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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:五所平之助( 8 )

伊豆の娘たち

数年前、「神保町シアター」で、特別企画として終戦直後に封切りされた作品ばかりを集めて上映するという企画がありました。

実に素晴らしい企画で、その貴重な機会を逃さないように無理やり仕事を算段して出来るだけ見に行こうと焦りまくっていたことを最近しばしば思い出すことがあります、残念ながら「日参」とまではいきませんでしたが。

あれから少し時間がたってしまい、だいぶ記憶も薄れてきたのですが、おりに触れて、そのときの苦労や、そこで見た幾つかの作品のことを懐かしく思い出しています。

しかし、いまとなっては、その作品を「神保町シアター」で見たのだったか、「フィルムセンター」で見たのか、いや、それとも、もっとべつの映画館で見たのだったか、記憶が錯綜してだんだんあやしくなってきました。

しかし、なんだってそんなことが気になるのかといえば、自分にとって「むかし見た映画」(記憶の中にあっては、昨日も10年前もみんな「むかし」です)というのが、ただ単に「作品」それ自体の記憶というのではなくて、その作品を見た場所というのが、記憶の重要な属性になっているからだと思います。

作品自体を覚えてさえいれば、それだけで十分じゃないかと言われてしまいそうですが、自分にとって「映画の記憶」とは、それを見た映画館と一体のものとして格納されています。

小津監督や溝口監督の諸作品は、すべて銀座の並木座で見ましたし、大島渚作品「少年」や吉田喜重作品「戒厳令」など、当時の時代の先端を行く尖鋭で重厚な作品は、ことごとく池袋の文芸地下で出会いました。ロベール・アンリコの「冒険者たち」の底抜けの悲しい明るさや、ゼフレッリの「ロミオとジュリエット」の宿命的な死の輝きと美しさに圧倒されたのは、神楽坂の「佳作座」でした。「keiko」や「不良少年」「絞死刑」を寒々しい場末の映画館で見ていなければ、こんなにも映像に打ちのめさ、その衝撃を衝撃として感受できなかったかもしれません。

映画を求めて東京の薄汚い繁華街の闇をさまよった先の映画館の思い出がなければ(さらには、「誰と見たか」とか、その時の「気分=失恋とかね」が再現できなければ)、きっと「映画の記憶」をこんなにも燦然と輝かせることも、自分のものにすることも叶わなかったに違いありません。

思い出していくうちに、たまらなくなって「神保町シアター」のホームページからその企画を検索して確認したくなりました。
ありました、ありました。

「◆戦後70年特別企画 1945-1946年の映画」、これですね。具体的には、1945年8月15日から1946年末までの間に封切られた映画、とあります。

なるほど、なるほど。

上映作品は、以下の通りです。

1.『歌へ!太陽』 昭和20年 白黒 監督:阿部豊 出演:榎本健一、轟夕起子、灰田勝彦、川田義雄、竹久千惠子
2.『グランドショウ1946年』 昭和21年 白黒 監督:マキノ正博 出演:高峰三枝子、森川信、水ノ江瀧子、杉狂児、三浦光子
3.『そよかぜ』 昭和20年 白黒 監督:佐々木康 出演:並木路子、上原謙、佐野周二、齋藤達雄、若水絹子
4.『はたちの青春』 昭和21年 白黒 監督:佐々木康 出演:河村黎吉、幾野道子、大坂志郎、高橋豊子、坂本武
5.『わが恋せし乙女』 昭和21年 白黒 監督:木下惠介 出演:原保美、井川邦子、増田順二、東山千栄子、勝見庸太郎 *16mm上映
6.『伊豆の娘たち』 昭和20年 白黒 監督:五所平之助 出演:三浦光子、佐分利信、河村黎吉、桑野通子、四元百々生、飯田蝶子、笠智衆
7.『お光の縁談』 昭和21年 白黒 監督:池田忠雄、中村登 出演:水戸光子、佐野周二、河村黎吉、坂本武、久慈行子
8.『大曾根家の朝』 昭和21年 白黒 監督:木下惠介 出演:杉村春子、三浦光子、小沢栄太郎、賀原夏子、長尾敏之助 *16mm上映
9.『国定忠治』 昭和21年 白黒 監督:松田定次 出演:阪東妻三郎、羅門光三郎、尾上菊太郎、飯塚敏子、香川良介
10.『狐の呉れた赤ん坊』 昭和20年 白黒 監督:丸根賛太郎 出演:阪東妻三郎、阿部九州男、橘公子、羅門光三郎、寺島貢、谷譲二
11.『東京五人男』 昭和20年 白黒 監督:齊藤寅次郎 出演:古川緑波、横山エンタツ、花菱アチャコ、石田一松、柳家權太樓
12.『へうたんから出た駒』 昭和21年 白黒 監督:千葉泰樹 出演:見明凡太郎、潮万太郎、岩田芳枝、浦辺粂子、逢初夢子
13.『或る夜の殿様』 昭和21年 白黒 監督:衣笠貞之助 出演:長谷川一夫、山田五十鈴、高峰秀子、飯田蝶子、吉川満子、志村喬、大河内傳次郎
14.『歌麿をめぐる五人の女』 昭和21年 白黒 監督:溝口健二 出演:坂東簑助、坂東好太郎、髙松錦之助、田中絹代、川崎弘子
15.『浦島太郎の後裔』 昭和21年 白黒 監督:成瀨巳喜男 出演:藤田進、高峰秀子、中村伸郎、山根壽子、管井一郎
16.『人生とんぼ返り』 昭和21年 白黒 監督:今井正 出演:榎本健一、入江たか子、清水将夫、河野糸子、江見渉

