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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:山中貞雄( 5 )

人情紙風船

ここ数週間のあいだに山中貞雄の「人情紙風船」につながるような出来事に幾度か遭遇して、その結果、ついに本編を見ないわけにはいかなくなるという「奇妙なめぐり合わせ」を経験しました。

こう書くと望んでもいないのに成り行き上、仕方なく「人情紙風船」を見たみたいに受け取られかねませんが、そうではなくて、不思議な偶然の導きで映画にいざなわれたという感じの実にハッピーな、何年か振りかで経験した心地よい出来事だったことを書いてみたいと思います。

たぶん、それもこれも自分のなかに常に山中貞雄の「人情紙風船」という作品が記憶として刻印されていたからだと思います。

実は、前回のブログで引用した投稿「101歳になっても子を思う母」が掲載されていたのと同じ日付の読売新聞朝刊の「文化欄」(25面)に、小説家・佐伯泰英の書いた「映画と私」(上)というコラムが載っていて、そこに山中貞雄監督の「人情紙風船」のワン・シーンの写真が大きく添えられいたので、なんだか朝っぱらから嬉しくなってしまい、まさにテンションあげあげという感じになったのが、まず最初の「めぐり合わせ」としてありました。

その記事を見かけたときは、次の(下)が掲載されたあとでじっくり読めばいいかと手元に置いておいたのですが、次の週の火曜日が祝日のために掲載予定のはずの日の朝刊が休みとなり、じゃあまた次週まで掲載を待たなければならないのかと思っているうちにすっかりそのことを忘れてしまって、結局(下)の方は読み逃してしまいました。

しかし、まあ、佐伯泰英にとって映画「人情紙風船」との出会いが、小説家になることの重要な契機になったというその事実だけで十分なので、当初の目論見からは少し肩透かしをくらわせられてしまった感じですが、遅ればせながら「人情紙風船」について書かれている部分をご紹介しようと思います。

佐伯泰英が日大芸術学部映画学科に入って、授業で「人情紙風船」をはじめて見せられたグダリです。こんな感じです。


《大学に入って授業の一環として古い映画を見せられた。その中でも昭和12年製作の山中貞雄の「人情紙風船」は、「映画とは」との基本的な問いを私に突き付け、映画作法を学んだ。
江戸の裏長屋に長雨がそぼ降る毎日、刹那的な貧しい暮らしと騙し合いの哀歓が描写されていく。この映画を二十代後半の山中が演出したのだ。そして、映画公開の日に召集令状を受けて中国戦線に向かい、「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。」と戦病死を予感したような告白を従軍記に残している。この作品は当時の評論家たちに「髷をつけた現代劇」と評されたそうな。
私が書く時代小説は、山中作品の「人情紙風船」に学んだものだ。連日報道される出来事や人間模様を、江戸時代に舞台を置き換えて描いてきた。それもこの二十年間に二百六十余冊も書き飛ばしてきた。量的には凌駕しても、「人情紙風船」の終盤、中村翫右衛門演ずる髪結新三のニヒルな表情と仕草の一瞬には到底かなわない。虚無的な眼差しの先に生と死のドラマが展開されることを観客に予感させて終わりを告げる、なんとも新鮮で衝撃的だ。》


この佐伯泰英のコラム「映画と私」(上)に同時に掲載されていた「人情紙風船」の写真は、白子屋の娘お駒(霧立のぼる)が雨に降られて、忠七が傘を取ってくるまで雨宿りをしているところに、たまたま通りかかった髪結新三(中村翫右衛門)が、いままさに傘をさし掛けながら声を掛けようという、あの有名なカドワカシの場面です。

その写真を見た瞬間、自分のなかで、思わず「あっ、これは!」と、ある連想につながるものがありました。

そのつい数日前、旧い友人から「季刊・リュミエール」1985・冬号(特集・フランソワ・トリュフォーとフランス映画)を貰ったばかりで、まさにその記事を一頁目から少しずつ読み始めていたところでした。

冒頭は、トリュフォーへのインタビュー記事があって、その最初の発言というのが、山中貞雄の「人情紙風船」についての感想でしたので、それで強く印象に残っていたというわけです、まさにそのタイミングで、あの読売新聞朝刊の「人情紙風船」の写真との遭遇があったので、偶然というにはあまりにも出来すぎたこの「めぐり合わせ」に、なにか不思議な運命の引力みたいなものを感じてしまったのかもしれません。

そのインタビュー記事は「フランソワ・トリュフォー 最後のインタビュー」というタイトルです、その最初の小見出しは「ヤマナカの『人情紙風船』はグリィフィスやジョン・フォードを想わせた」とありました。こういう見出しを読むだけで、なんだか嬉しくなってしまいますよね。こうした知的挑発に満ちた小難しい記事に抵抗なく浸れたあの時代の独特な空気感が懐かしくて、どっぷりと浸る楽しみに、しばし時間を忘れて読みふけってしまいました。

難解さをひたすら嫌悪し、差別用語に異常におびえ、なにごとも平易で幼稚で無害な表現に書き換えられてしまう神経過敏の「言葉狩り」の現代においては、この「難解さを楽しむ」はすっかり廃れてしまいましたが、こういう圧倒的な言葉の活力を浴びる心地よさに、久しぶりにパワーを貰った感じです。

現代のこの「幼稚禍」ともいえる風潮に、もっとも被害をこうむっているのは、芸も能もない使い捨てのジャリ・タレに席巻された「音楽業界」だと思います。おかげで、日本の音楽シーンはすっかり空虚になってしまいましたが、ここにきてなにやら内輪もめで「崩壊」の兆しがうかがわれるような感じで・・・。

まあ、それはさておき、このインタビューの聞き手は、山田宏一・蓮實重彦で(いずれかの発言かは記事中では特定できません)初っ端の質問は、山中貞雄の「人情紙風船」について感想を訊くというところから始まっています。話の調子から察すると、以前、トリュフォーに「人情紙風船」を見せる機会をつくったらしい印象が前提みたいになっている感じです。

