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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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カテゴリ:島津保次郎( 5 )

私の鶯

金曜日の夜、会社から帰宅して食事を終えたあと、テレビでも見るかと、ぼんやりwowowのプログラムを眺めていたら、とんでもない番組を見つけてしまいました。

「ノンフィクションw」シリーズの一編、そのタイトルも「満州映画70年目の真実~幻のフィルム『私の鶯』と映画人の情熱~」というのです。

先日もこの「ノンフィクションw」で、戦前のプロ・ボクサー「ピストン堀口」(子どもの頃から、その名前だけは大人たちの話から知っていました)の生涯をたどった番組を見たばかりでした。

勝ち続けた戦前の英雄が、戦後、すっかり衰えて負けても負けてもリングに立ち続けた理由をこの番組で始めて知りました。

戦前の英雄・ピストン堀口が戦後ぶざまに負け続ける姿を見た大人たちが、輝かしい戦前の記憶を汚される遣り切れなさと悔しさもあったのでしょうが、「金欲しさに、いつまでもあんな姿を晒してみっともない」と吐き棄てるように嘲り気味に喋っていたのを、自分も遠い記憶として持っていました。

この衝撃は、機会があれば、いつかまた書きたいと思っています。

さて、今回の「ノンフィクションw」は「私の鶯」ということです、これは絶対に見たいし、見逃がすわけにはいきません。

それというのも自分の場合、プログラムで見たい番組を見つけたときには、もう既に放送時間が過ぎてしまった残念な場合が多いので、今回はとっさに壁掛けの時計を見上げてしまいました。

ああ、よかった、午後10時からの放送なので、まだまだ時間的には十分な余裕があります。

そうそう思い出しました、少し以前に、たぶんチャンネルNECOだったと思いますが、「李香蘭特集」というのをやっていて、そのときの一編として確か「私の鶯」も放映されて、そのとき録画だけはしっかりやったはずです、まだ確認していませんが、「録画は、しっかり」は自分の生活信条なので、そこはぬかりありません。

毎日毎日録画だけは、コマメにしていますが、見る方がなかなか追いつけない状態です。

時間さえ許せば、それこそ見たい映画は何十本、何百本あるか分からないほどで(それも名作ばかりです)、目的の映画をすぐに特定できるようリストアップしてあるので、いつでもOKのスタンバイ状態は整っています。

こんなふうに自分が見たい映画を図書館並みに在庫するなど、ひと昔前では絶対考えられない随分贅沢な話なのですが、しかし、こういう整った環境にいて最も恐ろしいことは、こうした滞ったストックをただ処理するために「見る」ことが義務化してしまうことかもしれません。

録画し続けて溜めてしまった映画を、単に惰性で「見る」→端から処理するみたいな機械的な在庫処理行為みたいなものになってしまうことを最も恐れています。

大量録画のための大量消費なんて、笑えませんよね。

「あれは見た」→「あれは済ませた」、「あれは見てない」→「あれはまだ済んでない」みたいな、映画の消費者だけには成り下がりたくないと思っています。

ビデオなんてなかった頃、ある映画を何年にも亘って見たいと憧れ、場末の三番館まで映画を追いかけて行った頃の、映画に恋焦がれた飢餓感だけは失いたくないし忘れたくないというのが自分の気持ちです。

ですので、今回の「満州映画70年目の真実~幻のフィルム『私の鶯』と映画人の情熱~」のような番組は、一本の映画を少しでも身を入れて大切に見るという意味からも、単に映画の消費者にならないという意味でも、とても貴重なチャンスと捉えています。

さて、プログラムに書かれている解説を書き写しておきますね。こんな感じです。

《1984年、大阪で一本の古いフィルムが偶然発見された。
太平洋戦争突入後の1943年に、満州映画協会撮影所で製作され、太平洋戦争下の作品としてクオリティ、規模ともに破格の映画といわれながらも、戦後喪失したと思われていた幻の映画「私の鶯」だった(そのとき発見されたのは1時間10分に編集され短縮版だそうです)。
主演は満州映画を牽引した大スター李香蘭。日本、満州の共同製作の本格的オーケストレーションで紡がれるミュージカル作品で、戦況が激しさを増すなか、当時の金額で40万円、現在の金額に換算すると約8億円の製作費を投じたといわれているこの大作の背景には、平和と芸術を心から望む映画人たちの情熱があった。映画に携わる者はそれを奇跡の傑作と呼ぶ。
戦後69年、語られることの少なかった満州映画協会と撮影所での製作風景や作品について、当時、満州映画協会で映画編集者だった岸富美子さん(94歳)の証言から、満州映画協会とはいかなるものだったのか、作品をとりまく証言や取材で発見された当時の写真などを通して、大戦下、日本から渡った映画人たちの想いや情熱に迫るドキュメンタリーである。》

なるほどなるほど、これは期待できそうな楽しみな番組じゃないですか。

しかし、放送までにまだ少し時間があるとなると、かえって待ち遠しい、それまでなにをして時間をつぶせばいいのか、と今回は時間を持て余す感じになってしまいました。

仕方なく、時間になるまで関連本で「私の鶯」をざっと学習しておくことにしました。

手に取った本は、「日本映画作品全集」(キネ旬)、「日本映画発達史」(中公文庫)、「日本映画史」(キネ旬・世界の映画作家31)、「日本映画名作全史」(現代教養文庫)、そして岩波の映画講座です。

そこで初めて気がつきました、「私の鶯」はどこにも掲載されていません。

そしてこのとき初めて、分類的には「私の鶯」は、日本映画ではないことに気がついたのでした。

戦時下の検閲逃れのために国外で製作して逆輸入しようという岩崎昶の奇策が、いまになって思わぬ弊をもたらしたのだと、少しショックでした。

まあ、こうでもしなければ当の映画自体の製作が危ぶまれたわけですから仕方なかったのでしょうが、ある意味、岩崎さんも随分罪作りなことをしてくれたものだと感じた次第です。