◆巨匠たちが描いた戦争の傷跡
終戦間もない時期に公開された巨匠たちの戦争の傷跡を色濃く映し出した作品
17.『長屋紳士録』 昭和22年 白黒 監督:小津安二郎 出演:飯田蝶子、青木放屁、河村黎吉、吉川満子、坂本武、笠智衆、殿山泰司
18.『風の中の牝鶏』 昭和23年 白黒 監督:小津安二郎 出演:田中絹代、佐野周二、村田知英子、笠智衆、坂本武
19.『夜の女たち』 昭和23年 白黒 監督:溝口健二 出演:田中絹代、高杉早苗、角田富江、浦辺粂子、毛利菊江
20.『蜂の巣の子供たち』 昭和23年 白黒 監督:清水宏 出演:島村俊作、夏木雅子、久保田晋一郎、岩本豊、三原弘之

そして、解説には、こうあります。
《戦争で焼失した映画館は全国で500館を数え、一方、空襲を免れ残った映画館は、終戦の日から一週間だけ休館し、営業を再開したといいます。その後、焼け跡にはバラックの映画館まで出現し、マッカーサーが日本に降り立ったまさに1945年8月30日同日、終戦後初の封切作品『伊豆の娘たち』(1945.08.30 松竹大船 五所平之助)『花婿太閤記』(1945.08.30 大映京都 丸根賛太郎)の二本が公開されたのです。
終戦直後、映画会社や映画館の人々の情熱によって届けられた映画は、戦災の中で生き抜こうとする人々の希望の光になったと、信じてやみません。今回は、日本が復興に向けて歩み出した1945年8月15日から翌年末までにGHQの厳しい検閲を通過し公開された、知られざる映画たちを回顧します。》

解説を読んでいくうちに、「伊豆の娘たち」の長女・静子(映画の中では「静江」ですが)の揺れる娘心を健気で繊細に演じた三浦光子の演技(清潔感と妖艶さが矛盾なくひとつのものであること)に衝撃を受けたことを鮮明に思い出しました。

脇を固める役者もこれまた実に素晴らしく、河村黎吉や桑野通子や東野英治郎や飯田蝶子らが、畳みかけるように生き生きと掛け合いを演じていくシーンは、まるで心地よい映画の波動にいつまでも身を委ねていられるような快感さえ感じられました。

いろいろな解説書のいたるところで、かならずといっていいほど「戦時中にもかかわらず」という文言を見かけますが、そんな思い込みが無意味に思われるほど、この映画には独自の映画的な固有のリズムがあって、「戦時色」などという末梢的な粗さがしなど排除してしまう力強さと気高ささえ感じることができました。

(1945松竹大船撮影所)演出・五所平之助、脚本・池田忠雄、武井韶平、撮影・生方敏夫、西川享
配役・河村黎吉(杉山文吉)、三浦光子(長女・静子)、四元百々生(次女・たみ子)、桑野通子(叔母・きん)、佐分利信(宮内清)、東野英治郎(村上徳次郎)、飯田蝶子(しげ)、笠智衆(織田部長)、忍節子(夫人)、柴田トシ子(娘雪子)、坂本武(宗徳寺の和尚)、出雲八重子(おたけ婆さん)、
1945.08.30 紅系 8巻 2,018m 74分 白黒



by sentence2307 | 2018-01-28 09:54 | 五所平之助 | Comments(0)

鶏はふたたび鳴く

映画がはじまり、流れ過ぎるスタッフの字幕を何気なく眺めていたら、原作者に椎名麟三の名前が出ていたので、あわてて「煙突の見える場所」の製作年を確かめてみました。

確か「煙突の見える場所」も、同じく椎名麟三の原作だったことを思い出したからです、なるほど製作年は1953年とありました。

この「鶏はふたたび鳴く」が、1954年の製作ですから、あの「煙突の見える場所」で得た高い評価によって、もう一度、五所監督は、椎名麟三の原作を採用してみようとしたのかもしれません。

記事によると、この作品は、コンビ3作目と書かれていました。

確かに善良で馬鹿正直な人間の設定などに椎名麟三と五所平之助の共通点は幾つかあると思いますが、しかし、ピッタリと重なり合うかといえば、どうもそうとは思えません。

なにか決定的なところで相容れない異質なものがあるに違いないという思いをずっと抱き続けてきました。

例えばそれは、椎名麟三の小説の印象として、絶望的な状況の中で貫かれる飄々とした求道精神とか、登場人物たちの世間や他人に対する距離のとり方など、いままで観てきた五所平之助作品と比較してみれば、あえて「神」などという大仰なモノを持ち出すまでもない、そこには俗世に生きることの素晴らしさだけで充足できている庶民の生き方を描くだけで完結できてしまっている、もはやそれだけで十分な五所監督の物語世界を確信している自分にとっては、「神」を持ち出すなど、ただただ気恥ずかしく、気後れをさえ感じるだけにすぎない気がします。

「煙突の見える場所」や「大阪の宿」で描かれている人間たちは、もっと「俗世間」にべったりと密着していながら、同時にその世界に受け入れられない疎外感を絶えず抱いているような孤独な人物たちです。

しかし、それが決して暗さに繋がるわけでもないし、身動きできない絶望に繋がるわけでもありません。

この「鶏はふたたび鳴く」は、僕にそういった印象を更にはっきりとイメージさせた作品でした。

この映画を図式的に説明すると、食い詰めた流れ者の労務者たちと、「死ぬ時は一緒に死のう」と決めた自殺同盟で結ばれたハンディを抱えた3人の娘たち、そして、社会に適応できない異質な彼らを排除しようとする共同体という巨大な存在との確執が描かれています。

そこに、会社の金を横領した詐欺師が絡んでストーリーを掻き回して展開するという喜劇風なドタバタの側面はあるにしても、その「掻き回し」は、あたかもそのおどけた体裁の背後にある、弱々しい異端者が、巨大な共同体から敗北者として強引に弾き飛ばされるという本当の硬質なテーマを、気恥ずかしげにカモフラージュしているようにさえ見えてきました。

