端な状態に居るのが、自分にはとても居心地いい場所なのだと思います。

だいたい1週間も考えれば、作品のテーマだとか、それに沿った自分なりの感想が大方固まってくるものですが、しかし、そうじゃない場合だって、たまにはあります。

この市川準監督の「あしたの私のつくり方」という作品が、ちょうど「そういう作品」だったかもしれません。

この作品について、当初の理解は、学校で仲間はずれにされないために、自分を偽って「いい子」でいることに戸惑う少女たちが、迷いながらも「本当の自分」を探し当てる物語(宣伝文句そのままですが)みたいな認識から考えをスタートしました。

しかし、いじめられても、いじめられっぱなしという、理不尽なそうした歪んだ状況に手向かうどころか、むしろひれ伏すみたいに迎合していくこの作品の弱々しさが、どうしても馴染めませんでした。

とはいえ、トバグチでそんなことに拘っていたら、この作品の核心には迫れません。

この映画の核心は、きっと寿梨(成海璃子)が、日南子(前田敦子)に対して持ち続けていた負い目とヤマシサをどのように克服したか(あるいは出来なかったか)にあるのだと思います。

仲間はずれにされて苦しむ日南子と、仲間はずれにされまいとすることで「加害者側」に加担してしまった寿梨の、その贖罪の思いから、甲府に転校していった日南子に「好かれる女の子」を携帯メールで影ながら演出して、まんまと人気者に仕立て上げることに成功したことが、逆に「本当の自分」とのギャップに迷わせ、なおさら日南子に自己欺瞞の思いを抱かせてしまいます。

失ってしまった「本当の自分」として生きていきたいと悩む日南子の姿が描かれています。

それは、そのまま寿梨の問題でもあったのかもしれません。

しかし、普通に考えれば、寿梨に比べて、日南子の痛手の方が遥かに大きいという印象は拭えません、そのような二人が果たして対等な関係で交友関係を結ばせることができるのだろうかというのが、当初僕が抱いた素朴な疑問でした。

しかし、本当に、「いじめられ続けた日南子の痛手」の方が大きかったといえるでしょうか。

日南子が、たとえ「偽りの自分」によって人気者になったにすぎないことを否定的に悩んだとしても、一度「人気者」になったという記憶を、友人たちの中からそう簡単に消すことなどできはしません。

東京にいたときの日南子が、級友たちの記憶によって執拗にスポイルされる対象にされたように、甲府の日南子は、一度確立した「人気者」という消し難い強烈な印象によって常に受け入れられ続けるに違いありません。

しかし、寿梨の方はどうかといえば、日南子に送信した架空の物語が、結果的に、コト半ばにして彼女に拒絶されて失敗したということの裏に、目立つことを極力恐れた寿梨の、もし、こんなふうに振る舞うことができれば、きっと自分も人気者になれるに違いないと夢見た「あこがれ」が全否定されたという事実を見逃すわけにはいかないと思います。

寿梨が夢見た処世術(その有効性は、現実において、一度は日南子によって成功し証明してみせました)を日南子に否定されたとき、この二人の間の交友関係を結び合えるような接点が、断たれたとみるか、あるいはそんなものは最初から存在さえしていなかったのだということを、あのラストシーンは描いているのかもしれないと思えてきました。

(2007日活)監督・市川準、原作・真戸香「あしたの私のつくり方」(講談社刊)、脚本・細谷まどか、撮影・鈴木一博、照明・中須岳士(JSL)、美術・山口修、
音楽・佐々木友理、主題歌:シュノーケル「天気予報」(SME Records)
出演:成海璃子、前田敦子、高岡蒼甫、石原真理子、石原良純、奥貫薫、近藤芳正、田口トモロヲ
97分
by sentence2307 | 2008-06-25 23:20 | 市川準 | Comments(0)

一期一会

土曜の夜は、どういうめぐり合わせか、NHK教育TVの「一期一会」という番組にチャンネルが合ってしまいます。

昨夜もスポーツ・ニュースを見終わった後で、何の気なしにコントローラーをあちこち押していたら、その「一期一会」に行き着いてしまいました。

ここに登場する人たちの設定は、多くの場合、世渡り下手な若者が、世渡り上手の同世代の若者に会い、アドバイスを受けるという部分にあります。

まあ、「世渡りの下手な」理由というのは、だいたいのところ、他人のアドバイスを受け入れられないその「頑なさ」にあるのでしょうから、人付き合いの巧みな、要領のいいC調野郎からのアドバイスなど、当然最初は反撥もあり、そう簡単には受け入れません。

その辺の葛藤というかぶつかり合いが、この番組の醍醐味であり面白いところです。

昨夜の主人公は、不登校だった過去をどうしても親友に話せないで悩んでいる高2のマリナちゃんが、全員不登校経験者のロックバンドのシロー君のサジェッションを受けにいくというものでした。

僕などは、親友といえども、そんなことまで「話す必要なんかあるのか」とつい考え勝ちですが、それはサラリーマン生活で、すっかりスレてしまった「おじさん」の考えることで、マリナちゃんの、告白しなければ親友に対する背信行為になってしまうと思い悩む純粋さと真摯さには胸を突かれ、少しずつ番組に引き込まれてしまいました。

両親の離婚によって幾度かの転校を余儀なくされ、友達ができないまま学校にも馴染めず、馴染めない分だけ無視と陰湿ないじめを受けて、毎日毎日いじめを受ける怯えと不安から、ついにマリナちゃんは学校に行けなくなります。

その背後には、母親の期待に応えられないばかりか、重荷になってしまっている自分なんか、この世に存在しない方がいいのだという自責の思いが、さらに気持ちを弱くさせたのだと思います。

シロー君とロックバンドのメンバーの前で、過去の思い悩んだ日々のことを、涙を流しながらマリナちゃんは話します。

そして、そう話すことで、彼女の気持ちが少しずつ軽くなっていく様子が、TV画面にも、はっきりと映し出されていました。

泣くという自浄行為に加えて、胸につかえていたものを誰かに聞いてもらうことで自分を客観視し、直面することを恐れて避け続けていた自分の過去と始めて向き合えたのだと思います。

そのあとでマリナちゃんは地元に帰り、親友たちに、引きこもりだった過去のことを告白します。

すべてを話して、感動した友人たちとの友情が、さらに深まるという終わり方でした。

番組が終わり、きっと、これはこれで正しい選択だったに違いない、とマリナちゃんの「告白」のことを考えていました。

しかし、自分なら「親友に、そんなことまで話す必要なんてない」という気持ちが揺らぐとは、どうしても思えません。

それはきっと、そういう友人関係というものがどういうものか、それなりの経験を積み重ね思い知らされてきたからでしょうか。

裏切りとか背信行為とかいう大層な理由なんかなにひとつなくとも、些細な言葉の行き違いや微妙な感情のズレによって、徐々に回復不能な「疎遠」に見舞われてしまう繊細で頼りない関係であることを知ってしまったからかもしれません。

こういう諦念に囚われること自体、まさに若さを失った証しなのだろうなと実感しました、少し淋しいことではありますが・・・。

マリナちゃんが、親友に「本当のこと」を話すことに、ひたすらこだわった部分を見ながら、最近見た映画、市川準の「あしたの私のつくり方」でも、「本当の自分」にこだわった同じような部分があったことを思い出しました。
by sentence2307 | 2008-06-15 17:51 | 市川準 | Comments(1)