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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:山田五十鈴( 2 )

家が狭いために、少し溜まってしまった古新聞をそのまま放置し散乱させるままにしておくと、すぐに生活するスペースの方が脅かされて大変なことになるので、週が変わればこまめに結束して部屋の隅に積み上げておき、背の高さにならないうちに処分することにしています。

そんなわけで、オリンピック観戦の合間に、先月の「日経新聞」を結束していたら、たまたま映画評論家・佐藤忠男が書いた山田五十鈴の追悼文の記事を見つけました。

全然読まないうちに危うく捨ててしまうところでした。

日付は7月11日の朝刊。

ウィークデイの新聞だったので、朝の忙しさにまぎれて、きっと、この追悼文の掲載されている最終面までは、目が届かなかったのだと思います。

だいたい、ページの多い(この日の日経新聞の最終ページは、36ページでした)厚い新聞を隅から隅まで気を入れて読むためには、特に遅読の自分には、ゆうに丸一日は必要です、せめて大見出しだけでも目に止めておくようにしているつもりだったのですが、その面さえ見ていないことが、この佐藤忠男の「山田五十鈴の追悼文」の記事を見過ごしていたことではっきりしました。

とにかく、新聞の結束作業が、いつもなかなか捗らないのは、大抵こういうことがあるからなんですよね。

最近は、株価低迷とか、投信とかも振るわないので、ちょっと前までは、張り切ってやっていた新聞記事のスクラップなんかも(たぶんショックで)、怠けがちです。

目に付いた景気のいい経済記事を切り抜いて、せっせとスクラップしていたその時は、目についた映画関連の記事も一緒に切り抜いていたものですが、将来の展望が開けないお先真っ暗な現在、低迷地獄に足を取られっぱなしで気力までもが萎えてしまい、そんな元気も出てこず、なんだか欝状態の感じです。

でも、そんなことではいけません。

切り抜きとかはできないまでも、気になった記事くらいは、チェックして、せめてこのブログに書きとどめておくくらいはしておかないといけませんよね。

さて、「堂々と生きた大女優・山田五十鈴さんを悼む」と題された佐藤忠男の追悼記事の要約を筆写しておこうと思います。

記事は、ニューヨークにある日本文化紹介機関が日本映画の名作特集を行ったとき、作品の選択にあたったアメリ人の著名な女流評論家が、まず選んだ作品というのが、溝口健二の「祇園の姉妹」1936で、彼女は、そのオープニング挨拶で「こんなに早い時期にこれだけ堂々と女性の人権思想を表現した映画の傑作は、世界にもちょっとないのではないか」と話していたと紹介し、機会があったら、ぜひ山田五十鈴に話しておきたかったと書き出されています。

まあ、この書き振りからすると、「ついに、伝えることができなかった」と読むべきで、そこから、佐藤忠男と山田五十鈴の距離が推し量れるかもしれません、というより、山田五十鈴の女優としての生き方の「孤高さ」みたいなものを感じ取るべきなのかもしれません。

それから、人気俳優と売れっ子芸者という両親を持った彼女が幼児の頃から芸事をきっちりと仕込まれた生い立ちが書かれ、彼女の名を大女優として日本映画史に留めた6本の作品が紹介されています。

まずは、溝口健二の「祇園の姉妹」と「浪華悲歌」。客の男たちを手玉にとって復讐される芸者・おもちゃ(壮絶な源氏名です)を演じた「祇園の姉妹」と、頼りない父や兄のために美人局をやって警察に捕まる電話交換手・村井アヤ子を演じた「浪華悲歌」。

佐藤忠男は、この2作品についてこんなふうに言っています。

「どちらも世間の目からは不良少女にし見えないが、本人の気持ちでは男性優位社会の矛盾に体当たりの抵抗を試みているつもりという役である。
この2本の山田五十鈴の、勝手な男たちに対して腹の底から抗議する演技の迫力は圧倒的で、日本映画にリアリズム演技を確立したものといっても過言ではない」

確かにその通りだと思います、まあ、どちらでもいいことかもしれませんが、紹介の順序を佐藤忠男は、「祇園の姉妹」から「浪華悲歌」というふうに書いていますが、あえて封切りの順にこだわれば、「浪華悲歌」が1936年5月28日で、「祇園の姉妹」が1936年10月15日ということですから、やはりここは、「浪華悲歌」があって「祇園の姉妹」があったというふうに並べたら、家庭に落ち着くべき居場所を失った不良少女が、追われるように辿り着いた花柳界でも、したたかに伸していくという図式が成り立ち、あるいは、すんなりと理解できるような気がしました、私見です。