それは、また、「煙突の見える場所」や「大阪の宿」で描かれていたことと、よく似ていることに気づかされます。

そして、五所平之助という監督は、決して安易な「和解」を描こうとしない監督なのではないかという気がします。

雇主の突然の自殺によって天然ガス試掘の仕事を失い、絶望の只中にあった労務者たちは、「石油技師」を名乗る詐欺師によって、石油発掘の希望を与えられます。

たとえそれが、つかの間の「夢」にすぎなくとも、「夢」を与えられて活き活きと仕事に没頭する彼らの姿を見て、死ぬことばかり考えていた娘たちも生きる意味を見出します。

娘たちも労務者の中にも、薄々それが詐欺師の嘘なのではないかとちょっぴり疑いながら、与えられた「夢」をしっかりと受け止め、疑いもせずに生きる糧に肯定して生きようとする労務者たちの生き方を見て、騙されることを恐れていた者たちも、やがて生きる(それだけで、素晴らしいのだ)ということの意味を見出したのだと思います。

この世には何も「真実の夢」と「虚偽の夢」とがあるわけではなく、ただ「夢」があればそれだけで十分、生きることはもっと単純であってもいいのだという彼らが到達した境地は、しかし共同体にとっては相容れるものではないことを、この映画は彼らが土地を追われるラストでしっかりと描き出していました。

(新東宝)監督・五所平之助、製作・内山義重、脚本・椎名麟三、撮影・小原譲治、照明・折茂重男、音楽・黛敏郎、録音・根岸寿夫、美術・下河原友雄、
出演・佐野周二、伊藤雄之助、中村是好、南風洋子、小園蓉子、左幸子、坂本武、渡辺篤、佐竹明夫(片桐余四郎)、東野英治郎、三好栄子、沢村貞子、飯田蝶子、柳谷寛、小高まさる、谷麗光、小倉繁、杉寛、小峰千代子、
1954.11.30 13巻 3,230m 118分 白黒
by sentence2307 | 2009-08-16 09:55 | 五所平之助 | Comments(144)

面影

東宝争議の記録を読んでいると、必ず出てくる記事があります。

それは、この昭和23年という年に東宝が封切りした映画が、争議の影響のために、結局たった4本しか封切ることができなかったという記事です。

その映画というのは、関川秀雄監督の「第二の人生」(2月3日封切)、五所平之助監督の「面影」(4月43日封切)、黒澤明監督の「酔いどれ天使」(4月26日封切)、豊田四郎監督の「わが愛は山の彼方に」(5月8日封切)ですが、黒澤明監督の「酔いどれ天使」は、見る機会が多く、テレビで放映されるたびに見ているので、きっと年に1回くらいは必ず見ているという感じです。

豊田四郎監督の「わが愛は山の彼方に」は、フィルムセンターの豊田四郎監督の特集上映のときと、日本映画専門チャンネルの特集放映の際に見ていますから、少なくとも二度は見ている勘定になります。

確か池部良が医師の役を演じていて、無医村に赴任して村の人間関係に巻き込まれるという話だったと思います。

この作品で、特に印象に残っているのは、看護婦を演じた中北千枝子が、いままで見たこともないような、愛欲に苦しむ女性を抑えた演技でくるおしく演じていたことでした。

それまでの僕の中北千枝子の印象は、世間話を愚痴る近所のおばさん役(成瀬作品の影響大です)程度の印象だったので、「女」を演じたその生々しい演技には目の覚めるような思いを抱いたと同時に、豊田監督の力量のほどを見せ付けられたような気がしたものでした。

「素晴らしき日曜日」で見せた善良さとはまた違う中北千枝子という女優の一面を鮮烈に感じた作品でした。

この争議の年、昭和23年に東宝が4本しか作らなかったとしても、例えば別の年に200本作った場合の作品自体の出来具合の違いがどこかにあるのか、と問われれば、その答えに窮することは理解しているのですが(あえて言えば「粗製濫造」という理由はあるかもしれません)、しかし、東宝争議の記事を読み、「この年は、4本しか作られなかった」というクダリに出会うたびに、まだ見る機会のない関川秀雄監督の「第二の人生」と、五所平之助監督の「面影」という2本の作品をますます意識しないわけにはいきません。

意識するたびに、仕方なく手近の資料を引っくり返してこの2作品についてチョコチョコ調べることで気を紛らわしてきました。

ある解説書には、これらの作品について、要領よくこんなふうに紹介されています。

関川秀雄監督の「第二の人生」については、「敗戦直後の社会問題のひとつとして当時クロース・アップされた戦災孤児の問題に関川秀雄監督が本格的に取り組んだ作品」とし、さらに、「作者の深い現実描写とヒューマンな視点を通して日本への批判を行っている点が注目される」と締めくくられていました。

高揚した文章の調子からすると、これだけでも随分な意欲作ということが察しられますし、映画評論家・佐藤忠男の解説には、ニコライ・エックの「人生案内」を引き合いに出していました。

これってほとんど絶賛じゃないですか。

その同じ文章のなかで、さらに佐藤忠男は「面影」については、「完全にブルジョア的な恋愛心理劇」と書いています。

これは決して「左翼的でないから駄目な作品だ」と貶しているわけではありません。

むしろ、この一文によって、大争議という混乱した時期に、こうした鷹揚な「ブルジョア的な恋愛心理劇」を撮った五所監督の、時代に右往左往しない人間性を述べたかったのだと思います。

この相反するふたつの解説を前にして、僕の気持としては、五所平之助監督の「面影」に方に気持が動いてしまうのは、時代に囚われない自由さを持った五所監督の生き方への共感からすれば、必然の成り行きだったかも知れません。

