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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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カテゴリ:今井正( 8 )

今井 正監督 年譜

★今井 正(いまい ただし、1912.1.8 ~ 1991.11.22)
日本の昭和期の映画監督。社会派映画を主に手掛け、戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠。『また逢う日まで』『にごりえ』『真昼の暗黒』『米』『キクとイサム』などの作品でキネマ旬報ベストテン第1位に5回選出、入選も22回を数え、小津安二郎よりも、溝口健二、黒澤明、成瀬巳喜男よりも「キネマ旬報ベストテン」で最多の入選を誇り“ベストテン男”の異名を持つ。

1912年(明治45年)1月8日、東京都渋谷に住職の子として生まれる。
旧制芝中学校、旧制水戸高校時代よりマルクス主義と映画に傾倒し、左翼運動に関わって数回に渡り検挙される。東京帝国大学に入学。
1935年東京帝国大学中退。大学中退後、J.O.スタヂオ(現・東宝)に入社。並木鏡太郎、中川信夫などの助監督をつとめ、当時の同僚に市川崑がいた。
J.O.が合併して東宝映画が設立された1937年、今井は入社2年目にして早くも監督昇進に指名され、異例のスピード出世となった。
1937年J.O.が合併して東宝映画が設立され、入社2年目にして早くも監督昇進に指名され、異例のスピード出世となった。
しかし監督デビュー作『沼津兵学校』は出演俳優が兵役に取られるなどして完成が大幅に遅れ、2年後の1939年に公開された。
しかし、第二次世界大戦中は、自らの信念とは別に数々の戦意高揚映画を製作。1943年、朝鮮を舞台に日本の武装警官隊と抗日ゲリラとの戦いを描いたプロパガンダ映画『望楼の決死隊』が、西部劇さながらのアクション・シーンを取り入れ、はじめて今井の名が注目を集めたのは皮肉なことに植民地支配を正当化した軍国主義映画だった。

第二次世界大戦中は、自らの信念とは別に数々の戦意高揚映画を製作した。
1943年、朝鮮を舞台に日本の武装警官隊と抗日ゲリラとの戦いを描いたプロパガンダ映画『望楼の決死隊』が、西部劇さながらのアクション・シーンを取り入れ、皮肉にも注目を集める。後年今井はこれら戦意高揚映画を作ったことに対し「私の犯した誤りの中でいちばん大きい」と述べ、つらい過去を隠蔽することなく、その後の作品の中で捉え直し続けた。
戦後は、一転して戦後民主主義啓蒙映画を手掛け、1946年、今井の戦後第1回作品で戦時中の財閥の腐敗を描いた『民衆の敵』で第1回毎日映画コンクールの監督賞を受賞。その一方で榎本健一と入江たか子主演の人情喜劇『人生とんぼ返り』のような作品も手掛けた。
1949年、石坂洋次郎原作で民主主義を謳歌した青春映画『青い山脈』前後篇を監督、同名の主題歌とともに大ヒットを記録し、キネマ旬報ベストテンの第2位に選ばれ、映画監督としての地位を不動のものとした。また、「青い山脈」は、原節子の代表作でもあり、その後3度もリメイクされた、まさに国民的映画であった。
1950年、戦争によって引き裂かれた恋人の悲劇を描き、主演の岡田英次と久我美子のガラス窓越しの悲痛なキスシーンで多くの観客を感動させたメロドラマの名作『また逢う日まで』はキネマ旬報ベストテン第1位に輝いた。ロマン・ロランの小説を水木洋子が脚色し、ヴィヴィアン・リーの「哀愁」をヒントにして、反戦の意味も込めて作った。この作品で、今井は女性を美しく撮れる監督として高い評価を得た。
この頃から、自由に作品を作りたいという気持ちが昂まり、『青い山脈』の成功で手に入れた資金をもとに、東宝から独立してフリーの監督として民主主義の社会の到来を高らかに謳いあげる作品を次々と発表した。
しかし、東宝争議で中心的人物として動いたため、映画会社5社から締め出し(いわゆるレッド・パージ)、生計を立てる為に一時期、屑物の仕切り屋などもした。同様に解雇された左翼系映画人たちが次々と独立プロを立ち上げる運動が活発となり、今井はその1番手として映画製作を再開する。
山本薩夫、亀井文夫らと独立プロ・新星映画社を創立した今井は1951年、前進座と組んで、日雇い労働者たちの生活を描いた『どっこい生きてる』を発表。続いて1952年『山びこ学校』を監督。
山本薩夫、亀井文夫らと独立プロ・新星映画社を創立し1951年、前進座と組んで、日雇い労働者たちの生活を描いた『どっこい生きてる』を発表、つづいて1952年、山村の中学校を舞台にした『山びこ学校』を監督した。
1953年、当時は新興まもない弱小スタジオだった東映に招かれて、沖縄戦の悲劇を描いた『ひめゆりの塔』を製作、今井自身は出来に満足はしなかったものの、本作は大ヒットを記録
1953年、当時は新興まもない弱小スタジオだった東映に招かれて、沖縄戦の悲劇を描いた『ひめゆりの塔』を製作、今井自身は出来に満足はしなかったものの大ヒットを記録して、東映の基礎固めとなったといわれる。1982年にはセルフリメイクしている。

その後、再び独立プロに戻り、文学座と組んだ樋口一葉原作のオムニバス映画『にごりえ』(ベストテン第1位、その時の第2位は小津安二郎の『東京物語』)、また、高崎市民オーケストラ(現・群馬交響楽団)の草創期を描いた『ここに泉あり』などヒューマニズムと社会正義を前面に打ち出した瑞々しい傑作群を次々と発表した。
1956年には、日本における裁判批判映画の最初の作品として知られる八海事件の裁判で弁護を担当した正木ひろしのベストセラー「裁判官」を橋本忍が脚色した作品で、日本映画としては初めて冤罪を扱ったショッキングな実録ドラマだった。描かれている事件は当時まだ裁判中であったため最高裁判所からの圧力があったなどセンセーションを巻き起こした。
1957年、霞ヶ浦を舞台に農村の貧困を描いた、今井正の初のカラー作品『米』と、原爆症の少女と不良少年の恋を描く『純愛物語』は、映画賞の1位・2位を独占し話題を呼んだ。50年代は毎年のようにキネマ旬報ベストテンにランク・インを続け、その偉業を象徴する事例として57年の「米」第1位、「純愛物語」第2位という上位独占は、日本映画史の伝説になった。
 今井正の映画は、本人も語っているようにデ・シーカやロッセリーニらイタリアの映画作家の影響を多く受けている。敗戦を経て貧困に喘いでいる国情が似ている日本においても、熾烈な現実をえぐり取るようなリアリズムが必要だと考えた今井正は、その方法で日雇い労働者を描いた「どっこい生きてる」や混血児差別を描いた「キクとイサム」を撮った。それらを一概に「左翼的ヒューマニズム」とひと括りにするのは、今井正のリアリズムを論じる場合、あまりにも短絡すぎるかもしれない。だから、極端にいえば、今井正の映画にはカメラワークやカッティングよりも、大切なのは登場人物が描けているかどうかである。だから、演技指導の厳しさは半端でなく、多くの役者たちは撮影が地獄のようだったと回想している。例えば常連パイプレーヤーであった潮健児は自伝で、『米』のラストシーンの収録に、船の帆の貼り具合や船の位置、果ては雲の位置までを気にするあまり1週間かかったなどのエピソードを紹介している。
1959年、人種差別批判をテーマにした『キクとイサム』は、黒人との混血の姉弟と、彼らを引き取って育てる老婆の交流を描き、戦争や差別や貧困などに傷つけられる者たちへの社会的な告発を、イデオロギーを尖鋭に推したてることなく、抑えたリアリズムによって描きあげ今井正の代表作となった。
1961年、李承晩ラインをめぐる日韓関係の悪化を、在日朝鮮人の若い漁師を通して描く『あれが港の灯だ』なども話題を呼んだ。
1963年、封建社会の残酷さを描く『武士道残酷物語』で、ベルリン映画祭グランプリを受賞。その後、同映画祭で日本映画がグランプリを受賞するのは、39年後の宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』だつた。
1969年、ほるぷ映画を創立し、社長に就任した。
1970年、『橋のない川』第二部を巡って部落解放同盟から批判を受けた。
1971年、『婉という女』を完成後、資金難からほるぷ映画は解散し、1972年、古巣の東宝に招かれて反戦映画『海軍特別年少兵』を発表する。
日本共産党員であり、娯楽色豊かなヒット作を連打し、党派を超えた巨匠として日本映画に君臨した点では、山本薩夫と双璧だが(戦中に戦意高揚映画の秀作を撮っているところまで相似している)、最後まで大手からの監督依頼が絶えなかった山本に比べると、晩年は若干不遇であった。
1991年、9年ぶりに撮った『戦争と青春』完成後、その上映キャンペーンの最中、埼玉県草加市でくも膜下出血で倒れ、本作が遺作となった。
1991年11月22日死去。享年79。生涯監督作品は48本。