結局「私の鶯」は、日本映画にして日本映画にあらずで、しかも、例の大阪で発見されたという短縮版は、これもGHQの逆鱗を恐れ、毛唐の顔色をうかがいならが事前に岩崎氏が本編中の「満州事変」の部分にハサミを入れたという話です。

まさに「先代萩」の政岡状態です。

戦前戦後を通じて、権力者が代わるたびに保身のために作品を汚したり「制作したり、ハサミを入れたり」と、権力者から逃げ回り続けた散々な卑屈人生だったことがよく分かりました。

それにしても製作者だったら、作品に何をしてもいいのかという憤りは確かに残ります。

そうそう、2006年7月にフィルムセンターで行われた「ロシア・ソビエト映画祭」のプログラムには13番目の作品として「私の鶯」が掲載されていました。

これを見た当時、自分の知らない間に、てっきり、この作品がいまやロシア映画ということで通用しているのか、と卒倒しそうになったことがありましたが、解説をよく読むと、「亡命ロシア人が多数出演した島津保次郎の満州映画『私の鶯』1943」と書いてあったので、一応ほっとした記憶があります。

結局、「満州映画」か「植民地映画」、もしかしたら「中国映画」か(それはないか)のいずれかの括りになるものと思いました。

しかし、聞いて思わず気絶しそうになったとはいえ、実は「ロシア映画」という線も捨てがたいのではないかと、ひそかに考えています。

それというのも、この映画、日本語が使われるのはほんの僅かで、全編ほぼロシア語が使われるという亡命ロシア人の映画なのです。

この映画「私の鶯」のなかで、オペラ歌手デミトリー(グリゴリー・サヤーピンが演じています)が、ポルシェヴィキ系の観客に「オペラなど貴族のもので民衆の文化などではない」と大声で野次られて、ショックで歌えなくなるという場面がありました。

当然のことなのですが、すべてのロシア人が革命に賛同したり参加したわけでなく、反革命の烙印を押されて虐殺されるか、あるいは祖国を追われて、世界の各地へ亡命したことを改めて思い知らされた感じでした。

この映画の主人公たちは、歌劇を愛し楽器を奏で、砲声に怯えるいかにも弱々しい白系ロシア人と呼ばれる亡命者たちです。

このことと、そして、解説にある一文

《島津保次郎が、来日したハルビン・バレエ団を見て感激し、友人の岩崎昶とミュージカル映画(当時の言葉で音楽映画)の構想を練りはじめた。
東宝の重役である森岩雄に相談すると、森は東宝と満映に働きかけ、満映が主体となって制作することとなった。
島津は脚本も手がけ、助監督には満映の池田督と李雨時。
通訳としてロシア人も雇われる。
ちなみに岩崎昶は戦後になって群馬交響楽団をテーマにした映画「ここに泉あり」を制作した。》

を読んだ時、島津保次郎がこの「私の鶯」を作りたいと思った動機の部分に納得できませんでした、「はたして本当にそうだろうか」という疑念に捉われたのです。

そして、こう思いました。

「そんなはずはない。島津保次郎なら、亡命白系ロシア人たちのあの弱々しさに惹かれたのに違いない」と。

共産主義が、当初想定していたほど必ずしも人間を幸せにすることができるわけではないと分かるまで、実に100年近くの時間を要したわけですが、しかしなにより、その間に権力は腐り、権力を保持したものたちは、それを守るための疑心から、おびただしい生命を狩りつづけなければならなかった愚について、ただ暗澹たる思いに捉われるばかりです。

いまロシアでは、そんなことあったのかという顔で、大国主義を隣小国に押し付けて脅かしている最中です。

(1943満州映画協会=東宝映画)企画・岩崎昶、監督脚本・島津保次郎、助監督・池田督、委雨時、原作・大佛次郎『ハルビンの歌姫』、撮影・福島宏、音楽・服部良一、
出演・李香蘭(山口淑子)、黒井洵(二本柳寛)、千葉早智子、松本光男、進藤英太郎、グリゴーリー・サヤーピン、ワシーリー・トムスキー、ニーナ・エンゲルガルド、オリガ・マシュコワ
by sentence2307 | 2014-08-17 21:05 | 島津保次郎 | Comments(0)

隣の八重ちゃん

島津保次郎作品「隣の八重ちゃん」をインターネットで鑑賞しました。

この作品は、1934年という戦前に製作されたものとは思えないほど、交わされる八重子(逢初夢子が演じています)と恵太郎兄弟(大日方傳と磯野秋雄が演じています)の会話がとても自然な軽快さで、ストーリーのなかで生き生きと躍動しています。

そして、この「生き生きと交わされる自然な会話」というのは、公開当時から現在に至るまで、この作品に捧げられた歴史的賛辞でもあります。

冒頭、キャッチボールをしている兄弟が、ボールを受け損ねて隣の家の窓ガラスを割ってしまう場面からこの映画は始まりますが、ガラスの割れる音に驚いて飛び出してきた隣家の娘・八重子は、「びっくりするじゃないの」と抗議はするものの、その言い様はやわらかく、べつだん激怒したりしているようには見えません。

兄弟のキャッチボールがいつものことなら、ときにはボールを逸らして八重子の家の窓ガラスを割ることも日常の一部にすぎないこと、そして、そうしたことすべてが、家同士お互いに許容し合っている関係の親密さを一瞬のうちに観客に分からせてしまうという巧みさで語られています。

その卓越は、たとえば会社から帰宅した夫(八重子の父親です)が、妻に会社での噂話を聞かせる場面にも及んでいます。

夫は、背広を脱ぎながら上司の噂話をし、妻は、その話に適当に相槌をうちながら着替えを手伝っています、手伝いながら湯道具と湯銭を渡して夫を銭湯に送り出すというその一連の動作を、特にセリフで補足したり暗示したりすることもなく、世間話は世間話として話されながら並行して進行します。