そして、最近やっと、積年の夢だったその「面影」を見ることが出来ました。

まずは、その迫力ある映像に魅了されました。

それはきっと映画にカツエタ人々の切迫した気持が撮らせたに違いない切実な映像の力だと思いました。

過酷な人間関係の苦悩に歪む浜田百合子や龍崎一郎や菅井一郎の表情を、なんの躊躇も、なんの衒いもなく、真正面から描写するその率直さには驚かされます。

僕が知り得たこの映画の紹介文は、実に簡潔でした。

「恩師の妻を愛してしまった男の物語」とか、もっと大雑把なのは「三角関係の行く末を描いたラブロマンス」なんていうのもありました。

しかし、この映画が描いているものが、単なる「三角関係」の物語なのでしょうか。

男(龍崎一郎が演じています)は、初対面の恩師の妻(浜田百合子)に亡き妻の面影を見て動揺します。

それは、彼が、失った妻を深く愛していたこと、そして、いまでも忘れられないでいる苦悩を示していて、もし恩師の妻が、亡き妻に生き写しでなければ、男が心を動かされることもなかったはずです。

そして男は、恩師の妻に、いまの生活に後悔はないかと訊きます。

この場面を見た当初、幸福に暮らしている彼女に対して、そんな質問は、随分と余計なことだろうと思いました。

しかし、男のその「質問」は、最愛の妻を失い、妻との愛の記憶と、その喪失に苦しむ彼にとって、妻の「面影」に対して訊くには、当然すぎる問いだと確信するようになりました。

老教授との形ばかりの生活の中に、どのような愛の真実があるのだと、まるで詰問するように問い掛けます。

それは、自分と妻とが共に過ごした愛の記憶の言わせている自分自身に向けられた問いにすぎないものだったかもしれません。

しかし、恩師の妻にとってその問いは切実で、改めて現在の、若さと引き換えにしたような安定した生活に迷いを起こさせます。

「本当にこれでよかったのだろうか」と、老教授との生活を彼女は、取替えしのつかない過ちのように苦しみ悶えます。

老教授も、肉体的に彼女を満足させてあげられないことに自責の念を抱いていることが明かされます。

「三角関係」という言葉からニュアンスされるものが、自らの欲望に忠実に、相手を我がものにしようと意図する過激でアクティブな摩擦と葛藤なら、この「面影」に描かれている愛憎の様相は、むしろ対極に位置する人間模様に思えました。

男は亡き妻の面影に動揺し、そして傷つき、恩師の妻も、男が傷ついた分だけの苦しみを受け、そして彼女が受けた痛みが、すべて老教授に起因しているかのような相克の地獄絵のなかにこの三人はのた打ち回っています。

そして、この三人は、もし相手を許せば、同じだけ傷つけることになることも十分に察しています。

これ以上、平穏な家庭に波風を起こさないように静かに立ち去る男と、かすかな気まずさを抱えた夫婦を暗示的に描いているこのラストは、しかし修復不能な事態の悪化は、実はもっともっと以前から二人の間にあったのではないかと、ふと思わせるものがありました。

(1948東宝)製作・井手俊郎、監督・五所平之助、脚本・館岡謙之助、原案・五所平之助、撮影・木塚誠一、音楽・高木東六、美術・河東安英、録音・空閑昌敏、照明・岸田九一郎、
出演・出演龍崎一郎、菅井一郎、浜田百合子、若山セツコ、笠智衆、赤木蘭子、大久保進、出雲八重子、望月伸光
1948.04.04 10巻 2,630m 96分 白黒
by sentence2307 | 2009-03-21 16:41 | 五所平之助 | Comments(35)

わかれ雲

引っ込み思案で、世間の冷たい仕打ちに抗しきれず、いつもめそめそ泣いてばかりいるような受身で消極的な「いじめられ役」(ともに五所監督による1932年作品「天国に結ぶ恋」や「不如帰」の哀愁ただようイメージが強烈でした)の多かった川崎弘子が「大阪の宿」における下宿屋の中年女中で示した傑出した演技によってイメージを一変させられました。

貧乏人など、所詮は金持ちにすがって寄生虫のように生きるしかない無力で惨めな存在にすぎないのだと、宿の女将から横っ面を札束ではたかれるような蔑みを受けても、ただ俯いて耐えるしかなかった社会的弱者「おつぎさん」の震えるような悔しさと怒りを痛切に演じたあの衝撃は、僕の中の映画的記憶のなかでも、とりわけ傷のように鮮烈に刻み込まれたもののひとつでした。

もう決して若いとはいえない中年女が、この世の中をひとりで生きていくということがどういうことなのか、遠く離れて暮らす息子に逢いたいという思いを果たせないでいる痛ましさと切なさを込めて、まるでそれを水彩画のような淡白さで描いていることに、まずは驚嘆させられました。

社会的弱者ゆえに辱めを受け入れざるを得ず、その不当な虐待をじっと耐え、鬱積する悔しさや憤りを自分の内部で押し殺しながら生きていくことしかできない理不尽さを、言葉にしてしまえばただの毒々しいだけのアカラサマな悲惨を、五所監督は、もっと別の印象として、いわば場違いな清々しさによって描こうとしているような違和感(むしろ、ファンタステックな感じ)を覚えました。

弱者の虐げられた日常と絶望を描きながら、だからそこに「絶望」を描こうというのではなく、むしろ、それでもなお「ささやかな希望」を描いてしまおうとするところに五所平之助監督作品の真骨頂があるように思うし、そこにこそ状況に捉われない独特の温かみが醸し出されてくるのだと気がつきました。

「わかれ雲」を見たとき、僕はこの作品で演じた川崎弘子の抑制された演技が、「大阪の宿」を経たことによる演技的洗練の到達を示しているのだろうかと考えていました。

しかし、実は「わかれ雲」が1951年の作品であり、「大阪の宿」がその3年後の1954年の作品であることを少し後で知り、当時僕が抱いた「演技的洗練の到達」という直感が、単なる誤解にすぎなかったと知ったのですが、しかし、その誤解し続けた期間は、きっと僕にとっては、蜜月のようなものだったと思います。