以下は、その質問を受けたトリュフォーの発言。

トリュフォー「すばらしい映画でした。といっても、セリフはまったく分かりませんでしたから、イメージだけを追って見ました(注・トリュフォーに見せるのだから、字幕のついたものを用意できなかったのでしょうか)。もっとも心うたれたのは、キャメラと演出が緊密に絡み合って、一分の隙もない完璧な画づくりに成功している点です。この映画を見て、久しぶりにキャメラと演出についてのかかわりについて考えました。久しぶりにとは言っても、それほど昔のことではないのですが、映画作家にはふたつのタイプがあって、自分の狙いどおりの画づくりを完璧に果たさなければ気がすまないタイプと、画づくりにはそれほど執着せず、画面に偶然が入り込みのを気にしないタイプとがある、という内容のことを文章に書いたことがあります。たとえば、カール・ドライヤーの映画は、あらかじめ想定したとおりの完璧な画づくりがなされた作品です。アップからロングに至るまで、完璧な構図です。画面のなかにいる人間は、片隅にいる人も、遠くにいる人も、一人一人が計算どおりに動いています。しかし、イタリアのネオレアリズモの映画はそうではない。街頭に出て撮影された映画であり、本番中に予想外のことが起こったり、予定外の歩行者やトラックが画面を横切ることがあっても当然なのです。フランスのヌーヴェル・ヴァーグもそうです。オール・ロケなので、セット撮影のように100%計算どおりに撮ることは不可能だったし、その気もなかった。」

と、まあ、トリュフォーの熱く語る話の勢いは、まだまだこんな感じで延々と続くのですが、ここで日本人のひとりとして、ひとつの懸念を表明しておかなければなりません、それはトリュフォーのこの長広舌がはたして再び冒頭の「山中貞雄」に回帰できるのか、という疑問です、そうでなきゃあ、あなた、冒頭で言っていたあの「山中貞雄は、とてもスバラシイ」が、その場シノギのただの言いっぱなしのリップ・サーヴィスだったなら、なにも「お付き合い」までして最後まで読む義理はないわけで、そちらがそう出るのなら、こっちにだって考えというものがありますから、なにもこの先、この長文のインタビュー原稿を義理堅くウダウダと付き合う徒労をはらう必要なんて毛頭ないわけで、

そういうことは出来るだけ避けるというのが自分の信条なので、ここはひとつ、少しだけアクセルふかして走り読みしちゃいますね。

早読みのコツは一応心得ています、行代わりの一文をそれぞれ押さえていけば、だいたいの要旨はつかめるというものです。

便宜上、それぞれの文章の冒頭に番号を振りましたが、特別な意味などありません。

① イングマール・ベルイマンは、ロッセリーニ的な映画から出発して、ドライヤー的な映画にたどり着いた映画作家です。・・・これは、たぶんゴダールの影響です。
② いずれにせよ、それは、必要以外のものはすべて極限まで、画面から排除するという考え方です。・・・警察や刑務所の鑑識の記録のための写真のように正確に冷酷に撮る。映画の画面はフィクションだったのに、ドキュメンタリーになる。
③ キャメラと演出とのかかわりは微妙なもので、ドキュメンタリーやニュース映画で単にキャメラが捉えたイメージにも、「演出」がある。・・・キャメラマンが大統領をグレタ・ガルボのように崇めていたといえる。・・・キャメラマンはほとんど本能的に、この神聖ガルボ、崇高なる美女への崇拝の念から、彼女を撮るときには、他の夾雑物をすべて画面から排除して純粋に彼女の美しさだけを生かす画づくりに達したに違いない。キャメラをのぞきながら、撮る対象を尊敬してしまうというのが、ひとつの不思議。
④ 映画史には、そういう要素が強く支配している部分がある。映画がストーリーを語り始めた当初、スクリーンは演劇の舞台とまったく同じようにみなされた。キャメラはつねに客席の方向から人物や事件や風景をとらえるという演出プランがたてられた。きょう見た山中貞雄の映画もそうですが(やっと、出たか!)、ストーリーを語るための完璧な演出プランができていることがわかる。ディテールを見せるにはキャメラが寄る、全体を見せるにはキャメラを引く、という正確なキャメラ・ポジションが演出を決めていくわけです。ヤマナカの映画を見て感じたのは、まずそれです。ジョン・フォードの映画を思わせました。

やれやれ、ここまできてやっと「人情紙風船」に回帰したようなので安心しました。

そうそう、もうひとつありました、すぐ立て続けに山中貞雄の「人情紙風船」に関する記事にまたまた遭遇しました。

msnのホームページには、ときたま映画に関する面白そうな話題がアップされていることがあって、あとでじっくり見ようと思っているうちに、いつの間にか消されてしまい、そんなことなら早いとこ控えておけばよかったと後悔することがよくあります、なので最近はそういう記事に遭遇すると躊躇なく、すぐにその場で控えておくことにしています。

この連休の終わりころ、msnに「日本映画歴代ベスト40」という記事(迂闊にも出展を見逃してしまいました)がアップされていたので、ざっと目を通しました、定番のいつものベスト40なら、あえて控えておくこともありませんしね。

しかし、よく見ると、見慣れている「定番のベストもの」とはいささかオモムキを異にするので、ちょっと気になりました。

日本映画史に精通している趣味人なら、この監督を選ぶとしたらベスト作品ならまずこれとか、それでなくとも日本映画の傑出した作品ならほかに幾らでもあるというのに、そういう数々の名作をはずしておいて「こういう作品はまず選出しないだろう、それでもこの作品をチョイスするのか?」という疑念に捉われたとき(だからこそ、目を引いたわけですが)、その日本映画史に対する無知さ加減と鈍感さに、もしかしたらこれって日本人が選んだベスト40じゃないかもしれないなという気持ちが湧き起こりました。

そうですよね、イメージ的には、海外の映画祭で高く評価された作品が散見できるところを見ると、どうもそのあたりの情報しか持ち合わせていない欧州系の映画祭の関係者が選んだか、あるいは、コテコテ日本文化趣味の知ったかぶりのフランス人あたりが強引に選出したものではないかという思い、「日本ではそれほどの評価を得ているわけではない」作品が選ばれたのかと納得し、ちょっと面白かったので紹介しようと思いました。