思えば、現在でも多くの映画の中で語られる「セリフ」が、往々にして、その登場人物の行く末(運命)をひそかに仄めかすような含意で、いわばストーリーの方向を示唆するような進行役を課せられてしまっていることを思えば、この映画のなかで交わされるセリフの「自立」は、とても新鮮に感じられました。

それは、この現実を生きる僕たちもまた、日常で話す「言葉」を、なにも自分の行為を説明したり弁解するために使うわけではなく、行為とはまったく関係のないことを自由気ままにべらべら喋り散らしていることを思えば、このリアルな描写の「気づき」は、日本映画がようやく「肉声」を得たトーキーの初期に、すでに「セリフ」が物語の進行の補足説明の役割(字幕的発想)から解放され、「無意味・無関連」という自立と自由を獲得し、生命を与えられたというまさに革新的な作品だったのだと実感しました。

それまでは絵空事を描いていた映画(技量的にまだまだ「絵空事」くらいしか描けなかった映画です)をさらに前進させて、これだけの「日常」を描き出す映画文法=力強いリアルを獲得できたこの作品「隣の八重ちゃん」の発想の革新は、真に「歴史的賞賛」に値するものだと心から納得できました。

その頃の島津監督の順風満帆ぶりが伺われる一文が、吉村公三郎「評伝・島津保次郎監督」のなかにありました、助監督として吉村公三郎が初めて撮影所で最盛期の元気のいい監督・島津保次郎と会い、ガツンとお説教される場面です。

「とにかく、さっき言ったように、助監督は芸術的なお上品な仕事じゃねえ。
なんでもやる労働者だ。
オレも監督になるまでそうやってきた。
この部屋のカシラはオレだが、オレの助監督だった五所(平之助)や五所組の助手のほか、オレの組の助手、今度監督になった豊田四郎、西尾佳雄らがいる。
オレのことは先生と呼べ。
だがべつに手をとって教えたりなんかしねえ。
自分で仕事を覚えろ。
それにオレはうるせえぞ。
怒ったり怒鳴ったりはしょっちゅうだが、短気で癇癪持ちだから、小突くくらいはする。
だが恨んじゃいけねえ。
自分の修行のためだと思え、いいか。
てめえはまだ若けえからそういうことはないと思うが、女優に興味を持っちゃいけねえ。お店の品だ」

しかし、その快挙を日本映画史に刻印した島津保次郎監督その人が、それにもかかわらず、やがて活躍の場を松竹から東宝に移し、そのために明らかに精彩を欠いて、やがて失速の感を禁じえない東宝での消沈を知るにつけ(当時東宝は、社運をかけて「戦意高揚映画」作りに積極的に乗り出すために、製作上作品の偏りを防ぐ「その他の映画」を撮らせることが、島津保次郎や山中貞雄を招聘した主たる意図だったとされています)、あれほど肌にあっていた松竹をなぜ離れたのか、その理由というのが分からず、ずっと気に掛かっていました(このことについては、後述します)。

さて、作品「隣の八重ちゃん」の描写の革新性に戻りますね。

恵太郎が学校から帰ってくると、家に鍵が掛かっているので入れず、そのまま垣根を飛び越えて隣家へ上がり込みます。

そんな恵太郎の突然の闖入にも別段気にするふうもない八重子の母親(飯田蝶子が演じており、居間で仕立物の仕事をしているふうです)に、恵太郎は「おばさん、腹へっちゃった。何か食べさせてよ」と無遠慮にねだり、八重子の母親も「お茶漬けにしてあげるから、留守番でもしてておくれ。私がいちゃあ、気詰まりで食べられないだろう」と応じ、市場に買い物に出掛けていきます。

現在の日本の冷え切った近隣関係からは見れば、到底あり得ない恵太郎の「無遠慮」ですが、この一連の恵太郎の行為にも、そんな「無遠慮」という形容などハナから介在する余地のないくらい、飯田蝶子の演技からは家同士の許容と深い信頼関係がうかがわれます。

恵太郎がアグラをかいてお茶漬けを食べ始めていると、「ただいま」と入れ替わりに八重子が女学生の友だち(高杉早苗が清楚に演じています)を伴って帰ってきます。

恵太郎の存在をしきりに恥ずかしがる友だちに、八重子は「差し支えない人よ」と言いながら自分の部屋に招じ入れます。

恵太郎の存在を盛んに気にする女友達(八重子の「帝大の独法よ」が効いています)に、「八重ちゃんのいい人なんじゃないの」と冷やかされても、「なんだか家の人みたいよ」などと面白くもなく応じている彼女たちのガールズ・トークに興味津々で聞いている恵太郎の耳に、更にこんな遣り取りが聞こえてきます。

「あら、八重ちゃんのオッパイの形、とってもいいわ」

「私のは、ぺちゃんこだわ」と、明け透けな少女たちの話にうろたえた恵太郎が、着替えが終わり様子を見に来た八重子に抗議します。

「お乳の話なんかして。いかんね、男性のいる前で」

八重子「別にいいじゃないの、女同士なんだから。恵太郎さんたら、最近そんなこと考えているの。いやねえ」と別に気にもとめていない様子で、軽くイナシます。

少女から女性へと成熟をとげていく微妙な年頃にある多感な女性の言葉を、なんの飾り気もなく、こんなにも自然に、そして、そのままの明るさと繊細さで描いたこれほど素直なシーンを、自分はいままで見たことがありません。

自分が、いままで見てきたスクリーンのなかの少女たちといえば、その徐々に成熟していく肉体に、心の方が追いつかず、その成熟のあまりの早さに不安におちいり、あるいは幼さを卑下し、恥じ入り、焦燥に駆られた動揺のなかで無理やりに背伸びをして、まるで自傷行為のような無残さで性にのめり込んでいくという、そんなタイプの映画ばかりだったような気がします。