「わかれ雲」で語られる手放しの善良さは、映画を見ることの幸福感と安心感を僕たちに与えてくれました。

僻みと孤独から心が折れて、誰とも打ち解けることのできないでいる屈折を抱えた娘が、旅先で出会った農村の人たちの善良さによって徐々に癒されていくという、寒々しい人間関係や熾烈な世界観を描き続けた小津安二郎や成瀬巳喜男なら決して描こうとしなかったこの随分と甘々な稚戯に等しい楽観を十分に承知したうえで、しかし、この「わかれ雲」を前にして、人間の善良さを信じようとすること、さらには、善良であろうとすることが、そんなにも「芸術的」に劣ったことであるのか、この作品を見ながら考えさせられてしまいました。

妻を亡くした父親は、女親を失ったひとり娘を心配して後添えを貰い、亡き母を忘れられない娘は、継母と打ち解けられない葛藤に苦しみ、後妻の若き継母も娘との越えられない壁に苦しんでいます。

また、そうしたねじれきった母娘関係を自ら作り出してしまった父親は、ふたりの間に立ち入れないまま、苦しみ続けています。

誰もが誰ものことを気遣いながら、傷つけ合わずにはおかない膠着状態のなかで、娘は信州の農村の人々の善意によって徐々に心を開いていく過程で、父親と再会します。

誰かを愛することで優しさを取り戻した娘を見て、罪悪感に苛まれていた父親は、やっと安堵の表情を浮かべます。

継母に済まなかった、帰って詫びたいと話す娘の言葉を受け止める三津田健の最良の(受けの)演技を見たと思いました。

そして、そこまで考えてきたとき、あるひとつの「写真」を思い浮かべました。

東宝争議の折、五所監督は左翼思想とはまったく無縁だったにもかかわらず、組合活動に理解を示し、あるいは同情し、デモなどにも熱心に参加して、先頭に立ってスクラムを組んで行進したということを伝えられています。

そしてそこには、その雄々しい写真が新聞に掲載されたために、パージの対象になってしまったという事件も付されています。

たぶん「善良」とは、そういうことなのだと思います。

失笑するか、侮るか、それともそうした人間の営みを愛しいと思うか、五所平之助作品を見るたびに、僕たちが微妙に試されているような気持ちにさせられるとしたら、その直感はあながち間違ってはいないかも知れません。

(1951スタジオ・エイト・プロ・新東宝)製作・平尾郁次、波根康正、内山義重、監督・五所平之助、脚本・館岡謙之助、田中澄江、五所平之助、撮影・三浦光雄、美術・久保一雄、照明・石川緑朗、録音・長岡憲次、音楽・斉藤一朗、監督補佐・長谷部慶治、製作主任・加島誠哉、
出演・沢村契惠子、川崎弘子、沼田曜一、三津田健、福田妙子、倉田マユミ、谷間小百合、岡村文子、大塚道子、岩崎加根子、宮崎恭子、関弘子、稲葉義男、中村是好、深見恭三、柳谷寛、小峰香代子、田中筆子、塩谷益義、加島春美、石島房太郎
1951.11.23 10巻 2,767m 101分 白黒
by sentence2307 | 2009-02-23 12:39 | 五所平之助 | Comments(2413)

大阪の宿

この五所平之助監督作品「大阪の宿」を実際に見るずっと以前から、水戸光子と川崎弘子の傑出した演技に対する絶賛を幾度となく聞いてきました。

そして、この作品を実際に見て、うらぶれた下宿屋で女中としてコキ使われる彼女たち、下積みの女たちの哀歓が余すところなく演じられていることも確認し、僕が聞いてきた絶賛がいささかたりとも誇張でなかったことを深く納得しました。

稼ぎのない亭主との腐れ縁を絶つこともできず、金銭の苦労が絶えないおりか(水戸光子)は、亭主にみつぐ借金の申し込みを下宿屋の女将から無碍に断られたことから、切羽詰まって下宿人の金に手をつけ、それが発覚し、働き場所を追われて更に不安定なその日暮らしの生活に追い詰められていきます。

あるいは、僅かな給金のために、ひとり息子と離れ離れに暮らして働かなければならないおつぎ(川崎弘子)にとって、この惨めな生活に耐えることのできる唯一の夢である息子との逢瀬を女将に撥ね付けられ、憤慨しながらも、彼女に出来ることといえば、せいぜい旅館の名入りの湯飲み茶碗を土間に叩き付けることくらいでした。

もし、これが溝口健二作品だったなら、主人の理不尽な扱いに対し、誇りを傷つけられたことへの怒りに逆上した女は、台所から包丁でも持ち出し、明らかな殺意をもって主人を追い掛け回すくらいの炸裂する怒りの描写があったかもしれない痛切な場面です。

しかし、ここに描かれている善良な彼女たちは、主人の理不尽な扱いに対しても、憤りを抑え、その不運をただめそめそと悲しむばかりで、いささかの反抗の素振りもみせようとはしません。

そして、もしかしたらこれが、五所監督好みの女性像であることも容易に想像がつきました。

そう見ていけば、さらにラスト、大阪を離れる三田(佐野周二)の送別会に集まったウワバミ(乙羽信子)や田原(細川俊夫)など負け犬たちを、無力な三田の目を通して諦念とともに温かく見つめる五所監督の共感が描かれているという見方も、あるいは考えてもいいことかもしれませんが、しかし、それだけでは、なんだかこの映画のすべてを味わい尽くしたとはいえないような気がします。

最後の送別会の場面に、ついに姿を見せなかった女性が三人いました。

ただ憧れをもって眺めていたにすぎないショーウィンドウの中のお嬢さん・井元貴美子(恵ミチ子)、旅館「酔月荘」の第三の女中お米(左幸子)、そして、三田に偽の布地を売った貧しいお針子・おみつ(安西郷子)です。

しかし、朝の通勤で擦れ違うだけの憧れの先輩の娘・井元貴美子は、父親の自殺と共に行方知れずとなってしまいます。

そして、「酔月荘」第三の女中お米は、格式を重んじた下宿屋から下劣な連れ込み旅館へと変節する墜落過程において才能を開花させ女将の信頼を最も獲得して、戦後の猥雑を生き抜くしたたかさを予感させています(この延長線上に「にっぽん昆虫記」を思い描いたとしても、それほど突飛な想像ではないかもしれません)。