1.製作
1.1969.02.01 橋のない川  ほるぷ映画
2.1970.04.25 橋のない川 第二部  ほるぷ映画
3.1971.05.29 婉という女  ほるぷ映画  ... 企画
2.監督
1.1937.08.11 南国太平記  J.O.  ... 演出補助
2.1939.02.21 沼津兵学校  東宝映画京都
3.1939.08.01 われ等が教官  東宝映画東京
4.1940.01.25 多甚古村  東宝映画京都
5.1940.07.17 女の街  東宝映画京都
6.1940.11.26 閣下  東宝映画京都
7.1941.07.30 結婚の生態  南旺映画
8.1943.04.15 望楼の決死隊  東宝映画
9.1944.05.25 怒りの海  東宝
10.1945.07.26 愛の誓ひ  東宝=朝鮮映画
11.1946.04.25 民衆の敵  東宝
12.1946.06.27 人生とんぼ返り  東宝
13.1947.04.29 地下街二十四時間  東宝
14.1949.07.19 青い山脈  東宝=藤本プロ
15.1949.07.26 続青い山脈  東宝=藤本プロ
16.1949.11.28 女の顔  大泉映画
17.1950.03.21 また逢う日まで  東宝
18.1951.07.04 どっこい生きてる  新星映画
19.1952.05.01 山びこ学校  八木プロ
20.1953.01.09 ひめゆりの塔  東映東京
21.1953.11.23 にごりえ  新世紀プロ=文学座 - カンヌ映画祭コンペティション参加
22.1955.01.22 愛すればこそ 第二話 とびこんだ花嫁  独立映画
23.1955.02.12 ここに泉あり  中央映画
24.1955.08.03 由紀子  中央映画
25.1956.03.27 真昼の暗黒  現代ぷろ - カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭世界の進歩に最も貢献した映画賞
26.1957.03.04 米  東映東京 - カンヌ映画祭コンペティション参加
27.1957.10.15 純愛物語  東映東京 - ベルリン映画祭監督賞
28.1958.04.15 夜の鼓  現代ぷろ
29.1959.03.29 キクとイサム  大東映画
30.1960.04.05 白い崖  東映東京
31.1961.02.26 あれが港の灯だ  東映東京
32.1962.01.03 喜劇 にっぽんのお婆あちゃん  M・I・I・プロ
33.1963.04.28 武士道残酷物語  東映京都 - ベルリン映画祭グランプリ
34.1964.05.09 越後つついし親不知  東映東京
35.1964.11.01 仇討  東映京都
36.1967.06.10 砂糖菓子が壊れるとき  大映東京
37.1968.06.29 不信のとき  大映東京
38.1969.02.01 橋のない川  ほるぷ映画 - モスクワ国際映画祭ソ連映画人連盟賞
39.1970.04.25 橋のない川 第二部  ほるぷ映画
40.1971.05.29 婉という女  ほるぷ映画
41.1972.04.29 あゝ声なき友  松竹=渥美プロ
42.1972.08.12 海軍特別年少兵  東宝映画
43.1974.02.20 小林多喜二  多喜二プロ
44.1976.10.16 妖婆  永田プロ=大映映画
45.1976.10.23 あにいもうと  東宝映画
46.1979.01.20 子育てごっこ  五月舎=俳優座映画放送
47.1981.08.09 ゆき  にっかつ児童映画=虫プロ
48.1982.06.12 ひめゆりの塔  芸苑社
49.1991.09.14 戦争と青春  こぶしプロ=プロデュースセンタ... - モントリオール世界映画祭エキュメニカル賞
3.脚本
1.1949.07.19 青い山脈  東宝=藤本プロ
2.1949.07.26 続青い山脈  東宝=藤本プロ
3.1970.04.25 橋のない川 第二部  ほるぷ映画
by sentence2307 | 2012-05-13 22:14 | 今井正 | Comments(9)

女の街

会議室に閉じ込められ、長時間退屈な報告を聞かされていると、徐々に集中力が切れて、いつの間にかまったく別のことを考えてしまう習性がついてしまいました。

半分は意識的ですが、もう半分の方では無意識のうちに「入って」しまっているということも、しばしばです。

とにかく、それが、いま会議室で問題になっている「四半期の業績報告と検討会」とは及びも付かない事柄であることだけは確かです。

「及びもつかない事柄」というのは、例えば、「晩春」の原節子と「東京物語」の原節子とでは、どちらが美しいか、なんてことです。(やれやれ、こんな社員を抱えている会社こそ、いい迷惑ですよね。不安定な為替と理不尽な原油高で頭を抱えている社長に知られたら、それこそ大目玉です)

しかし、この「原節子の美しさ」についての命題は、発展性のある大変興味深い問題だと思います。

「晩春」の原節子は、清潔でどこまでも気高く、近寄りがたい美しさがありますし、「東京物語」の原節子には、何ものをも受け入れてくれるような、どこまでも優しく誠実な美しさがあります。

美しさの質が違うという部分を、ひとつひとつ比較していくだけでも、かなり深い省察の途が開け、時間の経つのも忘れてしまうこと必定です。(まあ、そんなふうに忘れられてしまう会議の方こそ、「いいツラの皮」でしょうが)

しかし、ある作品に出遭ってから、「晩春」の原節子や「東京物語」の原節子に、少し物足りなさを感じはじめている自分に気が付きました。

原節子のファンの方からのお叱りを受ける覚悟で申し上げるのですが、あのふたつの優れた作品の原節子には、どうも瑞々しさがもうひとつ足りないような気がするのです、というか、若い女性が持つあの独特な清らかな「聖性」と、そして同時に自分の中で育ち始めている性欲の蠢きへの戸惑いと高ぶりのようなものを、「晩春」と「東京物語」のなかの原節子からはどうしても感じ取れない、という印象を受けました。

