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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:コリンヌ・リュシェール( 2 )

コリンヌ・リュシェール


何気なくインターネットを眺めていたら、「教えて! goo」で、こんな質問がありました。

「女性が丸刈りにした映画を教えて」というのです。

これは面白そうだと、すぐに食いつきました。

寄せられた作品名を、最初から列挙すると、こんな感じです。

「ターミネ-ター」のリンダ・ハミルトン
「エイリアン」のシガニー・ウィーバー
「G.Iジェーン」のデミ・ムーア
「ドクター」のエリザベス・パーキンス
「スター・トレック」のパーシス・カンバータ
「ゴッド・ディーバ」のリンダ・アルディ
「リリイ・シュシュのすべて」の伊藤歩
「勝手にしやがれ」のジーン・セバーグ
「ヘヴン」のケイト・ブランシェット
「イン・アメリカ」のサマンサ・モートン
「エンパイア レコード」のロビン・タニー
「友情」の三船美佳
「007 美しき獲物たち」のグレース・ジョーンズ

う~ん、そういうことでしたか。

つまり、ここに掲げられている作品は、そのほとんどが奇抜さを狙ったファッションとしての「短髪」ということみたいですよね。

だから「女性が丸刈りにした」ということは、そのまま女性解放につながっていく積極的な自己主張という感じの言い回しになっていたわけですね。

しかし、自分としては、この「お題」を見たとき、問われているのは、むしろ、「女性が丸刈りにされた」映画だと思い込んでしまったものですから、少し肩透かしを食わされた思いがしました。

まあ、あいも変わらず、自分の思い込みから出た早とちりというか、質問の意味をまったく曲解していた何ともお粗末で情けないお話です。

しかし、なんらかの罰としての女性の「丸刈り」という、作品でいえば、「火刑台上のジャンヌ・ダルク」とか「パサジェルカ」あたりのシリアスなシチュエーションを勝手に想像していので、そうか、女性の「丸刈り」というのは、現代にあっては、そのイメージとしても必ずしも悲痛さとか、惨たらしさに結びつくわけではなくて、単なるファッションである以上、「不自然」でもないし、「衝撃」でもないわけなのだなと思い当たりました。

人間の価値観て、時間の経過や環境の変遷によって、こうも大きく変動してしまうものなのだと、なんだか急に老け込んでしまったような、寂しい隔世の思いに落ち込んでしまいました。

よくヒストリー・チャンネルで、イタリアやドイツの独裁政権が打倒された瞬間を実写フィルムで特集するときなど、必ずといっていいほど、侵略者たちに媚を売った自国の女たち(だぶん、商売女といわれる女性たちだったのだと思いますが)を民衆が取り囲み、罵声を浴びせ、嘲り、小突き回しながら嬉々として「丸刈り」にする衝撃的な場面を幾度か見たことがありました。

それら祖国を裏切った女たちを、薄ら笑いを浮かべながら強引に丸刈りにしている民衆の堂々とした強引さは、まるで公的なリンチのようなに描かれているだけに、かえって民衆への感情移入を拒むものがありました。

丸刈りにされる女たちは、きっと祖国を敵に売り渡してまでも自らの保身と、我が身の贅沢を享受しようとした、同情の余地のない女たちのはずなのに、しかし、嬲りものにされる売春婦たちよりも、むしろ、寄って集って罵る怒りの大衆の方にこそ嫌悪を感じてしまうのは自分だけなのだろうかと、いつも迷いの気持ちに襲われてしまいます。

彼女たちは散々に小突き回され、ひっぱたかれ、汚れものに対するような軽蔑の唾を吐きかけられたすえに、いわば罰として女性の自尊心と矜持の象徴である髪をすべて刈られる「丸刈り」という民衆レベルの処刑によって、存在そのものを否定され、踏みにじられ、辱められるというその無残な映像は、最初見たときは、物凄い衝撃でした。

ですので、そういうことを想定していたじぶんにとって、この「女性が丸刈りにした映画を教えて」の回答を見たとき、少し失望しました。

せめて、そのラインアップの中に、トルナトーレの「マリーナ」でも挙げられていたなら、まだしも、落胆はもう少し軽いもので済んでいたかもしれません、その意味では、ちょっと残念でした。