また、病身の父を抱えたおみつは、三田に偽の布地を売りつけた(単に仲介しただけかもしれません)責めを一身に負って、支給された生活保護費を渡しに来たその夜に、同じ下宿人の野呂(多々良純)に処女を奪われ、そのことに責任を感じた三田の救いの手も厳しく拒絶して立ち去ります。

五所監督が、たぶんその好みから、水戸光子や川崎弘子に心捉われ丹念に彼女たちの演技を追っていたとしても、僕としては、この安西郷子の演技こそは、彼女の生涯最高の演技と見ています。

(1954新東宝)監督脚色・五所平之助、原作・水上滝太郎、脚色・八住利雄、撮影・小原譲治、音楽・団伊玖磨、美術・松山崇、録音・道源勇二、監修・久保田万太郎、照明・矢口勇
出演・佐野周二、細川俊夫、乙羽信子、恵ミチ子、水戸光子、川崎弘子、左幸子(お米)、三好栄子、藤原釜足、安西郷子(おみつ)、田中春男、多々良純、北沢彪、十朱久雄、中村彰、水上貴夫、若宮清子、城実穂

1954.04.20 14巻 3,333m 122分 白黒



【付録】

以下は、「大阪の宿」を漱石の「坊ちゃん」にダブらせて書き始めようと試みたものですが、結局は最後まで書ききれずに頓挫してしまいました。狙いは面白いかな、と思ったのですが・・・。


むかし学生だった頃、悩まされたもののひとつに読書感想文の宿題がありました。

それなりに読書は好きでしたが、ただ漫然と読むのと、それをまとまった感想文として文章に纏め上げるのとでは、大変な違いです。

「あら筋を書いては駄目」という制約も重荷でした。

しかし、あるとき、ある法則を発見したのです。

例えば、漱石の「坊ちゃん」。

この小説の感想文を書いている人たちのキイワードが、判を押したように「すかっと爽快」なのに違和を感じたところから始まりました。

いわば、体制に迎合する俗物たちを鉄拳でもって懲らしめるということを「爽快」というのなら、それに続く、激情にまかせて奮ったその暴力を理由に、もはやその場所には居ることができずに、自らが起こした事態の収拾と責任をとるために、職も土地も離れなければならなくなってしまうということが、どういう「爽快さ」なのかという違和感でした。

短気で癇癪もちだった漱石が、後先のことを考えず、一瞬の逆上に身をまかせて怒鳴りまくったという「爽快さ」(たしかに本人は「爽快」だったに違いありません)が「坊ちゃん」という小説に一部反映しているとしたら、そういう病理を視野に入れた感想も成立するのではないかと考えたのでした。

「純粋」であったはずのものが、付きまとう俗事から汚され貶められ、結局のところ、「逃避」するしかなかったこの「違和感」を手繰って自分なりに深めていけば、他人とは少し違った感想文が書けることに気がつきました。

五所平之助監督の「大阪の宿」を見たとき、これは「坊ちゃん」だなと思い当たったとき、かつてのこの「法則」を思い出したのでした。

この五所作品は、漱石の自己中小説「坊ちゃん」よりもさらに明確に、すべてに挫折し、思い屈してその土地を追われていく男の絶望感が、客観的に描かれているといえます。
by sentence2307 | 2008-09-17 23:08 | 五所平之助 | Comments(2)

煙突が見える場所

ちょっと不思議な雰囲気を持っているこの作品「煙突の見える場所」を見るたびに、どうしても小津作品「風の中の牝鶏」と比較して考えてしまいます。

きっと、どちらの作品にも田中絹代が出演しているからだくらいに思っていたのですが、最近どうもそれだけではないような気がしてきました。

「風の中の牝鶏」は、世評では小津作品の失敗作のひとつと看做されている作品ですが、世間で言う「失敗作」と、小津監督自身がもらしているという「失敗作」と自認している意味とが、微妙に食い違っているように思えて仕方ありません。

「風の中の牝鶏」は、どういう事情があれ、妻が犯した不倫をどうしても許せない夫の苦悩を描いた作品です。

全編を通して描かれる妻を責める夫の執拗さは、同時に小津安二郎という人が「女性」に求め続けた異常なまでの潔癖さ(それは、同時に女性への根深い失望をも示しているのですが)を現しているような気がしてなりません。

妻が他の男とカラダの関係を持ったこと自体が、夫には生理的に許せないでいます。

怒れる夫がアヤマチを犯した妻に与える執拗な暴力描写を見ていると、夫には、妻と男とが剥き出しの肉体を絡ませながら互いの肉欲をせっせと満たしている生々しい具体的な性的描写が妄想的に実感されていて、そのリアルさゆえに苦しんでいるのだと分かります。

この作品「風の中の牝鶏」は、「女の『性』なんて、所詮あんなものさ」という小津監督の素直な心情(女性に対する落胆とか嫌悪感とか恐れとか)を率直に描きすぎてしまった作品だからこそ、ご本人はどうしても「失敗作」というしかなかったのだという気がします。

同時にそれが小津作品中で、僕がもっとも愛する作品のひとつとしている理由かもしれません。

「煙突の見える場所」の性についての「おおらかさ」を書こうとして、つい「風の中の牝鶏」に描かれている小津監督の「性」について長年思っていたことを書きすぎてしまいました。

「煙突の見える場所」は僕が愛して止まない不思議な魅力を持った作品なのですが、今回久しぶりに見て驚いたことがありました。

上原謙と田中絹代の間に置去りにされた赤ん坊の生みの親の役というのが、花井蘭子だったのですね。

迂闊にも今回はじめて知りました。

ここのところ戦前の映画ばかりを見ていて、花井蘭子について、どうしても楚々とした可憐な娘役の印象が強烈に刷り込まれてしまっていたので、不貞腐れ・毒づき・開き直る堂々たる「戦後の花井蘭子」との遭遇には、いささか虚をつかれた感じで驚いてしまいました。