それはきっと、現実的なものとして、女優・原節子自身が抱え持った問題そのものでもあったはずです。

そして、そういう「原節子」だったからこそ、あの抑制された名作に、彼女の「乾いた」雰囲気(同世代の異性から距離を置いて生きようと決意した女性の孤独)がぴったりと嵌ったのだという気がしてきたのでした。

さて、勿体ぶらずに、早くその作品とやらを話せよ、という声が聞こえてきそうですので、早速に書いてしまいますね。

少し前、「日本映画専門チャンネル」で「原節子特集」という企画があり、彼女の戦前の作品を何本か放映したことがありました。

その中に今井正監督作品で「女の街」1940という作品を見たのです。

戦後の変節を語られるときに、真っ先に槍玉に挙げられる象徴のような映画監督のひとりだった今井監督の、まさに戦意高揚映画といえる興味深い作品です。

出征した夫の留守に、生活の自立のためにおでん屋を開業するという若い奥さん(原節子が演じています)のお話です。

亭主の仕事は洋服屋だったのですが、新しく始める商売がおでん屋というのも、なんか突飛な感じがします、親戚たちからも、この脈絡のない奇妙な選択は、猛然たる顰蹙をかってしまうのですが、奥さんは「生活の自立」を固く決心して一向に動じる気配がありません。

多分近所に飲み屋をやっている親切なおばさん(清川玉枝)が、世話を焼いてくれたので、なにを開業しようかと思い立ったときに、いちばん手頃な商売だったのかもしれません。

しかし、商売が商売ですから、スキあらばこの若奥さんをどうにかしてやろうという助平な男たちを大勢引き寄せてしまいます。

「生活の自立」を固く決心して、始める商売がおでん屋で、親戚たちの注意にも耳を貸さず、当然のように助平な男に言い寄られて、手かなんか握られてショックを受けるというこの物語、筋書きだけを順を追って書いてしまえば、随分と軽率な若奥さんではあるのですが、しかし、そこには、その軽率さをこそ可愛らしさとガエンジルことのできるに十分な原節子の、はちきれんばかりの瑞々しい肉体=性欲を兼ね備えた「若さ」がありました。

思わず抱き寄せたくなるようなはちきれんばかりの瑞々しい肉体を持ったこの若き原節子を前にしては、戦後に喧伝されることとなる「原節子の美しさ」など、いささかの話題にもならなかったのだろうなという気がしてきました。

しかし、なんでこの作品が、戦意高揚映画なのだという疑問が当然起こるかもしれませんが、それはまた、後日のことといたします。

(40東宝映画・京都撮影所)製作・森田信義、演出・今井正、脚色・岸松雄 山崎謙太、原作・川村花菱、撮影・立花幹也、音楽・清田茂、美術・中古智、録音・矢野口文雄、照明・大沼正喜、
配役・原節子、大川平八郎、野村秋生、林喜美子、沢村貞子、藤輪欣司、小高まさる、片桐日名子、清川玉枝、山田長正、真木順、三條利喜江、深見泰三、山川ひろし、中村彰、横尾誉次郎、柳谷寛、寺尾新、生方賢一郎、一ノ瀬綾子、加藤欣子、戸川弓子
1940.07.17 日本劇場 8巻 1,899m 69分 白黒
by sentence2307 | 2008-03-20 08:59 | 今井正 | Comments(106)

にごりえ

初対面の外国人と話す場合、まずはお互いが熟知している共通の映画作品をとっかかりにして話しの糸口を見つけようとすることが往々にしてありますよね。

そんなとき、相手も知っているポピュラーな作品を手がかりにして話を円滑に進めようなんてことが、しばしばあったりするのですが、そんな時はどうしても無難なところで「羅生門」とか「東京物語」の話から攻めて、クロサワのダイナミズムとか、オヅの渋みなどでそれなりに話が盛り上がれば、それはそれで結構話がはずんで間が持つのですが、そんなとき相手が少し日本映画を知っている場合なんかは、思わぬ方向に話が反れたりすることがあります。

例えば、日本人自身は、その当時、世界が評価したと同じように「羅生門」や「東京物語」をベストとして評価したのか教えてほしい、などというちょっと困る質問を浴びかけられることがあるのです。

外国ではどうなのか詳しいところは知りませんが、日本ではその年の優れたベスト作品をラインナップするという慣習があるというと、知らなかったと驚かれることが多く、その辺の事情を執拗に知りたがります。

僕は、仕方なくこんなふうに言うしかありません。

「日本には昔から映画関係者や批評家が優秀な作品に投票してその年のベスト作品の順位を選出するという習慣がある。
あなたの知っている『羅生門』も『東京物語』も当時の日本においては、必ずしもベスト1ではなかった。」

「それなら、『羅生門』や『東京物語』をしのぐ作品とは、どんな作品だったのか。」

「羅生門」の評価は、その年のランクで言えば5位ということになるし、また別の年「東京物語」は第2位にランクされたと言うと、非常に驚き、当然のように「その年の第1位作品は、何と言う作品か。」と質問されます。

僕は仕方なく答えます。「羅生門」や「東京物語」を抑えた作品は、「また逢う日まで」と「にごりえ」という作品である。

このランキングにおいてベスト1に選ばれた回数を言えば、クロサワは1度、キノシタは2度、オヅも確か3度、しかし、このそれらの巨匠たちを抑えた「また逢う日まで」と「にごりえ」を監督した監督今井正は、実にベスト1作品を5本残している驚異的な監督である。

しかし、そうはいうものの、同時にこんなふうに考えてしまいます。

あんなにも批評家受けしていた今井正の時代は、もう決して戻ってこないかもしれないなと。

貧困がいくらリアルに描かれていても、観客の側が、もはや共感を得るだけの貧しさの感覚を喪失してしまっている現在、きっとそこに描かれている弱者への「怒り」とか、ましてやその叙情など、現代にあっては、変質した「貧しさ」への違和感に戸惑いを隠せない観客の前で、おそらく無様に空回りするだけでしょうからね。

時代の激流に背を向け、枯淡の境地を描き続けた小津作品を理解するのに世界が要した同じ時間の長さで、いままさに世界は今井正監督作品を忘れ去ろうとしているような感じをもっているのは僕だけでしょうか。

しかし、残酷ですが、映画ってホント時代の子供なんだなってつくづく思います。

政治の季節が終わり、今井正監督作品もその役割を終えようとしているのかもしれませんよね。

学生のころ、あの「にごりえ」の「大つごもり」の中で久我美子演じる下女が貧しさのために切羽詰って主家の金に手をつける場面を友人たちと大真面目に議論したことを懐かしく思い出します。

貧しさは盗みを正当化できるのか、なんていう今思ってもとても気恥ずかしい議論でしたが、しかし実際は「貧困」とは無縁のお坊ちゃんたちが「貧しさ」を弄んでいたにすぎない机上の空論の域を出るものではありませんでした。