そうそう、トルナトーレの「マリーナ」で思い出したのですが、あの作品を最初に見たとき、僕はとっさに、フランスの女優コリンヌ・リュシェールを瞬間的に連想したことを思い出しました。

そしていま、「女性が丸刈りにした映画を教えて」という質問を見たときすぐに、ナチス・ドイツのパリ占領中、コリンヌ・リュシェールが、ドイツの情報将校の情婦となって一児をもうけ、やがてパリ解放後、対ナチ協力のかどで、頭を丸坊主にされて映画界から追放されたという以前なにかで読んだ記憶が不意に浮かび上がっての連想が、自分の内部で不思議な共鳴となったのかもしれません。

彼女の代表作はなんといっても「格子なき牢獄 Prison Sans Barreaux 」1938(1939年度キネマ旬報ベストテン外国映画2位)でしょうが、自分は未見ですが「美しき争ひ Conflit 」1938(1940年度キネマ旬報ベストテン外国映画7位)をあげる人もいました。

ただ、出演作のなかに「郵便配達は二度ベルを鳴らす Le dernier tournant 」1939があるのは、ちょっと意外でした。

ルキノ・ヴィスコンティ作品の間違いではないか、その前に作られた作品が存在していたなんて、初耳でした、

さっそく調べ直してみたくらいです。

う~ん、なるほど。ありました、ありました。

*1939年:ピェール・シュナール監督、フェルナン・グラベ、コリンヌ・リュシエール、ミッシェル・シモン主演で LE DERNIER TOURNANT(最後の曲がり角)と言うタイトルで映画化された。舞台をフランスのパパスに移されている。

*1942年:ルキノ・ヴィスコンティ監督。舞台はイタリアになっており、彼の初監督作品である。出演はマッシモ・ジロッティとクララ・カラマイ。
*1946年:テイ・ガーネット監督。ジョン・ガーフィールド、ラナ・ターナー主演。日本では劇場公開されなかった。
*1981年:ボブ・ラフェルソン監督。ジャック・ニコルソン、ジェシカ・ラング、マイケル・ラーナーなどが出演している。

ルキノ・ヴィスコンティ監督作品に先立つ3年前に、既に、コリンヌ・リュシエールが出演したフランス映画「郵便配達は二度ベルを鳴らす」が存在していたんですね。

そんなに意欲的に映画に取り組みながら、しかし、なぜ彼女はココロザシ半場で映画界から外れ、そればかりでなく、祖国を蹂躙した占領軍ナチス・ドイツに接近するようになったのか、長い間の僕の疑問でした。

そこで、さっそく彼女の年譜をしらべてみたのです。

年譜をたどるに連れて、そこには、野心に満ちた父親の存在がありました。

当時、事実上ドイツに支配されているフランス政界や言論界に対する父親の野心のために、娘を思うままに操って、ドイツ軍の中枢に取り入るため娘を道具に使っていた印象です。

いわば、彼女こそ最大の被害者だったのではないかという感じを受けました。

年譜を以下に掲げますね。
by sentence2307 | 2012-07-22 18:49 | コリンヌ・リュシェール | Comments(3)
1921年2月11日、フランス、パリに生まれた。

父は政治家でジャーナリストのジャン・リュシェール、この父の名付け親は、当時オーストリア=ハンガリー帝国領民だったハンガリー人の銀行家だったなど、この一家が欧州中を行き来して暮らす裕福で国際的な家庭だったことが推察される。

この父親は女優マリー・ベルなどと関係を持つなどかなりの発展家だったようで、また、画家だった母も、コリンヌの幼少時に、ドイツの政治家グスタフ・シュトレーゼマンの愛人となり、コリンヌを連れてドイツに出奔したといわれる。

そうした家庭で育ったコリーヌが、自由放埒な男性観を持ったであろうことは想像にかたくない。

父方の祖父は歴史家で作家として知られるジュリアン・リュシェールで、母方の祖父は画家、曽祖父は哲学者だった。

占領下時代には、父親と祖父が地位を利用して多くのユダヤ人を逃がしたという話もある。

そうした家庭の雰囲気のなかで育ったコリンヌが、規律の厳しい学校生活に飽きて、次第に演劇に興味を持ちはじめたあたりの生い立ちの感じは、まさに彼女を世に出した運命の作品「格子なき牢獄」の孤独な不良少女像にかぶる感じがする。