しかし、実際の思春期を生きる多くの少女たちの誰もが、そのような性急さでもって生き急ぐなどということは、現実には到底ありえることではなく、おそらく、まさにこの映画そのままに、ふくらみ始めた胸を友達と比べ、くすぐったそうにクスクスと笑い、異性には「意識過剰」の分だけの距離をとりながらも、しかし、成長の時間と同じだけの時間をかけながら異性に少しずつ近づいていくという、そういう姿をこの作品「隣の八重ちゃん」は精密に描き出しています。

この作品に映し出される八重子と恵太郎の会話を重ねる2人だけの幾つものシーンは、互いに距離を縮めるための恐る恐るの歩みを辛抱強く描いている名場面と感じました。

この「隣の八重ちゃん」について書かれた評論を片っ端から読んでいくと、必ず遭遇するお約束のような文言があります、岡田嘉子演じる姉・京子の扱いが、全体の物語の流れからすると随分に違和感があるという指摘です。

「夫に憤慨して飛び出してきた若妻(姉・京子)が実家へ駆け込んできてヒステリックに泣くあたりは、たとえ日常あり得ることにしても岡田嘉子の演技は芝居がかっていて自然な運びというこの映画の流れから大きくずれてしまった。
演技だけでなくドラマとしても、この女性を隣の大学生にしなだれかかっていくような女にしたりして均衡を破っている。
彼女が家を飛び出して行方不明のままで映画が終わるのもなんだか割り切れない。・・・この後半のアンバランスは実に惜しまれる」

だいたいこんな感じのものが多かったように思います。

夫の横暴に耐えられずに家を出てきた女が、実家の援助を受けて自立しようというとき、その心細さから、誰でもいいから頼りになりそうな男にしなだれかかったとしても、設定としては、それほどの違和や不自然とかも感じないのですが、「全体の映画の流れを崩している」といわれれば、なんだか弁解したいような気持ちになってきます。

彼女が家を飛び出して行方不明になるのは、恵太郎に拒絶されたので恥ずかしさのあまり遁走したという理由で、十分に説明できると思います。

それなら、作劇上、その描き方が、物語のバランスを崩すほどの不自然さなのかというと、恵太郎をめぐる姉妹の確執(連れ立って映画を見終わったあとの食事の場面で、恵太郎に甘えかかる姉の態度に対する八重子の嫌悪の思いが明確に描かれているのですから、「確執」は当然あったと思います)を考えれば、姉の行方不明に対する八重子の不自然な素っ気無さや、しなだれかかる京子に対する恵太郎の揺るぎない拒絶も、ふたりの関係を考えれば十分に説明することができると思います。

さて、島津保次郎監督が、長年馴染み、実績を残した松竹をなぜ離れなければならなかったのか、その理由というのを、吉村公三郎が書いた「評伝・島津保次郎監督」という論評のなかにみつけました。

引用しますね。

「『兄とその妹』を終えて、次作『暖流』の撮影準備にかかっている途中、島津は突然大船撮影所をやめることになる。
これは仕事のことが直接の原因ではない。私生活上の問題である。
島津には5,6年前から愛人がいた。
私が紹介された頃、この愛人なる女は、銀座の三越裏の「ゴンドラ」という大型の酒場で妹と一緒に働いていた。
当時、「サロン春」とか「銀座会館」とかの大型の酒場が銀座で繁盛していたが、「ゴンドラ」もそのひとつである。
私は島津が大した酒飲みではなく、酒場へ行くにしても大型なのは好きではなかったので、こうしたところに愛人を見つけ出したのは意外だった。
彼女は品の良い美人で、読書もしている聡明な人に見受けられ、こうした場所の女としては似つかわしくなかった。
彼女は島津を心から尊敬しており、島津も彼女を必要としていた。
もちろん島津は妻帯者で子供もふたりいた。
細君は神田錦町の米問屋の生まれで、娘に成長した頃、父親が米相場に手を出し失敗し、一家が没落すると生活のため蒲田撮影所の結髪部へ入って働くようになり、島津と知り合って結婚した。
私の印象では極くお人好しだが、下町的江戸っ子の陽気すぎるのが少々気になる女である。
愛人とはまさに対照的だった。
彼女は自分との関係が島津の負い目になったり、仕事や私生活のワザワイにならぬよういつも気を遣っていたが、すでに男の子が生まれていたし、後日いろいろの噂話を総合すると、突然彼女の一家に何かがおこり大金を必要とすることになった。
島津はその借金を申し入れたが松竹に拒否され、たまたま東宝が引き受けたので東宝へ移ることになったのである。
やはり結果として彼女が案じていたようになった。宙に浮いた『暖流』の仕事は、この年監督になったばかりの私にお鉢が回ってきた。」

論評は、その後しばらくして街で偶然、島津監督に会ったときのことが書かれています。

生気の失われ見るからに元気のない島津監督を見かねた吉村公三郎が、「景気のいい国策映画でもやったらどうですか」と勧めたところ、「そういう勇ましい映画は、君たち若い者がやったほうがいいよ」と言い残して立ち去った、と書かれています。

正確には、こうです。

「島津は力なくいい、三十間堀に舫う舟の焚火をじっと見ていた。
そのモンの前で別れ、夕暮れ近い銀座裏を新橋の方へ歩いて行くうしろ姿を見送ったのが最後である。」

そして、昭和20年、149本目の作品「日常の闘い」を撮っている途中で体の不調を訴え、軽井沢で静養後も益々悪化し、診察を受けたときには、もはや手の施しようもない末期の癌でした。