そんな議論の最中、ひとりの友人が怒気をあらわに席を立ち、それ以後彼は二度と僕たちの仲間に入って来ようとはしませんでした。

彼はいわゆる苦学生でしたから、そんな無責任な「議論」の中に身を置くことに居たたまれなかったのかもしれません。

友人から彼が大学を辞めたと聞いたのは、確か同じ年のまだ季節が変わる前だったと思います。

語学教室で見た最後の彼の印象は、講義から顔を背けるようにして、ただ窓外の景色をぼんやり眺めているという、どこか弱々しい拒みの姿勢でした。

彼の目がどういう風景を切り取って見ていたのか知りたいとその当時思ったことが、しばらく経って、小津映画に出会った時に不意に蘇ってきたのです。

不自然なアングルと、役者の演技をことごとく圧殺するようなぎこちない動きやセリフ回し、もし、そういうことに監督の意思が反映しているとしたら、それは現実への絶望と拒みの意思ではないか、あの友人がぼんやくと見ていた風景に通ずる何かがそこにあるのではないかという、失った友人への深い後悔の思いのなかで僕は小津作品に撃たれたのかもしれません。

小津監督作品について、アングルがどうの、セリフ回しかどうのというお嬢様芸のような「分析」に出会うと、どうしても苛立ちを抑えられないのは、きっとこんなトラウマがあるからかもしれませんね。

1953年キネマ旬報ベスト10についてあれこれ検索しているうちに、こんな記事を見かけました。

「にごりえ」が第1位になった1953年度のベスト10を「自分ならこう選ぶ」というものです。

結論から言ってしまえば、あの名作「東京物語」がどうして第1位じゃないんだ、時間の経過のなかで逆転的に定まった名作「東京物語」を本来のランクの位置に確認しなおそうではないかという、いわば名誉回復の復権みたいなものを多くの人が感じているということなのかもしれませんね。

僕が見たそのベスト10では、
 ① 東京物語、
 ② 雨月物語、
 ③ にごりえ、
 ④ 妻、
 ⑤ 東京マダムと大阪夫人、
 ⑥ 煙突の見える場所、
 ⑦ 日本の悲劇、
 ⑧ あにいもうと、
 ⑨ 天晴れ一番手柄・青春銭形平次、
 ⑩ ひめゆりの塔、
となっていました。

ちなみに、選外としてつづく作品は、プーサン、夫婦、まごころ、抱擁、君の名は、地獄門、学生社長、愛人、十代の性典、雲ながるるはてに、といったところです。

本来のベスト10にランクされていた作品、雁とか祇園囃子とか縮図がことごとく圏外に後退し、市川監督作品や川島雄三の飄々とした味わいのものが高く評価されているあたりを見ると、この選者の嗜好がなんとなく分かってきて面白いと思いました。

確かに現在の感覚からすれば「①東京物語、②雨月物語、③にごりえ」という順序は至極妥当な線だと思わないわけではありません。

きっと、現在選出し直したとしたら、確かにこうなるかもしれませんが、しかし、いかに現代の感覚からズレを生じ始めたからといって、それらの作品を選出した「当時の空気感」までをも否定することは、到底不可能なことですよね。そう思います。
by sentence2307 | 2007-01-20 17:57 | 今井正 | Comments(0)
今井正監督の1941年の作品「結婚の生態」(南旺映画)を見ていたら、冒頭、高田稔演じる新聞社の社会部長が電話を切ったその場面に一緒に写っていて、なにやら部長と二言三言話しを交わすチョイ役があの殿山泰司だと気が付き、思わず起き上がってしまいました。

こんなに古くから映画に出ていたのかという驚きもあって、すぐさまjmdbで「殿山泰司」を検索したのですが、最初の出演作が39年の千葉泰樹監督の「空想部落」で、そのあと41年の東宝作品「川中島合戦」、42年の松竹作品「鳥居強右衛門」があるきりで、この「結婚の生態」はjmdbには記載されていませんでした。

その後の出演作は47年の小津作品「長屋紳士録」に飛んでしまっています。

いくら戦中戦後のどさくさの時期だったとはいえ、42年から47年の空白とは随分長すぎるように感じられてなりません。

特に47年以降の活躍は、近代映画協会の関係からでしょうか、「酔いどれ天使」、「醜聞」、「偽れる盛装」、「愛妻物語」など目覚しい活躍をしているだけに、なんだか気になって仕方がないのです。

そこでネットで少し検索を試みました。

36年築地劇団入団して初舞台を踏んで、42年松竹太秦撮影所入所して、同年徴兵されて中国戦線へ送られたと書いてありました。

そして、復員後は新藤兼人脚本=吉村公三郎監督作品で脇役として多数出演と書かれていますから、それがセキを切ったように映画出演が目立って多くなっていた1947年以降の活躍と、そして50年近代映画協会設立に参加、という線に繋がっていくのだと思います。

ですから、松竹太秦撮影所に入所して撮った作品は、「鳥居強右衛門」のただの1作ということになるのかもしれません。

それならば、それに先立って出演をした作品、「空想部落」や「川中島合戦」、そしてこの「結婚の生態」は、松竹に入所する以前の作品というわけなのでしょうか。

なんか、ものすごく貴重な作品を見てしまったみたいで、嬉しくなってしまいました。

原節子と共演(まさに「共演」でいいと思います)しているなんて、なんだか嬉しくなってしまいます。

しかし、なんで改めてまた、「殿山泰司」なのかというと、最近見た「泥の河」のなかで、その存在感の輝きを燦然と示した名台詞
「ちょっとだけ割れてんのんが、おいしいんやでえ。この姉ちゃんみたいになあ。」
のインパクトのあるかすれ声の響きが、僕の頭の中に残響していつまでも一向に消えてくれないことにあるのかもしれません。

あの場面、宮本輝の原作には、その言葉に続いてこう記されています。

「男が傍らに座っている日本髪の女を抱き寄せる。女のなまめいた笑い声はいつまでも止まらなかった。白塗りの顔の中で、唇だけが燃えていた。どっと喚声が上がった。」

こうした大人たちの卑猥な言葉を、割れたスイカを抱えた思春期以前の、「性」の世界からいまだ遠く隔たった場所にいる少年たちのナイーブな感性を通過させていくという想像力を、いかに演出家が持てているか、あるいは否か、その辺りの意図を十分に汲み取って発した、あれは殿山泰司の渾身の台詞だったと思います。

しかし、それにしても、殿山泰司のフィルモグラフィーに「結婚の生態」が欠落していることが気に掛かって仕方ありません。

こんなふうにカウントされない出演作って、まだほかに結構あるのでしょうか。

さて、「結婚の生態」は、今井正監督としては、あの有名な「望楼の決死隊」43に先立って撮られた作品です。

「望楼の決死隊」という国策映画は、今井正が戦後に製作した諸作品で示した「傾向性」と比較するときに、「変節」の例証として必ず引き合いに出される重要な作品ですが、多くの場合、それは「非難」と同じ意味で使われるものでしかありませんでした。

しかし、僕的には、その時代を生きるしかない卓越した作家たちが、限られた環境であらゆる制約と最大限折り合いながら作品を作り続けていく場合、多分致し方ないことだったと考えています。(思わず戦中に示した黒澤明の誠実な「あがき」を考えました。)

制作活動を放棄するというのなら、それはまた別の話になってしまいますが、日本の場合そのようなかたちで映画作家たちが時の権力に抵抗を示すことで、なんらかの影響を及ぼしたり「有効」であったりするほど、映画や映画作家たちの地位はそれほど高くもなかったし、また社会的に尊敬される重要な仕事として認知された存在でもなかったこと等を加味しても、彼らに残された選択肢の数は、極めて限られていたと考えざるを得ません。