そして次は、成瀬巳喜男の「鶴八鶴次郎」1938、
「美しい情感に溢れる芸道ものであり、人情ものであり、そして、一種の悲恋ものである。相手役は長谷川一夫。こんなに見事に日本の大衆芸能の演技術の精髄を身につけた芸達者同士の共演というのは滅多にあるものではない」と記しています。

互いに惹かれあいながら、「芸」の一点では、どうしても相手に譲ることができずに袖を分かつしかなかった恋人たちの物語なのですが、考えてみれば、このストーリーは、思えば山田五十鈴の生涯そのものを暗示していたんだなあとつくづく感じました。

多分、そこで描かれていた「芸」とは、自尊心とか矜持とかという「気高さ」につながるものだったとしたら、その一方で、彼女が退けた「愛」とは、迎合とかおもねりとか、自己犠牲だとか自己欺瞞だとか、とにかく相手のために自分を殺さなければならない「卑屈さ」にしかつながり得なかったものと理解していたのかもしれません。

その次は、衣笠貞之助の「女優」1947。奇しくも山田五十鈴から卓越した演技を引き出した溝口健二監督・田中絹代主演で製作された競作となったもので、田中絹代の演技が「自由→孤独と自滅」しか表現され得なかったものに対して、山田五十鈴の凛とした生き方を反映するかのような「自由→謳歌と自立」の演技が圧倒的に評価された作品でした。

佐藤忠男は、こんなふうに記しています。
「日本の新劇の最初のスター女優である松井須磨子の伝記映画である。
彼女が演出家からイプセンの『人形の家』の講義を受け、女が子供を置いて家を出ていいものかどうかと質問され、きっぱりとそういうヒロインのノラの行動を肯定する答えをする。
その時の山田五十鈴の凛とした表情が忘れがたい」

う~ん、これもまた、山田五十鈴の生き方そのものだったわけですね。

そして、次の亀井文夫の「女ひとり大地を行く」1953では、「炭鉱で働く女の一生を演じるなど、大スターの立場をかなぐり捨てたような行動で周囲を驚かせたり」、黒澤明の「蜘蛛巣城」1957では、「マクベス夫人に相当する役を、能の身振りを取り入れて演じるという彼女ならではの演技で見事にやってのけたり、日本映画界で別格の大女優であり続けた」としたうえで、例の「男は芸の肥やし」と言われたのか、あるいは自ら言ったかの、終生にわたって彼女にまとわりついたスキャンダルについて、こう言っています。

「山田五十鈴を語る場合、省略するわけにいかないのは何度も結婚や同棲を繰り返したことである。
男女関係が厳しく見られていた時代にあって、彼女の場合は例外的にそれがスキャンダルとして扱われなかった。
あまりに堂々としていたことと、それが彼女自身の芸の進展や思想の模索と明らかに結びついていて、色ごとというにはむしろ爽快なくらいだったからである。」

う~ん、なるほど、この文章からすると、佐藤忠男は、山田五十鈴が「男は芸の肥やし」としていたという見方を暗に肯定しているかのような感じを受けますね。

しかし、僕の感じ方からすると、義務教育を満足に受けることができず、早くから芸界に身を置いた彼女にとって、概念としての「演技」や「思想」というものに漠然とした憧れがあり、それがたまたま身近な「男」の形をとって具現化したと感じたのではないか。

そこでの「男」は、あくまでも「演技」や「思想」というものの属性でしかない。彼女が憧れていた「演技」や「思想」の部分を吸収しマスターしてしまえば、あるいは、もっとはっきり言って、それらのエッセンスを吸収し終わった残滓としての男たちの「底」が見えてしまえば、単なる「属性」などと一緒にいる必要がなくなったということではなかったかなと漠然と考えています。

こういってしまえば、やっぱり「男は芸の肥やし」ということか、う~ん、どうなんだ。

やれやれ、今日も新聞の結束に失敗しました。

新聞の高さもいよいよ背を超えてしまったぞ。ど~すんだよ、まったく。
by sentence2307 | 2012-08-12 11:17 | 山田五十鈴 | Comments(0)

山田五十鈴、逝く

《7月9日午後7時55分、多臓器不全により東京都稲城市内の病院で女優・山田五十鈴死去、享年95歳》というニュースに接したときには、驚いたというのではないにしても、やはり、不意を突かれて、なんだかしばらく呆然となってしまいました。