敗戦からわずか1ヶ月後の9月18日、永眠します。

享年49歳。

最後まで頭脳明晰のままで、「さあ、自由の時代になった。病気が治ったら、五所、豊田、吉村、木下らを集めてプロダクションをやるんだ」と言っていたといいます。

島津監督の末期の目には、親しい弟子たちに囲まれ夢中で映画を撮っていた松竹の日々が映し出されていたに違いありません。

(1934松竹蒲田)監督脚本原作・島津保次郎、助監督・豊田四郎、吉村公三郎、清舗彰、佐藤武、撮影・桑原昴、撮影助手・寺尾清、木下恵介、蟹文雄、小峰正夫、作詞・大木惇夫、作曲・早乙女光、独唱・矢追婦美子、指揮・高階哲夫、美術・脇田世根一、美術助手・木村宣郎、三田秀雄、三島信太郎、中村二郎、石原幾、録音・土橋晴夫、橋本要、録音助手・神保幹雄、西山整司、配光・高下義雄、現像・納所歳巳、阿部鉉太郎、字幕・藤岡秀三郎、
出演・岩田祐吉(父・服部昌作)、飯田蝶子(母・浜子)、 逢初夢子(娘・八重子)、岡田嘉子(姉・京子)、水島亮太郎(父・新海幾造)、葛城文子(母・杉子)、大日方傳(長男・恵太郎)、磯野秋雄(次男・精二)、高杉早苗(真鍋悦子)、阿部正三郎(ガラス屋)
1934.06.28 帝国館 9巻 2,171m 79分 白黒
 
by sentence2307 | 2013-05-22 22:01 | 島津保次郎 | Comments(3)

兄とその妹

島津保次郎監督の「兄とその妹」について評された解説書とか、ネットでの多くの人のコメントを読むと、もうそのほとんどが、この作品の一場面、出勤前のほんのわずかな慌しい時間のなかで交わされる兄と妹の日常会話の絶妙なやりとりの素晴らしさと、そのリアリティに満ちたきめ細かい描写の秀逸さを絶賛する感想ばかりなので、なんだか奇妙に思えて仕方ありませんでした。

なにもそこまで「右へならえ」しなくてもいいのではないかという違和感が、僕の中には長い間ありました(確かに、この場面の高い評価は、公開直後「キネ旬」1939.4.11号掲載の水町青磁の評価から、「日本映画史」における佐藤忠男の高評価に至るまで歴史的な一貫性はあります)。

しかし、この作品の圧巻は、あきらかにラストで畳み掛けるように描かれている会社内でのトラブルであり、卑劣な同僚への怒りの鉄拳制裁(会社人間を長い間やってきた自分などから見ると、あの行為は、どう見ても自制心を欠いた間宮の短慮としかいいようがなく、むしろ間宮の異様な潔癖さこそ気がかりです)と、そのために日本での生活の場を失って追い立てられるように向かう中国大陸を「新たな希望の新天地」として描いたその観念のあり方をまず論じなければ、兄とその妹の「軽妙で爽やかな会話」を絶賛するなど本末転倒であってなんの意味もないように思います。

あえて言えば、衝撃のラストと「希望の新天地」を視野を欠いた部分で、あの兄と妹の朝の会話のシーンだけを抉り取って絶賛などできるわけもなく、むしろ、取るに足らない見当違いな賛辞と極言しても差し支えないのではないかと思えてしかたありませんでした。

考えてみれば、中国に行くと決意した間宮に従順につき従う妻と妹(どう見ても非のない好青年からの求婚を諦めてまで、それでも兄に従っていく目算というか理由があったのかが理解できません)の人形のような無意思な描き方の方に、とても違和感が残ります。

たとえば、この一連の出来事と間宮の選択を象徴的な語句にして並べてみると、こんな感じになるでしょうか。

「突然の激昂と鉄拳制裁」→「いさぎよすぎる退社」→「家族の意向など気にかけることもなく、さっさと中国行きを決めてしまう独善」

この映画が前半で描いているように、間宮が会社にとってかけがえのない有為の人材なら、会社として、少なくともこの社内トラブルの事実関係を把握するくらいのことはしてもよかったのではないかと思われるのに、会社が調停に動いたり、間宮を慰留したりした形跡などこの映画からはまったく伺われません。

無策としか言えないようなその対応ぶりは、あまりにも冷たく、間宮の栄達をねたみ、彼が夜遅くまで重役の囲碁の相手をするなど、そのゴマスリ振りを陰で誹謗嘲笑し、そのために間宮の怒りをかって鉄拳制裁を受けた卑怯な同僚にしても、間宮に対する会社の冷たい対応にはさぞや驚いたのではないかと考えてしまうくらいです。

まあ、当時の事務職のサラリーマンには、労働者という意識が乏しく、工場労働者のように労働組合を結成して権利侵害には労働争議でもって実力で対抗するなど想像さえできなかったであろうし、その立場はとても弱くて不安定であり、加えて当時の不景気という時代背景を加味して考えれば、上役に対する異常なまでの卑屈さや迎合振りは理解の範囲内だったと考えて差し支えないように思います(それにその「上役」にしても、立場としてはそれほどの大差はなかったでしょうから、そういう意味で、会社の「冷たい対応」も二重の意味で当然だったと思います)。

そして、間宮がその後の身の振り方を決める際に、彼のとった家族の意向を無視した独善的な選択が、自分などはずっと気になっていました。

自分の決意をことごとく家族から否定され、誰もついてこないという惨憺たるさびしい孤立を幾度も経験している自分などからすると、妻と妹が自分の選択を支持しないはずがないというこの間宮の揺ぎ無い確信、自信満々な独善がどこからくるのか、自分などはとても想像できず、だからそう簡単には納得などできるはずもありませんでした。

「こういうのを男の横暴っていうのじゃないの」という思いばかりがありました。

男の横暴など一度として通してもらったことのない存在感のないトーサンのひがみと取られても仕方ありませんが。

キャストもそうでしたが、とてもよく似たラストを持つ小津安二郎監督の「戸田家の兄妹」1941で描かれた大陸行きには、これほどの違和感は覚えなかったので、この違いなども、とても気になるところでした。