たぶんそうした多くの映画人にとっては、当時にあっては国策映画=「政治」を撮るという感覚よりも、なによりもまず「映画」を撮ることができるということの方が重要だったわけで、国策に参画したという感覚はあまりなかったのではないかと考えられます。

そうしたことをベースにして、恐れることなく「映画的」なスペクタクル巨編という偏りに固執しながらこの「望楼の決死隊」を見れば、並外れた今井正の力量をあますことなく堪能することができるかもしれません。

しかし日本人の道徳観を巻き込んだ戦後の、軍国主義的締め付けの「反動」をもろに受け極端に「左」に振れた安易な左傾化の状況(その「時流」の波に上手に乗ったのも、今井正自身でした)が、この作品から本来の「映画」的要素を見失わせ、逆に製作時にはまるで意図しなかった「政治」性を「踏絵」的に指摘されてしまうという倒錯的非難に、今井監督は皮肉にも見舞われることとなりました。

一見「マイ・フェア・レディ」を思わせる「幼な妻教育」を描いたこの「結婚の生態」という作品のイデオロギーも、現在の視点からすれば、男の独善的で身勝手な一方的「押し付け」としか考えようのない奇妙な作品ですが、これとても「望楼の決死隊」の作品性と些かも異なるものではなく、当時のベストセラーという勢いを借りながら「映画化」しただけであって、そこには今井正の「イデオロギー」の存在などあれこれ忖度すべきでない、一種の超越的視点が要求されるという、いわば純粋映画みたいな作品なのかもしれませんね。

(41南旺映画・東宝映画)製作・藤本真澄、監督・今井正、脚本・山形雄策、原作・石川達三、撮影・東健、音楽・深井史郎、美術・小池一美、録音・橋本要、照明・服部脩、
出演・夏川大二郎、原節子、沢村貞子、月田一郎、高田稔、日暮里子、石黒達也、日高ゆりえ、殿山泰司
1941.07.30 東宝系 11巻 2,718m 99分 白黒
by sentence2307 | 2006-06-10 00:35 | 今井正 | Comments(111)

にごりえ

初対面の外国人と話す場合、まずはお互いが熟知している共通の映画作品をとっかかりにして話しの糸口を見つけようとすることが往々にしてあります。

そんなとき、相手も知っているポピュラーな作品を手がかりにして話を円滑に進めようと、どうしても無難なところで「羅生門」とか「東京物語」の話から攻めて、クロサワのダイナミズムとか、オヅの渋みなどでそれなりに話が盛り上がれば、それはそれで結構間が持つのですが、そんなとき相手が少し日本映画を知っている場合なんかは、思わぬ方向に話が反れたりすることがあります。

例えば、日本人自身は、その当時、世界が評価したと同じように「羅生門」や「東京物語」をベストとして評価したのかを知りたい、などとちょっと困る質問を浴びせかけられることがあります。

外国ではどうなのか詳しいところは知りませんが、日本ではその年の優れたベスト作品をラインナップするという慣習があるというと、まずは知らなかったと驚かれることが多く、その辺の事情を執拗に知りたがります。

僕は、仕方なくこんなふうに言うしかありません。

「日本には昔から映画関係者や批評家が優秀な作品に投票してその年のベスト作品の順位を選出するという習慣がある。あなたの知っている『羅生門』も『東京物語』も当時の日本においては、必ずしもベスト1ではなかった。」

「それなら、『羅生門』や『東京物語』をしのぐ作品とは、どんな作品だったのか。」

「羅生門」の評価は、その年のランクで言えば5位ということになるし、また別の年「東京物語」は第2位にランクされたと言うと、非常に驚き、当然のように「その年の第1位作品は、何と言う作品か。」と質問されます。

僕は仕方なく答えます。

「羅生門」や「東京物語」を抑えた作品は、「また逢う日まで」と「にごりえ」という作品である。

このランキングにおいてベスト1に選ばれた回数を言えば、クロサワは1度、キノシタは2度、オヅも確か2度、しかし、このそれらの巨匠たちを抑えた「また逢う日まで」と「にごりえ」を監督した監督今井正は、実にベスト1作品を5本残している驚異的な監督である。

そうは言いながら、同時に僕は考えます。

あんなにも批評家受けしていた今井正の時代は、もう決して戻ってこないかもしれないと。

貧困がいくらリアルに描かれていても、観客の側が、もはや共感を得るだけの貧しさの感覚を喪失してしまっている以上、きっとそこに描かれている弱者への「怒り」とか、ましてやその叙情など、現代にあっては、変質した「リアル」への違和感に戸惑いを隠せない観客の前で、おそらく無様に空回りするだけでしょうからね。

時代の激流に背を向け、枯淡の境地を描き続けた小津作品を理解するのに世界が要した同じ時間の長さで、いままさに世界は今井正監督作品を忘れ去ろうとしているかのような感じをもっているのは僕だけでしょうか。

しかし、残酷ですが、映画ってホント時代の子供なんだなってつくづく思います。

政治の季節が終わり、今井正監督作品もその役割を終えようとしているのかもしれません。

学生のころ、あの「にごりえ」の「大つごもり」の中で久我美子演じる下女が貧しさのために切羽詰って主家の金に手をつける場面を友人たちと大真面目に議論したことを懐かしく思い出します。

貧しさは盗みを正当化できるのか、なんていう今思ってもとても危ないイデオロギー絡みの議論でしたが、しかし実際は「貧困」とは無縁のお坊ちゃんたちが「貧しさ」を弄んでいたにすぎない机上の空論の域を出るものではありませんでした。

そんな議論の最中、ひとりの友人が怒気をあらわに席を立ち、それ以後彼は二度と僕たちの仲間に入って来ようとはしませんでした。

彼はいわゆる苦学生でしたから、そんな無責任な「議論」の中に身を置くことに居たたまれなかったのかもしれません。

友人から彼が大学を辞めたと聞いたのは、確か同じ年のまだ季節が変わる前だったと思います。

語学教室で見た最後の彼の印象は、講義から顔を背けるようにして、ただ窓外の景色をぼんやり眺めているという、どこか弱々しい拒みの姿勢でした。

彼の目がどういう風景を切り取っているのか知りたいとその当時思ったことが、しばらく経って、小津映画を見ている時に不意に蘇ってきたのです。

不自然なアングルと、役者の演技をことごとく圧殺するようなぎこちない動きやセリフ回し、もし、そいうことに監督の意思が反映しているとしたら、それは現実への絶望と拒みの意思ではないか、あの友人がぼんやりと見ていた風景に通ずる何かがそこにあるという、失った友人への深い後悔の思いのなかで僕は撃たれたのだと思います。

小津監督作品について、アングルがどうの、セリフ回しかどうのというお嬢様芸のような「分析」に出会うと、どうしても苛立ちを抑えられないのは、きっとこんなトラウマがあるからかもしれませんね。

キネマ旬報ベスト10の入賞常連監督としての今井正監督のことを書くついでに、小津監督や黒澤監督のベスト10入賞回数を勘で書いて誤ってしまったので、反省と自戒の意味も込めて、さっそくネットであれこれ検索して「勉強」しているうちに、しばしばこんな記事を見かけました。

「にごりえ」が第1位になった1953年度のベスト10を「自分ならこう選ぶ」というものなのですが、まあ、結論から言ってしまえば、あの名作「東京物語」がどうして第1位じゃないんだという名作としての「東京物語」を本来の位置に確認しなおしたいとする名誉回復衝動みたいなものを多くの人が抱いているということなのかもしれませんね。