コリンヌは、中等教育を3年でやめ、14歳のときに俳優兼映画監督のレイモン・ルローの教室で演技を学ぶ。

16歳のときに父方の祖父ジュリアン・リュシェールが、彼女のために書いた劇「海抜3200メートル」に出演したのが、本格的な演技のスタートだった。

そして、その演技を、たまたま客席でレオニード・モギーが見ていたという、コリンヌにとって運命的な出会いがあった。

「格子なき牢獄」の監督したレオニード・モギーは、本名をレオニード・マギレウスキーというセントペテルスブルグ生まれのロシア人で、1929年ソヴィエトからフランスに亡命し、映画編集者から監督に転じた人物である。

ちなみに、この舞台には、のちに清楚可憐な乙女役で戦時下のフランス映画界を代表する「乙女の湖」のオデット・ジョアイウーも出演していた。

1935年、コリンヌはマルク・アレグレ監督「みどりの園」にエキストラとして出演し、これが映画へのデビュー作品となった。

この作品には、ほかに脇役としてジャン=ルイ・バローが出演していた。

監督のマルク・アレグレは、アンドレ・ジードの甥である。

1937年に人気歌手ジャン・リュミエールのために製作された「真夜中の歌手」に出演したが、映画はこれといった評判も得られず、コリンヌの印象も薄かった。

そして1938年、17歳のときに運命の作品「格子なき牢獄」と出会う、監督は前述のレオニード・モギー。

モギー監督は、女優としてキャリアの乏しいコリンヌの演技力に不安を抱いていたが、脚本を書いたアンリ・ジャンソンの強い後押しもあって起用が決まった。

しかし、この映画で不良少女を新鮮な魅力で鮮烈に演じたコリンヌは、主役のアニー・デュコー(品格のある美貌の若き院長役を演じた)を食うみずみずしい存在感を示し、熱狂的な人気を得て、一躍世界的なスターとなった。

当時「パリ・ミディ」紙は次のように絶賛した。「これは傑作である。人間の魂に叫びかけ、それを純化させ、向上させる作品である。モギー監督は巨匠の腕を見せ、俳優も素晴らしい演技を示した。私は有名スターの大作より、コリンヌ・リュシェールのような才能ある若い役者を世に送ったこのような映画に拍手を送りたい」

日本でも河上徹太郎が絶賛した。「此の映画の主役コリンヌ・リュシェールに溢れる「思春期の処女の色気」ともいふべきものは、実に素晴らしく輝かしい。それは「制服の処女」や「早春」が企てて成らず、ダービンやダリューの如く濁ったものとは類が違ふ。それが筋や脇役の不様さにもかかわらず、その桎梏を破って活々と魅力を放ってゐるのである」

ノンフィクション作家・鈴木明の著書「コリンヌはなぜ死んだか」(文藝春秋、1980年4月)には、この時期、コリンヌがロンドンを訪問したとき、メアリー・ピックフォードから「第二のグレタ・ガルボ」といわれたというエピソードが紹介されている。

この言葉を最高の賛辞ととるか、あるいは、エキゾチックな容姿や独特の雰囲気はともかく、演技となるとイマイチだったガルボの世評をそのまま受けた揶揄にすぎないものととるか、解釈の分かれるところであろうが、いずれにしろ、ほんの駆け出し女優に対してグレタ・ガルボを引き合いに出すということ自体、コリンヌとって最大級の賛辞とみていいだろうというのが通説である。

次の作品「美しき争い」1938は、「格子なき牢獄」の成功を受けて制作された作品で、内容は姉妹の愛憎もの。

共演は前作と同じアニー・デュコーで、監督もレオニード・モギー。

コリンヌがアニー・デュコーと手を取り合って、街を駆け抜けるシーンは、「格子なき牢獄」のなかで、感化院を脱走してきたと誤解した警官がコリンヌを追い、しかし、コリンヌが軽やかに逃げ回る森のシーンを彷彿とさせて印象深く、しかも劣ってないというのが当時の大方の評価だった。