自分の不明を明らかにしてしまうみたいで気恥ずかしいのですが、「戦後の花井蘭子」というのもあったのかという驚きで、僕にはちょっとしたショックというかパニックでした。

そこで、彼女が戦後どのくらいの映画に出演したのか、「戦後の花井蘭子」を知るために、ちょっとネットでカンニングしてしまいました。

戦後第1作出演作は、1946年の東宝作品「命ある限り」で、それが通算132本目の作品となっていて、ラストの通算195本目の新東宝作品「桃色の超特急」61まで、戦後16年にわたって64本の作品に出ていることになっています。

その作品群には既に見た作品も結構あるのに、「花井蘭子」の印象が全然残っていないのは、それが、不貞腐れ・毒づき・開き直る僕の知らない堂々たる「戦後の花井蘭子」だったからでしょうか。

(53新東宝)監督・五所平之助、製作。内山義重、原作・椎名麟三、脚本・小国英雄、撮影・三浦光雄、美術・下河原友雄、音楽・芥川也寸志、録音・道源勇二、照明・河野愛三、
出演・田中絹代、上原謙、高峰秀子、芥川比呂志、関千恵子、田中春男、花井蘭子、浦辺粂子、坂本武、三好栄子、星ひかる、大原栄子、中村是好、小倉繁
by sentence2307 | 2007-01-18 00:09 | 五所平之助 | Comments(1)

戦後の花井蘭子

ちょっと不思議な雰囲気を持っているこの作品「煙突の見える場所」を見るたびに、どうしても小津作品「風の中の牝鶏」と比較して考えてしまいます。

きっと、どちらの作品にも田中絹代が出演しているから程度に思っていたのですが、最近どうもそれだけではないような気がしてきました。

「風の中の牝鶏」は、世評では小津作品の失敗作のひとつと看做されている作品ですが、世間で言う「失敗作」と、小津監督自身がもらしているという「失敗作」という意味が、微妙に食い違っているように思えて仕方ありません。

「風の中の牝鶏」は、どういう事情があれ、妻が犯した不倫をどうしても許せない夫の苦悩を描いた作品です。

全編を通して描かれる妻を責める夫の執拗さは、同時に小津安二郎という人が「女性」に求め続けた異常なまでの潔癖さ(それは、同時に女性への根深い失望をも示しているのですが)を現しているような気がしてなりません。

妻が他の男とカラダの関係を持ったこと自体が、夫には生理的に許せないでいます。

怒れる夫がアヤマチを犯した妻に与えられる執拗な暴力描写を見ていると、夫には、妻と男とが剥き出しの肉体を絡ませながら互いの肉欲をせっせと満たしている生々しい具体的な性的描写が妄想的に実感されていて、そのリアルさゆえに苦しんでいるのだと分かります。

この作品「風の中の牝鶏」は、「女の『性』なんて、所詮あんなものさ」という小津監督の素直な心情(女性に対する落胆とか嫌悪感とか恐れとか)を率直に描きすぎてしまった作品だからこそ、ご本人はどうしても「失敗作」というしかなかったのだという気がします。

同時にそれが小津作品中で、僕がもっとも愛する作品のひとつとしている理由かもしれません。

「煙突の見える場所」の性についての「おおらかさ」を書こうとして、つい「風の中の牝鶏」に描かれている小津監督の「性」について長年思っていたことを書きすぎてしまいました。

「煙突の見える場所」は僕が愛して止まない不思議な魅力を持った作品なのですが、今回久しぶりに見て驚いたことがありました。

上原謙と田中絹代の間に置去りにされた赤ん坊の生みの親の役というのが、花井蘭子だったのですね。

迂闊にも今回はじめて知りました。

ここのところ戦前の映画ばかりを見ていて、花井蘭子について、どうしても楚々とした可憐な娘役の印象が強烈に刷り込まれてしまっていたので、不貞腐れ・毒づき・開き直る堂々たる「戦後の花井蘭子」との遭遇には、いささか虚をつかれた感じで驚いています。

自分の不明を明らかにしてしまうみたいで気恥ずかしいのですが、「戦後の花井蘭子」というのもあったのかという驚きで、僕にはちょっとしたショックというかパニックでした。

そこで、彼女が戦後どのくらいの映画に出演したのか、「戦後の花井蘭子」を知るために、ちょっとネットでカンニングをしました。

戦後第1作出演作は、1946年の東宝作品「命ある限り」で、それが通算132本目の作品となっていて、ラストの通算195本目の新東宝作品「桃色の超特急」61まで、戦後16年にわたって64本の作品に出ていることになっています。

その作品群には既に見た作品も結構あるのに、「花井蘭子」の印象が全然残っていないのは、それが、不貞腐れ・毒づき・開き直る僕の知らない堂々たる「戦後の花井蘭子」だったからでしょうか。
by sentence2307 | 2005-08-20 16:25 | 五所平之助 | Comments(134)

朝の波紋

この作品では、高峰秀子の「耐えられないくらい嫌な男」に対する一瞬の強い眼差しが印象に残りました。

その嫌悪感が、男の僕にも共感できてしまうのは、きっと高峰秀子が、女性独特の好悪の生理的・感覚的なものを超えたもっと人間的な強い正義感に根ざしている怒りみたいなものを感じるからかもしれません。

ドラマの中で、ライバル会社・富士商事の妨害を跳ね返して、ブラッドフォードとの契約をやっと履行できたあとの港での商品の積み込みの場面で、
「この煌びやかな飾り物が、日本の貧しい女たちの内職で作られているのかと思うと複雑な気がするわ」
という篤子・高峰秀子の言葉に対して答える同僚の梶・岡田英次のいう言葉、
「俺たちが、その彼女たちを食わしてやっているんだ」
という不遜な自負心に満ちた言葉に、一瞬嫌悪の表情をあらわにする高峰秀子の繊細な眼の演技の、そういう積み重ねによって篤子がどのような男に嫌悪し、そして、どのような男に好意を持つかということが次第に観客に明らかにされてきます。