僕が見たそのベスト10では、
 ① 東京物語、
 ② 雨月物語、
 ③ にごりえ、
 ④ 妻、
 ⑤ 東京マダムと大阪夫人、
 ⑥ 煙突の見える場所、
 ⑦ 日本の悲劇、
 ⑧ あにいもうと、
 ⑨ 天晴れ一番手柄・青春銭形平次、
 ⑩ ひめゆりの塔、
となっていました。

ちなみに、選外としてプーサン、夫婦、まごころ、抱擁、君の名は、地獄門、学生社長、愛人、十代の性典、雲ながるるはてに、です。  

本来のベスト10にランクされていた作品、雁とか祇園囃子とか縮図がことごとく圏外に後退し、市川監督作品や川島雄三の飄々とした味わいのものが高く評価されているあたりを見ると、この選者の嗜好が分かって面白いと思います。

確かに現在の感覚からすれば
「①東京物語、②雨月物語、③にごりえ」
の順序は至極妥当な線だと思います。

「いま」ならきっとこうなるでしょうね。

去年の小津監督生誕100年の記念番組で印象に残っていることのひとつに、淡島千景が小津演出についてインタビューに受け答えている部分があります。

出演した作品は、「麦秋」や「お茶漬けの味」、そして僕がいちばん好きな「早春」ですね。

そこではだいたい、小津演出について、役者自身の創意工夫など思いも寄らない、ただただ小津監督の支持のままに一挙手一投足をまるで器械体操の段取りのような忠実さでこなす演技をしただけだと答えていました。

しかし、そう話しながら、淡島千景は、きっと一方で、「にごりえ」において示した俳優としての最高の演技を示した自負を抱きながら、そう言っているに違いないと僕は自分ひとりで勝手に確信し、そのテレビのインタビューを眺めていました。

俳優にとって小津作品とはいったいどういうものなのか、それが長い間の僕の疑問でした。

はたして、小津演出のように、役者としての演技の工夫を強引に押さえ込まれたような演技指導を受け、たとえその映画自体は高い評価を受けたとしても、それが演技者として自負につながる仕事といえるのかどうかという疑問です。

たとえば、「麦秋」が51年、「お茶漬けの味」が52年、「早春」は56年の作品で、そして、あの渾身の演技を見せた「にごりえ」は、その時期の真っ只中に位置すると言ってもいい53年度の作品です。

たしか、その特別番組の中でも淡島千景は、このような世界の映画史に残る名作に出演できて光栄です、みたいな答え方はしていました。

そして同時に、それらの作品はどこまでも「小津監督の映画」であるとも強調されていました。

その発言の裏側をあえて勘繰れば、それは言下に「小津作品には、俳優としての自分はないのだ」と言っているようにも聞こえます。

「早春」において、深夜、紅をつけたワイシャツで帰宅した亭主の不実をなじる倦怠期の妻を演じた淡島千景の存在感は、本当に素晴らしいの一語に尽きる演技だったのですが、しかし、あの「にごりえ」の、卑猥な酔客に執拗に胸や体を撫で回され、まさぐられる酌婦=淡島千景が、屈辱とやり場のない憤怒と自己嫌悪でたまらなくなり、顔を歪めながら夜の色街に飛び出して当てもなくさまよう鬼気迫るシーンには到底及ばないと長い間確信していたのでした。

しかし、最近ある本を読んで、とてもショックを受けました。

社会思想社刊・現代教養文庫の「日本映画俳優全史・女優編」の中の「淡島千景」の項です。

彼女の解説の最後にはこう書かれています。

「結局、彼女はふたつの芸流をわが身につけたといえる。ひとつは、「麦秋」「花の生涯」「早春」「絵島生島」といった静かな人間味をしみじみ訴えるもの、そしていまひとつの流れは、「てんやわんや」「やっさもっさ」「夫婦善哉」「駅前旅館」といったやや滑稽味の勝ったもの、そのどちらをも、さらりとこなすところが彼女の大女優たるゆえんといえよう。」

この解説の全文の中はおろか、《主なる出演作》の中にさえ「にごりえ」については、ひとことも触れられていませんでした。

これは、ショックです。

かつての「第1位」の評価が時代の変遷の中でじりじりと後退し、そこで演じられた一女優の激しい演技も最初からなかったものみたいに記録から無残に抹消されています。
by sentence2307 | 2006-05-28 10:40 | 今井正 | Comments(123)

どっこい生きてる

まだ人気のない明け方の道を、同じひとつの方向に向かって追い立てられるように走る日雇い労務者たちの、殺気立ったシルエットの疾走を望遠で撮らえるところから、この映画は始まりました。

やがてそれが、その日限りの仕事を得るために、夥しい労務者たちが粗末な職業斡旋所に血相変えて殺到し、僅かな仕事を奪い合う場面に繋がっていくことがすぐに分かります。

一点に向かって蝟集するこの冒頭の迫力に満ちた労務者たちの異様な「熱気」の正体が、一日でも働かなければ食えないという切羽詰った思いに追い立てられたぎりぎりの人間たちの途方もなく無残な活力であることを、この映画は徹底的に僕たちに見せ付けてくれます。

失業者・毛利修三は、その日の日雇い仕事にあぶれ、落胆しながら、目ぼしい落し物がないかと街中をさまよい歩き、どぶ川を浚い、そしてなんの収穫もないまま帰宅すると、彼を待っていたのは、既に人手に渡り取り壊しの決まった家からの追い立ての催促です。

家を失うことが、貧しい者にとってどれほどの痛手か、ここからこの映画は、ひとりの失業者の、そしてその家族の痛ましい破綻を静かに語り始めます。

失業者・毛利修三は、家族が再び一緒に暮らせるだけの金を稼ぐまで、妻の実家に家族をかえして、自分は木賃宿に寝泊まりしながら仕事を探します。

そして、ようやく町工場の旋盤工のクチを見つけながらも、しかし就職できない顛末を、今井正監督は、さりげなく語っています。

日雇い労働者がなぜ安定した職業につけないのか、いささかの蓄えもないその日暮しの日雇い労働者にとって、給料がでるまでの一月のあいだを、どのようにして食いつないでいけばいいのか、万策尽きた毛利は仕方なく工場主に給料の前借を申し出ますが、その申し出の断わりが、同時に解雇の言い渡しでもありました。

小奇麗に身だしなみを整えるなど職に就くために必要な余裕のある金など、そもそも最初から持ち合わせてないその日暮らしの人間にとって、みすぼらしい自分自身こそが就職するための「障碍」になってしまっているのです。

結局毛利は、日銭の入る日雇い仕事を選択するしかなく、安定した給料が保証されている月給取りになど到底なれない自分を悟ります。

この地獄のような悪循環が彼らを見舞い続けます、この映画はそのほんの一巡りの地獄絵を僕たちに垣間見せてくれたのだと思います。

そして途方にくれた毛利は、日雇い仲間の花村のすすめで鉛管の切り取りに手を貸し、その盗みの現場を見咎められて追いかけられます。

ようやく逃げ帰った木賃宿で、待っていた警官から、田舎にやっていたはずの家族が、東京へ帰ってくるために無賃乗車で捕まり、留置されていることを知らされます。

働く機会のすべてを奪われ、もはや八方塞りになった毛利にとって、やっと一緒になった家族に自分ができることといえば、盗みで手に入れた不浄な金で家族を養うしかなく、自分たち家族が、もはやそういう薄汚い金によってしか生きていくことしか出来ないのだという惨めさに堪えることができません。