〈日本映画歴代BEST40〉
1 七人の侍(1954)黒澤明
2 羅生門(1950)黒澤明
3 切腹(1962)小林正樹
4 東京物語(1953)小津安二郎
5 砂の女(1964)勅使河原宏
6 人間の条件(1959)小林正樹
7 誰も知らない(2004)是枝裕和
8 雨月物語(1953)溝口健二
9 ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(1985)ポール・シュレイダー
10 おとし穴(1962)勅使河原宏
11 薔薇の葬列(1969)松本俊夫
12 野火(1959)市川崑
13 そして父になる(2013)是枝裕和
14 大菩薩峠(1957)内田吐夢
15 仁義なき戦い(1973)深作欣二
16 たそがれ清兵衛(2002)山田洋次
17 他人の顔(1966)勅使河原宏
18 赤い殺意(1964)今村昌平
19 山椒大夫(1954)溝口健二
20 おくりびと(2008)滝田洋二郎
21 飢餓海峡(1965)内田吐夢
22 浮雲(1955)成瀬巳喜男
23 女が階段を上がるとき(1960)成瀬巳喜男
24 茶の味(2004)石井克人
25 御用金(1969)五社英雄
26 楢山節考(1983)今村昌平
27 天国と地獄(1963)黒澤明
28 トウキョウソナタ(2008)黒沢清
29 原爆の子(1952)新藤兼人
30 HANABI(1997)北野武
31 武士の一分(2006)山田洋次
32 人情紙風船(1937)山中貞雄
33 二十四の瞳(1954)木下恵介
34 鬼婆(1964)新藤兼人
35 上意討ち 拝領妻始末(1967)岡本喜八
36 巨人と玩具(1958)増村保造
37 麦秋(1951)小津安二郎
38 ビルマの竪琴(1956)市川崑
39 野獣の青春(1963)鈴木清順
40 家族ゲーム(1983)森田芳光

という感じですが、特にこの部分

27 天国と地獄(1963)黒澤明
28 トウキョウソナタ(2008)黒沢清
29 原爆の子(1952)新藤兼人
30 HANABI(1997)北野武
31 武士の一分(2006)山田洋次
32 人情紙風船(1937)山中貞雄
33 二十四の瞳(1954)木下恵介

(「なんだ、こりゃ?」と云いたいところですが)「32位 人情紙風船(1937)山中貞雄」を見たときに、思わずトリュフォーの述懐を思い起こし、このベスト40作品の選出先を「仏国か欧州」と咄嗟に想定してみたのだと思います。

まあ、名作とゴミ、時間差とジャンルを適当に入れ子にしてシャッフルしただけで、それをジャポニズムの知悉と気取っている欧州人の傲慢な無知さ加減とか、「人情紙風船」を「32位」に位置づけるという疚しさのアリバイ工作のような微妙で中途半端な順位に位置づけとかも笑ってしまいましたが、少なくとも「人情紙風船」をベスト40内にチョイスするということに関しては、まずは評価しないわけにはいかないだろうなとは思った次第です。

しかし、それにしても、浪人して困窮の極みにある海野又十郎が、思い余って、かつて亡父が目を掛けた恩あるはずの江戸詰めの毛利三左衛門に仕官の口ぞえを頼みにいき、あからさまに嫌がられながらそれでも縋るように幾度も懇願する果て(白子屋の用心棒であるやくざの弥太五郎源七の子分から殴る蹴るの散々の目に会いながらも、その理不尽な暴力が毛利三左衛門とつながっていることまでは理解できない又十郎のいささか異常な鈍感さには堪らない歯痒さを覚えて観客は苛立ったはずです)、ついに業をにやした毛利三左衛門から「もう屋敷には訪ねてくるな。道で逢っても声を掛けるな」と手きびしく面罵・拒絶されて、わずかな金と亡父の手紙を叩きつけられるという屈辱と怒りによって、又十郎が降りしきる雨の中、ずぶ濡れになりながら惨めさの極みでうな垂れじっと立ち尽くして耐える絶望と虚無のあの姿を、果たして能天気な欧州人がどこまで理解できるのか、この「32位」というランクがどういうランクなのかと、なんだか声荒く問い詰めたくなるような苛立ちをおぼえました。

そうそう、むかし友人から、又十郎が、亡父の恩義があるからとはいえ、三左衛門にあれだけ執拗に仕官を依頼するというそもそもの理由が分からないと言われたことがありました、一目で三左衛門の嫌悪の表情と冷ややかな拒絶の態度があからさまなのに、それが分からない又十郎の「鈍感さ」が却って不自然で理解できない、相手の嫌悪の表情があれほどの壁となって立ち塞がっているのに、それでもあのように執拗に取りすがる「懇願」のみじめな姿の、その自虐と被虐の底なしの異常性が理解できないと。

しかし、それは、又十郎がどこまでも「サムライ」であろうとしたコダワリあったからだということで十分に説明がつくと自分は彼に返したかもしれません。

浪々の身をどうにか支えてくれた糟糠の妻・おたきの励まし(サムライとして仕官して身を立てることが最善と考える、封建制度の只中で自分の階級的な位置取りに固執することを明快に理解している彼女です)自体が、冷ややかな現実の拒絶にたじろぎ八方塞りのなかでみずからの「階級」などとっくに見失い見限っている又十郎にとっては単に「縛り」と「圧」でしかなく、妻に世間の冷ややかな「壁」や「拒絶」の実体をいまさら理解させるなど到底不可能なことくらい、又十郎自身、十分すぎるくらい分かっていることです、妻との「到底不可能」な認識差を埋めるにはその場しのぎの虚言によってしか凌ぎようのない又十郎にとって妻の「励まし」は、三左衛門の「拒絶」と同質の不可能でしかなかったのだと思います。

しかし、妻・おたきにとって、夫の行為(認識差を埋める虚言など)のそれらすべては、結局のところ「裏切り」でしかなかったことは、彼女がその懐剣を使って夫に武士の誇りを思い出させ、「いさぎよい死」を強いたあとの彼女の自害によって武士としての体面は保たれたことになります。

そこには、一貫して又十郎の「サムライ」というものの根本的な理解が欠けているという部分で、拒絶されても取りすがること以外になにも為しえなかったという自虐と被虐のみじめで底なしの異常な姿というものがあったのではないか、とかつて友人に説明したような気がします。だから、又十郎にとって、自分がなんで妻に殺されなければならないのか、最後まで理解できなかったのではないかと。