この辺のことを考えるヒントとして、この作品が松竹で撮られた島津監督の最後の作品というところにあるのかもしれないと気づいたことがありました。

実は、当時、松竹の顔といってもよかった島津保次郎監督が、なぜこの時期、東宝に移籍したのか、長い間の疑問でした。

そこのところの事情をはっきり書いたものを、残念ながら読んだ限りの資料から探し出すことはできませんでした。

それに、なぜ、そのことにこだわり続けてきたかというと、「まさか金銭問題が絡んでいるわけでは」という思いがあったからかもしれません。

この「兄とその妹」が撮られた時期の松竹を、田中純一郎は「日本映画発達史Ⅲ」第9章「映画の運命」第43節「新しい映画美の創造」のなかでこんなふうに記載しています。

《この頃城戸四郎は新興キネマの重役を兼ねて、同社の製作方針を指導していたが、主力は依然として大船撮影所に注がれていた。
しかし、リベラリスト城戸の方針が、娯楽本位に走り、当時の国家理念から見て好ましくない、社会感覚に相反する、という意見が依然として取締官憲の間に行われ、それが昭和15年に入ると、つぎのごとき検閲方針の一般的強化となって現れたので、松竹映画もついに転換を余儀なくされた。》

この文に続いて、内務省から示された通達が掲げられているのですが、要するに松竹は、もっと時局に協力する作品を撮れという国の指示があったということなのでしょうが、続く《時たま、2、3のヒット映画はあっても、大多数の松竹映画は、混迷と低迷を辿った》と記述されています。

そして一方、東宝の項目では「東宝、時流に乗じて躍進」の見出しのあとに《日中事変勃発の頃から、日本の全体主義的政治体制が次第に形造られつつあったが、東宝映画の首脳部は早くも製作方針を軍官に協調、接近させたので、いわゆる時局感覚を持つ幾つかの大作を発表し、ことごとく時流に投じ、興行的に大成功をもたらした。》と記述されていました。

この「松竹」と「東宝」の項目を比較して読み、先に掲げた間宮の行為の軌跡を当てはめていくと、「潔癖」な島津監督の時流を捉えようと、生ぬるい松竹を捨てて東宝を選択した性急な島津監督の焦慮の姿が浮かび上がってくるような気がしてなりません。

論創社刊「今井正映画読本」のなかで、今井正監督が、東宝にやってきた頃の島津監督の印象を語っている部分があります。

《そのころは島津監督も東宝にきて寂しかったんでしょう。
衣笠貞之助さんなんかが評判よくてね。
島津さんに僕が丁寧にいろいろ教えを乞うているものだから、藤本につれられて、よく一緒に飲みましたよね。
でも「望楼の決死隊」以後は全然駄目。
ある程度、わがままだったんだね、あの人》

華々しい実績を重ねた松竹を出、東宝に移ってこれといった作品を撮れずにいる老練監督か、まだ駆け出しの若い監督からこんなふうに突き放して見られていたということ自体、島津監督がどんどん孤立していった姿が伺われてなりません。

(1939松竹大船)監督脚本・島津保次郎、撮影・生方敏夫、音楽・早乙女光、美術・金須孝、録音・大村三郎、合唱指揮・鏑木欽作
出演・佐分利信、三宅邦子、桑野通子、河村黎吉、坂本武、上原謙、笠智衆、菅井一郎、水島亮太郎、奈良真養、小林十九二、新井淳、遠山文雄、大塚君代、草香田鶴子、藤原加弥子、小桜昌子、菅井一郎
1939.04.01 帝国館・新宿松竹館・横浜常設館・銀座映劇 11巻 2,841m 104分 白黒
by sentence2307 | 2012-09-30 16:50 | 島津保次郎 | Comments(1)

嫁ぐ日まで

会社の同僚と雑談している際に、その人に映画を見るという習慣がまるでないことを知った時など、つい瞬間的に「えっ?」みたいな反応をしてしまい、相手に不快な思いを与えてしまっているのではないかと心配になることがあります。

極力気をつけているのですが、一年にただの一本も映画を見ないという人がいたとしても、そんなに驚くにはあたりませんよね。

むしろ1年のうちに映画を100本も200本も見るということの方が、異常といえば異常なのだという感じで、会社内の対人関係をいい形に持っていければと心掛けています。

まあタテマエとしてはそうなのですが、話の加減でその人が映画好きだと分かり、結構意識的に映画を見ていると知ると、ついつい嬉しくなって思わず話しに夢中になってしまうのも、常日頃自分を抑圧している一種の反動の現われかもしれません。

これなども気をつけなければいけないことのひとつと肝に銘じています。

ある宴会で映画好きの同僚と隣り合わせになったときのことでした。

話は、たまたま小津作品の名作中の名作「晩春」に及びました。

自分としては自然な流れの積りで、関連する作品としてナニゲに島津保次郎監督の「嫁ぐ日まで」の話を持ち出したのですが、だんだん会話が進むうちに相手の生返事に気が付き、一瞬「しまった」とあわて口篭ってしまいました。

監督・島津保次郎の名前など知らなくて当たり前だし、それにその名前を知らなければ、小津安二郎と比較するなんてなんの意味もないことは明らかだし、する必要もありません。

実際よく似ていて(小津監督のご母堂が、この「島津保次郎」という名前を見て、映画界に入った自分の息子の変名と思ったという逸話さえ残されています。-安二郎は、映画界に入ったことが恥ずかしいとみえて、名前まで変えた-と言ったと伝えられています。)、ましてや、その映画といえば、昭和15年に作られた超マイナーな東宝作品です。

僕たちが見る機会をかろうじて得られたのも、「原節子出演作」という細い糸でこの「現代」にやっと繋がっていたからだと思います。

僕としては、むしろ、島津保次郎と小津安二郎を取り違える錯覚をあげつらって、マニア以外の人を嘲笑するような異常さの方をこそ避けたいと思っている方なので、同僚にもその錯覚を悟られないようにやんわりと修正をほどこしました。

気づかれないように話題を「嫁ぐ日まで」から「晩春」へと徐々にすり替えたので、こと無きを得たのですが、しかし自分としては島津保次郎作品「嫁ぐ日まで」について話したかった分だけ胸がつかえた感じのままで、何だかすっきりしません。