絶望のどん底で、毛利は、その不浄の金を使い切ったうえで一家で死んでしまおうと妻に言い出します。

このシーンは、この緊迫した作品の中の白眉ともいえる優れた場面です。
(テープを幾度も巻き戻して台詞を必死で書き留めました。)

「おい、ミカンだよ。なんだ、もう寝たのか。よし、布団敷いてやろう。」
「あんた、こんなことして、どうしようっていうの? そんなお金があるなら渡して。」
「金なんか、みんな遣ってしまうんだ。」
「そんなことして、明日っからどうするのさ。」
「どうにもならねえんだよ。もう、やっていけねえんだよ。おらあもう腹を決めたんだ。」
「死ぬんだね。そうなんだね。だれが、だれがそんなこと。いやだ、いやだ、いやだ。そんなこと、させるもんか。」
「静かにしろよ、おい。聞こえるよ。のたれ死にだよ。親子4人して乞食にでもなるしかないんだよ。」
「アカ拾いでもゴミ拾いでも何でもやる。」
「散々やったじゃねえか。幾らやっても、この様だ。」
「違う違う、私どんなことでもやってみる。」
「お前、この金も泥棒した金なんだぜ。子供をこれ以上惨めにしたくねえんだよ。お前だってそうだろう。分かってくれ、分かってくれよ、分かったか、分かってくれたね。」

納得できないながらも、妻は顔を伏せたまま、それ以上夫の「一家で死のう」という意思の固さの前に何も言い返すことができません。

この映画の解説書が存在していたら、このラストのクライマックスを、きっとこんなふうに書いているのかもしれません。

「翌日一家心中を決意して遊園地で子供を遊ばせていたとき、池で溺れかけた長男雄一を咄嗟に毛利が救ったことによって、子供の生命の尊さを悟り、その翌日から再び毛利の姿が職安の窓口に見られるようになった。」

今井正がこの「どっこい生きてる」を作るにあたって、触発されたといわれるイタリア・ネオリアリズム映画の傑作「自転車泥棒」をどの程度までなぞろうとしたか、僕には大変興味があります。

きっとそこには、日本とイタリアの国情や国民性の違いを超えた映画そのものの考え方の違いが示唆されているかもしれませんよね。

「自転車泥棒」のラストは、それがなければ仕事に就けない大切な自転車を盗まれてしまい、街中を必死に駆けずり回った挙句ついに見つけ出せなかった絶望のどん底で、思い余って他人の自転車を盗むことを決意し、そして失敗し、大勢の人々から罵られ小突き回されながら、まさに警察に突き出されようとしている父親へ、子供は泣きながら縋り付いて、いわば父親のために「命乞い」をすることで同情をかい、かろうじて盗みの罪を許してもらうという痛切なラストです。

おそらくこの作品の卓越しているところは、父親が、子どもに自分のした「盗み」と、その屈辱的な成り行きのすべてを見られてしまったという惨めさに加え、子供にとっても、父親のために泣きながら(あるいは、「泣く振りをしながら」)自分たち親子の惨めさを人々に訴えて「同情」と許しを乞うという行為によって、子供心に父親と同じような屈辱の記憶を生涯の傷として持つことで、父と子が固い絆を共有したからでしょうか。

父と子がかわす絆の正体が、普通なら「尊敬」と「情愛」だとするなら、この「自転車泥棒」の父子が共有するであろう絆は、他人には決して語れないような、ただ痛ましいばかりの「共感」だったはずです。

では、「どっこい生きてる」の場合はどうでしょうか。

毛利は、家族みんなを道連れに殺して、自分も死のうと決意します。

貧しい暮らしを続ける彼は、「子供をこれ以上惨めにしたくねえんだよ」と思いつめながら、子供には死ぬこと(殺すこと)を伝えようとはしません。

きっと子供の不意を突いて殺してしまい、そしてその後で自分も死ぬ積りでいます。

子供は何も知らされないまま、殺されようとしているのです。

しかし、その思惑は、はからずも子供が溺れ掛けるという不慮の事故によって、死の瀬戸際にいる子供に「息子よ、生きてくれ」と願う気持ちを毛利に起こさせ、死の意思はついえさり、毛利を生きていく方向へと導くことになりました。

しかし、助かったとはいえ、たまたま手に入れたこの「生」は、殺されかけたことを何も知らされていない子供たちとって、依然として不安定なものであることには変わりありません。

父・毛利が、精神の均衡を崩して再び一家で死のう(殺そう)と「決意」するかもしれない危険な要因は、一切取り除かれないままで、父親は厳しい競争社会に出て行こうとしています。

そこは、一度は死を決意したほどの挫折を味わった厳しい社会です。

思えば「自転車泥棒」における父子の濃密な関係と比べたとき、日本のこの父子のあまりの希薄さには、少なからず戦慄めいたものを感じてしまいました。

これは、とてつもなく大きな違いだと思わずにはいられませんでした。

(51前進座・新星映画社)製作・松本酉三、宮川雅青、監督脚本・今井正、脚本・平田兼三、岩佐氏寿、撮影・宮島義勇、中尾駿一郎、植松永吉、美術・久保一雄、音楽:大木正夫
出演者・河原崎長十郎、中村翫右衛門、河原崎しづ江、岸旗江、飯田蝶子、木村功、河原崎労作、町田よし子、市川笑太郎、今村いづみ、寺田勝之、寺田健、中村梅之助、中村公三郎、坂東秀弥、瀬川菊之丞、川路夏子、河原崎国太郎
1951.07.04 10巻 2,805m 103分白黒4:3スタンダード
キネマ旬報ベストテン5位・ブルーリボン賞4位・NHK映画賞8位
by sentence2307 | 2006-04-17 00:22 | 今井正 | Comments(0)

女の街 (40東宝)

頻度的に結構見ている「日本映画専門チャンネル」で、原節子主演映画を1月から3月の3ヶ月にわたり24作品を放映するという特集企画をとても楽しみにしているひとりです。

全作品がTV初登場というコピーにも惹かれています。

1月放映分の8作品はすべて録画したものの、現在のところ見ることができた作品は、山本薩夫監督の「田園交響楽」38と今井正監督の「女の街」40の2本だけです。

いずれの作品も「原節子の美しさ」という到達点まで、どれだけ無理なくストーリーを心地よく押し上げることができるかという演出の技量が問われる作品だろうと思いますが、その意味で僕は今井正の「女の街」という作品の方を採りました。

山本薩夫の「田園交響楽」は、話の辻褄を合わせるために話し運びをはしょったような粗雑で強引な部分が気になりました。

聖職者のもとで清らかに育てられた少女が成熟して美しい女になったとき、聖職者の弟(彼女を愛してます)から世俗の醜さを知らされて初めて驚くという場面には、カマトトぶったわざとらしさしか感じられませんでした。

きっと少女が成長していく過程の説明が舌足らずだったためにそう感じたのだと思うのですが、映画の冒頭、納屋の片隅で母親が行き倒れ孤児となった少女を聖職者が救ったとき、貧しさのどん底で母との放浪がどんなに悲惨だったか、そのみすぼらしい衣服や異常な怯えなどによって象徴的に描かれています。