「全体としては悲劇的な話なのだが、このわずか1分間の2人の奔放と爽快は、演技を超えた聖なるものを感じさせた。」

このロケ地ニースでコリンヌは「いれずみの男・ラファエル」を撮っていた監督クリスチャン・ジャックと出会う。

後にジェラール・フィリップ主演の「花咲ける騎士道」を撮る監督で、ほかにも「幻想交響楽」、「パルムの僧院」、「ボルジア家の毒薬」、「黒いチューリップ」などを撮った娯楽映画の巨匠であり才人の名も高いクリスチャン・ジャックは、また、女性関係も華やかで、結婚した相手もルネ・フォール、マルティーヌ・キャロルなど多彩だった。

当時、ようやく人気の出始めた新進気鋭の人気女優にクリスチャン・ジャックが食指を動かしたのも自然のなりゆきで、コリンヌもまた、初めて真剣に愛したのがこのクリスチャン・ジャックだったといわれている。

その後、親独派のジャーナリストだった父親ジャン・リュシェールの仕事の関係から、シュトレーゼマンの友人で親ナチの銀行家クルト・バロン・ヴォン・シュレーダーに見初められ、シュレーダーの邸宅に引き取られ、シュレーダーの周囲のナチ幹部とそこで親しくなった。

父の親友でもあり、父の秘書を妻にしていたドイツの駐仏大使オットー・アベッツともシュレーダー邸で知り合ったらしい。

1938年から1940年にかけて出演した作品は、「私はあなたを待つ」、「最後の曲がり角」、「第三の接吻」、「闖入者」など若手女優として将来を嘱望されながら、結局「格子なき牢獄」を超える作品にはならなかった。

この時期に噂となった交際相手は、大富豪でプレイボーイのアリ・カーン、そして、ムッソリーニの片腕といわれた外務大臣ガレアッツォ・チアノだった。

もともとフランス・ジャーナリスト界において最右翼に属していた父がドイツ占領下の新聞界において独裁的な権力者となっていたことから、その後ろ盾のもとで、コリンヌは、ヴィシー政権の華やかなシンボルとして社交界で奔放な生活を送り、歌手のシャルル・トレネらと交際した。

1940年6月のパリ陥落後、結核を患い、また、父親の仕事の手伝いをするかたわら結婚と出産を経るなど、身辺の多忙さのために女優の仕事ができなかったらしい。

1941年に療養先のモンブランの麓の保養地ムジェーヴでフランスの貴族ギイ・ド・ボワサンGuy de Voisins-Lavernièreと結婚したが、この貴族は父親ジャン・リュシェールが右翼の立場から創刊した夕刊紙「新時代」の出資者の一人で、その縁から知り合い(一種の政略結婚かも)結婚はしたものの、コリンヌの方に熱はなく最初から冷めいて(政略結婚なら当然か)、「ラ・メール」などで知られるシャンソン歌手のシャルル・トレネやスキー選手のエミール・アレなどと浮き名を流した。

同性愛者で、しかもユダヤ人だったシャルル・トレネは、ドイツ占領下のフランスで身の安全を確保するため、ドイツ軍に顔が利くコリンヌと付き合ったといわれる。

そして、同地出身のスターでスキーの世界王者エミール・アレとの不倫関係が破綻したあとに自殺未遂事件を起こして離婚し、パリに戻った。

ちなみに、父ジャン・リュシェール創刊の「新時代」は対独協力の急先鋒の夕刊紙で、彼は、この「新時代」によってドイツ占領下のフランス言論界において最も影響力を持つ存在となっていった。

その事務所で秘書を務めていたのが、後年の大女優シモーヌ・シニョレ、彼女は、その回想録のなかで、事務所には多くのフランス市民が、ドイツ占領下、ドイツ軍の横暴や略奪などに苦慮しているとの嘆願を受けて、そのたびに、ジャン・リュシェールが親身になって相談に乗り、ドイツ軍との仲介にも奔走したと記している。