もしかしたら妻・おたきは、もうこれ以上、困窮した生活のために夫にみじめな思いはさせたくないという同情から、失意のなかで煩悶している夫を見かねて殺したのではないかという友人の意見もありましたが、酔いつぶれた又十郎の服を畳んでいたときに、妻が亡父の手紙を発見した場面があることによって彼の不甲斐なさや不実を許せず、ついに夫に「いさぎよい死」を強いたのであって、「同情説」は到底有り得ないと、きっぱり否定したことも思い出しました。

それでも、自分的には、この虚無と悲憤に満ちたラスト・シーンには多少の違和感がありました。

山中貞雄は遺書に、自身「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみにあらず」(昭和13.4.18)と書き残しています。

僕たちは、山中貞雄のこのココロザシ半場にして非業の死をとげた痛ましい記憶、いや、なによりも日本映画界にとっての「最大の損失」と語り伝えられる伝説のなかで戦後の日本映画をずっと見守ってきた世代です。

山中監督の語り残した「チトサビシイ」が意味するところを、この映画「人情紙風船」のラストシーンに描かれた絶望と虚無感にいつの間にかオーバーラップさせて「オレの実力はあんなものじゃない、まだまだ凄いシャシンを撮れるんだ」という気負いと悔恨とに読み替えていたとしても、それは決して誤りではなかったでしょうが、一方で「本当にそうだろうか?」という思いもありました、それが自分の抱いた「違和感」の実態だったと思います。

「人情紙風船」を見た者なら誰しもその作品の完成度の高さに感嘆し、これ以上の作品というものが果たしてあるだろうかという思いと、山中貞雄自身が語り残した「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ」との言葉の落差が、とても奇妙に聞こえてしまうのでした。

たしかに、山中貞雄の早すぎた死を悲しみ、そしてこの天才の夭折を惜しむ者たちの思いの延長線上に、当然のように「山中貞雄が生きていたら、もっと素晴らしい作品を撮ったに違いない」という確信は十分に成立していいと思っている自分もその一人ですが、しかし、そこには思い半ばにして屈した人間への「無念さ」を、そのまま作品の見方に反映させてしまってもいいのだろうか、という疑問に捉われました。

あの痛快無比の傑作「丹下左膳余話・百万両の壷」を撮った山中貞雄です、「虚無」とか「絶望」など、およそ山中貞雄には似つかわしくないという思いからなかなか自由になれませんでした。

そこで未練がましく、歌舞伎の解説書を引っ張り出して「髪結新三」の項を拾い読みしてみたところ、ストーリーのトーンが、あまりにも違いすぎるので驚いてしまいました。

終幕の「深川閻魔堂橋の場」には、このようにありました。

《恥をかかされた源七は、深川閻魔堂橋で新三を待ちうけ争った末に切り殺します。(しかし、これが最後ではありません、まだまだ続きがあるのです。)
一方、白子屋に戻されたお熊(映画では、「お駒」でした)は、又四郎(当初から予定されていた婿さんです)と祝言を挙げるが、枕を交わさず、自害しようとして誤って又四郎を殺してしまいます。善八の姪のお菊は、世話になっている白木屋への日頃の恩を思って、罪を被って自害します。新三殺しで捕らえられた源七はしらを切りますが、お熊が自首して罪を白状したのを見て、自分の罪を認めます。奉行大岡越前の守は、二人に寛大な仕置きを申し付けました。》

あらすじを読んだだけでも、この黙阿弥の原作が、いかに堂々たるピカレスク・ロマンであることが分かります。なにしろ、かどわかした白子屋の娘を一晩さんざん弄んでから、それでもまだピーピー泣いているようなら、さっさと女郎屋に売り飛ばしちまうなんて凄いセリフもあるくらいですから、この映画の脚色のオリジナリティが物凄いものだったことが、よく分かりますよね。


(1937P.C.L.映画製作所・前進座)製作・武山政信、監督・山中貞雄、原作・河竹黙阿弥(『梅雨小袖昔八丈』、通称『髪結新三』)、製作主任・大岩弘明、脚本・三村伸太郎、撮影・三村明、録音・安惠重遠、片岡造、美術装置・久保一雄、美術考証・岩田専太郎、編集・岩下広一、音楽・太田忠、録音現像・写真化学研究所、演奏・P.C.L管弦楽団
出演・河原崎長十郎(海野又十郎)、中村鶴蔵(金魚売源公)、中村翫右衛門(髪結新三)、坂東調右衛門(按摩藪市)、市川樂三郎(目明し弥吉)、市川菊之助(錠前屋の兼吉)、山崎長兵衛(徳兵衛)、中村進五郎(夜そば屋の甚吉)、坂東みのる(吉兵衛)、市川章次(役人)、市川莚司[加東大介](源七乾分百蔵)、中村公三郎(流しの与吉)、市川進三郎(配役不明)、市川笑太朗(弥太五郎源七)、助高屋助蔵(家主長兵衛)、嵐敏夫(平六)、市川扇升(長松)、嵐芳三郎(白子屋久兵衛)、澤村比呂志(磨師の卯之公)、市川岩五郎(古傘買いの乙松)、山崎進蔵(猪助)、橘小三郎(毛利三左衛門)、瀬川菊之丞(忠七)、岬たか子(乙松の女房おくま)、原緋紗子(源公の女房おてつ)、岩田富貴子(久兵衛の女房おなつ)、一ノ瀬ゆう子(甚七の女房おちよ)、山岸しづ江(又十郎の女房おたき)、霧立のぼる(白子屋の娘お駒)、御橋公(白子屋久左衛門)、山崎島二郎(役人)、河原波留子、澤村千代太郎、瀬川花章、中村鶴蔵、平塚ふみ子
配給=東宝映画 1937.08.25 日比谷劇場 10巻 2,352m 86分 モノクロ スタンダードサイズ(1:1.37)35ミリ

1937キネマ旬報ベストテン第7位。
1979日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)第4位
1989日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)第13位
1989大アンケートによる日本映画ベスト150(文藝春秋)第10位
1995オールタイムベストテン・日本映画編(キネ旬)第4位
1999映画人が選ぶall time best 100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」第18位
2009映画人が選ぶall time best 100・日本映画編(キネ旬創刊90周年記念)」第23位



by sentence2307 | 2019-05-16 22:20 | 山中貞雄 | Comments(0)

山中貞雄と小津安二郎

山中貞雄は、「人情紙風船」の封切りの日(昭和12年8月25日)に召集を受けたので、自分の撮った作品を見ずに戦地に行ったという一文を、以前、繰り返しどこかで読んだ記憶があります。