まあ、普通に考えれば、長い放浪生活で、食うや食わずの生活を送っているとすれば、時には、飢えを凌ぐために娘を働かせて金を得るという「際どい方法」なども当然の選択肢としてあったかもしれませんし、そうでなくとも、世間の冷たさや、あるいは誘いや危険に絶えず曝されることによって、少女が、たとえ肉体は親によって守られたとしても、そうしたことを見聞きすることによる世間知への早熟さは当然にあっただろうと思います。

深窓の令嬢ではないのですから、「世間の醜さに」初めて接したような不自然な驚きの描写は、それこそ無理があると思いました。

かたや今井正監督の「女の街」は、出征した夫の留守を守る若妻・原節子が、夫の留守中誰にも頼らず自分独りの力で生活していこうと決意して、夫の正業だった洋服屋を閉めて一時居酒屋を始めるという話です。

当然そこには周囲との軋轢が生じて、例えば水商売に手を染めることに対する親類からの忌避とか、なまじ繁盛してしまうために近隣の同業者から反発を招くなどの描写もしっかりと描き込まれています。

どの今井正監督作品にも感じることなのですが、「冷ややかな周囲の眼差し」への必死の闘い、というか冷ややかな視線に晒される被差別者たちの怒りと哀しみの萌芽みたいなものが、この作品にも微かですが感じることができました。

どの今井作品も感じるその蔑視こそ日本社会の根底にある差別感を醸成しているものなのだ、という切実な主張が常にあるような気がしてなりません。

この作品「女の街」にも、隣近所の「ひそひそと交わされる陰口と、冷ややかな眼差し」は、しっかりと描かれていました。

山本薩夫と今井正は、戦後「手の平を返したように変節した」映画人の代表のようにいわれた映画作家です。

しかし、あの時代、フィルムを確保して映画を撮ることと、政府の意向を受け入れて仕事をすることとは不可分のものではありませんでしたから、そのことを全否定してしまったら、それこそ論ずべきものが何一つなくなってしまいます。

要するに、何が言いたかったのかという「質」を問うこと、少なくともその兆しを個々の作品のなかに見ていくことが大切なのではないかなどとつい思いながら、誰にとっても厳しかったこの時代の映画を僕は見ることにしています。

(40東宝映画・京都撮影所)製作・森田信義、監督・今井正、原作・川村花菱、脚色・岸松雄・山崎謙太、撮影・立花幹也、音楽・清田茂、美術・中古智、録音・矢野口文雄、
出演・原節子、大川平八郎、野村秋生、林喜美子、沢村貞子、藤輪欣司、小高まさる、片桐日名子、清川玉枝、山田長正、真木順、三條利喜江、深見泰三、山川ひろし、中村彰横尾誉次郎、柳谷寛、寺尾新、生方賢一郎、一ノ瀬綾子、加藤欣子、戸川弓子
(8巻 1,899m 69分 白黒)
by sentence2307 | 2005-01-29 20:22 | 今井正 | Comments(1)

真昼の暗黒

冤罪事件をあつかったこのキネマ旬報第1位の「名作」を、いままで見るチャンスがなかったのが、なぜか不思議な気がします。

それでも、この作品にまつわる凄い噂だけは、これまでもいろいろと聞いていました。

この映画を製作したエピソードのひとつ、たとえばモデルとなった「八海事件」が、当時はまだ係争中の事件ということもあり、審理の公正を期するために最高裁判所は関係者に映画製作の自粛(文字通り「圧力」でした)を申し入れたところ、今井正はその申し出を断固拒否し、冤罪事件の真相を暴くべく、あくまで映画制作を貫徹したという、反権力の意思を貫いた勇猛果敢な硬骨漢・今井監督の話は、門外漢の僕でさえ知っているくらいです。

そして、実際に映画を見てみて、さらに驚きました。

これはただのカチカチの告発映画ではない、隅々にまで目配りの効いたリアリズム作品なのにまず感心しました。

例えば、最初の捜査段階から、主犯・共犯を前提とされて捜査線上にあった4人の青年の描き方です。

彼らとて別に清廉潔白でも品行方正だったわけではない、あるいは嫌疑を受けても仕方がなかったようなその日暮らしの荒れた生活を送っていたという隙のない描き方には今井監督のリアリズムに徹した確かな手腕を感じました。

警察の見込み捜査の思い込みによる誤りが、次第に後戻りできなくなってしまう泥沼の中で、軌道修正されないまま、まるで意地のような警察権力・司法権力総体が形作るヒステリックな醜い守りにエスカレートしていき、真実を捻じ曲げるために当然のように行使された暴力が、つまり「拷問」であり、疑わしきをあえて罰した「有罪判決」だったのだろうと思います。

今井正の、弱き者、貧しき者への限りない同情と、それを踏みにじる権力への怒りが真っ直ぐに描かれた、これは映画史上稀にみる幸運な作品ということができるでしょう。

しかし、その反面「弱き者、貧しき者への限りない同情と、それを踏みにじる権力への怒り」という立派にして完璧な大儀名分に守られたこの映画への反論をもまた封じてしまうような二面性をそなえたもうひとつのファッショ性を感じずにはおられない作品でもあったような気がします。

時代の変遷のなかで「正義」を「風俗」のように風化させてしまうおそれを抱え持つ、これは今井正という監督の特質をいかんなく象徴的に現している作品なのかもしれません。

しかし、それにしてもこの「真昼の暗黒」というタイトル、実に素敵ですよね。

この衝撃的なタイトルによって、作品のスタイルが僕たちの気持ちの中に心憎いまでにすんなり入ってきてしまう。

今ならきっと、こんなストレートなタイトルは、企画の段階で製作者がとんでもない事大主義として退けるか、それ以前に「そのまんま」への気恥ずかしさに耐え切れずに、脚本段階で監督がもうひとつ踏み込んだ題名に変更してしまうかのどちらかでしょう。

しかしとにかく、今井監督はそうはしなかった。

そこには当時の右傾化した政治状況に対する社会の一般的な不安感とか、この冤罪事件が象徴した戦後民主主義への重大な国民の危機感とかが今井監督を支え、さらに押し上げ、単なる映像作家がひとり時の権力に真っ向から挑むという今ではちょっと考えにくい構図を成り立たせたのだろうと思います。

さらに、ケストラーについて詳しい知識はなくとも、僕たちが何となく抱いているその著作「真昼の暗黒」のスターリン下の自白強要、粛清の惨状を告発した「権力の暴力という恐怖のイメージ」だけを借り受けて、作品のエッセンスを観客にあらかじめ理解させてしまうというその巧みさには感心させられてしまいます。

だからといってそういう今井作品が魅力も余裕もないただのカチカチの告発映画かといえば、決してそういう「ひっかかるようなぎこちなさ」みたいなものはまるでない、時にはくすぐりも仕込ませたり、ずばり権力の中枢を刺し貫くような厳しい描写を畳み掛けたりして、その緩急自在の才走った滑らかな演出振りを如何なく示しています。

余談になりますが、この今井監督の柔軟さが、例えば大島渚に少しでもあったとしたら、あるいはもう少し面白い大島の「政治映画」を見られたかもしれないなと常々残念に思ったりすることもあります。

しかし、それにしても、この今井正の巧みさ・柔軟性とはいったい何なのか、昔から気になっていました。
by sentence2307 | 2004-12-20 23:44 | 今井正 | Comments(0)