田中絹代、高峰秀子と日本映画を支えた大女優を立て続けに失ってしまったうえでの、さらにこの訃報だったのですから、やはりこれは本当の意味での喪失感だったのでしょう。

そして、日本映画を代表するビッグネームのこの三人の大女優の名前を、こうして並べて眺めていると、あることに気がつきました。

人生経験の乏しい少女の年齢で早くも映画界入りさせられ、しかし、そうした経験の欠如を補い、あるいはある程度誤魔化すことさえできたかもしれない義務教育的教養からも見放された彼女たちが、どのようにして演技の工夫をしていったのか、その後、波瀾に満ちた人生を経て、それぞれに違う答えを彼女たちなりに手探りで得たとしても、彼女たちのあの卓越した演技が、それら過酷だったり華々しかったりの人生から得ることのできた代償とか教訓のようなものであったとは、どうしても考えられません。

むしろ、彼女たちが少女の時、満足な義務教育を受けられなかったことの劣等感がバネとなり、その知的飢餓感だけを頼りに鞭打つようなみずからの「想像力」や「感覚」によって、演ずる役の内面、感情の深みに分け入ることができたのではないかと思います。

少なくとも彼女たちは、いつまでも「お姫様」や「お嬢様」のままではいなかった、なぜなら、空虚を抱えた彼女たち自身が「そうではないこと」「演技者と自分」とは別人であることを十分に知っていたからです。

そして、そのみずからの「空白」に真っ向から敢然と立ち向かったのが、たぶん女優・山田五十鈴だったのだと思います。

「唐突」とか「奇異」として語られることの多い1950年民藝の俳優・加藤嘉との結婚と、その後の左翼独立プロ作品(山本薩夫監督の「箱根風雲録」や亀井文夫監督の「女なれば母なれば」「女ひとり大地を行く」)への出演が、彼女の劣等感や飢餓感に基づく善良な「無知」の反映のようにみえてなりません。

その背景には、敗戦直後、すべての価値観と体制とが揺らぎ、すぐ眼の前に共産革命が迫っていると誰もが信じた戦後動揺期にあって、能天気な「チャンバラ映画」は蔑み嘲られる代わりに、まことしやかに「人民解放映画」が作られた時代があったのでした。

まあ、こう見れば、山田五十鈴の選択が、きわめてトレンディではあったといえるにしても、しかし、それは、自分のそれまでのキャリアと、そして「普通の社会的感覚」の持ち主なら、まずは選択しない常識域を脱した不見識な行為だったと言わざるを得ない。

なぜなら、まさに女優・山田五十鈴こそが、それまで「お姫様」を演じ続けてきた張本人だったからです。

彼女のその選択は、ただの「自己否定」でしかなく、過去のものを受け継いだものでも、現在を将来につなげる行為でもなかったというしかない。

しかし、人間の選択が、すべて「建設的」でなければならないかといえば、そうでもない、というのが、山田五十鈴という女優だったのかもしれません。

左翼的演技者が、演技を組み立てる上で「ある方向性」=権力的道具としての人物を演じるに対して、山田五十鈴は「箱根風雲録」や「女なれば母なれば」や「女ひとり大地を行く」においてさえも、皮肉にも「お姫様」を演じる際に深めたと同じ劣等感リアリズムで演じ、左翼の演技者たちの演技をはるかに凌ぐ演技を見せました。

その後、3年ほどでこの結婚は破綻しますが、女優・山田五十鈴は、この期間においてさえ、演技的には、なにひとつ失わなかった。

彼女は、1956年「流れる」「猫と庄蔵と二人のをんな」、1957年「蜘蛛巣城」「どん底」「下町」で2年連続キネマ旬報主演女優賞を獲得します。

結婚の破綻のダメージを感じさせないそのタフな快挙が、「男は芸のこやし」というやっかみ半分の言葉に結びついたのかもしれません。

その言葉を山田五十鈴自身がいったのか、それとも「恋多き女」などというスキャンダラスな言葉とセットでマスコミが作り出した言葉だったのかは、確認はできませんが、いずれにしろ、赤旗が乱舞し、インターナショナリが高らかに歌い上げられ、怒号渦巻く炭鉱町の労働争議に巻き込まれる爆発頭の主婦などという、どーにも捉えどころのない役どころを、赤だろうと青だろうと関係なく、実に誠実に深め、やがて「流れる」や「猫と庄蔵と二人のをんな」、「蜘蛛巣城」や「どん底」、「下町」などに続く演技としても、いささかの違和感も遜色もなく演じきったのでした。
by sentence2307 | 2012-07-29 18:34 | 山田五十鈴 | Comments(0)