しかし、そんなことが本当にあり得るだろうかとずっと疑わしく思ってきました。

もし、自分の作品を見ないまま戦地に赴いたのだとしたら、その後、山中貞雄が戦地から送ってきた葉書に記されていたという「遺言」(それが本当に深刻な絶望から書かれたものか、それとも一種の照れからそう書かずにいられなかったのかは、手元に資料がないので軽々には結論づけることができませんが)の一節

「『人情紙風船』が自分の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず」

のあの痛切な言葉の整合性が揺らいでしまうのではないかとずっと考えてきました。

素人考えでも、クランク・アップから封切りまでには、それ相応の時間があるわけですから、その間に、たとえ大雑把なものでも、試写だとか、少なくともラッシュ等で自分の撮った作品がどういうものかくらいの確認は十分にできたのではないか、そして、その作品の出来ばえや手応えを認識したうえでの、あの「チトサビシイ」という言葉が発せられたのだとしたら、と違和感のようなものを覚えたのでした。

また、その当時、この言葉を伝え聞いた友人たちが、それをどのように受けとめ、そして、どう感じたのかも、ずっと自分にとっての一番の関心事でした。

それはそうでしょう、誰もが認めるあれだけの傑作に対して、また、本人もそのことを十分に認識していたとして、なお、あえて「遺作ではチトサビシイ」といったとしたなら、それは随分と傲慢で不遜な響きのもつ言葉だったのではないかと解されても、あるいは仕方ないことだったのではないかという危惧がずっと自分のなかでわだかまっていました。

しかし、あるとき、自分が、いつの間にか山中貞雄という人物を、勝手に川島雄三のような人物だったのではないか、と無理やりにこじつけて理解しようとしているのではないかと気がつきました。

もちろん、そうでもしなければ、明治生まれの山中貞雄という人物の純粋性を現代の僕たちがいくら理解しようとしても、到底適わないことだという絶望的な気持ちがあったからだと思います。

それは、そのあまりにも長大な時間の経過によって、すっかり変質してしまった日本人の感性を、「現代の感覚」しか持ち合わせていない僕たちが、「敗戦」という壁を越えて正当に読み解くことができるのかという絶望でもありました。

ともに人生の限られた時間に追い立てられ、そして脅かされながら、焦燥感のなかで命を燃焼させたという意味では、このふたりには共通するものがあり(その思いはいまでも変わりませんが)、山中貞雄という人を理解するうえで、どうしてもイメージの重なる「川島雄三の生き様と焦燥感」を借りて無理やりな理解で捻じ伏せることでしか、山中貞雄の純粋性にアプローチする方法がなかったということは、たぶん大いにあり得たことだったと思います。

つまり、当初自分が、山中貞雄のあの遺言の一文のなかに「照れ」とか「不遜」とかという一種の韜晦の感情を仮に織り込んでみようとしたのは、それは結局、川島雄三の生き方を便宜的に投影させてみようとした何の根拠もない試みにすぎず、単なる当てずっぽうの無謀な仮定にすぎませんでした。

戦後の日本が、ある程度の経済発展を遂げて豊かになり、もはや食う心配も死ぬ心配からも解放されて、徐々に平和ボケしていった弛緩の時代の只中にあって、虚栄に翻弄され蝕まれた頽廃の人々に囲まれながら、自らの純粋性を守ろう、誰からも傷つけられまいと見構えれば、その「一種の照れ」や「不遜」は、当然川島雄三こそが必要とした固有の武器だったはずで、しかし、それは戦後の糜爛期に精いっぱい強がって生きなければならなかったどこまでも川島雄三限りのものでしかないのは当然なことで、それをそのまま山中貞雄にあてはめようとしたことは、所詮、根拠のない無謀な発想だったのであり、強引なこじつけでしかなかったのだと気がつきました。

つまり、山中貞雄という人物を理解するうえにおいて「一種の照れ」や「不遜」などという観念は、まったく無縁のものだったということに思い至りました。

厳しい時代状況のなかで将来の見通しが断たれ、生きる希望を奪われた絶望のなか、山中貞雄は、ただ単に、もっと映画が撮りたいと、それでも遠慮がちに、悲痛な叫びを上げていただけだったのです。

今回、「人情紙風船」について書かれた多田道太郎の「ある時代映画のイロニー」という論評を読みました。

この短文を読みながら、いままで自分が長い間認識違いをしていた部分を発見したので、ちょっと驚きました。

それは、酔いつぶれて寝入っている夫の又十郎を、妻のおたきが懐剣で刺し殺して、夫婦心中をはかろうという凄惨な場面についての解釈です。

妻のおたきが、夫・又十郎を殺害した理由というのが、町娘をかどわかすという悪事に加担した夫が次第に武士の誇りを失っていくことに妻は失望し、武家の面目を保つために殺害→心中に及んだのだと書かれている部分です。

そうか、そのように理解すれば、すべての辻褄が合うと、はじめて納得したのですが、しかし、そうだとすると、このおたきという妻は、なんと冷たい女なのだ、そして、その冷え切った夫婦関係というぞっとするような設定を平然と据えることのできる山中貞雄の冷厳な人間不信の視点にも呆然とさせられました。

それまで、自分は、この夫婦が死に至る理由を、以下のように勝手に思い込んでいたのでした。

冷たい世間から理不尽な辱めを受けて苦しんでいる不器用な夫を妻は憐れみ、もはやこれ以上耐えさせるのはムゴイことと悲観した妻のおたきは、夫を世間からの辱めと苦しみから解放させるためには、いっそのこと夫を殺し自分も死ぬしかないと思いつめて夫の殺害に及んだのだと思い込んでいました。

その先入観の根底にあったものは、「妻は夫を慕いつつ」みたいな、あまりにも世俗的な軟弱な楽観です。

しかし、山中貞雄が、妻というもの、夫婦というものをそんなふうに甘々に捉えてはいなかったことを知り、「人情紙風船」という作品がそうした映画だったのかと始めて気づき、人間に対する見方の自分の幼さを叩き潰されたようなショックを受けたのです。