さらに、シニョレはその回顧録の中で憤りを込めてこう語っている。「どれほどの多くの人たちがジャン・リュシェールのこの事務所を訪れたか、私は知っている。しかし、恩を受けたその彼らが、戦後リュシェールが死刑を宣告された苦境に遭遇したとき、彼にどれほどのことをしてあげただろうか。」

コリンヌがナチスの高官オットー・アベッツの愛人だったという説は、今なお根強く残っている。

アベッツは父親ジャンの友人であり、敵国の人間でありながら、フランス文化に理解があり、フランス語も堪能で、狂信的な親衛隊がフランスで破壊行動を取ったり、無益な血を流したりしないよう尽力した人物ともいわれている。

アベッツには何人か愛人がいたが、コリンヌがそのうちの一人だったかについては、確たる証拠があるわけではない。

「確たる証拠がない」といえば、1943年、コリンヌはオーストリア人のドイツ空軍将校ウォルラッド・ゲルラッハと出会って恋に落ち、やがてコリンヌは娘ブリジットを身籠った(出産は1944年5月10日)が、その子が、本当にゲルラッハの娘だったのかどうかについても同じように「確たる証拠はない」というように言われた、交際時期からみれば2人の子であることは、ほぼ間違いないだろうが。

このブリジットは、長じてのちにフランスの貴族と結婚した。

しかし運命は暗転し、1944年8月のパリ解放後、自殺を図ったが死にきれず、父とヴィシー政権閣僚とともにドイツ・ジグマリンゲンに移送され、その後、コリンヌは父と共にイタリアのメラーノ(ミラノにあらず)に逃れる。

ジャン・リュシェールにしてみれば、むしろ「対独協力者(コラボレイター)」という立場をとおしてフランスを守ったのだ、という自負があっただろうが、怒りの民衆の前では、やはり身の危険も感じていたからこそのイタリア行きだったのだろう。

やがて、1945年5月、そのメラーノでパルチザンに捕らえられた父娘は、そのまま拘留され、やがてフレヌ刑務所に送られる。

そこで、ドイツ人の妾だったか、ドイツ軍の手先だったのではないか、と執拗な尋問でコリンヌは責め立てられたが、国内の「対独協力者(コラボレイター)」糾弾の声が高まるなか、ヴィシー政権の亡命政府の閣僚になっていた父ジャン・リュシェールは1946年2月銃殺刑となる。

彼は処刑の際し、目隠しを拒み、「フランス万歳」と叫んだという。

コリンヌは対独協力の罪で投獄され獄中で病気になる。

まもなくコリンヌの裁判がはじまった、検事は「フランスの女性たちが戦い、苦しみに喘いでいる時に、お前はドイツ人と浮ついた生活を送っていたではないか」と激しく糾弾した。

そして、1946年6月、国家侮辱罪により10年間の市民権剥奪の判決が下された。

1948年に釈放され、1949年に自伝「人生における私の役」を出版した。

 1949年4月、コリンヌがニースの病院で療養中だったとき、イタリアの新聞に死亡記事が掲載された。

女優としてカムバックする夢を捨ててはいなかった彼女に、「格子なき牢獄」の監督レオニード・モギーは、コリンヌを主演女優に想定した新作の企画の申し出があったが、実は、その頃コリンヌの病状も相当進行していた。

無理に退院した彼女は、1950年1月22日、パリの道端で血を吐いて倒れた。

病院に担ぎ込まれた時にはすでに息絶えていたという。

彼女の死については、獄中死と書かれた記録もあるが、事実ではない。

彼女の夢だった映画出演は、ついに果たせず、企画のままで潰えた。享年29歳。

当時、愛国的雰囲気が強かったフランス国民に迎合するマスコミが、「祖国を裏切った女」「売国奴」という悪イメージ→生贄を必要としたという背景があった。

彼女のその生涯を通してみれば、まるでマスコミの生贄にされて潰された一生であり、死後も「オットー・アベッツの愛人」、「ナチの高級娼婦」という祖国を裏切った女のレッテルが貼られた。
by sentence2307 | 2012-07-22 18:39 | コリンヌ・リュシェール | Comments(188)