この作品の随所に見られるそのような高峰秀子という女優の繊細な演技の魅力が、「稲妻」や「煙突の見える場所」、または「雁」や「二十四の瞳」や「浮雲」の素晴らしい演技となんら遜色のない、それほど距離感を感じなかったのは、僕の錯覚ではなかったようでした。

当時のある作品評のなかの一文にそれを見つけました。

「つつましく、おさえた味がでており、いままでの彼女とはだいぶ違う。この作品をきっかけに、新しい方向に伸びられるかもしれない。」(双葉十三郎・キネマ旬報)

たしかに、この作品が撮られた同じ1952年に成瀬の「稲妻」と木下恵介の「カルメン純情す」が撮られ、翌年には「煙突の見える場所」と「雁」が撮られ、そして、さらにその翌年1954年に「女の園」、「二十四の瞳」が撮られて、そしてついに次の年の「浮雲」に繋がっていくわけですから、この「朝の波紋」という作品は、高峰秀子が「新しい方向に伸びていく」萌芽を兆した作品といえるものだったと思います。

僕の直感した「朝の波紋」における高峰秀子の繊細な演技が、ほぼ一定の完成に至っていると勝手に考えていた僕の直感が、どうもただの間違いではなかったらしいことが、この一文で分かりました。

この作品は、高峰秀子が半年のフランス旅行から帰国しての復帰第1作で、冒頭から流暢な英語を話すなど、高峰のきびきびした演技が心地よい一作で、回想によれば撮影中の高峰秀子は相手役の池部良よりも、見学に来た原作者・高見順の美男子ぶりに魅了されたと記されています。

スタジオエイトプロは、パージ後五所平之助が51年に設立したプロダクションで、ここで「わかれ雲」51、この「朝の波紋」52、そして名作「煙突の見える場所」53が撮られています。

この作品のキャストが物凄く、ちょい役で上原謙、岡田英次、香川京子、沼田曜一、高田稔、吉川満子、浦邊粂子、田中春男、中村是好、清水将夫、齊藤達雄、信欣三が出ているのでビックリしました。

そして、ほかには、あの懐かしい大川平八郎が、箱根の旅行先で母親に会いに行く「腱ちゃん」に付き添うの先生役で出ていました。

「女人哀愁」37(成瀬巳喜男監督作品)に出演した頃の溌剌とした彼と比べると随分ふけてしまったように感じてしまいました。(当たり前ですが。)

自分が生まれてもいなかった1937年の映画や俳優のことを「懐かしい」なんて、ちょっと奇異な感じをもたれるかもしれませんが、たまたま時間を隔てて「女人哀愁」と「朝の波紋」を、順を追って見たからでしょうか、ともに古い映画なのに、なんだか僕の中では、時間の間隔がそのまま整然と現在にスライドして、15年という時間の間隔だけを「いま」の時点から遡って実体験してしまったような錯覚を持ったのだと思います。

まあ、言ってみれば、それだけ「女人哀愁」における大川平八郎という未知の俳優の演技が、僕にとって強烈な印象を残したからでしょうか。

あの成瀬作品のなかの彼は、決して「溌剌」などといえる役でも、そして演技を示したわけでもありません。

あまりの貧乏に、同棲していた恋人(作品の中では、入江たか子の義妹にあたります)に愛想をつかされて逃げられてしまう不甲斐ない男という、まさに成瀬巳喜男作品にはぴったりの男性像を、それも抑揚に乏しい稚拙で訥々としたセリフ回しで演じていました。

弁解すればするほど、男のその女々しい態度そのものが女に嫌がられているとも解することができずに、なお執拗に彼女を尋ね続けながら、そのたびに居留守をつかわれ、すごすごと帰る駄目男です。

彼は、最後には彼女の気を引くために会社の金を横領するという犯罪まで犯してしまいます。

初期の成瀬作品には常連のように出演しています(乙女ごころ三人姉妹、妻よ薔薇のやうに、サーカス五人組、噂の娘、君と行く路、朝の並木道、女人哀愁、禍福、鶴八鶴次郎、など)が、なんと「浮雲」にも医者の役で出演しているそうなので見直してみようかなと思っています。

戦後はヘンリー・大川と改名して多くの作品に出ていて、資料では「戦場にかける橋」にも出演しているそうです。

ヘンリー・大川とは、これまた奇妙な改名だと思っていろいろな本を調べた結果、大正12年に渡米してパラマウント俳優学校を修了しているということだそうです(同期にゲーリー・クーパーがいたとか)から、きっとそういう捨てきれない過去のプライドとか矜持とかといったものが鬱々としてあったのかもしれませんね。

僕の受けた「抑揚に乏しい稚拙で訥々としたセリフ回しで演じていた」という印象を引き比べながら考えてみると、なんだか痛ましいものを感じざるを得ません。

世間に身をさらして生きる役者という職業の壮絶なところだと思わずにはいられませんよね。

(52スタジオエイトプロ) (製作)平尾郁次(監督)五所平之助(原作)高見順(脚本)館岡謙之助(撮影)三浦光雄(美術)進藤誠吾(音楽)齊藤一郎

(出演)高峰秀子、池部良、上原謙、岡田英次、香川京子、三宅邦子、沼田曜一、澤村契惠子、高田稔、滝花久子、吉川満子、浦邊粂子、岡本克政、田中春男、中村是好、清水将夫、汐見洋、大川平八郎、齊藤達雄、アドリアン・アンベール、信欣三
(103分・10巻、2850m,35mm・白黒)
by sentence2307 | 2004-12-25 21:06 | 五所平之助 | Comments(1)