同時に、この男女関係に対する観念の冷ややかな感覚は、この山中貞雄で始めて感じたものではないという思いは、自分の中のどこかにありました。

しかし、その感覚にどこで接したのかまでは、しばらくはどうしても思い出すことがではきませんでしたが、じきに思い出しました。

小津安二郎の女性に対する距離の取り方、その視点の冷徹さに相通じるものなのではないかと。

そして、多田道太郎の「ある時代映画のイロニー」を読んでいたら、不意に稲垣浩の山中貞雄への追悼文なるものに遭遇しました。

それが以下の文章です。

「『彼は、外貌天真爛漫な顔をしてゐますが、本当は淋しい男でした。彼の生涯は母と友人の他に何物もなかったと云へませう』と稲垣浩は山中を追悼している」

この文章の文末にはその出展として「前掲書、374頁」とだけ記されていますが、「前掲」とおぼしき箇所にはふたつの書名が掲げられていて、はたして初出の「キネマ旬報1938.10.11号」か、後出の「山中貞雄作品集3巻391頁」かのどちらを指しているのか迷ったのですが、まあ、いずれかの374頁であることには違いなく、という納得をとりあえずしておきました。

この一文からすると、知人友人が少なかったというクダリはたぶん小津監督には当てはまらないにしても、同居をしつづけた母親を生涯大切にしたという部分、そしてその一方で、女性を遠ざけ伴侶を持たなかったということなら共通すると思います。

つまり、俗っぽく下世話に言ってしまえば、自分だけの性欲を満たすことよりも、まず母親を大切にすることをなによりも優先したということでした。

多くの小津作品には生活の困窮のために(そこに積極的な意図はなくとも)、あるいは配偶者からの異論に板ばさみになりながら、仕方なく老いた親をないがしろにしなければならない立場に追い込まれる成人した多くの「子供たち」が登場します。

そういうシュチエーションなら、あらゆる小津作品の随所に仕掛けられているかもしれません。

生活に追われ困窮しきっているその成人した「息子や娘たち」は、貧しいため親をおろそかに扱わねばならないことに、それなりに苦しみながらも、結局なにも為しえないままに、成り行きにまかせるしかありません。

その「成り行き」ということを、小津安二郎は、その辛辣な映像の連なりをもって「親を見捨てる」ことと同じではないかと、抑制された静かな怒りを込めて痛烈に看破しています。

数年前、近所でこんな話を耳にしたことがありました。

長年、独身の息子さんとふたりだけの暮らしを続けてきた母親が、高齢のために体の自由が利かなくなり、息子に負担をかけまいと、息子の定年を機会に自分からすすんで「特養老人ホーム」に入所することを希望したそうです。

しばらく空きを待っていたようですが、ようやく少し離れたホームの小奇麗なひとり部屋に入所することができました。

当初、その息子さんは、「やっと自分も定年になったのだから、これからは付きっ切りで母親の面倒をみてあげられるのに、なんとも皮肉なものですね」と苦笑されていたということですが、入所してから一年も経たないうちに、母親は物忘れが激しくなり、息子と他人との区別がつかなくなっているらしいことが、だんだん分かってきました。

「らしい」というのは、「分かっている」ことを懸命に装っているので、「らしい」なのですが、そういう母親のことを気遣って話すときの息子さんの淋しそうな顔を見るのがとても辛いと、妻は話していました。

この前もこんなふうに言っていたそうです。

「このさき記憶をなくしてしまったら、自分を支えてくれるのが誰なのか分からなくなってしまう、本当のひとりぼっちになってしまうと母は不安なんです。だから見捨てられまいと誰に対してもとても愛想がいい、介護の誰にもまるで『息子』のように接します。もちろん私に対してもまるで『息子』のように愛想よく接してくれますよ」

苦笑しながら話すその息子さんの表情は、とても辛そうだったそうです。

その息子さんには、他県に住んでいるやはり独身の弟がいて、たまに顔をみせていたようですが、母親が自分の子供が認識できなくなっていると分かると、ぷっつり姿を見せなくなってしまったそうです。

「なんで母に会いに行ってあげない」と兄は、はげしく弟をなじったところ、弟はこう言いました。

「もう子供の顔が分からないのだから、会いに行っても無意味じゃないか」

記憶も失い、自分の子供も分からなくなってしまった母親を、弟は、あれはもう自分の母親じゃないと否定します。

この話を聞いて、「なるほど。人は、こうやって親を見捨てるのか」(見捨てることを納得するのか)と感じました。

《小津安二郎は、その辛辣な映像の連なりをもって、それでは「親を見捨てる」ことと同じではないかと、抑制された静かな怒りを込めて痛烈に看破しています。》と書きながら、老いた母親と同居し、生涯あたたかく見守り続けた小津安二郎の生きる姿勢に打たれました。

小津安二郎の目の前で共に暮らし続けた母親は、どのように老い、どのように変わり果てようと、いつまでも常に幼い自分を愛し続けてくれた同じ母親のままであり、その姿を見失うことのなかった希有な人だったのだと思います。

昭和37年2月4日、母あさゑ死去。
昭和38年12月12日、12時40分、小津安二郎死去。
by sentence2307 | 2013-05-06 11:17 | 山中貞雄 | Comments(0)

山中貞雄の遺書

昨日の読売新聞の夕刊を眺めていたら、こんな見出しが目に止まりました。

「吉川英治ら自由閲覧OK 没後50年、著作権切れ続々」

なんだなんだと記事を読み始めたのですが、その書き出しが、「『宮本武蔵』や『三国志』で知られる作家・吉川英治らの作品が・・・」とあったので、てっきり青空文庫で「宮本武蔵」と「三国志」が無料公開されたのかと早とちりしてしまいました。

よく読むと、元日に公開されたのは吉川英治作品は「私本太平記・あしかが帖」だけで、そのほかに柳田国男「遠野物語」、室生犀星「抒情小曲集」、秋田雨雀「三人の百姓」、飯田蛇笏「秋風」、小倉金之助「黒板は何処から来たのか」、西東三鬼「秋の暮」、妹尾アキ夫「凍るアラベスク」、土谷麓「呪咀」、中谷宇吉郎「雪」、正木不如丘「健康を釣る」、正宗白鳥「心の故郷」の12人の作品だそうですが、それにしたって凄いです。