こういうときにこそ、このブログの存在意味があるというわけですよね。

「嫁ぐ日まで」は、島津保次郎監督が東宝へ移って2作目のオリジナル脚本の作品で、原節子の美しい花嫁姿がクライマックスで用意されているという、当然小津作品を引き合いに出したくなるような作品なのですが、研究文献が豊富な小津作品と違い、物凄くマイナーなこの「嫁ぐ日まで」という作品には資料や解説など全然といっていいほど存在していません。

例えば、この作品についての紹介文といえば、こんなものしかないのです。
「ラストの原節子の嫁入りなどは、しみじみとした市井の生活描写が繊細な、いかにも松竹調のトーンを残した島津監督の佳作」などという、考えてみれば随分と無責任な一文があるくらいです。

このような僅かな手掛かりにつられて見たこともあって、こんな曖昧な先入観のお蔭で、小津作品とは似ても似つかない違和感と失望だけが残ってしまった映画でした。

母親を無くした父親(汐見洋)と姉妹の三人暮らしの家庭で、長女好子(原節子)が婚期を迎える年頃になっているために父親は後添えを貰う、というのがこの物語の発端です。

そして、新しい母を迎える娘たちの、特に次女浅子(矢口陽子)の動揺が描かれていくのですが、小津作品に親しんでしまった目からすると、この映画に登場する人物の誰もに、掘り下げの足りない腹立たしさを禁じえませんでした。

なにが腹立たしいかといえば、すべての登場人物の驚くべきステレオタイプの空々しさだと思います。

父親は何の疑いもなく後添えを貰い、その新しい妻の手前もあって、継母に打ち解けようとしない娘たちに対して厳しい小言を繰り返します。

それでも、もうすぐ嫁ぐという長女の方は、後々独りきりになってしまう父親を心配して後添えを貰うことに賛成しており、父の再婚を嫌がる妹を説得する側にまわっています。

しかし、どうしても新しい母親を受け入れることができない次女浅子は、ひそかに隠し持っている亡き母の写真にひとり語り掛けて淋しさを紛らわすような毎日を送っており、そのことに気づいた父親がその写真を取り上げ、その仕打ちに抵抗する麻子と衝突します。

新しい母に一向に親しもうとしない次女に対して父親は厳しく叱責します。

父親のこの逆上のシーンは、それまでは全編を通して穏やかに描かれてきた父親像とはどうしても繋がらない随分と突飛な印象でこの作品に一貫して流れていた雰囲気を大きく乱し、この作品を明らかな破綻に導いてしまったと思います。

これではまるで安手の「先代萩」の図式そのままで、見ている方が恥かしくなるくらいでした。

父の叱責を受けた次女は、誰にも理解されない淋しさから家を飛び出して夜の街を彷徨しますが、姉に発見されて連れ戻されてしまいます。

次のシーンは、いよいよ姉・好子の艶やかな花嫁姿です。

観客としては、妹の唯一の理解者だった姉がこの家から去ってしまうことによって、いまだ父との和解が成立していない妹・浅子が、孤立したままこの家に取り残されることが気になるはず、とドラマの自然ななりゆきに身を委ねたいところなのですが、映画は見事に観客の思惑を裏切って、突然、姉・好子が、新婚旅行先から妹宛に出される手紙の忠告「新しいお母さんに感謝して心を開いてください」で、この映画は不意に終わりが告げられてしまいます。

この作品を見終わって、僕は感動するどころか、妙に空々しく、寒々しい救いようのない絶望的な印象しか抱けませんでした。

小津の「晩春」とは、えらい違いです。

このふたつの作品の、どこがどう違うために、これ程の差が出来てしまうのか、つくづく考え込んでしまいました。

思えば「晩春」も婚期を迎えた妙齢の娘と老いた父親との物語でした。

この美しすぎる深い信頼で結ばれた父娘の物語は、しばしば小津監督が奇麗事ばかり描いて、目の前にある現実を直視していないと非難される象徴的な設定でもあります。

しかし、「奇麗事」とは、逆に言えば、そうありたい、そうあって欲しいという人間の理想の世界なのかもしれません。

父親は、妻亡き後、娘のために独身を通した誠実な男性で、そのことを娘もよく知っています。

子供に淋しい思いをさせまいとの一心から、娘のために再婚をためらってきた老父が、やがて娘が成長したいま、今度は自分の世話のために婚期を逃しかけている娘の行く末を案じ、娘を思い遣る同じ理由から、偽りの再婚話を仄めかして、躊躇う娘の背中を押してあげるというこの物語「晩春」に対して、この島津作品「嫁ぐ日まで」に描かれている世間体や御しきれない自らの性欲のためにさっさと再婚し、あまつさえ新しい母親に懐かないという理由で娘を叱責するような父親の、人間として比べるに値するものが、いったいどこに描かれているといえるでしょうか。

そして、お互いを思い遣り、そのためには自分のことなど二の次、愛する者のためには自分の欲望など何ほどのものでもないという優しく誠実な人々の自己犠牲の姿のどこが「絵空事」なのか、僕には到底理解できません。

小津映画は、古きよき「時代」が生み出したものではないと思っています。

昭和15年につくられたこの島津作品との比較から敷衍して考えてみれば、これら多くの監督たちと向き合って一定の孤高を保ち得た小津監督の資質の、ここにあるものではなく、もっと彼方にいるはずの人間を見つめた高潔なモラルの問題を扱った作品であることは歴然としています。

(40東宝映画・東京撮影所)監督製作脚本:島津保次郎、撮影:安本淳、編集:今泉善珠、音楽:谷口又士、製作主任・谷口千吉、演奏・P.C.L.管弦楽団、装置・中古智、録音・三上長七郎、照明・横井總一
出演:原節子、矢口陽子、御橋公、沢村貞子、清川玉枝、汐見洋、英百合子、杉村春子、大川平八郎、永岡志津子、御舟京子、三邦映子、河田京子、大日方伝
1940.03.20 日比谷映画 8巻 1,950m 71分 白黒