いままで読んだことがなく、ヘタをしたら一生読むことがなかったかもしれないこうした本に接する機会を得られるということは、とても貴重なことだと思います。

これから先も、年ごとに多くの本が順次50年という著作権保護期間が次々に終了していくわけで、無料で読めてしまってなんだか申し訳ないような気持もしますが、それにしてもこれからめぐってくる「元旦」が楽しみになってきました。

これってちょっとしたお年玉じゃないですか。

そうそう、このラインナップのなかで中谷宇吉郎の「雪」は、松岡正剛の千夜千冊の第1回目の書評に登場していた本だったので、特に印象に残っていました。

そこに書かれている全部の書評を読み通してやろうと決意し、読み始めるのですが、そのたびにいつも挫折し続け、また第1回目「雪」からやり直すという、自分にとってどうしても「悲しい」という形容詞をつけたくなる「印象」の本なのです。

1938(昭和13)年 に刊行されたという岩波新書です、たぶん絶版になっているんじゃないかと思いますが(単なる印象で、調べたわけではありません)、こういう貴重な本が、資力のない自分などにも全文が読める恩恵にあずかれるということは、ホント、デジタル社会ならではのことですよね。

ところで「青空文庫」は、折に触れ結構のぞかせてもらっているのですが、以前、「映画関係」の記事はないかと検索したことがありました。

主だった映画監督の名前を順番に検索しようと思い立ち、自分の好みの映画監督を順番に整理してみました。

まずは①小津安二郎監督を上げないことにはどうしようもありません。

そして世界の御三家②溝口健二③成瀬巳喜男④黒澤明ということになるでしょうか。

それから、これだけは譲れない自分の中の御三家⑤清水宏⑥今村昌平⑦川島雄三を挙げるとして、もう7人ですか。

困ったな、残る枠が3つということになれば、自他共に実力を認める剛腕監督を挙げなければならないとすると、⑧内田吐夢⑨今井正⑩木下恵介、ということになるけれども、しかし、まさか⑪小林正樹を落とすわけにはいきませんし、⑫市川崑⑬吉村公三郎⑭増村保造だって、う~ん、これはどこまでいってもきりがありません。

だいたい燦然絢爛たる日本映画史を飾った映画監督を、たった10枠で納めてしまおうという発想自体が貧しく、そもそも誤っていたのです、やめましょう、やめましょう、こんなこと。

せっかく「記号倉庫」から拾ってきた「⑮⑯⑰⑱⑲⑳」ですが、ここは潔く捨てちゃいますね。

しかし、こうみるとなんだか無難な大御所ばかり挙げていて面白みに欠けるということがあるかもしれませんが、これらの巨匠をはずして、いきなり「中川信夫」とか「石井輝夫」などを挙げるのは、やはりどうもいきにくい部分がありますからね。

実はそのときも、青空文庫の検索で、まず最初に入力したのは①~⑭でもなく、「山中貞雄」でした。

たった3作の遺作からしか窺うことのできない、自分のなかの「山中貞雄」の印象は、「ただ豪胆」ということにつきるのですが、しかし、そこには人間の失意や絶望を十分に知り尽くしたうえでの「それ」であって、映画作家としても、撮った作品がことごとく失われた「薄幸」の監督という印象のほうが強烈です。

自分の念頭には、きっとつねに、山中貞雄が最後に言い残したという「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。」という言葉が居座り続けていて、キボードに向かって両の手を広げた時、自分の指は、決して①~⑭などではなく、ひたすらに「や」のキーを迷うことなく探し求めたのだと思います。

青空文庫の「山中貞雄」の項には、9項目の記事がアップされていて、転記すると、
①右門捕物帖三十番手柄・帯解け仏法(新字新仮名、作品ID:864)、
②気まま者の日記(新字新仮名、作品ID:2319)、
③恋と十手と巾着切 (新字新仮名、作品ID:54443)、
④五題(新字新仮名、作品ID:2318)
⑤雑録・前進座に就いて(新字新仮名、作品ID:2320)、
⑥陣中日誌(遺稿)附・戦線便り(新字新仮名、作品ID:408)、
⑦なりひら小僧(新字新仮名、作品ID:54445)、
⑧武蔵旅日記(新字新仮名、作品ID:54488)
⑨森の石松(新字新仮名、作品ID:54425)ということになります。

そして、あの「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。」の言葉が記されているのは、⑥の「陣中日誌(遺稿)附・戦線便り」、その最初「遺書」という見出しのすぐ後に書かれているのには、ちょっと意表をつかれました。

本当に山中貞雄の遺言(さぞかし無念だったのだろうなと実感しました)だったんですね。
(原文のまま転記しますが、原文にある改行や折り返し、字下げや傍点・踊り字など掲載の形態が詳細に説明されているのですが、割愛しました)

遺書
○陸軍歩兵伍長としてはこれ男子の本懐、申し置く事ナシ。
○日本映画監督協会の一員として一言。
「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。
 負け惜しみに非ず。
○保険の金はそっくり井上金太郎氏にお渡しする事。
○井上さんにはとことん迄御世話をかけて済まんと思います。
 僕のもろもろの借金を(P・C・Lからなるせからの払ッて下さい。)
 多分足りません。そこ、うまく胡麻化しといて戴きます。
○万一余りましたら、協会と前進座で分けて下さい。
○最後に、先輩友人諸氏に一言
 よい映画をこさえて下さい。        以上。

  昭和十三年四月十八日
                       山中貞雄


ちなみに没年は、1938年(昭和13年)9月17日、この記事が掲載されたのは「中央公論」1938(昭和13)年12月号ですから、ほんとうに生々しい山中貞雄の苦渋の声だったんですね。
by sentence2307 | 2013-01-05 10:40 | 山中貞雄 | Comments(21)

河内山宗俊


以前、山中貞雄作品のうちで現存するものが、たったの3本しかないことを知り、その極端に少なすぎる状態に驚いた記憶があります。

聞いたところでは、上映が済んだフィルムは、切り刻んで駄菓子の「おまけ」としてばら撒き霧消させたという、まことしやかな話が残っていて、とりわけ時代劇とか喜劇などの分野の映画が見世物的な価値しか認められず、蔑視され卑しめられていたという当時の風潮などを考え合わせると、あるいは本当かなと、その仮説に信憑性が伴い始めて恐ろしくなるくらいです。