【参考】

島津保次郎
1897年東京日本橋に下駄用材商と海産物商「甲州屋」を営む父・音次郎の次男として生まれた。
英語学校在学中から映画にのめり込み、逓信省の宣伝映画の脚本募集に入選。
映画狂いを苦々しく思っていた父に文才を認めさせた。
しかし、親は下駄問屋を任せ、下駄用材を選別するため保次郎を生産地の福島へとやってしまう。
しかし金持ちの道楽息子である彼は好きな乗馬をして山中を飛び歩いていたという。
そんな折、松竹が映画事業進出のため従業員や俳優募集のため広告をだしたところ、松竹入社を熱望し、父の紹介で小山内薫のキネマ俳優学校(のちキネマ研究所)に入門した。
同じ頃の門下生には牛原虚彦などがいた。
日本映画史初期の記念碑的作品、キネマ研究所第一回作品の『路上の霊魂』(村田実・21年)の照明係/助監督を、また同研究所第二回作品『山暮るる』(牛原虚彦・21年)の助監督をつとめた。
同年『寂しき人々』でデビューするがこの作品は封切られずじまいだった。
『山の線路番』『自活する女』『剃刀』(共に23年)などで認められ、松竹蒲田のトップクラスの監督になる。
23年の関東大震災によって撮影所が壊滅し、野村芳亭はじめ多くの映画人が京都へ移り住んだが、東京に残って映画製作のチャンスを窺っていた島津は、新しく松竹の撮影所長となった若き城戸四郎と運命的な出会いを果たした。
生粋の江戸っ子で、当時で言うモダンボーイだった二人はすぐに意気投合して酒を酌み交わし映画と人生について語り合った。
それまでの古めかしい新派悲劇ではなく、サラリーマンや庶民の日常生活を描くことによって新しい「蒲田調」を築き上げようとした。
ここにいわゆる「小市民映画」が誕生するのである。
島津は新派の舞台の延長に過ぎなかった当時の現代劇映画のなかで、演劇の模倣から抜けだし、映画の視覚的表現と演技の指導を確立した監督の一人であった。
サイレント時代の代表作に『村の先生』『大地は微笑む』(共に25年)『多情仏心』(29年)『麗人』(30年)『生活線ABC』(31年)などがあるが批評的には芳しくなく、むしろトーキーになってから新境地を開き『上陸第一歩』『嵐の中の処女』(共に32年)『隣の八重ちゃん』『その夜の女』(共に34年)などの初期トーキーではいち早く独自のトーキーリアリズムを完成させた。
そして『お琴と佐助』(35年)『婚約三羽烏』(37年)を経て本作『兄とその妹』(39年)ではその技法は円熟の境地を極め、ホームドラマの一つの到達を見せている。
『兄とその妹』を撮った直後松竹を去って東宝へ移籍した島津だったが製作本数が半減する。
戦時下の日本映画では島津のようなメロドラマ的作風が手腕をふるうことができなかった。
敗戦の年の1945年、島津は一本も作品を撮ることなく9月に49歳で逝去した。
日本で最初の映画学校出身の島津だが、彼もまた自らシナリオ学校を作り新しい作家の育成に力を注いだ。
さらに彼の下で修行を積んだ助監督は数多く、松竹蒲田時代には五所平之助、豊田四郎、吉村公三郎、木下恵介らがおり、東宝時代には谷口千吉、佐伯清、関川秀雄らがいた。
松竹ホームドラマ=蒲田調の体現者であった島津の作風は、こういった弟子たちに受け継がれ日本映画の本流を形成してゆくことになる。
by sentence2307 | 2006-02-19 14:34 | 島津保次郎 | Comments(6)

桑原昂

桑原昂(1891-1966)

高峰三枝子といえば、つい、島津保次郎監督を思い浮かべてしまうのは、僕の先入観かもしれません。

「暖流」は吉村公三郎だし、「今ひとたびの」は五所平之助、「妻」は成瀬巳喜男ですしね。

高峰三枝子の島津作品の出演作は、「婚約三羽烏」37、「浅草の灯」37、「愛より愛へ」38、「日本人」38、とこんなところらしく、いや~残念ながら見てないなあという作品ばかりです。

そういえば、小津監督が松竹に入った頃のこと、母のあさゑが、監督の名前に島津保次郎の名前を見つけ、「安二郎は、映画なんかに入ったことを余程恥ずかしいと思ったらしく、名前まで変えた」と言ったというエピソードを思い出しました。

しかし、それを、どの本で見かけたのか、あちこち探してみたのですが、さっぱり見つけられません。

でも、このエピソードは、小津監督が松竹に入社したときには、すでに島津保次郎がある程度活躍していたことを示しています。

そういえば風貌もどこか似ているし、長老というイメージがあると思い込んでいたのですが、なんと亡くなったのは49歳だったそうです。

驚くべき若死にです。

小津監督も60歳でしたしね、昔の人の(失礼)何かに憑かれたように生き急いで作品を貪欲に生み出すあの活力が、今の人にはすっかり失われてしまったのはなんとも寂しいかぎりですね。

ただただ畏敬の念に囚われます。

さて、この島津保次郎監督と固い絆で結ばれて松竹蒲田で仕事をしたのが桑原昂キャメラマンです。

日本映画データベースで付け合せてみると、数本の例外があるだけで、ほとんど一緒に仕事をされています。

そして、松竹蒲田でのコンビで撮った最後の方の作品が名作「お琴と佐助」だったというわけですね。

桑原昂キャメラマンは、1911年福宝堂に入社して映画撮影の先駆者玉井昇に師事し、やがて日活向島、天活に移ります。

そして、1920年松竹キネマに入社してから、蒲田撮影所では島津保次郎との間に固い絆を結び、今回フィルムセンターで上映される「隣りの八重ちやん」や名作「お琴と佐助」35など島津の代表作に軒並み関わっています。

当時は手作業だったフィルム現像も得意として蒲田調をテクニカルな面からも支えました。
by sentence2307 | 2004-12-18 08:03 | 島津保次郎 | Comments(0)