文字通り骨の髄までしゃぶりつくされる単なる消耗品として、映画はとことん商売の対象にされ、その結果、数々の名作がシラミつぶしにひとつひとつ完全に息の根をとめられ抹殺されてこの世から跡形もなく消えてしまったという筋書きが、やたら説得力を持ってきます。

もしそれが真実なら「これでは、ちと悲しすぎる」と言いたくなるような、それは、あまりにも残酷すぎる末路ですが、もちろん、そのような仮説など信じたくはないと思いながらも、しかし、この「末路」説、当時、作り手の側にも消耗品としての認識が十分にあったらしいという事情をすり合わせて考えていくと、あながち・・・という感じですね。

あるいはそれが、日本の活動写真の一貫して描き続けてきた被虐的な一面と妙にシンクロしてしまって、僕たちが当然に持っていいはずのこうした暴挙に対する憤りを、それでかなり薄められてしまっているという事実の一面を否定することはできないかもしれません。

それにしても残された作品が3本だけとは、極端に少なすぎると思いませんか。

他の監督のものと比較しても(正確な数を把握しているわけではありませんが)山中貞雄作品に関しては、その喪失に、なにか悪意ある「根こそぎ感」が付きまとって仕方ありません。

可燃性というフィルムの特性を差し引いて考えても、3本だけとはねえ。

全部「おまけ」にしてしまったとは、常識的にも考えにくいです。

戦後、占領軍が日本の民主化を推し進めていく中で忠君愛国・滅私奉公的なチャンバラ映画を全面的に禁止するとともに、かつて作られた優れた作品を没収したということで、その場合、単なる想像ですが、とりわけ大衆に人気があり影響力のあった優れた作品に危機感を感じたGHQが、真っ先に山中貞雄をターゲットにしたのではないか、などと被害妄想的に邪推しています。

GHQがどういう作品を没収して、それらの作品が、その後どのような運命をたどったのか是非知りたいと思います。

いつの日にか、失われたと考えられていた諸作品がごっそりと発見され、その豊饒な山中貞雄の世界をあますところなく堪能出来る日がきっとくるとかたく信じている自分です。

上品なくすぐりと底抜けに明るい「丹下左膳余話・百万両の壷」を見て腹を抱え笑い転げた者にとって、「人情紙風船」は、同じ映像作家のたった1年後の作品とは到底思えないような暗く絶望的な作品でした。

そしてこの「河内山宗俊」は、ちょうど、その中間に位置する作品です。

この作品でも、やはり真っ先に感じるものは、物語を終始支配している何ともいえない暗鬱さでしょう。

ういういしい原節子演じる甘酒屋のお浪の危機を救うために、無為徒食のヒモ生活を送る河内山宗俊(河原崎長十郎)とヤクザの用心棒に成り下がった浪人・金子市之丞(中村翫右衛門)が、顔を見合わせ「なにかに一生懸命になれることがあるというのは、いいことだ」と言葉を交わして、お浪救出に命をかける互いの決意を確かめ合う場面に、この山中貞雄作品のすべての魅力が描き尽くされていると思います。

この男たちが、いままさに闘おうとしている闘いは、大義のためとか功名のためとかいうご大層なもののために命を掛けようとしているわけではありません。

ひとりの甘酒屋の貧しい娘を女衒の手から助け出そうというただそれだけの、自分には何の得にもならない危険な闘いに我が身を晒そうとしているのです。

たとえ飲み屋のヒモでも、または、ケチなヤクザの用心棒でも、いやしくも名を惜しむ誇り高い男にとって、もし、こんな無意味な闘いで命を落とせば、何の利益も伴わないで終る、もちろん犬死です。

こう書いてきて、ふと黒沢明の「七人の侍」が描いたあの百姓たちと共闘した侍たちの戦いや、その決意のありようや高潔さなどを思わず重ねてしまいました。

確か、黒沢明が山中貞雄を畏怖と言ってもいいほど十分に意識していたという記述をどこかで読んだ記憶があります。

しかし、「河内山宗俊」にあって「七人の侍」にないものは何か、と考えれば、それは、既に世間から背を向けてしまっている者たちのなげやりとも見える虚無感ではないでしょうか。

それは「七人の侍」からは決して見つけることのできない種類の屈折した動機です。

これは、あるいは、死んだも同然の絶望的な日常の中で、腐りつくしてしまう前に、ひと花さかせて死んでいこうという者たちの死場所探しの映画かもしれません。

なによりもそれは戦いの場面によく表われていますよね。

「七人の侍」の雄々しく戦う数々の素晴らしい場面を見て、これを侍たちが犬死したと見る観客はひとりとしていないでしょう。

それに引き換え「河内山宗俊」のラストのドブの中で展開される斬り合い(というよりも、小競り合いといったほうが相応しいかもしれません)の寒々しさと、絶望の中で生きること・死ぬことに終始つきまとうなんとも遣り切れない無意味さには、山中貞雄という人が持っていたこの世の楽観的なもの総てに向けられた心からの悪意を感じないではいられません。

「人情紙風船」に登場する海野又十郎が仕官を求めてぎりぎりのところまで卑屈になって自分を追い込んでいくあの執拗な下降衝動を、僕はいまだかつて映像として見たことがありません。
by sentence2307 | 2006-04-06 23:51 | 山中貞雄 | Comments(0)
山中貞雄の世評の高い「丹下左膳・百萬両の壷」をみました。

素晴らしい映画でした。

話しの組み立て方の緻密さとテンポの良さには、驚かされました。

僕たちの知っている大河内伝次郎の丹下左膳といえば、いままで「憤怒と威厳を併せ持った形相で人気を博し、その仕草はグロテスクの域に達し、権力から放逐された存在で、挫折感とニヒリズムにさいなまれながら、とりわけ片目片腕というハンデキャップにも拘わらず、卓越した剣さばきで暗黒の世界を跳梁した。」という本による予備知識とは、この作品は全然勝手が違いました。

気のいい子供好きのただのおっさんで、子供を気遣っておろおろするところは、まさに時代を感じさせない堂々とした仕上がりでした。リメイクしようかという誘惑を感じるのも、これなら当然かな、と。

どこか「寅さん」的な魅力さえ感じました。

こうした軽目の作品をこれだけの仕上がりにもっていけるのは、並大抵の力ではできないことでしょうね。
by sentence2307 | 2004-11-06 10:42 | 山中貞雄 | Comments(0)